近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(三)

 このあいだ九段下会議で人民日報の原文のコピーを解説づきで読む機会があった。その中の社説の一つに小泉首相の靖国参拝は中国にとって「寒風」だという表現があった。

 何のかの言っても、参拝は中国に対する圧力になっている証拠といえるかもしれない。今までの首相にできないことを小泉氏はやってのけたではないか、という評価の声がこのときもあがった。保守派の中の根強い小泉評の一つである。

 政治効果という点でこの事実は認められてよいのかもしれない。しかしどうしても私が素直に認められない気持にもなるのは、心の内実が透けて見えるからである。寒々とした首相の心の中が覗けるように思えるからである。

 靖国参拝には至誠、まごころがなによりも求められる。首相は昨夏発表した談話で「戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々」との表現を使った。自ら進んで戦場に赴いた将兵たちの心がまったく分っていない証拠を、期せずして漏らしてしまったのである。

 靖国参拝は拉致被害者を一部取り返した実績とも併せて、小泉純一郎という政治家が国民に最大の目くらましを食らわせている、戦術に長けた、微妙な言動の空間であると私は考えている。

 本書の61~62ページに私は次のように記している。

 「心ならずも命を落とされた多くの方々」という表現に、今夏、激越な調子で反駁し、自ら進んで国に殉じた往時の将兵の心のわからない首相への痛憤の念を靖国の演説で吐露した方がいる。小野田寛郎さんである。小野田さんは別の所で、政府主導の、戦没者慰霊の追悼・平和祈念のための記念碑を以て靖国の代替にすることがもし決まったら、英霊はこの国を「敵国」と見做すであろう、と断固たる発言をされている。

 ところが奇妙なことに、別にこれに答えてではないが、首相はつねづね代替施設が仮りにできても、靖国に代わるものではないと語り、保守サイドの人々を喜ばせるのである。それでいて、「心ならずも」を含む今夏の首相コメントは平成7年の村山首相の侵略戦争謝罪談話の域を越えていない。

 首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる。行動も同様である。最初に8月15日に参拝して、毎年堂々と続けていれば中国は沈黙した。スキを見せるから政治的に利用価値があるとみられるのである。それなのにまた今回は、登壇せずに一歩尻ごみした祈祷態度に出たので、再び中国につけ入られるであろう。

 このように中途半端で、曖昧で、それでもほんの少しだけ国民に理解されやすい言葉を並べたり、行動したり、靖国関係者に「参拝して下さるだけで有難い」と言わせるかと思うと、小野田さんのような人を激怒させる。

 このフッと近づきフッと離れるやり方こそが、ほかでもない、「左翼」の常套手段なのである。形だけの参拝で、靖国を大切に思う人々に、まるで乞食にものを投げ与えるように恩着せがましい言動を重ねる首相に、私はいい加減にもうやめろと、言いたい。

 しかしここにこそ、この政治家の国民的人気を博している煽動家としての独特な心理誘導の極致がある。ナチス時代のドイツ国民は総統演説の熱っぽさに酔ったのではない。そのつどそのつどほんの少しだけ理にかなった言葉が並んでいることに引きずられていったのである。

 私あての私信で、この部分に共鳴して下さったのは国語学者の萩野貞樹氏であった。

 かういふ書物を読んで反撥できれば気楽でせうが共感せざるを得ず、その共感なるものは即ち現首相への苛立ちであるわけですから読者としては辛いところです。62頁「首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる」のご指摘は実に印象的ですが、首相のこのとりとめなさに、われわれはきりきり舞ひさせられてゐるわけです。それなのに取り敢へずはこの人を兢々の思ひで見守るしかなく、思へばわれわれは不思議な地点に立たされたものです。

 たしかにそうなのだ。この厄介な首相に私たちはキリキリ舞いさせられてきたのである。なかでも最近の、皇室典範改定のテーマはその最たるものであった。秋篠宮妃のご懐妊のニュースで全国民がやっと愁眉を開いたなどというのはおよそあってはならないことなのである。

