言語を磨く文学部を重視せよ

産經新聞9月10日正論欄より

 自国の歴史を漢字漢文で綴(つづ)っていた朝鮮半島の人々が戦後、漢字を捨て、学校教育の現場からも漢字を追放したと聞く。住人は自国の歴史が原文で読めないわけだ。

 私はそのことが文化的に致命傷だと憂慮しているが、それなら今の日本人は自国の歴史の原文を簡単に読めるだろうか。漢文も古文も十分に教育されていない今の日本人も、同様に歴史から見放されていないか。

 ≪≪≪ 未来危うくする文科省の通達 ≫≫≫

 学者の概説を通じて間接的に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原点に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。

 聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が第3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。

 古代と近代に日本列島は二つの巨大文明に襲われた。二つの憲法はその二つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鏡とし、それに寄り添わせたのではなく、それを契機にわが国が独自性を発揮したのである。しかしいずれにせよ大文明の鏡がなければ生まれなかった。今の日本の困難は自分の外にいかなる鏡も見いだせないことにある。米国は臨時に鏡の役を果たしたが、その期限は尽きた。

 はっきり見つめておきたいが、今の我が国は鏡を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機も見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない。

 そう思ったとき、自国の言語と歴史への研鑚(けんさん)、とりわけ教育の現場でのその錬磨が何にもまして民族の生存にかかわる重大事であることは、否応(いやおう)なく認識されるはずである。ところが現実はどうなっているのか。

 文部科学省は6月8日、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を各国立大学長などに出した。冒頭で「人文社会系学部・大学院については(中略)組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換を積極的に取り組むように努めることとする」とあり、現にその方向の改廃が着手されていると聞く。先に教育課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアーツの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。

 ≪≪≪ 国家の運命を動かした文学者≫≫≫

 文学部は哲学・史学・文学を中心に据え、西欧の大学が神学を主軸とするように(ドイツでは今でも「哲学部」という)、言語教育を基本に置く。文学部が昔は大学の精神のいわば扇の要だった。

 言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言語の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。

 ことにわが国では政治危機に当たって先導的役割を果たしてきたのは文学者だった。ベルリンの壁を越える逃亡者の事実を最初に報告したのは竹山道雄(独文学)であり、北朝鮮の核開発の事実をつげたのは村松剛(仏文学)だった。その他、小林秀雄(仏文学)、田中美知太郎(西洋古典学)、福田恆存(英文学)、江藤淳(英文学)など、国家の運命を動かす重大な言葉を残した危機の思想家が、みな文学者だということは偶然だろうか。

 ≪≪≪訴える言葉を失ったデザイン≫≫≫

 本欄の執筆者の渡部昇一(英語学)、小堀桂一郎(独文学)、長谷川三千子(哲学)各氏もこの流れにある。言葉の学問に携わる人間は右顧左眄せず、時局を論じても人間存在そのものの内部から声を発している。

 人文系学問と危機の思想の関係は戦前においても同様で、大川周明(印度哲学)、平泉澄(国史)、山田孝雄(国語学)、和辻哲郎(倫理学)、仲小路彰(西洋哲学)などを挙げれば、文科省の今回の「通知」が将来、いかに我が国の知性を凡庸化せしめ、自らの歴史の内部からの自己決定権を奪う、無気力な平板化への屈服をもたらすことが予想される。

 今のことと直接関係はないが、オリンピックの新国立競技場とエンブレムの二つ続いた白紙撤回は、組織運営問題以上の不安を国民に与えている。基本には二つのデザインに共通する無国籍性がある。北京オリンピックのエンブレムが印璽をデザインして民族性を自然に出しているのに、今度の失敗した二つのデザインには一目見ても今の日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さが露呈している。

