(二)
では江戸時代までの日本は何であったか。「日本は世界で最もイデオロギーを持たない民族である」ということす。日本は「神仏信仰」の国です。「生き神」と「超越神」、政治的なことは神道で良いのですが、私たちの生死のこと形而上的、実存的な問題で仏教が大事なものとなります。
インドの地に興り発展した仏教ですが8世紀の密教に至りインドの地から忽然と消えてしまいました。仏教そのものが消えてしまったわけではなく、ネパール、インド、中国、そして日本やタイにそれぞれ伝播して根付きました。たいへん珍しい宗教です。したがって仏教にインド文化の強制的なイデオロギーなど何も無いのです。ところがキリスト教は正反対で、イスラエルの地での神学的な展開はありませんでしたがローマを経て、後の時代ヨーロッパで大きな神学的展開を遂げました。
仏教は背後にイデオロギーや政治的なものが何も無く非政治的な宗教とも言えます。そうであったからこそ日本人が抵抗なく入ってゆけたのだと思うのです。
また、江戸時代は儒学が盛んであったと言われますが実際は異なります。儒教は皇帝制度や科挙等の官僚選択機構による統治の仕方や、財産贈与の仕方、厳格な血統主義、喪に服す期間、火葬を禁じていたことなど、政治から習俗風習まで、中国のイデオロギーと密接に結びついています。ところが江戸の儒学は儒教を非政治化つまり中国のイデオロギーと密接な部分を排除しました。江戸の儒学者は大思想を展開したとも言われますが、実際儒学を学ぶものは少なく、身分にしても中国の儒者が支配階級であったのと全く対照的に、侍が支配階級であった日本の儒学者の地位はかなり低いものでした。
朱子学についても、江戸時代の朱子学はかなり違うものになってゆきます。朱子学を超え朱子学否定になってしまいます。
中国の儒教では社会関係を決めたり人間の価値観を決めるとき、どうしても道徳主義になります。ある皇帝が立派だったのは、道徳的に立派だったから国がよく治まった。しかし治まらなかったとしたら、それは道徳的に欠陥があったのだと。政治の帰趨というものをそういう価値判断にする。水戸学でも前期水戸学の儒教の影響を受けている時はその傾向が強かった。じつはヨーロッパでもゲーテが、フランス革命が起きたのはマリー・アントワネットが贅沢しすぎたから、などと言ったり、道徳を基準に歴史を考えるということはあります。
しかし荻生徂徠をはじめとする反朱子学、反儒学は違う考えを持ちます。荻生徂徠は、道徳観念を否定して、孔子も論語も尊重すべきところではないとします。礼楽制度を作った堯舜といった古代の名君こそが聖人で、この聖人が言行を記した古典を正確に理解することが儒教研究の大本とします。「孔子はまだまだ駄目だよ。」と言いたげなところが徂徠にあるので、江戸時代には何と不遜な男かと叩かれますが、そこが面白いところです。徂徠は聖人とか聖者を打ち壊すのが平気で、ニーチェのような人に思えます。
中国古代の聖人、堯舜時代の「先王の道」を理想化した徂徠は、周の時代の封建社会を理想として秦の始皇帝が中央主権国家を作って封建社会を毀してから後の中国はもう駄目になった、そして寧ろ家康の創った徳川社会の封建社会こそ理想に近いのではないか、ということを考える。何故なら封建社会は人民と君主が肌触れ合って生きる、何代にも亘り明君、所謂仁愛を施すことが出来るわけです。
ところが中国は封建社会ではなく郡県制度。「官吏」といい、「官」は長官のことで、「吏」は地方の官僚のことです。実際に政務の実務を司るのは「吏」、地方役人、小役人ですが、「官」というのは長官、つまり科挙の試験を合格して三年に一回ずつ回り、何をするかというと何もしないでいいのです。官は歌を歌い楽器を鳴らして、詩を詠んで毎日を過ごす。でも、お金はどんどん入ってくる。そして賄賂を貰うのは当たり前、貰わなければ何のためにやっているのか分からない。そういうシステムです。
吏は法に縛られますが、官は法に縛られず、礼によって縛られます。「礼」は自己決定、悪いことをしても分からなければそれきりです。ただし、皇帝に呼び出されたら一生の終わりです。それこそ習近平に呼び出されて、牢屋に入れられ、昨日まで滅茶苦茶なことをやり続け・・・、習近平も同様でしょう。そっくり昔と同じなのです。