 それでもなお2月9日から10日にかけて私は首相の本意を測りかね、TVのニュースのたびに彼の言葉に注意を向けつづけた。そして、皇室典範改定の法案の国会上程を取り止めた、という首相じきじきの言葉が、ついに口から出ていない事実に、いまだに一抹の不安を抱いている始末なのである。

 タイミングよくご懐妊のニュースが飛び出たから良かったものの、そうでなかったら皇室に関わる国会内の衝突は不可避だっただろう。しかもあれも、なぜか宮内庁というお役所をとびこえて宮家からダイレクトに陛下への奏上がなされ、同時にニュース公開となった経緯に、政府に対する宮家の警戒心、あるいは不信があってのことと思わずにはおられない。ひょっとすると妨害をかいくぐってのスリリングな発表だったのではあるまいか。憶測かもしれぬが、悪しき政治家のために宮家に心を煩わしめて、お気の毒にと私は一瞬心をくもらせたのである。

 小泉とは何という人物であろう。許しがたい政治家ではないか。「至誠至純」が求められる靖国参拝にもなにか説明のできない不純で不誠意で場当たり的なモチーフを同様に私は感じつづけてきた。

 大学と政界を通じての友人の栗本慎一郎氏の「パンツをはいた小泉純一郎」に次の証言がある。

 

 靖国神社参拝問題で、小泉は中国、韓国の怒りを買っていますが、靖国神社に対して、彼は何も考えていないですよ。

 私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会』に入っていた。そこで、小泉に『一緒に行こうぜ』と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば『面倒くさいから』だったのです。
 
 ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。少なくとも彼はそう思った。
 
 それに対して、中国、韓国が激しく抗議するものだから、彼は単純に意地になった。批判されるとますます意地になる人がいますが、彼はまさにそのタイプです。

 だから、中国や韓国がこの問題を放っておけば、小泉も靖国参拝をやめますよ。もし私が中国、韓国の首脳なら、靖国のことなんか忘れたふりをして、「いい背広ですね」とか、関係ない話をする。そうしたら、次の年には行かなくなりますよ。小泉は、その程度の男なのです。こうして彼は自意識の劇場を演じているのです。

 こんな男がこの国の総理です。注意すべきではないでしょうか。」

 これを読むと私の口から何たることよと深い溜息が出て、ただ空しい思いに襲われるのみである。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(二)

 さて、拙著の題名の「狂気の首相」に括弧がついているのには意味がある。いわゆる「狂気の首相」とみなされている人、噂されている人という趣旨であって、私が「狂気」と断定しているのではない。先週もTVタックルで出演者のお一人が「小泉さんは頭がおかしい」という意味のことを言っていた。そういう声があちこちで聞える概念の総称を括弧づけで表現したまでである。

 それを証明する一例を少し長くなるが引用させていたゞく。

 栗本慎一郎『週刊現代』(2005.12.24)巻頭記事よりの引用で、Speak Easy社会というブログの「パンツをはいた純一郎」というタイトルの記事からとびとびに転送させてもらう。 栗本氏は人も知る首相のきわめて近い慶応大学在学中の同級生で、その関係は
 

 「小泉の同級生のなかで、大学出てから小泉と同じ職場で働いた人間なんて私以外にいません。追って詳しく説明しますが、私は代議士として自民党に入ってしまった期間があり、そのとき、同じ職場で働いていました。ですから、客観的に見て私には小泉に関するものすごい証言能力があるでしょう。

 栗本氏の証言は次のように展開される。
 

 彼は一対一では誰とも話ができない。『コミュニケーション不能症』です。人間と普通に話すことができないのです。彼が人と付き合うには、立場が必要なんです。言葉を知らないから、友人としての話というは成立しない。だから「立場」しかない。
 
 「オレが会長だ」「オレは何かを代表している」という立場なら演じることができる。ですから、彼は自分の性格上、権力は絶対に欲しい。権力欲がないようなことを言っていますが、それは大間違いです。