 大切なのは言語である。自国の歴史を読めなくしている文明ではデザインにおいても訴える言葉が欠けている。

西尾幹二講演会のご案内

全集第12回配本「自由の悲劇」刊行記念
                
西尾幹二講演会のご案内

  全22巻の西尾幹二全集も 第12回配本の「自由の悲劇」を以て折り返し点をすぎました。
  それを記念して、下記のとおり講演会を開催いたします。

                           記
 
1 演 題: 「昭和のダイナミズム」
-歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか-

拙著『江戸のダイナミズム』を前提に、江戸時代に熟成した日本の言語文化は明治・ 大正期に西洋からの影響で一時的にぐらつき、昭和期に入って反転し、偉大なる「昭和のダイナミズム」を形成した。ここでいう「昭和」は戦前と戦後をひとつながりとみる。
戦争に向けて「昭和文化」は高揚し、世界に対し視野を広げ、戦後も二、三十年間 はその余熱がつづいた。明治維新も敗戦も切れ目とは考えない。歴史は連続している。
興隆と衰亡の区別があるのみで、歴史は維新や敗戦で中断されて姿を変えたと考えるのは間違いである。  西尾幹二

 
2 日 時: 9月26日(土) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                    (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

3 会 場: ホテル グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

4 入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

5 懇親会: 午後5時~午後7時 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円
         講演終了後、講師を囲んでの懇親会を行います。どなたでもご参加いただけます。
(事前予約は不要です。初参加、大歓迎です。 )

6 お問い合わせ: 国書刊行会 (営業部)
             電話 03-5970-7421 FAX 03-5970-7427
             E-mail: sales@kokusho.co.jp

  主 催: 国書刊行会    後援: 西尾幹二坦々塾

新刊『維新の源流としての水戸学』(一)

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宮崎正弘氏の国際ニュース早読み4644号より

松陰も西郷も水戸学に激甚な影響を受けて奔った
  幕末日本を激震に導いた水戸学の根幹に何があったのか?

  ♪
西尾幹二『維新の源流としての水戸学』(徳間書店)
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 GHQ焚書図書開封シリーズ第十一巻は「水戸学」である。このシリーズの目的は米占領軍の日本人洗脳工作の一環として行われた重要文献の焚書本を探し当て、時代的背景の考察や、諸作の根源的なエネルギーに光を当てる地道な作業だが、この文脈から、本巻は水戸学へアプローチする。
 しかし過去のシリーズとはやや趣を異にして、これは「水戸学の入門書」を兼ねる、西尾幹二氏の解説書になっている。
 徳川御三家でありながら、尊皇攘夷思想の源流となって幕末維新を思想的に領導し、結果的に徳川幕府を倒すことになった、その歴史のアイロニーを秘めるのも水戸学である。
 「幕府は水戸学という爆弾を抱えた政権だった」(165p)。
 吉田松陰は水戸へ遊学し、会沢正志齋のもとに足繁く通った。松陰は水戸学を通じて、日本史を発見し、先師・山鹿素行をこえる何ものかを身につけた。兵法、孫子、孔孟と松陰がそれまでに学んだことに重ねてかれは万世一系の日本の歴史に開眼する。
 西郷隆盛は水戸学の巨匠・藤田東湖に学び、また横井小楠は、藤田を絶賛した。維新回転の原動力は、こうして水戸学の学者・論客と志士たちの交流を通して始まり、桜田門外の変へまっしぐらに突き進んでいく。
 吉田松陰の斬首は「長州をして反徳川に走らせる決定打」となった。西郷は命を捨てても国に尽くす信念をえた。
 その水戸学である。
 前期、中期、後期とわかれる水戸学はそれぞれの時代で中味が異なっている。
 前期水戸学の大きなテーマは「南朝の是認」であり、北畠親房の「神皇正統記」と同じく南朝が正統とみる。しかしながら前期水戸学は「天皇のご存在をものすごく尊重しておきながら、神話は排するという点でどこかシナ的です」。
 水戸光圀は、ほかにも独自の解釈で『大日本史』の編纂を命じた。

