ヨーロッパを探す日本人(二)

 

 私はそのへんを歩いている二、三の人に訊ねてみるしかなかった。だが、日曜というのはこういうときまったく不便なのである。日曜の午前中、土地のひとをつかまえようと思ってもなかなかそれらしき人に出会えないのだ。ここがイタリアとの違いの一つであろう。イタリアでは、用もないのに閑をもてあましたひとびとが街頭に屯し、無駄話をし、がやがやと陽気に、賑やかにくだを巻いている。スペインもそうだ。スペインでは交通の邪魔になるほど街角に人間が溢れ出している。バーゼルはバールというフランス読みの名ももっているとはいうものの、たしかにゲルマン系の町なのだ。

 それに、もう一つ困ったことは、土地の人と旅行者との区別が容易につけにくいことである。日曜の午後になって、ようやくバーゼルでも散歩をする人がぼつぼつ通りを歩きはじめたが、しかし、日曜日には正装して散歩するのがこうした静かな中型都市の習慣だから、旅行者との区別がつけにくい。イタリアあたりでは、観光客は一目でそれとわかったのに、と私は困惑した。乳母車を押している夫婦者、一人で杖をついて歩いている老人――これは絶対に旅行者ではあるまい、そう当りをつけて尋ねてみるしかなかったのである。

 昼食どきなのでレストランに這入った。早速ボーイにきいてみた。勿論ボーイが知るわけもないから、なかなか立派な高級レストランでもあるし、だれか店の人にきいて下さいと頼んだのである。ボーイはニーチェの名前も知らなかった。店の中年の女主人が出て来て、調べてあげますと言って奥に入り、しばらくして地図と紙切れをもって出てきた。

 かくて、バーゼル大学のそばに残っている中世の城門シュパーレントール付近の、シュッツェンマット・シュトラーセに古い学校の建物がある。そこにニーチェは住んでいた、あるいはその隣の家かもしれない、だからその辺りに行ってひとに聞けば近所の人が教えてくれるでしょう・・・・・ということだった。

 「本屋さんに知合いがいますので、電話でいまきいたのです。」
 「それはどうも御親切に有難う。」
 「でも、どうしてそんなことを知りたいのですか。」

 こういう質問をこれまで私は何度うけてきたことだろう。こういう小うるさい質問を一言で片づけてしまう名答をおぼえるまでにも、私はすでに一年ぐらいかかっていたと言えるのかもしれない。

 「Ich bin Germanist.」
 「ああ、そうですか、でもいまニーチェを読む人はいないでしょうに。私は以前にはドイツ人でしたのよ。ニュルンベルグの出です。兄は子供の頃、ニーチェを読む研究会に入っていました。兄は建築技師で、戦死しましたが、あの頃はゲルマニストでなくともニーチェを読む研究会は町にいくつもあったのですのよ。」

 そんな話はほかにも私はきいたことがあった。

 東ドイツのライプチヒ近郊レッケンの、ニーチェの生家であった村の牧師館に私は墓参したことがある。

 ニーチェの墓は小奇麗に手入れされ、季節の花で飾られていたが、それは年老いた寺男の世話であったから、私はなにがしかの金をこの親切な寺男に握らせなければならなかった。

 「昔ワイマールからここに墓が移されてきた除幕式の日はとても賑やかでしたよ。ヒットラー総統は来ませんでしたが、代理の偉い人が来ました。村長さんも張り切ったものです。あの頃は、なにしろお墓は国営で、管理の費用もぜんぶ国費でした。ですが今は、こうして私が手入れして、花を飾ってやるほかないのです。」

 だからなにがしかの金を置いて行けというのがこの77歳の寺男の言いたかったことなのである。

 「西ドイツから墓を見に来るひとがいますか。」
 「いません。」
 「日本人は?」
 「十年前にひとりいました。ほかにはフランス人がときどき来ます。自動車で東ドイツを旅行中にちょっと立寄るらしいですよ。」

 新しい決定版ニーチェ全集の編纂をしているイタリア人学者モンチナリ氏をワイマールに訪ねたときのことである。

 氏は不便な東ドイツでこの難事業にとりかかってすでに七年になるが、ワイマールのシラー・ハウスの前の古本屋にナウマンのツアラトゥストラ註釈本が出ていたはなしをしていたので、私はさっそく買いに行った。店の主人にそれが欲しいと言うと、
 「ニーチェ?そんなものはありません。」

 それから急に居丈高に、声をたかめて、
 「ニーチェ、いけません、いけません、(シュレヒト、シュレヒト)あれは悪い思想家です。あんなものを読んではいけません。」

 あんまりはっきりそう言うものだから毒気をぬかれて引き下がった。あとでモンチナリ氏に再会したときにその話をしたら、
 「なに、書庫にあるのですよ。あなたが外国人なので本屋は警戒したのですね。現に一週間前、あそこの主人は私に買わないかと持ちかけて来たくらいですからね。」

