荻生徂徠と本居宣長(三)

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文献学を破壊した宣長とニーチェ
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長谷川  : 一方、宣長の学問を「近代」の意識の営みとして眺めるとき、これを「破壊」と考えることはどうしても不可能です。ここでふっと浮かんできたのは、常識とはまるで違った「近代意識」の定義なのです。つまり「なにか決定的に重要なことがすでに終わってしまっている」という意識。

 ただし、「その決定的に重要なことは、ふたたび喚起することができるし、また喚起しなければならない」と考える意識――そういうものを「近代意識」と呼ぶとしたら、宣長の学問はまさにそれだったのではないか。またそれは、この本のなかで「偉大な思想家」の一人として挙げられているニーチェとも共通するものなのではないかと思います。

西尾  : 文献学は「認識」を目的とします。しかし宣長やニーチェのような人にとっては認識とは、何かのための手段にすぎません。二人の発言は徹底的に文献学的ですが、同時に文献学の破壊者でもあります。通例の安定した客観性をめざす学問ではありません。

 いま長谷川さんは宣長の学問には「破壊」の面はないとおっしゃいましたが、さてどうでしょうか。村岡典嗣の『本居宣長』(1911年)は、宣長に正統な文献学からみての逸脱があるとして、それを「変態」という表現で指弾しています。宣長は上古人の古伝説を背理、妄説のように信奉し、主張していると当惑感を隠せずにいます。ニーチェがワーグナーの音楽にギリシア悲劇の再来をみた乱暴さに似たような大胆さと独断ぶりは、上田秋成との有名な論争の仕方における宣長の論法の無理無体にも表れています。

 いまおっしゃった「あることが終わった」のは、良いことではないが認めざるをえない、というお言葉は重要です。伝統的な神が危機に陥っていることは認めざるをえないけれど、だからといって神のない世界、つまり平板でのっぺらぼうな現実をそのまま認める国学者・上田秋成や儒者・富永仲基のような合理主義者の発言は容認できない。認識として同じことは百も承知だけれど、あらためてそれにノーという情熱が、徂徠と宣長にはきちんとあったと思うのです。

 その情熱はときとして「破壊的」な性格さえ帯びます。徂徠は富永仲基から、宣長は上田秋成から、「お前たちのやっていることは私事だ(主観的だ)という言葉を投げつけられる。しかし、徂徠のような巨大な自我が信じること、宣長のような巨大な主観が展開することで、世界史が客観的に開かれていくのです。

 宣長は幽霊を記録することを学問と心得た国学者・平田篤胤のような人間と違い、あくまで『古事記』の文献学的な探求にこだわり、そこから一歩も出ません。そのうえで最後に『直毘霊』(『古事記伝』第一巻「総論」の中の一遍)を書き、「からごころ」に激しい反撃を加えたのです。彼の信じている巨大な自我が『古事記』の解明につながるのですが、それは古代人の心に立ち返っているからでもあるのです。

長谷川 : いまのお話は宣長のいう、「人は人の事(ひとのうえ)を以て神代を議(はか)るを 我は神代を以て人事を知れり」という言葉の指すところでもありますね。多くの人はこの言葉を、ただもう神代をガリガリに信じ込んで、それによって人の世の中を判断しようとする狂信者の言葉、と考えるのですが、彼はただ、『古事記』に書かれていることをまっすぐのみ込もうといっているだけなのです。ただし、「神話をもって歴史を理解する」ということは、口でいうほどたやすいことではありません。そのためには、まず自分が「神代」のレヴェルにおいて世界を眺める、ということができなければならないわけですから。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(二)

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『論語』のドラマチックさ
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西尾  : 外国を他者として認識することで自国を自己としても認識できるようになる。宣長の思想について斬新な論を展開された長谷川先生の『からごころ』(中央公論社)では、外国文化を「普遍文化」と考えてしまう日本人の素直さが、むしろ「文明のバネ」として有効であったと述べられています。軽蔑の対象として学んだのでは何も得られるはずがないというお考えで、私も同じことを述べています。

 すなわち、外国文化をそのように尊重する日本人の性(さが)は自分に対する不安から来るのかと最初思っていましたが、むしろ自信から来るのではないか。日本人は、中国や西洋から入ってきた文化を尊敬する一方で、外から入ってきた文化はあくまで外ものと意識して、「内なる自分」を忘れない。