 後期水戸学には国学の風が流れ込む。
 その前に中期水戸学は藤田幽谷が引き継ぎ、この古着屋の息子が水戸藩では大学者となった。身分差別を超越した、新しいシステムが水戸では作動していた。幽谷の異例の出世に嫉妬した反対派の暗躍が敗退し、後年の天狗党の悲劇に繋がる。
 そして「後期水戸学」の特色は国際環境の変化によって「歴史をもっと違う見方で見るようになってくる。欧米という先進世界と戦わなければならない状態になって」、国防が重視されるという特徴が濃厚にでてくるのである。
 それでいて水戸学には儒学を基礎として仏教を排斥するとマイナスの要素があった。
 「非常に早い時期から「脱神話世界」を掲げたのが儒教の歴史観」(107p)だったから、初期水戸学は「脱神話」であるのに、後期水戸学は「神話的歴史観に近づいていく。思想が変わってきた」わけで「『古事記』『日本書紀』を認め、日本のありかたを単純な合理主義では考えなくなっていく」のである。
 そこで西尾氏は藤田東湖の父親、藤田幽谷の再評価を試みる。
 それも国際的パースペクティブから「モーツアルトと同時代人」であり、かれは十八にして藩主に見いだされたうえ、藩校を率いた大学者、立原翠軒と対立していく。これがやがて天狗党の乱という血なまぐさい事件へつながり、凄絶な内ゲバの結果、尊皇攘夷の魁となった水戸藩から人材が払底してしまうのだ。
藤田幽谷は家康を神君とは認めず、『当時の儒学者の「多くは支那と日本との国体を判別する力に乏しかった」がために立原は、幽谷との対決の道に陥った。
 幽谷の息子の藤田東湖は「なんと十年かけて『弘道館記述義』」を完成されているが、これは『儒教と神道が一つになっていることがわかります。しかも、この『弘道館記述義』は、GHQの焚書図書の対象とはならず、翻訳まででた。
 したがって奇妙なことに「国学のひとたちは儒仏思想を排斥しましたが、水戸学は仏教を排斥したものの、儒教は排斥するどころか、依存しています」(280p)。
 かくして西尾幹二氏の水戸学入門はきわめて分かりやすく、その思想の中枢と時代の変遷を活写している。
 最後に西尾氏は、「戦争体験者の歴史観、戦争観には失望してきた」として、大岡昇平、司馬遼太郎にならべて山本七平への批判を加えている。
 ページを開いたら止まらず、一気に読んでしまった。

  

坦々塾生出版のお知らせ(4)

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渡辺 望氏自身による紹介文

次に『未完の大東亜戦争』の紹介を記したいと思います。この本のテーマをアスペクト出版の編集者の貝瀬裕一さんから提示されたとき、とても嬉しい気持ちでした。なぜかというと、ずっと以前から私が書いてみたいテーマだったからです。「本土決戦とは何か」ということは、高校生くらいのときからずっと考えていたことでした。

 今年は集団安保法制云々のことがあっから余計そうだったのでしょうけど、8月15日周辺になると、憲法学者や近代史学者を中心に平和主義の合唱がメディアでおこなわれることにうんざりという方は勿論少なくないでしょうけど、うんざりするだけでなくて、どうしてこういう面々がこの国に多いかということを考えなくてはいけないと思います。よく、日本は有史以来、たいへん恵まれた存在で、きわめて早い段階から統一国家、国民国家を形成することができ、そして他国から蹂躙されたことのない幸せがあったということを聞きますが、まさにその「幸せ」が、平和主義のぬるま湯風呂をつくってしまったのではないだろうか、と私は毎年、8月になると思うのですよ。

 もし、8月15日以降も戦争が継続したらどうなっただろうか。これは間違いなく、たいへんな不幸が日本に訪れたと思います。核兵器の大量使用、米ソによる日本の分断、皇室の存続の危機、そして言うまでもなく気の遠くなるような戦死者。昭和天皇が聖断の御前会議で言われたように、この世界から日本がなくなってしまうかもしれないほどの悲劇がこの国土を蹂躙したかもしれません。しかしそのような悲劇がもしあれば、今の体たらくな日本の左派、平和主義者などがいなことも事実ではないか。そのすさまじい日本本土決戦の仮想上の悲劇は、果たして日本人にとって「不幸」なことなのだろうか。私自身は、8月15日の終戦をもっとも妥当とする「穏健論」にういつまでも依拠しています。しかし依拠しつつも、この現在の日本の精神的不幸の根源を模索するために、「終戦が早すぎた」=日本本土決戦という思考実験の必要を感じるのです。

