坦々塾(第十五回)報告(一)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員
 
9月5日(土)に、第十五回坦々塾が行われました。

福地 惇さん  
西尾先生
水島 総さん 

  の順番で講義をいただきましたが、まず西尾先生のご講演から報告させていただきます。

 宗教戦争としての日米戦争        

 前回「複眼の必要 日本人の絶望を踏まえて」の中でアメリカの特殊性について学んだが、今回は宗教をキーワードとして、何故大東亜戦争が戦われなければならなかったのか、という講義を聴くことができた。

 講義の冒頭、先生が披露したエピソードが大変印象的であり、また今回の講義録をまとめるうえでも大変重要になると思うので紹介する。

 1981年、レーガン米大統領就任演説翻訳文を掲載した朝日新聞には、重要な一文が抜けていた。しかも故意に削除したのではなく、日本人の常識に照らして必要ないと判断されていたという。その文章とは次のようなものである。

 「私は、何万人もの祈りの会が本日開かれていると聞いている。そうして、そう聞いて私は深く感謝している。

 われわれは神の下の国であり(We are a nation under God)、私は神こそがわれわれを自由にしようと思っていると信じている。もしこれから何年間も大統領就任演説の日に、祈りの日であると宣言されれば、ふさわしいし、よいことだと私は思う」。

 この文章にレーガン大統領、万感の思いがこもっていることに我々は気がつかない。ここに日本人のアメリカを見つめる時の盲点がある。普段の生活で私たちは宗教を意識しない。政治にも持ち込まない。若人、弱者、悩める者の心の救済として、あるいは死後の存在としてのみ考え、アメリカにとって宗教こそ共同体のアイデンティティーの問題であるという認識がない。この大きな断絶を理解しないと、「宗教戦争としての日米戦争」という今回の講義の真意がつかめないのではないかと思う。

 アメリカに国教は存在しないが、まぎれもなく神権国家であり、宗教原理主義といってもよい。そこでは個人の上位に共同体があり、共同の理念がある。

 国教はないが、見えざる国教があり、それは聖書を教典とするキリスト教に近い宗教であり、それらの間にのみ信教の自由が認められる。信教の自由とは多種多様な教会を認めることであって、移民、アジア、黒人、インディアン、等に対する寛容ではない。あくまでも身内における自由であり寛容なのである。

 西尾先生から、先進六カ国の国民の宗教観に対するデータが配付されたが、天国、地獄、死後の世界、神、それぞれの存在を信じるアメリカ人は、すべての項目にわたって70%を超えている。特に神の存在に関しては94.4%の回答者がその存在を信じているという。ちなみに我が国は、どの設問においても一番低い数値をしめしている。日本人は国家意識の基礎に宗教がなく、その必要も感じていない。

 平安朝の遣唐使、吉備真備(きびのまきび)に関する逸話も紹介された。唐でつらい留学生活を送る吉備真備に対して、朝廷から難問が出され苦悩する。阿倍仲麻呂が鬼となって現れ助けてくれるが、さらなる難問が出される。そこで吉備真備は、日本に向かい日本の神に助力を乞うたところ、蜘蛛が現れ糸を引いて答えを教えてくれた。吉備真備は仏教を学びに唐に渡ったにも関わらず、「困ったときの神頼み」では、日本の神に祈った。ここに見えるパラドクスこそ古代日本の神認識の姿である。

 縄と紙垂(しで)に囲まれ限定された空間、あるいは氏神様、祖先神、といったように、我が国の神は古来限定された場所で、特定の人によって祀られていた。天照大神は天皇家の皇祖神ではあっても、全国民の神ではなく、国民は祈ることもできない時代があった。

 平安末期以降、我が国では仏教が優勢となる。まず御仏があり、神々はその生まれ変わりの姿であるという本地垂迹説が説かれた。仏と神は一体であり、この時代仏像を模した神像が造られていく。神が刀や鏡に象徴されていた時代から、現実の姿として表現された時代である。われわれが今神様のお姿として思い浮かべるのは、神話の挿絵に出てくる白い衣をまとった姿だが、これは明治になって初めて創作されたものである。

 さて、中世以降天皇家が力を失って行くとともにに、神は国民の信仰の対象へと変わっていく。東西統一権力が成り、鎌倉仏教は天皇家を無視、大本の仏が大事で天照大神はその代替信仰であるという位置付けであった。仏教の中に於ける神道という概念が定着し、幕府もそこに身を置いた。皇祖神の天照大神はこうした中、仏教の手を借りて全国に広まっていく。

 明治に入り、廃仏毀釈となったのはご存じの通り。神祇官が任命され、神社優位となり、国学者、神官は増長した。

 幕末の日本は、アングロアメリカ(英・米)とぶつかった。我が国は、欧米という言葉がしめすように、ヨーロッパとアメリカを同じ文化圏として認識していたが、実は両者は異質のものであった。

 アメリカという国の成り立ちを、南米、北米、北米における南部と北部という点で歴史を振り返る必要がある。

 19世紀初頭、アメリカ大陸の人口は、南米が1,700万、北米が500万であった。南のインディオ、北のインディアンは共に1.5~2万人。ヨーロッパが意識したアメリカは当初南米であった。南米はスペイン王朝が富を獲得をするために利用された。そこでは暴力を行使し、あるいは十字軍的な使命感で、原住民を改宗していった。

 人民は混血し、人種政策はゆるめられた。経済的にはスペインの本国経済と深く結びついていた。

 北米大陸には、南部と北部という問題がある。南部は豊かで土壌は肥沃、農地として適している点では、南米とにている。北部は農業に恵まれず、貿易、造船が大きな経済的基盤であった。独立前すでに造船量は大英帝国の三分の一に達しており、本国の干渉を避け、独立の気風が養われていく。広い国土の自由使用を認め、富を広く豊かに拡げるために平等相続制度を採った。この頃の欧州は長子相続であった。北の世界に対する意識にはキリスト教があった。これが、我が国に深く関係する問題である。

 マタイ伝によるイエスの予言によれば、西に新しい土地があり、そこはキリストが与えた、征服に相応しい土地である。アメリカ大陸侵略を正当化するために、これ以上ない予言であった。選民意識に基づく、約束の地アメリカを、出エジプトに置き換えた物語が生みだされた。ワシントンは、モーゼに擬せられた。こうしてインディアンに対する掃討戦は正当化され、1914年、フィリピン侵略も完成する。すでに日米開戦も間近である。アメリカの宗教戦争はこうして続き、このアメリカの信仰への熱狂は、むしろイスラムに似ているといえる。今のアメリカ人も神を信じている。通常文明の進展と共に国民は脱宗教化するといわれており、アメリカはすでにヨーロッパとは異質な国家となっている。同性愛、人工妊娠中絶が選挙の重要なテーマとなり、教会の政治に対する発言力は極めて強い。アメリカ人にとって信仰は誇りであり、大統領選挙では、当落を左右する問題である。

