阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十二回)

阿由葉秀峰 坦々塾会員

(2-1)確かなものはなに一つないという懐疑のただ中でこそ、人は確固とした信念に、瞬間の生命を賭けうるのである。認識と行動との間にはつねに紙一重の差しかない。人は自分を疑いつつ、自分を信ずるしかない。そして、その瞬間を信じた行為だけが言葉となる。

(2-2)言葉は、事実を事実どおりに指し示すのに少しも便利なようには作られていない

(2-3)歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。

(2-4)専門の研究家はたいてい視点ということを重視するが、視点の卓抜などというものは、時代が変われば、すぐ滅びる。

(2-5)批評とはまず対象を壊すことだが、対象は消えた、しかし自分は何かの立場に立って対象を壊しているのではないか、と気がついたときに、今度は自分のその立場をも壊さずにはいられないのが強い批評精神の必然的に赴かざるを得ぬ方向だろう。はげしい否定の精神は一切を消す。自分の拠り所をも消す。そのとき批評ははじめてクリティック(危険)なものとなる。まず、なによりも、自分にとって危険なものとなる。

出展 全集第2巻「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-1) P20 下段 「アフォリズムの美学」より
(2-2) P25 上段 「アフォリズムの美学」より
(2-3) P36 下段 「小林秀雄」より
(2-4) P46 上段 「小林秀雄」より
(2-5) P47 下段 「小林秀雄」より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(8-26)日本では落第が恥しいのは、日本の社会がドイツより階層差も少なく平等だからである。能力の判定が人格の判断にまで関わってくる。

(8-27)革命を経験しなかったドイツは、近代史において立遅れ、未熟と後進性に悩みつづけた。しかし歴史を多少振返ってみると皮肉な進行に気がつく。教育や学問は奇妙なことに、かえって国家による近代的な支配と制縛から解放された自由を享受しつづけることが可能になった。……中略……19世紀のドイツでは、大学こそ自由で、無拘束で、「真理のための真理」を追究し得る貴族主義的な精神の王国であった。

(8-28)彼ら(ドイツ人、村山注)
はいい意味で教育の限界を知っている。教育に対するペシミズムを持っている。教育によってなにもかもを善くしようとするような思い込みがない。適当にずぼらで、大雑把である。

(8-29)しかし個としての、実存としての私は、平均的な処理全体に抵抗せずにはいられない。高い学問を求める人間がすべて権力志向、功利主義的志向であるとは限らないからだ。

(8-30)世の中が豊かになって、例外的人間は殖えている。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-26) p114 下段より 日本の教育 ドイツの教育
(8-27) P116 上段より
(8-28) P122 下段より
(8-29) P124 上段より
(8-30) P124 下段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十九回)

(8-21)予定通りうまく行くと思った合理的プランが裏切られる例は、人類の歴史に無数にある。マルクスは経済的不平等さえ取り除けば、人間は平等になると考えたが、経済的不平等がなくなると、人間はかえって新しい別の「人間分類」の欲求を抱き始めるものらしい。

(8-22)人間は自分で自分を教育する以外にない、・・・教えが誤っていようが正しかろうが、どのみちたいして影響はなく、他人の授ける教育とは関係のないところで、人間は教育され、成人として行くという意味でもある。

(8-23)知識や技術を超えたもの、すなわち教育家が最も教えたがっている人生の主要問題が、どこそこの学校の何々先生の教えといったきわめて偶然に与えられるものによって左右されるのだとしたら、これはかえって困ったことだと言えはしまいか。

(8-24)教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援(だす)けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。

(8-25)落第してもこの国では人生の決定的ダメージにはならない……(中略)ドイツの社会は多様性に富む。学者の国であると同時に職人の国でもある。能力を発揮する可能性はいろいろあるのである。

出展 全集第8巻 教育文明論 
(8-21) P50 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-22) p94 上段より 日本の教育ドイツの教育
(8-23) p94 下段より
(8-24) p94 下段より
(8-25) P114 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十八回)

(8-16)自由と平等の理念を謳ったフランス革命の国が、このように「身分社会」を温存させ、しかも近年格差をいっそう際立たせているという新しい事態の出現は、じつに奇異と言わねばなるまい。これはひょっとしたら改革を必要とするフランスの恥部かもしれない。

(8-17)西ドイツは「職人」の国である。完備された職業教育には定評がある。一番低い学歴の持ち主の者にも、未来は袋小路に閉ざされていない。

(8-18)たかが入試などという、子供世界の行事の中に選抜の儀式を封じ込めて、実社会では露骨な淘汰を表立てて行わないという現行のシステムは、日本人の体質に合っているのだという考え方も成り立つのである。 だいたい不明朗で、曖昧であることが美徳にみえる奇妙な国民である。

(8-19)学校の外での露骨な淘汰を避けるために、18歳での一発勝負を、ある程度止むを得ない必要悪として承認している・・。(中略)・・・たまたまそのとき失敗し、選に漏れてしまった人間が、あと一生怨念を抱えて生きていくのは不健全きわまりない。

(8-20)評価する方も、される方も、正面切って、自分自身の責任で、相手を評価する、あるいは相手から評価される、という用意が欠けている。(のが日本の場合:村山注)

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-16) P37 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-17) P39 下段より
(8-18) P43 下段より
(8-19) P45p46段より
(8-20) P47 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十七回)

(8-11)人間は貴重な閑雅や無為を愉しみつつ、ゆっくり成熟の時刻(とき)を待たなけれならない。

(8-12)ニーチェが『善悪の彼岸』の中で、「勤勉は宗教的な本能を破壊する」と書いたとき、ブルクハルトはこれに共感を表明した。

(8-13)私は教育をなにかのための手段とは見ない、能率や効果から解放された、理想的な状態のもとに認めたいという欲求を一方では持っている。けれども、そんなことをすれば、日本のような後進国はたぶん近代化から取り残されたであろう、とも他方では考える。

(8-14)けれども、日本は教育によって社会主義革命にも近いような階級の分解作業をなし遂げて来た国でもある、と私は考えている。

(8-15)しかしイギリスでは労働者階級の子弟は高い教育を受けることを必ずしも望まないし、親も決してそれを好まないのだ。高い教育を受けた結果、彼らの思考方法や生活の理想が中流階級的になって、家庭の内部で親兄弟との違和感を惹き起こすなど、同族集団の中に断絶と変化が起こるのを恐れるからである。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-11) P32 上段より  「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-12) P32 下段より
(8-13) P33 下段より
(8-14) P34 上段より
(8-15) P36 下段より