シアターテレビ再放送

 『天皇と原爆』の元になったシアターテレビの『日本のダイナミズム』が次の日程で再放送されることになりました。本には入りきらなかった内容もあり、本とは違った理解もなされるでしょう。動画は活字とはまた異なるインパクトを与えると思います。ご期待ください。

#1 マルクス主義的歴史観の残骸

放送日 放送時間
8月6日 25:05
8月12日 18:30

#2 すり替わった善玉・悪玉説
8月6日 25:25
8月12日 18:50

#3 半藤一利『昭和史』の単純構造
8月6日 25:45
8月12日 19:10

#4 アメリカはなぜ日本と戦ったのか
8月6日 26:05
8月12日 19:30

#5 日本は「侵略」していない
8月6日 26:25
8月12日 19:50

#6 いい子ぶりっ子のアメリカの謎
8月8日 25:05
8月12日 20:10

#7 ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性
8月8日 25:25
8月12日 20:30

#8 中国はそもそも国家ではなかった
8月8日 25:45
8月12日 20:50

#9 日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ
8月8日 26:05
8月12日 21:10

#10 ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権
8月8日 26:25
8月12日 21:30

#11 アメリカの突然変異
8月10日 25:05
8月12日 21:50

#12 アメリカの「闇の宗教」
8月10日 25:25
8月12日 22:10

#13 西部開拓の正当化とソ連との共同謀議
8月10日 25:45
8月12日 22:30

#14 第一次大戦直後に第二次たいせんの裁きのレールは敷かれていた
8月10日 26:05
8月12日 22:50

#15 歴史の肯定
8月10日 26:25
8月12日 23:10

#16 神のもとにある国・アメリカ
8月13日 25:05
8月19日 18:30

#17 じつは日本も「神の国」
8月13日 25:25
8月19日 18:50

#18 二つの「神の国」の衝突
8月13日 25:45
8月19日 19:10

#19 「国体」論の成立と展開
8月13日 26:05
8月19日 19:30

#20 世界史だった日本史
8月13日 26:25
8月19日 19:50

#21 「日本国改正憲法」前文私案
8月15日 25:05
8月19日 20:10

#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
8月15日 25:25
8月19日 20:30

#23 仏像となった天照大御神
8月15日 25:45
8月19日 20:50

#24 皇室のへの恐怖と原爆投下
8月15日 26:05
8月19日 21:10

#25 神聖化された「膨張するアメリカ」
8月15日 26:25
8月19日 21:30

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」
8月17日 25:05
8月19日 21:50

#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
8月17日 25:25
8月19日 22:10

#28 後期水戸学の確立
8月17日 25:45
8月19日 22:30

#29 ペリー来航と正氣の歌
8月17日 26:05
8月19日 22:50

#30 歴史の運命を知れ
8月17日 26:25
8月19日 23:10

坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望

西尾幹二全集 第三巻『懐疑の精神』の刊行

 西尾幹二全集第三巻『懐疑の精神』が刊行された。第四回配本である。なんのかんのと言っているうちに4冊もついに出たんだなァ、と感無量である。

 最初に出た『光と断崖――最晩年のニーチェ』は別にして、第一巻から第三巻までが私の初期作品群ということになる。

 今度の第三巻は次の3冊の過去の評論集から最も多く採り入れている。

情熱を喪った光景  河出書房新社 1972年
懐疑の精神  中央公論社 1974年
地図のない時代  讀賣新聞社 1976年

 しかし、この3冊をそのまま収録したのではないし、この3冊にも他の何処にも今まで収録していなかった作品や、そもそも何処にも出さないでいた初期の未発表論文も収められている。目次をお見せするが、色替わりのところがそういう未知の文章で、今度はじめて世に問うている。

目次

Ⅰ懐疑のはじまり(ドイツ留学前)…7

私の「戦後」観…9
私のうけた戦後教育…25
国家否定のあとにくるもの…37
知性過信の弊(一)…42
私の保守主義観…45

「雙面神」脱退の記…49
一夢想家の文明批評-堀田善衞『インドで考えたこと』について…52
民主教育への疑問…64
知識人と政治…66

Ⅱ懐疑の展開(ドイツからの帰国直後)…69

ヒットラー後遺症…71
状況の責任か 個人の責任か-ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』…97
面白味のない「知性」-ハンス・M・エンツェンスベルガー『ハバナの審問』…107
大江健三郎の幻想風な自我…116

