天下大乱が近づいている(五)

 中国に反発するのはいい。しかしそれだけでは不十分である。中国がなぜここへきて図に乗っているかは経済上昇であり、経済上昇を可能にしたのはアメリカの製造業の没落であり、ベルリンの壁の崩壊以後の西側における手放しの自由経済の行き過ぎ、自己規律の喪失が引き起こしたドル札の濫発である。

 アメリカは外国から商品を輸入し、カネが不足したらまた札を増刷して輸入するというあまりにおいしすぎる基軸通貨国特権に甘えすぎでいた。ソ連の崩壊によって、マルクス主義国家の計画経済という好敵手を失ったがために自分一国の「自由」に溺れた結果だ(小泉政権の「改革」はそのまねである)。

 過剰発行されたドルは世界であふれかえり、中国やインドはそのカネで経済成長をとげたが、中国からアメリカへ輸出する企業の多くはアメリカの企業であって、国内製造業がもう成り立たないアメリカは三十分の一の労働コストで生産できる中国へ工場を移転して、自らはカネがカネを増殖する金融資本主義に走った。その揚句、サブプライムローン問題というアメリカ発の明らかな「金融詐欺」事件を引き起こし、ドルの基軸通貨体制さえ自ら危うくしているのが今の段階である。

 この儘いけば当然ながら中国の輸出産業も成り立たなくなるので上海株は暴落しているが、中国はアメリカから独立して経済上昇しつづける可能性が果たしてどこまであるのか、アメリカも中国の労働力への魅力を捨てきれる自信を有しているのか、2008年前半は両国が丁度その瀬戸際に立たされている局面にあるといっていい。

(「修親」2008.5月号より)

つづく

天下大乱が近づいている(四)

 毒入り餃子事件で、責任は日本側にあるというようなあからさまに挑戦的な中国官憲のもの言いに対して、わが国政府は警察に任せて、自らはひと言の抵抗のことばも述べないでいる。中国からの輸入製品の同様な不始末に対し、アメリカはただちに輸入禁止措置をとった。中国はこれに応じ食品関連の高官を汚職を理由に処刑してみせるという恐るべきパフォーマンスを以ってした。

 日本政府は食品検査体制を強化するという、例によって自分の内側で問題を解決する措置しかとれない。中国は当然ながらいっさいを黙殺する。それどころか中国の食品を侮辱した罪で日本側に補償を求めるという度外れた再挑戦の言辞すらもてあそぶ始末である。

 日本政府のとるべき唯一の方策は、輸入食品の品不足からくる混乱をあえて承知で、大幅な禁輸措置に踏み切ることだった。そのほうが外交的にも中国政府を安心させるという情勢判断がなぜできないのだろう。食品への農薬混入は中国社会では日常茶飯事で、根絶不可能なことは中国政府もよく知っている。昼のランチで腹痛を起こしては午後休職する労働者が少しも珍しくない社会だそうである。農業や殺虫剤の混入を科学的に分析して大騒ぎしてみせた日本側の対応は、日本の市民教育にはなったが、「敵」の正体を知らぬ行為と言うほかない。輸入禁止措置の即決だけがあの国に対する唯一の合理的で、無用な摩擦を引き起こさずに報復を封じる外交政策であった。

 餃子事件に対する日本政府の対応の手ぬるさと見当外れは、東シナ海の領土侵犯の日本側の敗北を不気味に予感させている。チベットの血の弾圧、台湾の国民党の勝利、北京オリンピック・ボイコット運動の予想される終熄(まだ分からないが)は、東アジアの中国の勢威拡大、日本押え込みの第二階程である。第一階程は首相の靖国参拝と歴史教科書の敗北にあった。だから日本の言論オピニオン誌がいっせいに反中国の論調を掲げ、中国の脅威に警鐘を鳴らしているのは当然と思うかもしれないが、私にいわせればこれが「敵」の正体の見えていない言論人の見識の無さである。

(「修親」2008.5月号より)

つづく

天下大乱が近づいている(三)

 戦争中の日本軍人の高潔な人格を描いた映画『明日への遺言』(小泉尭史監督)がいま評判である。B級戦犯岡田資中将が法廷で部下の責任を全部ひとりで背負って決然と死刑台の露と消えた実話を基にしたあの映画は、たしかに感動的だったが、ようやく日本映画もここまで来たと喜んではいけない。ここでも「敵」は描かれていないのである。

 アメリカという理不尽な敵、許し難い敵の存在、そして日本の戦争の動機の善、あの時代の日本の「正義」などは、描かれていないのだ。描かれているのは部下の罪過を背負って死んだ一将軍の個人的に傑出した勇気と高貴さである。外国人にも通じるヒューマニティの高さである。自己犠牲の美しさという戦後社会にも開かれた一般道徳である。大東亜戦争の歴史の是非は問われていない。

