脱原発論の決定版

えんだんじのブログより

ゲストエッセイ 
坦々塾会員 鈴木敏明

 月刊誌「WiLL」8月号の西尾幹二氏の論文、「平和主義でない『脱原発』」を読んだ。私は驚愕し、深い感銘を受けた。脱原発論の決定版と言っていい。なぜなら私は、保守の多くの方と同じように、積極的ではないにしろ心情的に原発推進論者だったと言っていい、しかし西尾氏のこの論文を読んで日本は脱原発に向かって歩みを始めなければないことを悟ったからです。西尾氏は、論文の出だしの二頁目にこう書いています。

「原発の存在が日本の軍事力の合理的強化を妨げ、国家の独立自存をむしろ阻害しているという、きわめて深刻なウラの事情を正確に見ていない」

保守の皆さん、この文章は非常な驚きですよ。皆さん、実感できますか。そして次の三頁から最後の十頁までその「きわめて深刻なウラの事情」を的確にわかりやすく説明しながら西尾氏の主張を加えています。簡単に要約すると日本は原発のために原料の天然ウランを輸入しなければなりません。主にカナダやオーストラリアから買っています。そのために日本は両国から天然ウランについて有形、無形の対日規制を受けているのだ。

それだけではありません。輸入した天然ウランは、そのまま燃料として使えないからアメリカやフランスへ運んで高い料金を払って濃縮してもらうのだが、その結果、米仏も濃縮提供国として対日規制権を持つことになるのだ。次に、その濃縮ウランを日本の原子炉で燃やして発電したのちに、使用済み核燃料をフランスと英国に持っていって再処理してもらうと、そこでできたプルトニウム燃料について、今度は英仏の対日規制が加わる。さらにやっかいなことは、最近の原子力協定では、米国で濃縮してもらった核燃料でなくても、例えばアフリカのニジェール産の天然ウランを日本の濃縮工場で濃縮した燃料でも、それを一度米国製の原子炉または米国の技術でできた原子炉で燃やすと、その途端に米国産の核燃料とみなされ、米国の規制権の対象となる仕組みになっているのだ。外務省初代の環境問題担当官で、現エネルギー戦略研究会会長の金子熊夫氏の「日本の核、アジアの核」(朝日新聞社)の中でこう書いていると西尾氏は指摘しています。

「要するに、日本の原子力開発は、過去40年間と同じく現在、将来とも、米、英、仏、加、豪の五カ国、わけても米、加、豪の三カ国は最終的な「生殺与奪」の権利をにぎられているのであり、これら諸国の核不拡散政策を無視して、自分勝手な振る舞いはできないような仕組みになっているのです」

奇しくも上記五カ国は、大東亜戦争の旧敵国です。過去のことはさっさと水に流すのが日本民族、それ以外の民族は、過去のことは忘れません、とくに戦争など絶対に忘れないし、徹底して正義面してきます。特にアメリカは日本の核兵器所持に神経質になっています。ひょっとして広島、長崎の仕返しをされるかもしれないとの思いがあるからです。日本政府が核兵器所持を決定したら、上記五カ国が、ウランは売らない、濃縮もしないと言い出したら、日本の産業は壊滅してしまいます。その結果として日本は核兵器所持をあきらめねばならなくなるのだ。好むと好まざるにかかわらず日本の原発所持が、日本の核兵器所持の足かせになっているとも言えるのです。日本は原料を輸入しているから高い値で買わされ、上記五カ国の原子力の外交政策に翻弄されてきた。旧敵国であることが目に見えない差別と警戒の対象国になっているのです。原料を輸入する弱みから開放されたいとの思いから日本独自で技術開発したのが福井県敦賀市の高速増殖炉“もんじゅ”です。“もんじゅ”がうまく成功すれば、使われた燃料は1.2倍になって返ってくることになっていた。そうなればもう原料の心配はいらない。ぐるぐる同じ燃料をリサイクルしていけばいい夢の機械であった。その“もんじゅ”が度重なる事故で前進も後退もできなくなっているのだ。一キロワットの電力も生産せずこれまですでに一兆円が注がれてきたのだ。私みたいに数字に弱く、庶民感覚だと一兆円の価値がわからないが一億円の一万倍というと凄い実感がでます。また今後五十年間にわたり年間五百億円の無駄な維持費がかかるというのだ。

原発一基一年間運転すると約30トンの使用済燃料が生じ、これをどこかで片付けなければなりません。そこで政府は青森県六ヶ所村に再処理工場が建設した。そこえ全国の原発から使用済燃料が運びこまれます。再処理が順調におこなわれるから問題がないのではないのです。再処理は再処理で深刻な問題があるのです。再処理すると毒性の高いプルトニウムが抽出されるのです。この恐いプルトニウムが日本ではたまりすぎて45トンを超えているのだ。8キロあれば原爆を一個作れるから約5千発程度の原爆材料が貯蔵されていることになる。国際社会から警戒の目でみられるし、特に先にあげた上記五カ国、中でもアメリカは、日本警戒のためでしょう。日本はプルトニウムを60トン以上持ってはならぬ主張しているのだ。日本はたまっていくプルトニウムをどう貯蔵していくつもりなのか。

原発を運転しているかぎりこのプルトニウムは溜まっていくのだ。しかも世界ではこのプルトニウムの溜まりを解決した国はどこもないのです。原発を廃止する国より新規に原発所有する国々や、現在所有している原発数を増やす国々の方が圧倒的に多いのです。世界中で容器にいれられた毒薬プルトニウムが埋められることになります。この容器の耐用年数が何十年だか何百年だか知りませんが、核戦争で地球が滅びるより原発の廃棄物で地球が滅びる可能性が高くなってきたような感じです。

その他にも日本の原発には、プルサーマル、MOX燃料など色々な深刻な問題をかかえています。西尾氏は、その問題の全部さらけだし説明をしています。私は、脱原発論者も原発推進論者もぜひこの西尾氏の論文を読んでもらいたい。なぜなら彼らのほとんどが、現在の原発が抱えているこのような問題を知って脱原発論者になったり原発推進論者になったりしているわけではないからです。脱原発か原発推進か、喧々囂々と語られています。だから私も自分のブログで意見を披露したかった。しかしできなかった。何故か。私は冒頭に触れましたように心情的に原発推進論者で原発産業の実情など何も知らないのです。なにも知らないで心情的な原発推進論者の主張を文章にしたら、低放射線量は、危険どころか健康にいいだとか、飛行機事故でこれまでにどれだけ沢山の人々が死んだかとか、安全をさらに強固にすれば問題ないとか、ただ情緒論にすがって書くことになってしまうからです。ところが日本の知識人と言われている人たちは、平然とこれをやります。だから日本の知識人はダメなのだ。今回の西尾氏の論文を読んでいただければわかりますが、情緒論など一切なし、現状の問題点を赤裸々に語り、自分の主張を展開していく、すべてが論理的です。それだけに積極的原発推進論者には反論が非常にむずかしい。そこで私が心配しているのは、この論文はあまり話題にならず、黙って見過ごされる可能性が高いことです。本来ならこの西尾論文について喧々囂々と語り合われるのが一番いいのですが、特に政界と原発業界はそっとしておきたいのだと思います。

最初に触れましたように私は西尾氏の論文を読んで、日本は脱原発に向かって歩み始めなければならないと悟ったと書きました。そこで私の提案を簡単に披露しましょう。まず原発の撤退作戦開始です。戦場でも撤退作戦が一番難しいと言われています。自軍の損害をできるだけ低く抑えて撤退しなければなりません。自軍の損害をできるだけ低くとは、日本国民の社会生活や経済生活への損害をできるだけ低くすることです。そのためには撤退作戦は急いではいけません。できるだけ時間をかけるのです。しばらくの間これまでどおり原発と共存することになるでしょう。しかし原発撤退の意思を忘れてはいけません。時間をかけて退却しながら援軍を待つのです。援軍とは日本国民の総力をあげて原発に代わる代替エネルギーの開発です。私は絶対にできると思っています。なぜなら実例があるからです。かって石油価格が暴騰し、日本経済は没落かと思われたとき、石油価格暴騰を引き金に日本は省エネ技術で世界を凌駕したではないですか。世界各地にある原発など無用の長物にしてしまおうではないですか。大変むずかしいでしょう。しかしほんの数十年前、パソコンが家庭に出現するなどと考えた人はいないのです。

脱原発こそ国家永続の道 (三)

『WiLL』7月号より

跡を絶たない観念保守派 

 否、そんなことはない、と言う人にはあえて言っておくが、東日本復興のための財源がなくて、やれ増税とか、やれ国債の日銀買取りとか論じられている昨今だが、日本は世界の債権国で、アメリカには百兆円も貸しつけている。その金が動かせないと頭から信じこまされているのはなぜなのか。そのうち三十兆円をいま使えば、増税も国債発行も必要ないのに、口が裂けても誰もそれを言わないし、言わないのは当然という顔をしているのは──本当に不自然な話!──なぜなのか。日本はすでにして、完全な操り人形国家なのである。
 
 この悪夢の轍から逃れる唯一の道は、日本の軍事的自立以外にないのである。商人国家像の否定以外にないのである。
 
 原発に話を戻すが、中曽根以来の原発路線は、軍事的にはアメリカに封じられたIAEA体制下に置かれ、まさに商人国家路線にほかならず、これを否定することが独立への第一歩である。これは、戦争が終わるや否や戦前が悪だったと反省するたぐいの歴史否定の自己欺瞞とは、およそ原理を異とする別件にほかならない。戦争の歴史と原発の歴史を同一視する頭の硬い保守派のイデオローグは、どうしてそんな簡単なことが分からないのか。
 
 新幹線に事故のなかった国鉄を省みて、日本の技術力をもってすれば原発にも事故なきを期待できる──事故が現に起きているのに!──と強弁する観念保守派が今なお跡を絶たないが、そういう人はおよそ現実というものを正確に見ていない。国鉄には山之内幸一郎というような伝説的な逸材、事故事例を追い求めて、二度と同じ事故は許されないという強い信念と哲学を持つ技術者が中心にいた。彼がもし東電にいたら、反原発派の主張にも膝を屈し、進んで謙虚に耳を傾けただろう。
 
