投稿者: toshiueh
西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』の刊行(一)
青木直人さんと私の対談本『第二次尖閣戦争』は今、店頭に出ています。青木さんは中国と日本の政財界の不透明な関係を永年取材して来た方で、正義心と愛国心が確かな方です。北朝鮮にも詳しく、この本は東アジア全域の彼の今後の予測も語られています。
「まえがき」は私、「あとがき」は青木さんが書きました。「まえがき」をここに紹介します。
2010年9月の中国船による尖閣襲撃事件を私たちは「尖閣戦争」という名で呼んで、同名の本新書を刊行しました。好評をいただき、おかげさまで版を重ねました。
2012年9月に中国全土において反日暴動デモが起こり、そのあと中国公船の尖閣海域への侵入、威嚇、しつこい回遊、ならびに台湾船団の襲来と水の掛け合い等は、中国政府の激語を並べた挑発行為も含めて、「第二次尖閣戦争」と呼ぶにふさわしいと考えます。本書の標題はそのような意味で名づけられています。
さりとて本書は、海上で起こった挑発と防衛のシーンを報告したものでも、メディアの一部にすでに出ている両国海軍の実力比較や実践のシミュレーションを描いたものでもありません。事件の背景、世界の政治、経済、外交のさまざまな現実の問題から尖閣のテーマに光を当て、考察を重ねた一書です。それはつまるところ中国論であり、アメリカ論に尽きるといっても過言ではないでしょう。目次をご覧の通り、現代において尖閣問題が、頂上をきわめた中国の没落への秒読みと、黄昏の帝国アメリカの踏ん張りと逃げ腰の姿勢のどちらにリアリティがあるかという問題にほぼきわまるといっても、決して言い過ぎではありません。
冷戦が終わった二三年前から、日本の運命は中国とアメリカの谷間に置かれたことが分かっていました。いよいよ正念場を迎えているのです。われわれは両国の正体、その本音と詭弁、真実と偽装をしかと見つめて、道を踏み誤らぬようにしなければなりません。
詳しくは本書全体をお読みいただけばよいのですが、一つだけ本書を仕上げた後で感じたことで、私個人が強調して訴えておきたいことがございます。第四章の末尾に私は次のように書きました。
「第二次大戦のときもそうでしたが、中国の災いが日本にのみ『政治リスク』となって降りかかり、アメリカやヨーロッパ諸国は大陸で稼ぐだけ稼いで機を見てさっと逃げ出せばよく、日本だけが耐え忍ばねばならないのは、二十世紀前半とまったく同じ不運と悲劇であり得ることをよくわれわれは心し、今から万全の警戒措置をとっておかねばなりません」
今回の大規模デモ暴動に見る、わからず屋の中国人と、半ば逃げ腰のアメリカ人の姿から、私が本書の読者に訴えたいのは、「先の大戦がなぜ起こったか体験的にわかったでしょう、現代を通じて歴史がわかったでしょう」ということです。「100年以上前から日本民族が東アジアでいかに誠実で孤独であったか、日本人の戦いが不利で切ない状況下での健気な苦闘であったかが今度わかったでしょう」ということです。
そしてもうひとつ訴えたいのは、わが国は少しでも独立した軍事意志を確立することがまさに急務ですが、それには時間が、もうそんなにないということです。
われわれ二人は数多くの切実な問題点を本書で訴えました。私は前書にひきつづき良きパートナーを得て、今この大切なチャンスに、時を移さずに貴重な提言を重ね、読者の皆さまに注意を喚起することが可能になったことを、喜びといたしております。
目 次
1章 正念場を迎えた日本の対中政策
2章 東アジアをめぐるアメリカの本音と思惑
3章 東アジアをじわじわと浸潤する中国
4章 やがて襲いくる中国社会の断末魔
5章 アメリカを頼らない自立の道とは
中国に対する悠然たる優位
中国で起こった反日暴動デモについて、私が書いた最初の感想が次の文章です。『正論』11月号(10月1日発売)にのったわずか6枚の短文です。時間的にみて、暴動デモのテレビ映像がまだ生々しく瞼に残っているそんな時期に書かれました。題して「中国に対する悠然たる優位」です。
支那人は自分の喋っていることでだんだん昂奮し、自己催眠に羅る民族で、口角泡を飛ばしという形容があるがじつにその通りで、口の角から唾を飛ばし、足を踏み鳴らし、手を振り、上海では興奮の余りついに黄浦江に飛びこんで死んだのがいたそうだ。演説の値段は普通50銭で、巧いのは1円、女学生は別格でみんな1円、天津で女学生の演説を聞いてみると、森永のミルクキャラメルには毒が入っているから買うなと言っている。丁度その頃支那側で森永に似せた菓子を造りだしていた時で、菓子屋が女学生にお金をやって自社製品の宣伝をさせていたのである。新聞も随分デタラメで、例えば昨夜日本人が果物屋の店先にある西瓜に毒を注射して歩いたというようなことがでかでかと書いてある。長野朗『支那三十年』(1942年刊、GHQ焚書図書)の一節からである。
戦前の「排日運動」が一挙に火を噴いたのは1919年(大正8年)だった。支那の学校の教科書が余りにひどいのは当時日本でも問題になった。「地理」の教科書が最初に狙われた。日本に「あそこも取られた。ここも取られた」と書けば小中学生でも「なんて日本は悪い国なんだ」と思うようになる。しかも根拠のない嘘ばかりである。日本は「我が琉球を縣とし、臺灣(たいわん)を割(さ)き」などと書いている。
英米人の煽動も実に目に余るものがあった。ひそかに学生たちに運動費を出す。英語新聞が排日運動の音頭取りをやる。学生運動の拠点はすべて英米人の経営の学校だった。宣教師たちが排日運動には決定的役割を果たした。ことに基督教青年会の活動が目立った。第一次世界大戦中に拡大した日本の支那貿易をつぶすのに、日支離間を策したのである。
「日貨排斥」(日本商品のボイコット)が排日の第二段階だった。1923年頃から、排日の主役はコミンテルン主導の中国共産党にバトンタッチされた。この第三段階で排日は「抗日」へと転じた。もしそのとき日本の資本と英米の資本が手を結ぶことができたなら、一致団結してコミンテルンの動きを封じ、毛沢東の出現を阻むこともできたわけだが、英米人は愚かにも反共より反日を必要と考え、歴史の進歩に逆行した。二十世紀の歴史の暗黒化はここに始まる。第二次世界大戦における謎、英米のソ連抱き込み、日本の孤立、独伊への接近という流れは、英米が選択した進路だった。すべては支那大陸における「排日」から始まったのだ。支那人の対日劣等感、嫉妬心、自己の立ち遅れを正視しない唯我独尊、いつまでも自己を世界の中心と思い込む愚昧な独善性、煽動されるとどこまでも突っ走る付和雷同性、愛国心のかけらもないくせに群がるアリの集団ような盲目的集合性、人格の不在、宗教性の欠如――支那人、漢民族のこれらの未発達のいっさいのバカバカしさを利用したのが当時の英米キリスト教文化人であり、次いでロシア革命成功直後のコミンテルンの組織運動家たちだった。
昨年は、辛亥革命(1911年)から丁度百年経った。昨日今日の尖閣をめぐる大陸の騒乱を見るにつけ、中華民国治下の内乱時代の支那人の行動の仕方、生き方、考え方等々となにも変わっていないこと、その余りの進歩のないことにあらためて驚く。
なるほどわが国もまた同じ時代に英米文化、西洋文化の洗礼を受け、マルクス主義的共産主義の深甚な影響をもろに受けた歴史を持つ。愚かなイミテーション文化や観念的空想的理想主義を追い回した過去の幾多の錯誤は忘れるべきではあるまい。けれども、支那人たちの狂躁ぶり、無反省な惑乱ぶりを目撃するたびに、大抵の日本人は今や冷静に、軽蔑とある種の憐れみの念すら抱くであろう。