 私はルツェルン近郊のインメンゼー湖畔でスイス人の小学校の先生夫妻に会った。バーゼルのニーチェ・ハウスはミュンスター教会のそばだろうと間違えて教えた人だが、ニーチェはスイス人には好かれていませんね、あの過激思想はわれわれの肌には合いませんよ、顔をすこししかめながらそう言っていたのを思い出す。

 「でも、ニーチェの方はスイスを愛していましたね。」
と私は答えたものだった。
 「それに、ニーチェは死ぬまでスイス国籍でしたよ。」
 「あら、それ本当ですか?」
奥さんの方が急に目を円くして、びっくりした様子で亭主の方を向いたときの顔が思い出される。

ヨーロッパを探す日本人(一)

 私が昭和43年(1968年)4月、ドイツ留学から帰国して半年余しか経っていない時期に、同人雑誌に書いたあるエッセーをご紹介したい。私は当時32歳で、静岡大学の専任講師だった。

 同人雑誌はドイツ文学の仲間で出していたもので、Neue Stimme(ドイツ語で「新しい声」)といい、「しんせい会」という同人会を結成していた。小説を書く者もいた。芥川賞作家も出ている。

 このエッセーは私がまだ著述家としての活動を開始していない習作期の作品である。新潮社から出してもらった最初の評論集『悲劇人の姿勢』(1971年1月刊)に収録されているので、未公開ではないが、この本自体が古書店にももうないので、同エッセーに記憶のある人は今ではほとんどいないと思う。(ただ同書の別の評論から一昨年ある大学の入試問題が出ているので、本を知っている人はまだいるのだと、嬉しかった。)

 「ヨーロッパを探す日本人」は短編小説くらいだと思って読んでいたゞきたい。読み易いと思うが、かなり長い。何度にも分載されると思う。

 途中から読まないで欲しい。面白そうだと思ったら、(一)に戻って読んでいただけたら有難い。

 このあいだ「第二の人生もまた夢」というエッセーを日録に掲示したあとで、スイスのバーゼルに住む若き友人平井康弘さんが出張で来日し、新丸ビルで落ち合い、久闊を叙した。急にバーゼルが懐かしくなって長谷川さんのお手を煩わせること容易ならずと思いつつ、ここに長文の分載をお願いした次第だ。

■ヨーロッパを探す日本人 

第一節

 しらべてから来るべきだった。アドレスがわからないのである。

 ホテルの受付の女性にまず訊ねてみた。

 ニーチェ?さあ、どこかの町角でその名前見たことがあるわ、はっきりしないけど、・・・・・・肥った中年の婦人がそう答えた。駅の案内所に問い合せてみましょう、そう言って電話をその場で掛けてくれたが、生憎日曜で、電話口にはだれも出ないらしい。

 バーゼルは観光都市としてはまことに不完全な町である。

 ベルン、ルツェルン、チューリッヒ、いずれにも、駅のなかに立派な旅行案内所があり、数人の係員が休みなく応対している。チューリッヒなどはいかにも国際空港のある都市らしく、駅構内の案内所でさえ、三方にガラスを張った宏壮な事務所だった。この三つのホテル案内と旅行案内(汽車の時刻などを教える事務も含む)とは、それぞれ別々の場所に別々の事務所をさえもっている。バーゼルの駅の構内にはそれらしきものはなにひとつなかったのである。

 駅前広場に、木製の電話ボックスのような小屋が立っていて、無愛想な女の子がひとりホテルの案内係をしている。私は昨夜、この無愛想な女の子の世話で、いま泊まっているホテルを見つけた。このときよほどニーチェの昔の下宿のことを聞こうかと思った。しかし、なにしろ百年前である。こんな年若い子が知るわけはない、そう思って聞かずに置いた。ホテルの受付の中年女性が電話を掛けようとした相手はこの女の子なのだ。

 私は受付の女性に言った。
「昨日スイスの小学校の先生と話をして、ニーチェの家はたぶんミュンスター教会のそばだろうということを聞きましたが・・・・・」
「ああ、そうそう、ボイムリ・ガッセですよ。ありました。私も見たおぼえがある。むかし哲学者が住んでいたと書いたプレートが壁に打ちつけてありました。」

 午前中、ホルバインの蒐集で名高いバーゼル美術館を見て、その足で早速ミュンスター教会の近くに行ってみた。バーゼルは小さい町である。人口20万、スイスではチューリッヒに次ぐ第二の都会だそうだが、べつに乗物に乗る必要はないのである。