 ホンダでも、トヨタでも、一流の企業文化には必ずそういう人間力と技量と哲学を兼ねそなえた技術者たちに培われた時期というものがある。残念ながら、日本の原子力発電は、そういう歴史を持っていない。基本的にアメリカの模倣であり、加えられた日本の技術は改良技術にとどまっている。

原発最優先キャンペーン

 福島第一原発において一号炉はGE製であり、二号炉から六号炉までは東芝や日立が製作しているが、アメリカが設計図を引いたもののコピーにすぎない。日本中の他の原子炉も沸騰水型、加圧水型を問わず、設計の基本はアメリカにある。構造の改良は不十分で、残念ながら、地震の多い国に適用できる構造にはなっていないようだ。武田邦彦氏がマグニチュード6・0の直下型地震で日本の原発はすべて必ず壊れるようになっていると言っているのも、むべなるかなである。

 国鉄やトヨタやホンダのような国産の企業文化、技術文化のうえに立脚していないのがわが原子力産業の実態であり、その馬脚が露骨に現れたのが、今回の事故であったといわざるを得ないだろう。武器輸出さえできないこの国で、どうして核爆弾と隣り合わせる原発の技術において、国産の枠を競えるであろう。

 「第二の敗戦」「失われた十年」といわれた中曽根から小泉に至るわが国の対米再従属・対中新屈辱の歴史と歩みをともにした原発の歴史は、あらためて「非核三原則」の廃止に踏み切り、政治を再生し、そこから再出発する覚悟を新たにするしか、復活の道はないであろう。そこまで覚悟するなら、国産にも期待できる。今のままの原発依存の道を進むべきではあるまい。
 
 日本人は、江戸時代の貧しさに立ち還る覚悟がなければ、今の原発を止めることはできないなどと安易な言葉で威す人がいる。あるいは、原発を止めれば日本の人口は遠からず半減するだろう、などと言う人もいる。果たしてそうだろうか。
 
 われわれは「計画停電」で脅迫されたが、夏の盛りは別として、原発を停止しても休止中の火力発電を復活すればそんな危機はすぐこないという数字上の証明も、すでに各方面でなされている。もちろん、残された原発を今直ちに止めることは不合理である。日本は当分の間、稼働中の原発を上手に、合理的に運転していかなければならない。何ごとでも急激な変化、過激な措置は慎まなければならない。
 
 けれども、原発による発電の価格は安く、太陽光など自然エネルギーは高くつくので、前者を後者で代替することは到底できない、と広く今まで信じられてきた前提には、数多くの疑問符がつけられてもいるのである。
 
 原発は順調に運転されている稼働中の単位コストは安いかもしれないが、大金で住民を買収する地域対策費、巨額にのぼる廃棄物処理コストを加えて計算されているだろうか。さらに、今度のような事故が起これば、被害補償費は天文学的数字になり、安いなどとは到底いえないだろう。
 
 太陽光発電、風力発電、地熱発電などは、まだわが国では本格的に試みられていない。あんなものは役立たないと鼻先で笑う人が多いが、ドイツでは発電量の二五~三〇%を占めるまでになっている。それは、電力会社による各家庭からの買い取りシステムが確立されているからである。
 
 わが国でなぜ自然エネルギーの開発が立ち遅れたのかは、原発を最優先にする政治上のキャンペーンに抑圧され、足踏み段階で抑え込まれてしまっているからである。

浜岡原発停止は正しい

 東電による「オール電化」のキャンペーンは実際、各家庭を襲ってもの凄かった。東京ガスは気押されていた。わが家の門前にも、ガスを止めて台所を全電化せよの誘いがうるさいほど来たと聞く。事故以来、ピタッと来なくなった。電力不足時代がはじまったからである。これで初めて、太陽光などの各家庭からの買い取りシステムが活発に動き出す下地ができたともいえるだろう。

 電力不足が自然エネルギーの多様な開発を可能にし、コストを下げる作用をするだろう。必要が開発を促進する。日本がドイツ並みに全電力の二五~三〇%を代替エネルギーで賄うのも、そう難しい道のりではないと思う。

 原発の今後の存続の可能性は、地震国に適応した日本独自の技術開発のいかんにかかっているが、相当に難しいのは、使い終わった燃料棒の処理にある。

 じつは、使用済核燃料の処理は世界でどこもまだ成功していないのだと聞いている。アメリカとフィンランドは、燃料の残りは全部土中深く埋めこむ計画だが、まだ計画の段階である。日本とフランスは再利用する方向で、高速増殖炉は日本特有の技術ではあるが、平成十四年四月に停止してしまって、成功していない。他方、六ヶ所村の再処理工場は別の方向だが、ここも最終試験段階でトラブルが発生している。かりに成功してもいっぺんに処理できないので、中間貯蔵施設に使用済を何千本と保存しなくてはならないが、その施設がまだ出来上がっていないとも聞く。

 しかも、再処理ができても「高レベル放射性廃棄物」は最後にどうしても残るのである。これを地下三百メートルに埋めこむ計画のようだが、どの自治体も受け入れを拒否している。三百メートルといっても、日本列島は地震大国である。地殻変動で将来何が起こるか分からない。燃料の最終処理はフランスも成功していない。前にも述べたが、子孫に残すべき国土は民族の遺産であって、永久の汚辱の大地にすることはできない。保守といわれる知識人のなかに、どうして美しく保存されるべき豊葦原瑞穂の国を、何万年にもわたり汚染してもいいと考えている人が少なくないのか、私にはまったく理解できない。それに、いかなる人の故郷も奪われてはならない。エネルギー問題をイデオロギーに囚われて争っていてはならない。

 尖閣を中国から「守る」ことをしようとしなかった菅総理は、「守る」ということを正しく知っているとは思えない人物だが、彼による浜岡原発の停止命令は、その動機のあいまいさや場当たり性は別として、事柄自体としては私は評価している。福島と静岡の事故の挟み撃ちが万が一起こったら、日本は亡んでしまうだろう。誰よりもホッとしたのは、中部電力の幹部たちであっただろう。
世界から見放される日本

 私は大震災から二週間ほど経た頃、産経新聞「正論」欄(二〇一一・三・三〇)に書いたコラムの末尾を次のように結んだ。

 今後、わが国の原発からの撤退とエネルギー政策の抜本的立て直しは避け難く、原発を外国に売る産業政策ももう終わりである。原発は東電という企業の中でも厄介者扱いされ、一種の「鬼っ子」になるだろう。それでいて電力の三分の一を賄う原発を今すぐに止めるわけにいかず、熱意が冷めた中で、残された全国四十八基の原子炉を維持管理しなくてはならない。そうでなくても電力会社に危険防止の意志が乏しいことはすでに見た通りだ。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、企業は安全のための予算をさらに渋って、人材配置にも熱意を失うだろう。私はこのような事態が招く再度の原発事故を最も恐れている。日本という国そのものが、完全に世界から見放される日である。

 手に負えぬ四十八個の「火の玉」をいやいやながら抱きかかえ、しかも上手に「火」を消していく責任は企業ではなく、国家の政治指導者の仕事でなくてはならない。 

 震災直後のこの考えは今もまったく変わっていない。

 最近知ったが、ドイツ政府には放射線防護庁という役所があり、十六の原子炉のある周辺地域で、幼児がガンにかかる確率が高いことが分かった。放射線の量はきわめて低く、現在の科学のレベルでは関連は証明できない。けれども、すべての原発立地地区で同じ結果が出たという事実だけが明らかになった。

 また、私が信頼している人から直接聞いた話であるが、東京のがんセンターにある子供の病棟に茨城出身者が多く、東海村事故のせいとの観測が関係者の間で囁かれている。ドイツでは政府が公表し、日本では隠匿されている。今後、こうした問題は公開の場で討議されるべきである。

 私は四月十四日に、保守系のある討論会で福島の子供の学童集団疎開を提言したが、参加者数名から言下に否定された。子供と大人では受ける影響が著しく違うことをもっと真剣に考えるようでありたい。

脱原発こそ国家永続の道 (二)

『WiLL』7月号より

国にとっての「外部被曝」

 震災後の海と陸に展開された自衛隊の今回の救援活動を日本人は心強く思い、感謝の気持が高まっている。朝日新聞やNHKですら、国民感情を無視できなくなっている。自衛隊のおかげです、ありがとう、の気持ちは自然で素直だが、日本人はかつて戦地で戦う軍人にも、頼もしさとありがとうの感謝の気持ちを熱く抱いていたのである。子供の歌にも「肩ヲ並ベテ兄サント 今日モ学校ヘ行ケルノハ、オ国ノタメニ戦ツタ、兵隊サンノオカゲデスー♪」と歌ったものだった。今の自衛隊に対するのと変わらない自然で、素直な気持だった。
 
 理窟を言い出したのは敗戦後である。人間が愚かで卑劣になったのは戦後である。はっきり言うが、歴史を思い出すとき、なぜあの時代の国民の自然で、素直な感情に戻らないのか。「守る」ということは生命の本来の欲求で、人間がまともなら少しも難しいことではないのである。
 今回は原発事故だが、明日は外敵の襲来かもしれない。尖閣周辺は今もきな臭い。戦争を「想定外」として、いつまでも裂け目の外を覗き見る勇気のない国民には、そもそも原子力発電などを手がける資格がないのである。
 
 震災から二カ月半も経ったのに、被災地で弁当の配達をしているのは自衛隊員であるのを知って、隊員を本務に戻さない政府のやり方に怒りさえ覚えた。中央の官僚の大量投入と現地の被災民の組織化を、なぜしなかったのか。
 
 私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは最悪を想定し、最大限に可能な予防措置を施し、しかも平生はそれを忘れたかのごとく平穏に振る舞い、晴朗に生きる心掛けを創り出すことだと考えている。
 
 最近、放射能汚染をめぐって「内部被曝」と「外部被曝」の違いがよく取り上げられる。口や鼻から体内に入った前者は、後者に比べて破壊力が大きく、取り返しがつかない。この例にならって、国家も人体と同じように考えれば、国内に引き入れられた放射能の被曝は、国外から襲われる被曝よりも、よほど始末に悪い厄介なしろものだということが考えられねばならない。
 
