『天皇と原爆』の刊行(五)

「週刊新潮」3月22日号より 匿名

 なぜ著者はここまで忌憚なくこの国の本質を鋭く衝くことができるのか。それは「我々は何か大きくすり替えられて暮らしている。頭の中に新しい観念をすり込まれて、そこから立ち上がることができなくなっている」という危機感があるからだ。

 本書を貫いているのは歴史を正しく見ることの重要性である。特に、現在の視点で過去の出来事を捉えることの危うさが説かれる。たとえば「侵略国家」「侵略戦争」という言葉は、戦後の日本人が自分の国を誹謗するための自虐的なもの。勝者である占領軍の歴史観でものごとのすべてを見ようとする姿勢は誤りだと著者は言う。

 またアメリカの西進政策の背後には「東洋開拓を競う英米対決」があったこと、自国の利己主義に基づく戦略は、昔も現在も変わらないことを明らかにしている。アメリカは、常に人類を裁く法廷を司りたがる「神の国」だとの指摘は多くの示唆に富む。(新潮社・1680円)

お知らせ

 『歴史通』(ワック出版)の5月号(4月9日発売)が「総力特集・天皇」を出す。私はここに「雅子妃問題の核心――ご病気の正体」というかなり長い論文を書いた。新しい材料が手に入ったので、今までになく実態が分り、皇族と一般民間人、例外者と普通人の間の「自由」の意識の違いをめぐるパラドックスに踏み込んだ。深層心理的に、かつ目に見えるように具体例をもって問題の核心を新たに提示し、明日の皇室と国家の未来への期待を綴った。

 2008年に出した『皇太子さまへの御忠言』のワック文庫本を先日出版したが、当論文の収録はこれには間に合わなかった。先立つ『WiLL』3月号と『週刊新潮』2月23日号の私の関連文章まではこの文庫本に収録されている。

 間もなく、4月末までに、西尾幹二全集第2巻(第3回配本)『悲劇人の姿勢』が世に問われることになる。これに伴い、5月26日(土)午後6時より、恒例の刊行記念講演会を行う。場所は前回と同じ星陵会館ホール(地下鉄永田町あるいは赤坂見附より徒歩約5分)。

 演題は「真贋ということ――小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって」である。

 入場¥1000、予約は要らない。一部のお知らせに間違えて予約の文字が記されたが、予約は必要ない。

 今回は懇親会は行わない。代りに終って名刺交換会とサイン会を行う。同会場の懇親会の宴会費が内容に比して高過ぎると判断されたからである。参加者に迷惑をかけたくなかった。次の機会には良い会場を探したいと思うが、今回は間に合わなかった。

『天皇と原爆』の刊行(四)

坂本忠雄氏(元『新潮』編集長)

 再啓 その後大変遅くなりまして申し訳ありませんが、『天皇と原爆』を非常に充実した手応えをもって読了致しました。

 読み進んで、第十一回で、「歴史というものは善悪の彼岸なんです」、第二十回で、「論証はもちろん大切だが、じつは歴史が始まるのはそこから先なんですね。否、文学的宗教的想像力がかき立てられていなければ、そもそも実証的な証拠さがしもあり得ないし、出来ないはずですよ」という二つの御文に接して、御高著の根本的なモチーフがここに潜在していることが得心できたように存じました。

 そこには『国民の歴史』や『江戸のダイナミズム』で積み重ねられた粘り強い御研鑽が下支えとなっていることも感得され、御高著読了後の現在、このご両著も腰を据えて再読致したい思いに駆られております。

 そして『国民の歴史』のなかに引かれている福田(恆)さんの「大東亜戦争の否定論の否定論」を御高著によって親しみやすい口調で詳細に実践された成果でもあることに感服いたしました。

 今盛んに読まれている半藤一利や加藤陽子氏の昭和史論への鋭い御批判も全てこのモチーフから発せられているように思われましたが、殊に私は半藤氏や司馬遼太郎氏の今次大戦への批判をかねてから疑問に思っておりましたので、胸のすく思いが致しました。