日本は成熟した国家である。いったいあれは何事かという以上の感想を持てない。支那人は森永キャラメルに毒が入っていたと女学生が嘘の演説をした時代と何も変わっていない。日本人は必ずしも意思的努力をして自己を確立しているわけではない。ただ、何となく自然に、日本国民は英米キリスト教文化もマルクス主義的共産体制も自分とは別の世界、他者であり、遠い世界であるとして客観視することができている。同時に、古代支那文化は尊重すべきだが、現代中国から学ぶものは何もないとはっきり認識できている。つまり、そう肩ひじ張らずに、自己を確立しているのである。そのことに自信を持ったほうがいい。
中国サイドからのあるレポートに、日本に対する経済制裁をせよ――とあったのを見て、私は笑った。日本は1996年以来、累計830億ドルの対中投資をしているのに対し、中国の対日投資はほとんどないに等しい。中国は日本からの投資だけでなく、技術に依存してやっと生産を支えている。重機やハイテク機器だけでなく、各生産物の部品や素材を日本からの輸入に負うている。今や日本は少しでもそれらを売りたいという根性をここで抑えて、中国の経済に痛打を与える経済制裁を実行すべきである。
はっきり言っておくが、中国に対し譲歩する姿勢で領土問題の落とし処を探り合うようなやり方をすれば、必ず相手は嵩にかかって威嚇してくる。力で押しまくってくる相手には力で押し返すしかない。日本の力は今のところは軍事力ではない。投資や技術の力である。これを政治のカードにする以外に日本に勝ち目はない。言い換えれば、経済が牙を持つことである。
日本の経済人がこのことを分かっていない耄碌(もうろく)ぶりは真に深刻な憂慮の種子である。経済人に言っておくが、尖閣を失えば、世界の中で日本はいっぺんに軽視され、国債は暴落し、株は投げ売りされ、国家の格が地に落ちた影響はたちどころに他の地域との輸出入にも響いてくるだろう。
戦後の日本は経済力が国家の格を支えてきたが、逆にいえば、国家の格が経済力を支えてきたともいえるのである。尖閣はだからこそ、経済のためにも死に物ぐるいで守らなければならないのだ。
「許容性資産指数」という国連の評価基準を用いると、中国のGDPはいまだ日本に及ばず世界第三位だそうである。中国の「環球時報」(電子版、2012年6月30日付)がそれを自ら認めている。
お知らせ3件 追記有り
1、 講演
西尾幹二講演会
日 時:11月11日(日)午後1時開場 1時半開演
演 題:小林秀雄と福田恆存の「自己」の扱いについて
場 所:ホテルグランドヒル市ヶ谷
参加費:¥2000
主 催:現代文化会議(電話03-5261-2753に事前に申し込んでください。座席数が限定されているためだそうです。)
2、 対談
西尾幹二 VS 福井義高(青山学院大学教授)
『正論』12月号(11月1日発売)
徹底検証対談 アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか(上)
――世界救済国家論とオールドライトの思想――
3、 新刊
西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』
祥伝社新書
11月2日店頭発売
1章 正念場を迎えた日本の対中政策
2章 東アジアをめぐるアメリカの本音と思惑
3章 東アジアをじわじわと浸潤する中国
4章 やがて襲いくる中国社会の断末魔
5章 アメリカを頼らない自立の道とは
追記
10月31日(水)路の会が開かれ、講師の孫崎享氏が新刊のベストセラー『戦後史の正体』と同じ題のテーマでお話して下さった。参集した会員は桶谷秀昭、高山正之、冨岡幸一郎、宮崎正弘、黄文雄、川口マーン恵美、西村幸祐、田中英道、藤岡信勝、伊藤悠可、倉山満、入江隆則、尾崎護、三浦小太郎、山口洋一、福島香織、北村良和、木下博生、大島陽一、佐藤松男、仙頭寿顕(文春)、小島新一(産経)、力石幸一(徳間)ほか徳間関係者数氏。
孫崎氏はGHQが戦後日本語をやめて英語を公用語に、円をやめてドル(軍票)を通貨にせよと対日要求したことに身をもって抵抗し、日本を守った外相重光葵(まもる)、以下愛国者の系譜を強調して語ったが、これはとても共感をよんだ。
総じてアメリカに対し主体的であろうとした日本外交の物語は共感をよぶ。たゞ鳩山由紀夫の「せめて県外移転」を同じ主体外交と氏が捕らえるのには少し違和感があった。
孫崎視は領土問題に関して「先占の理論」(先に占領している方が勝ち)はもう古く、国際司法ではこれは植民地時代の名残りとみられていて、今では決め手にはならない。決め手は条約にどう書かれているかであるという。
日本の戦後の領土問題はポツダム宣言受諾から始まる。同条約第8条で日本政府はカイロ宣言を受諾している。同宣言には日本周辺の諸島の帰属は連合国が決めると書かれていて、しかも「日本が中国から盗んだ領土」という文言があり、今後中国が有利であり、尖閣も北方領土も日本固有の領土という言い方は国際的に適用しないことになろう、等々。
当然ながら会員から異論が続出した。
日中間での「尖閣棚上げ論」はもともと日本に有利な考え方で、日本が率先してこれをくつがえすのは愚かであり、武力紛争になってもアメリカは介入しない、という氏の持論もくりかえされた。「棚上げ論」に立ち戻りたいというのは氏だけではなく、多分外務省の総意だろう。
しかし「棚上げ論」は日本が壊したのではなく、中国が日本襲撃の機会を狙っていて、ことここに至ったのだと私は解釈している。私はそういう見方だとこのときにも述べた。
孫崎氏と私とはアメリカへの不信と警戒において共有する側面があるが、中国観ではほとんど一致しない。中国を巨大市場とし、未来は中国にあるとの経済人に似た考えが孫崎氏にあるが、私はそう考えていない。
尖閣問題についての私の考えは、昨日刊行されたばかりの西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』を見ていたゞきたい。
路の会の今日の参集者は二十二名を越え、活発な論争が展開された。
追記の追記
孫崎氏との間でオスプレイをめぐる論争もあった。彼は沖縄の米基地反対運動と同じタイプの考え方を述べたので、私や西村幸祐氏や高山正之氏らが反論した。
私が沖縄にオスプレイが配備されたことは尖閣対策の一つであろう、と言ったら、孫崎氏は色をなして反駁し、オスプレイは尖閣防衛のためにあるのではなく、アメリカの世界戦略のためだけにあるのであって、尖閣のために使われることは絶対にないと断言した。
私がなにかで読んだのだが、と断って、沖縄のオスプレイ配備で自衛隊は中国の上陸部隊よりも30分以上早く尖閣に着くことができる、と書いてあったと述べたら、福島香織さんが中国側がいまそのように計算して、オスプレイに脅威をかんじているのは事実、と言った。
沖縄本島における、中国の侵略に対する警戒心や恐怖心のなさに私はつねづね驚いている、とも言った。沖縄県庁は中国のスパイに支配されているのか、それとも沖縄住民は血統的に中国系が大半で、中国領になった方がよいと思っているのか分からない、これは謎だ、と私は言ったが、孫崎氏のそれへの反論はなかった。
沖縄人が全員オスプレイに反対で反米闘争は全土を蔽っているといわんばかりの孫崎氏の見解に対し、現地を見て来た西村幸祐氏はそんな事実はなく、反米闘争は沖縄の外から来た左翼運動団体に牛耳られ、メディアが押さえこまれているだけで、住民はまったく違う自由な考え方を持っていると証言した。
