訃報を受けて(六)

月刊誌「WiLL2025年1月号より」
追悼 西尾幹二氏 古田博司

西尾氏は最後まで保守主義を体現しようと努められたのではないか

情感豊かな人

 西尾幹二氏が11月1日、亡くなりました。89歳。大往生です。
西尾さんとは生前、さまざまな形でお付き合いをしました。西尾さんを一言で表現すると“情の人”だなと。

  西尾さんとの初めての出会いは、徳間書店で行われていた勉強会「路の会」に講演者として呼ばれたことがきっかけでした。行ってみると長テーブルが置かれて、そこには宮崎正弘氏や高山正之氏、富岡幸一郎氏などが座っていたのです。主宰者であった西尾さんは、私のことを
「東アジア関係で、はじめて教養人と言える人が現れました」
と紹介してくれました。

  私は2017年、西尾さんから『西尾幹二全集』(第17巻)「歴史教科書問題」(国書刊行会)の追補(ほかに渡辺惣樹・石平両氏が寄稿している)を頼まれました。頂いたタイトルは「西尾幹二・ショーペンハウアー・ニーチェ」です。実はそのときに、私は初めて西尾さんのまとまったものを読んだのです。

 その前に西尾さんから電話があり「(全集の付録)月報に寄稿してくれないか」と依頼がありました。原稿用紙3~4枚程度の分量なので、普段は簡単に書けるのですが、そのときは二ヵ月たっても書けなかった。「書けない」と西尾さんに言うのも悪いかなと思い、放っておいたのです。そしたら、当然のように西尾さんから怒りの電話がかかってきた。

 「なんで書いてくれないんだ!」と言われたので「すみません、西尾先生と私は似すぎていて、うまく書けないんです」と答えた。もちろん苦し紛れの言い訳でしたが、西尾さんは、「じゃあ、わかった。代わりに『ニーチェ』(全集第4巻。筑摩書房)を送るから、それを読んで全集第17巻に書いて」と言ってきた。
ただ、『ニーチェ』を読破するのに一ヵ月もかかってしまいました。私は本を読むとき、ポイントを見つけ出すことが得意なので、すぐに読み終わることができます。でも、西尾さんの著作では、それができなかった。『ニーチェ』のあとがきで、西尾さんは、西尾さんの師匠から「読みやすいけれど、読むのに時間がかかる」と言われたと書いています。その通りです。西尾さんの著作はどれも優しい言葉で書かれているのですが、余計なものがたくさんくっついている印象を受けます。
たとえば、
「日本の哲学者の手になるニーチェ論を読んで疑問を覚えるのは、哲学者が現代の日本に生きていて、その中でニーチェの言葉をともかくも自分の生活の体験として読んでいる印象を少しも与えない点である」

 率直に言って、わかりづらい文章です。西尾さんの“情”がそのような文章をつくり出してしまうのでしょう。

 ちなみに、私は西尾さんの文章を誤読して、思想家であれば自分の生活もさらけ出すべきだと思ってしまったのです。それ以降、さまざまな著作物を自分の日々の生活を書くようになりました。ところが、西尾さんの著作をいくら読んでも、日々の生活が登場しない。まぁ、それは当然でしょう。

言霊での会話

 ともかく『ニーチェ』を一ヵ月かけて読み、素晴らしい著作であることも同時に実感しました。西尾さんはマルクス史学をまったくしんじておらず、歴史は歴史家が書いた因果ストーリーにすぎないと評していた。
 

 それを読んで、私は西尾さんは「先見力がある」と思ったのです。その印象があったので、分量は結構ありましたが、割と苦労せずに書くことができました。私は「西尾さんを先見者、予言者であると評したのです。

 追補の原稿を読んでくれた西尾さんから電話があり、「文章が光りを放っている」と絶賛してくれました。私自身、胸をなでおろしたことを覚えています。
どうしてここまで私に書かせることにこだわったのか、今になって本心はわかりませんが、西尾さんは、どうやら自分のことを私に知ってもらいたかったようです。

  でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。実際に“言霊”での会話は、よく通じた印象があります。

 というのも、西尾さんは実に情感過多なのですが、私自身には“情”がよくわからない。どちらかというと理数頭の私は、むしろ、そういったタイプの先生とは話が合う。たとえば、藤岡信勝先生はまさにそのタイプです。

 以前、本誌連載の「たたかうエピクロス」で紹介した元NHKアナウンサーの神田愛花に魅かれるのも、彼女が理数頭で理詰めに物事を把握しているからです。

神秘体験あるの?