知性過信の弊(二)…132
国鉄と大学…147
喪われた畏敬と羞恥…149
文化の原理 政治の原理…160
ことばの恐ろしさ…187
見物人の知性…190
見物人の知性(190)外観と内容(192)ネット裏の解説家(193)
二つの「否定」は終った…195
自由という悪魔…204
紙製の蝶々…210
高校生の「造反」は何に起因するか…214
生徒の自主性は育てるべきものか…217
大学知識人よ、幻想のなかへ逆もどりするな…220
安易な保守感情を疑う…223

Ⅲ懐疑の精神(七〇年代に露呈した「現代」への批判)…233

老成した時代…235
現代において「笑い」は可能か…269
成り立たなくなった反語精神…274
現在の小説家の位置…279
生活人の文学…290
日本主義-この自信と不安の表現…293
実用外国語を教えざるの弁…300
わたしの理想とする国語教科書…305
帰国して日本を考える…311
「反近代」論への疑い(311)日本人論ブームへの疑問(314)読者の条件(317)比較文化論の功罪(318)節操ということ(321)
前向きという名の熱病(322)変化の中の同一(323)江戸の文化生活(324)物理的な衝突(325)現代のタブー(327)
土俗的歴史ブーム(328)
個人であることの苦渋…331

Ⅳ情報化社会への懐疑…345

言葉を消毒する風潮…347
マスメディアが麻痺する瞬間…353
テレビの幻覚…361
権利主張の表と裏…373
ソルジェニーツィンの国外追放…378
韓非子を読む毛沢東…385
ノーベル平和賞雑感…392

Ⅴ観客の名において-私の演劇時評…395

序にかえて-ヨーロッパの観客…397
第一章 文学に対する演劇人の姿勢…401
第二章 解体の時代における劇とはなにか…412
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって…433
第四章 捨て石としての文化…449
第五章 ブレヒトと安部公房…463
第六章 情熱を喪った光景…480
第七章 シェイクスピアと現代…497

Ⅵ比較文学・比較文化への懐疑…519

東京大学比較文学研究室シンポジウム発言
 比較文学比較文化-その過去・現在・未来(司会芳賀徹氏)…521
東京工業大学比較文化研究会シンポジウム発言
 比較文化とはなにか、それはなにをなし得るか、またなし得ないか?(司会江藤淳氏)…533

追補 今道友信・西尾幹二対談-比較研究の陥穽…553

後記…585

 私の本をよく読んで下さった方でも、標題を見たこともない、知らない文章に数多く出会うであろう。特にこの第三巻『懐疑の精神』はそうである。

 1974年に中央公論社から『懐疑の精神』という一冊が出ていることは前に述べたが、全集第三巻は題名を借りているだけで、同一の内容の本ではない。私の今度の全集はどれも再編成されている。昔の本をそのままというのは少ない。

 第三巻『懐疑の精神』の帯の文字は次の通りである。ご紹介しておきたい。

人間はつねに自分の心の主人公であるとは限らない。
「ヒットラー後遺症」「大江健三郎の幻想風な自我」「国家否定のあとにくるもの」「比較文学・比較文化への懐疑」・・・・・。私は自分の言論の自由にいつも飢餓感を覚えて生きてきた。もし本全集がなかったら、これらの論文は永遠に闇の中に消えてしまったであろう。(「後記」より)

 解説の部分にあたる「後記」はこれまでも長かったが、今回はまた特に詳しく、28ページに及ぶ。20台後半からの私の評論活動の起ち上がりの物語りを回顧録風に綴っている。

『天皇と原爆』の刊行(十三)

『撃論』(4月28日刊)
書行無情 GEKILON-PLUS ブック・レビューより

 杉原志啓・評
『天皇と原爆』

センセーショナルなタイトルの真意とは

 西尾幹二氏がとびきりの多作家なのはひとしなみに了解のことだろう(そのあらわれの一端が、つい最近公刊開始の全22巻の全集となる)。で、どんな量産タイプのライターであっても、いつしか老いの影とか衰えの兆しをみせるものなんだが、かれには不思議なほどそれがうかがえない。それどころかむしろ、どんどん読者の知的好奇心をわしづかみにしてくるというか、美しい狂気――といって悪ければ、滾るような精神的なマグマとでもいうべき迫力噴出のフレッシュな著作頽廃みたいなのだ。