 ミュンスター教会はその濃い赤茶色のゴシックの尖塔を9月末の蒼天につき立てていた。

 ボイムリ・ガッセはすぐ見つかった。左右を見ながらなだらかな坂を降りていくと、そこにあったのは、エラスムスが晩年の一年間を客人として過ごしたというプレートの打ちつけてある洒落た構えの家だった。小学生の先生も、ホテルの受付女も、ニーチェとエラスムスとを間違えていたことは確かだった。エラスムスは16世紀の人で、彼が死んでからすでに四百年以上たっている。この町におけるエラスムスとホルバインとの出会いを誇りに思っている人もいるらしく、美術館で買ったカタログにもそんなことが書かれてあるのをたったいま読んだばかりだった。

 ホルバイン筆になるエラスムスの肖像は有名である。なるほどあれはこの町で描かれたのか、私が合点がいったが、それ以上の感慨はなかった。ボイムリ・ガッセはかなり広い通りで、しかも、目抜きの繁華街とミュンスター教会前の道路とを結んでいる重要な通りだから、町のひとびとはここをたびたび通り、なにやら妙なプレートが打ちつけられてある家をなにかの折に目にし、ニーチェであったか、エラスムスであったか、そんなことまでいちいち覚えていられないというところが真相だろう。

 ヨーロッパの町には大抵、観光案内所という看板を掲げ、地図や絵などを張ったガラス張りの大きな事務所を町角にみかけるが、バーゼルにもそれらしきものは二、三あったから、昨日のうちにそこへ行って置けばすぐにでも分ったかもしれないが、なににしても今日は日曜日で、あらゆる店は扉をかたく閉めていた。どうにも仕方ない。案内所は日曜日にこそ開いているべきなのに、この古い、地味な、ドイツ風の町では、日曜はいかにも日曜らしく商店街はしんと静まりかえっている。

国家崩壊の感覚(二)

 首相の国会演説が「国民」を強調したのはまさに偶然ではない。今度の選挙で民族保守派の議員が多数切り捨てられたことにも必然性がある。この国は恐ろしい勢いで異質の相へ突入しつつある。今まで知られていない、奇妙な国に変貌しつつある。

 それが何処を目指し、行き着く先が何であるかは誰にも分らない。けれども目の前にあるいろいろなものがどんどん壊れていくことに近づく激震が表徴されている。

 たまたま目の前に3冊の新刊の本がある。歌川令三『新聞がなくなる日』(草思社)の表紙には、紙の新聞、宅配の大新聞が消えるのはもはや時間の問題だ、と書かれてある。田原茂行『巨大NHKがなくなる』(草思社)の帯には、肥大化と慢心、事件は起こるべくして起こった、とある。

 NHKの問題というより、テレビというメディアの限界がはっきり意識されだしている。私自身、新聞をあまり読まないし、テレビも見ない。信用していないからである。

 情報の発信元に信頼性がなくなり、情報が拡散し、もやをかぶったように不明になるということは、世界像がもはやわれわれの目に捉えがたくなっていることを意味する。いつの時代にも、自己をとり巻く世界像の崩壊は情報への不信から始まる。

 「大本営発表」は戦争末期に甚だしくなったことを思い出していただきたい。これは意図や策謀ではなく、国家の中枢にいた指導者にも時代がつかめなくなったのである。今の日本の政府や官僚も、本当はどうしてよいか分らなくなっている。

 3冊目の本は浅井隆『最後の2年』(第二海援隊)である。背文字には「2007年からはじまる国家破産時代をどう生き残るか」とあり、帯には「いよいよ財務省内部に預金封鎖特別研究チームが発足し、ハイパーインフレを切望する声も。」

 以上3冊はいずれも2005年9月刊、まさに最新刊で、3冊目は「経済大国」といわれてきたわれわれの国のシステムそのものの瓦解を予告している。この手の威しの本は世に多い、と思う人は、著名な経済学者の中谷巌氏の『プロになるための経済学的思考法』(日本経済新聞社 2005年5月刊)を読むがいい。その第2章にも同じことが書かれてある。

 私は国家は自分を守ってくれるものだとまだ漠然と信じていたし、これからも信じたいのだが、どうもそうではないらしい。「崩壊」は今までは文学的レトリックだったが、これからは現実のテーマである。

 私は不図、最晩年をドイツに亡命する自分を空想した。3冊目の本がニュージーランドへの移住を日本人に奨めているからである。これを読んだとき、氷原を歩いていていきなり足許に大きな裂け目が出来たような眩暈を覚えた。