 翻って我が国は無宗教国家であろうか。決して無宗教ではない。無宗教で天皇を戴くことはできない。江戸時代まで、天皇の認知は謎であった。わずかに思想家のみが考えた。思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした。

 国の学問の中心は仏教から儒学へと移り、1670年から書かれた大日本史は孔子の正統主義に基づき、南朝正統を認めた。神話を否定して、神武天皇から南朝最後の天皇である後小松天皇をもって南朝の滅亡とする史観を採用した。道徳的叙述により歴代天皇も批判し(論賛)、1740年にいったん編纂が止まった前編は朝廷に献呈されなかった。

 後期水戸学は神話を復活し、易姓革命史観を否定、論賛を削除した。我が国の歴史の継続性を主張し、日本は一つ、国名も一つ、日本は不要、題号は国史でよいと主張した。これが幕末の国体論につながる。これが前述した「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに、疑うことを不必要とした」状況に繋がる。

 我が国は尊皇攘夷・尊皇開国(文明開化)の間を揺れ動きながらも、最終的にはアメリカの宗教戦争の仕上げに飲み込まれて行く。アメリカにとって日本は、インディアンやフィリピンと同様、簡単にねじ伏せることができる相手だと考えていたが、我が国の抵抗は想像以上に激しいものだった。戦争には勝ったが、戦後経済の分野で幾多の苦杯を舐める。特に国家を象徴する産業の一つである自動車産業において、アメリカは半世紀の長き敗北を喫した。アメリカは我が国の底力にようやく気がついた。果たして復讐はあるだろうか。

 「神の国」と「神の下の国」という二つの国家の戦いが、大東亜戦争であった。

文責:浅野 正美

今年の夏の「戦争」の扱い(二)

 「樺太1945年夏 氷雪の門」という上映されなかった貴重な映画が8月9日九段会館大ホールで公開された。樺太の真岡の電話交換手9人の女性の悲劇のドラマである。彼女たちのことは知られているし、靖国に祀られているとも伝え聞いている。しかし私は映画を見て、悲劇の実態をほとんど知らなかったことに気がついた。

 この映画が訴えているのは「戦争の悲惨さ」一般などでは決してない。ソ連軍の野蛮と卑劣と非道と極悪そのものである。8月15日に日本側が停戦していた状況を踏み破って、ソ連兵は白旗を掲げて即時停戦を訴える日本側の丸腰の使者たちにその場で銃弾を浴びせてこれを射殺した。そして、無防備の小さな町に砲火を浴びせ、蹂躙する。

 この映画は昭和49年(1974年)に完成し、丹波哲朗や南田洋子なども熱演している十分に商業価値のある作品だったが、大手配給会社による劇場公開が突然中止された。そしてほとんど日の目を見なかった「幻の名画」で終っている。それを今夏、特別に試写する企てが催された。

 ときは田中角栄内閣の時代である。モスクワ放送の「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対し非友好的」という非難に屈した結果である。

 「戦争の悲惨さ」一般を描いた映画なら公開がゆるされる。過去の日本が間違っていた、日本が悪かったのだ、の意図の伝わる映画なら公開可能だった。しかし、どこかの国(旧敵国)の非道をありの侭に描いた映画を上映することは、たとえ相手が冷戦下の仮想敵国のソ連であってもできなかった。恐らく日本側がこわがってひるんだのだろう。自己規制したのであろう。

 ここに、問題のすべてがある。今年夏の戦争を語ったNHKその他のテレビ番組が例外なく、旧日本軍が悪く、まるで敵国がいなかったかのごとく描く(戦争は相手あっての話なのに相手の悪が語られない片面性の不具!)内容に終始したのは、日本人自身のこの病理、自己規制の病理の帰結にほかならない。

 今年も特攻が取り扱われ、フィリピンから出撃した若者の映像が流れた。例によってアジアの各国に被害をもたらした日本の戦争というナレーションだ。アジアを支配していたのは英、米、仏、蘭の各国で、アジアの国々は独立していないのだから、日本軍は欧米支配者の掃蕩戦争をしたわけだが、NHKはこの前提を決して言葉にしない。

 「樺太1945年夏 氷雪の門」を見ていて、ふと思った。

 そういえば、真岡の9人の乙女の悲劇に匹敵するのは沖縄のひめゆり部隊である。こちらの映画は上映禁止のうき目に会っていないばかりか、有名にもなった。私の記憶では『ひめゆりの塔』は恐らく旧敵国アメリカの悪を告発していなかったように思う。「戦争の悲惨さ」一般をしか描いていなかったように思う。従って戦争の現実は半分しか描かれてなかったともいえる。

 雑誌『正論』が主催した九段会館の上映会には、当時『氷雪の門』に助監督として参加し、また同映画を破損から守って修復保存した新城卓氏がトーク出演をして、いくつもの証言を残した。氏によると、真岡の女性たちを凌辱し殺害したソ連兵は、生き残りの日本人男性たちをシベリアに強制連行したが、連行前に彼らにやらせた仕事は、穴を掘って、日本人女性の遺体を埋めさせる酷薄な労働であったという。それらのむごたらしいシーンは映画では映像化されていない。その点では抑制されていて、不徹底でもあって、それでなぜ上映禁止に追いこまれたのかよく分らない。

 恐らく当時の政治情勢その他によるところの、いかにも尤もらしい理由は探せば見出せるのであろう。しかし根本はやはり日本人の心の弱さが原因だろう。自己規制が原因だろう。これがすべての鍵だろう。64年たった今年の夏のテレビの映像とナレーションの歪みと屈折と自分隠しに直接つながる問題である。

今年の夏の「戦争」の扱い(一)

 今年の夏もテレビでは戦争の主題がくりかえしとり上げられていた。秋田の土崎という小都市が終戦の日の午前中に猛爆を受けたことがNHKニュースの時間帯で回想された。

 初めて聞く話だった。B29が編隊で日本海側の小さな町を襲った経路がテレビに映った。経路には白いB29の機体のデザイン画像が数秒間列島を北上するように移動した。石油の出る唯一の町だったらしい。そのため狙われて、市民多数が殺傷された。そしてほとんど間を置かず天皇の終戦詔勅の時間がきた。運の悪い町だったのだ。

 私とほゞ同じ年齢の小学生がこの日に死んだ。そのとき受けた弾痕もまだ残る黄ばんだ上着が紹介された。母親が大切に保存していたが、その母親ももう今はいない。ゆかりの人が戦争の悲惨を訴えるためだと言って上着を町の小学校に持って行って、子供たちに披露していた。胸のところに穴のあいたその上着を見せられても、今の子供たちには何のことかピンと来なかっただろう。

 テレビのナレーションは「戦争の悲惨さ」と言った。そのゆかりの人も同じ言葉を語った。アメリカ軍の非道とはいわなかった。アメリカ軍が憎いともいわなかった。戦争の終結がわかっていて、その直前に、やらないでもいい爆撃をした勝ち誇る米軍の民間人殺傷の空爆の無法を語る言葉はテレビからは聞こえてこなかった。