以上の視点から、いろんな角度から日本本土決戦を検討してみたのですが、たとえば「本土決戦」というと何か日本人にとってとてつもなく恐ろしい存在に思えますが、世界の国民国家間の戦争はほとんどが「本土決戦」だという事実がありますね。また昭和20年当時、内地にいたいろんな日本人知識人の手記に描かれている「本土決戦」=竹槍での戦い、のイメージは、実は8月6日の原爆投下以前の地上戦のものでしかない。「核兵器が使われる日本本土決戦」の想像というのをおこなう前に戦争が終わってしまったともいえます。それから大本営の一部には、1944年に日本本土に連合軍が侵攻してくると考えた面々もいました。もしそんなことがおきたら、大東亜戦争の終結と日本本土決戦は別個の問題になりますね。そんなふうに、「日本本土決戦」の想像というのも、実は単一ではないんですね。

 また、アメリカにとっても日本本土決戦はたいへんな歴史的苦境でした。日本本土決戦がおこなわれて、日本軍と国土義勇隊が沖縄戦・硫黄島戦並みの抵抗をすれば50万人の死傷者(ベトナム戦争でのアメリカの死傷者は39万人)が予想されたからです。この数字に怯えて、マンハッタン計画に異常な熱意を傾けたのがトルーマンであり、また陸軍長官スティムソンらは日本への降伏条件を緩和すべきという立場を展開しはじめたりもする。ところがマッカーサーは、日本本土決戦を自分の軍人人生のフィナーレとするヒロイズムにこだわり、総計で140万人の地上軍、42隻の正規空母と24隻の戦艦を投入する地上最大の作戦=日本本土決戦に執拗にこだわり、トルーマンと対立します。この対立、そして「日本本土決戦のやり残し感」が、その後の朝鮮戦争などに重大な影響をもたらすことになります。

一方、スターリンはすべての秘密情報を把握しつつ、ソ連にとっての最大限の利益を日本列島の地図を前にして毎日考えている。またイギリスはイギリスで、日本本土決戦により大東亜戦争が長期化すれば、南方に取り残された300万の日本兵が植民地独立勢力と結託して反英ゲリラになることを恐れ、日本への降伏条件をなるべく緩和するべしとの立場を主張します。要するに、1945年夏の世界情勢は、日本本土決戦を中心に動いていたということができるでしょう。日本人はとかく、日本人の視点からしか日本本土決戦のことを考えたがらないですが、こうした世界情勢の中での日本本土決戦への思考ということは、たいへん大事なことだと思います。

けれどこうした客観的視点をおおいに投じても、最後は当時の日本人の精神がどうだったかということを問題にしないといけなくなります。核戦争にせよ、地上戦にせよ、対米ソ両面戦争にせよ、日本人が本土決戦に挑むには「滅亡」を覚悟しなければならないのは厳然たる事実でした。このような「滅亡」の覚悟を、日本人は有史以来経験したことがなかったのです。しかし、この「滅亡」を全肯定し、「日本本土決戦をなすべきであった」という危険なロジックに足を踏み入れ、そしてついにそれを完成させてしまったのが三島由紀夫でした。この紹介文では省きますが、本書ではところどころに、三島由紀夫のこの本土決戦論のかかわりについて触れ、考察を展開しています。三島のあの自死でさえ、本土決戦論と重大な関係があると思います。ある意味で本書は裏道からの三島由紀夫論といえるかもしれません。

 また後半部分では、純軍事的側面から、日本本土決戦のシミュレーションの章も設けました。8月15日以降も戦争が続いた場合、「鈴木貫太郎内閣で戦争が継続するのかそれともそれ以外の内閣で戦争が継続するのか?」、「アメリカは原子爆弾を日本本土決戦にどれほど生産投入することが可能だったか?」「ソ連軍の南下のスピードはどれくらいか?」「天皇の聖断とアメリカの対日降伏条件融和派が一致を見せることはありえたのか?」「本土決戦がおこなわれた場合の特攻作戦の戦果は?」などの諸要素について考察しています。これらの思考実験を通じて、「思想としての日本本土決戦」とうべき史学の分野の生成に資することができればと思い、終戦の季節に刊行完成いたしましたのが本書でございます。

坦々塾生出版のお知らせ(3)

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林 千勝さんご自身による紹介文

自著に寄せて

『日米開戦 陸軍の勝算―「秋丸機関」の最終報告書』(祥伝社新書)