 つまり外国文化を普遍文化として受け入れるのは日本人に自分がないからでなく、「自分がありすぎる」からかもしれない。そういう言い方も詭弁なら、日本人のなかに宇宙がスポッと入っているから、何を借りてきても構わないという、どことなく「鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」(『江戸のダイナミズム』239ページ)ことによって自己同一性を揺るがされずにすむ。そのような日本人のおおらかさを、私は本書で徂徠や宣長の言葉に託しました。

 そのような日本における「自分とは何者か」という問いを生涯かけて探求したのが、宣長ではなかったかと思うのです。

長谷川 : 徂徠にしても、「相手は外国だ」という意識を強烈にもつことで、かえってきちんとした対話が成り立った感じがします。彼の「だから孔子が言っていることや行っていることは、せいぜいが『論語』に出ている程度に止まってしまったのだ」というセリフなんて、良いですねェ。西尾さんがこのセリフにしびれているところ、よくわかります(笑)。「自分」のない人間では出てこないセリフですね。

西尾  : それまでの日本人あるいは儒者は、孔子を道徳的に神話化し、絶対視しています。

長谷川 : 「日本人はそうやってきたけれど、考えてみると大変おぞましいことではないか」というのが、宣長の美意識でもありました。

西尾  : だから徂徠と宣長、二人の思想は重なっているのです。徂徠も孔子に対して、聖人としては二次的な位置しか与えていません。また『論語』は表面的に訳すと、ついついありふれた教訓書のように見えかねませんが、徂徠の書いた注釈書『論語徴』を読むとじつにドラマチックです。

 たとえば『論語』の「第二為政篇」に「政を為すに徳を以てすれば、譬へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふがごとし」という一節があります。普通は誰が読んでも「政治をするのに道徳心をもってすれば、北極星の周りにさまざまな星が整然と運行するようになるだろう」となります。

 これを徂徠は、「政を為す」とは政権を取ることであり、「徳を以てす」とは有徳の人材を用いるの意であるというのです。それもただ人材配置についていうのではなく、「有能な人材を登用すれば放っておいてもうまくいく」と、官僚制度における専門性や分業制をまで意識していたかに読める。「権力者は口を出すな」と暗にいっているようであり、徂徠の解釈を聞いた当時の儒者たちは、さぞびっくりしたことでしょう。

長谷川 : しかもそれは勝手な解釈ではなかった。『論語』を読む前にまず五経をしっかり読め、といっていますね。つまり、徂徠自身は、当時の思想のコンテクスト全体のなかで『論語』を読んでいるのだという自信があったのでしょう。そう考えると徂徠の解釈は「孔子像の破壊」というより、むしろ「自分こそ本当の孔子像を摑まえている」という意識によるものだったように思います。

西尾  : 孔子が偉大で神秘的な存在になったのは、『論語』のせいではなく、『五経』(『易経』『書経』『詩経』『春秋』)の編集者と見なされてきたからです。孔子は五経の創作自体には関与していない、というのが現代の学問的認識です。徂徠の天才は、三百年前にこの点をまで洞察していました。

 繰り返しますが、彼は孔子に聖人として二次的な役割しか認めません。孔子以前の時代、「先王の時代」に儒教の原点を求めます。孔子の権威の由来は朱子学のようですね。徂徠はそのことを明らかにし、さらに『論語』の裏を読み、「正しい読み方はこうだ」と述べて、孔子の神秘のベールを剥いだのです。

つづく

荻生徂徠と本居宣長(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回はVoice5月号より、『江戸のダイナミズム』を元にした長谷川三千子先生との対談「荻生徂徠と本居宣長」を掲載します。コメントはエントリーに関するものに限りますので宜しくお願いいたします。

江戸の二大思想家が語る日本文明のダイナミズム
Voice 5月号(2007)より

西尾幹二(評論家)
長谷川三千子(埼玉大学教授)

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漢文訓読みの異常さに気づいた徂徠
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長谷川 : 久しぶりのご大著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)、面白く拝見しました。この本は「近代とは何か」ということが隠れたテーマになっていると感じられました。ただし、いわゆる時代区分としての近代ではなくて、むしろある〈意識の在り方〉としての近代といったものが問題になっているように思われたのですが・・・・・。