 小泉氏は自民党を壊したのではなく、国家を壊したのかもしれない。今月号の私の評論「ハイジャックされた漂流国家・日本」(正論)と「郵貯解体は財政破綻・ハイパーインフレへの道だ」(諸君!)は、私のこの、国家と国民が崩壊していく眩暈の感覚に表現を与えたものだといっていい。

国家崩壊の感覚(一)

 小泉首相の今国会の冒頭の、さして長くもない施政方針演説に、「国民」ということばが何度もくりかえし用いられていると、フジテレビの解説者が指摘していた。

 誰か数える人がいたら面白いからやってみて欲しい。予見を自慢するわけではないが、私はこのことをある意味で予知していた。「ハイジャックされた漂流国家・日本」(正論11月号)という最新の評論で、自民公明党も民主党もともに「国民政党」に脱皮したがっているという新しい局面の変化をすでに取り上げているからである。

 自民公明党は特定郵便局、医師会、農協といった支持基盤を、民主党は官公庁や大企業の労働組合という支持基盤を、それぞれ振り捨てるか、あるいはそこと距離をもつことで、真中の曖昧にして不確定な「国民」の概念をつくり始めている。

 今度の選挙で「無党派層こそ宝だ」と首相がはしなくも言ったように、「国民」とは与党が選挙で勝たせてもらった無党派層、浮動票の主である大衆社会のことである。私の考える国民の概念とは異なる。

 国民は元来、歴史や伝統に根ざしたものでなくてはならない。『国民の歴史』が描き出した国民は日本の民族文化と切り離せない。しかし自民公明党を勝利に導いた「国民」は、改革ということばに踊らされ、変化だけを求め、足許のふるさとの土を忘れる現代の大衆社会の人工的な進歩的未来主義の別名といっていい。

 「これは大変に不安定なことになった」と私は書いている。大衆にたえず変化の種子を与えなければならないからである。たえず改革案を提出しなければならないからである。さもないと大衆はついてこない。これは困ったことになった、と私はあの論文で嘆いている。

 何に困ったか。「与野党どっちにとっても革新が善であり、保守は悪となる。能率が価値であり、習慣は敵である。ふるさとは切り捨てられ、競争がすべてに優先する。」と私は書いた。あゝ、いやな国になる、いやな時代が来るとしみじみ思う。

 小泉氏の自民公明党も、前原氏の民主党も、目指している方向は基本的に同じであろう。「国民」の概念は多分共通している。

 「すでに国鉄は民営化されて地方に廃線が多く、郵便ネットワークも将来は危い。農業も、医療も、初等教育も、公平から競争へと移り、日本人の生活全体が“市場原理主義ニヒリズム”とでもいうべきかさかさに乾燥した、薄っぺらに底上げした、味もそっけもない無内容なものに変わり果てて行く。」と私は書いた。

 だから私はあゝ、いやな国になる、いやな時代が来ると慨嘆したのだ。“市場原理主義ニヒリズム”は井尻千男さんがこの意味で使っていた的確な表現だったので借用した。

つくる会定期総会での私の話(二)

 「夢はどこまでも夢ですから空想めいて聞えるかもしれませんが、いつだって半分は現実なんです。」私はそうつづけて、二つ目の夢はつくる会が広報に関するマーケティング戦略を展開できるようになることだ、と言った。

 「今回の総選挙で小泉首相が『改革を止めるな』と言っただけで国民はそうだ、そうだと雪崩を打って、言われた方へ走りだしました。四年間も首相の座にいて、改革を果すべき立場にあり、ちゃんとした改革をしてこなかったのは誰のせいでしょう。あの人の責任ではないですか。それなのにその人が『改革を止めるな』は、何という言い草でしょう。自分が止めていたんじゃないですか。私は笑えて仕方がなかった。

 けれどもこの鉄面皮こそが、勝つためには大切なんですね。つくる会にもいい教訓です。で、われわれも発想の転換が必要です。『新しい歴史教科書こそ反戦平和の教科書だ(笑)。国際協調を絵に描いたような教科書だ(笑)!』と堂々と言いつづけるような、胸を張った臆面のなさがを示すべきなんです。

 今度の自民党は参議院の世耕議員の肝入りで広報のためのPR会社が参入し、戦略を組み立てたと聞いています。広報と広告とは違いますよ。小泉さんも武部さんも大分前から広報会社とよく会い、よく打ち合わせをしていたらしい。解散はかなり前から研究していた。『改革を止めるな』は首相おひとりのアイデアではなかったようですね。