 西尾さんとの会話の一例をあげましょう。2019年ごろ、西尾さんから突然、電話がかかってきました。
「ちょっと聞きたいことがあるけど、いいか」
と言うので、
「どうぞ」
と答えたら、
「アンタ、人生、不幸だったか?」
と聞いてくる。西尾さんは、いつも私のことを「アンタ」と、呼びます。
「不幸でしたよ。親も自分も子も三代にわたって不幸でした」
「そうか!奥さんは?」
「普通の人ですよ」
と言ったら、
「うーん、そうか」
と唸っている。その後は会話が成り立たなくなり、電話はそこで終わりました。西尾さんは私と会話が通じないと思うからか、直截的に聞いてきます。私も西尾さんの意図がよくわからないから、“言霊”で答えるようにしたのです。

 別の電話で、西尾さんが、
「アンタ、神秘体験あるのか?」
と聞いてきた
「ありますよ」
と答えました。でも、私は「神秘体験」のことを女性哲学者のシモーヌ・ヴェイユにならい「超自然的認識」と言っています。私は、
「西尾先生も見えたり、聞こえたりするでしょう?」
と逆に質問しました。そしたら西尾さんは、
「聞こえん!」
と怒っている。私は続けて、
「映像のときもありますよ」
「そんなの見えない!」
と、また怒る。

 西尾さんのことを私は「予言者」と書きましたが、西尾さん自身は超自然的認識をしたことがなかったのです。西尾さんの告白を聴き、「あ、西尾さんは予言者ではないんだ」と思ったのをよく覚えています。

 また、先に紹介した路の会ですが、終わった後、みんなで会場の近くの居酒屋で打ち上げをしました。その日、私自身、体調があまり芳しくなかったのですが、参加し、二次会までついていったのです。
そこで西尾さんがボソッと私に、
「今まで自分は言論活動をしてきたけど、世界を変えることが全然できなかった」
と言う。私はよせばいいのに、
「西尾先生、私は日本人の東アジア観を変えましたよ」
と無邪気に答えてしまった。そしたら、西尾さんは下を向き、むっつり黙り込む。「まずかったかな」と思ったのですが、西尾さんは何も言わない。西尾さんからすると「何を言っても無駄だ」と思ったのでしょう。

あっけらかんとした教育者

 ともかく私からすると西尾さんの情の部分がわかりにくいのです。哲学者の中島義道氏は西尾さんと情感を交わすのがうまくできたようです。中島氏が月報で「西尾さんについて」と題して寄稿していますが、西尾さんとの会話で中島氏が好きな言葉を紹介しています。酒席の場で、西尾さんは酔っ払いながら「みんなは論文を主任教授に向けて書いている。だが、本当は神様に向けて書かなければならないんだよ」と言ったそうです。中島氏は「そうだ、そうだ」と同感したとのこと。

 私の場合は「ああ、そうなんだ、みんな主任教授に向けて論文を書いているんだ」と驚きましたけどね。主任教授のために論文を書いたことがなかったから、「へえ」と改めて思ったのです。

 中島氏はさらに、西尾さんから「人を傷つけたくなかったら書くのをやめなさい。人を傷つけても書かなければならない時に、血を流して、返り血を浴びても書きなさい」と言われたという。私からすると「はて?」とキョトンとしてしまう。私は説得するために書いていますから。

 ともかく中島氏の文章を読み、つくづく西尾さんは“情の人”なんだなと実感しました。

 泣きの小金治が、父親から「自分のために泣く者になるな、人のために泣くひとになれ」と教わって育ったそうです。これ情です。テレビドラマでも、刑事ものや医者ものは、結局最後は情で終わります。上川隆也氏主演の『遺留捜査』なんか、犯罪者の父を恨んでいた子が父がずっと気遣っていたことを情で示したりします。「結局、お父さんはあなたのことを最後まで気遣って亡くなったのですよ」と、「情の勝利」を告げる。
まさに西尾さんの“情”は、それと同じことではないでしょうか。