 いつもそうだった。NHKでも民放でも、「戦争の悲惨さ」としてすべてを一般論のように語る。戦争一般の悲惨さなのであって、日米戦争の米軍空襲による悲惨さなのではない。8月15日の正午まで、全国いたる処で、田舎道を歩いている老婆でも、学校に行く途中の小学生でも(この年日本に夏休みはなかった)、しらみつぶしに機銃掃射を浴びせたアメリカ空軍の戦争のやり方の卑劣さなのではない。どこまでも「戦争の悲惨さ」なのだった。

 そう言いつづけるテレビのもの言いは今年も昨年と同じに変わらなかった。聞いている日本国民はいつしか悪いのは戦争そのもので、戦争をひき起こした日本が悪いのだ。当時の日本が悪いのだ。日本は間違っていた。日本は反省しなくてはいけない。・・・・・・・・そういう誘導の文言に引きづられて、戦争には敵と味方がいて、日本の敵はアメリカだった、という余りにも当り前の事実を忘れてしまうのである。

 8月にテレビに映った戦争ものはみなそういう調子だった。特攻隊を作戦した海軍軍令部に対するNHKの連夜の告発シリーズも、90歳の生き残り兵の口を借りて語らせる各種の最前線物語も、大本営発表のウソを放送したNHKの当時を反省・懺悔してみせる自局告発の番組も、日本は間違っていた、日本は悪だった、日本は愚かだった、の一本調子で、アメリカという相手が何をしたかということはいっさい語られない。相手があって初めて日本はこうしたのだ、がまったく語られない。戦争が終って60年たったとはとても思えない。いまだに米占領軍の検閲におびえているような内容のオンパレードである。そうではないもの、それを打ち破った異色の番組はひとつもない。

 このまま同じ調子がずっとつづいて「戦後100年」になっても多分こうなのだろうなァ、と近頃私は憂鬱な気分を通り越してやゝ諦めムードに陥っているのだが、その恐らくは分岐点になったであろう映画を最近見た。

民主党政権・鳩山内閣への重大なる懸念

外国人参政権

  「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」
という “友愛精神”の耐え難い軽さ

 永住外国人の地方参政権について、鳩山由紀夫代表は「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」とまで発言し、意欲をみせている。民主党は結党時から基本政策に掲げ、これまでもたびたび法案を提出してきた。しかし、安易な参政権付与には危険がつきまとう。
             *

 永住外国人の地方参政権についてかつて小沢一郎氏は「たいした実害はないだろう」と甘い考えを示し、韓国大統領との会談の席で「参政権付与を行なうのが遅れているのは遺憾に思っている」とまで踏み込んだ発言をした。

 鳩山由紀夫氏は党代表になるや「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と浮ついた発言をして、「じゃあ貴方に言うが、鳩山御殿は鳩山一族のものではない。東京都民に開放しなさい」と八方から噛みつかれたほど、“友愛”に浮かれたこの人は感傷的で、非常識である。

 参政権を認めれば、予想される事態は、韓国人や中国人が過疎地の自治体に計画的に集団移住するなり、住民登録を移すなりして、小さな市や町の議会を合法的に占領する可能性がある。すでに土地が韓国企業に買い占められている対馬や国境の島の沖縄・与那国島などは真っ先に狙われるだろう。侵略は国境の内側から合法的に始まるのである。「実害」がないどころではない。

 最近では中国人永住者は60~80万人に達するといわれ、在日韓国朝鮮人の数を上回った。オリンピックの聖火リレーのときあっという間に中国の赤い旗が長野を埋めつくし、中国人が狼藉を働いた恐怖を現場にいた人は今も口々に語っている。北京の指令ですべてがコントロールできる。大使館が旗や旅費を渡していたという。

 全体主義の国は私たちの常識の及ばない怖さがある。例えば都知事選挙のような場合でも、20万票とか30万票とかが北京やソウルの意志で動けば、キャスティングボートを握られる。今は地方参政権だけが問題となっているが、おそらくそこで留まる話ではない。

 昨年4月16日地方参政権を求める人々の緊急集会が、東京の憲政記念会館で行なわれた。民主党、公明党を中心に国会議員が21人参加した会だが、旧社会党出身の民主党議員赤松広隆氏が挨拶に立って「最終的には国政選挙参政権も求めますが、最初から多くを求めず、とりあえず地方参政権を勝ち取ろう」と呼び掛けていたそうだ。やはり最終の狙いは国政選挙である。中国人や韓国人の票で日本の政治を動かそうとする邪悪な意図が感じられる。

 移民問題でヨーロッパは比較的寛容といわれるが、しかし英仏独伊など主要西ヨーロッパ諸国で外国人に地方参政権を与えているのはEU加盟国の内部同士であって、外部からの移民にはいっさい与えていない。

 国政レベルの参政権付与はEU加盟国の内部同士でも行なっていない。アメリカやカナダやオーストラリアは代表的な移民国家だが、そこでさえも、地方・国政の両レベルで参政権付与はなされていない。ただ一つだけ不幸な例外の国はオランダである。

 オランダはEU域外の外国人への地方参政権付与からトラブルが始まって、やがて内乱に近い状態になった。外国人は都市部に集中してゲットーに居住し、別国家のような観を呈した。そこにオランダ人が足を踏み入れると敵意を示す。外国人はオランダの生活習慣や価値観を嫌い、祖国のやり方を守るだけでなく、オランダの文化や仕切りを自分たちの流儀に切り換え、変革しようとさえする。時刻の宗教や文化を絶対視し、若い狂信派を育てて、オランダの社会システムを破壊し、つくり変えようとする。

 オランダ政府はいろいろ手を打ったが、すべて手遅れである。外国人が一定数以上を超え、政治発言力を持ち始めると、取り返しがつかなくなる先例をオランダに学ぶべきである。

SAPIO 2009.8.5より

『「権力の不在」は国を滅ぼす』

kenryoku1.jpg

 新刊の拙著『「権力の不在」は国を滅ぼす』(WAC刊 ¥1524円+税)は8月8日に店頭発売となります。「あとがき」の全文を掲示します。この本の主題はここに集約されています。

 あとがき

 本書で私は皇室問題を論点の一つに揚げていますが、最近もひきつづきマスコミが取り上げている雅子妃殿下のご進退をめぐるテーマが、本書の追及する皇室問題では必ずしもありません。それは昨年上梓した『皇太子さまへの御忠言』(ワック)でほぼ言い尽くしております。

 本書ではまだ不十分なかたちで言及しただけですが、天皇と戦争の関係をあらためて問い直す必要を唱えています。Ⅰ部第1章「危機に立つ保守」とⅡ部第3章「国家権力が消えてなくなった」に、今まで私が踏みこまなかった新しい論題への言及があります。