西尾幹二全集 第四巻『ニーチェ』(第5回配本)刊行
本書『ニーチェ』は昭和52年(1977年)に中央公論社より二部作として二巻本で刊行された。私の著作としては最初の大作であり、学問的論著でもある。平成5年までに四刷を重ねた。
平成13年(2001年)にちくま学芸文庫として粧を改めてやはり二巻本で改版された。そのとき原著にはない人名索引が付せられ、さらに読者へのサービスとして、新聞雑誌等で原著に寄せられた大小十七篇の論評の中から、重要な七篇をあえて再録し、参考に供した。私の本の中では最も多く評価の言葉をいただいた作品であったからである。
このたび本全集の第四巻として刊行されるに当り、論評集をも引き継いだが、原著に寄せられたもうひとつの大型の論評をも、古雑誌の中から引き出して新たに収録した。故渡邊二郎氏との対談「ニーチェと学問――『悲劇の誕生』」の周辺がそれである。これは雑誌「理想」1557号、1979年10月号の特別企画であった。ニーチェやハイデッガーの研究家で哲学畑の渡邊氏の批評の掲載には他にない意義が認められる。
しかしこの本は決して読みにくい難しい本ではない。本全集には四人の校正者がついているが、その中の一人が「冒険小説を読むようにあっという間に読んだ」と言っていた。それには骨がある。序論をとばして、第一章「最初の創造的表題」から読み始めてほしい。一人の天才の青春物語である。
その証拠に刊行時に、この本に推薦のことばを書いてくださった故齋藤忍随氏(古代ギリシア哲学)が次のように言っている。
「評伝文学の魅力」― 齋藤忍随氏
三つの逸話があれば、その人間の思想を描きうるという意味の言葉がニーチェにあるが、そのニーチェがギリシア古典の研究者としてスタートを切った事実は、いわば逸事としてこれまで完全に黙殺されて来た。若いニーチェの生活と思想に迫る西尾氏の文章は、初めてこの事実の解明を試みた綿密な研究であるとともに、評伝文学の魅力に溢れており、陶酔朦朧体の饒舌とも、乾燥無味調の講釈とも類を異にした傑作である。(東大教授・古代哲学)
最後のことばに注目してほしい。学問とは物語だという私の主張がよく理解されている。
本巻の帯には「あとがき」から次のことばが選ばれている。
ニーチェをその背後から、すなわち十九世紀の生活と思想の具体的な「場」に彼を据えて、そこから見るという視点は成立たぬものか。彼が否定した世界を矮小化せずに、むしろその動かぬ必然性の内部に彼を置いてみる。ニヒリズムを具体的に生きた一人の人間の形姿を、私はニヒリズムという言葉を使わずに描いてみたかったにすぎない。(あとがきより)
本巻は二部作を一冊にまとめたので792ページ(ほかにグラビア10ページ)にもなり、定価も高くなっているのはお許しいたゞきたい。以下に目次を掲げる。
目 次
第一部
序論
日本と西欧におけるニーチェ像の変遷史……………15
Ⅰ 一八九〇年 …………………………………………………17
最初の反響と興奮(18)一八九〇年代のドイツ(22)高山樗牛の誤解と正解(24)Ⅱ 一九〇〇年 ― 一九二〇年………………………………32
弁護と解読のはじまり(32)アロイス・リールの文化的解釈(36)ファイヒンガーの『「かのように」の哲学』(37)ラウール・リヒターの生物学的進化論(39)ヨーエルのロマン主義者ニーチェ像(40)日本人の仕事の再検討(42)現代人にとってのニーチェの意味(44)和辻哲郎の独創と限界(47)ジンメルと阿部次郎(50)永劫回帰説をめぐって(52)マックス・シェーラーのルサンチマン論(55)Ⅲ 第一次世界大戦 ― 一九三〇年…………………………61
ゲオルゲ派の神話的ニーチェ像(61)ベルトラムと小林秀雄(66)クラーゲスの心理主義(71)Ⅳ 一九三〇年 ― 第二次世界大戦…………………………79
ドイツにおけるニーチェ観の多様化と深化(79)大戦前夜と日本の近代||シェストフ論争(82)解釈者自
身が問われるニーチェ解釈||ヤスパースとハイデッガー(88)『アンチクリスト』におけるルター批判の一
例(95)日本人としての課題(101)第一章
最初の創造的表現……………………………………………107第一節
早熟の孤独…………………………………………………109
六人の婦人と一人の男児(109)十三歳の自叙伝(114)フリッツ、ピンダー、クルーク(117)母からの解放と呪縛(120)
M・エーラー『ニーチェの祖先の系図』(124)父方の祖父母(127)幻想としての父親像(129)第二節
思春期の喪神…………………………………………………135
年少の覚悟(135)プフォルタ学院への誘い(136)プフォルタ学院生活とホームシック(141)得られなかった新しい友情(144)本書叙述の方法(148)母からの離反と信仰問題(150)青春の哲学的著作から(154)
第三節
ヘルダーリンとエルマナリヒ王伝説――青春の危機……………161
「ゲルマニア」同人の活動(161)オラトリオの作曲(163)ワーグナー音楽との最初の出会い(166)ヘルダーリン発見の先駆け(169)多産な青春の危機(175)エルマナリヒ王伝説との格闘(182)第四節
音楽と文献学のはざま…………………………………………188
史実と神話の境い目(188)エルマナリヒ研究の重要性(196)雷雨とピアノ(199)自称初恋とエロの混乱(201)知識の拡散と「気分について」(206)職業の選択への迷い(210)第五節
書物の世界から自由な生へ……………………………………214
生徒ニーチェの語学力(214)ニーチェの生涯におけるプフォルタの意義(218)『悲劇の誕生』の萌芽(221)プフォルタ学院との別れ(225)ラインの旅とボン到着(229)学生組合フランコーニアへの加盟(233)第二章
多様な現実との接触…………………………………………241第一節
フランコーニアの夢幻劇……………………………………243
クライストとシェイクスピアの場合(243)ボン大学生の夢と行動(246)集団へのアンビヴァレントな関係(252)ニーチェの決闘事件(256)学生組合フランコーニアからの脱退(262)反時代的浪漫主義の挫折(269)第二節
ショーペンハウアーとの邂逅…………………………………274
ケルンの娼家と『ファウストゥス博士』(274)ボンからライプツィヒへ(280)『意志と表象としての世界』と
の邂逅(282)影響とは何か(286)第三節
文献学者ニーチェの誕生………………………………………291
リチュル教授と古典文献学界(291)文献学者としてのデビュー作(303)憂愁の悲劇詩人テオグニス(308)学者としての自己限定(312)青年の成熟と自己批評(314)
〔追記〕
ニーチェの父の死因 133
「 リチュル╱ヤーン争い」の経緯 296
プフォルタ高等学校の卒業論文「メガラのテオグニスについて」 315第二部
第一章
自己抑制と自己修練………………………………………325第一節
哲学と文献学の相剋……………………………………………327
生の慰めとしての哲学(327)リチュル教授一家との親交(332)ランゲの形而上学否定に感銘を受ける(338)
第二節
ラエルティオスとアリストテレス……………………………344