                      林 千勝

「敵を知り、己を知れば百戦殆(あやう)からず」(孫子)
私もそう考えます。
こういう考えの私が、七十年前のあの戦争の「開戦」の決断に関する真実を追求してきました。その結果、驚くべき真実に出会ったのです。
決断は、人間の精神活動の中で、あるいは組織行為の中で、最も高次のものです。ましてや、七十年前のあの戦争の「開戦」の決断です。言うまでもなく、あの戦争は「総力戦」です。「総力戦」とは、すべての国力を挙げて、より本質的に言えば、国民経済を挙げて戦う戦争のことです。決断には、すべての国民の生命と生活がかかっていました。

本書では、「総力戦」の経済的側面を重視しなければならないとの観点から、戦争戦略の策定における客観的な数字データを読者の皆様にそのままお見せします。供するものは一次資料です。この一次資料には、当時、陸軍省内で実際に行われました戦争シミュレーションが含まれます。「開戦」の決断を後押しした戦争戦略の策定プロセスにおいて、枢要な位置を占めていたイギリス、アメリカの立場での経済的な側面を重視した戦争シミュレーションです。本書では、このシミュレーションを当時と同じ形で体験していただきます。このことにより、本書において、対米英戦開戦という空前の意思決定を行った東條首相や杉山参謀総長と、そこに至るまでの思考過程を共有することになります。同じ目線を持っていただきます。要するに、「開戦」の決断過程の追体験です。    ―― まえがきより抜粋

わずか70年前の歴史の真実、強く志向された「生」、主体的な「行動」、そして研ぎ澄まされた高い「認識力」。―― 戦前日本(昭和)では、政府や軍当局も、言論界も、すべてを認識していた。政治・経済・軍事を地球規模で俯瞰し、敵を知り己を知っていた。70年前の戦争の開戦の決断は、完全経済封鎖により追い込まれに追い込まれた末のもの。対米屈従の道を選ばなかったこの決断は、国が、民族が、家族が生き残るためであり、それゆえ、極めて合理的な判断の下に行われた。そうでなければ、国民は納得せず、国家は運営できず、陛下もご裁可なさらなかった。実際、「持久戦に成算無きものに対し戦争を始めるのは如何か」が昭和16年当時の陛下のお考えであられた。そして、この判断の主役は陸軍であった。

陸軍は「生きるか死ぬか」のぎりぎりの決断を下すために、敵と己の経済抗戦力の測定とそれに基づく戦略の策定に知見を最大限に発揮した。同時に、ドイツの苦戦も視野に入っていた。そして、科学的な研究に基づく合理的な“西進”主体の戦争戦略「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を、昭和16年11月15日大本営政府連絡会議にて決定し、続いて果敢に行動したのであった。―― 結局、日本は一部海軍勢力の作為によりこの戦争戦略から逸脱し敗北したが・・・・。戦後これまで、この戦争戦略の存在が歴史の中に埋もれていた。況や、この戦争戦略がどんなプロセスと裏付けをもって作成されたかは完全に歴史から消されていた。
70年前の戦争で植民地を次々と解放した日本の戦いぶりを見て、世界の支配者たる白人たちはその底力を恐れた。だからアメリカは、日本占領とともに戦争の真実、日本の「生」と「行動」と「認識力」の軌跡を消した。日本人の魂を圧殺し、歴史をつくり変えた。邪魔な書物を没収し、言論を統制し、ラジオ、新聞、映画そして教科書などで日本人を洗脳した。邪魔な当局文書もほぼすべて没収した。更に、アメリカ監修で二次資料をつくり浸透を図った。戦後あてがわれた日本の歴史、特に戦争をめぐる歴史は、大事な部分がフィクションだ。歴史の闇は深い。

われわれは、アメリカとGHQによって消された記録と記憶のすべてを「発掘」しなければならない。知性の責務だ。「発掘」される“昭和のダイナミズム”は、現在の日本人に対して求心力を及ぼす。日本人の「本源性」を呼び覚ます。これは、日本人の精神の軸に関わる問題であり、思想戦上の展開でもある。われわれには思想戦上の反転攻勢が必要だ。―― だから、私も本書でささやかな一石を投じたい。