 では、西尾さんの“情”の源流がどこにあったのかといえば、やはり、家庭環境の影響が大きかったのでしょう。
西尾さんの自伝的作品「少年記」(『西尾幹二全集』第15巻/国書刊行会)を読むと、西尾さんは上流家庭の出だと感じます。身内の中で一人か二人、働いていないひとがいるのが上流家庭の証拠ですが、西尾さんの家もそうだったのです。
日本の上流家庭は情感過多です。お公家さんの伝統があるからでしょうか。幕末、公武合体運動でどちらにつくか公家の連中はフラフラしていました。佐幕派に翻弄される公家たちの姿を、現場主義の下級武士たちが見て、「宮さんはまったくしょうがないな」と思っていたに違いありません。とにかく情に弱い。西尾間の情感過多も、それに近いものがあるのではないでしょうか。

 ただ、教育に関しては、西尾さんは割り切っていたようです。
というのも、西尾さんは電気通信大学助教授時代の1965年、保守系雑誌『自由』で論文「私の『戦後』観」が新人賞を獲得してしまった。当時は学生運動全盛期ですから、『自由』は異端中の異端でした。
西尾さんはそんな雑誌の新人賞を獲得したことで、有名大学の就職がかなわなくなった。
私は西尾さんに、
「先生はどうして電気通信大学だったんですか」
と聞いたら、
「そこで新人賞を取ったから就職はムリだよ」
と言っていました。教授の推薦が得られなかったのです。別の機会で、西尾さんに、
「電気通信大学で何を教えていたんですか」
と聞くと、
「リルケを教えていたんだ」
「35年間、ドイツ語の詩集を教えていたんですか」
「うん、そう。ドイツ語を読むだけ」
と、実にあっけらかんとしていた。つまり、大学の教育はなるべく省力化し、自身の研究・執筆に集中するようにしたのです。西尾さんはもともと名誉欲・出世欲がなかった。それも功を奏したのでしょう。そうでなければ『西尾幹二全集』が22巻もの膨大な量にはならなかったに違いありません。

元は「反近代」の人だった

 西尾さんと言えば、ニーチェ、ショーペンハウアーの研究・翻訳で有名です。実に素晴らしい業績です。

 ニーチェやショーペンハウアーは西洋哲学の系譜の中では異端だった。もっと言えば「反近代」です。
 西尾さんは「ニーチェはキリストに似ていたのではないだろうか」と書いています。私流の言い方をすれば、ニーチェは向こう側、こちら側の両方を潰したのです。ただ、ニーチェのやったことは西洋社会ではそれほど広がりませんでした。ニーチェよりもルター、ヘーゲルのほうが影響力は大きかったので、存在感が薄まってしまった。

  西尾さんの『全集』(第6巻)は「ショーペンハウアーとドイツ思想」がテーマですが、私は西尾さんに「送ってくださいよ」とねだったことがあります。西尾さんから「ないから買って!」と言われました。結局自分で購入して読んだのですが、またしても20日間くらいかかってしまった。飛ばし読みができない。西尾さんの文体が饒舌だからです。

 それはともかく、「強烈な意志の肯定の気魄」をみなぎらせるショーペンハウアーが「意志の否定」などと言ったことに対し、西尾さんは「すなわち意志の否定もまた、意志によって達成されるものだと言っていい、これは明らかに矛盾である」と断じました。その矛盾の理由を西尾さんは探索しますが、その一つに「強引に思想を体系化したことにあった」と書いている。

 西尾さんの言説を近代のバリヤーの中で住んでいる凡庸学者が聞いたら怒り狂ったに違いありません。なぜなら「学問に体系はあってもなくてもよい」と平然と言っているからです。普遍知の信じられていたころの近代の学者は「普遍」により近づくべく、生涯の終わりには必ず既存の理念でもって稚拙な体系化を敢行しています。これをかつては「博士論文=墓碑銘」と言っていました。

 ところが、インターネットが普遍知を崩し、グローバリゼーションが国家のサバイバル状態を招来すると、近代の迷妄はたちまち晴れてしまいました。近代の理念の多くは、白日の下にさらされたのです。近代の理念は失われ、「学問に体系はあってもなくてもいい」ことになりました。下手に体系化すると、蟻塚が壊れてしまいかねません。「近代理念」の権化であった社会学者たちは、今や現地調査とアンケート調査しかしていません。