 国にとっての「外部被曝」は、核攻撃と他国の原発事故の影響である。核攻撃から身を守るには、大国の核の傘に頼るか自ら核武装するか以外に方法はない。他国の原発事故の影響は防衛困難だが、日本は国境までの距離が大きいだけに、ヨーロッパに比べていくらか有利であるかもしれない。
 
 それに対し、「内部被曝」すなわち国内の原発事故は、土地が狭く、地震と津波の多い国土である日本は条件的に不利で、今度の経験から、原発はやらないで済ませられるならやらないに越したことはないと考える。「内部被曝」は、一人の人間の身体内と同様に、一つの国の国土内に起こると、被害は深層に入り、汚染は何十年と続く。
 
 しかも、核燃料廃棄物の最終処理が技術的に解決されていない以上、子孫に伝えるべき大切な国土が永久的に汚辱され、廃棄物をどんなに地下深く埋めても、地殻変動で将来どうなるものか分からない。国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない。

原発反対派に転じた理由 

 原発事故が起こってから、私は原発賛成派から反対派に転じた。考えを改めた。今まで原発賛成といっても、経済面で合理的で安全なものなら反対する理由はないと思っていただけで、無関心派に近かった。格別そこに道義や理念を持ちこんで考えていたわけではない。たかがエネルギーの問題で、国家の価値観や歴史の尊厳とは関係がない。
 
 しかし、福島の事故が起こって、原発は経済面で合理的でもないし、安全なものでもないと分かったし、国家や歴史を犯すものと分かった以上、人は選択肢を変えることに躊躇すべきではない。人間は経験から学ぶべきものである。
 
 自分を「守る」とはどういうことか。最悪の事態を想定して生きることであるとさきほど申し上げた。治にあって乱を忘れぬことである。しかし、乱をよろこぶということでは決してない。しなくて済む乱は、これを避けるに越したことはない。
 
 原発の選択は本当に不可避であったか、これまで真剣に問われないできたし、代替エネルギーの開発も原発が合理的という声に抑えられて本格的になされないできた。これから問われ、かつ急速に研究推進されるであろう。
 
 よくこういう問題で、「勇気」を持ち出す人がいる。ことに保守派に多いが、たかが事故の一つや二つ起こったくらいでオタオタするな、というのである。しかし、正直いって私はオタオタしている。福島の情勢が悪化することを、私は最初からひどく心配してきた。その徴候はいま現にある。別の原発で二度目の事故が起こることをさらに心配している。ダブルパンチを受けたら、この国は本当に亡びるかもしれない。
 
 体内の「内部被曝」の怖いことがよく分かった。国も同じで、内側がやられたらもう手に負えない。「勇気」を発揮しようにも発揮できなくなる。勇気や精神力を持ち出すケースでないことは、あまりにも明らかだろう。外敵と戦うのとは違うのである。
 
 それに、子を持つ母親の恐怖は深い。女性の参政権の強いこの国では今後、原発賛成では選挙に勝てないだろう。自治体は財政をかかえるから、すぐに反対はいえないだろうが、一般住民の意識ではすでに原発反対が圧倒的多数を占めている。日本国民は賢明で常識を具えている。

天使のような侵略
 
 私たちは、日常の裂け目からいったん奥を覗き見たのだ。奥にある破壊の相を目にした以上、生命力は奮然としてそこから身を守る戦いを開始したのである。今までの平穏で長閑な日常には、もう戻れないかもしれない。

 「守る」とは何か。本当の「勇気」とは何か。原発に必ずしも反対でなかった者が、私のように突然、慎重になると、戦争支持者が戦後突然、替わり身早く戦前を否定するようなことを言い出すのと同じ話だと騒ぎ立てている人がいるらしいが、これは見当違いも甚だしい。
 
 原子力発電は中曽根内閣からはじまった。そして、経済界が全面的にこれをバックアップした。私はかねて国家というものは政治、経済、外交、軍事の四輪が平均的に揃ってはじめて前へ進める車のようなものとしきりに言ってきた。日本のように、経済だけ突出した商人国家像を否定してきた。中曽根から小泉に至る自民党政治と経団連との野合を批判してきた。最近では『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)で、表紙に人名を刷って、中曽根康弘、後藤田正晴、宮澤喜一、河野洋平、小泉純一郎、小沢一郎、鳩山由紀夫のほかに、あえて奥田碩、御手洗冨士夫、小林陽太郎、北城恪太郎の四人の財界人を告発した。この商人国家路線が、いよいよここにきて破産したのである。自民も民主も同じ穴の狢である。3・11にはじまる原発事故が、日本の国家路線にNO! を突きつける警告のメッセージを発したと考えている。概略すればこうだ。
 
 一九九三年に同時成立した江沢民とクリントンの政権に脅され、絡め取られて再敗戦国家を演じつづけてきたわが国は、米中両国に屈服し、3・11で沈没しかかり、オバマの派遣した大艦隊の「トモダチ作戦」によって、権力の真空地帯を守ってもらった。東アジアに生じた権力の空洞は中国、北朝鮮、ロシアの垂涎の的である。しかも、福島原発はアメリカの危機感を別の面でも揺さぶった。
 
 アメリカのエネルギー政策の進路は、日本の原発の行方にかかっている。加えて万一、放射能が東日本を蔽い、四千万人が西へ移動するパニックが発生すればこの列島は無政府状態になり、アメリカは「臨時政府」を考えなくてはならない立場だ。かつての南ベトナムや南鮮の再来である。あの素早い大艦隊の派遣には、戦後史の記憶が宿っている。ルーピー鳩山以来、ますますアメリカからは日本がそういうレベルの国に見られているのは間違いない。
 
 しかし、私はふとこうも思う。日本は完全に堕ちるところまで堕ちるがよい。アメリカに作ってもらった「臨時政府」は、アメリカの手を借りてようやく「憲法改正」を果たすだろう。アメリカはなにしろ「トモダチ」である。嗚呼! わが国は堕ちるところまで堕ちて、悪魔のような侵略にではなく、天使のような侵略にさらされるがよい。
 
 そして、戦後もそうであったように、国柄そのものを奪われていく。戦後GHQは日本の左翼を利用して伝統文化を破壊したが、今回はオバマが民主党を利用して、TPPや外国人参政権その他を使って、わが国を再占領国家にふさわしく、中国やロシアや朝鮮半島に差し出す操り人形に仕立てあげるだろう。

つづく

脱原発こそ国家永続の道 (一)

『WiLL』7月号より

目に浮かぶ業苦の光景 

 今でも毎日のようにテレビに映る被災地の情景、木材と瓦礫と泥土に埋まった車、家、船の信じられないシーンにも、最近は少しずつ慣れてきた。そして、ふと、このなかに欠けているものがあることに気がついた。肝心かなめのものが写し出されていない。遺体だ。
 
 一度だけ、中国の新聞に出た被災地の写真をネットで目にしたことがある。民家の階段に両手を開いてあお向けに倒れている男性の遺体だった。もう一枚は、瓦礫のなかに投げ出された泥土のついたままの昭和天皇のお写真だった。どちらも、日本ではめったに写し出されることのない映像である。
 
 私たちが見ていないものを、現地の人や救助隊の人は日々、目にしているのである。平凡で和やかなはずの日常が突然破れ、口が開いた裂け目は、現地ではおそらく、私たちとは違った形で人々を直撃しつづけてきたのであろう。
 
 避難地域のテレビ報道で、悲惨な牛舎のシーンを見た。乳牛が幾頭も倒れて死んでいる光景だった。そしてパッとカメラが回った。牛舎の柵から頭を思いきり出して秣のほうに首を延ばしてそのまま死んでいる七、八頭の牛がいた。仔牛もいた。秣の山が届かなくて、必死に首を延ばして息絶えたのだろう。鼻の先に餌はまだ山をなして残っている。しかし、柵で首が届かない。見てはいけないシーンをみたように思った。業苦の光景が目に浮かんだ。
 
 人間の屍体がいたるところにある社会で、動物への残酷は看過ごされる。震災の現場は、私たちの知らない日本でありつづけている。
 
 裂け目から覗き見えたある不気味なもの、無秩序といっても混沌といってもうまく言い得ていないある空っぽで暗いもの、そのうえに私たちの文明社会が辛うじて載っかっている。土台ともいえない土台──ちょうど今度の地震で地盤沈下を起こして建物が斜めに傾いた地域があったが、文明全体があれと同じようにとても脆弱で、頼りない土台のうえに載っている。ぐらついていて、明日倒壊してもおかしくはないと実感される。裂け目から奥が見えて、ぞっと寒気もする。

どんな事故も「想定外」

 地震と津波に原発事故が重なったのはじつに因果だが、いわば一体で、切り離すことはできない。国民全部の元気がなくなっているのは、東北の犠牲者への鎮魂の思いからだけでも、放射能の広がりへの恐れからだけでも、より大型の余震や東海・東南海地震の新たな発生へのおびえからだけでもない。それらのすべてがまじった、説明のできない不安がここそこに漂っている。

 これはなぜか存在の不安、生きていること自体の不安にも似ている。

 この国の住人は永い間、裂け目の奥を覗き見ることをしないできた。ロボット大国といわれた日本の原発事故で、すぐ使える役に立つロボットがなかった。強い放射能にも耐えられるロボットは開発されていなかった。核戦争を前提としたアメリカの軍事用ロボットが初めて役に立った。いいかえれば、日本の原子力発電所は事故を前提としない事故対策をしていたにすぎない。原発の事故の現場は、核戦争の最前線と同じだという認識が頭からなかった。

 地震と津波が「想定外」の規模であったことは、誰しも認めている。しかし、非常用電源が津波で流されない仕組みやシステムを作っておかなかったのは人間の不用意であり、あらかじめ八方から注意や警告を受けていたのに対応しなかったことが「人災」だといわれるのは当然なのではあるが、私はそもそも、日本の原子力発電所は最初からどんな事故も「想定」していなかったのではないかとむしろ考えている。放射能に耐えるロボットも、セシウム除去装置も、丈の高い注水ポンプも、すべて事故が起こる前から用意されていてしかるべきではなかったか。日本は技術大国ではなかったのか。

