『人生の深淵について』の刊行(三)

 贈呈本には、この本を作った洋泉社の編集者小川哲生さんが、愛情あふれる紹介文を書いて、それを同封して送ってくれている。以下に掲載しこの本の紹介とする。

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 拝 啓
 このたび、3月新刊として、西尾幹二著
『人生の深淵について』刊行のはこびとなりましたので、早速お届けいたします。

群盲象をなでるという言葉があります。まさしく、本書の著者・西尾幹二氏の八面六臂の活躍は、その読者によって、さまざまな姿があらわれます。ある人にとっては、保守派論壇の雄であり、ある人にとっては、ニーチェ、ショーペンハウアーの翻訳・紹介者であり、またある人にとってはモンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコーといった「モラリスト」の系譜に連なる人間観察者、その人という具合であります。

いずれもが氏の本質であり、どれか一つで氏の本質を表すことは難しいというのが本当でしょう。しかしながら、私一個の人間理解からすれば、もっとも氏の本質をあらわすのは、最後の「モラリスト」というのが、偽らざる実感です。

 イデオロギー的裁断ではなく、氏の冷静な人間観察と鋭い心理洞察力を備えた資質はまさに「モラリスト」というべき以外に言葉がみつかりません。


『人生の価値について』にかつて接した人間はいたく、そう感じざるをえません。そして思うのです。この『人生の価値について』に先行する「人生論ノート」という連載があり、それは優に300枚を超えた作品であり、それがまだ公刊されずにあるのだ、と聞いたのはいつのことだったでしょうか。

 記憶はさだかではないのですが、いつかきっと読みたいと長い間、考えてきたのは私だけではないでしょう。

 それが、2000年12月に突如、その片鱗を表しました(扶桑社版『西尾幹二の思想と行動③論争の精神』)。残念ながら、全体像ではなく、抄録という形でありましたが、その出現はわたしの期待を裏切ることなく、圧倒的な力をもって迫ってきました。しかしながら、本来の姿は、完全な形で現れなければなりません。著者の意図したものを完全に提供するのは、編集者の務めではないでしょうか。4年の歳月を経て、ようやく読者に全体像を示せるのは編集者冥利につきるといっても過言ではありません。

 なぜかくも本書の全体像が明らかにされるのが遅れたかについて、著者は次のように述べております。

 《それなりに自信があるのに、なぜ単行本にしなかったかとあらためて問われるなら、(略)身近なひとびとの気に障るような内容を相当に含んでいるのではないか、という心配がずっとあったからである。(略)政治評論では公的な誰かを槍玉にあげ傷つけているが、人生論では私的な誰かの心理の内部に食い入って、これを傷つけているかもしれないのである。(略)最近その心配がすっかりなくなったわけではないが、私も六十五歳になり、他人の思惑や不満は墓の中に持っていけばいいと、やっと心が定まったのだった》と。

 かくして、ようやく本書は陽の目をみることができました。内容はけっして古びることなく、かえって新鮮です。人生という永遠のテーマはけっして古びることはないからです。もっとも新しい衣裳こそもっとも早く古びることはあまりにも自明です。

 本書に展開されるテーマはいずれもが難題です。解説で小浜逸郎氏も述べているように、難題が難題であるのは、生きることそのものが難題だからである、と。けだし名言です。

 本書の一句一句がアフォリズム集の趣が無きにしも非ずといっても過言ではなく、またわたしどもの惹句の「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」が紛れもなく真実であることを一読して感じていただけましたら、ひろく読者に伝えるよう御高評などいただければ幸いです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。

2005.3                         洋泉社編集部 小川哲生
敬具

『人生の深淵について』の刊行(二)

 私は現実の政治や社会問題について発言するのをもう止めようかと思うことがしばしばある。年齢とともにそれは強まっている。けれども性分というものかもしれないが、なかなかやめられない。

 現に今月もライブドアの株買収事件について『正論』に書き、朝日NHK贋報道事件、竹島問題、人権擁護法、ライブドア事件の四つに共通する底流について『諸君!』に書いている。

 扶桑社の永年の盟友真部君が「先生よくいろいろなテーマについて次々と挑戦しますね」と言ったので、「いやあ、僕が挑戦しているんじゃなく、日本が僕に挑戦してくるんだよ」と言って、二人で笑った。

 しかし本心はもっと別な仕事に心を傾ける時間が得られるようにしたいと思っている。ちょっと現実から離れたやりたい仕事があるのに、残された時間は少くなっていく一方だからである。

 前段で紹介した小浜逸郎さんの拙著への解説の中で、私がハッとしたのは、最後から二行目の「いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。」の一行であった。

 あゝそうか、そう言ってくれる人もいるのだ、と思うと少し迷いがフッ切れた。現実の問題と格闘して「いろいろやっていく」ことをやめてしまったら、恐らく他の何をやってもうまく行かないだろう。

 現実への生き生きした関心を持続しつづけること、それが私の他の活動にも生命を吹き込む源泉となってくれるのかもしれない。

 というわけで今月は経済問題にまで首を突っこんだ。対日投資会議報告書、米政府から日本政府への日米規制改革及び競争政策に関する要望書、法制審議会が決定した会社法制の現代化に関する要綱、経済産業省の日米投資イニシアティブ報告書、証券取引法などにまで踏みこんだ。