 今上陛下が本年四月八日のご結婚五十周年の記念の記者会見で述べられたように、象徴としての天皇のあり方は日本の歴史に反するものではもとよりなく、むしろそれに沿うものでしょう。昔から皇室は権力ではなく、権威でした。権力に逆らわず、権力に守られ、静かに権力を超える存在です。しかし、権力のない国家はあり得ない、というのもまたもう一方の真実です。権力がしっかり実在していて、権威が心棒として安定しているときに、この国はうまく回転します。

 そこまでは分かり易いのですが、「権力を握ってきた武家」が昭和二十年以来アメリカであること、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当に利己的である、という情勢の急激な変化にどう対応するかを無視して、皇室問題を考えることは今ではできなくなってきました。冷戦時代には、世界のあらゆる国が米ソのいずれか一方に従属していましたから、日本の対米従属は目立ちませんでした。しかし今はこの点は世界中から異常視されています。

 北朝鮮からは舐められ、韓国からは侮られ、中国から脅されるような日本の今の危うさは、昭和の御代にはありませんでした。すべて平成になってからの出来事です。平成につづく次の時代にはさらに具体的で、大きな危険が迫ってくると思います。

 戦後左翼は軍部による統帥権の干犯ということを今次大戦の最大の問題とし、昭和天皇の戦争責任を問うてきました。保守側は軍部の独走を同様にやはり非難する代わりに、天皇は立憲君主の制限枠を守られて責任はなく、一貫して平和主義者であられたと弁護にこれつとめてきました。私はどちらの見方にも反対です。あの戦争を否定してしまうから、この無理な二つのいずれかの見方になるのです。

 私は保守側が天皇の戦争責任を左翼とは違った見地から問い直す時代が来たと考えます。昭和天皇は責任がなかったのではなく、責任を立派にお果たしになったのです。

 憲法九条の改正が喫緊の課題として今や国民の大多数の常識になっていますが、それなら統帥権(軍権)は誰の手に委ねられるべきなのでしょうか。日本国家は将来「宣戦布告」を誰の名において行うべきなのでしょうか。この肝心な一点を考えないで置いて、憲法改正もないではありませんか。

 右の問題追及と新しい認識の確立は、今上陛下がその望ましいあり方を求めてこられたという「象徴」天皇の憲法規定と矛盾するものではありません。また両陛下がすでにサイパンを訪れて戦没者の霊を慰め、今後東南アジアの戦場を訪れたいと仰せになっている追悼の意志とも、いささかも相反するものではありません。

 ところが陛下のご意向、憲法への思いや慰霊行脚を口実にして、これを政治利用する人が早くも出てきました。保阪正康氏は講談社の『本』(2009年6月号)で「平和勢力としての天皇」というエッセイを書いて、「こうした一連の行動(戦没者追悼の)や、その意味するところから考えて、私は、天皇は日本社会の最大の平和勢力ではないかとも考えるに至った。平和勢力という言い方はいささ固苦しいイメージを与えるにせよ、この天皇・皇后が存在する限り、日本は戦争という手段を選ばないとの理解は、国際社会でも確立しているように思う。つまり国益につながっていると考えられるのだ。」と述べています。

 戦争という手段を封じた現行憲法が今まで辛うじて有効だったのは、日米安保条約とワンセットになっていたからにすぎません。冷戦の終結とともに、この条約は共産圏から日本を守る役割を失い、ゆっくりしたテンポで変質しつつあります。日米安保条約は今では国際社会での日本の行動の自由を拘束し、国内では、外交政策や経済構造や司法や歴史教育観などにおける日本の自律を侵害しつづけています。

 日本人は国内に五十個所も米軍基地を許し、関東南部の地上から7500メートルの空域を米軍の管制下に置かれ、戦争はしないと言いつつも米国の意のままの戦争にのみ狩り出される可能性は今後高く、自発的ないっさいの紛争処理能力を奪われる弊害は無気力な退廃を生み――拉致問題を見よ!――保阪氏が言うように「国益につながっている」と考えることなどはまったく出来ません。

 今上陛下は「平和勢力」であり、昭和天皇は「平和主義者」であるというのは一面的な見方であり、悪いのは天皇を利用して独走した旧軍部であるというのも、単純な善玉・悪玉論にすぎません。こうした偏ったものの考え方は現在の世界の現実にも、歴史の真実にも一致しません。平和という念仏を唱えつづけたい人の妄執じみた信仰にほかならないのですが、困ったことに、ものを考えない多数の人の安易さにこれは波及効果があり、しかも天皇の政治利用を絡めている悪質な手法を用いているだけに、油断がならないのです。

 日本はいま国家としての「分水嶺」に立たされていると思います。本当にこの国はどうなるのだろうか、との思いは多くの人の胸中に鬱積しているに相違ありません。

 そしてそれは経済や産業や教育や社会問題の不安だけでなく、むしろ背後においてそれら不安の原因をなしている国家の中枢の変質の問題、ないし権力の空洞化ということと関係があります。私は本書ではその意味において皇室と安全保障とが岐路に立たされていることを考察しました。

 ここで「皇室」と言ったのは、天皇と戦争をめぐる歴史観の再考というテーマであることは右に強調してまいりましたが、話題の皇太子さまご夫妻のテーマもまったく無関係ではありません。

 昨年十二月羽毛田宮内庁長官がいわば天皇の意を体して「皇室そのものが(雅子さまに)ストレスであり、やりがいのある公務が快復への鍵だとの論があるが」それに「両陛下は深く傷つかれた」と発言しました。これは天皇から皇太子ご夫妻へ向けて二人のあり方を真剣に考え直せ、というメッセージであったと思います。この間のいきさつについては本書ではⅡ部第4章記録を復元し、できるだけ詳しく判断の材料を提供しました。

 加えて今年二月の皇太子殿下の誕生日記者会見に殿下からどのようなご回答があるかにも注目し、本書の213―223ページに会見内容を再録しました。ご覧の通り、殿下はいろいろなことをたくさんお話になっていますが、肝心のこの点、記者団から「問二」として出された質問にはするりとすり抜けるようにいっさいお話しになっていません。一番のポイントですが、それだけに難しすぎてお話しになれなかったのだと思います。その点はもちろんご同情申し上げますが、しかし問題は皇室そのものが妃殿下のストレスになるという、まさしくここにきわまっているのです。

 いわゆる適応障害と呼ばれる病気はそんなに長くつづくものではないといわれています。私は雅子妃殿下はご病気かどうかは今もって知り得ないのですが――一人の医師の認定以外に、情報は完全に閉ざされている不自然さゆえに、国民の一人として推理させていただく以外に方法はないことを前提として申しますが――妃殿下にとって皇室がストレスであるとは皇室という環境そのものがいやで、伝統的行事とか日本古来の仕来りとか和歌とか作法とか、そういう世界からできればなるだけ遠ざかっていたいという心理状態なのではないかと思います。美智子皇后への劣等感もそこに重なっているのかもしれません。