 東電は企業だから、経費のかかることはやりたがらない。それなら、原子力安全委員会や原子力安全・保安院はあらかじめ事故を「想定」するシミュレーションを試みていただろうか。私は、罪深いのはむしろ内閣府や経済産業省と一体をなしているこれら企業に対する監視体制であったと考えている。そもそも、経済産業省は原発推進の中心勢力であった。そこに、附属機関として原子力安全・保安院がくっついているという仕組み自体が間違いではないか。

戦争も「想定外」 

 ある人の講演を聴いて知ったが、今から一年前の新聞に、福島第一原発はこれからなお二十年は運転可能であり、健全に維持できると原子力安全・保安院からいわばお墨付きを与えられていたと報じられていた。原発というのは四十年、内部が中性子を浴びつづけると圧力容器がどうしても脆くなって危うくなるものだそうで、そのあたりを厳密に審査して承認したのだろうか。
 
 世界の原子炉は、平均二十二年で廃炉になるそうである。日本でも法律で定期安全評価義務が求められていて、三十年経つと、必ず再評価が法令で義務づけられているのは良いことだが、すでに四十年経っているあの福島第一原発をすべて合格、しかも、これからなお二十年は運転可能と承認していたというのだから、いったい原子力安全・保安院はどんな審査をして、これほどの評価を与えたのだろうか。現に、メルトダウンし圧力容器に穴があいているといわれているではないか。
 
 四十年を超えている原子炉は世界では稀なケースだそうである。言っておくが、電源の置かれた位置や予備発電装置も審査の対象だったはずである。
 
 考えてみると、日本の原子力発電にとっては津波の大きさだけではなく、すべての事故が「想定外」だったのである。事故は起こらないという大前提でことは進められていたに相違ない。そして、そのことは日本の根本問題につながっている。この平然たる呑気さは原発だけの話ではないからだ。原発にとって事故は「想定外」であったと同じように、そもそも自衛隊にとって戦争は「想定外」なのではないだろうか。
 
 この国の住人が何となくうそ寒い不安を覚えているのは、日本がこのままで大丈夫なのだろうかという意識に襲われるからである。外から何かがあったら、今度の原発ショック以上のことが起こりはしないかと国民は口にこそ出さぬが、漠然と感じているのである。
 
 原発にとって、事故は「想定」してはならないものでさえあった。さもなければ、官僚機構のど真ん中にある原子力安全・保安院のこれほどの間抜けぶりは考えられない。最悪を「想定」するところから物事をはじめる、という考えがまったく育っていない。企業人だけでなく、官僚も、学者も、政治家も、文明の永遠の存続を前提とし、その裂け目から、文明が破壊された廃墟をあらゆる想像力を駆使して覗き見るということをしていない。同じように、自衛隊にとって戦争は──本当はそれが目的で存立している組織であるのに──「想定」してはならないものとして観念されているのではないだろうか。

原発建設より憲法改正を 

 アメリカやフランスは核保有国である。アメリカや中国やロシアは国土が広い。フランスや北欧は地震がない。しかも、原発を引き入れるこれらの国々では戦争は「想定外」ではない。フランスはつい最近も、リビアを空爆した。日本では、拉致被害者を武力で取り戻すことができないことを当たり前のことのように受け入れてしまっている。こういう国では、ロボット技術がいくら発達しても軍事用のロボットをつくる意識が育たないのだ。そういう国では、原発技術をいくら高めても、事故はそもそも「想定外」のままなのである。いつまで経っても、事故に対する備えの意識は本格化しないだろう。
 
 原発事故は戦争の現場と同じである。憲法九条をいつまでも抱えこんでいるこの国が、原発に先に手を着けたのが間違いである。アメリカは完全装備の核部隊を持っている。日本の自衛隊にそういう部隊はあるのだろうか。福島の現場がいよいよ軽装備の普通の作業員の手に負えなくなったら、どういうことになるのだろうか。今回の件は、戦争を忘れていた日本に襲来した戦争にほかならない。
 私は、日本の原発は作るべきではなかったと言っているのではなく、憲法を改正するのが先で、順序を間違えていなかったかと言っているのである。

つづく

「脱原発こそ国家永続の道」について(二)

 月刊言論誌の月が替わった。私は立てつづけに脱原発論を二本書いた。

 「平和主義ではない脱原発」『WiLL』8月号(6月26日発売)
 「さらば原発――原子力の『平和利用』の誤り」『正論』原発テーマの臨時増刊号(7月5日発売)

 今回は題名を次のようにもっとはっきりさせた方がよかったかもしれない。はっきりさせるなら「日本の核武装を妨げている原発」となる。そういう論旨で書いている。

 私は徹底して事実に即して語っている。空想は語っていない。日本の核武装、少くとも日本の国防の合理的強化を妨げているのは原発の存在である。このことを論証している。

 言論界は左も右も、すなわち平和主義的脱原発論も、国家主義的原発擁護論も、みな現実に即してではなく、情緒でものを言っている。日本の原発の置かれてきた国際情勢を見ていない。

 この期に及んで平和主義や国家主義に心がとらわれているようではダメであると私は言いたい。

 当「日録」では先月同様に、これから『WiLL』の7月号論文「脱原発こそ国家永続の道」を分載する。まだ読んでいない方もいるかもしれないし、すでに読んだ方はもう一度読んでいたゞきたい。

 ただし、コメントはすでに今売り出されている8月号の『WiLL』「平和主義ではない脱原発」を踏まえて、むしろこの方に力点を置いて書いていたゞけるとありがたい。これは当然議論を喚起している論文だからである。

甘い保守主義者へ

 最近の私の主な仕事をまとめておしらせする。

 『正論』7月号(6月1日に出ている)で張作霖爆殺事件をめぐって新しい研究を発表された加藤康男氏と大型対談をしている。『正論』の臨時増刊号(6月20日頃に出る)に、「仲小路彰の見たスペイン内戦から支那事変への潮流」を書いた。同じ頃に仲小路彰の新刊復刻本が三冊同時に発売される。私が解説を書いている。注意してみていただきたい。

 大震災から原発事故をへて、私は『WiLL』の5月号、6月号、7月号にこれまで立て続けに観察と見解を述べてきた。6月号論文は当日録に掲載し、7月号論文には日録で注意をうながした。

 『WiLL』8月号(6月26日発売)が昨日校了となった。私はひきつづき「平和主義ではない脱原発」を発表している。原発が日本の国防を混乱させ、国家の独立自存にマイナスに働いていることを書いた。原発がなくなると産業も成り立たない、などとまだ言っている古い保守主義者はいろいろなことをもっと知って、世界についても広い知識を持ってからものを言ってもらいたい。知らないで既成観念に閉ざされているのは愚昧と言われても仕方がない。

 私の8月号論文を読んで目が覚めたら、素直になって欲しい。原発をつづければつづけるほど、放射能の危険のことではなくて、国家の能率が下がることになる。それに原子力の研究者や技術者がどんどんいなくなっている。やりたくても原子力発電はやれない時代になっている。

 中国の風力発電が世界一なのを知っているだろうか。アメリカが世界最大級の洋上風力発電を企画し、三菱電機、伊藤忠、住友商事が次々と参画しはじめているのを知っているだろうか。日本がやらないから、日本の企業は世界に手を伸ばす。高速増殖炉と再処理工場の故障で動かない日本の原発は「ガラパゴス化」していたのである。

「最悪を想定できない『和』の社会の病理」

 『WiLL』7月号の「脱原発こそ国家永続の道」に先立って同誌6月号に私は「最悪を想定できない『和』の病理」を書いた。(これは違う題名になって掲載されているが、私の本意とする題名は表記の通りである。)

 6月号と7月号の二論文はセットとなって私の今の考えを表現しているので、6月号論文を以下に全文一括掲示する。雑誌で読み落としている方もいると思うので、二論文を併読していただきたい。

原子力安全・保安院の「未必の故意」

日本永久占領 

 震災の起こる直前に、米国務省日本部長のメア氏の沖縄に関する問題発言があった。地震と津波と原発の印象があまりにも強くて、大概の人は忘れてしまったと思うが、沖縄人は「ごまかし」と「ゆすり」が得意という彼のもの言いが侮辱発言だと騒ぎになり、米国政府が平謝りし、メア氏をあっさり更迭したので、もちろん、今さらここで何も取り上げるべきことではない。
 
 ただ、メア氏の発言のなかには「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というもう一つの問題の言葉があった。ここにアメリカの本音が漏れていて、騒ぎが大きくなるのは日本永久占領意志がばれて困るという米当局の思惑からの更迭だろう、と私は推察し、沖縄人侮辱発言のせいでは必ずしもない、と思っていた。
 
 つまりこうだ。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、いまだに日本に主権はないと考えねばならない。アメリカはここを失えば、かつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の場からいよいよ滑り落ちる。日本はいわば最後の砦である。
 
 アメリカが必死なのは当然である。ルーピー鳩山以後の日本政府の子供っぽい「反抗」にも我慢して、ぐらつく普天間にも忍耐づよく振る舞っているのは、帝国の襟度を守りたいからであるが、しかし、それが見えている日本人は、だからこそ、真の独立をめざして必死にここを突破しなければ、日本復活のシナリオは生まれてはこないのだと考える。日本の政治が三流に甘んじていてダメなのは、いまだに日本があらゆる点で主権国家であることを放棄して恥じないからに外ならない。そう考えるべきだし、私はそう考えていた──。

福島原発とリビア軍事介入 

 と、ちょうどそのとき、地震と津波が起こった。アメリカは救援に大艦隊を派遣した。「ともだち作戦」とそれを名づけた。
 
アメリカは、苦境に陥っている人や国を救助する能力のある国だということをあらためて証明した。迅速で有効な展開力と行動力は、見事ですらあった。日本人の多くが心強く思い、感謝したのは当然である。さすがアメリカだ、と。私もその一人であることを正直に申し上げる。ここに何もことさらに下心や邪心を読む必要はない。アメリカ人らしい明るさと公正さと善良さに、我々は大きく包まれる思いがした。
 