 「小泉は通常の意味で、とにかく頭が悪かった。本当は頭がいいんだけど、成績が悪いといったパターンがありますが、彼の場合、ただわかんないだけ。理解カゼロなんです。
 
 彼がいかに頭が悪いか。私が’95年に衆議院議員として自民党に入党したときに、一時期彼の『押し掛け家庭教師』をやったことがあります『金融市場をどうするのか』、『戦後の日本経済のなかで、現在はどういう位置にあるのか』、そういったことについて、すでに名の知れた若手リーダーなのにあまりにとんちんかんなので、教えてやろうということになったわけです。
 
 それで、最初は私がやったのですが、あまりにダメなので、懇意にしている別の有名教授に応援を頼んだ。先生と生徒があまり親しいとうまくいかないことがある。それを心配したのです。
 
 それで某教授を呼んで、
 『ひょっとしたら総理になるかもしれない男なのに、こんなんじゃ困るから』
と依頼したのです。

 某教授も小泉がそんなバカとは知らないので、日本のためにと、やってきた。でも、講義は、まったく前に進まない。しかたがないから、私が司会のように横についた。『これは○○のことを話しているんだよ』と、解説した。家庭教師に司会が必要だったわけです。

 ところが、それでも話が進まない。私がそばにいるせいで格好つけているのかと思って、行きたくもないトイレに立って席を外してみました。しかし、戻ってきても進んでいない。結局、3時間ほどやって諦めました。

 後で某教授に『どうですか』と聞いたら、『ダメだねえ』と言って困ってました。そして彼がこう断じたのです。

 『これがわからないとか、あれがわからないということじゃなくて、問題がわかっていない』
 小泉は採点のしようがないぐらいバカだというのが正しい評価です。前首相の森喜朗さんも頭が悪そうですが、彼は、自分がわかっていないことがわかるようだ。だから森のほうが少し上です。

 皇室のことも、歴史のことも、経済のことも、結局首相は何も分らないで政治をやっているということになるのだろうか。栗本氏のあけすけな証言を読むと私は思い当るものがある。そのまゝ私が一年半前に予言的に書いておいた「小泉純一郎“坊ちゃんの冷血”――ある臨床心理士との対話」(『VOICE』2004.8)、これは上掲書にも収録した論文であるが、ここですでに指摘した問題点と、栗本氏の証言内容とはほゞ一致していることが分るからである。私は首相の一連の政治行動から推量しただけだが、栗本氏は実体験でこれを裏づけている。
 

 なぜ郵政事業をこれほどまで犠牲を出しつつ民営化しなければならないか、何度小泉の演説を聴いても単純すぎてさっぱり理解できない。民間のできることは全部民間でと言うのなら、道路公団についてなぜあんなに適当にやるのかわからない。彼は郵政民営化について、中身はせいぜい5分しか話すことができないのです。何十年とそればっかり考えてきて、5分しか話せないんですよ。これは問題でしょう。
 
 ところが、テレビに出るときは5分で十分なんです。発言が放映される時間は、せいぜい5分ですから。しかし、議論はまったくできない。だから、突然の断行強行になってしまうのです。

 この内容は私が近刊の前掲書の「序」に書いたこと、衆議院解散の夜の首相のテレビ演説から私が直観的に感じ取ったこととぴったり同じである。栗本氏はさらに、
 

 私は、一、二度、彼と二人だけで新幹線に乗りました。東京から京都まで、あるいは大阪まで、隣に坐ったわけですが、あれほど退屈な時間はなかった。彼はとにかく普通の話ができない。議員同士の世間話をしても、前日の国会の話をしても10分で終わってしまう。だからしょうがない。二人とも寝るしかない。
 
 小泉の発言は明確だと言われますが、真相は長いことを喋れないから、話が短くて明確そうに聞こえるだけです。話がもたないから、すぐ結論を言ってしまうわけです。」

 栗本氏の指摘は証言力に富み、説得力がある。郵政から皇室まで、というより子供時代から今日まで小泉氏は何も変わっていないのである。当然だが、同一人格である。いわば裸の王様である。

 右往左往している国会がみっともない。危険にさらされている国民はたまらない。

注:なお近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)の文中の皇族の尊称については、曾孫からみた未来の物語なので誰にでもピンとくるように、あえてこのような書き方とした。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)