テオグニス、スイダス、ディオゲネス・ラエルティオス(344)ディオゲネス・ラエルティオスの典拠批判(349)学問への疑惑のはじまり(354)アリストテレスの著作目録(358) アリストテレス研究史の流れの中で(360)抑えられていた世界観的欲求(368)第三節
恋とビスマルク……………………………………………375
女優ヘートヴィヒ・ラーベ(375)普墺戦争下のザクセンの状況(379)ニーチェのビスマルク観(384)第四節
ライプツィヒの友人たち………………………………………390
パウル・ドイセンの場合(390)さまざまな友人群像(396)エルヴィン・ローデの場合(400)第二章
新しい飛躍への胎動……………………………………………411第一節
バーゼル大学への招聘………………………………………413
本書叙述の方法(413)兵役義務に対する態度(417)軍隊と文献学へのイロニー(419)解釈学の新しい問題(423)
ワーグナーとの初会見(428)バーゼル大学への異例の招聘(431)第二節
赴任前の日々…………………………………………440
論文免除で学位を得る(440)スイス国籍に変わる(442)ローデの不遇にみせる姿勢(444)ドイセンへの絶交状(450)幸福と健康の底にある翳り(453)第三章
本源からの問い……………………………………………457第一節
歴史認識のアポリア……………………………………………460
古典文献学の伝承史的方法(460)就任講演「ホメロスの人格について」(463)十九世紀文献学の理想と使命(466)ニーチェの学問批判の根柢性(468)第二節
ワーグナーとの共闘…………………………………………472
バーゼル人気質とニーチェの孤立(472)トリプシェン初訪問(475)急迫する感激の高まり(478)蜜月時代(481)新しいギリシア像への転換と予言(486)自由人の行為の秘密(491)「 新しい大学アカデミー」を求める運動(497)第三節
フランス戦線の夢と行動……………………………………504
普仏戦争開戦(504)マデラーネル渓谷での決心(506)『悲劇の誕生』と『ベートーヴェン』(508)芸術家の陶酔と覚醒(513)ディオニュソス的人間はハムレットに似ている(516)認識者の実験(520)第四章
理想への疾走………………………………………………527第一節
バーゼルの日常生活…………………………529
バウマンの洞窟(529)オーヴァベックとの交渉(530)部屋、服装、散歩、社交界(533)高校教師としてのニーチェ(536)第二節
『悲劇の誕生』の成立次第………………………………………544
哲学教授への転籍をはかる(544)厖大広汎な書物の構想(549)『悲劇の誕生』の成立(554)ヤーコプ・ベルナイスによるアリストテレスのカタルシスをめぐる新解釈とニーチェの悲劇観(561)ブルクハルトとの交渉の発端(571)第三節
歴史世界から自然の本源へ ―― 初期ニーチェの中心問題…………578
近世形而上学の帰結としてのショーペンハウアー(578)主観的認識論を超えギリシア的存在把握へ(584)ヘラクレイトスと自然の原世界(591)HistorieとPhilologieの相反(595)ゲーテ以後の古典研究の状況(601)西欧的時間観念からの離脱(607)第四節
十九世紀歴史主義を超えて……………………………………614
教育問題への発言とブルクハルトの反応(614)『悲劇の誕生』をめぐるリチュル、リベック、オーヴァベック、ローデ(618)トリプシェン最後の訪問とバイロイト起工式(625)ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフの攻撃文書とニーチェの立場(627)ワーグナーとローデの応酬(636)理想への疾走(642)〔追記〕
リチュル教授の生涯と学問 336
学生時代のニーチェの文献学業績総覧 370
パウル・ドイセンの学問上の業績 395
デモクリトス研究における解釈学の問題 426
『悲劇の誕生』の予備作品 524
ニーチェのバーゼル大学講義題目(一八六九夏 – 一八七二夏) 552
『悲劇の誕生』出版後の読者の反響 647〔附録〕
ニーチェの祖先の系図 マックス・エーラー編 651
参考文献目録 675
あとがき 676
ひとこと 681
書評 浅井真男(683)茅野良男(686)植田康夫(691)吉沢伝三郎(695)平木幸二郎(701)桶谷秀昭(705)谷口茂(707)
追補 渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」…………………711
後記……………………………………761人名索引 790
夏から秋へ
今日はいま具体的にどんな活動をしているか、また今後どんな予定を立てているかをお知らせしておきます。
勤務はないけれど、毎月必ず規則的にめぐってくるのは「路の会」の主宰と「GHQ焚書図書開封」の録画です。三ヶ月に一巻の全集の刊行も規則的にめぐってきます。
「路の会」のことはほとんど書いたことがありませんが、この数回の外部講師は中野剛志さん、藤井聡さん、河添恵子さん、竹田恒泰さん、そして今月は孫崎享さんです。
「GHQ焚書図書開封」の録画は第113回を数えました。本になっているのは約三分の二です。いま戦時中に書かれた近現代史の通史のようなものといえる大東亜調査会叢書シリーズを追っていて、今月は第112回「満洲事変とは何か」、第113回「国際連盟とは何だったのか」を放映します。
このところ『WiLL』は少しお休みしていますが、書きたい新情報がないのです。今月は『別冊正論』(18号)と『正論』11月号とに書いています。どちらも中国問題で、前者は中国人に対する労働鎖国のすすめがテーマであり、後者は尖閣暴動に対する私の最初の所見です。
チャンネル桜が『言志』というメルマガを始めたので、お付き合いですでに1~3号に書きました。4号もたのまれているので書く予定です。第1号は「戦後から戦後を批判するレベルに止まるな」、第2号は「取り返しのつかない自民党の罪過」、第3号は長い題に取り替えられたので思い出せません。尖閣がテーマです。第4号はメディア論を書けと言われています。いずれも8枚~10枚の短文です。
西尾幹二全集第四巻『ニーチェ』は間もなく刊行されます。夏からずっとこの校正に苦しんできました。「後記」は第三巻ほど長くありませんが、それでも往時の諸事実を正確に思い出し、記録するのは大変でした。二部作を一巻にしましたし、長い付録もついていますので772ページの大著になります。
それからこの後お伝えするのが夏から秋へかけずっと取り組んでいた新しい課題で、主要な部分は夏の前半にまとめ、この9、10月に整理した3冊の新刊です。
1.青木直人氏との対談本『第二次尖閣戦争』祥伝社新書(11月2日発売、7日には店頭)
2010年に『尖閣戦争』として出したものの続編です。これは版を重ねました。
2.竹田恒泰氏との対談本『皇室問題と脱原発』飛鳥新社(12月2日刊)
皇室問題では女系天皇説の黒幕田中卓元皇學館大學学長を二人で彼の学問の危うさを突いて、根底的に批判しています。
3.『中国人に対する「労働鎖国のすすめ」』飛鳥新社(1月15日刊)
1989年刊「労働鎖国のすすめ」の復刻が後半。前半は中国人定住者増加の現実とその政治的危険を戦前の中国ウォッチャー長野朗の洞察を取り入れて、私が書き下ろしたものです。
以上三冊はほゞ作業の大変を終わっています。1.はあと2日で、2.はあと10日で校了となります。3.は整理に少しかかります。
