「秩序」を巡る戦後の戦争

strong>ゲストエッセイ 
足立 誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 
元カナダ東京三菱銀行頭取/坦々塾会員

 「WiLL」6月号の冒頭に去る4月10日に日比谷野外音楽堂で行なわれた西尾幹二先生の 講演内容が掲載されました。講演の中心は日米戦争開戦の翌年昭和17年11月「中央公論」誌上で行なわれた当時の日本を代表する4人の哲学者による座談会を巡るものでした。

 この座談会を載せた本は、GHQの焚書により60余年の間我々の眼にふれることのなかったものであり、昭和17年11月当時日本の識者が文明史の上で日米戦争をどう俯瞰し、位置づけていたのかという重要な事実が戦後初めて明らかにされたのです。

 この座談会の内容を私なりに理解しますと、「あの戦争」は従来の戦争とは全く異なるものであり、「秩序」言い換えれば「思想」、「世界観」を巡るものであって、武力による戦争が終わっても継続されるものであるということが趣旨となっています。 驚かされることは、こうした俯瞰された戦争観はその後今日に至る世界の動きの性格を見事に言い当てている点です。

 こうした捕え方をベースに、かつての欧米の「秩序」の下にあった植民地がどういう経路をたどることになったのかを俯瞰してみますと、次の様になります。

 日米戦争にいたるまで欧米が植民地としていた地域は、総て工業化以前、近代化以前の地域、今の言葉で言えば低開発地域でした。アフリカは欧州の「秩序」の下部構造に組み込まれており、中南米は1823年のモンロー宣言以降アメリカの「秩序」にくみこまれていました。アジアはアメリカの「秩序」の下にあったフィリピンを除けば欧州諸国の「秩序」の下にありました。

 ここで注意しておかなければならないことは、今でこそ忘れられていますが、欧米の「秩序」は植民地の人々の差別を当然のこととみなし、これを前提としていたことです。因みに第一次大戦後のパリ講和会議で設立が決定された国際連盟の規約に「人種平等」条項をいれようとした日本の提案は、アメリカ、オーストラリアなどの反対で実現しませんでした。こうした歴史的な事実も日本国民の記憶から抹殺されたまま今に至っています。

 さて、日本が戦った戦争は東南アジア地域を欧米のこうした「秩序」から解放し、新たな大東亜共栄圏秩序へと転換せしめることを目的としたものでした。昭和20年8月15日日本は降伏し、「武力による戦争」が終わります。しかし一旦欧米の「秩序」の下部構造から解放された東アジア地域が元の「秩序」に復することはなかったことは、ご承知の通りです。

 その後の世界の低開発地域の推移はどうか。

 はっきりしていることは、今日経済的な離陸(テークオフ)に成功している地域はASEANに代表され、中国をも包含した東アジア地域のみであるということです。アフリカも中南米も工業化、近代化を伴う経済的離陸には至っていません。何故この様な差が生じたのか。それはこれらの地域がたとえ形の上では独立したといっても、依然として欧州諸国やアメリカの「秩序」の下部構造から離脱出来ていなかったからであると考えられます。

 戦後のこうした低開発地域を下部構造においたままの欧米の秩序は、新たな植民地主義としてアジア・アフリカ会議などにより激しく排斥されたことはご承知の通りです。このアジア・アフリカ諸国の運動には中国や北朝鮮も参画しており、共産主義を「秩序」として目指す動きも強いものでした。然しこうした共産主義の「秩序」が経済離陸、工業化をもたらすものではなかったことはその後中国自体が証明しています。

 韓国、台湾、香港、シンガポールなどのNICsとASEANが選択した工業化、経済的離陸、近代化への「秩序」は日本をモデルとするものであったことは誰も否定できないものです。そして70年代末にはアメリカに次ぐ世界第二のGNP大国になっていた日本は、それに見事に応えました。

 80年代から90年代にかけてのASEANの経済発展は、日本を先頭にする雁の飛行になぞらえられ、「雁行型発展モデル」と呼ばれました。当時のマレーシアのマハティール首相は「ルックイーストの標語で日本に学ぶことを提唱し、現に同首相の子息が私の銀行に修行に来ており一般行員に混じってコピー取りをしている姿も見られました。

 私自身東アジア(中国、インドネシア)には合計6年8ヶ月駐在し、日本企業による生産拠点の構築とその運営について相当程度関与してきましたが日本企業のそれは欧米企業のアプローチとはかなり異なるものでした。現地工員と同じ作業服で働き、昼食時には同じ食堂で現地工員とメラニン樹脂の丼に盛られたネコ飯(現地米に煮魚を載せ汁をかけたもの)を食べるといった光景も目にしました。

 風俗、習慣、宗教の異なる世界に企業活動に不可欠な時間の観念や規律を植えつけ、チームワークを育てる。組織の底辺からトップにいたるまでの総てを伝播させるというものでした。