西尾  : 好むと好まざるとにかかわらず、「近代的なるもの」に私たちはすでに襲来されていて、古代人のように生きることはもうできません。たとえば神話はいまや古代人のように信仰の対象とするのではなく、学問の対象です。『論語』も『聖書』もそのまま信じるのではなく、成立史それ自体に疑問を抱かざるをえない。

 日本では江戸中期に活躍した儒者・荻生徂徠が早い時期から、このような近代的な文献学の問題にぶつかりました。

長谷川 : つまり、偶像破壊としての近代意識というわけですね。ただ、本書ではそれだけに終わらず、さらに一歩踏み込んだ問題提起をなさっているように感じますが。

西尾  : 偶像破壊という意味だけでなく、聖なるものに対し、主体的自我を立てて対決するというのが、一般に考えられる近代意識ですが、それだけで終わりません。聖なるものを壊してしまって、そのあとは平板な世界でいいのかというと、そうはいきません。聖なるものをもう一度再興しなくてはならない。ただ、なぜそういう二重の手続きになるかを考えたとき、その背景には危機意識があったのです。自我の尊大がそうさせたのではなく、新しい神を求めざるをえない時代の必然性があった。

 このような危機意識は中国にもありました。「清朝考証学」が辿り着いた問題点は「音」です。あれだけ広い地域で長い時間が経過すれば、かつて使われていた「音」が把握できなくなることは自明です。そこで、「かつてと異なる音で理解するのは問題である。漢の時代まで戻ってもう一度確認したい」という意識が生まれてきたわけで、これも存在に対する危機意識のなせる業、言葉と実在の不一致の自覚のせいだったと思います。

長谷川 : 中国のように表意表音文字しか存在しないところで、「音が大事」と言い出してしまうと、漢字そのものの根本的な否定にもつながりかねない問題になりますね。

西尾  : そして同じ自覚が日本で、清朝考証学の学者より早い時代に徂徠に表れた。徂徠は『学則』のなかで、訓読みの巧みさについて述べています。もともと訓読みは、漢文が中国語であることを徹底的に無視することから生まれました。これこそ七世紀の日本人の大きなドラマをもたらし、日本が中国文明から自己を切り離し、独立する最大の力をもたらしたものです。ただ、そこから千数百年を経て、徂徠は「それはおかしい」と気づいた。

 外国語として読むべきものを日本語として読めるというのは、異常なことではないか。やはり外国語として捉え直さなければならないと、痛切に感じたのが徂徠なのです。そのために大変な努力を行ない、教育法を開発して、中国語の書物を「唐音」ですべて読み通すことをやってのけた。そうして初めて中国語を「外国語」として再認識した。奈良・平安時代から漢文で書かれた経書や仏典は日本語に読み替えて理解されてきたけれど、「じつは外国語だった」ということを卒然と悟った感動が、徂徠の一生を貫いていくし、彼の思想の基本を形作るのです。

長谷川 : じつはその発想が、国学者・本居宣長とぴったり一致しているのですね。中国語をそのままに受け入れよと主張する徂徠に対して、「きたなき漢文(からぶみ)ごころ」をしりぞけよ、と主張する宣長は、一見すると正反対のことをいっているかのごとくですが、そうではない。宣長が「からごころ」と呼んで憎むのは、むしろ中国語が外国語でなることに気付かない、日本人たちの鈍感さなのですよね。

つづく

西尾幹二の7月の仕事

1、評論  「教育再生会議」有害論
  Voice 8月号(7月10日発売)
  7月号の「『教育再生会議』無用論」
  につづく第2弾。無用論は道徳教育をめぐって論じたが、
  有害論は学校選択制の根本的間違いを問い質す。

2、対談  「文明」に名を借りた戦犯裁判の欺瞞
  川口マーン恵美さんとの対談。
  正論 8月号(7月1日発売)

3、放送  オランダのインドネシア侵略史①7月3日 ②7月31日
  文化チャンネル桜「GHQ焚書図書開封」第12・13回分

4、出版  国家と謝罪
   ――対日戦争の跫音が聞こえる――
  徳間書店、約320ページの評論集。7月25日店頭。

5、出版  日本人はアメリカを許していない
  ワック出版。解説高山正之氏。7月末日刊行。

夏には外国旅行も計画しており、少しゆっくり内省したいので、このあとしばらく休憩します。また秋に活動を再開します。

小冊子紹介(二十)