来月号になりましたら青山学院大の福井義高さんと行った日米戦争をめぐる対談を『正論』で二回掲載します。私の『天皇と原爆』(新潮社)を福井さんに論評してもらいつつ、彼のユニークなアメリカ観に耳を傾けます。
そして恐らく3月号から私の長編連載『戦争史観の転換』が『正論』でスタートします。
尚、11月11日に「小林秀雄と福田恆存の『自己』の扱いについて」と題した講演を行います。現代文化会議主催で、会場はホテルグランドヒル市ヶ谷。午後1時30分~5時、お申し込み予約は電話で03-5261-2753でお願いします。入場料¥2000です。
西尾幹二全集刊行記念講演「戦争史観の転換」要約と感想
ゲストエッセイ
中村敏幸氏による感想
今回の御講演に於いて、先生はペリー来航以来我が国が対峙してきたアメリカに対し、そもそも「アメリカとは一体何者か」という根源的な問題提起をされ、続いて近現代史の定説を覆す画期的な数々の見解を披歴されました。以下に御講演の要点をまとめ些か感想を述べさせて頂きます。尚、「 」内は先生の御講演内容の要約であり、他は投稿者の感想です。
1.アメリカとは一体何者か
先生は冒頭、「太平洋を隔てた遥か東の大陸に、今からわずか350年程前に、突然異変が起こりました。予想も出来ない異変。把握しがたい別系列の人種、別系統の文化、自然信仰ではない、一神教教徒の集団が出現しました。これがまた厄介な相手で、どんなにはた迷惑でも無視する訳には行かないのであります。この様な隣人の存在は正直言って、我々にとって不運であり、不幸であります。しかし、我々は過たない様にするためにその存在形式を見極めて耐え忍ばねばならないのも現実であります。アメリカとは一体何者か、アメリカ自身は最も代表的な国のような顔をしていますが、アメリカは一つの国家だろうかという疑念を抱くのであり、アメリカは他の国々と全く異質な国なのではないか」という極めて大胆で根源的な問題提起をされ、「我が国が道を過らないためにはその正体を見極めなけれはならない」と訴えられ、数々の見解を提起されました。
2.第一命題:「アメリカにとって国際社会は存在しない」
先ず、「先の大戦が終わって67年、米ソ冷戦が終わって23年、少しずつ分かってきたことが有ります。米軍がヨーロッパ、ペルシャ湾岸地域、東アジアに駐留していた理由は、長い間ソ連に対する脅威だと思い込まされてきました。しかし、冷戦が終わり、ソ連が崩壊して脅威が消滅しても、米軍は撤兵しない。世界中の基地を維持し続けています。そもそも日本の本土は兵力がほぼ空っぽなのに基地は返還されません。人々はアメリカのこの特権的な地位に対し、おやこれはおかしいぞと思い始めていると思います。第二次大戦の終結により、西欧諸国は植民地の独立を認めざるを得なくなり、冷戦が終わり、世界は『ウェストファリア体制』に立ち戻ったかに思われますが、しかし、どうもそうではない、アメリカはそういう国々の一つと思っていないようであり、アメリカは国際社会の一員ではありません」と説かれました。
つまり、「アメリカは国際社会の一員ではなく、世界を一極支配する役割を担った国である」と自己認識している国であると結論づけられたように思います。
確かに冷戦が終わっても、アメリカは一部を除き世界中の基地を維持しているだけではなく、湾岸戦争やイラク戦争、コソボ紛争に続いてテロとの戦いを唱えアフガン戦争を引き起こし、撤兵するどころかサウジアラビアやコソボなどに巨大な軍事基地を増設しています。また、アメリカは「六か国協議」という茶番劇を続けながら北朝鮮の核開発をなし崩し的に容認し、中国の軍拡もアメリカの東アジアに於ける軍事プレゼンスを正当化するために必要としており、フィリピンからの撤退も中国の脅威を助長するためではないかとさえ疑われます。
3.第二命題:アメリカ人の自己認識
ここでは、「アメリカは独立当初から、旧大陸ヨーロッパは老成し、頽廃し、病んでいる。新大陸アメリカこそ純粋な救い主であるという観念を基本として長い間持ち続け、『アメリカは一つの国家であると同時に世界である』と常に主張しているかに見えます。」と説かれました。
続いて「私が最近読んだ、1968年に出版されたアーネストリー・テューブソンという宗教学者の『救済する国家アメリカ』という本の序文には『旧世界の頽廃と新世界アメリカのイノセンス』、と書かれており、ヨーロッパは駄目だアメリカこそ救い主だと言っている訳で、このような観念がアメリカ人の胸中に宿っていると思います。」と説かれました。
思うに、建国の父といわれた清教徒は、旧約聖書の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲んでおり、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であり、その意識が今日でも根強く残っているのではないでしょうか。確かに、今日のアメリカに於いて強い影響力を持つキリスト教原理主義者は、旧約聖書の無謬性を信仰の中心に据えており、旧約聖書に書かれたことをそのまま信仰する者にとっては、世界は選ばれた民の支配するべきものであり、この観念がアメリカ人の心の奥底に脈々と受け継がれているように思います。
4.戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国アメリカ
「アメリカという国は最初から強い国であった訳ではなく、19世紀の初頭までは実力のない新興国でしたが、独立戦争、南北戦争、米墨戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦い、戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国です。第二次世界大戦に於いても、戦争の初期と終わり頃とでは、アメリカの戦争の仕方はガラリと変わりました。戦争の初期はシンガポール陥落に見られる様に、平家物語の世界のように一番乗り、二番乗りを讃え、また、第一次大戦風の意識で戦っていました。しかし、1943年(昭和18年)以降大きな転機を迎え、アメリカの戦い方はガラリと局面を変えて、命中精度を求めた戦いから、大量の弾薬を消費する戦争になりました。集中砲火、火炎放射器の登場、そしてB29が登場して絨毯爆撃が始まり、最後には原爆投下まで行い酷薄で無慈悲になりました。」
「わずか350年前に生まれ、東アジアには無関係な国が何故そこまでやるのか、あの国の異常さとは何なのかを歴史を遡って考えて見ることが重要です。何故アメリカは繰り返し戦争をする国なのか、戦争の度に国家規模を大きくする国、少なくとも国家体質を大きく変化させる国、戦争が終わってからではなく戦争の真っ只中に変質する国、そして、それが次の時代への適応を果たす国。こんな国はアメリカの他に例がありません。そして、それは戦争が終わった以降の70年近くに及ぶ地球支配の構造を決めています。」
また、「日本はみすみす負けると分かっていた戦争に準備不足のまま不用意に突入したと言われますが、そんなことはありません。開戦当初は勝敗のゆくえは分からなかったのです。ところが、アメリカは1943年以降、突如、巨大で酷薄な軍事国家に変身したのです」と説かれました。