 評者のみるところ、本書もまた、ビブリオと付論をプラスの比較的近著の新版『国民の歴史』(上下巻の文春文庫)や『江戸のダイナミズム』、さらに一連の『GHQ焚書図書開封』シリーズ同様、その種の熱気と新鮮な問題意識のみなぎる好著となっている。たとえばなんだが、そのポイントにつき、西尾氏はいう。明治以来日本ではクリスチャンの数がいまでも百万をちょい超えるくらいで、けっしてキリスト教化されない。なぜか?これは「面白い、根の深いテーマ」なんだと。というのも、日本という国は、外からの文化をなんでも無差別に受け入れる国のように考えられているけれど、実はどうしても受け入れないものが幾つかあって、それがすなわち「原理主義的なもの」「一神教的なもの」なんだとか(ちなみに、この点は右の『国民の歴史』等でも言及されている)。

 つまり、いささかセンセーショナルな(とわたしはおもう)書題『天皇と原爆』の意味は、こういうことだ。この本は、さきの「日米開戦は宗教戦争であって、ピューリタニズムの国アメリカが、天皇を中心にしたもうひとつの神の国であるわが国に仕掛けた戦争の、原爆使用も辞さなかった破壊性から、われわれ日本人はどのようにして立ち直るべきか」を論じているということ。すなわち、一方の宗教国家アメリカは、建国以来西へ西へと勢力を伸ばし、やがてハワイ、サモア、ミッドウェー、ウェーク、フィリピンを取る。かくてついに中国に入ろうとしたところが、なんとそこに日本がいる。しかもこれが日露戦争直後で、「一等国の名乗りを上げたばかりか、なんと『神の国』を標榜する日本は、アメリカにとって憎むべきサタンであって、邪魔でしょうがない。だからこそマニフェスト・ディスティニーの最大の対象とならざるを得なかった」。別言するならこのマニフェスト・ディスティニーの最終的帰結が原子爆弾だったということだ。

 そして、このメイン・テーマにそって、この著者ならではの出来たての生ビールみたいに爽快なあと味の痛棒を、半藤一利、加藤陽子らの相変わらずのGHQ肯定史観に彩れた「歴史」へ振るっている。アメリカという国が、現在でもどんなに宗教的な国家かという内実を詳述している。わが国における仏教および儒教と神道の関連を――「時代の変化に合わせて変身した」日本独特の神の構造と姿を描いている。そうして、近代日本の「国体」観念(ナショナリズム)へダイレクトにつらなる国学や、ある種の「革命の狼煙をあげた」前・後期水戸学の果した役割を思想史的に説きつつ、これまた西尾氏ならではの促迫力をもって現今の日本人へ警鐘を鳴らしてくるのである。

 すなわち、幕末の会沢正志斉の『新論』における対外的危機感に当時の「幕閣をはじめ朝野」はあげて無関心。「何があったってケロッとして先に延ばす。そのうちとんでもないことが起こりますよ。最後にドーンと来るまで分らない」。それがまさしく今のわれわれの姿なんですよと!

『天皇と原爆』の刊行(十二)

天皇と原爆 天皇と原爆
(2012/01/31)
西尾 幹二

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 これは「GHQ焚書図書開封」の時間に流した番組ですが、いつもと違って溝口さんの御著書と私の『天皇と原爆』をとりあげて二人で討議する番組になりましたので、その位置づけでお送りします。

秘録・ビルマ独立と日本人参謀: 野田毅陣中日記 秘録・ビルマ独立と日本人参謀: 野田毅陣中日記
(2012/01/20)
溝口郁夫

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中国人スパイ事件と八木秀次氏(二)

 日本にいま求められているのは「戦う保守」の精神である。そして、あちこちに雨後の筍のように増えているが、本当は日本にいまいない方がいいのは「自閉的右翼」である。左翼が現実の力を失ってしまったために、保守がいたるところに蔓(はびこ)り、贋物の保守のことを私はそう呼ぶが、彼ら「自閉的右翼」はアメリカの対応いかんであっという間に中国迎合に向かうだろう。