 そして私が最も教えられましたのは、アメリカの「独立宣言」の「平等」の個所で、「すべての人と言われているのはアングロサクソン民族内部のすべての人にすぎなかったのに、あたかも地球上のあらゆる人という意味に解せられるような言葉で表現されている」というところで、これは根本的なアメリカ批判として目を開かされました。そこに根ざしているアメリカの「闇の宗教」がまた「神の国」である日本に向けられて今次大戦が起こったという御考察を極めて詳細に辿りつづけられての今度の著者の御成果は、小林秀雄や福田恆存などが未開拓の領域での御達成で、御高著の生命力を証しているものと確信いたしました。

 それにしても「ニーチェの言語観」で、「およそ停滞を知らぬ精神にとっては、懐疑とは疑うことではなく、疑うという行為そのものに徹することなのである。」という御述懐が、永年にわたる御実践でここまで到られたことに改めて深い敬意を表させていただきます。(「神道」についての御考察にも色々と教えられましたが、挙げればキリがありませんので、省略致します。)

 やっと春の気配が少し感じられるようになりましたが、気候不順の砌、呉々も御自愛の上、次なる御健筆をお祈り申し上げます。

右、甚だ延引致しましたが、愚見と御礼まで申述べます。

三月四日

                     敬具

 以上は了解を得ての私信の公開である。坂本忠雄氏は小林秀雄、河上徹太郎、福田恆存、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎など重要ライターを担当し、一貫して『新潮』編集部に在籍し、純文学の鬼といわれた名編集者である。 

『天皇と原爆』の刊行(三)

 『天皇と原爆』の出版には、私なりの思い入れがあるが、じつは初めての試みが内容面ではなく、本の造りにおいてもおこなわれている。この本には、著者の年齢・経歴・業績などがいっさい書かれていない。私の名前が記されているだけである。

 私の著作家人生において初経験である。かねてこういう本を出したいと思っていたが、今の出版界の常識に反するので、実行できなかった。

 この案を最初に言い出したのは私ではなく、新潮社の担当者の富澤祥郎さんだった。私は渡りに船だった。これは前からの願望だったが、自分からは言い出せなかった。言い出しても実現されないと思っていたからである。

 戦前の本はたいてい著者名だけだった。本の奥付あたりに、ごたごたと著者の来歴を書く習慣は戦後に始まったのである。何故だろう。理由はわからない。

 何でもシンプルが一番いい。今回は『WiLL』4月号の堤堯さんの書評をお送りする。ストレートな書評である。

 本書は、著者がCS放送(シアターTV)で行った連続講話をまとめた。小欄は毎回の放映を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第十代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、 「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」と告げた。西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を戴く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワンシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば十兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて、日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカへの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮からきている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないにかかわらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張──それが本書全編に流れる通奏低音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

堤堯『WiLL』4月号より

日本には「保守」は存在しない

 私は前から日本には「保守」と呼べるような政治的文化的集団ないし階層は存在しない、と思っていた。ところが人は安易に「保守はこう考えるべきだ」とか「私たち保守は」などと口にする。「保守言論界」とか「保守陣営」とかいう言葉もとび交っている。

 今こそきちんと検証しておくべきである。思想的に近いと思っていた者同士でも今では互いに相反し、てんでんばらばらの対立した関係になっているではないか。皇室問題で男系か女系か、原発派か脱原発派か、TPP賛成派か反対派か――ひとつにまとまった従来の「保守」グループで色分けすることはできなくなっている。