もちろん、アメリカは日本の原子力開発には他人事ならぬ関心と期待を寄せつづける理由があった。この国は軍事的な核大国であり、核技術の蓄積も日本の比ではないが、スリーマイルの事故以来、原発は後退している。ウェスティング社を日本に託して、産業政策としての原発の未来の可能性はいつに日本のこの分野の進歩にかかっているとさえ見られていた。
 
 原子力発電の新規拡大には国内に反対勢力が強く、オバマ大統領がそれでも原発を目玉政策に掲げざるを得ないのはCO2削減もあるが、原油の値上げもあって、世界各国の動向がいよいよこれから原発の増大にはずみのかかっている折も折だったからだ。アメリカもフランスも、日本の失敗は他人事ではなく気が気でなかった。中東政策にも影を落とさざるを得ない。リビアへの軍事介入は、福島の事故が起こってからそれを横目に見ての出来事だった。
 
 もとより、「ともだち作戦」は地震と津波に襲われ、呆然としたわが国の自然災害の救助に向けられたのであって、福島第一原発の事故対応は直接の目的ではなかった。が、ほぼ時を移さずして、事故はアメリカ政府の最大の関心事となった。クリントン国務長官は冷却法の提供など技術援助を惜しまぬと語ったが、廃炉を恐れた東京電力がこれを断った。アメリカは不信を募らせた。日本政府の政治意志はこの間、ほとんど存在しなかったに等しい。

事実上の無政府状態

 「政治主導」は民主党政権が成立して以来、偉そうに言われてきた言葉であるが、政治家に官僚や企業人を超える知性と現実に対する謙虚さがなければ、逆にマイナスに働いてしまう事柄である。菅政権は知的指導力もなければ謙虚さもなく、いたずらに政治家が采配を振るおうとして、結果的に東京電力の情報に振り回されたり、官僚を使いこなせなかったり、惨憺たる有り様だった。
 
 菅総理には、自分にも分からないものがあるのだという政治家の限界への認識がない。それゆえ、すぐに特別災害救済法を発令するというようなことも思いつかず、他人の力に任せるという度量もない。それでいて、結果的には政治家が自らの力でできることはほとんど何もない。原発事故に関しては、司令塔は東京電力の内にあったに等しく、官房長官は東京電力のスポークスマンにすぎなかった。しかも、失敗すると責任を他人のせいにするのがこの政権の始末の悪い処で、その最悪のケースは低レベル汚染水の海中放出の事件であった。
 
 原子力規制の基となる通称「原子炉等規制法」というのがあり、第十五条にすべての決定は政府の管理下でなされると書かれていて、この法令がすでに発令されていた。第六十四条には「危険時の措置」が示されていて、応急の措置は大臣の命令による裁可に基づくと書かれている。放射能汚染水の海中放出は「危険時の措置」に外ならない。
 
 海江田経産大臣が、東電は何でこんな危ないことをやったのか自分は知らなかった、などと後から責任逃れのようなことを言うのはまったく筋が通らない。韓国政府が日本政府に抗議したのは当然である。外務大臣はあのとき謝罪すべきであって、醜い反論をしたのはさらにおかしい。
 
 菅総理が後から閣内不統一を認めてこれから指導すると弁解したのは、外国に事実上の無政府状態を告白したようなものである。韓国が「日本政府は無能」と追い討ちをかけたのは、残念ながら正鵠を射た罵倒語であった。

日本国家消滅の可能性

 アメリカは、こうしたいきさつをすべて見ているはずである。日本の政治がもう何年も低迷し、「権力の不在」という病理現象を呈していることを知り抜いている。少し前に中国の尖閣揺さぶりがあり、ロシア大統領の北方領土訪問の威嚇があったのも、日本の政治が真空化しかけているしるしだった。民主党政権が自らの危うさに気がつかず、空威張りの政権しがみつきを継続していること自体が、極東のこの地域一帯の政治権力の空洞化の危険な徴候である。

 そういう状態で巨大な災害、地震と津波と原発事故が起こった。これをアメリカが見ればどう見えるだろうか。オバマ大統領はなぜ空母を含む大艦隊を急派し、同盟国としての援助を惜しまぬと大見得を切ったのだろうか。

 「ともだち作戦」は、もちろん友愛と同情のしるしだが、ただそれだけの目的の行動力の展開だろうか。百五十名の核特殊部隊は横田基地に待機している。ほかにも、軍人や軍属は日本の許可なしに出入りし、艦隊の移動も自由であるのは日米安保条約六条に基づく日米地位協定に由る。安保条約は発動され、緊急事態に対処しはじめているのである。

 アメリカから見れば、日本列島もアフガンもイラクも、あるいはかつてのフィリピンもベトナムも南朝鮮も、政権がしっかりしていないこと、単独で危機に対処する能力がないこと、いざとなれば米軍のてこ入れで臨時政府をつくる必要がある地域であることは同じであって、つねに国家漂流の可能性は計算されているはずである。何とも情けない話だが、日本のこの現実を今の日本政府は増幅させている。

 もちろん、そんな可能性は万に一つもないと日米ともに平常時には考えているし、福島第一原発の小休止状態──不安をはらんだままの──である四月半ば過ぎの段階においては、考慮する必要はまだないのかもしれない。しかし、アメリカが日本支援に起ち上がったあの原発事故の初期の時期には、日本という国家の突然の消滅の可能性を想定していたはずだ。そして、原発の今後の動向いかんでは、再び想定せざるを得ない場合もあり得るだろう。

 放射能放出が止まらず、冷却水の循環装置の修復も困難となった場合に、国際社会ははたして黙っているだろうか。日本は原発事故の収拾権をIAEA(国際原子力機関)に奪われ、この点に関するかぎり、国家主権を制限される羽目に陥るのではないだろうか。否、ひょっとすると我々が知らないだけで、すでにそうなっているのかもしれない。 

 『週刊文春』四月二十一日号によると、アメリカ政府は当初から東電本社の対策統合本部の近くに会議室を強引に借り受け、そこから矢継ぎ早に・進言・を下しているという。今やあらゆる原発事故のデータはワシントンへ届き、分析されている。そして、日本政府のさまざまな分野に・助言・がなされているらしい。「おともだち」の単なる支援救援を越え、日本の首相が決断すべき国家の意志決定のプロセスに事実上、介入する事態に立ち至っているようである。

 もし万が一に、四千万人の避難民が西に移動する東日本崩壊という事態になったら、日本は完全な無政府状態に陥るだろう。そのとき頼りになるのはアメリカだと考えるのは、じつはあまりにも安易である。アメリカは政治的に干渉するが、実力部隊は介入すまい。

つねに最悪を考える

 三月十六日頃の原子炉内のメルトダウンと温度急上昇によって、大量の放射能の出ることが予測され、東京が一気に危険圏内になったあのとき、アメリカ軍は八十キロ圏外に逃れ、原発の現場の作業に一人の米兵も参加しなかった。米船舶は西日本に移動し、ヘリは三沢基地に逃れた。現場に急行し、放水して危機を防いだのは周知のとおり、わが消防隊と自衛隊だった。自分の国と国民を守るのは外国人では決してない。そのことを我々は肝に銘じておかなくてはならない。

 アメリカは、日本が国家漂流の状態になることがあり得るという可能性を想定内に入れているからこそ、大部隊を派遣したのである。しかし、日本が国家喪失の状態になった後には実力を振るうが、そうなるまでは日本の混乱を冷淡に突き放して放置するだろう。自国兵の被曝の危険をできるだけ用心深く避けながら、極東の地域一帯の政治権力の喪失状態を何とかして回避したいと今も考えている。

 しかし、日本では政府も民間人もそこまで考えているだろうか。福島原発がコントロールできなくなるような最悪の事態、国家の方向舵喪失のあげくの果ての、政治だけでなく市民生活全般における恐怖のカオスの状態を念頭に置いているだろうか。

 アメリカ政府にあって日本政府にないのは、地球全体を見ている統治者の意識である。アメリカの政治家にあって日本の政治家にないのは、あらゆる条件のなかの最悪の条件を起点にして未来の計画図を立てているか否かである。つねに最悪を考えるのは、軍事的知能と結びついている。

官僚化した日本社会

 歴史書を繙くと、軍事行動に踏み切ることにいちばん慎重なのは軍人であることに気がつくことが多い。政治家とマスコミは戦争を煽る。軍人は臆病なのではなく、最悪の事態、困難な事態を一番よく知っているのである。軍事と政治を直結させないできた日本の政治的知性は不用心で、楽観的で、細心の注意で選択し、行動しないことが多い。

 そのことを典型的に表すのは、大事故に対する日頃の心の用意の質とレベルである。福島原発の事故が人災かどうかは別として、日本の社会の官僚化の欠陥が表面化したのだということは、軍事不在国の関連においてもどうしても言っておかなくてはならない点である。

 四月十日の午前中のテレビ朝日「サンデーフロントライン」の座談会で、原子力安全委員会の元委員長の肩書きの人がぺロッと口を滑らせた重要な発言があった。事故を防ぐために何から何まで想定して防止策を立てることは経費のうえからいってできない、と。

 原子力安全委員は「経費」を考える立場だろうか。これはおかしい、と東京新聞の人がそのとき釘をさしていたのに私も納得した。監視する側の人が監視される側の人と同じ立場に立ち、同じ意識でいる。馴れ合いと仲間意識が関係者同士の批判意識を鈍らせているようである。

 経産省は原子力推進勢力の一つである。その付属機関に、原子力・安全保安院があるのはおかしいのではないか。同じ仲間が、どこまで厳しく安全を守るためのチェック機能を働かせているだろうか。法律に照らして監視さえしておけばいい、事故が起こっても俺たちの責任じゃない、で日々を安易に済ませていないか。

 たとえば、聞くところによると、問題を起こした福島第一原発の一号機はアメリカのGE製、二号機はGEと東芝の共同製であった。電源設備が最初からあまりにもお粗末なつくりであったことで知られていた。ところが、これの点検やチェックは搬入後なされていない。アメリカで合格とされたものに、日本でバックチェックはあり得ないからだそうである。法の遡及は考えられない取り決めだというのである。何という実際性のない硬直した対応だろう。今日のここで起こった大事故の正体は、原子力・安全保安院の「未必の故意」ではないのか。