 2月7日秋篠宮妃殿下の御懐妊の朗報があって、全国民は湧き立ち、皇室典範改定問題の国会上程はこれで沙汰止みになったのではないかというような希望的観測を誰しもが抱いている。

 同日声明文を出した団体の中で皇室典範を考える会の代表の渡部昇一氏は、「男子御誕生がありうるのに典範改正を強行するとすれば、それはもう狂気の沙汰と言うほかない」と声明文中において語っている。

 国会議員の中でも慎重派の声が一段と高まり、さしもの小泉首相も一歩退くであろうという観測が7日夜から強まっている。私が8日午前中の国会中継をテレビで見ていたら、首相は強気一点張りの言い方をたしかに少し改めていた。しかし、国会上程を当分見合わせるのかという野党の質問に対して、決してそうは答えなかった。「慎重に審議を進める」という言い方をくりかえすばかりで、法案の審議を打ち切るとは最後まで言わなかった。

 国民の中で最も思慮深くあるべき日本国の総理大臣、しかも国家の最高案件に関して最も保守的であることが当然視されている保守政党の党首が、御懐妊の報があって、いぜんとしてこういう姿勢、こういう配慮を欠いた対応を示していること自体がすでにして「狂気の沙汰と言うほかない」であろう。

 いったい首相は何を考えているのか。このところ日増しにひとびとの疑念は高まっていた。首相は記者団に1月27日「女系天皇を認めないという議論は、仮に愛子さまが天皇になられた時に、そのお子さんが男でも認めないということをわかっていて反対しているんですかね。」(朝日2月4日記録より)と語って、自ら「女系」と「女性」の決定的違いが良く分っていないことを暴露していた。愛子天皇のお子さまがたとえ男子でも「万世一系」にはならないから認められないのだ、ということはテレビの次元でも、最近は国民に分りかけているというのに、である。

 首相は口ぐせのように皇位継承が安定するようにするために「女系」も容認するのだと言い出しているが、話は逆である。「女系」できまって、もはや絶対に「男系」にもどれない、となった段階で取り返しがつかないと判明すれば、30-50年後の話だが、そのとき何が起こるか分らない。「歴史の復讐」と私が呼んだことが起こるだろう。皇位継承は安定するどころではない。「女系」の天皇家は崇敬の対象にならなくなる。権威も神秘性もなくなる。廃絶が必然的になる。

 少し考えてほしいのだが、愛子天皇の配偶者が民間人である場合、そのお子様にとって祖父は二人、祖母は二人いるとしても、父方の祖父母は未知の民間人である。母方の祖父が皇太子浩宮であり、祖母が雅子妃である。そこでさらに進めてお子様のお子様にとって、曽祖父母は八人いて、皇太子浩宮は母方の曽祖父にすぎない。

 一般の家庭を考えても分るが、母方の祖父母の氏姓は辛うじて知っていても、母方の祖母の実家の氏名は知らない人が大多数ではあるまいか。皇太子浩宮、平成天皇、昭和天皇、大正天皇とさかのぼる皇統の系図はかくしてはるか遠くへ消えてしまうのである。

 ここにくるまでに天皇の制度はついに消滅したことを国民は否応なく認識することになるだろう。小泉首相が慌てて、あわたゞしく手を着けようとしてきた改革はこのような国体の破壊にほかならないのだ。

 この他にも、永田町では天皇に対する首相の唖然とするような非礼な言動の数々が噂されてきた。『週刊文春』最新号(2006.2.16)は新聞にすでに報道されてきた「小泉首相不敬言行録」をまとめている。 その中の一例は、

 

皇室も改革だ! 
 有名な話が「電気をつけろ」事件である。毎年11月23日に行われる新嘗(にいなめ)祭でのことだ。神嘉殿で行うこの神事は、天皇陛下が新穀を皇祖はじめ神々に供えられるもので、数ある宮中祭祀の中で最も重要な儀式の1つである。
 神事はしんと静まりかえった真っ暗な中で行われるのだが、参列した小泉首相はこう言い放ったという。
 「暗いから見えないじゃないか。電気をつければいいじゃないか」