 もともと「保守」など存在しなかったことの現われなのである。この点を過日掘り下げて「WiLL」2月号に書いたので、ここに掲示する。

 わが国に「保守」は存在するのだろうか。「疑似保守」は存在したが、それは永い間「親米反共」の別名であった。米ソ冷戦時代のいわゆる五五年体制において、自由主義体制を守ろうとする思想の立場である。世は反体制一色で、左翼でなければ思想家でない時代、一九六〇年代から七〇年代を思い起こしてほしい。日本を共産主義陣営の一国に本気でしようとしているのかそうでないかもよく分からないような、無責任で危ない論調の『世界』『中央公論』に対し、竹山道雄、福田恆存、林健太郎、田中美知太郎氏等々が拠点としたのが『自由』だった。六〇年代は『自由』が保守の中核と思われていたが、正しくは「親米反共」の中核であって、必ずしも「保守」という言葉では呼べない。  
 
 六〇年代の終わりに、新左翼の出現と学生の反乱に財界と知識人の一部が危機感を深めて日本文化会議が起ち上げられ、一九六九年五月に『諸君』が、七三年十一月に『正論』が創刊された。ここに拠った新しく増幅された勢力も、「反米容共」に対抗するために力を結集したのであって、私に言わせれば言葉の正しい意味での「保守」ではない。日本に西洋でいうところのconservativeの概念は成立したことがない。

 明治以来の近代化の流れのなかに、尊王攘夷に対する文明開化、民族的守旧感情に対する西洋的個人主義・自由主義の対立はあったが、対立し合うどちらも「革新」であった。革新官僚とか革新皇道派とか、前向きのいいことをするのは革新勢力であって、保守が積極概念で呼ばれたことはない。歴史の流れのなかに革新はあり、それに対する反動はあったが、保守はなかった。積極的な運動概念としての保守はなかった。背後を支える市民階級が存在しなかったからである。  

 政治概念として保守が唱えられだしたのは戦後であり、政治思想の書物に最初に用いられたのは、たしか一九五六年のはずだ。五五年の保守合同を受けてのことである。左右の社会党が統一したのにほぼ歩調を合わせて、自由党と民主党がひとつになり、いまの自民党ができて、世間では自民党と社会党とを保守と革新の対立項で呼ぶようになった。けれども、それでも「保守」が成立したとはいえない。

 いったい、自民党は保守だろうか。国際共産主義に対する防波堤ではあっても、何かというと「改革!」を叫ぶ自民党は日本の何を守ろうとしてきただろうか。ずっと改革路線を歩み、経済政策でも政治外交方針でもアメリカの市場競争原理やアメリカ型民主主義に合わせること以外のことをしてこなかった。自民党を保守と呼ぶことはできるだろうか。

 自民党をはじめ、日本の既成政治勢力は自らを保守と呼ぶことに後ろめたさを持っていた。もしそうでなければ、自らをなぜ「保守党」とためらわず名づけることができなかったのだろうか。 「保守」は人気のない、悪い言葉だった。永いこと大衆の価値概念ではなく、選挙に使えなかった。福田恆存氏がときおり自分のことを、「私は保守反動ですから……」とわざと口にしたのは氏一流のアイロニーであって、「保守」がネガティヴな意味合いを持っていたからこそ、悪者ぶってみせる言葉の遊びが可能になったのであった。

「保守」を利用する思惑

 ところが、どういうわけだか最近、というかここ十年、二十年くらい「保守」はいい言葉として用いられるようになっている。保守派を名乗ることが、言論人の一つの価値標識にさえなった。いつまでつづくか分からないが、若いもの書きは競い合って自分を保守派として売り込んでいる。保守言論界と言ってみたり、保守思想史研究を唱えてみたりしている。私はそういうのをあまり信じないのだが、十年後の日本を占う当企画の一項目に「保守」があがっていること自体に、隔世の感がある。

 おそらく、元左翼の人たちがいっせいに右旋回した時代に、「保守」がカッコイイ看板に担ぎ上げられたといういきさつがあったためであろう。西部邁氏の果たした役割の一つがこれであったと思う。また、市民階級は生まれなくても、二十世紀の終わり頃のわが国には一定の小市民的中間層が成立し、一億中流意識が定着した、とまでいわれた経済の安定期があって、それが「保守」の概念を良い意味に格上げし、支え、維持したといえなくもない。