 畑違いのさまざまな領域に関与するのを年寄りの冷や水といって嘲笑う向きもあるかもしれない。けれども現実への関心が尽きないのだからこれはまあ仕方がない。

 最後に小浜さんが拙著の中から拾ってくれた二つの文章をここに掲げておく。

 

従って生きている限り、われわれは自分の生を総体として把握することを封ぜられている。それでいて、われわれは毎日のつまらぬ雑事、よしなしごとに果たして意味があるのかどうかを疑う心を持っている。それらの持つ全体としての意味が何であるかをあらためて問い直す心を持っている。しかしまた、同時に、それら雑然たる関心事や刺戟や用務の持つ個別の意味以外に何か究極の生の目的を見出そうとしてもそれは不可能だし、ドストエフスキーの描いた徒刑囚のように、人間が些少な個々の物事によってその日その日に自分の生を無言のうちに支え、自分をいわば生かしていることをもよく知っている。(「退屈について」・本文105P)

 

それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえばよいということか。諦めてしまえばそれでよいのか。私はそういう事を言っている積もりはない。むしろ、自分が何らかの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、その結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分が何かの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、そのときの自分をもっと尊重したらどうか、と言っているのだ。(「苦悩について」・本文215P)

 小浜さんはこの二文について「正直なところ、いずれも難題を突きつけられている気がする」と書いているが、私にとっても「難題」であることに変わりはない。

 今日取り返しのつかない失敗を私もしていないとも限らない。ただ「後悔」は不毛だというくらいの覚悟でせめて生きたい、と言っているだけである。

『人生の深淵について』の刊行(一)

 歴史とも政治ともまったく違うタイプの本が出版されて、すでに知っている人はともかく、オヤと思われた方は少なくないだろう。新刊
『人生の深淵について』(洋泉社、現在販売中¥1500)は、私がこれまでに書いた最高の作品と秘かに自認しているものでもある。

 文章書きは50歳代にあるピークに達する。それから次の段階へ自分を切り拓いていく。『人生の深淵について』はゆえあって執筆当時には刊行を見合わせていた。65歳で一度公刊した。評判を得たので、未収録稿を加えて、このたび完本作成を志した。

 50歳代に一番いい仕事をして、そのあと徐々に萎んでいくケースもあるし、逆に老年に新しい世界を切り拓くことができる人もいる。さて、私は果してどうか。それを決めるのはこれからの一、二年に未知の分野を学習し、自分を脱皮させることに成功するか否かである。

 『人生の深淵について』の刊行で一番嬉しかったのは、畏友小浜逸郎さんに身に余る解説を書いて頂けたことである。20枚ほどもある力のこもった解説である。まず同書の目次を掲げ、次に小浜さんの了解を得て、解説の一部を紹介する。

目 次

怒りについて        007
虚栄について       027
孤独について       055
退屈について       078
羞恥について       108
嘘について         132
死について         152
宿命について       167
教養について       193
苦悩について       205
権力欲について      221

著者覚書          237
解説   小浜逸郎    241

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 解説 「思想」の大きさについて(抜粋)   小浜逸郎

 人も知るように、西尾幹二氏は、戦後の主流をなしていた軽薄な「進歩的知識人」たちや「西洋かぶれ」の言論風潮に一貫して抵抗してきた「保守思想家」の巨頭である。また国難の感知を言論にのみ表現して事足れリとすることを潔しとせず、歴史教科書問題のような運動のリーダーシップを発揮しないではおれない情熱的な「社会運動家」としての側面もお持ちである。多くの人は、ジャーナリズムが作り出すこの政治言論や社会運動の構図における一方の雄としてのイメージを通して、西尾氏の名を知ったであろう。

 しかし私の推測では、氏がじつは、モンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコー、少し時を隔てて、キルケゴール、ニーチェ、カミュ、我が国では小林秀雄や福田恒存といった、いわゆる「モラリスト」の系譜に連なる、冷静な人間観察力と鋭い心理洞察力をそなえた倫理思想や文学思想の持ち主でもある事実は、氏自身の華々しい活躍の陰に隠れて、案外知られていないような気がする。いや、知っている人はじつはたくさんいるがただ黙って読み味わっているだけで、私などがいかにも賢(さか)しらにその事実を言挙げする必要はないのかもしれない。

 けれども、ふつうの人間がみな思想家である以上、専門的な「思想家」が、その代弁者としてどれだけふつうの人生そのものについて含蓄の深い言葉を発しているかについて何か言ってみたくなるのが、西尾思想の一ファンとしての人情というものである。なぜなら、氏の言説のこの側面が、万一、政治的な言論枠組みの単純で声高な分類と理解によってかき消されてしまうようなことになったとしたら、それはどう見ても思想が思想として迎え入れられるべき公平さと自由の原理に背く仕儀となるからだ。

 本書は、その「モラリスト」としての氏の側面が遺憾なく表現された著作のひとつである。著者への失礼を顧みずに言えば、マイナーな雑誌に発表された連載エッセイから多く収録されていて、そのせいもあってか、かえって大舞台での公式言論の建て前が強制してくる窮屈な鎧(よろい)を脱ぎ捨てた、自由闊達、潤いと味わいに満ちた人生論集の一見本となっている。日常生活で出会うふとした経験の数々からの一瞬の感知を自ら過たず捕捉し、それを若き日々に積んだ読書体験による確乎たる人間観に結合させてゆく巧みな氏の手法は、並大抵のものとは思われない。