70年安倍談話をめぐる私の事情

 8月14日における安倍総理の70年談話に対し保守系言論界が一般的に高い評価を与えているのに少し驚いています。評価には余りに政治的、意図的な匂いが感ぜられるからです。私は見解をまだ書いていません。

 8月12日にBSのフジTV系「プライムニュース」で例のないほど長い時間、戦争と平和と戦後処理について語るチャンスが与えられ、存分にしゃべったので、もうそれでいいと思っていました。

 しかし総理談話が具体的に出てみると、やはり自分の見解を言っておく必要があるとも考えています。私は談話の示した歴史観に不満があるからです。

 遅ればせながら何らかの形で一度は雑誌に論評を出したいと思いますが、少し待って下さい。文章を出す前に、日本文化チャンネル桜の私のGHQ焚書図書開封の時間帯で「真夏の夜の自由談話」第5回と第6回を用いて安倍談話の分析と批判を展開しました。9月9日と23日の放映でYou Tubeに出れば当ブログに転送されます。

 何人の方から西尾は黙っているがどう考えているか、とのご質問をいたゞくので、別にわざと黙っているわけではなく、プライムニュース(8月12日)で一時間半も話す時間を与えられたのでもういいと思っていただけです。

 あんなに伸び伸びと地上波テレビで語ることが出来た例はついぞありませんでした。これからも恐らくないでしょう。

 ただし当ブログに転送されたプライムニュースはダイジェスト版で、しかも2週間で消えました。坦々塾会員浅野正美さんのご努力でオリジナルが再生可能となりましたので、下記に掲示します。尚、8月13日の日録からも見られるようになっています。あの日のコメント欄に、録画してあるから転送してあげるよと言って下さった方々が多数あり、とても嬉しく存じました。ご協力まことにありがとうございました。

坦々塾生出版のお知らせ(2)

注:8月12日のプライムニュースの動画を完全版にしました。
管理人

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鈴木敏明さんご自身による紹介文

 「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for the Pacific War」が一昨年8月に300部出版した。日本滞在の外国の大使館、領事館合わせて185ヶ国に贈呈した。著者の私としては、外国の図書館や外国のメディヤにも贈りたい。印刷会社に1万部と10万部の印刷料聞くと、およそ3百76万円、と3千100万円になると言う。これでは資金的に手も足も出ない。ベストセラーの小説でも書いて印税かせがなきゃとても無理。とても無理でも兎に角書いてみようと思ったのだ。私が若い頃、「野望に燃える男」というアメリカ映画があった。当時のイケメン俳優、トニーカーティスが、映画では普段さえないホテルのウェイターだが隆とした背広を着こみ青年実業家を装い大富豪に接近し、大富豪の子供の姉妹に近づき、彼女たちをたらしこみ、大富豪を乗っ取ろうとする映画です。今でも「野望に燃える男」という題名を覚えているので、いつ頃の映画だったか調べてみた。ウイキペディアでトニーカーティスと「野望に燃える男」を一緒にして検索してみるとくわしい説明書きが出てくるのにはびっくりした。この映画1957年の制作です。私はその時19歳。横浜の三流ホテルでボーイをしていた頃だ。小さなホテルだからボーイの他にもウェイター、ベッドメイキング、バーテンダーの手伝い、バーの掃除などいろいろやらされた。バーの掃除の時は、いつもレコードをかけながら、とくに好きだった「カナディアンサンセット」は何回もかけながら掃除をしていた。そんな頃私はこの映画を見たのだ。私はこれまでほとんど公言してこなかったが、私の人生は波乱万丈、仕事も波瀾万丈なら異性も波瀾万丈なのだ。若い頃社会的底辺の仕事をしていたが、少しも暗い影はなかった。私は若い頃はイケメンでものすごく女性に持てたからだ。「野望に燃える男」の映画を見て思わず「俺もいざとなったらこの手が使えるな」と考えたものだ。そのため「野望に燃える男」というタイトルが私の心から消えることもなくいまになっても覚えているのだ。そんなことで苦労話や興味のある体験談なら事欠きません。面白い小説を書いてやろうと書き出していた。しかし、あまりにも面白くしてやろうとそればかりを意識しすぎたせいか、書き終わってみるとあまりにも長すぎて焦点のぼけた小説なってしまった。今度は余計なものはけずりにけずってやっと仕上げた。しかし書き込むのはいいが、けずるという作業はむずかしいものだ。何かとてもいい話をけずるような気がしてならなかった。それでもけずったお蔭でまともな原稿が、ことしの前半にできあがった。360頁ほどの小説です。