 つくる会もできれば広報会社に依頼したいのです。でも、そんな巨きなお金はありません。だから夢なんです。夢ですが、とても現実的な夢ではあるんですよ。

 それから三番目の夢はまた小泉さんに関係があります。8月8日の解散から9月の第一週目くらいまで、日本の大マスコミは小泉批判をピタッと止めてしまいました。テレビは女性刺客V.S.抵抗勢力の対決を面白おかしく追いかけるだけで、首相の仕掛けた罠にはまったのか、背後で見えない権力が動いたのか、薄気味の悪いほど同じ一色に染まった。皆さん、ご記憶にあるでしょう。小泉万歳を一番煽ったのは産経ですよ。そして産経から朝日まである意味で論調が一つになった。

 権力というものはもの凄いことができるのだということが証明されました。権力は小泉さんかどうか分りません。その背後にいるアメリカかもしれません。何か分らないが権力が本気になるとこういうことができる。

 それで三番目の夢です。夢ですからいいですか、無責任ですよ。

 教科書問題においては権力がまだ本気になっていない、そういうことだなと思いました。権力が危機感を覚え、本気になったら、地方の県教委なんてみんなふっ飛ばされてしまいます。みんな右へならえしちゃうんですよ。その程度の暗い闇なんです。

 以上三つの夢、申し上げました。夢ですから、すぐ醒めてしまいました。そして、私たちは再び自分の非力を悟らざるを得ません。

 ですが、非力でも、無力でも、ずっと旗を掲げつづけることが大切なのではないでしょうか。さもないと夢のつづきも見られません。

 尚、最後に八木秀次会長が今回の総会を機に自ら会の編成替えを示し、新しいプロジェクトを打ち樹て、本格的に会長の職責を全うせんと実力を発揮し始めたことを申し添えておきます。今までは前任者の後継ぎという立場を外さぬように慎重になさっていましたが、今回ご自身でどんどんアイデアを出し、指示し、命令し、活発に動き出しました。私の知らない間に新理事が増え、本部は若返りました。

 各地方支部におかれましても活動のより一層の活性化と次の時代への課題の継承をにらんだ組織の若返りをぜひにお願い申し上げる次第です。ありがとうございました。」

つくる会定期総会での私の話(一)

 「私は番外の人間ですので余り発言しないつもりでしたが、それでも会議の途中で思わず少し口出ししてしまい申し訳ありません(笑)。」というような前口上で、私が議長に指名されて、しめくくりの挨拶をした。

 新しい歴史教科書をつくる会第8回定期総会が9月25日午後1:00~4:00虎の門パストラルの大会議場で開かれた。全国から集まった約200人の正会員が熱心に討議をくり広げた。成功とはいえない採択のにがい結果にも拘わらず、会の空気は快活で、気力もあり、ひたむきに前向きだった。

 ただ私の心の中には、17日の全国活動者会議で北陸のある県の代表から聞いたことばが重苦しくのしかかっていた。北陸は圧倒的な保守地盤である。日教組もほとんど力がない。日の丸・君が代も抵抗なく励行されている。というのに、彼はドアをこじ開けることができなかった。

 開けようとすると、立ち塞がるある暗いものの影がある。ぞっとする。「それは何ですか」と質問する人がいた。「分りません。教師の世界の閉ざされたメンタリティー、そう言ってしまえば簡単です。そういうものでもない。それは闇のようなものです。」「教科書業界の利権でしょう?」と別の人が質問した。「そうかもしれません。しかしもっと何か奥深いもの、遠いものと絡んでいる。威圧するものがある。地元をよく知るわれわれがこの年齢になって今年初めてぶつかった説明のできない壁です。」

 以上は総会の一週間ほど前に聞いた話である。今回の採択の不首尾を象徴するような話だった。

 総会でもさまざまな角度から「壁」が語られ、議論された。しかし総会では「壁」を動かないもの、毀せないものだとは誰も考えていなかった。私は最後の挨拶を求められていた。

 「本日はご参集のみなさま、ありがとうございます。熱心なご討議も、また各種議案のご可決にも感謝申し上げます。さて、私は本日の会の終結にあたり三つほど夢を語ってみたいと思います。夢ですから多少無責任ですが、お許し下さい。

 教科書法の制定を求める運動が確認されました。教育委員会制度の見直し、権限の明確化ということですが、教師上りはレイマンコントロールの趣旨からいって教育委員にはなれないという法的とりきめがきちんとなされるのが望ましいのです。そういうことは先ほどもどなたかが仰言っていました。私は加えて、教科書販売に関し出版社の営業活動がいっさい禁止されるべきだと思います。道路や橋の談合についてあれほど世間は騒いでいます。しかし、談合の弊害が教科書においてはるかに著しいことは、道路や橋の比ではないのです。公正取引委員会がこれを黙認し、放置しているのはおかしい。