 しかし、そんな西尾さんも、ニーチェやショーペンハウアーを体系化し、そこに自らも入りたかったようなフシがあります。その矛盾に本人は気づいていたのかどうか・・・・。

保守主義者としての苦闘

 ともかく、西尾さんがニーチェ、ショーペンハウアーに魅かれたのは、反近代だったからではないでしょうか。私も近代は大嫌いですから、西尾さんとはその点で通底する思いがあった。

 では、そんな西尾さんが日本について積極的に発言するようになった理由はどこにあったのか、というと、やはり西尾さんの“情”が突き動かしていたのではないか。私の場合、日本のことは副業であって、専門は東西の政治思想史です。だから、「西尾さんはどうしてここまで日本に首を突っ込むのかな」と不思議に思っていました。

 さらに言えば、西尾さんは保守主義や保守思想を自ら体現しようとしたのではないか。

 私の考えを言えば、「保守主義」はないと思っています。岩波書店の『哲学・思想事典』で「保守主義」を調べてみると、「保守主義とは常に自己の時代を何らかの解体の時代ととらえ、それ以前のものの固有の価値を自己の時代と次の時代のために救い出そうとする思想である」。

 ほかにも藤岡信勝氏が編纂した歴史教科書には、英国の思想家、エドマンド・バークを紹介し、バークの著作『フランス革命についての省察』を引用しながら、フランス革命が起きると伝統を破壊する思想や行動を批判し、先祖を顧みない人々は子孫のことを顧みないだろうと述べたと書いてあります。バークはさらにフランス革命を批判し、英国がピューリタン名誉革命の後に王政復古すべきだと言っている。それだけの話であり、内実があまりない。

 そういう意味で「保守主義」はないのではないか。たとえあったとしても、凡庸なものとしてとらえられるのではないか。むしろ、リベラルのほうがカッコイイように感じてしまう。危険ですが。岩波の事典の定義からすると、私は保守主義ではない。もっと言えば、常に左翼・右翼のバランスの中で物事を考えています。

 しかし、西尾さんは保守主義の本質を自覚しながらも、何とか哲学的に後付けしよう苦闘したのではないか。さらに言えば、岩波の事典で定義された「保守主義」とは違う“保守”を自ら体現しようと努力したのではないか。ある意味で理念型かつ近代的だったのです。

 西尾さんは最期まで保守主義をこの手に摑もうと格闘し続けた方であり、そんな姿に共感を覚える人たちも多くいたのです。謹んでご冥福をお祈りいたします。

ふるた ひろし
1953年、神奈川県横浜市生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科東洋史専攻修士課程修了、筑波大学名誉教授。『韓国・韓国人の品性』(ワック)ほか、著書多数。共著に『韓国・北朝鮮の悲劇』(藤井厳喜/ワック)がある。

納骨

西尾先生の御遺骨が12月17日に納骨されました。

場所は通夜・告別式の行われた東京青山の持法寺墓地です。

戒名は本覺院殿導日幹居士。

同墓地には井伏鱒二や吉行淳之介も眠っています。

合掌

訃報を受けて(五)

藤岡信勝氏のFacebookより

●【転送歓迎】「西尾幹二先生とお別れの会」が決まりました!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~                    
「西尾幹二先生とお別れの会」の御案内
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  文学者・思想家として輝かしい業績を残された西尾幹二先生が逝去され(11月1日)、ご遺族、近親者、ならびに氏が主宰された路の会、坦々塾、担当編集者が集まり通夜、葬儀を厳粛に終えました。菩提寺は青山の持法寺で、井伏鱒二、吉行淳之介の墓もある名刹です。

 本葬がおわり喪主西尾未亡人に、友人、編集者、塾生などによる追悼会を催す旨を申し上げ、御承諾をいただきました。直ちに友人、編集者相集い、『西尾幹二さんとお別れの会』実行委員会を立ち上げました。