謝辞 西尾幹二

 私にとって出版は余技ではなく、これをいわば生業として参りましたので、私は出版記念会をしてもらうべき立場ではないと考え、今まで固辞してきました。しかし今回気が変わりました。ある人に電話でそういうお話をいただいて迷っているのだと申し上げたら、「先生、お受けになってください。先生は明日お亡くなりになっても不思議はない年齢なのですから、ぜひお受けになってください」とズバリと言われて、ああそうかと思ったからです。

 私は格別健康に不安はなく、早くも次の著作へ向けて活動を開始しているのですが、言われてみればこの人の言うとおりです。私は『江戸のダイナミズム』よりもっと大きな本を書く計画ですが、運命がそれを見離すかもしれません。これが最後の大著とならないとも限りません。出版記念会を開いてお祝いしてあげようという友人知人の皆さまの声に素直に従うことにしました。

 私は28歳のときドイツ文学振興会賞という学会関係の小さな賞をいただいたことがあります。修士論文を活字にしたものです。「ニーチェと学問」と「ニーチェの言語観」の二篇が対象でした。もうこれでお分かりと思います。「学問」と「言語」は『江戸のダイナミズム』の中心をなすテーマです。若い頃の処女論文のあの日から一本の道がまっすぐに今日までつづいて、そしてそのテーマを拡大深化させたのが今日のこの本だと言っていいのかもしれません。

 学会に論文を推薦してくださったのが秋山英夫先生、論文審査会の審査委員長が高橋健二先生、そして、そのときのドイツ文学振興会の会長が手塚富雄先生でした。翻訳などでよく知られたこれらの先生がたのお名前を懐かしく思い出してくださる方もいるでしょう。ですが、もうどの先生もいらっしゃらないのです。

 「あのときの君のあの論文が今日のこの大きな本になったのだね」と言ってくださる先生がたはもう何処にもいません。人生の悲哀ひとしおです。

 本日の会を開いて頂いて、今度の本が私の一生にとっても特別記念に値する場所に位置していることを、このように改めて思い出させてもらったことも有難く思っております。

 それにしても、貴重な春の宵のひとときを犠牲にして私のためにこうして皆さまに御参集いただけましたことは、望外の出来事であり、驚き、かつ深く感謝申し上げております。

 会の企画を提案してくださった多数の発起人の諸先生、日本を代表する出版社のトップの方々、また具体的に今日の会を立案し、動かしてくださった事務局のスタッフの皆さまにも、厚くお礼を申し上げる次第です。

 本当に有難うございました。

小冊子紹介(十九)

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加地伸行氏から漢詩を頂きました

寄上梓紀念賀莚
西風如夢報邦恩
矯尾葵期力本論
幹器亂杯今夕酒
二毛文友忘忠言

平成丁亥四月初四

弧劍樓(印)

上梓紀念の賀莚(がえん)に寄(よ)す  加地伸行(孤劍樓)
西風夢の如く邦恩に報い
を矯(ため)せし『葵期(あふひき)の力本論』にあり
器 亂杯(らんぱい)せよ 今夕(こんせき)の酒
毛文友 忠言を忘る

平起 「紀年」は「記念」の華訳。「矯尾」は優辯無類。
元韻 「力本論」はダイナミズムの華訳。「文友」は作者。
   「忘忠言」は陶淵明「飲酒」の「辯ぜんと欲して言を忘れる」の戯用。

小冊子紹介(十八)

小林秀雄『本居宣長』のこと(2):西尾幹二

 私が宣長でぶつかった最大の謎は今のこの、文字なき時代の言語生活のテーマではなく、儒学という合理主義の唯中における彼の信仰の問題でした。私が宣長の同時代人としてのカント、それにベルジャーエフを引き合いに出してなかば絶句したあの問題です。小林秀雄がこの点でカントを気にしていたという話も私は聞いたことがありません。

 そんなわけで、私が小林秀雄『本居宣長』を私の本の中でぜひにも取り上げ、論及する必要がなかったことは以上で明らかでありましょう。方法論も、アプローチの仕方も、目的とする叙述の範囲も、全然異なる別方向の本なのです。