 外交官だけでなく、日本に来ている研究者も留学生もみんな情報戦を担っているといわれるほどの中国人を相手にして、実に不用意に対応した八木氏のケースは好見本である。つくる会理事会に相談もなく訪中し、プライヴェートな旅行だから文句あるかと嘯(うそぶ)き、外国に観光旅行に行っていけないという決まりはつくる会にはない、と、米国旅行と同じように見るまぜっ返しをひところしきりに言っていた。無知もきわまれりである。プライヴェート観光旅行でなぜ中国社会科学院が原稿まで準備して八木氏一行を迎えたのか。中国側とは最初から連繋があったに相違ないのである。八木氏たちは国家的工作に「取りこまれた」と見るべきである。会内部での充分な議論もつめず、若い事務局員に会代表の名において、しかも南京問題など微妙なテーマの討議に参加させるほどの無責任ぶりである。

 討議をしてはいけないというのではない。それはそれなりの用意が必要である。「戦う保守」の名に値する論客を揃えて立ち向かうべきである。

 『環球時報』(3月9日)は、「右翼雑誌『正論』は、中国側の発言と討論の中味を併記しているため、ある意味では中国側の主張宣伝の作用を及ぼした」(宮崎正弘氏訳)と述べている。これは控え目な表現で、ネットの掲示板などでははっきり「投降」と書いている例もあるそうである。『正論』には公表されていないさまざまな内容が社会科学院のホームページには掲載されている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を創設した本来の精神は、「一文明圏としての日本列島」を堂々と胸を張って言いつづけることに外ならない。自己を普遍と見なし、決して特殊と見ないことである。中途半端な受け身の姿勢、謙譲、相対主義的立場をとらないことである。中国や西欧を相手にしたときにはとくにそうである。相手の尺度をいったん受け入れたら無限後退あるのみである。理解と寛容を美徳とする心やさしい日本人には難しいかもしれない。しかし中国や西欧は日本に対し、理解と寛容ではなく、まずは主張と決めつけから始めることを知っておくべきである。

 それを弁(わきま)えていれば、やすやすと謀略にさらされたり、工作に取りこまれたりすることはないであろう。

 つくる会がなぜ混乱したかの究極の理由を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれない。なにか外からの強い力が働いた結果という印象を多くの人が抱いていると思う。歴史教科書はとまれ靖国に次ぐ重要な政治的タームである。八木元会長の油断はスキを与え、中国が久しく狙っていたつくる会の切り崩しをやすやすと成功させたということになるのかもしれない。

拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

関連ブログ(「日本国憲法、公民教科書、歴史教科書)

中国人スパイ事件と八木秀次氏(一)

 藤岡信勝氏の「つくる会を分裂させた中国人スパイ」(WiLL8月号)は反響を呼んでいる。氏は9月号にも続篇を書くべく準備を進めているようである。

 「つくる会」分裂は私の身にも及んだ痛恨事だった。私も当時から思い当る節があり、分裂に至ったいきさつには「なにか外からの強い力が働いた結果」という推定を下していたが、今度の李春光スパイ事件であゝそうだったのか、成程、と合点がいった。

 分裂に至ったいきさつは予め会に複数の新勢力が理事としてもぐり込んでいて、私が名誉会長を退任したスキを突いてクーデターに起ち上がり、つくる会乗っ取りを策したこと、それと前後して八木秀次会長(当時)が理事会に諮らずに中国を訪問し、有能な学者ではなく同行した事務局員を代表に仕立てて中国の学者たちと討論したことに端を発する。その余りの不用意と行動の軽さが会員の怒りを買った。

 私は『諸君!』(2006年8月号)に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」という一文を寄せ、この一件についても論評している。そのくだりを二回に分けてここに掲示する。(以下は拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

(一)
 
 八木秀次氏が事務局員を同伴し、2005年12月末中国社会科学院日本研究所を訪れ、中国人歴史家と意見交換(記録は『正論』2006年3、4月号)した一件は、どうやらつくる会が今まで掲げて来た本来の理想とはまるきりかけ離れた、裏切り行動であったように思える。これは新しい事件である。記録を一読してまずいと思ったのは、中国の掲げる普遍性を動揺させようとする日本側の気概や決意がまったく感じられないことである。