「保守」を利用する人たちの思惑はどうであれ、人々がこの言葉を価値として用いることに際して抵抗を覚えないムードが形成された背景の事情はそれなりに理解できる。しかし、二つの理由からこれはいかにも空しい。あっという間に消えてなくなる根拠なきものであることを申し上げたい。一つは、思想的根拠にエドマンド・バークなどを代表とする外国の思想家を求め、日本の歴史のなかに必然性を発見できていない。もう一つは、金融危機が世界を襲いつつある現代において、新興国はもとより、先進国にも格差社会が到来し、中間階層が引き裂かれ、再び体制と反体制とが生じ、両者が反目する怨念の渦が逆巻く嵐の社会になるであろうということである。

 安定期にうたた寝をまどろむことのできた仮そめの「疑似保守」は、十年後には雲散霧消し、やがてどこにも「保守」という言葉をいい言葉として、価値あるものの印として掲げる人はいなくなるであろう。大切なことは、一九六〇~七〇年代に「反米容共」に取り巻かれた左翼中心の思想空間で「親米反共」を命がけで説いた世代の人々は、自らを決して保守とは呼ばなかったことだ。たとえば、三島由紀夫は保守だったろうか。命がけで説いたその熱情はいまも必要であり、大事なのは愛国の熱情の維持であって、時代環境が変わればそれを振り向ける対象も変わって当然である。

 十年後の悲劇的破局の光景  

 時代は大きく変わった。「親米反共」が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片一方に傾くことはいまや危うい。それなのに、一昔前の冷戦思考のままに、「親米反共」の古いけだるい流行歌を唄いつづけている人々がいまだにいて、しかもこれがいつの間にかある種の「体制」を形成している。そして、愛国心も国家意識もない最近の経済界、商人国家の請負人たちと手を結んでいる。「生ぬるい保守」「微温的な保守」「ハーフリベラルな保守」と一脈通じ合っているにもかかわらず、自分たちを「真正保守」と思い込んで、そのように名づけて振る舞っている一群の人々がいる。言論界では岡崎久彦氏から竹中平蔵氏、櫻井よしこ氏まで、冷戦思考を引き摺っている人々はいまだに多く、新聞やテレビは大半がこの固定観念のままである。

 中国に対する軍事的警戒はもとより、きわめて重要である。しかしそれと同じくらいに、あるいはそれ以上に、アメリカに対する金融的警戒が必要なのである。遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、付加価値をつけて高く売るということで成り立ってきた五百年来の資本主義の支配構造が、いまや危殆に瀕しているのである。一九七三年の石油危機でOPECの挑戦を受けた先進国は、いまや防戦に血眼になっている。資源国は次第に有利になり、日本を含む先進国の企業は収益率が下がり、賃金の長期低落傾向にあるが、それでも日本は物づくりに精を出し、戦後六十年間で貯めた外貨資産は十五兆ドル(一千五百兆円)に達した。

 ところが、欧米主導の金融資本はわずか十三年間で手品のように百兆ドル(一京円)のカネを作り出した。あぶくのようなそのカネが逆流して自らの足許を脅かしているのは、目下、展開中の破産寸前の欧米の光景である。アメリカは「先物取引」という手を用いて石油価格の決定権をニューヨークとロンドンに取り戻すといった、資源国との戦いをいま限界まで演じているが、もう間もなく打つ手は行き詰まり、次に狙っているのは日本の金融資産である。

 「非関税障壁の撤廃」(ISD条項はその手段)を振り翳したTPPの目的は明瞭である。日本からあの手この手で収奪する以外に、アメリカは目前に迫った破産を逃れる術がないことはよく分かっているのだ。「親米反共」の古い歌を唄っている自称「保守」体制は、これから収奪される国民の恨みと怒りの総攻撃を受けるであろう。格差社会はますます激しくなり、反体制政治運動が愛国の名においてはじまるだろう。

 「保守」などという積極概念は、もともとわが国にはなかった。いま「親米反共」路線を気楽に歩む者は、政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙をき、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。『WiLL』2月号より