 ホテルなどで立食パーティをかねたお別れ会が一般的ですが、西尾先生は、ありきたりのホテル会合より講演会形式で、多くの読書人、ファンが参加できる会をのぞまれたであろうと、参加者おひとりおひとりに献花していただき、追悼講演を中心とする偲ぶ会となります。

 開催日は月命日にあたる令和7年2月1日、13:00-15:30(星陵会館)と決まりました。

 合掌、献花の機会が欲しいという声が強く、また西尾先生には多くの友人知己がおられたので、百名近い先生方に「西尾幹二先生とお別れの会」の発起人をお願いしました。
 

 参加者一人一人が思いを込めて献花し、黙祷のあと、発起人二十数名の追悼挨拶や詩の朗読を行う予定です。
 

 また参加者芳名録は、翌日に墓前報告式をおこない、その後に遺族へお届けします。

令和6年12月 
「西尾幹二さんとお別れの会」実行委員会

              記
とき 令和七年二月一日 午後一時(12:15開場、献花開始)
ところ 星陵会館(千代田区永田町)大ホール
参加費 お一人2000円(資料代、花代として)

 ●御参加の皆様には珍しい写真や、友人らの寄稿を集めた記念冊子を差し上げます(御欠席で、御芳志を頂ける皆様には後日、郵送します)。
 ●平服でおみえください
 ●ご供花、ご供物は辞退申し上げます(遺族の本葬は終わっておりますので)
 ●完全なリストは当日配布の冊子に掲げます

(発起人、五十音順、敬称略。12月11日現在)
浅岡敬史 荒木田修 石井竜生 井原まなみ 伊藤悠可 井上陽介 植田剛彦 潮匡人 内田博人 江崎道朗 呉善花 大塚海夫 大場一央、小川榮太郎 加藤康子 加藤康男 葛城奈海 川口マーン恵美 加地伸行 柏原竜一 河添恵子 門田隆将 鎌田康男
河内隆弥 唐津隆 北村良和 工藤美代子 倉山満 小山常実 近藤哲司 桜林美佐 佐藤幸一 佐波優子、清水真木 新保祐司 杉原志啓 鈴木隆一 石平 仙頭寿顕 高市早苗 田中英道 高池勝彦 高橋史朗 高森明勅 高山正之 田村秀男 田母神俊雄 立林昭彦 堤 堯 富岡幸一郎 中沢直樹 中西輝政、中村彰彦 西村幸祐 西村真悟 長谷川三千子 花田紀凱 浜崎洋介 坂東忠信 樋泉克夫 平山周吉 福井雄三 福井義高 藤井厳喜 
福田 逸 東中野修道 福島香織 藤岡信勝 古田博司 
ペマ・ギャルポ 松木國俊 松本徹 馬淵睦夫 宮脇淳子 
水島総 三浦小太郎 三好範英 三輪和雄 村松英子 室谷克実 茂木弘道 諸橋茂一 元谷外志雄 山口洋一 山下英次 
山下善明 山田宏 楊海英 横久保義洋、吉田信行、渡邉哲也 渡辺惣樹 渡辺利夫 渡辺 望
(実行委員会幹事)浅野正美、力石幸一、宮崎正弘、湯原法史

<プログラム>
(BGM ブラームス ピアノ協奏曲二番)
 12:15 開場、献花開始(二階ホール入り口)  (司会 葛城奈海)
 13:00 開会宣言(司会者)黙とう
 13:03 発起人を代表して(藤岡信勝)。
      追悼挨拶    (高市早苗)
 13:20 御挨拶(産経新聞社長 近藤哲司)
 13:30 基調講演 業績など(門田隆将)
 13:40 名文箇所を朗読  (佐波優子)
 14:00 路の会を代表して (大塚海夫)
      坦々塾生を代表して(渡辺 望)
 ──休憩(10分)
 14:30 (追悼挨拶)田中英道、加藤康子、富岡幸一郎、小川栄太郎、長谷川三千子、宮脇淳子、藤井厳喜、西村幸祐,高山正之ほか。 
★日本人として(石平、呉善花 ペマ・ギャルポ)
★海外から駆けつけました(渡辺惣樹、川口マーン恵美)
15:35 御遺族からメッセージ 力石幸一(代読)
15:40 閉会の辞  水島総
15:45 終了