 泥濘(でいねい)のような政治言論や社会運動の世界に自ら飛び込んで八面六臂(はちめんろっぴ)の多忙さを引き受けてこられた西尾氏に、どうしてこのような人間観察を表現に定着させるだけの「ゆとり」が見いだせるのか、正直なところ不思議としか言いようがない。しかしよくよく考えれば、それだからこそ、と言えるのかもしれない。そういえば、マキャベリもホッブズもロックもゲーテもスタンダールもそうだった。いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。思想の大きさとは、そういうことかもしれない。

高知からのメッセージ

 高知の友人、上野一彦さんから長めの手紙が届いた。13日付である。私と八木さんとの共著が店頭に出たのは12日だから、あっという間に読んで、思ったことをさっと書いてそのまゝ送って下さったものに相違ない。

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 突然失礼します。『つくる会』高知県支部長の上野です。

 先ほど『新・国民の油断』を読了しました。350ページを超える大冊の中に、今後の戦いの強力な武器になるであろう多くの論理を見い出すことが出来ました。また、『新しい公民教科書』の<主敵>がクッキリ浮かび上がったような気がしています。

 「自由とは認識された必然である」というヘーゲルの言葉があったと思いますが、必然(あるいは宿命)と向き合う事に耐えられない精神が、喧騒と狂乱のあげく自ら病んで崩れてゆくのは、個の惨劇として痛ましくはあっても、その様な病理が、あろう事か、公的な権力と資金を裏付けにして健全な社会を浸蝕してゆく、という異様な事態が進行しています。かつてのナチスの台頭がそうであったでしょうし、また、世界の最貧国とも言うべき北朝鮮が遙かに富裕な韓国を飲み込みかねない昨今の情勢も、異端(カルト)が正統を嘲弄し、恫喝し、屈服させる、という点において、あるいは同質なのかも知れません。

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 私はこの状況を同書の中で、次のように書いている。上野さんも多分、私が以下のように分析したことばなどを念頭に置いて、上記のような考えを述べて下さったのではないかと思う。

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新・国民の油断(大).jpg

『新・国民の油断』から

 革命はあり得ない、社会革命はあり得ない時代を迎えて、それにもかかわらず情念だけが白熱して、地下に潜って内向化して、別の形に変化してきました。

 繁栄や平等が実現したら革命などもういらない、と普通は誰でも思うわけです。ところが、そうではないんです。だから形式が変ったのです。自由になって解放されたけれど、さらなる自由、さらなる解放を、と要求は果てしなく続く。

 「砂漠の疾走」と私は呼ぶのですが、病気を探す病気なのです。(187ページ)

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 私は35年前の処女作『ヨーロッパの個人主義』の中でも、長い平和に、長い自由に人がいかに耐えられないかをしきりに論じたが、一生つづけて同じことを言ってきた結果の愚直に、今は自ら少し呆れてもいる。自分に対しても、日本に対してもである。上野さんはつづけて次のようにも書いている。

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 私は息子が通う中学校のPTA役員を務めておりますが、学校の現場で繁茂している“自分らしさ”とか“ありのままの自分”というキー・ワードは、そこから内省が始まる出発点ではなく、逆に思考が次々と頓挫するブラック・ホールなのだ、とつくづく思います。「自分という存在の惨めさ、醜さ、恥ずかしさ、そんな自省を欠いた“自分らしさ”など一片の価値もない」などと発言してもキョトンとした虚ろな空気が漂うだけです。文学や哲学を蔑ろにして育った生白い精神は、それを辛うじて支える実生活の良識や伝統的な知恵をイデオロギーに基づく異形のロジックで切り刻まれても、たとえ痛覚はあっても峻拒する論理を持っていません。「確かに不快だ。しかし、どうするべきか、教わった事がない。」という、アメリカの青年に妻を寝取られたインテリの夫の困惑が小島信夫の『抱擁家族』で描かれていた記憶がありますが、何よりも論理が、自分の痛覚や不快感として表出される、その根拠を明示するロジックが必要と思います。その論理をたくさん提起していただいた事に御礼申し上げます。

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 日本の教育界では「自分らしさ」とか「個性」というと、もうそれだけでそれ以上に何も疑問をもち出せない空気がある。この「自分らしさ」というのは、女子中学生が「誰にも迷惑かけないんだし、私の体を私が自由にして、何の文句があるの」という主張にやがてつながっていく。ドイツにも似た心理傾向があることをあの共著の中では確認している(165ページ以下)。

 上野さんは最後に次のようにも語って下さった。

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 また、ある講演会で性教育のテキストを紹介したら「こんなエロ話を聞くとは思わなかった」と信用が落ち人格を疑われた、という先生の述懐に思わず笑ってしまいました。先生の御著書には、先生の人となりが濃密に溢れ出る一瞬があり、またそこに期せずしてユーモアが漂い、親しみと寛ぎを与えてくれます。それが、私を含めた読者の密かな楽しみであるような気がします。

 またいつか、先生の御尊顔を拝する機会が訪れますよう、心から祈念しております。まだまだ寒い日が続きます。どうか、くれぐれもご自愛下さい。

 平成十七年一月十三日                  上野一彦

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 私は最近誰にも気兼ねなく、言いたいことを言っているし、生きたいように生きている。もう体裁ぶりたいという格別の欲望がないからである。この侭ずっとこうでありつづけたい。

「新・国民の油断」の刊行(二)