 2月7日の国会中継で秋篠宮妃ご懐妊のニュースを耳打ちされた直後もなお首相は慶賀のことばを述べる前に典範改正案の国会上程に変更のないことをあえて述べ、自己のプランへのこだわりを祝意に先行させた。むしろ慶賀のことばを先に述べたのは野党の質問者だった。

 自己へのこだわり、思い詰め、柔軟さの欠如、そして頑迷さを行動力と勘違いする自己錯覚は間違いなく生来のものである。近刊の拙著『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』ですでに私は心理分析を終えているので、驚かない。郵政民営化と衆議院解散劇で拍手を送り、皇室典範改定問題でにわかに困惑し、オロオロしている言論界の人士のほうがおかしいのだ。

年末の新刊(再掲)

都内12月2日店頭発売、地方都市は3日発売
『狂気の首相で日本は大丈夫か』
は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

 これから起こる日本の悲運のすべてをこの一書で語ったつもりである。
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年末の新刊(再掲)

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『狂気の首相で日本は大丈夫か』
は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

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年末の新刊

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 この本は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

 これから起こる日本の悲運のすべてをこの一書で語ったつもりである。
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改題新版『日本はナチスと同罪か』

 WACから出た『日本はナチスと同罪か』は1994年の文藝春秋刊の文春文庫版(1997年)を底本にしている。

 何が新しく付け加わっているかに関しご説明しておく。文春文庫版『異なる悲劇 日本とドイツ』には、「文庫版のための新稿  本書がもたらした政治効果とマスコミへの影響  私の自己検証」というかなりの量の新しい論文が付け加わっている。また、故坂本多加雄氏の「解説――恐るべき真実を言葉にする運命」も加えられている。

 文春文庫版を底本にしているWAC版にも上記二篇は勿論収録されている。WAC版『日本はナチスと同罪か』の巻頭には「新版まえがき――90年代以降の戦後補償問題」という最近書いた新稿が付せられている。これはここ10年くらいの新しい展開を解説した文章で、サンフランシスコの日本企業への米兵による強制労働訴訟の結果にも説き及んでいて、それなりに重要な新しい指摘と発見を述べたつもりである。

 「90年代以降の戦後補償問題」は本書の元版が出版された94年から2005年までの同種のテーマを追跡したもので、本書の元版における私の最初の指摘の正しさがあらためてこの10年間に証明されたことを記しておきたい。

 元版しかご所持でない方には坂本さんの解説を含む三篇の新稿が付け加わった本書(WAC版)は、新しい関心をかき立てるのではないかと期待している。

 この本の議論の進め方に接してもらうためにWAC版の新版まえがきの冒頭の1ページ余を紹介しておこう。

 

新版まえがき――90年代以降の戦後補償問題

 日本はサンフランシスコ講和条約を昭和26年(1951年)に結んで、翌年これが発効し、国際社会に復帰することができた。ドイツは日本に匹敵するいかなる講和条約をも国際社会とまだ交わしていない。というと誰でもみなエーッとびっくりした顔をする。ドイツは近隣諸国と法的にはいまだに交戦状態にあるのである。

 講和条約を結んでいないのだから、ドイツは戦勝国にいかなる賠償も支払っていないし、犯した戦争犯罪に対し償いも謝罪もしていないのだ。そんなバカなことをいうな、ウソいうんじゃないと叱られそうになるが、じつはそうなのである。なにしろ日本に比べドイツは理想的な戦後補償をはたし、模範となる謝罪を重ねてきたという「ドイツ見習え論」を、日本人は耳に胼胝(たこ)ができるほど聞かされてきたのでなかなか信じてもらえない。

 もっとも、この本の末尾の「文庫版のための新稿 本書がもたらした政治効果とマスコミへの影響」で明らかにしたように、「ドイツ見習え論」は近頃やっと少し下火になり、日本の戦後補償は完了している事実が国内ではだんだん分ってきた。ただし、代わりに、中国や韓国の首脳がドイツに比べ日本は過去への反省が足りないなどとデタラメなことをことさらに声を高めて強調するようになり、町村外相が国会でドイツと日本とでは背景の事情が違う、と反論する一幕もあった。外相が自信をもって語るようになる程度には日本国内のこの件での認識は進んだといっていい。