 本の帯が誤解を与えたと思いますが、帯は商品広告です。武田さんは小林秀雄の愛読研究家で、そういう人は日本の読書界に多いので、あえて申し上げたい。小林の目を通して世界を見て、それを世界の全部だと思うのはもうそろそろ止めた方がいい。

 小林秀雄を先達として尊敬することにおいて私は人後に落ちないつもりですが――私の批評家としての出発点は小林秀雄論と福田恆存論とニーチェ論でした――人は自分が選んだ師匠を真に師匠として信奉していくには、師匠とはまったく違った、場合によっては逆になる道を一生かけて切り拓かなくてはならないのがむしろ宿命なのです。私のこの本が福田恆存『私の國語教室』に反旗を翻したことに読者はお気づきでしょうか。

 私は本書のあとがきで、すべからく研究家は江戸の思想家からの引用文に現代語訳を添えよ、と強調しました。武田さんとは別の、小林秀雄のある愛読研究家がいて、「小林は自分の引用に現代語訳などを添えたりはしない。そういう低級な読者は相手にしないのだ」と信者らしい言い方をしたからです。

 しかしこれはおかしい。間違った考え方だと思います。私の見る処、現代訳語を添えない場合には、私が引用したような徂徠などの難解で長大な文章の引用はこれを避ける、という傾向、引用に自ずと制限が生じる傾向があるように思います。

 江戸の思想のあるものは言語的に本当に近づきがたいものになっているからです。徂徠も難しいが、契沖はもっと厄介です。私は友人の国文学者と中国文学者の援けを借りてもなお解けない謎に再三ぶつかって往生しました。

 今なお困難な読みの探索は続いています。

 私は可能な限り平明に書くのが文章の理想と信じています。少なくとも引用文で読者を迷わせることだけはしたくないと思っています。

小冊子紹介(十七)

小林秀雄『本居宣長』のこと(1):西尾幹二

 武田さんから右の手紙に小林秀雄『本居宣長』のことが述べられていましたので、いい機会ですから一言書いておきます。

 江戸思想の研究家で西洋や中国と比較しないで日本一国に立て籠もる方法論の狭さは、ひとり小林さんだけでなく、日本のすべての研究家についていえることだと思います。私はあとがきでそう書いたはずです。

 武田さんは私が自著の中で特別に小林秀雄を取り上げ、評価するなりきちんと所見を表明すべきだといいますが、それは必要なら私以外の第三者がなすべきことで、私が自著の中で、わざわざそんなことをするのはおかしいのではないでしょうか。

 『江戸のダイナミズム』は本居宣長や古事記伝を論じた本ではありません。私の最初の関心は荻生徂徠でした。そこから入って清朝考証学に関心が移りました。「音」が近代中国の学問の中心をなすテーマであることを知り、徂徠がこの問題意識で中国の学者に先んじていることに驚きました。日本ではその後「音」のテーマは国学に移り、宣長から橋本進吉へ受け継がれていくことを私は学習し、漢字を使う両文明の精神史の一面として追跡し、その順序で叙述しました。

 文字なき時代の言語生活の健全さ、すなわち言語は音であることは、言語学のイロハであって、これは格別誰の思想とはいえない自明の話だと思います。地球上で知られる言語の数は約三千、文字は約四百です。「言語学ではとくに断らない限り音声言語のことを言語と呼ぶ」(463ページ)のです。私はホメロスなど古代歌謡が文字を使わないで制作されたこと、中国神話の伝承には盲人がある役割を演じていたこと、釈迦の教えは仏滅から五百年間も文字に記されないで語り伝えられたこと、古代中国では文字が足りないので音だけ他字から借りる仮借がおこなわれ、これは万葉仮名の確立とも並行する現象であったこと、など、文字なき時代の言語生活をいろいろな角度から論じ、その流れは日本の仮名遣い論にまで及びました。

 これらは一般的にいって宣長の学説から学んだことではありません。宣長から学ばなければ「言語は音である」とはいえないと考えたこともありません。まして小林秀雄からこの点で格別に新しい知識を得たことはありません。ホメロスも、中国神話も、釈迦の教えの伝承も、仮借も、小林が取り上げ、論述した問題点ではなかったはずです。