本来ならここで私は数々の出版社まわりをし、出版のお願いをして原稿を置いてくるのでしょうが、知名度なにもなしの私が初めて書いた小説です。その上今月喜寿を迎える77歳の老人、私の人生の賞味期限もおよそあと10年、出版社まわりをしていつ出版してくれるかを待つ悠長な時間はない。私は自費出版を決断した。自費出版では、ベストセラーがさらに生まれにくくなることは確かです。私が「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を自費出版した時は、今から11年前、その時とは自費出版業界は、様変わりに変わっています。今ではどこの出版社でも自費出版しているのだ。そのため数はあまり多くないが自費出版でもベストセラーが出ているのです。私はこれまでに宝くじなど買ったことはありません。今度はベストセラーという一等賞を取るために自費出版という宝くじを買ったのです。宝くじの一等賞をとるのは非常にむずかしい。しかしベステセラーという一等賞がとれなくても、それなりに売れなければ、私の筆力不足、能力不足としてあきらめることにした。

まず四社、中央公論社、新潮社、幻冬舎、文芸社から合い見積もりをとった。私の原稿に対四社の書評は、良かった、しかしけなしたら出版社も商売にならないから、その分書評も割り引いて考えねばならないでしょう。一般的に自費出版の場合は、初版千部での見積りになります。初版千部の見積りの他に重要な物が四つあります。
1.初版千部は、いつまで売ってくれるのか?出版期間はいつまでか?
大東亜戦争は、アメリカが悪い」の場合は、一年の出版期間だった。一年で千部以上売れなければ、それで出版契約は、終わり。ところが一年で三千部も出版したのだ。出版社は、こんな本売れないだろうと予測し、本の大きさ、厚さを考えると1500円では安すぎるのに定価にしてしまったのだ。売れても損をすることないが、儲けがほとんどないことになる。倒産したから良かったが、倒産してなければあわてて定価を変えねばならなかっただろう。

2.印税の詳細、初版も二版もそれ以降も同じか、自費出版初めての人、私のように何回か出版の経験もあり、ブログを長期間書いている人、当然印税に違いが出る。

3.チラシ広告、100部、500部など出版費用に含まれているかどうか?売るためにはチラシ広告は、絶対に必要ですし、またどういうチラシにするか著者の意見も必要です。
自費出版でチラシなどいらないということは、自分で売り込みはしないということです。自分の書いた本を自分で売り込まなければ、誰が売り込んでくれますか。

4.支払条件
小さな自費出版社なら、分割払いを進めます。倒産の場合の被害を少なくするためです。

これらの四つの出版社の見積りの総合評価の結果、私は文芸社と自費出版契約を結んだ。今から11年前私が初めて自費出版した時、文芸社も自費出版社として存在していた。以来自費出版社として成長し、今では自費出版社だけの出版社としては最大で、草思社(出版社)を100パーセント子会社化しています。自費出版だけで食べているだけに、他の三社、中央公論社、新潮社、幻冬舎よりも自費出版には、一日の長があることがわかった。文芸社は、今二つのベストセラーを抱えています。
1.「それからの三国志」
サラリーマンが定年後に自費出版をした歴史小説です。現在20万部売れているそうです。
2.「本能寺の変、431年目の真実」
明智光秀の子孫が、このかたサラリーマンであったかどうか知りませんが、自費出版した。歴史事件の捜査ドキュメントです。これも今30万部売れているそうです。

この本の二つのタイトルを見ると、ベストセラーになる小説は、本のタイトルからしてベストセラーになる雰囲気があるような気がします。それに引きかえ私の本のタイトルではベストセラーになる雰囲気はないし、タイトルを今更変えることもできないし、変えるにしてもアイデアは浮かばないし、このままのタイトルでベストセラーになる夢を見ることにしよう。本が売れれば「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版は海外にも行き、日本語版の再出版も可能になるのだ。本は8月末に本屋から売り出されます。皆さん、ぜひ買って読んでみてください。本のタイトルは、「えんだんじ、戦後昭和の一匹狼」、定価は1600円プラス税です。