新刊『民族への責任』について(十一)

お知らせ

 つくる会のホームページでは、文部科学省の許可を受けて、教科書採択の透明化の一環として明朝より教科書の一部を公開します。(約100ページ)

 なお、市販本については、現在扶桑社が諸手続きをしているところであり、時期については未定です。

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 本日は三氏からいたゞいた拙著の書評と感想を紹介する。

(1) 力石幸一氏(産経新聞平成17年6月11日)
 

 本書が取り扱う問題は多岐にわたる。扶桑社版の『新しい歴史教科書』に対する中国、韓国のヒステリックな反応、ジェンダーフリーという歪(いびつ)なフェミニズムの存在など、何年も前から顕在化していたテーマもあれば、日中中間線付近での中国のガス田開発や竹島問題、そしてホリエモンによる敵対的企業買収と新会社法への疑義など、この半年あまりの間に急激に浮上してきた問題もある。内と外から日本を揺るがすこれら一連の出来事は、一見すると相互に関連がないように見える。しかし、その背後には「日本人の弱さ」が見え隠れしてはいないだろうか。

 対立を避けようとソフトでつつましい性格は、日本人の美質と言っていい。日本の住みやすさはこの性格に大きく依存している。しかしその美質は、外国からの攻撃の前には自我の弱さとして現れてしまう。敵は外だけとはかぎらない。国家を内側から食い荒らすシロアリのような勢力の跋扈(ばっこ)を許してきたのもこの日本人の弱さではなかったか。敵を見ようとしない弱さこそが、戦後60年の空白の中心に横たわる問題なのだと説く本書の指摘は鋭い。

 じつは本書の企画は4年前に遡(さかのぼ)る。当時、西尾先生からタイトルを聞いたとき、「民族」という言葉にどこかどぎつい印象を感じて、反対した覚えがある。しかしいまその印象はなくなった。そのことがこの4年間の危機の深まりをよりいっそう強く感じさせる。問題はさまざまである。しかしそれを受け止める民族の性根は変らない。そこを見据えることからしか、民族の再生はありえないはずだ。本書のテーマは深く重い。

                    徳間書店 一般書籍編集長 力石幸一

(2) 小堀桂一郎氏(私信)
 

 『民族への責任』御恵興にあづかり御芳志忝く、厚く御禮申し上げます。今回はその標題からして、文字通りの並々ならぬ責任感を讀み取って、襟を正す思ひでした。就中、皇位継承問題にも立言して頂けたこと甚だ嬉しく存じます。保守を自称する小粒の言論人達は「敵」の手強さを知らないのです。その他の諸々の問題にしても、小生から見て、これだけ言はれてもまだわからないのか―と言はずにゐられない現在の亡状に憮然とするばかり、とにかく頼りにしてゐます。

(3) 大西裕氏(7月9日の私の鎌倉講演の主催者)
 

 民族への責任 読まさせていただきました。話題が直近の反日運動、領土問題、人権擁護法案から、皇位継承、アメリカとの経済戦争など、深みのあるテーマ、また、先般の教科書採択の生々しい実相など多岐にわたり、かつ、余計な遠慮のないタッチであるため、じつに迫真ある力に圧倒される思いです。
 
 最近いくつかの、活字にはふれておりますが、本書からはある感動が伝わってまいりました。

 勿論事象についての深いご理解があっての事でしょうが、いわば、論理的予言性とでもいうべき、将来への示唆を含みひさしぶりにある興奮を覚えています。
(歴史的証言の書として保存さるべきものですね)

 7月9日には、ぜひこれに基づき講演をお願いいたします。

 ついでに講演の日時をお知らせする。

 7月9日(土)午後2:00~4:30
 鎌倉鶴岡八幡境内 直会殿

新刊『民族への責任』について(十)

 この本の中から、あまり人の気がつかない、しかし本人は気が利いたことを言ったと少しだけ得意に思っている文章をひとつ引用させていただく。

 