振り返って見ると、アメリカは建国以来戦争を好み、現在に至るまで殆ど絶えることなく戦争を繰り返し、その都度変質を遂げて強大になってきた国です。そして今日に於いても、アメリカは国力が衰え始め、世界一の借金国になりながらも、世界一の軍事費を使用し、更に日本や欧州諸国に支援を強制してまで戦争を続け、アメリカ一極支配によるワンワールドを目指しているように思われます。
5.権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治
「権力と政治の関係には、『権力をつくる政治』と、それに対し『つくられた後の権力をめぐる政治』の二通りがあり、『権力を作る政治』はむき出しの暴力を基本としていますが、我々が議論している政治は皆後者です。第一次大戦後、ワシントン会議やロンドン軍縮会議が行われましたが、これも何処かで権力がつくられた後の政治です。
しかし、つくられた権力が行き詰まり、大きな裂け目が生じた時には、権力をつくる政治が行われ、その時にはむき出しの暴力が出現するということを歴史の上で度々経験させられてきました。現代もそうです。500年続いた資本主義の歴史が行き詰まり、金融資本主義が限界まできています。」と説かれ、アメリカによって、「また新たな権力をつくる政治」が行われつつあると警鐘を鳴らされました。
6.第三命題:脱領土的他国支配
ここで先生は、アメリカの他国支配が脱領土的遠隔支配であることを説かれました。
「白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代からは自国の外に掠奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを通例としてきましたが、アメリカは例外で自国の外に奴隷の地を確保する必要が全くありませんでした。アメリカは領土と資源に恵まれ、人口密度も希薄で、移民を必要としていた位ですから膨張する必要の全くない国でしたが、その国が何故膨張してきたのか、ここに大きなこの国の持つ矛盾と謎があると思います。アメリカの西進は膨張する必要が無いのに『マニフェスト・ディスティニー』という、神がかり的な宗教的信条に基づいて行われてきたことは良く知られています。アメリカは中国大陸で列強が根拠地を求めて戦うことに冷淡でした。必要が無かったからです。そこで、『脱領土的他国支配』の方式を考え出したように思います」
「大戦前、日本の指導者には利害関係に於いてイギリスを中心とするヨーロッパ的なギブ&テイクの国際関係は理解しやすかった。しかし、アメリカは、ヨーロッパ的なやり方を取らない。最初に私が提起した第一命題のように『アメリカにとって国際社会は存在しない』のです。日本の指導者にはアメリカの心の闇は理解出来なかったのです。イギリス人にも読めませんでした。イギリスにも読めなかったことが日本に理解できる訳がありません」
「日露戦争の後1907年頃から日米関係が悪化したことは良く知られています。ワシントン会議からロンドン軍縮会議を経て、正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力によって世界の遠隔操作を目指すアメリカの変質、これは日本には理解出来きず、何とか折り合いをつけ妥協しようとしましたが翻弄され続けることになりますが、ここにもアメリカという国の権力の出現が影響していると思います」
「日本はあの大戦前どうしてよいか分かりませんでした。アジアを解放しようとするより、アジアに仲間が欲しかったのです。そして、恐怖や不安を仲間と分かち合いたかったのです。一緒にやろうと、早い時期に中国にも韓国にも呼びかけているわけですから。しかし、相手が無知迷妄、危機感もないし、危機感を持っていたのは日本だけでしたから、ひたひたと不安が押し寄せていました」と世界の脱領土的な遠隔支配を企てるアメリカの野望に翻弄された日本の戸惑いと苦悩を語られました。
司馬遼太郎は日露戦争までの日本は賢明であったが、それ以降急激に愚かになり、特に昭和は愚かで嫌いだと切り捨て、保守と称する人々の多くも司馬史観なるものに毒されておりますが、司馬氏を地獄の底から連れ戻し、先生のこの見解を下に論戦を挑みたい衝動に駆られます。また、ウクライナ大使等を歴任された元外交官の馬渕睦夫氏は、近著「いま本当に伝えたい感動的な日本の力」の中で、「昭和に入ってから急に大政治家戦略家がいなくなったわけではありません。明治維新以来の課題が先送りされ困難が積み重なってきた結果、昭和に入って進退窮まってしまったのです」と書いておられますが、西尾先生が展開された論にも相通じるように思います。
司馬氏や昭和史の大家と称せられる輩は、アメリカの理解しがたい「脱領土的他国支配」に翻弄され包囲された当時の為政者の苦悩を憶念することなく、西尾先生の言われるように日本国内のことのみを考察するだけで、当時の世界がどのような意図のもとに動いていたのか、更にその下に隠されていた闇を見ない、先生の言われる「蛸壺史観」の持ち主に過ぎません。
7.戦後書かれた歴史書は中立的で日本人の叫びが書かれていない。
次に先生は、大東亜戦争調査会から出版されたGHQ焚書図書の一冊である「米英の東亜制圧政策」という昭和16年に出された本を取り上げられ、「戦後書かれた歴史書はまともな本でも、どれを読んでも中立の立場で書く、当時の追い込まれていた日本の声を誰も書いていない。即ち半分はアメリカの立場で書いている。これを読むと当時の日本人の叫びが全部分かります」と語られ、「この本の中にワシントン会議に出席したフランスの海軍大学校長カステックス海軍中将が、『世界大戦中日本は協商側に属した、ところがワシントン会議が始まるとイギリスはたちまち仮面をはいで、海軍
の海上優越権をアメリカに譲りたくないという腹から、20年来の盟邦日本を見捨てることに同意し、日英同盟を廃棄してしまった。・・・・。この時から日本とアングロサクソンとの潜在戦争は重大化した』と述べたことが書いてあります。戦争は始まっていると言っているのです」と説かれ、更に、「この本の中に『アメリカとイギリスによる対支文化工作の具体的内容』という章があり、キリスト教布教を中心とする文化侵略について詳しく書かれております。
支那大陸では学校等の文化施設がキリスト教組織に支配され、大変巧妙なやり方で牧師や教会が後ろから支那の青年たちに反日を焚き付け、反日運動に対し英米系のキリスト教組織が背後に有ってお金を配って煽動していました。日本は調査を徹底して行い事実を知っていたのです。だとしたら日本は方策を過ったのではないでしょうか。
知識人は知っていて書いているのに政治家を中心とする要路の人には届かなかったのです。読んでいても動かない、具体的な行動に反映させなかったのです」と説かれました。
我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入したというのが定説になって居りますが、そんなことはなく、少なくとも当時の識者はアングロサクソンの世界支配政策をしっかり調査し把握していたのであって、その事実はGHQによる焚書によって闇に葬られてしまったのです。そして、先生は戦後書かれた歴史書には対日包囲網の中にあって苦悩する日本人の叫びが聞こえてこないと訴えられました。
8.アメリカがどうしてパワフルな統一国家になったのか