坦々塾生出版のお知らせ(1)

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渡辺望さんご自身による紹介文

 この『大東亜戦争を敗戦に導いた七人』と『未完の大東亜戦争』の二冊の本の依頼をいただいたアスペクト出版さんは、パソコン関係で有名なアスキー傘下の総 合出版社ですが、最近は歴史・政治関係の書籍に進出していて、特に佐藤健志さん、倉山満さん、古谷通衡さんといった若手の保守系評論家の本を次々に出して います。「今までとは違う保守系の本」をつくっていきたい、ということです。私への依頼もこの流れの中でのことでした。
 
 まず一冊目の『大東亜戦争を敗戦に導いた七人』ですが、大東亜戦争の戦後七十年、何を考えなくてはいけないかという問題意識から書いています。戦後「七十 年」の前は六十年、五十年が論壇や政界で大きく問題になったし、そして「七十年」の後は百年、百五十年ということが待ち受けているでしょう。私などからするとこのような果てしない時間的儀式の繰り返しは、はっきりいって徒労感をおぼえる。たとえば「戦後」ということなら、日露戦争にも戦後ということはあるけれども、日露戦争の「戦後」は少しも問題にならない。日露戦争の終戦戦勝記念日である9月5日を記憶している日本人がどれほどいるでしょうか。
「敗戦」ということがこの大東亜戦争の戦後の果てしない時間的儀式と関係があるのでしょう。国際法規が戦争状態を規定し、また大東亜戦争の戦勝国がその前後でさんざんに戦争を引き起こしている現実からして、「開戦」ということ自体には歴史的に何の犯罪性も問題性もないことは、多くの日本人はわかっているはずです。また戦争法規違反という中韓を中心とした日本への戦争責任追及にしても、彼らが証拠をでっちあげていることが多々あり、こうした「犯罪を偽造する犯罪」は、刑事法規の世界では虚偽告訴・誣告の罪といって、たいへん重要な罪なんです。つまり中韓などの国は「戦争犯罪を虚偽した戦争犯罪」法廷をつくらなければならないようなことをしているわけです。要するに、平和主義勢力
や中韓国家の言うレベルでの戦争責任は逆立ちしても成り立つわけがない。成立するとしたら、それを受け入れている日本の現実が逆立ちしているのです。
   
結局、「敗戦」ということについて、日本国民自身がそれを導いた日本人を歴史法廷に訴える、ということのみが「戦争責任」だということになるわけです。このことが明確化されないまま、いや明確化されないからこそ、「戦後~年」の儀式は延々と続いてしまうことになっていると思います。同じ「敗戦」でも、たとえば七世紀の白村江の戦いでの大敗では、開戦を主張した斉明天皇や中大兄皇子らの「開戦責任」は少しも問題にならず、敗戦責任を日本の統治機構のシステムの不備にあるとして、律令制度の確立と整備をおこないました。以降、律令制度は形骸化の時期を含めて約1200年の長きに渡り日本を拘束しますが、やはり白村江の「敗戦」、敗戦責任の記憶の拠り所がそこにあって、律令制度を見る度に敗戦を克服できたから、という視点も可能だと思います。いずれにしても七世紀の日本人の方が、二十世紀・二十一世紀の日本人に比べて、遥かに明晰に「敗戦」と「戦争責任」に向かいあうということができていたのではないでしょうか。
 
 ただし、七世紀の日本人は、「誰それに敗戦責任がある」というような歴史法廷の場まで持つことはありませんでした。その時代の日本は大人すぎたといえるかもしれません。その感情の蟠りのようなものが、その後しばらく、壬申の乱その他の陰惨な政治劇を生み出した面があると思います。七世紀の白村江の戦いと二十・二十一世紀の大東亜戦争の二つの敗戦の両方に欠けていた「歴史法廷」の場を大東亜戦争に関してつくり、「戦争責任=敗戦責任」の所在とそれを有する歴史的人物を明示することを本書の課題とした積りです。山本五十六、米内光政、瀬島龍三、辻政信、重光葵、近衛文麿、井上成美を「敗戦責任者」とした人物選択と敗戦責任の内容については、この紹介文では省かせていただきたく思い
ます。