つづく

小冊子紹介(十六)

寄せられた読後感から

武田修志(鳥取大学助教授)(2)

 ここで、この書を読んでいる間、ずっと気になったことを一つ、忘れないうちに書いておきたいと思います。それは、小林秀雄の『本居宣長』について、やはり、正面切って、二、三ページでも、論ずるべきであった、ということです。「あとがき」に、「名だたる文芸評論家が」うんぬんとありますが、この名だたる評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――そういう感じを、私は少し受けました。

 中途半端に触れていると言うだけではなく、私などは、この『江戸のダイナミズム』を一読したとき、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」という印象さえ受けたからです。

 それというのも、この書はあとがきにあるように小林の方法論の欠点を批判するところに成立している(図面を引くというやり方)わけですが、それと同時に、多くの知見を、小林の本に負うていると推察されるからです。例えば先生の主張の一つである、我が国において文字なき時代がじつに長く続いたこと、その時代には、その時代で人間の精神生活は十全におこなわれていたこと、その、文字なき時代の言語生活も、ある意味で完全であったこと、こういう洞察は、その大部分が本居宣長の発見によると言っていいのでしょうが、しかし、これらの洞察を、深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのは、やはり小林秀雄であったのではないでしょうか。

 もちろん、小林の名を出さなくても、こういう知見の出所については、本居宣長本人を引き合いに出せば済むことですが、それでも一度は正面切って、小林の『本居宣長』を取り上げて、この書のすぐれている点と批判すべき点を、『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだったと私は思ったのですが、いかがお考えでしょうか。

 この本を拝読して、これから「西尾日本学」のような物が書き続けられていくのではないか、という感じを強く持ちました。

 勿論これまでも先生の日本史を見る視点には、独自のものがあったわけですが、この著作によって、多くの読者に先生独自の、未来を切り開く視点のあることが知られるようになってきたと思います。これは私のような一市井の人間にも「考えるヒント」を与えるものですが、広く学問界にもじわじわと影響を与えていくことになるのではないかと思います。

小冊子紹介(十五)

寄せられた読後感から

武田修志(鳥取大学助教授)(1)

 「あとがき」に「長編小説と思って読んで下さっていい」という言葉がありますが、確かに私はこの評論を一遍の長編小説のように味わったという感じがします。これは、信ずるものをことごとく失って混迷を深めている現代日本における、新しい自己探求の物語と言ってよいのではないかと思います。平成日本の「聖杯物語」ですね。どんな価値も根底から疑わざるを得なくなった主人公が、前人未踏の野へ歩き出した、その最初の本格的な旅路を描き出したもの――そんな印象を持って二度通読しました。

 ごく普通の言い方をすれば、この書が言っていることは、江戸時代の再評価ということになりますが、この本はそういう手堅い目的をはみ出して、今言ったように、日本人にとっての「聖杯」を求めての自己探求となっています。

 その理由の一つは、やはり著者が、多くの江戸時代再評価論者とは、時代認識のレベルを異にしていて、近代的価値そのものを根底から疑っているからでしょう。(たとえば25ページに「私は『近代的なるもの』それ自体が今の21世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」という言葉が読まれます)。そして、どうして、著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう。『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども、究極的には人の魂の救いには無力です。

 この本において初めて敢行された批評的冒険は、日本を中心に据えて、単にヨーロッパと比較するのではなく、また、単に中国史・中国文化の影響を論ずるものでもなく、日本、ヨーロッパ、中国の三局を立てて、その精神の胎動、文化の動向を文献学というキーワードで締めくくるようにして、平行して論じたことでしょう。

 これは日本の学問界・評論界で初めて行なわれた試みではなかろうかと思います。これは極めて大胆な試みで、最初読んだときに、この本は何をテーマにしようとしているのか、いささかまとまりに欠けるという印象を抱きましたが、二回目に読むときには、この大胆な試みが、これまでにない、日本史、日本文化を見る視点を提供することになっていることに気づかされ、大変面白く、知的興奮を味わいました。

 先生のヨーロッパ文献学の造詣が深さは勿論知っていましたが、中国考証学についての御勉強ぶりには、全くびっくりしてしまいました。私などは、そもそも清朝考証学といってものがあることも、今回この書で初めて教えて貰った次第です。

つづく