戦闘において無類に強いアメリカは、イラクで戦術の甘さを露呈した。戦闘の終了後、50万人の大軍を派遣して国境封鎖と武装解除を徹底すれば、イラクの今の不始末はない。そう進言した武官の提案を退けたラムズフェルドの誤算である。

 「次第に明らかになってきた事実だが、米国はフセイン政権を倒した後のイラクをどうするかについて、明快な青写真を描いていなかった」(江畑謙介『日本防衛のあり方』KKベストセラーズ)

 戦後のイラクに第二次世界大戦後の日独方式が当てはまるだろうとの幻想を脱していなかったからである。アメリカのような用意周到な国も過去のイドラにとらわれている。アメリカだけでなく、どの国も過去の幻想に生きている。北朝鮮が半世紀前のソ連製の武器と地下壕だけで重武装のつもりでいるのも、イラクがアメリカ軍との開戦でフセインに勝ち目はないのに、湾岸で生き残った「フセイン政権自身は生き残れると考えていた」(江畑前掲書)のも、みんな過去のイドラにとらわれている自己幻想の姿である。ソ連消滅後に日米安保はもう日本防衛用ではなくなっているのに、北朝鮮問題がある限り、あたかも安保が有効であるかのように信じている日本も、過去のイドラを抱えて生きている。

 今の世界はどことなく箍(たが)が外れて、いささか滑稽である。そういう言い方は流血の犠牲者には相済まぬが、各国は互いに尻尾を出し、腹を見せ、間が抜けている。アメリカといえども例外でないのは今見た通りである。

 物事を少しばかり斜めから見ると、喜劇に見える。こんな風にも見えるではないかと、書いた本人は少し得意になっている。笑いながら読んでいただきたい。しかし笑わせておいて、ヒヤッとさせようと、私はすぐつづけて次のように書いた。

 

であるとすれば、北朝鮮に対してもアメリカは「明快な青写真」なしで、いきなり軍事行動に走らないとはいえない。海兵隊の上陸作戦と平壌の占領がない限り、空爆を始めてもらったら困る。日本が一番困る。

 アメリカが海兵隊を上陸させて平壌を占領してくれないと、本当になにも解決しない。空爆だけされたら、半島は反米一色になり、おいしいご馳走は全部中国の頂きである。日本は困ったことになる。

 結局、中国の体制が崩壊し、ソウルに軍事クーデターが起こらない限り、何も当分動かない。

 私の目にはだから今のところはすべてが喜劇的に見える。喜劇と悲劇は紙一重である。

 私の本にはこんな観察もあるということをお伝えしておく。

新刊『民族への責任』について(八)

 今度の本は私が15年ぶりに本気になって経済評論を書いた点に新しい特徴があることにはたして気がついてくれる人がいるか、エコノミストはどう考えるか、ずっと気になっていた。

 PHPの編集者の丸山孝さんは経済畑の本も出している方だが、今日、6月16日にファクスで個人的な書評を書き送って下さった。

 謹啓『民族への責任』をお送りいただき、ありがとうございます。 

 今回もたいへん面白く拝読いたしました。個人的には、特に私の興味の強い分野である第一部の「第四章 ライブドアー騒動の役者たち」から「第六章 アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」の部分が、単行本では通読できることもあって、再読の印象は一段と切実かつ興味深い内容でした。

 タイトルの「無国籍者の群れ」や「アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」というコピーに現われた明快な内容に、まったく賛同します。アメリカが日本を「自分に都合のいいように組み変えた後で、利益を吸引」しようとしているのは明白で、なぜエコノミストがこのことに警鐘をならさないのか、それのみならず、なぜむしろアメリカに加担しているのか、かねてより不思議でなりませんでした。

 今から書くようなことは邪推であるため、マスコミにはもちろん登場してきませんが、どうも一橋大学の経済学部、社会学部出身者(あるいは同程度の大学の出身者)に、そういった「アメリカ賛美派」が多いように感じています。その代表が竹中平蔵氏と中谷巌氏ですが、要するに国内では東大でないとワンランク低く見られるので(・・・・それもどうかとは思いますが)、一橋経済学部の人たちはアメリカに留学してドクターを取ってくるため、すっかり洗脳、あるいはトラの威を借りる、あるいは無国籍者となってリベンジ、ということになってはいないかと、かねてよりウガッています。