 教科書会社の営業が禁止されることになれば、東京書籍の営業マン150人が全員解雇されることになります(笑)。扶桑社にも迷惑をかけないで、対等に採択戦に臨める。まあ、いいことばかりです。

 これは夢ですが、あり得ない話ではないですよ。理屈からいって、正夢なんです。」

なんとか日本を守りたい

 9月16日頃から22日までの間、うち別件で一日使えなかった日があったが、自己集中して、次の二論文を書いた。

(1) 最後の警告!郵貯解体は財政破綻・ハイパーインフレへの道だ
  「諸君!」11月号(40枚)

(2) ハイジャックされた漂流国家・日本
  「正論」11月号(23枚)

 (1)は経済論、(2)は政治論である。どちらも、いうまでもなく現政権批判である。

 私の一連の関係論文はまとめてPHP研究所より単行本化される予定で、作業が開始されている。昨夜書名をどうしようかと担当者と話し合ったが、私は誰にでもすぐ分る簡潔なのがいいなァ、と呟やき、こんなのはどうかなと提案した。そうなるかどうかはまだ分らないが・・・・・『小泉純一郎は間違っている』。

 そのものズバリの、あけすけで分り易いこんな題の本を出したことはまだないが、私が言いつづけてきたことは、この題に尽きている。

 日本は戦後60年目にして、この政権で一大変質し、破局に近づいている。権力の頂点が頼りにならない、崩壊が上から始まっているこんな不安定は、私には初めての経験である。国民の大半が明日の自分の財布を心配していないのが不思議でならない。財務省や金融庁の幹部はじつは真蒼になっているのではないかと思う。

 尤も、彼らは破局ですべてを清算したいのかもしれない。

 私は郵政民営化は最終的には実行できないと思っている。法案が成立しても、執行されないうちに財政が行き詰まってしまうからである。4年間で240兆円もの、戦後政権で最大の借金を増やした小泉政権に責任は帰せられる。

 間もなくみんなが本当に困る時代がくるのである。

第二の人生もまた夢

 平成16年6月刊の『文藝春秋』臨時増刊『第二の人生設計図』にたのまれて「第二の人生もまた夢」という3.5枚のエッセーを書いた。書いたのを私はすっかり忘れていた。書いたのは昨年の2月頃である。お目に留めていただこう。

 

 私は65歳で大学を停年になって、この3月でまる3年になる。私の場合、在任中も退職後も、同じ著述活動がつづいていて、明確な切れ目がない。だから「第二の人生の設計図」を描けといわれると、そういうことをきちんと考えていないので、困惑の思いがまず先に立つ。

 けれども70歳を目の前にすると、さすがもう時間は刻々と迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし真先に思いつくのは、仕事の上の新しい計画である。つまり「第一の人生」へのこだわりであり、なにも悟っていない愚かさである。昨年と同じように今年に期待している鈍感さでもある。いつ急変が身を襲うかもしれないのに、永遠の無変化を幻想している自分が、変化への恐怖を一日延ばしにしているだけかもしれないことに薄々感づいている。

 そんな自覚もあってか、生活の上でいくつかの小さな新しい試みをし始めた。若い友人と歩いていて、私が駅の階段を昇るのを見ていた彼が言った。「先生、今のうちですね。」「何が?」「外国旅行には脚力がいるんですよ。先生はまだ大丈夫です。」「そうだなァ。」という会話があって、一大決心をした。年に春と秋の二度、老夫婦で外国旅行をするという多くの人のやっているのと同じ平凡な慰安を考えた。まだ行っていないヨーロッパへ行く。北欧、南フランス、アイルランド、ルーマニア、ブルガリアに私はまだ行っていない。それで、北欧と南フランスの旅はすでに実行した。

 さて、そうこうするうちに、仕事とは別に、私は人生の終らぬうちにやっておきたいと思うことを心に確かめてみると、若い頃い実行していたことをもう一度してみたいという欲求がいま次第に募っている。まだ行っていないヨーロッパもいいが、昔留学していたミュンヘンの、私の住んでいた学生寮はもうないので、付近の街角に宿を得て半年くらい過ごしてみたい。毎晩のようにオペラ座へ行く。ミュンヘンを拠点にイタリアやスイスへ旅行し、またミュンヘンに帰ってくる。ドイツの新聞やテレビだけで世界を考える。酒場で見知らぬドイツ人と口論する。バーゼルやシルス・マリーアの“ニーチェゆかりの地”をとぼとぼ一人で歩いたあの旅と同じコースをそっくり再現したい、等々。