新・国民の油断(大).jpg
目次

まえがき  八木秀次

第一章  子供を襲う悪魔の手
第二章  あなたの娘を“負け犬予備軍”にするジェンダーフリー教科書
第三章  親が知らない「過激な性教育」の現場
第四章  “ソフトな全体主義”の足音が聞こえる
第五章  「性差の否定」に医学的根拠はあるか
第六章  上からの白色テロ――地方・学校の実態
第七章  男と女の幸せとは

あとがき  西尾幹二

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あとがき

 普通の日本人は、「ジェンダーフリー」と聞いても「それ何?」と言うだけだし、「過激な性教育」の話をしても「一部の日本人が馬鹿なことを言っているだけじゃないの?」と本気にしない。

 いまの大学生が、まずほとんど知らない。本書が届ける、目を剥くほど人をびっくりさせる諸事実は、小学生と中学生にいまもろに浴びせられている病毒だが、大学生の世代はまだそれほどひどい経験をしていないらしい。「僕らは知らないなァ、そこまでの話は聞いていないよ」と、たいてい当惑げに答える。

 ということは、つまり、かなり前からあった話ではあるが、教育現場を急激に襲ったのは、ここ数年なのである。「過激な性教育」の元年は平成四年と聞く。

 しかし、それは規模といい、巧妙な計画性といい、根が深く、決してただごとではない。特定の政治勢力が背後にあって、しかも、それがいままでのような反体制・反政府ではなく、「男女共同参画社会」というよく分らない美名の下に、政府権力の内部にもぐりこんで、知らぬ間にお上の立場から全国津々浦々に指令を発するという、敵ながらあっぱれ、まことにしたたかな戦術で、日本の国家と国民を破壊する意図を秘め、しかもその意図は遠く70年代の全共闘、連合赤軍、過激派左翼の亡霊がさながら姿を変えて、自民党政府を取り込んで新しい形で立ち現れた、にわかには誰にも信じられない、おどろおどろしい話なのである。

 「いまのこの時代に、そんな馬鹿馬鹿しい話が果たしてあるのか。けれども、もしあるとしたらキテレツ面白い話ではないだろうか」と、きっと読者の皆様は半信半疑になるであろう。まあ、その正否は本書を読んでから判断していただきたい。

 本書は、内閣総理大臣を長とする男女共同参画推進本部に、また官房長官を議長とする男女共同参画会議に、そして事務局の内閣府の男女共同参画局に、各地方自治体の関係部局に、さらに東京大学文学部などに事実を知らせ、公開状として質問し、即刻の現状の解消を求めている一書である。

 「総理大臣以下、あなた方はこの点に関するかぎり、とても滑稽なことをしていますよ。否、道を間違えています」と、はっきり申し上げておく。女だからと舐(な)めて、甘く見て、乗せられて、瞞(だま)されて、国家の未来を危くしている。敵はカラカラと嘲笑(あざわら)って、したたかですよ。

 私どもは、政界にも学界にも私どものオーソドックスな意見に耳を傾け、冷静に判断できる人が、いまだ少なくないことを信じている。常識はまだ生きていることを信じている。

 「ジェンダーフリー」の名において実働部隊によって行われていることは、あまりにはなはだしい反自然的人間誤解に基づく、思いもかけない文化破壊である。諸外国には例を見ない異常事、少子化で悩むこの国をさらに少子化に追い込み国家をなくしてしまう所業、日本発の新しいファシズムである。

 現に、すでにヒトラー流の文化統制が企てられ、進められている。革命後の公安委員会のような、処罰を振りかざしている「監視・影響調査専門委員会」までがすでに作られている念の入れ方である。表現の自由を平気で侵す憲法違反の動きに、総理大臣以下が知らず知らずうかうか乗せられている。

 委員に名をつらねた実働部隊の、大半が怪しげで無名な進歩的文化人の思想傾向や身元調査は十分に行われていないのではないか。無責任な官僚はこれがムードだといってわっと乗り、地方自治体の役人は中央からの指令に唯々諾々と従う従順な羊の群れにすぎない。

 皆さん、腹を抱えて笑うようなとてもおかしなことが、巨額の税金を使って大規模に、急速に展開されていますよ。黴菌(ばいきん)のような勢力がこれを動かし、あなたの町に、村に伝染病のように広がって、常識を壊し、家庭を破壊し、子供の未来を危くしていますよ。

 どうも政府自民党に思想がないということに、最大の問題がある。ただ田舎(いなか)の小金持ちをかき集めて「保守」だと称している、バックボーンのない日本の保守――最近の中央財界人も似たようなもの――には、私はほとほと呆れているが、私は彼らとは違い、国家の屋台骨が白アリに食い荒らされているような現下のこの事態を、黙って看過してしまうというわけにはどうしてもいかない。

 というわけで、『新・国民の油断』という警世の一書を編むことになった。

国民の油断.jpg
 『国民の油断』と題した本は平成八年に、歴史教科書問題を題材にして、私が藤岡信勝氏との共著で一度すでに出している。「新しい歴史教科書をつくる会」のスタートを形づくる記念的な一書である。売れ行きも良く、単行本が八万部、文庫が五万部も出た一種のベストセラーであった。

 『新しい歴史教科書』は妨害に遭って、いまの段階では採択に成功したとはいえないが、中学の歴史教科書の記述一般に、警告を発し、暴走に歯止めをかけ、揺り戻す役割を果たすことに成功した。