「アメリカは独立戦争が終わると中央政府の力は衰え、主権のある独立したバラバラの州をどうやって一体性のある一つの国にまとめるかというのがワシントン以下の政治家にとって重大な課題でした。それが確立されアメリカがアメリカになった時、それが南北戦争です。大事なことはこの戦争の究極的な目的は、奴隷解放がメインではなく、州権を押さえて統一ある連邦の回復でした。リンカーン自身が大統領就任演説で『私は現在の奴隷州の奴隷制には直接的にも間接的にも干渉するつもりはない』と言っております。長い戦争であり、戦争が進行していく中で、結局奴隷制そのものを無くさないと南部の権力を倒すことが出来ないということが分かってきました。逆に言うと南部を叩き潰すことによってアメリカはアメリカになったのです。これによって、19世紀以降のアメリカの膨張の礎石が築かれ20世紀の運命を大きく変えてしまったとハッキリ申し上げてよいと言えるでしょう。何故なら、南北戦争以降、急速にアメリカの経済は発展し、産業国家としてアメリカの勢いが増し、膨張国家としても激しく大きくなって行き禍を世界中に振りまきました。もし南北が円満に分かれ
て州が独立した国家になっていれば、ヨーロッパのようにアメリカ大陸がいくつかの国に分かれていたら我が国の運命はどんなにか救われたことでしょう。私の今日の話はここに行きつく訳です。」と語られました。
「南北戦争に於いて奴隷解放は手段であり、統一された連邦国家の実現こそが戦争の目的であり、この戦争によってアメリカがアメリカになり、膨張国家として世界に禍を振りまくスタート地点になった」と南北戦争に対する常識を覆す見解を提示されました。そして次に、それでは南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのかに論題が移ります。
9.南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのか
「南アメリカには16の独立国家が生まれました。統一しようという動きは勿論ありましたがそれが出来ませんでした。それに対しアメリカは何故出来たのか。それはメシア的な思想によるものです。リンカーンは宗教家です。宗教的な信条が強かった人です。アメリカは国家であると同時に世界である。アメリカは常に世界政府を目指す。むきだしの暴力によって権力を作る政治を目指す。つくられた権力による政治は他の民族に任せておけば良い。アメリカが権力をつくるのだ。これは宗教的な情熱なくしては出来ません。その証拠として先程申し上げたテューブソンの思想をいくつか紹介しますと『合衆国は黙示録の指定された代理人として自らを正当化する必要は殆どない。神の摂理のステージ・マネージャーが歴史というステージの両翼からアメリカ国民が立ち上がるよう命じたかの如く思われる』、『千年至福王国理論の考え方はアメリカ植民地に対する独立の考えが誰かの頭に浮かぶ遥か前からあった。それはデモクラシ―の理想から独立して存在した』。即ちアメリカ国民は聖なる国民であると言っているようなもので、こういうことが力と結びついていたことは間違いないと思います。」と説かれました。
テューブソンは、そもそもアメリカは独立戦争の前から、「千年至福王国を実現するために誕生した国であり、これは神の摂理である」と主張しているのですが、この宗教的信念によって北アメリカは統一を実現したと先生は説かれたのです。
10.海上覇権国家ポルトガルとアメリカ
最後に先生は、アメリカは「脱領土的遠隔支配」をポルトガルの海上支配に学んだのではないかという仮説を披歴されました。
「地球上を最初にかき回したのはスペインとポルトガルでした。つまり500年位前に『トリデシリャス条約』というものによって世界を二分しました。これは私の仮説ですが、スペインとポルトガルが世界へ進出した時のやり方に違いがありました。スペインは陸即ち領土を侵略するやり方でしたが、ポルトガルは海でした。脱領土のやり方でした。スペインは荘園をつくって大土地所有による領地支配をしたのですが、ポルトガルは海上を支配しただけなのです。スペインは大西洋を西へ真っ直ぐに進んだのですが、それに対しポルトガルはバスコ・ダガマがアフリカの西海岸を南下して喜望峰を回って北上しインド洋へ出ました。スペインとポルトガルでは侵略した地域の文化程度がちがっていました。ポルトガルが侵略した印度洋やアジアは豊かな海域であり、侵略した地域と折り合うことができませんでした。そこで、ポルトガルは『ポルトガルの鎖』を海上に張り巡らして、入港してくる交易船を掠奪しました。このやり方をイギリスが真似をします。18世紀位まで海上を封鎖する方法をとります。アメリカは遠隔操作の国と言いましたが、金融と海上と空の支配、ポルトガルとやり方が似ていませんか。アメリカは世界的規模で起こったことをしっかりと意識の中に持っていたと思います。」
「外から地球全体を支配する発想。最初の話に戻りますが、日本列島から遠く離れたところに約350年前に特殊な集団が異常繁殖して巨大な意思を持つ権力を作り上げ、その権力の下に各種の政治学が生まれ、その政治学を一生懸命勉強していますが、しかし、それが行き詰ればまた更地にしてむきだしの暴力が新たな権力を生むということを繰り返すだけ、その様な発想で歴史と言うものを考えました」と御講演を結ばれました。
今回の御講演に於いて先生は、常にきれいごとを唱え、清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義国家アメリカの歴史と正体を余すところなく説かれました。イギリスの清教徒革命は千年至福王国を夢見た革命であり、それが後にアメリカ建国へとつながったと言われておりますが、このようなアメリカの闇は親米保守主義者たちの目には見えません。世界各地への軍事力の展開と、グローバリズムや金融資本主義による世界の一極支配も限界に近づき、新たな裂け目が生じようとしている今日、アメリカによる「権力をつくる政治の動向」を諦視しつつ、我が国再生への道を模索しなければならないものと思います。
文:中村敏幸
西尾幹二全集刊行記念講演「戦争史観の転換」(後半)
西尾幹二全集刊行記念講演「戦争史観の転換」(前半)
「吉本隆明氏との接点」(四)
吉本氏はラディカルである。根源的である。しかしどこか閉ざされている。
私は氏の戦争観がずっと気になっていて、今度、「文学者の戦争責任」(1956年)と、「文学者と戦争責任について」(1986年)の二編を取り寄せて、拝読した。ほぼ同じ内容だが、後者は三〇年経っている情勢の変化で、やや視野が広くなっている。
氏は戦争に協力しなかった文学者なんか一人もいなかった。戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、厳密に考えれば戦争責任の告発は成り立たないという認識に立っていた。そこで左翼の文学組織に属さない文学者をもっぱら戦争犯罪として告発するたぐいの、戦後、氏が目撃した左翼の文学組織による、戦争責任の追及の仕方に、氏は激しく異議を申し立てた所以である。その自己欺瞞の摘発には説得力があり、胸を打つものがある。告発者自身は、自分たちは戦争下でひそかに抵抗していたとか、戦争そのものにじつは反対していたのだとか、手前味噌な評価をつねに用意していたものだった。吉本氏の追及は手厳しい。文学者の戦争責任は文学作品それ自体によってしか弁明ないし表白できない。文学作品はウソをつかない。氏のその方法態度も正しい。
1986年の論文では、ファシズムとスターリニズムとの間にはわずかな相違しかないという認識にまで進んでいて、左翼の正義も否定されている。