 記録を見る限り、日本側は中国側に対し、貴国の立場は立場として尊重しますが、当方にも当方の立場があるので、どうか当方の立場も認めて下さるようにお願いします、という態度で終始一貫しているように見受けられた。しかしこんなことを中国側に言ったとしてもほとんど何の意味もなさないだろう。中華思想を暗黙の前提にしている共産主義国の相手に対し、貴方は貴方、私は私と住み分けしましょうという相対主義的立場を言うことで何かの譲歩が引き出せたとしても、それは錯覚であって、歴史認識の一部を認めてもらっても――例えば田中上奏分のような今さら問題とすべきではない偽史の承認、等々――全体としての歴史観は中華文明の一部にすぎない東邦の小国の言い分を聞く理由はない、とはねつけられるのが落ちである。八木氏らの中国側との意見交換は事実その通りに経過している。

 いったい八木氏は『国民の歴史』『国民の芸術』『国民の文明史』を心を入れて読んでいるのであろうか。氏の根本的な間違いは、最初に中国の立場は中国の立場として認めます、という受身の姿勢を打ち出してしまったことである。中国の立場は中華思想であるから、これを認めることは日本をその一部として包み込む普遍思想を認めたと相手が受け止めてしまうことであって、そう言った後で日本の立場を認めてもらったとしても、それは中華支配下の一地方の歴史をそれ相応に認めていただく、という以上のことにはならない。

 日本軍が中国の領土内で戦争した以上どんな理由があれ「侵略」だと言い張ってきかない、意見交換の場で彼らの議論は、勿論子供っぽいともいえよう。近代政治史が分っていないと反論もできよう。しかし彼らは聴く耳をもつまい。彼らは近代化していないのでも、知識不足なのでもない(八木氏はそう誤解しているようだが)。そうではなく、そういう子供っぽい表現で、中華思想を主張しているのである。

 だとしたら、中国に対応するやり方は次の唯一つしかない。

 日本の天皇と中国の皇帝は政治史的にみてどちらが秀(すぐ)れているか。日本の天皇にはカミ概念があるが、中国の皇帝にはそれがない。カミ概念は政治力としての絶対化を招かない。日本の天皇は連続性を本質とするが、中国の皇帝は易姓革命(えきせいかくめい)でたえまなく廃絶され、歴史の中断と社会の混乱を惹起した。15世紀以後にユーラシアには四つの大帝国があった。ロマノフ王朝、オスマン・トルコ帝国、ムガール帝国、清朝。これらはそれぞれ静止した小宇宙で、富も多く学問も秀れていたが、西から迫るヨーロッパの暴力にあっという間に席捲(せっけん)された。日本はなぜひとり難を免れ、たちまち先進国となったのか。清朝の支配下にない、別体系の、ヨーロッパに対応する独立し完成した文明だったからである。(『国民の歴史』第19章「優越していた東アジアとアヘン戦争」に詳細を譲る)。

 中国の歴史学者に対してはまずはこういう本質的議論を吹きかけていくことが肝腎である。大東亜戦争はこの文脈における文明的行動の一つであった、と言い張って譲らないことが鍵である。

 そして、この立場とこれを主張する方法論こそ、ほかでもない、「新しい歴史教科書をつくる会」の、日本の歴史始まって以来の本当の意味での新しさだったはずである。戦後思想を克服する、といった小っぽけな話ではなかったはずである。私は今、会の外に出たからこそ思い切ってそう申し上げたい。八木氏とその一派による「会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」と私が書いた理由はお分りになったであろう。