 そうこうするうちに、思いがけないところから、ものすごい新たな浸蝕が始まったわけだ。それが本書のテーマ「ジェンダーフリー」「過激な性教育」である。『新しい公民教科書』を脅かし、その趣旨に反する動きなので、『新しい公民教科書』の代表執筆者の新会長・八木秀次氏が関心を寄せ、打倒に情熱を注いできたのは当然である。

 本書は八年前とほぼ同じ精神を生かすが、同一の書名にはできないので、『新・国民の油断』と題することにした。

 本書成立に際し、次の数多くの方々のご協力、ご教示をいただいた。

 男女共同参画をも担当した元内閣府副大臣の米田健三氏、自民党参議院議員の山谷えり子氏、東京都日野市市会議員の渡邊眞氏、平塚市立大野中学教諭の野牧雅子氏には、基本となる考え方、資料、政界情報、教室情報をお教えいただいた。

 また広島県廿日市市の主婦・長谷川真美氏、兵庫県加東郡の公務員・木藤勲氏には、地方に展開される男女共同参画運動の実態を内側から書いたレポートをお寄せいただき、本書に掲載することをお許しいただいた。巻末付録には、主婦粕淵由紀子氏が地方自治体の予算について調べた資料を掲載させていただいた。

 その他にも、私が参加している民間審議会「九段下会議」の「ジェンダーフリーと少子化の小委員会」のメンバー諸氏は、数多くの示唆に富む貴重なヒントと事実報告をお寄せくださった。

 いずれの方面にも厚く御礼申し上げる。

 本書のテーマは、PHP研究所学芸出版部副編集長の白石泰稔氏がかねて解明に情熱を注いでいた問題意識に沿っていて、本書もまた同氏の手で編集され、出版されることになった。編集過程の実務を担当したのは、フリージャーナリストの桜井裕子氏とPHP研究所学芸出版部の細矢節子氏である。末筆ながら、諸氏に深謝申し上げる次第である。

 平成十六年十二月八日

                               西尾幹二

「新・国民の油断」の刊行(一)

 八木秀次氏との対談形式の共著であるこの本(PHP研究所刊、¥1500)には、「ジェンダーフリー」「過激な性教育」は国を亡ぼす、という副題がついている。副題が示す通りグロテスクでショッキングなグラビア、図版、写真が一杯のっている告発的攻撃本である。

 今までジェンダーフリー派の本はたくさん出版されているが、反論本はまだ出されていない。ことに一冊で問題のすべてを引き受ける反撃の本、実例も豊富で、必要な科学的知識の手引きもあり、反論するための理論上のマニュアルにもなる本、そういう根本的な本を作りたいと二人は考えた。

 ジェンダーフリーとか性教育とかいうことになると、どうしても具体的な事例に目が奪われ、現象論になりがちである。それだけでは面白くないので、なぜこんな奇現象が起こったかという冷戦以後の政治史的解明をも試みているが、さらにそれだけでも性愛に関わるテーマは論じ尽くせない。

 八木さんと私とではアプローチの仕方が少し違う。私は種族と個体の生命、古代の生死観、宇宙の神秘にも関わる問題とみなし、愛とは何かから羞恥心とは何かまで、スタンダールの恋愛論からサデイズムの心理にまで説き及んだ。

 性に関する現代の露骨と隠蔽の二重性に、古代ローマ末期との文明論上の類似性を示唆したが、これはほんのとば口を書いただけで、これから以後にもっと深く考えてみたいと思っている現代文明の新しいテーマの発見である。

 ところでこの本には約10ページにわたって日録の管理人長谷川さんのインサイドレポートがのっている。彼女が約一年間広島県廿日市市で男女共同参画プラン策定ワーキングメンバーをつとめた体験記録が収録されているので、当日録の読者にはその点の興味をも引くであろう。

 「まえがき」は八木氏、「あとがき」は私である。
(二)に目次の概略と「あとがき」の全文を紹介する。

2005~2006年の私の仕事の計画表

2005(平成17)年

1月  新・国民の油断(PHP研究所)八木秀次氏との共著

2月  新・地球日本史(扶桑社)第一巻 編著

3月  人生の深淵について(洋泉社)旧作復刻・完本作成
     付・小浜逸郎氏解説

4月  江戸のダイナミズム(文藝春秋)
     1000枚を越える大著

5月  新・地球日本史(扶桑社)第二巻 編著

5月  あなたは自由か(ちくま新書)

6月  民族への責任(徳間書店)
     教科書問題再説

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これ以後順不同

1. 「ギリシア人の悲劇時代の哲学ほか」ニーチェ 中公クラシックス
2. 新版 労働鎖国のすすめ(再刊補説)PHP研究所  
3. 題未定(日録稿を基礎にしたもの)徳間書店

以上の大半はすでに終った仕事の整理か、他人の仕事の編著である。だから本の数が多いわりに、仕事量は少いと見る。それでも、これは過重労働ではあるだろう。もっと減らさないと2006年にひびく。

2006(平成18年)1月31日刊行予約
国民の現代史 (1800枚予定)扶桑社

2005年は仕事をセーブしてこのための準備勉強に入る。
範囲は21世紀史

12/25追記

『日本人は何に躓いていたのか』 最新書評

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言

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帯裏:六カ国協議で、一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか。これから日本をどう泳がせ、どう扱うかということが、今のアメリカ、中国、ロシアの最大の関心事であります。北朝鮮はこれらの国々にとってどうでもいいことなのです。いかにして日本を封じ込めるかということで、中国、ロシア、韓国の利益は一致しているし、いかにして自国の利益を守るかというのがアメリカの関心事であって、核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでもいいのです。いうなれば、日本にとってだけ北朝鮮が最大の重大事であり、緊急の事態なのです。