 それがそれほど簡単なことではなく、時間と忍耐を要するものであったことは、日本では余り知られていません。欧米企業と日本企業のこうした差の由来を遡れば、国際連盟の規約に「人種平等」条項を提案した日本とそれに反対したアメリカという図式に帰着すると言えるでしょう。

 アメリカは1776年の独立宣言の中で「人間は生まれながらにして平等である」と謳いましたが、実際にはそうではなかったのです。こうしてみると昭和17年11月の中央公論誌上座談会で4人の哲学者が「日本が英米を 指導する」と発言していることも当然のこととして理解できます。

 それでは、東アジアの雁行発展モデルが日本企業、日本人による「人類みな兄弟」の精神に基づく博愛、友愛だけでもたらされたのか、と言えばそれは違います。それだけでは絶対に不可能なのです。

 発展途上国と言うのはそんな生易しいものではありません。法制度、システムが整っておらず、裁判で信頼出来る判決が下されるかといえばそんな確信はとても持てない。警察が保護してくれるかといえば、それどころか逆の場合もある。最近でこそ改善されてきているといわれますが、賄賂や汚職も蔓延していました。権力者のファミリー企業の専横も酷いものがありました。そんな中で「善意」や「友愛」だけでは丸裸にすらされかねないのです。

 私の2度目のインドネシア勤務はカナダの移民権を得てからのことでしたのでインド ネシアではインドネシア・カナダ商工会議所のメンバーでしたし、日本大使館だけではなくカナダ大使館にも頻繁に出入りしていました。そうした中で気がついたことがあります。 それは日本やアメリカの企業に比べカナダの企業の方がトラブルに巻き込まれたり、被害に遭う頻度が高いように思われたことです。銀行や保険会社ですらそうしたことに巻き込まれ、撤退を余儀なくされるところもありました。それで私も相談や協力を求められたこともあります。

 目には見えないがアメリカ企業は強力なアメリカの軍事力が背後に控えていますが、カナダ企業の場合にはそうはいきません。カナダの企業や当局がインドネシアの当局に働きかけてもインドネシア側の動きはかなり鈍いのです。

 このことから言えることは、実際に力を行使するか否かはともかく、現地人に畏敬されているということが必要なのです。アメリカや日本に比べてカナダはそうした点で弱いと思われているのではないでしょうか。

 日本はどうか。日本企業はいろいろな困難を乗り越えて来ました。大統領ファミリーの無法な行為にたいしても敢然と立ち向かう。そうした気概がなければ企業活動を正常に運営していくことは出来ません。日本人は大人しくて優しいが、いざとなると勇敢な国民であると思われつまり畏敬されている。この日本人、日本にたいする”畏敬”の気持ちが現地になければ成功しなかったでしょう。

 彼等が何故日本を畏敬するのか。それは日本が敢然として白人大国ロシアに立ち向かい見事に勝利したこと。そして例えアメリカであっても立ち上がり戦ったこと。そうした日本人の勇気を記憶しているからです。

 東アジアの経済的な離陸は我々の世代だけが指導し、協力した故に成就したものではあ りません。日本民族が畏敬されていたから可能であったのであり、それは日露戦争、そして日米戦争を敢えて戦った我々の父祖の存在を抜きにしてはなし得なかったことなのです。

 昭和17年11月当時の日本は英米をも指導するという自信に満ちた世界観、思想を持ち、勇気を備えていました。今日の日本の劣化した指導層、即ち、政治家、財界人、経営者層、そして言論界はこうしたことに思い至っていないどころか想像すらしていません。彼らにみられるものはひたすら「したて」「もみ手」をすることであり「友愛」を口にすることです。そこには世界をリードするという気概も、力も、そして何よりも大切な勇気のかけらも見られません。これでは畏敬されるものはゼロに等しいのです。

 このまま時代が推移すれば日本人はただ「卑屈」「卑怯」な民族としか看做されなくなり、いずれは国際社会から相手にされなくなるでしょう。

 21世紀にはいり、アフリカは欧州の「秩序」からの離脱に徐々に動きだしました。中南米においてもアメリカの「秩序」に対して激しい離脱の動きが始まっています。日本が深く関与した東アジアの近代化、工業化による経済的な離陸が、アフリカや中南米に波及しつつあることは否めません。

 昭和17年11月24日の中央公論誌上で行なわれた4人の哲学者の描いた未来の俯瞰図は、こうして実現しつつあります。その一方では情けないことに日本が日に日に劣化してきています。西尾先生はこうした現象を「戦後の戦争」に敗れたと喝破されました。その原因がアメリカによる占領時代の「検閲」と「焚書」に由来することは明らかになりつつあります。

 それでも劣化が進むのは何故か。

 それもまた西尾先生は本講演で喝破されておられます。それは日本人がどっぷりと甘美で怠惰な安逸に安住し、正義のために戦う勇気を喪失しているからであると。人間も国家も勇気と希望を失えば存在の意義を失います。日本国民は自らの歴史を学び、そこから勇気を取り戻さなければなりません。

平成22年5月 文責:足立 誠之

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