いまではもう昭和21年(1946年)に左翼の文学組織(民主主義文学運動)によって告発された文学者の戦争責任も、昭和30年(1955年)ころ、わたしたちによって提起されたそれに対する批判も、すべてそれ自体が無効になり解体してしまったというべきだ。ひとつの理由は、戦争責任を問うべき中心的な前衛理念、あるいは優位にたって戦争を裁く前衛理念が存在しないことが、誰の眼にも明確になってしまったことだ。もうひとつ理由をあげれば、「戦争」も「平和」も古典的な概念とまったく異なってしまったことだ。わたしが「戦争」を裁くとすれば、わたし自身のうちにある理念によるだけだし、「戦争」と「平和」について言及するとすれば、自身の定義した概念においてだけだ。
それなら、吉本氏において戦争はどのように定義した概念として捉えられているだろうか。
「戦争」は人間が直に砲弾を打ちあい、ミサイルをとばして、陣地や領土を併合することで、「平和」はときに、銃や凶器で殺しあうことがあっても、日常生活の繰り返しが中断したり、切断されたりすることがない状態のことだという考えは捨てられるべきだ。兵士は現在では補助機械であるにすぎない。戦争は米ソ両支配層の演じるボタン押しの電子ゲーム以外のものではない。「戦争」状態をシュミレーションしている平和もあれば「平和」そシュミレーションしている「戦争」状態もあるというように概念は変えられてしまっている。
米ソ対立の極限状況にあった1980年代のいわゆる「ボタン戦争」の概念が吉本氏を支配していたことがここから伺える。現代戦争のこのニヒルな認識が文学者の戦争責任論など吹き飛ばしてしまったことはまず間違いない。しかしこの認識はまた、日本が米ソ冷戦の谷間にあって「安定」していた、束の間の幸運な時代に許された甘い特権であったことが氏に認識されていない。氏は左翼の党派的欺瞞に対してはたしかに倫理的に厳しかったが、氏の内部に巣くっていた左翼的イデオロギーの残滓が何となく世界を素直に、自然に見ることの邪魔をして、動いていく現代の中で、日本と自分の置かれた位置を冷徹に直視することを不可能にしている。
現代ではすべての戦争が核戦争になるとは限らない。米ソ冷戦が終わって「不安定」になった世界では核兵器は使えない兵器となり、代わりに通常兵器を用いた戦争の可能性はずっと大きくなった。バルカン半島の戦乱以来明らかになったことである。そういう現実の世界の微妙な変化を吉本氏はどの程度意識していただろうか。
そもそも先の戦争を意識するときにいきなり「戦争責任」という言葉につかまえられたということに問題があると私は考える。文学者のであれ誰のであれ、「戦争責任」などというものは初めから存在しない。この言葉は敗戦国を無力化するための一方的な宣伝語である。もし日本やドイツにこの語が当て嵌められるなら、それと同時に、同資格において、旧戦勝国の連合国にも当て嵌められなければならないのが「戦争責任」という語の本来の意味である。しかし吉本氏は「具体的に日本国の戦争は、ドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとの同盟による天皇制下の軍部の主導で推進された理念的な悪だから、これに参加したものに戦争責任がある」というようなことを書き記している思想家である。
氏は歴史が善悪の彼岸にあり、戦争は地上から永遠になくならないだけでなく、明日にもわが国を襲わないとも限らない。それゆえ政治を防衛問題から考えるべきだという苦い認識に直面しないオプティミストの一面を持っている。先の引用につづけて氏は次のように言う。
そこでは〈戦争〉の企ては不可能だし、〈戦争〉が悪だということは、現在まで存在するどんな体制や理念にも保留や区別なしに適用されるべきだ。〈平和〉が善であることも、どんな体制や理念にも、保留や区別なしに適用できるはずだ。現在の体制や理念の相違は、世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない。これははっきり言い切っておいた方がいい。
ここで大切なのは、「世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない」と書かれている個所である。戦争は何らかの「意味」を訴えて初められているだろうか。意味は後から付けられはするが、わけが分からなく始まり、どうにもならない力に衝き動かされるのが常ではないだろうか。
氏はつづけて「人間が地を這いつくばって戦い、銃器を手にし、血を流し、死を賭してやっていることは、現在では、どこでどんな崇高そうな理由が付けられていても、ただの暴力行為にすぎない。」と書いている。それはその通りである。私はそうであることを否定はしない。しかし「ただの暴力行為」はなくならないし、人類の愚劣は終らないし、それゆえにこそ国防問題を措いて政治は考えなれない。政治と文学などという暢気なことを言っても始まらない局面は、現代日本に迫っていると私は考えている。
さりとて、思えばこれは吉本氏に限った話ではない。戦後の思想界は最初は圧倒的に文学者がリードした。知っての通り小林秀雄は戦争について利口なやつはたんと反省するがいいさ、私は反省なんかしないよ、と言った。この言葉は有名になり、戦後の保守思想界を動かす語り草となった。似たような発言は後の「政治と文学」(昭和26年12月)に出ていて、日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら、あんなことは起こらなかった、というようなことを言う知識人に向かって、小林は日本を襲ったのは正真正銘の悲劇であり、悲劇の反省など誰にも不可能だ、と喝破した。
当時は「戦争責任」という言葉が吹き荒れていた。「反省」というのと同じ意味である。左翼の党派的欺瞞も横行していたのは先に述べた通りである。福田恆存「文学と戦争責任」(昭和21年11月)も、吉本隆明「文学者の戦争責任」(昭和31年)も、そこを正確に撃っているのは確かなのだが、しかしこれは小林とほぼ同じ認識でしかない。すなわち「反省」して歴史を変えられると思っている愚を戒めることにおいて三者はじつに峻厳だったが、そこに止まっていて、そこから先がない。あるいはそれ以前がない、と言ってもよかった。文学者の戦争に関するこれらの観念には何かが足りない。「反省」とか「戦争責任論」の虚妄を突いていることは確かで、間違った内容を述べているわけではないのだが、不足感が漂っているのである。すなわち、あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理想的あり方が他にあったのではないかという可能性の追求、そういうことがなされていない。
吉本隆明氏も他の同時代の保守系文学者も、日本の戦争の正しさの認識を歴史を遡って検証する意思を抱いていなかった。私は13歳、中学一年の昭和23年に東京裁判の判決文を新聞から切り抜いて日記帖にはりつけ、日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるはずだった、と書いていた。私は子供の言葉で歴史は善悪の彼岸にあり、敗北したがあの戦争は正しかったと言っていたのだ。その頃からずっと同じ認識でいる。「戦争責任」というような言葉は終戦まで存在せず、占領軍が持ち込んだ言葉だったことを子供心に知っていた。戦前戦中派はどうしても宿命的に「戦争責任」などという語に囚われるが、そこから先があるはずだ。そんな言葉はもうどうでもいい。私はそう認識していたし、今もそう考えている。
了