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書評:「史」ブックエンド(11月号)より

外交・防衛・歴史・教育・社会・政治・経済の七つの分野にわたって、歪んだ日本の現状を立体的に解き明かしている。それはまるで推理小説の最終章のごとく痛快明朗だ。そこから導き出された提言は「日本人が忘れていた自信」を回復するための指針。こたつを囲んで優しく諄々と聞かされているようで、この日本の現状をどう捉えたらよいのかがだんだんクリアーになってくる。筆力ある著者ならではの説得力に富む快著。この祖国日本が二度と躓かないためにも、政治家や官僚に読んでもらいたいという著者の意向だが、国民必読の書である。

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

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書評:宮崎正弘氏メルマガ

①西尾幹二著『日本人は何に躓いていたのか』(青春出版社)
 このところの西尾さんの旺盛な執筆活動、そのエネルギーには舌を巻かされ、目を瞠らされ、これほどの量産をこなしながらも文章の質を確保されているという希有の衝撃がつづく。ニーチェ研究から「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長としての八面六臂。そして時事問題から経済政策までの深い関心。
 ひとりの人間がいくつの仕事を同時にこなせるのか、ニーチェの果たし得なかった未踏の世界へ挑戦されているのか等とつい余計なことばかり考えてしまう。
 さて本書は時局評論を装いながら、じつは重厚な思想書なのである。
 「六カ国協議で一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか」
 「核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでも良いのです」
 こういう警句がいたるところにちりばめられている。
 本書の隠された味付けは「日本がふたたび活性化し“勝つ国家”に生まれ変わる条件」とは何かを探し求めているところにある。懸命な読者ならすぐに気がつかれるように経済の政策が対米追従であることが日本に「第二の敗戦」をもたらしたとする分析である。日本的経営を恥じたところから日本経済の転落もまた始まった。だから最近流行のアメリカ帰りの経済理論はいい加減にしてもらいたい、と示唆されている。
つまり、「国家意識の欠如、愛国心の欠落、民族文化を前提としてものを考えていく自然な感情からの離反が、教育や外交、あるいは安全保障だけではなく、経済問題にも深く関係している」(本書302ページ)
 そして「日米構造協議から日本の没落が始まった」と結論され、「前川リポートは敗北主義」と大胆に総括されている。
 前川レポートを高く評価したのは米国のボルカーFRB議長(当時)らで、つぎの平岩レポートは米国が歯牙にも掛けなかったほど、日本の独創性尊重がうたわれていた。(脱線ながら当時、小生は米国の対日要求は「日本を米国の経済植民地」「法律植民地」にする狙いがあるのか、として『拝啓ブッシュ大統領殿、日本人はNOです』とか『平岩レポートのただしい読み方』など矢継ぎ早に上梓したが、逆に日本の体制保守論壇から反論を受けた)。
あの時代、たしかに保守の分裂が起きていた経緯を思い出すのだった。
 わが経済学の師・木内信胤先生は「経済政策で重要なのは「国の個性」であり、アメリカの真似をする必要はまったくない」が持論だった。西尾先生の結論も「自己本位ということが人間が生きていく生命力の鉄則です。それこそが今の日本が抱える問題の最大の鍵ではないかと思うのであります」。
満腔の賛意をいだきながらページを閉じた。

・・・・・・・・・・・・・・・

私信:小堀桂一郎

冠省、御新著御惠投にあづかり有難うございました。四箇月半で一氣に書下ろした、といふその筆力に驚嘆しました。いろいろとお疲れの蓄積に加へて現在進行中の用件も多々あるでせうに――而して一氣に書いた書にふさはしい、熱氣、勢、文体の統一等が感じられ、内容の説得力と併せて、又しても素晴しい警世の著作になったと感嘆しきりです。少しでも多くの人が本書を讀んで眼覺めてくれるとよいのですが。小生も、もう日本は駄目だな、といふ悲觀と、望みなきにあらず、との希望の間で動揺を續けてはゐるのですが、御新著で又一つ勵まされました。

・・・・・・・・・・・・・・・

私信:遠藤浩一(つくる会副会長)

前略 『日本人は何に躓いていたのか』、有難く拜讀させていただきました。大変重要なことが平易に説かれてをり、多くの読者を得られますことを切に祈ります。“親米対反米”といった二項対立的な議論の不毛から抜け出た真の国家戦略論と思ひます九条を変へただけでは防衛停滞は解決しないといふ鋭い一矢、保守の側にこそ突き刺すべきと痛感いたしました。
不一
十一月十四日

・・・・・・・・・・・・・・

私信:種子島経(元BMW東京社長・つくる会副会長)

西尾幹二様            種子島経拝
拝啓
「日本人は何に躓いていたのか」拝読しました。

「つくる会」募金活動の一環として、ものになりそうな企業数社のトップと語ってみて、改めて衝撃を受けています。
中国との商談が内定していたのに、中国のネット上、「あの会社から買うな。あの会社は『つくる会』を支援している」という投書が溢れたのに怯えて、社長が、「つくる会」賛同者として名を連ねている先輩を呼びつけて注意した話。
これでは、中国の干渉に悪乗りして靖国参拝を攻撃する手合いと変らない。
こんなパターンの行動が、中国をつけ上がらせることがわかっていない。
もっとも、同席した元役員の会員諸君が、「あのバカ社長め」と反発し、自分たちの名前で関連会社に呼び掛けてくれています。