「仁」という孔子のいったような君主と民衆がよき仲。日本の封建制度での名君は、常に肌触れ合う親愛の情の中で生きるということで、飢饉が来れば米蔵を開けるだろう、というようなことです。それこそが正しいあり方なのに、徂徠は皇帝制度になってから中国は駄目だというのです。そして善悪ではなくて先王の道、礼楽の制度を作った。「制度」という観念が徂徠によって始めて歴史の中に導き入れられて、「道徳」よりも「制度」を上に位置付けた。人間を動かしているのは制度であって道徳ではない。極めて社会科学的な発想が生まれ近代的な感覚が勃々と生まれました。江戸の儒学の秀れた部分は日本的であり、徂徠の脱朱子学をいい例として、「日本的なるもの」を確立する媒体となったのです。
江戸時代に朝鮮通信使が日本にやって来たとき、初めはいい気になって朝鮮人は日本人に教えていましたが、ある時日本人が変わってきたことに気付きます。徂徠学がはじまっていたのです。日本人は近代化に向けて走り出していたわけです。しかし朝鮮人は日本人の考えから学ぼうなどという気は全くないので、何だか訳が解らなかったのです。そういうドラマがあり、江戸の中期頃から徐々に近代化が始まっていた、意識の変化があった。分かりやすく言えば中国儒教を日本的なものにしたのです。
日本は成熟した江戸時代に中国と自己との相違を強く意識して論理的にも超克したのですが、その対中国に腐心しすぎて対西洋を盲目にしてしまったのかもしれません。
近代日本は、中国も朝鮮も入ってこずに単独で欧米諸国と対決することになりました。19世紀に不平等条約を強いられる形で開国しましたが、それを解決するために一歩一歩力を注いで日清、日露の戦役を通じて解消していったのですが、日本は一国ですべての国を相手にしなければいけない局面でした。それは最初から負けている状況でした。それを承知で、その後も零戦を造ったり特攻隊を出したりして何とか戦ってきました。他者を常に意識して、世界が自分の思い通りにならないことに直面してそれを自覚する。過去においても、また最近の金融戦争も同様です。
一方中国は、1920年代から不平等条約の撤廃を要求し始めて、1931年に条約の無効を一方的に宣言して、受け容れられないとなると排外運動を始める。一歩一歩立場を高めることなしに状況を一変に突破しようとする姿勢は今日も変わることがありません。
イデオロギーに凝り固まった典型として、呉善花氏との対談本、祥伝社新書の「日韓悲劇の真相」に、イデオロギーを持たずに生きる日本人の姿勢を韓国人はどうしても理解できず結果的に許せないという日韓の歴史観を含む価値観の絶望的な相違、先述の中国によくある「排外運動」については、韓国は力が無いだけで力を得たら中国以上のことをするであろうこと、民事訴訟の件数は人口あたり日本の60倍ということで、何かあればすぐに訴えて自分がいかに正しいかを捲し立てる人が非常に多く、勝負どころはいかに相手を圧倒するかであること、などいろいろと厄介な話を紹介しています。
しかし、呉善花氏の日本擁護、韓国批判は彼女ご自身の壮絶で徹底したな自己犠牲のうえに切り拓く「ご自身への実験」のようなものです。そのような呉善花氏に私たちが簡単に甘えてしまうのは疑問で、またとても可哀想でならないという気持ちも本に込めています。
日本列島の周りの海流は非常に速く大型船が出来るまで容易に近づけなかった。したがって古来より人を含む多くのものが渡ってきましたがそこから外へは出て行かない。争わずとも自我を保てたので、戦い自己主張する自我が育たない。何でもかんでも包摂しつつ黙って選択する。古いものを大切にするので、例えばすべての時代の仏像が残っている。そういう意味での驚くべき主体性は、日本人の素晴らしさの一面ではないかと思います。長い時間をかけて多様性を積み重ねてきたのが日本文明で、貯水池のような文明、世界の諸文化の集合地とも言われます。己を小さくして、個我を滅却して学ぶ、日本人の大切な一面ですが、一方そのために自分を見失うところまで行ってしまう愚かな一面もあります。日本は「他者に負けなければ生きてゆけない国」であるとも思えます。
自らを閉ざしていた江戸時代、熟成した思想や精神は「江戸のダイナミズム」を形成しました。しかし西欧からの激震に喘いでいた次の明治、大正期はどこかに無理がありました。「昭和のダイナミズム」は、維新や敗戦を切れ目とはせず、「広角レンズ」のように世界に大きく視野を広げた精神や思想の躍動です。最初にも述べましたが、のんびり過ごしている70年間、私たちの経験を足場にもう一度歴史感覚を見直してみれば、ものの見方も変わってくるのではないのでしょうか。
つづく