 もうひとつ気になっているのは、いわゆる「無自覚な内通者」とでも言うべきか、一般のビジネスマンを見ても、アメリカ流に加担することによって自分の利益を上げようとする人物が、ここ10年ほどずいぶん増えたように感じます。(特に金融とIT)。

 そういったことを思い出しつつ読み進めると、最初は『民族への責任』とはなかなか強烈なタイトルだと思っていたのですが、だんだん「なるほどその通り、実に、実に良いタイトルだなあ」と印象が変ってきたことも、付け加えておきたいと思います。

 確かに『民族への責任』という立場から本書を(私の場合特に第一部の第四章から六章を)読んでみると、日本人が真に何をなすべきかが見えてくると感じます。

 成程、そうか、そうか。やっぱり私の経済評論を評価してくれる人もいるのだ、と思うと嬉しくなり、ならばなぜ『正論』に出た段階で一般のエコノミスト諸氏がかくも完全に無視してかかるのか、ここに逆に、エコノミストの世界が今の日本で機能していない秘密があるのではないかとさえ思った。

 「グロバリゼーション」や「市場の自由化」を唱えるのでなければエコノミストの看板を張っていられないともひごろ聞いている。経済評論は日経が旗降る「大政翼賛会」になっているのかもしれない。

 

それから個人的には第二部「第五章 採択包囲網の正体」が収録されていたのも嬉しかったです。これでようやく、この論文のためだけに保管していた『諸君』を、取り出しにくくてもかまわない場所に移動できます(笑)が、やはり単行本という形で一冊にまとまってくれると、何かと重宝で、改めて本の良さを感じたりしました。ここに出てくる長谷川さんが「インターネット日録」の長谷川さんと同じ方だと今頃気がつくとは、うかつの限りでしたが(笑)。

 丸山さんは私のたゞの担当者ではなく、昔からの根っからの愛読者であることが上記の前半の文からジーンと伝わってきて、あゝ、こんな風にして読んでくれていたのか、と知って、なにか胸に迫るものがあった。

 そして、そのような彼が、つい2、3日前の日録で管理人長谷川さんのアイデンティティに初めて気がついたというのも、不思議では決してなく、人は本を読んでいるときには必要のないかぎり固有名詞を読みとばしていることを裏書きしている。

 

タイトルといえば、「第三章 皇位継承問題を考えるヒント」というよりサブタイトルの「まず天皇制度の『敵』を先に考えよ」も、たいへんに印象深い内容です。特に、奥平氏の引用があることによって、きわめて効果的に問題の本質をえぐっていると思います。そのような感想は雑誌掲載時にも申し上げたかもしれませんが、読者によっては「本書の中でこの論文に最も感銘を受けた」という人も多いのではないでしょうか。

 それに比べると、私のように第一部の第四章から六章の経済評論に最も引かれるというのは、あるいは少数派なのか・・・・この点の議論が盛んになればと思うのですが、依頼するのに適当なエコノミストの著者を思いつかない次第です。

 初歩的な印象ばかりで恐縮ですが、たいへん興味深く拝読したことが伝われば幸いです。

 「天皇制度の『敵』を先に考えよ」のアングルが効果的と言っていたゞけたのも、うれしい。というのは、皇室問題を論じる人が概して穏健な保守派で、敵の巨大さを日頃意識していない穏和しい、呑気な人が多いことに私は的確な警告を発したつもりだったからである。皇室に近い人であればあるほど、この点では迂闊である。

 なにかを論じるには論じ方ひとつで論の内容は変わってくる。よく素人っぽいもの書きで、自分は誰それと同じことを考えてきたとか同じことを言ってきた、とか簡単に口にする人がいるが、月並みな語り口で平板に語れば、同じこともじつは違った内容になる。

 結論が同じでも経過が違えば、本当は結論も違っているのかもしれない。丸山さんは永年の編集者経験から、その違いのきわどさをすでに十分に肝に銘じておられるのだ、と私は思った。