 とすると、ここからが問題で、皇太子ご夫妻が宮中の主人公となられた暁には、公務の質をがらっと替えてしまわれる可能性が高いと思われます。そして、あっという間にご病気は治り、代わりに国民と皇室との一体感は消えて、まるきり異なった関係が生じ、国民を戸惑わせるのではないかと思えてなりません。私が一番心配しているのはこの点です。今の日本では「民を思う心」が皇室にあり、神道の本質ともいえる「清明心」の模範の柱が皇室にあるとの信仰が国民にあります。その二つの型の呼吸がピタと合っています。それが今はまだあります。この両者相俟つ関係が今後もはたして維持されていくのだろうか、それを私は一番心配しているのです。

 独楽を回すと、中心の心棒は動きません。回転が順調で、速ければ速いほどぐらつきません。独楽の運動と心棒の関係は、国民の活力と皇室との関係です。

 天皇が国民の代わりに神に祈って下さる祭祀が最重要の公務であるのは、ここに由来します。

 皇室を守っている権力がしっかりと実在し、権威である皇室がぐらつかない限り、国家は安泰なわけですが、今の問題は、その肝心要の権力が外国にあるということの悲劇があらためて認識され、「権力の不在」が露呈しているのに、国家がなすすべもなく茫然自失している事実です。日本政府は皇統問題の未解決にも、妃殿下のご不例にも手を出しあぐね、テポドン、竹島、東シナ海ガス田等の近隣諸国からの脅威にも手が打てないのですが、方向の異なるこの二種類の無策は同質です。

 「権力の不在」は皇室を荒れ野に放り出しています。政府が何かに怯えてかの田母神論文をわけもなく封じた周章てぶりは、国防をアメリカに丸投げしている魂のも抜けをまるで絵に描いたような椿事でしたが、これはわが国の皇室が戦後GHQ保護下に置かれた秘かなる歴史の後遺症と切っても切り離せない関係にあります。

 そうです!今必要なのは、独立です。日本国家のありとあらゆる面における独立です。

 本書は四十日に及ぶ真夏の総選挙の最中に投げこまれます。この選挙は国家の核を守るのが存在理由である保守政党がその自覚を失ったがゆえに苦戦を強いられ、他方、勢いづく野党は国家意識を持っているのかどうかすら怪しいのです。

 ある人が言いました。「自民党は左翼政党になった。」「では民主党は?」と私は聞きました。「民主党は外国籍の政党です。」

 この不幸な無政府状態のカオスを脱するのに、本書がわずかでも心ある人に道を示すことができればまことに幸いです。

秋葉忠利広島市長と日本会議広島は同列である。

ゲストエッセイ 
早瀬 善彦
京大大学院生、日本保守主義研究会学術誌『澪標』編集長

 

8月6日に広島で予定されていた田母神氏講演会は、秋葉忠利広島市長の卑劣な脅迫にも屈することなく無事行われることが決定したという。そのこと自体は歓迎したい。

 民間団体が主催する講演会に「待った」をかけた秋葉広島市長の凶悪かつ卑劣極まりない権力行使には、唖然とするほかない。共産主義者の正体みたり!とはこのことであろう。言論弾圧体質が骨の髄までしみ込んでいるからこそ、市長という立場も忘れてとっさにこうした暴挙に出てしまうのであろう。

 しかしながら、それ以上に看過できないのは、秋葉氏の言論弾圧にたいする主催者側(日本会議広島)の対応である。主催者関係者は以下のように語ったという。

 「私達は市長以上に核廃絶を願っている。北朝鮮や中国の核実験が問題になるなか、真の平和のためにどうすればいいのか、という趣旨の講演会がなぜふさわしくないのか全く理解できない」

 さらに、日本会議広島が中国新聞に掲載した意見広告が問題である。

 「1.『核兵器のない世界』は私たちの願い」と題した上で、「核兵器廃絶は私たちの願いです。本会には被爆者や被爆二世の方々も多数おられ、平和を希求する思いは誰にも劣るものではありません。」と謳っている。

 続けて、「2.北朝鮮の核に触れないヒロシマの『平和宣言』への疑問」では、「『核兵器も戦争もない世界』を実現するには、その精神を高く掲げつつ、万全を期して現実的脅威に備えることが必要です。そのためには客観的に現状を把握し、具体的施策を考え努力することが大切です。」と主張しているのである。

 仮に、保守を自認する日本会議広島が心の底からこうした思想を持っているとしたら、それはそれで大きな問題だとしかいうほかない。

 「万全を期して現実的脅威に備えることが必要です。そのためには客観的に現状を把握し、具体的施策を考え努力する」のならば、核の廃絶など決して現実的な選択肢には入ってこないはずである。というのも、核廃絶と平和は現状において、決して結びつかないからだ。

 たとえば、冷戦中、地政学的にも陸軍力においても不利を極めていたアメリカが、ソ連にたいし、かろうじて優位性を維持できた大きな理由は、長距離(中距離も含む)核ミサイルの存在にある。

 第二次大戦後の国際社会、つまり核兵器が世界各国に実戦配備された世界では、どんなに政治的に対立した国家同士も、直接的な戦争だけは何とか最小限にとどめようと務めてきた。この歴史的事実は誰しも認めるところであろう。

 通常の国民国家同士の争いにおいては、恐怖の度合いが抑止の信頼性につながるという哀しい現実がある限り、真の世界平和を目指すのであれば、現状における核の廃絶はおよそ現実的な政策ではない。

 かつて、サッチャー首相が語った「われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです。」という言葉ほど心理を鋭くついたものはないだろう。

 日本会議広島の今回の態度をみている限り、彼らも所詮は「戦後民主主義の常識」から完全に抜け出すことのできない、うす甘い心情的左翼なのではないかと思えてくる。

文:早瀬善彦

私は知りたがり屋(一)

 この間当ブログで、伊藤悠可さんが5回にもわたるゲストエッセイで、私が「専門家嫌い」であることを論題としてとり上げてくださった。この問題は、私が若い頃ニーチェに惹かれたのが彼の「学者嫌い」にあることも関連していて、語ればきりがないほどいろいろなことがある。

 伊藤さんは幸田露伴を引いて「雑学好み」ということを対概念として語っていた。たしかに世にはスケールの大きい雑学の大家がいる。私の友人にも舌を巻くようなそのタイプの人がいる。概して歴史家に多い。『歴史通』という雑誌が出始めたが、多方面な知識に通暁した「通」は歴史家に向いている。

 残念ながら私はそのタイプではなく、歴史を書いていて、最初から歴史家失格である。歴史家は私の書くものを歴史ではないというだろう。私は専門家嫌いだが、とりわけ歴史の専門家は一番好きになれない。料理の専門家や、薬の専門家や、犬の専門家のほうがよほどましである。

 歴史の専門家は過去の一時代の一地域の一家族のことを詳しく調べあげてそれで満足するというようなところがある。その知識が時代と文化の全体とどう関係するかに余り関心がない。これは西洋でも同じであるようだ。ドイツ史を志した友人がドイツで学位を取った。聞けば、ドイツのある地方の農業共同組合の歴史を丹念に調べたものらしい。何でそんなことをするのか関心の由来を尋ねたが、要領を得なかった。知的関心ではあるが、思想的関心ではのだ。アナール学派というのかなにか知らないが、今の歴史学は妙である。