 東電を監視する側の官庁である経産省の高級官僚、エネルギー庁長官が今年一月、東電の顧問に天下りした人事はまさにアットオドロクタメゴロウであった(ただし、四月十六日に急遽解消された)。民主党政権になって急遽なされた人事で、自民党時代の天下りにはまだあったためらいも迷いもないストレートな決定だった。今回の原発事故からは「人災」の匂いが立ちのぼってくる。

 人間同士が対立的関係で相互監視しないシステムは日本社会の甘さの特徴でもあり、あらゆる案件に人が最悪の事態を想定して対応するという欧米風の習慣を育てない風土でもある。

事故の最大の温床

 今回、事故説明にテレビに登場したソフトな物腰の、安全と無害を国民に触れ回る東大教授の諸先生を、私は週刊誌が言うごとく「御用学者」だとからかうつもりはない。だが、東電の元社長や副社長の誰彼も、前原子力安全委員会委員長も、現委員長も、原子力安全・保安院の誰彼も、東芝、日立などメーカーのお偉いさんもことごとく東大工学部原子力工学科の出身者で、いわば「東大原子力村」、あるいは「東大原子力一家」とも名づけるべき閉鎖的相互無批判集合社会を形成していることが明らかになるにつれ、これ自体が今回の事故の最大の温床であり、誤魔化しと無為無策の土壌であったと私は判定せざるを得ない。たとえば、京大系に名にし負う反原発の俊秀がいることは知られている。私は素人で当分野に無関係の人間だが、ネットで主張を聞くかぎり、理筋の通っている人だ。同じテーブルについて互いに学問的に開かれた討議をし、甲論乙駁することが、国民の幸福と安全のためにもなるのではないかと愚考する次第である。

 ドイツの大学の人事に「同一学内招聘禁止法」(Hausberufungsverbot)という慣習法が存在する。教授資格を得た者は、母校である出身大学に就職することができない。必ず他大学に応募しなければならない。いいかえれば、老教授は自分の愛弟子を後任に選ぶことが禁じられている。それだけでなく、准教授から正教授へ昇格するときも、自分の今まで勤務していた大学でそのまま上位の地位を得るのではなく、必ず他大学に応募し、複数の候補者と論文だけでなく講義の実演を公開して、新たに「挑戦」することが義務づけられている。いうまでもなく、馴れ合いを排し、正当な競争が公正に行われるための条件を守りつづけるシステムとして、こうした慣習が確立しているのである。アメリカの大学はドイツとは相互関係が異なるので必ずしもドイツほど厳格ではないが、ハーバード大学の出身者はハーバード大学の教授にはなれない、などの不文律はあると聞く。

人間社会の暗黙の「和」

 人間社会の暗黙の「和」を信用せず、「競争」の維持を最優先させるシステムといってよい。それはまた、人間相互の悪と不信を前提とする個人主義に立脚している。個人主義は性悪説から成り立っている。原子力安全委員長が電力会社の思惑を公衆の前で平然と代弁するような、検事が弁護士になり替わってしまうような日本社会の生ぬるいいい加減さ、監督官庁の幹部が監督される企業の幹部に無警戒に天下りし、同じ大学の出身者が企業、学界、官界を独占的に牛耳り、肌暖め合ってなにごとでもツーカーと分かり合ってしまうような精神風土が、今度の大事故の背景にあったことに我々は冷静な批判のメスを入れるべきときである。

 現場に対し監督側に立つ企業の幹部や、企業を監督する原子力安全委員や原子力安全・保安院のメンバーには、万が一の事故が起こった場合には何らかの刑事罰が課せられるような法改正がなされてしかるべきではないだろうか。それでなければ、国家の根幹を揺るがすこともある原子力発電の今後の継続など、安易に口にすべきではないように思える。

 原子力の安全神話が間違っているのではなく、安全神話を担いで外からの批判を封じ、ある全体的な雰囲気をつくって仲間意識を拡大し、政治やマスコミを巻きこんでソレイケドンドンとやってきた集合意識が、問題なのである。異論は、共産党や一部左翼の議論であるとして、非理性的に排除されてきた。異論や反論を同じテーブルにつける公明正大なディスカッションの場が、これからいよいよ必要であると思う。

 日本の一般社会の空気も問題である。東京電力のような影響力の大きい企業の人事が、江戸時代の農村メンタリティで決せられていないだろうか。詳しい事情は知らないが、減点法で無難な人が出世し、批判力や指導力よりも社内に敵のいない既成の枠を守る人、創造力よりも気配りのいい保守型の人、こういう人物が出世の階段を昇り易くなっていないだろうか。

 日本は、これからはこの手の人材ではもう発展が望めないと言われて久しいのに、千年一日のごとく「和」のムードを優先させているのが政・官・財・学に共通する日本の人事の実態のように見受ける。

現実の承認と現実の否定

 もとより西欧型、米国型の「個人主義」が、すべてにわたって優位にあるとは必ずしもいえない。ただ、自然科学はそもそも欧米からきた。そこに日本の伝統技術も加算された。原子力発電は日本で進歩が著しいといわれるものの、いざ事故が起こってみると、事故対応の役に立つロボット技術ひとつ用意されていない。バケツで水を撒いたり、汚水の穴にオガクズやおしめの類を入れてみたり、子供のマンガを見させられているような滑稽なシーンがつづいた。

 さらに、昨日の危機は改善されずに今日の危機が目前にあったことも見逃せない。地震から一カ月経った四月十一日午後五時過ぎに大きな余震が起こり、津波の恐れがあったのに再び電源が切れ、建屋内への注水が途絶えた。作業員の手動による応急措置が待たれたが、たまたま津波警報で作業員は現場から離れざるを得ず約五十分、またしても一カ月前と同じ大事故の危機が生じた。

 幸い、東北電力からの電源が回復し、一同ホッとしてことなきを得たが、電源が切れたら第二、第三の予防措置を講じるという、あのとき求められていた強い要望は、あっという間に忘れられていた。津波警報が出て作業員がいなくなる、という「想定外」の出来事がまたまた起こったのである。現場はまたしてもなす術がなかったのだ。

 つねに最悪のことを考え用意する。最悪を見つづけるのは人間として勇気を要するが、それが大切だと私は本論で繰り返し書いてきた。事故に対するも、人間関係、人事や政治においても欧米社会にこの点で一日の長があることは、軍事ということを片時も忘れずにいる社会と、六十五年間これを忘れてしまった社会の差でもある。江戸時代の農村メンタリティに戻ってしまい、学者や経営者たちまでが前近代的に生きているのに、自分は最先端の技術を駆使する超近代人であると思いこんでいる錯覚が問題である。それが、今度の事故で打ちのめされたと言っていい。それはいいことである。この絶望から、この敗北感から再出発せざるを得まい。

 米国務省日本部長メア氏の「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなる」の発言に、私は冒頭で多少とも立腹した。日本の政治がこのまま三流に甘んじていてはダメだと書いた。

 日本よ立ち上がれ、のそのときの気持ちに今も変わりはないが、政治とは学者や企業人の指導力を含む概念であり、政界だけの問題ではない。口惜しくても、米軍を必要とする現実はつづいているのである。日本の再生はこの現実の承認と、さらにその先を見つめたこの現実の否定からようやくはじまるはずである。

「脱原発こそ国家永続の道」について

 原発事故から心が離れない。私は事故直後にすぐ判断した。日本の将来のことを考えて「脱原発」こそ目指すべき方向である、と。産経コラム正論(3月30日付)にも、『WiLL』6月号の拙稿「原子力安全・保安院の『未必の故意』」にもそう書いたし、4月14日のチャンネル桜の討論会では福島の学童集団疎開さえ提言した。

 福島第一原発の情勢の悪化を今も非常に心配している。狭い国土における「内部被曝」は人体におけると同様に始末に負えない。それに使用済核燃料の最終処理の見通しの立たない原発は、われわれが子孫に伝えるべき美しい国土を永久に汚辱し侵害するおそれがあると考えられる。私は「守る」とは何か、をしきりに考察した。派遣されたアメリカの大艦隊、「ともだち作戦」の真意と現実、東アジアにおける日本の陥った危ういポジションをどう考えるかも、問題として一体化している。

 こうしたすべての点を踏まえて『WiLL』7月号(5月26日発売号)に「脱原発こそ国家永続の道」(12ページ立ての評論)を発表する。ネットの読者には申し訳ないが、今のこの時点での私の考え方を集約した論考はこれになるので、ご一読たまわりたい。また5月26日より以後に、同論文へのコメントを今日のここに投稿していたゞけるとありがたい。

 事故直後から私は「脱原発」を唱え始めたと書いたが、私を取り巻く言論空間は必ずしも私と同じではなかったし、今も同じではない。あるいは無言と沈黙がつづいている。産経新聞は原発支持であり、『文藝春秋』と『正論』は態度を示さないし、『WiLL』6月号も雑誌として「脱原発」の声は上げていなかった。代りに『世界』がよく売れ、増刷に増刷を重ねていると聞く。

 事故以前にすでにあったイデオロギーの対立が事故以後に引きつづき持ち越されていることは明らかだが、資源エネルギー問題などをイデオロギーに捉えられて考えるべきではない。できるだけ感情的にならずに合理的に、クールに考察を進める必要がある。人は体験から学ぶべきものである。これほどの大事故が起こった以上、心が震えない人はおかしい。今までのいきさつに囚われていてよいかどうか、原発について漠然と抱いていた固定観念をいったん白紙に戻す謙虚さが求められている。

 けれども保守系の言論界を見る限り、歯切れが悪い。原発は現代の産業維持に不可欠の存在と思い定めていて、梃子でもそこから動かない。もとより私とて原発は明日すぐに全廃することはできず、上手に稼動させ少しづつ減らしていく以外にないと考えている。しかし原発の新規増設はいずれにしてももう望めまい。望みたくても国民が許さない。

 いろいろな「悪」がこれから白日の下に曝されるようになるだろう。お金を積んで説得した地域対策費、すでに巨額にのぼり今後さらにどれくらいの額になるかも分らない廃棄物処理コスト、政治家やマスコミにばらまかれたこれまでの反論封じ込め費――これらが次々と暴かれるであろう。また暴かれる必要がある。