 だからこの映画はつまらぬと言うのではなく、これはこれでいいのだが、「敵」を見ていない点に限界がある。

 これに対し同じ時期に完成した「南京の真実」第一部の『七人の死刑囚』(水島総監督)は、戦後社会とみじんも和解していない。旧敵国人の多くが拒否感情を抱くに相違ない描き方で、あの戦争の日本人の「正義」を正面から掲げている。あの時代の敵は今も「敵」なのである。そういうメッセージが伝わってくる。岡田中将のような分かり易い人間のドラマ的展開をあえて封印して、七人のA級戦犯の辞世の歌に忠実に、処刑の時間までを緻密に、リアルに描いた『七人の死刑囚』は、自己犠牲の美しさとか個人のヒューマニズムといった一般道徳の次元に逃げていない。法廷の場に日米和解の感情が流れるように描かれている『明日への遺言』と違って、和解などあり得なかったあの戦争の敵の実在、運命そのものを正面から見据えている。

 一般興行用にはどちらが向いているかは分からないが、今われわれに必要なのは歴史を甦らせるこの視点である。カオスが再び近づいている今のわれわれの時局において、60年間忘れられていた「敵」と直面し、これと闘い、解決する知性と意思と情熱のいま一度の復活が求められている。

(「修親」2008.5月号より)

つづく

天下大乱が近づいている(二)

 自己反省が全てに先立って優先されるのである。日本人は自分の心の中だけを覗いて、そこで解決しようとする余り、外にある克服すべき本来の原因を見ようとしないのだ。講和条約が結ばれて旧敵国にもう請求ができないのなら、戦争被害の補償は他の何処にももう求められないと考えるべきである。自国政府が補償してくれるとしたら、それは例外中の例外の政治補償にすぎない。

 ところが自国政府が補償してくれたとなると、戦争を引き起こした原因もいつの間にか自国政府にあると考えるようになって、敵国を忘れるというひっくり返った論理、原因と結果のとり違えが始まるに至る。

 自己反省の度が過ぎて、自分の内部に敵を見出そうとする余り、外部の敵を見失う。それがどうにもならない戦後日本人の業ともいうべき「病い」であることをあらためてはっきり見据えたい。東京大空襲や原爆の補償を講和締結の後にはもはやアメリカに望むことができないのだとしたら、よしんば今はできないとしても、百年後にそれに見合う報復をしようとなぜ日本人は考えないのか。

 日露戦争の敗北の屈辱を忘れないからロシア人は北方領土の占領をやめようとしない。イギリス人はロンドンに打ちこまれたドイツの初期弾道ミサイルV2号を今でも決して許していないそうだ。日本人が戦争が終わって三年も経たぬうちに旧敵国への敵意を失い、親米的になった姿を見て、イギリス人やロシア人はじつに不思議な現象だと首を傾げてきたと聞く。

 カオスがまた再び近づいているのに、カオスから国民を守る政治の機能が麻痺していると私が不安を抱くのは、日本人に特有のこの淡白さ、自我の弱さのゆえである。

(「修親」2008.5月号より)

つづく

天下大乱が近づいている(一)

 身辺にさして格別のことも起こらない凡々たる生活をおくっているが、ときどき説明のできない不安が押し寄せてギクリとすることがある。敏感になっているのは私ひとりではないように思う。

 昨日偶然に会った友に私は言った。
 「カオスが近づいていますね」
 「そうですね。私もそうだと思います」と彼は応じた。詳しく語らないでも、こちらの言わんとする処を近い友人は分かっているのである。

 カオスとは混沌ということである。天下大乱、無秩序ということである。

 金融の不安、食材の不安、年金の不安、教育の不安、救急医療の不安、物価上昇の不安・・・・・・・そしてそれらいっさいを守ってくれるはずの政治の機能麻痺の不安がなかでも一番大きい。

 日本人は反省好きの国民といわれるが、たしかにそうで、反省ばかりして、自分の外にいる敵の正体を正確に見て、それと闘うことから問題を解決していくという具体的で、手堅い精神に乏しい。政治が頼りなく不安なのはどうやらそのせいである。

 昭和20年3月の東京大空襲を訴える訴訟団が結成されたと聞いて、日本人もようやくそこまで自覚を深めるようになったかと私は喜んだが、すぐ吃驚(びっくり)した。訴訟の相手は日本政府だというのだ。アメリカ政府を訴えるのではないのである。何という倒錯だろう。

 原爆症の補償も日本政府が支払っているようだが、よく考えればおかしな話である。講和条約が結ばれた後では旧敵国政府に戦災の補償を要求できないのは当然である。だから自国政府に求めざるを得ない、という話ではおそらくない。原爆を落としたのはたしかにアメリカだが、それを誘発したのは日本で、だから日本政府に責任があるという奇妙にして不可解な論理が罷り通っていることをわれわれは知っている。

(「修親」2008.5月号より)

つづく