 私の「専門家嫌い」はいわゆる「雑学好み」というところから出たタイプとはどうやら異なるようである。ならばどういうタイプかといわれると、説明は難しい。ある事柄を詳しく正確に知ろうとする努力は貴重だが、そのことだけに満足している人を見ていると、それはあなたの人生とどういう関係があるのですか、という質問をつねに浴びせたくなるのである。

 人間は何をするにも知識を必要とする。知識を基礎にする。しかし私は知識は手段である、と若い頃からずっと思っていた。どんな知識も人生の目的にはなり得ない。知識自体に価値はない。知識は何か価値あることをするための階段にすぎない。

 知識は人間を歪めることがある。豊かな知識は人の判断を迷わせることがある。知識は行動力を鈍らせる。人から生気を喪わせる。それでも、なにをするにしても目的を達成するには知識を必要とするであろう。知識は要するに必要悪にすぎない。

 例えば、ソクラテスからわれわれが学ぶのは、今この現代社会で生きているわれわれの生の現場に当てはめて、何が知(ち)であり、何が無知(むち)であるかの直接の教えでなくてはならない。直ちに実行できる体験でなくてはならない。

 ところがソクラテスに関する現代の専門家が教えてくれるのは、ソクラテスが知と無知について何を考えていたかということの知識にすぎなくなっている。それはギリシア語のできる専門家の調査結果報告であって、彼ら自身は自らの出した結論のなにひとつとして、今の生の現場で、実行できていない。彼らは知識を示すが、その知識を信じていない!

 例えば万葉集の専門家の本を読むと、われわれが万葉集の時代の古人と同じように生き、同じような心を持とうとすることは途方もなく難しいはずなのに、それがどんなに不可能なほどに難しいか、その絶望が語られていない。万葉集の古人も現代のわれわれと共通する関心と意識を抱いていたから、これを読めばわれわれの感性も豊かになるだろう、といったたぐいの世迷いごとに満ち溢れている。それが現代の文学教養書の古代へのアプローチの習性である。

橋本明『平成皇室論』について

 今上陛下の学習院初等科からの同級生であった橋本明氏(元共同通信社総務)が『平成皇室論』という一書を最近出した。朝日新聞社からである。それについて私は一昨日(7月10日)、『週刊朝日』のインタビューを受けた。

 この本はすでに報道されている通り、皇太子ご夫妻の進退について相当に思い切った提言をしている。雅子さまの行状について、私的外出や公務の直前のキャンセルなどを系統立てて詳しく記録的に語り、今後皇后としての激務をこなせる可能性は少ないと見て、次の三つの選択肢を提言した。

 (一) 雅子さまは「別居」して治療に専念する。
 (二) 皇室典範を改正して「離婚」していたゞく。
 (三) 皇太子さまは自ら次期天皇になるのをやめて秋篠宮に座をゆずる「廃太子」の道を選ぶ。

 以上のような、三つの選択肢を考えるべき時が来ているという思い切って論理的に整理された内容の提言を行った。

 誰でもこのくらいのことはすでに考えているし、驚くほど新鮮な内容ではないが、たゞ公開の文書で妃殿下の行状を詳しく述べ立てた後でのこの三提案だから、事実上の「皇后失格宣言」といってもいい。

 インタビューなどのまとめに手を入れた1000字ほどの私のコメントは、次の『週刊朝日』に掲載される。著者の橋本さんも言っているが、この面倒なテーマの「けじめ」をつけられる実行者は天皇陛下のほかにはいない。陛下以外に問題を解決できる人はいない、と私も思う。

 それなら私にしても橋本さんにしてもなぜ書かずにいられないかというと、将来の皇室の変質が心配で、それに伴い日本の未来がさらに心配だからである。国民の一人として声を挙げずにいられないのは当然である。

 昨年の『WiLL』5月号の私の発言時に、公開の文章で問わずに直接殿下にお会いして口頭で奏上するのが正しく、私は「臣下の分」を弁えない不忠義者であると、ものものしく言い立てる保守派からの攻撃を受けたが、橋本明氏のような天皇陛下にいつでも会える側近でさえ、こうして本を書いて公開オピニオンに訴える形式をとっているのである。この点をよく見届けておいて欲しい。聞く処では橋本さんは陛下がカナダに旅立つ前に見本刷かなにかをいち早く陛下にお渡しになっているようである。

 雑誌や本で世論を喚起するのは現代の常道で、それ以外に肝心の方々のお耳には届かない。否、それをいくらやったとしてもお耳には届かないのかもしれない。橋本さんの今度の本は、私とは違って、間違いなく天皇陛下のお手には渡った。

 橋本さんも言っているが、適応異常とか鬱病とかはそんなに長くつづくものではない。私は雅子妃殿下はご病気かどうかは別として、皇室という環境そのものがいやで、伝統的行事とか日本古来の仕来たりとか和歌とか作法とか、そういう世界からできればなるだけ遠ざかっていたいという心理状態なのではないかと思う。美智子皇后への劣等感もそこには重なっているように思える。

 とすると、皇太子ご夫妻が宮中の主になられた暁には、公務の質をがらと替えてしまう可能性がある。そして、あっという間に病気は治り、代りに国民と皇室の一体感も消えて、まるきり異なった宮中の姿が伝えられるようになるかもしれない。そういうような局面になることを私も橋本さんも恐れているのである。いちばん心配なのはこれである。「民を思う心」が皇室にあり、「明き浄き直き心」の模範の柱が皇室にあるとの信仰が国民にある。その二つの型の呼吸がピタと合っている。それが今はまだある。この両方相俟つ関係がはたして守られていくだろうか。われわれはそれを心配しているのである。

 昨年12月羽毛田宮内庁長官がいわば天皇の意を体して「皇室そのものが(雅子さまに)ストレスであり、やりがいのある公務が快復への鍵だとの論があるが」それに「両陛下は深く傷つかれた」とおっしゃった。これは天皇から皇太子ご夫妻へ向けて二人のあり方を真剣に考え直せよ、というメッセージであったと思う。

 今年2月の皇太子殿下誕生日記者会見で、殿下はいろいろなことをたくさんお話になったが、肝心のこの点についてだけ、記者団から問い質されていたのに、するりと抜けるようにいっさいお語りになっていない。一番のポイントである。難し過ぎて話せなかったのだと思う。勿論ご同情申し上げるが、しかし問題は皇室が妃のストレスになるというここにきわまっているのである。だから橋本さんの本の三選択肢のような具体的な提言が出てきた。いちだんと輪はせばまっている。

 もうこうなったらケジメをつけていたゞくのは天皇陛下御一人のほかにはない、という橋本さんの結論も納得がいく。従って、妃殿下のお振舞に関するわれわれの立言もすでに限界に達したというべきで、もう私は終りにしたい。