 株主総会での追求、株主訴訟での求償を恐れ、「透明性の原則から、今では交際費の細目まで公開させられるんだから」と寄付に応じない。
これらはすべて、ここ10年の間に、アメリカに倣う形で導入されたものです。
それが、かくも日本企業をインポテンツにしている。
経営者としての自信に欠けるからこそ、株主を恐れるのです。
貴著にあるキャノンとか、終身雇用を標榜し続けるトヨタとか、日本企業の強さを守って栄えている企業もあるけど、中国に怯え、アメリカに犯されてインポになった日本企業群を垣間見て、薄ら寒い思いをしたものです。
ポンと二百万円くれたオーナー経営者もあって、募金全体では好調に推移しているのですが。

 例によって、貴著に刺激されて思い付いたまま、記しました。

平成16年十一月十一日             千葉の寓居にて
                     敬具

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 私は「日本文化チャンネル桜」を支援しますが、私自身、視聴方法がわからなくて困りました。みなさまに次の方法をお教えします。

(株)日本文化チャンネル桜の案内書より
「日本文化チャンネル桜」をご視聴になるには「スカイパーフェクTV!」(略称:スカパー!)の受信用のアンテナと受信装置(チューナー)が必要になります。スカパー!のチューナーとアンテナをお手持ちでない方には、チャンネル桜で受付けておりますので、「日本文化チャンネル桜」チューナー・アンテナ係に、まず電話(03-6419-3900)・FAX(03-3407-2263)・郵便・Eメール(info@ch-sakura.jp)などのいずれかでお申込みください。

 西村幸祐氏が「『反日』の構造」(PHP研究所)という新刊を出され、私が推薦文をかきました。推薦文は以下の通りでしたが、本の表紙に使われたのは下線部分でした。

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推薦文「反日」の構造

                   西尾幹二

 「反日」という名の日本発のソフトファシズムが中韓などの外国に飛び火し、国内の威嚇団体の暗躍と相まって、1980年頃から日本の国家意志を真綿で首を締めるように麻痺させている、という著者の観察と警告に、私は心から同意する者である。私はこれを「第二の敗戦」と呼ぶが、本書の著者は新しい「妖怪」と名づける。官公庁、地方自治体、NHK、大新聞などの中枢に国家意志がない。国の内外の「反日」勢力にいかにこの国が日々食い亡ぼされているか、に関し、著者が私などの及ばぬ細かな情報に通じ、緻密に追求しているさまは驚嘆に値する。

『日本は何に躓いていたのか』最初の感想

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言

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帯裏:六カ国協議で、一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか。これから日本をどう泳がせ、どう扱うかということが、今のアメリカ、中国、ロシアの最大の関心事であります。北朝鮮はこれらの国々にとってどうでもいいことなのです。いかにして日本を封じ込めるかということで、中国、ロシア、韓国の利益は一致しているし、いかにして自国の利益を守るかというのがアメリカの関心事であって、核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでもいいのです。いうなれば、日本にとってだけ北朝鮮が最大の重大事であり、緊急の事態なのです。

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 この本はようやく店頭に出たばかりだが、ぼつぼつ知人からの感想が寄せられ始めているので、その一部を紹介する。

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

書評:宮崎正弘氏のメルマガより

①西尾幹二著『日本人は何に躓いていたのか』(青春出版社)
 このところの西尾さんの旺盛な執筆活動、そのエネルギーには舌を巻かされ、目を瞠らされ、これほどの量産をこなしながらも文章の質を確保されているという希有の衝撃がつづく。ニーチェ研究から「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長としての八面六臂。そして時事問題から経済政策までの深い関心。
 ひとりの人間がいくつの仕事を同時にこなせるのか、ニーチェの果たし得なかった未踏の世界へ挑戦されているのか等とつい余計なことばかり考えてしまう。
 さて本書は時局評論を装いながら、じつは重厚な思想書なのである。
 「六カ国協議で一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか」
 「核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでも良いのです」
 こういう警句がいたるところにちりばめられている。
 本書の隠された味付けは「日本がふたたび活性化し“勝つ国家”に生まれ変わる条件」とは何かを探し求めているところにある。懸命な読者ならすぐに気がつかれるように経済の政策が対米追従であることが日本に「第二の敗戦」をもたらしたとする分析である。日本的経営を恥じたところから日本経済の転落もまた始まった。だから最近流行のアメリカ帰りの経済理論はいい加減にしてもらいたい、と示唆されている。
つまり、「国家意識の欠如、愛国心の欠落、民族文化を前提としてものを考えていく自然な感情からの離反が、教育や外交、あるいは安全保障だけではなく、経済問題にも深く関係している」(本書302ページ)
 そして「日米構造協議から日本の没落が始まった」と結論され、「前川リポートは敗北主義」と大胆に総括されている。
 前川レポートを高く評価したのは米国のボルカーFRB議長(当時)らで、つぎの平岩レポートは米国が歯牙にも掛けなかったほど、日本の独創性尊重がうたわれていた。(脱線ながら当時、小生は米国の対日要求は「日本を米国の経済植民地」「法律植民地」にする狙いがあるのか、として『拝啓ブッシュ大統領殿、日本人はNOです』とか『平岩レポートのただしい読み方』など矢継ぎ早に上梓したが、逆に日本の体制保守論壇から反論を受けた)。
あの時代、たしかに保守の分裂が起きていた経緯を思い出すのだった。
 わが経済学の師・木内信胤先生は「経済政策で重要なのは「国の個性」であり、アメリカの真似をする必要はまったくない」が持論だった。西尾先生の結論も「自己本位ということが人間が生きていく生命力の鉄則です。それこそが今の日本が抱える問題の最大の鍵ではないかと思うのであります」。
満腔の賛意をいだきながらページを閉じた。