 それから、もうひとつ試みてみたい若い日の感激の再体験は何かと考えているうちに、私の場合は映画でもスポーツでもなく、長篇小説を読むことだった。バルザック、ドストエフスキー、トーマス・マン、ハーディ、ディケンズ、スタンダール、フォークナーなど、夢中で読み耽って、夜を明かしたあの忘我の感動を忘れてすでに久しい。違った世界を体験させてくれる唯一のものが世界文学全集だった。忙しさにかまけて若き日のあの感動をもう一度味わうことなしに人生を終るのは惜しい。昔読んだものと同じ作品でよい。学生時代の体験は、老人になってどう変っているかを知るのも得がたい。

 そう思いながら、きっとどれも実行できないだろうな、という不安もかすかに抱いている。じつは一年前に同じことを考え、『チボー家の人々』を用意したのだが、十分の一も読めないで、本は参考文献資料の山の下に押しこめられたままなのである。

後記  その後ルーマニア、ブルガリアにも行った。アイルランドが残っているだけである。

日本の会計事情と公認会計士の試練

 高石宏典(たかいしひろのり)

 昭和37年山形県生まれ。新潟大学経済学部卒。東北大学大学院経済学研究科修士課程修了。太田昭和(現新日本)監査法人山形事務所を経て、現在、山形県立産業技術短期大学校庄内校に勤務。

 個人レベルでは、「日本会計基準等の米国化」より「わが頭髪の消失化」の方が大問題ですが、こうした諸々の老化現象を受け入れつつ逆境をはね返してより社会貢献できるよう、この夏はまず虚心坦懐に学ばなくてはいけないようです。個人的感情のはけ口を求めるのは、その後ということなのかもしれません。
guestbunner2.gif


 公認会計士監査の実務から離れて8年程になる。この間、ゴーイングコンサーン監査の学術研究にかまけ、簿記会計教育を生計の資として暢気に暮らしているうちに、会計基準や監査基準だけでなく商法や公認会計士法までも大きく様変わりしてしまった。昔読んだ愛着のある会計学や商法のテキスト類はもう役に立たない。変わり続ける会計基準等や法律(以下「会計基準」とする)に対応しようと、溜息をつきつつ研修中のわが身が息苦しい。

 上記会計基準の変更理由には、企業会計の「透明性」と「国際化」が馬鹿の二つ覚え?のように謳われている。これらが意味するものを敷衍すれば、会社は従業員や社会のためにあるというよりも株主の私有財産にすぎないとの“割り切った企業観”に基づく、会社の利益よりも会社資産等の現在価値それ自体がより重要であるとする“短気な会計観”への変更、ということになるであろう。端的に言えは“日本会計基準の米国化”ということに他ならない。金融商品等の時価会計や固定資産の減損会計の採用、それに春先のニッポン放送株式敵対的買収事件の発生は、こうした考え方の反映であり現象である。

 これら会計基準の米国化は、わが国の景気を躓かせる方向にのみ作用し、外資からの被買収リスクを高め、国益を損なうありがたくない効果をもたらした。「日米投資イニシアティブ報告書」等の存在によって会計基準の変更が米国の政治圧力に屈した結果であることが明らかになり、ここにまた一つの“経済敗戦”が現実化しようとしている。

 私はわが国の上場会社が米国化するのを好まない。また、何よりも米国流経営によって人心が荒廃し訴訟社会が出現して、地域社会が崩壊するのを決して望まない。公認会計士として米国の経済戦略に加担せずに、日本社会により貢献する道はあるだろうか?会計基準変更の背後にあるものをしかと見つめ、いま感じているこの“息苦しさ”の発散策を自分なりに模索してゆく必要に、私は迫られている。いや私に限らない。2万人強の日本人会計士は、例外なくそれぞれの立場でそれぞれの厳しい試練に直面している。

ヨーロッパ人の世界進出(一)(二)(三)

 昨年2月から毎月1回のペースで10回行われた『歴史教科書 10 の争点』という連続講座が本になった(徳間書店刊)。

 聖徳太子(高森明勅)、大仏建立(田中英道)、ヨーロッパの世界進出(西尾幹二)、江戸時代(芳賀徹)、明治維新(福地惇)、明治憲法(小山常実)、日露戦争(平間洋一)、二つの全体主義(遠藤浩一)、昭和の戦争(岡崎久彦)、占領下の日本(高橋史朗)が10の講座の内容で、人選とテーマ設定のコーディネーターは藤岡信勝氏であった。

 私は昨年4月8日に文京区シビックホールで300人くらいの会衆の前で上記テーマについて話をさせてもらった。その内容が今度の本に収録される。

 それに先立って、つくる会機関誌『史』(ふみ)の平成16年にこのときの講演の要約文がのせられた。要約文とはいえ、きちんと手をいれ、これはこれで独立した文章としてまとまっているように思うので、ここに再録する。