 八木氏は天皇崇敬者だそうだが、中国人の前で天皇を歴史に持つ日本の優位をなぜ堂々と開陳しなかったのか。

つづく

Bruxellesさんのコメント

 拙著『天皇と原爆』について幾つもの書評を掲げてきたが、何回目かに気になる内容の投稿コメントがあった。Bruxellesさんからの二通である。

 最初は『正論』の冨岡幸一郎さんの書評(2012.6.5)に対するコメントで次のように書かれている。

お邪魔します。
書評10番目にようやく触れられた、天皇とその責任論。平和主義者、軍閥の被害者論をいつまでも続けていては、歴史を否定するばかりで、いつまでたっても「国体」によって宗教戦争を戦い抜いた民族の偉大な叙事詩としてさえ、あの時代を称揚することができない。
巻末に付された帝国政府声明文の効力も霧散せざるを得ない。軍人集団をより好戦的・凶暴にするためのハッシッシに成り下がってしまう。
今後の展開のために用意された、相乗作用のある二つの伏線だと思う。西尾先生の頭の中には、伏線を活用するべき壮大な展開がすでに出来上がっている筈だ。
コメント by Bruxelles

 巻末に付された帝國政府声明(昭和16.12.8)は大抵の記録集に載っていない。天皇の開戦詔勅は載っているが、政府声明の方はなぜか出てこない。拙著の巻末に入れておいたのはそのせいである。本の中の対応するページは100ページである。

 それにしてもBruxellesさんの期待は大きくて、重いので、ウーン、何を考えておられるのかなと首をひねっていた。すると間もなく二度目のコメントが出た。今度は武田修志さんの私あての書簡(2012.6.15)のある引用に対するコメントで、次のように記されている。

お邪魔させていただきます。
その前の部分の引用に対しー目の覚めるような真実の言葉です。ーと書かれていますが、全く同感です。
実は私もこの本をblogで紹介する際、その部分を引用させていただき以下のような感想を加えました。
「これは論壇におけるアポロ11号の月面着陸に匹敵するほど画期的な論説で、定着するには時間がかかるかもしれませんが、東京裁判史観の拘束からの解放、自虐史観の粉砕、OSSの罠からの脱出、そのすべてに向けての67年目の漸くの大きな第一歩となると思います。」
ただ武田修志氏は「誰か翻訳してくれないでしょうか。」と書かれていますが、アメリカ人どころか、日本人の多くもこの本の斬新な視点による展開に関して、ほとんど理解できていないのではないかと、不安を感じます。
固定概念に対する変化を要求するからこそ、斬新なのであり、その分、抵抗も強く予測でき、理解されるにも時間がかかる、さまざまな反応を見てそう思います。すいすいすいと誰にでも理解される内容ならば、今まで待つことも無かったし、ほかの誰かもとっくに書いていたでしょう。誤読される不安も大きく、書くには結構勇気と決意のいる内容だったと私は思います。
コメント by Bruxelles

 「アポロ11号の月面着陸に匹敵するほど感動的な論説」といわれると何とも面はやく、恥しいが、昨日今日考えたことではなく、私は若い頃からこんなことをしきりに考え、書いてきたように思う。

 誤解のないように言っておくが、「戦争責任」なんてものは国際的には存在しないし、ナンセンスである。だから天皇は国際社会に対してはいかなる戦争責任も負っていないのは自明である。存在しないものには負いようがないからである。

 けれども、国内的にはいつまでも、いつまでもこの語が日本国民につきまとって、天皇にまでまとわりついて、いかんともしがたい。左翼にだけでなく保守までがとらわれている。Bruxellesさんも対外的と国内的とをはっきり区別して論じておられるのは賢明である。

 それはそうとして、Bruxellesさんの名をクリックするとTEL QUEL JAPON という有名なブログが画面に出てくる。このブログは日本の敗北的平和主義と戦後の歴史観をわれわれが克服するうえでこの上ない貴重な資料とデータと画像と論証と記録文献を次々と提供し、的確な論説を積み重ねてきている他に例のない稀有にして貴重なネット言論である。私は折にふれ参考にし、有難く思っている。

 その方がコメントを寄せて下さり、ほとんどの日本人が私の提起した問題の切り口を理解できていないのではないかと不安を感じる、「抵抗も強く予想でき、理解されるにも時間がかかる」と思う、と言っておられることは少し私の胸にひびいた。成程そうかと思う。多分そうだろうとも思う。私のあの本もある程度は注目されたが、予想外に売れていない。

 私は考えを変えるつもりはなく、益々ここでのテーマを深く追究していきたいと思うが、説得の仕方を少し変えなければいけないのかなあ、などとあれこれ思案している昨今である。