 ただこれとは別に橋本さんの『平成皇室論』は妙に政治的なスタンスが介在する。一口でいえば平和主義、平等主義。今上陛下が現行憲法の改正を望まないという趣旨のご発言を、ご即位においても、ご結婚50年の際の記者会見においても、折りにふれなさっていること、また、昔のような格差社会(身分社会)にもどすべきではないとのご意向があるというようなことを、橋本さんは強調している。

 私見ではもう日本が昔の型の身分社会に戻ることはないが、皇室と一般国民の間の垣根が低くなることは皇室の危機に直結するというにがい現実を、橋本さんは見ていない。また、戦争行為を封じた現行憲法が今まで見捨てられないできたのは、日米安保条約とワンセットになっていたからであって、これが今問われている。国内に50個所も米軍基地を許し、米国の意のまゝの戦争にのみ狩り出される可能性をこの侭つづけていてよいのかという疑問は日増しに高まっている。左右両サイドから安全保障への不安が高まっている。今上陛下の現行憲法擁護のご発言は、こう考えると、なかなかに政治的である。日本の左翼に政治利用される可能性がある。否、すでにされ始めている。

 雅子妃問題よりもこの方が深刻な問題であるので、また稿を改めて論じることにする。

『国民の歴史』の文庫化

 6月のほぼまる一ヶ月をかけて『国民の歴史』の文庫化に取り組んでいる。作業が全部終わるのには7月一杯かかり、8月末日が校了で、10月刊行の予定である。文春文庫で、上下2巻となる。

 あの本が出たのは平成11年10月で、ちょうど10年になる。よく売れたから新潮文庫からも講談社文庫からもオファーがあった。しかし本が出て間もない早い時期にいち早く要望してこられたのは文藝春秋であった。原著の版元の扶桑社との間で交した契約書によって、文庫化などの二次利用は5年間禁じられていた。

 短時日で作成した大著なので、口述筆記の章がいくつかあり、そこは文章が粗い。今度丁寧に赤字を入れ修文し、読みにくい個所は平明にした。内容上の加筆もなされた。文庫本を定本とする。

 写真や図版が100点以上もあるので、文庫の作成も手間がかゝる。あらためて目次をご案内する。赤字部分は新しく今度書き加えられた箇所である。

上巻目次

 まえがき 歴史とは何か
1・・・・一文明圏としての日本列島
2・・・・時代区分について
3・・・・世界最古の縄文土器文明
4・・・・稲作文化を担ったのは弥生人ではない
5・・・・日本語確立への苦闘
6・・・・神話と歴史
7・・・・魏志倭人伝は歴史資料に値しない
8・・・・王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝
9・・・・漢の時代におこっていた明治維新
10・・・奈良の都は長安に似ていなかった
11・・・平安京の落日と中世ヨーロッパ
12・・・中国から離れるタイミングのよさ―遣唐使の廃止
13・・・縄文火焔土器、運慶、葛飾北斎
14・・・「世界史」はモンゴル帝国から始まった

 上巻付論 自画像を描けない日本人
――「本来的自己」の回復のために――

下巻目次

15・・・西欧の野望・地球分割計画
16・・・秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
17・・・GODを「神」と訳した間違い
18・・・鎖国は本当にあったのか
19・・・優越していた東アジアとアヘン戦争
20・・・トルデシリャス条約、万国公法、国際連盟、ニュルンベルク裁判
21・・・西洋の革命より革命的であった明治維新
22・・・教育立国の背景
23・・・朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
24・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その一)
25・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その二)
26・・・日本の戦争の孤独さ
27・・・終戦の日
28・・・日本が敗れたのは「戦後の戦争」である
29・・・大正教養主義と戦後進歩主義
30・・・冷戦の推移におどらされた自民党政治
31・・・現代日本における学問の危機
32・・・私はいま日韓問題をどう考えているか
33・・・ホロコーストと戦争犯罪
34・・・人は自由に耐えられるか
原著あとがき
参考文献一覧
下巻付論 『国民の歴史』という本の歴史

 上下巻にそれぞれ加えた二つの「付論」は50枚論文で、力をこめている。上巻付論「自画像を描けない日本人」は著者による本書の解説というか、意図や狙いを語った文章である。「日本から見た世界史のなかに置かれた日本史」が本来の自国史のあり方であるのに、なぜ日本人にはそれが不可能であったかを考えている。日本列島の地理上の位置や9世紀前半以後の「鎖国」ぎみの歴史の流れも考慮に入れて書いている。

 律令がわが国では不完全にしか定着しなかった。その頃からわが国は東アジアで勢威を競い合う必要がなくなり、王権は動かない存在となり、小世界へと変容していく。じつに明治維新までそうではないか。日本人が自画像を描けないのには理由がある。「世界史」を表象することができなかったのである。

 私は上巻付論に「『本来的自己』の回復のために」という副題を添えたが、「回復」より「発見」ないし「発掘」のほうがよいかもしれない。今考慮中である。なぜなら自画像を描けないのは戦争に負けたからとか、自虐史観がどうとかいう話ではまったくないからである。

 上巻につけた「まえがき 歴史とは何か」は約9枚の簡潔な文章で、歌うように書かれた箴言調の一種のマニフェストである。

 下巻の「参考文献一覧」は当時夢中で没頭した、約400冊の書名を掲げる。10年前のあのときには時間的にも、スペースの面でも、使用した本の名を一覧表にするという当然の措置がとれなかった。今度やっとまともな体裁となるのである。「定本」ないし「決定版」と名づける次第である。

 今私は書庫をかき回して、「参考文献一覧」の作成に大わらわで、あと一週間はかゝりそうである。

追悼・川原栄峰先生

 哲学者の川原栄峰先生が逝去されてから早くも2年半が過ぎている。ショーペンハウァー協会の小冊子に私が追悼文を頼まれたのはご逝去後一年半経ってからで、それが活字になったのはさらに半年後だった。すべてはゆっくりしている。今の時代には珍しいが、哲学者の追悼にはむしろふさわしい。

 川原先生は早稲田大学名誉教授。大正10年(1921年)お生まれ。2007年1月24日にご逝去。ハイデッガーやニーチェに関するご論考、翻訳が多く、主著に『ハイデッガーの思惟』(理想社)という大著がある。贈呈を受けている。他にも多くの著作がある。

追悼・川原栄峰先生

西尾幹二(電気通信大学名誉教授)

 川原栄峰先生といつ、どこで、どのようにお知り合いになることができたのか、はっきりした記憶がない。昭和50年(1975年)より前に、個人的ご交際を賜っていたことは間違いないのだが・・・。

 私は先生から教室でお教えをいただいた立場ではない。先生は自分より歳下の、哲学を語り合える若い友人として遇してくださった。そして何となくウマが合った。どこを気に入っていただいたのか分らないが、先生は私に優しかった。お会いしている間、楽しそうにしておられた。