名古屋市長発言と日中歴史共同研究

 3月26日に発売される『WiLL』5月号に、私ほか三人の名の共同討議「虐殺を認めた『日中共同研究』徹底批判」が出ます。これは名古屋市長の南京発言を支援する内容です。

 昨年の今頃まで福地惇、福井雄三、柏原竜一、西尾幹二の「シリーズ現代史を見直す」が断続的に『WiLL』に連載されていました。東日本大震災が起こり、これが中断しました。
「日中歴史共同研究」徹底批判は四回を予定し、三回で途切れました。今回四回目を掲載いたします。

 掲載に際し、四回目の冒頭に私の次のような新しい発言が付加されました。名古屋市長発言を意識してあらためてこれを支持する目的の付言です。

 雑誌が出たら是非これにつづく「徹底批判」の内容をお読み下さい。

 名古屋の河村たかし市長が「南京事件はなかった」と率直に語ったことに対し、例によって左翼偏向した特定のマスコミと民主党藤村官房長官が待ったをかけました。

 「日中の大局を忘れるな」式の見え見えのことなかれ主義で、彼らが中国側にすり寄ったことはご存知のことと思います。その際、マスコミが錦の御旗に掲げたのは、北岡伸一氏が座長を務めた例の日中歴史共同研究です。

 「朝日新聞」は社説(二〇一二年三月八日)で、「南京大虐殺については、日中首脳の合意で作った日中歴史共同研究委員会で討議した。犠牲者数などで日中間で認識の違いはあるが、日本側が虐殺行為をしたことでは、委員会の議論でも一致している。」と早速にもあそこでなされた政治的取引きめいた決着を利用しています。

 「中日新聞(東京新聞)」も「河村市長発言、なぜ素直に撤回しない」と題した社説(二〇一二年二月二十八日)で、「南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。日中歴史共同研究の日本側論文も『集団的、個別的な虐殺事件が発生し』と明記する。」と共同研究を主張の根拠にしています。そして「市長は共同研究を『学者の個人的見解』と批判するが、国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった」と、北岡氏らのあの見えすいた非学問的決着を唯一の拠り所としています。
 
 そもそも民族間の「歴史認識の溝」は埋まらないときには永久に埋まらないのであって――英米間にだって溝はあるんですよ――それを強引に埋めさせようとした当時の自民党首脳の取り返しのつかない政治判断の誤りであると同時に、乗せられて学問の真実追究を捨て、政治外交世界の一時の取引きの道を選んだ北岡伸一氏がそもそもおかしいとは、われわれ四人の当研究会でもさんざん論じてきました。

 なぜか常に中国側に立つ日本のマスメディアに、いつの日にか必ず日中歴史共同研究は政治的に悪用されることが起こり得るだろうと私は思っていましたら、河村市長発言でその通りになりました。私たちはこの日があるのを予知していました。
 
 それほどにも、日本を傷つける可能性のある日中歴史共同研究のテキストはほとんど誰も読んでいないのです。翻訳ともども部厚い二冊本になる本文テキストを手に取る機会に恵まれた者は今のところ恐らく非常に限られた少数者でしょう。私たち四人は、その機会を得て、これを読破し、すでに三回の討議をもって、中国側代表の型にはまった恐るべき無内容と、日本側学者たちの日本国民を裏切るこれまた型通りの妥協の数々を追及し、批判してきました。
 
 かくて「日中歴史共同研究徹底批判」は本誌で今回をもって四回目となり、これをもって完結篇といたします。今回は南京事件を取り上げていますが、それに先立つ他のテーマから入っていきます。

「GHQ」第四回「正面の敵は実はイギリスだった」

「GHQ焚書図書開封」は2011年末までに92回放送され、6巻の本にまとめられました。あらためてここで2008年の第一回から毎週一本ずつ放送をYou Tubeで流し、普及につとめたいと思います。多くの方々に見ていたゞければ幸いです。

こちらからも視聴できます。