 原子力安全委員会委員長に斑目という人物がいる。You Tubeで彼の発言を聞いて、その余りにあけすけな卑劣さに、私は腰を抜かさんばかりに驚き、にわかに信じられなかった。彼は廃棄物の最後の捨て場を引き受けてくれる自治体はあるのかという質問に答えて、「お金ですよ。最後はお金です。ダメといわれたら二倍にすればよい。それでもダメなら、結局はお金ですから、五倍にして、否という人はひとりもいません。」

 巨悪ということばがあるが、巨大なものはどうしてもグロテスクになる。電力会社は日本経済の高度成長を支えるうえで決定的役割を果してきたが、度が過ぎると、自己抑制のコントロールを失う。台所の「オール電化」の叫び声がわが家の戸口にも襲来し、東京ガスを一気に追い払おうとしていた。東京電力のキャンペーンのしつこさは事故のほんの少し前まであった目立つ出来事だった。すべてはやり過ぎなのである。原子力発電が無限の利益もたらすという幻想に今度歯止めがかかったのは良いことだった。

 国民は健全な常識があり、賢明である。おかしいのはいつの時代にも知識人である。昔は左の知識人が常識を踏み外していたが、今はどうであろう。保守系の知識人や言論紙が少しおかしいのではないか。今日(5月20日)の産経の社説は、いま徹底的に批判されるべき(東電以上に批判されてしかるべき)原子力安全・保安院をしきりに擁護しているのには驚いた。

 菅総理を批判するのは今は誰にでも簡単にできる。民主党がダメなことは今では高校生でも弁じることができる。中国の悪口ももうそろそろ底をついた。こういう方向のこと、安易なことだけを元気よく語りつづけてきた有名な誰彼の教授、評論家、女性ジャーナリスト諸氏をみていると、原発の是非についてはなぜか固く口を噤んでいるのがかえって異様で、目立つのである。

 保守の論客たちは心を閉ざしている。何かに怯えて見て見ない振りをしている。原発事故の大きな悲劇と不安に対し、人間としての素直で自然な感情で対応しようとしていない。私は過日ソフトバンクの孫正義社長の講演をUstreamで聴いたが、さすが噂にきく大きな人物だけのことはある。真剣に考えていることはすぐ分った。国民の一人として心が震えていた。私は孫という人をこれまで誤解していた。皆さんもぜひ講演を聴いてご覧なさい。

 名だたる保守系知識人、名誉教授や有名な論客がたまたま一堂に会したシンポジウムがあったそうで、四月の末か五月の初めらしいが、「原発は必要だ、一度ぐらいの失敗でオタオタしてはいけない」の大合唱になり、会場で聴いていた人から私に連絡があった。「先生、僕は保守派が嫌いになりました。まるっきり反省がないんです。有名なK先生が、国鉄に事故ひとつない日本の技術をもってすれば、原発の事故なんて今後起こらない!事故が現に起こっているのにそう言うんですよ。」

 日本の技術が秀れているのは確かだが、国鉄にできて原発にできるとは限らないのは、当「日録」の粕谷哲夫さんのゲストエッセー(5月12日)を一読いたゞきたい。また、私の4月22日付日録に付せられた21番目のコメントをお読みいただきたい。原発技術はアメリカ直輸入で、国鉄などとはいかに違うかを考えさせてくれる秀れた内容のコメントだった。

 日本の技術は世界一だというのはひとつの「観念」である。この観念が成立するまでには力量と人格と哲学を具えた技術者たちの戦いの現実がある。日本の原子力発電にそれがあったかどうかが今後問われるだろう。

 保守系知識人は「観念」をう呑みにし、背後の「現実」を見ていない。知識人は左右を問わず、いつもそうである。「現実」から目をそむけて「観念」でものを言う。

 何も勉強しないで原発は絶対に欠かせないときめこんでいるとか、東電叩きは歪んでいる(東谷暁氏)とか、原子力保安院は一生懸命やっているとか、津波対策だけすればよく地震は心配ない(中曽根康弘氏)とか、最近のこういう声に私は思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じているということを申し添えておく。

 反原発を主張する『世界』掲載の論文や小出裕章氏とか広瀬隆氏とかの所論はどれも力をこめて何年にもわたり原発否定の科学的根拠を提示しつづけて来た人々の努力の結晶なので、その内容には説得力があり、事故が起こってしまった今、なにびとも簡単に反論できないリアリティがある。例えば教授ポストを捨てて生涯を危険の警告に生きた小出氏などは、話し方にもパトスがあり、人生に謙虚で真実味があり、原子力安全・保安院長のあの人格のお粗末ぶりとは違って、説得力にも雲泥の差があるともいえるだろう。

 けれども一つだけ総じて反対派に共通していえるのは、大抵みな「平和主義者」だということである。彼らが軍事ということをどう考えているのかが分らない。ここが問題である。

 福島第一原発の事故の現場について誰も言っていないことは、核戦争の最前線に近いということである。ロボット大国のはずの日本製ロボットは役に立たず、アメリカの戦場用ロボットが初めて実用に耐えたことをどう考えるべきなのか。保守系言論人は、ここに着目すべきなのである。日本の技術は世界一だから一回くらいの事故でオタオタするな、などと空威張りするのではなく、世界一の技術がなぜ敗退したのか、そこから考えるべきである。武器輸出ひとつできない「平和病」の状態で、原発を世界に売る産業政策を口にするのはそもそも間違っていたのではないのか。

 私の「脱原発は国家永続の道」はこの矛盾の轍の中に飛び込んだ論考である。5月26日の『WiLL』7月号をお読みいただきたい。そして、コメントはここに記して下さい。

追記 『WiLL』6月号の拙論の題名「原子力安全・保安院の『未必の故意』は、私がつけた本来の題は「最悪を想定しない『和』の社会の病理」でした。花田編集長は今回は珍しく、題名をひねって取り替えたのは自分の失敗だった、と反省していました。

チャンネル桜の感想  2011年4月25日

 粕谷哲夫氏は私の大学時代の友人で、元住友商事理事。原発事故で考えること多いらしく、いろいろな情報を持ってきてくれるし、電話で長談義も惜しまない。年老いても自分の心で反応しているし、体で受け止めている。イデオロギーからはもっとも遠い。人間としての本源にかえって考えている。私は彼の情報と発見から教えられことが多い。
 
 以下は、4月14日の私も参加したチャンネル桜での討論会に対する彼の感想である。

ゲストエッセイ 

  

粕谷哲夫

 座談会は多様な内容が含まれていてたいへんよかったと思う。そこで議論された個別の問題の感想ではなく、全体的な感想である。

 御用学者の巣としていま東大工学部は評判が悪いが、東大工学部にも立派な人はいる。機械学科を卒業して、国鉄始まって以来の100点満点で入社試験に合格したという伝説的な逸材、山之内秀一郎(JR東日本会長)を思い出したからである。事故の発生を防ぐという強靭な信念の持ち主で、国鉄で事故の撲滅に没頭された。すでに故人となられてしまった。同世代の山之内秀一郎ご自身からお聞きしたお話が、今回の討論を聞いていて浮かんできた。 私はJR に「安全」という文化があるとすれば、この彼のエンジニアリング哲学に負うところ少なくないと思っている。新幹線に開業以来、事故らしい事故が無いのは、偶然ではない。

 山之内秀一郎は、国鉄において事故が如何に発生するかの解明に執念を燃やした。それまでに発生した国鉄の事故のすべてを洗い出し、それらを分析し、分類し徹底的に調査した。彼は改善のために事故を愛したとさえいえるほどに執拗に事故事例を追い求めた。事故を起こした運転手や作業員を処罰するより、まず状況の聴取に努めたのである。その一つ一つに対応してつくられた、的確な対策がこんにちのJR 安全文化の基礎をなしているという。彼にとっては既知の事故の再発は、技術者として許されないという強い信念があったものと思われる。

 山之内は JR の後に、宇宙開発事業団に移籍した。衛星打ち上げの失敗が続いていて、宇宙事業団の体質改善は急務であった。山之内をおいて適任者はないという政治判断があった。宇宙開発そのものは、原発と違っていわば緊急性はない。なくてすぐに困るというものではない。そして、打ち上げに失敗すれば何百億円規模の巨額の資金が吹っ飛んでしまう。「山之内で失敗したら宇宙開発は、国家として断念せざるを得ない」というような最後通牒が突き付けられていたように思われる。とはいえ宇宙事業団内部には既に、衛星に関わる百戦錬磨の専門家が多数おり、いくら優秀であろうと外様の機械学科出身の占領軍のような位置づけの山之内に対する抵抗は根強くあって当然である。またもっと大事なことは、事業団には、山之内から見れば緊張感を欠く雰囲気があったようである。

 「衛星打ち上げの失敗はどこの国にでもある。これだけ努力して失敗したからといっていちいちとがめられてはやっていけない」という雰囲気であろう。この雰囲気を克服して、新しい安全文化を短期間で定着させるなどということは、山之内にしても至難の業であった。

 彼が着任して、初めての衛星打ち上げが行われることになった。その予定時間の天候には若干の不安があった。これで失敗すれば、一巻の終りという差し迫った状況であった。いくべきか立ち止まるべきか、ハムレットの心境である。山之内にはまだ衛星について十分な知見も体験もない。しかし誰かが決断しなければならない。究極の決断は責任者である山之内にある。すべての準備は終わっている。中止して再び立ち上げるには時間もカネもかかる。大多数の技術者は予定通りの打ち上げ発射を主張した。彼らには彼らなりの自身とプライドがあった。山之内は何人かの信頼できる部下をまねいて、個別に耳を傾けた。熟慮の結果、打ち上げの延期を決断した。苦渋の選択である。積極派からはブーイングである。発射の決断をしていたからといって、かならず失敗したということではない。成功していたかもしれない。しかし山之内が決断に至る苦悩のプロセスが全員に感動を呼んだのである。彼の信頼は高まった。以来事故らしい事故はない。