 先生は私の家にもたびたびお出かけ下さり、酒盃を交した。昭和50年から54年の間、私の一家は東京の京王線の奥、日野市の平山京王住宅に初めて一戸建ての家を買って、暮していた。先生はある期間毎月一回、規則正しくわが家を訪ねて下さる習慣を守っておられた。というのには理由があった。

 先生は多分その少し前ではないかと思うが、ご子息を亡くされた。登山中の遭難であったと聞く。先生はその悲運をかきくどくようなことはなかったし、ご子息のことを私の前で詳しく話されたこともない。ただ、その悲しみがいかに大きく、また悲しみを乗り超えようとする努力をいかに辛抱づよくわが身に課しておられたか、当時私の内心にこの点で小さくない驚きが宿っていたのを覚えているのである。

 先生はご子息の墓が八王子にあると仰っていた。そのご命日が何月何日かは覚えていないが、毎月一回、何日かは必ず回ってくる。その日に八王子に墓参をなさる。年に十二回である。墓参の帰路、八王子に近い日野市の拙宅にお立寄り下さるという次第だった。

 私も若かった。私も家内も先生にお会いするのが楽しくてその日をお待ちしていた。それがどのくらいつづいたか、何回だったかは覚えていない。四年間あれば四十八回だが、そんなに数多くはない。さりとて、全部で五、六回ということもない。

 わが家にお立寄りくださっても、くださらなくても、ご子息を偲ぶ先生の月一回の規則正しい墓参はその後もずっとつづいたに違いない。昭和54年の夏、わが家は日野市の丘の上の住宅を引き払って、杉並区に引越した。それから後、先生をお迎えする機会は減り、私も44歳、多事多繁の歳月に入って、先生とのご交際も次第に間遠になっていった。

 いかにわが子への思いが熱いとはいえ、いったい月に一回、中野区のご自宅から八王子へ墓参をくりかえす情熱は何なのだろう、と私は感嘆した。先生は僧籍をお持ちで、宗教上の信念はまた私などとは異なる独自のものをお備えになっているに相違ないとはいえ、並々ならぬお勤めのご意思の表われだと感銘を深くしたものだった。

 学問上のご業績や達成度の高さについては、私などが贅言を重ねるべきではなく、それにふさわしいしかるべき専門学者の言を俟ちたいが、私も先生の翻訳・論文・大著のいずれもの愛読者であり、関心と敬意をずっと抱きつづけてきた。その中で、忘れることのできない一冊がある。私が先生に惹かれつづけた基本はこの一冊だという本である。

 『哲学入門以前』(昭和42年、南窓社)がそれだ。扉を開くと「西尾先生奥様 恵存 川原」とペンでサインが書かれているので、贈呈していただいた本であることは間違いない。線がいっぱい引いてあり、幾度も読んだ記憶がある。

 「入門以前」という標題に先生の含羞と自負の両方がこめられている。「哲学入門」は普通の題のつけ方だし、出隆に『哲学以前』があり、従って「入門以前」はそのどちらに対しても自分を抑止している謙虚の表現であると共に、そもそ哲学とはどこまでも「入門以前」の心構えでなければならず、人に哲学を説くときにも「入門以前」とは別のいかなるものであってもいけないという確固たるご信條があってのことと思われる。というのも「あとがき」に、哲学者は本を書かないものだ、といきなり先生の言葉が発せられているからである。

 「ソクラテスは本を書かなかった。吹きつける存在の嵐があまりに激しくて、とても片隅によけて本を書くなどということができなかったのだとのことである。イエス・キリストは人ではないと言われるからしばらくおくとしても、釈尊も孔子も本を書かなかった。一流の人物は本を書かなかったのである。つまりたとえどんな立派な本を書いたにしても、本を書くということは、二流以下の人物に下がることなのだ。だから私は本を書かない。――こんなことを言って大勢の学生に大笑いされたことがある。」

 哲学者としての先生の並々ならぬ自負が「入門以前」というタイトルにすでに現れていることは明らかであろう。「自由、歴史、個と普遍、科学の勃興、客観性、弁証法、実存、ニヒリズム」がこの本の目次の区分である。

 ひとつだけニヒリズムの章に忘れもしない比喩があった。「・・・・・である」という本質規定に対して、「・・・・・がある」という実存、何かがあるということを言うために、ヘラクレイトスは火があると言った。この「火」はそれは犬である、猫である、机である、私であるというような「・・・・・である」と規定されるたぐいのものではない。「何である」かはいえないがともかく「何かがある」というときの不気味な「ある」を説明するために、川原先生は面白い比喩を用いた。

 「仮に地上や人間の営みを一万年分ぐらい撮影しておいて、そのフィルムを1時間ぐらいで回して映写してみたらスクリーンに何がうつるだろうか?すべての色は抹殺されて灰色になってしまうだろうか、そして多分、戦争も平和も、大きなあやまちも小さな親切も、デモクラシーもコミューニズムも、何もかもごっちゃになって、『何である』ということは全部消えてしまうだろう。が、しかし灰色の『何か』が、どこからどこへということなしに、不気味に動いているだろう、――永遠に生きる火として!」

 このくだりを私は後日何度も思い出していた。ニーチェのいわゆる「根源的一者」すなわち「ディオニューソス的なるもの」も川原先生のこの比喩でうまく説明できるのではないかと思ったものだった。

 ともかくこの『哲学入門以前』は分り易く書かれていて、しかも根底的に思索することをわれわれに誘ってくれる。私には得がたい、素晴らしい一冊だった。

 その頃私と親しくしていた講談社現代新書のTさんがやはり私と同じようにこの一冊に感激して、先生に執筆を頼みに行った。そうして出来あがったのが『ニヒリズム』(講談社現代新書468号)だった。昭和51年秋刊行である。

 ところが、Tさんは本が出来てから少しがっかりして私に言った。「少し違っちゃったんですよ」「何がですか」「『哲学入門以前』のあのういういしい感動がないんですよ」「あっそうですか。」

 人間は同じことを二度出来ないのである。『ニヒリズム』は別の意味で重要な本だが、すでに先生は次の思索世界へ向かって旅立たれていたのである。

 『ニヒリズム』は昭和48年~49年の私の『歴史と人物』連載中や昭和51年『新潮』掲載のニーチェ論が参考文献として掲げられていた。

 日野市の住宅で先生からハイデガーやカール・レーヴィットに出会った日々の生き生きしたお話を伺った往時の対話を思い出さずにはおられない。

 先生の最晩年、私は多忙にかまけ、つい先生のおそば近くに行って、新しいお話を伺わないで終ってしまったことが残念でならない。

 年賀状にはいつも、「表の宛名書きは孫の手で書かれました」と記されてあった。

(平成20年9月9日記)
日本ショーペンハウァー協会会報 第42号(2009.1.15)。

 終りの方に出てくるT氏とは講談社専務をつとめられた田代忠之氏(昭17年生れ)で、氏も今年の5月に病没された。若い時代に私の『ヨーロッパの個人主義』を出してくださった人だ。

 謹んで両氏のご冥福を祈る。