 ●このプログラム案は予告なく変更されることがあります
 ●どなたでも予約なしで御参加いただけます

訃報を受けて(四)

産経新聞令和6年11月18日付「正論欄」より

藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会」副会長

西尾幹二氏の教科書への思い

 日本を代表する言論人であり、新しい歴史教科書をつくる会の創立者(初代会長)だった西尾幹二氏が去る11月1日、老衰のため亡くなられた。89歳。つくる会の会員、とりわけ氏の謦咳(けいがい)に接したことのある古参会員の喪失感は並大抵のものではない。心からご冥福をお祈り申し上げる。

教科書問題の始まり

 私が西尾幹二氏と初めてお目にかかったのは平成8年1月、氏が主催する「路の会」という言論人のサロンの場であった。この会は月例で開催され、西尾氏がその時々に一番注目した人物を講師として招き、講演と討論、そして二次会での激論へと続くユニークな会である。

 この直前の1月15日に、産経新聞紙上で「教科書が教えない歴史」の連載が始まっていた。この連載は当時の編集局長・住田良能(ながよし)氏の求めに応じて、小中高の現場教師からなる「自由主義史観研究会」のメンバーが執筆するという異例の企画だった。西尾氏はこの記事を目に留めて会の代表であった私を路の会に誘ってくださったのである。

 その年の6月に中学校教科書の文部省(当時)による検定結果が発表され、「従軍慰安婦」が全ての歴史教科書に記載されたことがわかった。私は許せなかった。戦場の慰安婦が「強制連行」された「性奴隷」であったとするような根も葉もない、しかし反証には困難を伴う反日プロパガンダ作者の底知れぬ悪意と狡知(こうち)に戦慄しつつ、これに戦いを挑む決意をした。全教科書に噓が書かれているなら、それを書かない歴史教科書を自分たちでつくるほかないではないか。歴史教科書問題はこうして始まったのである。

自ら筆を執って牽引

 私は路の会のメンバーでもあった教育研究者の高橋史朗氏に思いを打ち明けて相談した。高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し、3人の会合をセットしてくださった。西尾氏は直ちに問題の意味を理解され、政治思想史の坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした。こうしてこの4人が幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった。

 新しい歴史教科書をつくる会という会の名称は岡崎久彦氏(元駐タイ大使)の発案である。これはそのものズバリのネーミングで余計な説明がいらない。

 設立趣意書を執筆したのは西尾氏であった。その書き出しは次のようになっている。

「私たちは、21世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、日本にもみずからの固有の歴史があります。日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました」

 これからつくる新しい歴史教科書の一番大切なコンセプトが見事に表現されている。全体の構成といい個々の表現といい、名文である。趣意書は平成9年1月30日の創立総会で決定した。

 次いで、教科書を執筆する段階では、私が指名され西尾氏と単元の構成から組み立てた。そして、オトタチバナ姫の伝承など多くの箇所を自ら筆を執って書き下ろされた。西尾氏は会の責任を背負い、敢然と役割を果たされた。

思索と行動の対照性

 西尾氏の中には現状に対する燃えるような怒りと、特定の結論に安住しない懐疑の精神の二つの魂が同居していたように思われる。「最後の知識人」(小浜逸郎氏)と評された西尾氏の巨大な業績については今後多くの「西尾幹二論」が書かれるだろうが、思索のプロセスにおいては時に難解と思えるほど用意周到で慎重だった。

 他方、「教育という分野では論よりも事実をつくり出さなければ意味がない」とおっしゃられたことがあり、なぜそれがお分かりになるのか不思議な思いをした。実際、十の評論よりも一つの確かな事実(授業・実践)をつくりだすほうがはるかに価値がある。

 このような「教育における実践の優位性」の理解とおそらく同質のことなのだろうが、時々の政治的判断においてはストレートな主張を進んで表明された。

 アメリカの大統領選挙では、トランプ氏の当選を熱望しておられた。わずか5日違いで、結果をお知らせすることができなかった。

 日本の政治家では高市早苗氏を明確に支持されていた。私の記憶にある限り、政治家で路の会の講師に招かれた人は高市氏だけである。近親者のみで行われたお通夜には高市氏の姿があった。

