『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(五)

 

 私が「朝日カルチュアーセンター」で講義するという珍しい経験をしたのは、昭和51年(1976年)10月~52年6月の期間だった。

 私のこの時期は、ちょうど40歳代に入ったころで、『ニーチェ』二部作の製作過程にあった。今でこそ各地にあり、珍しくないカルチュアーセンターは、朝日新聞社が初開講して、成人教育――まだ生涯教育ということばは使われていなかったように思う――の新機軸として脚光を浴びていた。私はそこで、もちろん翻訳を用いてだが、『ツァラトゥストラ』を読んで欲しいと依頼された。

 竹山道雄訳(新潮文庫)、手塚富雄訳(中公文庫)、吉沢伝三郎訳(講談社文庫)、氷上英広訳(岩波文庫)という四つの文庫本を用意させ、一回に一、二節ずつ読んだ。原文を使用できないのはまことに不便だった。

 一ヶ月もしないうちに手塚富雄訳だけが残って、他は捨てられた。教室でみんなが他の三つは読んでも意味がわからない、と言ったからである。

 教室に集まったのは20歳代後半から70歳代までの20人くらいだった。私には不思議な印象だった。年齢も職業もまちまちな人々が、特別利益にもならない企てに長期参加する。会は二度延長され、九ヶ月もつづいた。

 職業も学歴もばらばらだった。団体役員、高校教師、私大事務局勤務の女性、教科書会社のOL、紙問屋の若主人、一級建築士、通信機器メーカー技術者、書道家で立っているご婦人、などなどじつに多種多様な顔であった。けれどもみな成熟した大人で、しかもニーチェが好きなだけにどこか世間ずれしていない純粋なところがあり、そしてまたそのおかげでどこか孤独な一面をも宿していた。

 じつは「ツァラトゥストラ私評」の副題をつけた私の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)は、この講義の中から生まれたのである。

 以下にご紹介する大西恒男さんは一級建築士で、そのときの受講生の一人である。今は京都のお寺の修復工事で設計を担当する芸術家のような仕事をしている。参禅の経験も積んでいる。

GHQ焚書図書開封3.4を読了して

朝日カルチャーセンター「ツァラツストラを読む」受講生 建築士 大西恒男

戦後6年もたって生まれたものにとって、親が控えめに話す切れ切れの体験と戦後作成された戦争を扱うくつかのドラマなどによって先の大戦のイメージはかなり限られていました。世界平和が自明の合い言葉になっている現在でもその実自分は何をすればいいのか分かっていません。

テレビで見る戦争を扱うドラマなどで口角泡を飛ばすシーンなどは最初から結論が分かっている創作者の手腕であって、会社での会議のようにもっと言葉が切れ切れであったり、だれかがときには横やりを入れたりして結論が出てくるのが我々の日常だと思います。野球のナイトゲームの観覧のように決してリプレイのない状況に似て、何かに気を取られゲームのいいところを見逃しているうちに周囲の反響により大きなヒットが分かるような迂闊な状況もドラマではない本当の現実には多くあったと思います。

「焚書図書開封3」で引用され・解説されている第1章の「一等兵戦死」から第3章の「空の少年兵と母」までを読了して、戦後に作られた作家の創作ではない戦争ルポルタージュに魅せられました。淡々とした文章の中に暖かい慈愛があり、横に置いていたティッシュの箱を涙と鼻水でしばらくはなせませんでした。戦後の考えでドラマ化された戦争とはずいぶん違うというのが感想です。少しほっとするような人間味を味わうことが出来たからです。

 GHQがこのような本を焚書にした意味合いが全く分かりません。私の父世代の日本兵には節度や人情があったのでは何か都合が悪いのでしょうか。そこまでしなければいけない理由がよく分かりません。・・よくぞここで取り上げてくださったと感謝しております。

 「焚書図書開封4」の国体論はタイトルを見たときにはこの本を最後まで読みきれるかどうか正直に言いますと少し不安でしたが、丁寧な解説があったので無理をせず読了いたしました。日本の長い歴史を生き抜いた宗教としての「皇室」も理解できたように思います。
複眼の視点で捉えられた6・7章 杉本中佐の「大義」もわくわくして読んだものの一つです。西尾先生は戦闘と禅についてつながるものかどうか少し疑問をお持ちですが、江戸城の無血開城に大きな働きのあった山岡鉄舟は剣・禅・書の達人であったようです。生死を超えたところに身と心を据え自己を空じ尽くしたところに活路を開くという意味ではやはり大きなつながりがあったのではないかと思っております。

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