書評:遠藤浩一(つくる会副会長)

前略 『日本人は何に躓いていたのか』、有難く拜讀させていただきました。大変重要なことが平易に説かれてをり、多くの読者を得られますことを切に祈ります。“親米対反米”といった二項対立的な議論の不毛から抜け出た真の国家戦略論と思ひます九条を変へただけでは防衛停滞は解決しないといふ鋭い一矢、保守の側にこそ突き刺すべきと痛感いたしました。
不一
十一月十四日

感想:種子島経(元BMW東京社長・つくる会副会長)

西尾幹二様            種子島経拝
拝啓
「日本人は何に躓いていたのか」拝読しました。

「つくる会」募金活動の一環として、ものになりそうな企業数社のトップと語ってみて、改めて衝撃を受けています。
中国との商談が内定していたのに、中国のネット上、「あの会社から買うな。あの会社は『つくる会』を支援している」という投書が溢れたのに怯えて、社長が、「つくる会」賛同者として名を連ねている先輩を呼びつけて注意した話。
これでは、中国の干渉に悪乗りして靖国参拝を攻撃する手合いと変らない。
こんなパターンの行動が、中国をつけ上がらせることがわかっていない。
もっとも、同席した元役員の会員諸君が、「あのバカ社長め」と反発し、自分たちの名前で関連会社に呼び掛けてくれています。

 株主総会での追求、株主訴訟での求償を恐れ、「透明性の原則から、今では交際費の細目まで公開させられるんだから」と寄付に応じない。
これらはすべて、ここ10年の間に、アメリカに倣う形で導入されたものです。
それが、かくも日本企業をインポテンツにしている。
経営者としての自信に欠けるからこそ、株主を恐れるのです。
貴著にあるキャノンとか、終身雇用を標榜し続けるトヨタとか、日本企業の強さを守って栄えている企業もあるけど、中国に怯え、アメリカに犯されてインポになった日本企業群を垣間見て、薄ら寒い思いをしたものです。
ポンと二百万円くれたオーナー経営者もあって、募金全体では好調に推移しているのですが。

 例によって、貴著に刺激されて思い付いたまま、記しました。

平成16年十一月十一日             千葉の寓居にて
                     敬具

書評:小堀桂一郎

冠省、御新著御惠投にあづかり有難うございました。四箇月半で一氣に書下ろした、といふその筆力に驚嘆しました。いろいろとお疲れの蓄積に加へて現在進行中の用件も多々あるでせうに――而して一氣に書いた書にふさはしい、熱氣、勢、文体の統一等が感じられ、内容の説得力と併せて、又しても素晴しい警世の著作になったと感嘆しきりです。少しでも多くの人が本書を讀んで眼覺めてくれるとよいのですが。小生も、もう日本は駄目だな、といふ悲觀と、望みなきにあらず、との希望の間で動揺を續けてはゐるのですが、御新著で又一つ勵まされました。

11/21(加筆)

『日本がアメリカから見捨てられる日』の刊行(三)

 「まえがき」に代えて9ページにわたって大、小あわせて24個のアフォリズムを巻頭に掲げたのが、本書の新しい試みの一つである。その中から5つほどここに紹介しておこう。

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 悪い環境下ではときに強い人間が育つ。しかしあまりに悪い環境下では、どんな人間も育たない。他方、あまりに恵まれた環境下では、弱い人間ばかりになってしまう。けれども、あまりに恵まれた環境下であっても、それに負けない人間は必ずいるはずである。そしてそれが一番の本物なのだ。

* * *

私が一生かけて戦ってきたのは、左翼でもマルクス主義でもなく、人の心を思い通りに扱おうとする、つまり人間を自由にできると信じている便利で、軽薄な政治主義なのである。

* * *

インターネットによる交流という「言葉だけの人間関係」の自由のよろこびは、確かに新発見だと思うが、――しかしいつか気がつくと思う――そこにおいても人間は孤独であり、不自由であり、危険と隣合わせに生きているという事実を片ときも見落としてはなるまい。

* * *

保守という派閥は存在しない。保守主義というものも存在しない。私は真の保守を唱えるつもりもない。存在するのは「真贋」の区別だけである。
私は「保守運動」などというもののために生きているのではまったくない。これだけははっきりさせておく。

* * *

歴史に再生はない。未来に復活もない。過去は不可逆であり、未来は予知不能であり、存在するのは現在だけである。歴史は現在という点のつながりであり、過去においてもその時の現在という点があっただけである。そういう限界に直面している人にだけ、現在という点の中に過去が映し出され、未来がおぼろげながら予想されるのである。それ以上のことは人間の身には起こらないのだと思う。

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巻頭に掲げたこうしたアフォリズムは、この本の付録みたいなものだが、必ずや立ち停って考え、考えては立ち停るひと時を持っていただけるであろう。とりわけ三番目の短章は、「緊急公告」の騒ぎの後ではひとしお「日録」の読者の心に訴えるものがあることを信じたい。

誤字修正(9/5 19:31)