 西尾氏は誰であろうと相手の社会的地位や肩書に関わりなく、その人の発言の内容に耳を傾けた。そして、よいところは褒め、励まし、多くの言論人を育てた。

 亡くなる数日前、すでに声を発することは難しかったが、意識は明瞭で、実に4時間にわたって内外の情勢を身近な人に語ってもらっていた。西尾氏は命が尽きる最期まで、世界への瑞々(みずみず)しい関心を失うことはなかった。(ふじおか のぶかつ)

訃報を受けて(三)

週刊新潮 令和6年11月14日号より

墓碑銘 歴史教科書だけではない西尾幹二さんの現実的視点

 西尾幹二さんと言えば、独自の歴史教科書作りを進めた保守派の論客として、まず紹介されることが多い。

 だが、その名が広く知られるようになったのは、1980年代後半、外国人労働者の受け入れに反対を表明した時だ。当時、好景気による人手不足で、不法滞在の外国人が就労するケースが増えていた。

 西尾さんは、彼らを日本の労働力に組み込めば、依存する状況がやがて固定化され、日本人が避けるきつい仕事を押しつけることで“階級社会”も生まれると唱えた。そして言語、宗教、日常習慣のような違いが許容限度を超えると日本人との摩擦も起こると懸念した。かつて留学した西ドイツでの体験をもとに、目先の経済合理性のために日本が余計な災いを背負う必要はないと警句を発したのだ。

 現在生じつつある問題を約35年前に西尾さんは明確にとらえていた。だが当時、経済大国となった日本は、外国の失業者の救済という人道面も考慮して責任を果たすべきだとの意見が大勢を占めていた。

 作家の石川好さんと月刊誌の対談で論争し、討論番組「朝まで生テレビ」では“鎖国派”として孤軍奮闘。国際化で文化の多様性が深まるとの楽観論に抗し、後世に禍根を残すと主張して一歩も譲らなかった。

 長年親交があった評論家の宮崎正弘さんは振り返る。「西尾さんは欧米を基準に置いたり賛美したりしません。日本が異質な存在だとも考えなかった。観念的で詭弁を弄する人を許さない姿勢が一貫していました」

 1935年、東京生まれ。東京大学文学部に進み大学院を修了。ニーチェなどドイツ思想を研究し、65年から67年にかけて西ドイツに留学。この経験をもとにした論考は三島由紀夫に称賛された。ニーチェ研究を専門とする一方、福田恆存に師事し文芸評論でも活躍。外国人労働者問題で時の人となる。「ニーチェ研究が根底にあった。徹底して調べ、現実逃避をせず本質に迫ろうとしていた」(宮崎さん)

 97年、「新しい歴史教科書とつくる会」の設立にかかわり、初代会長に就任。従来の歴史教科書の記述が日本を貶める“自虐史観”に陥っているとして、実際に教科書作りを始める。同会の委嘱を受けて西尾さんが99年に上梓した『国民の歴史』は70万部を超えるベストセラーとなった。

 もはや動かない「過去」と、人の心の動きによって変わって見える「歴史」は別物と考えた。日本の戦争は短い時間の幅でとらえず、数百年にわたる世界の出来事の中に置いて考察しなければ理解できないと語り、単純で一方的な「歴史」観に異議を唱えた。

 大阪大学名誉教授の加地伸行さんは思い返す。

 「時代の流行や気分で発言する人ではありませんでした。左翼が大手を振っていた時代に彼らの幻想や空理空論に全く同調しなかった。保守派とひとくくりされましたが、自分が考え抜いたことに基準を置き続けた」

 つくる会が作った歴史教科書は検定に合格したが、内紛から西尾さんは2006年に離脱。その後も言論活動を続け、時には自民党や皇室も容赦なく批判した。

 「講師を呼び議論する勉強会“路の会”を90年代半ばから主宰していました。好奇心の塊で、自分と異なった意見、初めて聞く意見に異様な興味を示す。居酒屋でも議論が続いた時には、割り箸の袋にメモを書き留めていましたね。何げないことから考えを深める構想力の持ち主です。よく喋り、カラオケでは小学唱歌を歌っていました。」(宮崎さん)