 討論を聞いていてもそうであるが、どうも原発推進の東電や通産省の要人に山之内のような信頼や醸成された良質の企業文化が欠落しているように思われてならない。いまでも東電で褒められるのは、現場の従業員や作業員で、東電の貴族的な幹部や安全工学的な素養を欠くように見える保安院ではない。原発のような巨大なリスクを背負う、超大型の複雑系のマンモス工業運営は、テクノロジーそのものももちろん大事だが、それ以上に大事なのは山之内流の企業文化である。どの優れた企業にも、その文化の創造には節々に、山之内秀一郎のような立派な人物が必ず存在する(入交昭一郎から聞いたホンダの本田宗一郎の詳細な分析も忘れることはできない)。

 山之内秀一郎は、野球の監督の思考パターンで言うと、長嶋茂雄型というより野村克也型である。野村の名言に、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがある。含蓄のある言葉である。

 この野村的なペシミズムは 避けて通れない。懐疑、不安、おそれ(恐れ ときに 畏れ)があって初めて安全の門が開けるのである。原発推進を唱導する地位ある人々には、こういうものが、ほとんど感じられない。「原子力発電こそが輝ける未来のエネルギーだ」「安全は何重にも保証されている」という安全神話と無謬信仰に浸っている。そしてマニュアルをきちんと書けば、すべてうまくいくという認識のようである。万一事故が起これば計量不能な天文学的、あるいは国家破滅につながりかねない巨大リスクを背負うには、それなりの哲学と技量と人間力が必要であるとおもう。

 山之内秀一郎にせよ、本田宗一郎にせよ、対象である電車も列車も自動車も隅から隅まで熟知している。故障があれば自分で治せるし、現場の諸問題にも精通している。原発に関する意思決定、政策決定をする殿上人にはそういうものはない。

 地震学者や原子炉設計者の警告を殿上人たちは寄せ付けなかった。 山之内秀一郎や本田宗一郎が東電にいたら、どうだったであろうか。たぶん原発反対者の意見や警告を渋々ではなく、積極的に自ら求めて聴いたのではないか。

 注目すべきは、原子炉設計者に原発反対者が多いことである。彼らが気付いた問題点に電力会社は耳を傾けないどころか、彼らを近づけることはなかった。

 さらに無視できないたいへん不幸なことは、日本の原子力の問題には多くの場合、イデオロギーがからむということである。原発反対の勢力は、「アメリカの核は汚い核、中ソの核はきれいな核」と恥もなく言いふらした。これに対抗するために、政府や電力会社は、原発の安全神話をつくりあげた。そして西尾幹二も私もそれを信用した。積極派はイデオロギーから自由な反対論者をもブランドを付けて抹殺していった。抹殺と言えば、福島県知事だった佐藤栄佐久はいみじくも『知事抹殺』という本を書いた。討論で出された前田氏の「プルト君」も推進者側の必死の努力の証しでもあった。

 私は福島第一原発事故発生以来、動画を中心とするネット情報の収集に没頭している。ヒロシマの原爆投下の翌朝の新聞を防空壕の中で読んだ経験もあり、翌年には地方の文化講演会で、日本原子力の父といわれる仁科芳男博士の講演を聞きもした。しかしいま新たに全く新しいことを知るに至り、無知を恥じるばかりである。

 とはいえ原発反対論者の言うことにも若干わからないことがある。「ヒロシマは、これからは50年間は草木も生えず人も住めない」、と言われたものである。これにたいしてヒロシマに使われたウランの総量は、福島第一とはケタが違う、キロとトンの違いと聞いて納得した。また、冷戦時代には大気中の原爆実験が行われて、膨大な量の放射能が観測されたという。しからばその影響はどうであったのか? については説明がない。イギリスのセラフィールドの使用済み核燃料の処理工場ではかなりの期間、汚染された水を海に流していたそうだが、アイルランドは具体的にどのような被害を被ったのか? 被ったとすれば、水俣病と比較するとどうなのか? 解説はない。

 原発を推進するにせよしないにせよ、 原発と放射能被害にはいまでも捏造と隠蔽が跋扈している(こういうことは日本だけでなく、どこにもあるものである)。賛否両陣営がひとつずつ論点を潰していくことが出来ないものだろうか?

 世論の流れは明らかである。この事故は 「社民党を利する」 こと間違いなく、民主党や保守系には大きな打撃となるだろうと、公言してはばからなかった。今朝テレビで ”No more atomic anything.” の 反原発デモが映っていた。案の定、人口80万を超える世田谷区の区長選挙は、原発反対を軸に据えた社民党が勝利した。これは私の「社民党を利する」 の想定境界線をはるかに越えるものであった。選挙の背景には複雑な事情があったものの、「想定外」の大激震であったことは間違いない。

最近の感想

ゲストエッセイ 
坦々塾事務局長 大石朋子

今年は地震の恐怖のせいか、何時もより暑くなるのが早いような気がします。
団扇と扇子が手放せない夏になりそうですね。

私は、日本人が電気を使わなければならないような生活パターンになって行く道を進んできたように思います。
進んできたと言うより、進まされて来たという方が正しいのかもしれません。

この道を進む限りは、資源の無い日本において原発は必要なのでしょうが、江戸時代に戻るのではなく、進む方向を少し変えれば、考え方を少し変えれば、西洋に全て学ばなければならない訳ではないと、今一度考え直す良い機会なのかもしれません。

例えば「はめ殺し窓」。
外の空気を取り入れることなど考えずに設計されているので、常にエアコンを使う以外に空調・温度調節をすることが出来ない。
電気が無くなるということを考えていないからです。
最近のオフィスはこのような窓が多く見受けられます。

最近建てられたマンションも同じように、窓を開放するという考え方をしないので、風通しという発想が起きないのでしょう。
この夏、本当の停電が起きたとき、どうするのでしょう・・・と他人事ですが・・・心配してしまいます。

扉を開けるという動作を省くため、自動ドア、オートロック。
停電の際、扉が開かなくて困ったという話しも聞きました。

嘗て、身体障害者のために作られた「電動歯ブラシ」も些細な量ですが、電気を無駄に使います。
歯磨きしながらボーっと考え事をするのは、私は好きです。

現代の人々は、少しのことを我慢できずに全て電気に頼るのです。

節電の為に【トイレの便座の温度は低めに】とACだったか・・・TVで流れていました。
馬鹿言ってんじゃない!
冷たいのが嫌なら便座カバーを使え!
と、テレビに向かって騒いでいました。

話しが逸れますが、洋式便座のない頃は、多分足腰の弱いご老人は少なかったのではないのかと思います。
何故なら、毎回気付かないうちに、ストレッチ運動をしていたからです。

そんな理由で、少子化問題も起きているかもしれません。
体力が無い、お産が重い。
エレベーターに頼る。足腰が弱る。
こうなると、鶏が先か卵が先かの堂々巡りになります。

全て電気に頼ってきた「つけ」なのだと思います。

今回の震災は貞観津波から千年以上。
歴史を学び、常に備えていれば今回のようなことにはならなかったはず。
山の上には「ここより下に家を建てぬよう」忠告が書かれていたと知りました。

同じ平安時代の清原元輔でさえ、貞観津波は(過去にあった)万が一のような表現として「末の松山波越さじ」という言葉で表しています。高だか百年位前の出来事でさえ、恋の歌の言葉として使われているのが、過去に学ばずにいる例でしょうと思います。

この先、日本という国が続く限りこのまま電気に頼り続ける生活をするということは、原発の増設が続くということなのではないかと、不安になります。

原子爆弾を作るのにプルトニウムが8kg必要だと聞いたことがあります。
現在、どれだけのプルトニウムがあるのでしょうか?

私の記憶では、九段下会議の頃のことですので、現在の正確な数字は知りませんが、英仏の再処理施設には約38tのプルトニウムがあったそうです。その頃の日本には、5.9tあったそうです。
そこで心配していたことが「テロ」でした。
今回、先生も仰っていたことと同じ事を考えていました。
ですから、アメリカはじめ諸外国は、日本が核弾頭を持つことに危機感を持っていた。そんなことだと思います。
日本の再処理施設は常にIAEAの監視下にあったと聞いたことがありました。

2006年。米・ワイオミング州の核ミサイル基地のミニットマンⅢ型ミサイルは分散配置(多分テロを警戒してだと思います)されていると聞きました。
面積は「日本の四国」くらいの面積だそうです。
核、原子力を持つということは、そのくらいのリスクと広大な土地が必要なので、直ぐ傍に民家がある、食料を育てる畑や牧畜業がある、ということ自体がおかしいのではないかと思います。

面積の少ない日本。
冷却するための大河の無い日本は、海岸に水を求めて建設しますが、海岸には大河と異なり津波が起こる可能性がある。
それを考えずに設計したことも今回の震災に繋がったわけで、施設だけを真似しても環境が違えば、それなりの備えが必要になることを考えなかった。そこで大きな事故に繋がった。そんなことだと思います。

私は中学二年の夏休みに「(旧ソビエト連邦の)サターン5型の脅威」という自由研究をしました。
その頃から無防備な日本を憂いていました。
その後80年代に入り、ソ連は中距離弾道ミサイルSS20を西ドイツに向けて、西ドイツのコール首相は国民の反対を押し切って、アメリカの核ミサイル(パーシングⅡGCLM)を配置したそうです。記憶に間違いが無ければですが。

武器としての核を持つことは、私個人は賛成です。
何故なら、周辺に話しをしても無駄な国が、我が国に向けて核ミサイルを設置しているからです。
核を持つということは、核の抑止力になると思うからです。

ただ、楽な生活のみを求めて、増大する消費電力の為だけに原子力を使い、無尽蔵に原発を増設することには絶対反対です。

震災復興のための「国債」のことですが、坦々塾のブログに今年の一月十四日にアップしました「箪笥預金よりも」
http://tantanjuku.seesaa.net/article/180436010.htmlの無記名債券が、特に今の時点では最良ではないかと私は考えています。

歴史に学び、先を読み、常に備えよ。
毎日、そう考えて行動しているつもりです。

蚊取り線香は「ベープ電気蚊取り」だと電気や電池を使うので、
多分ですが・・・今年の夏は「キンチョーの蚊取り線香」(渦巻きのです)が売れるような気がします。(笑)

夏に向けて、「すだれ」の準備と「蔓もの」の種を蒔きました。

大石