 近年は膵臓癌を患うが回復し、今年『日本と西欧の五〇〇年史』を刊行した。

 11月1日、89歳で逝去。

 自由とは自らが最大の価値と信じるものを選び取り、引き受けるという決断のために存在する。自由への覚悟はあるか、と晩年も日本人に対して問いかけていた。

訃報を受けて(二)

宮崎正弘氏

■訃報■
西尾幹二氏
●●●●●
 けさ(11月1日午前四時)、息を引き取られた。個人全集二十四巻、あと一巻で完結というところだった。編集は終わっており、年譜を作成中で、じつは小生もちょっとお手伝いをした。それは西尾さんがたった一度だけ三島由紀夫とあった日付けのことだった。
 

 西尾全集はわが書架の福田恆存全集のとなりに並んでいる。よく拙著から引用され、評価していただいた。氏の特技は長電話。朝九時か十時頃にかかってくる。最低一時間のお喋りになる。

 思い起こせば三十年に及ぶおつきあいのなかで、私と会うときは、話題は三島由紀夫であり、国際情勢だが、ニーチェの話は殆どしたことがない。拙著『青空の下で読むニーチェ』には、感想がなかった(苦笑)。 
 

 『江戸のダイナミズム』で出版記念会をやりませんか、と提案すると真剣に応じられ、準備状況、発言者、当日用意する冊子など、およそニケ月の準備の時間は殆ど毎日、氏の自宅や版元の会議室で膝つき合わせ、あるいは会場での打ち合わせに費やされた。当日は四月というのに小雪が舞い、出足を心配したが、会場は四百人以上の熱気で埋まった。

 二次会はカラオケだった。氏は♪「湖畔の宿」を、小生は♪「紀元は二千六百年、病に伏される前まで毎年、忘年会は高円寺の居酒屋にお招きいただき、周囲構わず大声で論議風発、愉しい時間だった。大いなる刺激をいただいた。
 

 氏が主催する「路の会」は四半世紀続いた。月に一度、保守系の論客を講師にお招きして、ああだこうだと激論を闘わせる知的昂奮の場だった。西尾氏が急用時には、小生が二回代役の司会をつとめた。田村秀男氏と中西輝政氏を招いた時だった。おわると近くの居酒屋に場所を移して、さらに激論が続き、氏は割り箸の袋にもメモを取るのである。かえりは方向が同じなのでタクシーに同乗するのだが、延々と論争の続き、耳が疲れるほどだった。
 

 或る時、知り合いの雑誌の編集長から電話があって、カラーグラビアに「路の会」をとりあげることになり、大勢のメンバーがあつまって写真を撮った。全集の口絵に好んで使われた。 

  憂国忌には二度講演をお願いしたほか、出番がなくても時間が空いていれば出席された。

 氏は論争が大好きで、また相手構わず激論を挑む。現場で見たのは岡崎久彦氏への面罵、そして小泉首相を「狂人宰相」と名付け、また安倍晋三首相をまるで評価しない人だった。

 台湾に一緒に行く前日になって、台湾大使が「野党が西尾氏の訪台を政治利用しようと、いろいろと企んでいるので、延期して欲しい」となって、せっかくの旅行はそのまま中止となった。国内旅行は三重の長島温泉など。

 氏はまた読者、ファンをあつめて西尾塾とでもいうべき「坦々塾」を主催され、二回ほど講師に呼ばれて喋った。初回は四谷のルノアールに二階を貸し切った。

 次々と走馬燈のように思い出が尽きない。西尾幹二氏は不出生の論客にして思想家だった。
 合掌
 ■■■

訃報を受けて(一)

「新しい歴史教科書をつくる会」

 西尾幹二初代会長が逝去されました。

 新しい歴史教科書をつくる会の初代会長である西尾幹二先生が、本日11月1日、お亡くなりになりました。享年89。

 西尾幹二先生は、平成9年、日本に蔓延している自虐史観の払拭を目指す人々とともに「つくる会」を立ち上げてその先頭に立って活動され、日本人の歴史認識の改善に大きく寄与されました。また、ベストセラーである著書の『国民の歴史』によって、多くの日本人を目覚めさせました。

 先生の生前の多大なご功績を偲ぶとともに、安らかなご冥福を心からお祈り申し上げます。

 なお、通夜・葬儀につきましては来週、家族葬として行い、後日、お別れの会が催されるとのことです。