 『国民の歴史』第15章の「西欧の野望・地球分割計画」が念頭にあるが、後半で同書にも、教科書にも書かれていない新しいテーマに触れた。ヨーロッパの世界進出がまだ終っていないのは政治的理由によるのではなく、後半で述べられたこの新しいテーマによる。

ヨーロッパ人の世界進出

ヨーロッパ近代の本質とガリレオ・デカルト的思考の恐怖
名誉会長 西尾 幹二

■西洋はなぜアジアを必要としたのか

 15世紀まで無力だったヨーロッパはなぜかくも急速にアジアへ進出することが可能だったのでしょうか。

 ポルトガルはアフリカの南海岸を南下してアジアをめざし、スペインは大西洋を西へ西へと回って西インド諸島を発見、コロンブスがその代表としてアメリカ大陸発見ということになった。なぜポルトガルは南に行き、スペインが西へ行ったのか。

 彼らはジパングやインドを求めてきたのですから、地中海を東へ渡って陸路を来るのが近道だと思うのですが、それができなかったのは、当時、地中海がイスラム勢力に完全に制圧されていて、通行不能だったためです。しかし、全ての教科書はヨーロッパの進出をヨーロッパ文明の世界への展開という見地で書いており、扶桑社版の『新しい歴史教科書』のみが、ヨーロッパはイスラム勢力を迂回し南と西へ進んだという事実をはっきり書いています。

 当時の世界の中心は東南アジアでした。スペインやポルトガルがこの地域一帯を支配していたなどという事実は全くありません。それもまた多く誤解されている点で、ヨーロッパの世界制覇ということは現実には行われていなかったのですが、彼らの観念、頭の中では世界征服の地図はでき上がっていました。それがトリデシリャス条約で、大西洋の真中に南北に線を引き、ポルトガルとスペインが地球を二つに分割する協定をローマ教皇庁が承認しています。

 当時、ヨーロッパは本当に狭い地域におさえこまれていました。イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出した年が1492年、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した年です。
ヨーロッパはたいへん遅れた地域でした。14、5世紀、生産性は低く、科学技術は遅れ、内乱と宗教的迷信に支配される、考えられないほど野蛮な地域でした。「ローマの平和」と言われた古代の時代が過去にありましたが、それが過ぎてから千年にわたるヨーロッパの歴史の中で十年以上平和だったことは一度もありません。

 なぜヨーロッパ人はかくも戦うことを好み、武器の開発に凌ぎを削り、順次東へ進出してきたかというと、故国にお金を送るため、ヨーロッパの中で果てしない戦争を繰り広げるための戦費が必要だったからです。そのために、アジアに進出してアジアの富を攻略することが急務だった。

 当時、ヨーロッパの横にはロシアのロマノフ王朝、西アジアのオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、そして東アジアの清帝国という四つの大帝国があり、それぞれが大きな枠の中に安定して存在していて、一種の世界政府でした。このうちロマノフ王朝だけはヨーロッパ文明側にくっついていきますが、オスマントルコ、ムガール、清は一六世紀から一八世紀くらいの間に次々と西ヨーロッパの餌食となってしまうのです。アジアの大帝国は西洋よりも遙かに豊かで進んでいた国であり、近代を生み出したとされる三大発明、火薬、羅針盤、印刷術は中国を起源とします。中国科学の方がはるかにヨーロッパに優越していました。

 つまり、西洋はアジアを必要としていたのに、アジアは西洋を必要としていなかった。物は豊富で政治は安定し、帝国の基盤は盤石で何一つ不足はないかに見えたその三つのアジアの大帝国。しかし、何故に遅れていた西ヨーロッパがアジアに勝る状況を生み出してしまったのか。

ヨーロッパの世界進出(二)

■ヨーロッパの二重性

 まず政治的・社会的な原因を考えてみましょう。アジアの四つの帝国は大きな世界政府がそれぞれブロックをなして、静的に存在していたという風に考えられる。

 ところが、ヨーロッパはひとつではなかった。ヨーロッパは内部で激しい戦争を繰り返し、経済・軍事・外交の全てを賭けて覇権闘争がまずヨーロッパという所で行われ続け、その運動がそのまま東へ拡張された。

 中心に中国があり、周りの国が朝貢して平和と秩序が維持されているという古い東アジアの支配統治体制においては考えられない出来事が起こってきました。ヨーロッパでのヘゲモニー(主導権)を巡る争いと、他の地域への進出のための争いとが同時並行的に運動状態として現れ、それが18世紀の中頃以降さらに熾烈を極め、終わりなき戦いは地球の裏側にまできて、決定的果たし合いをしなければ決着がつかなくなるまでになった。19世紀になって帝国主義と名付けられる時代となり、今まで動かなかった最後の砦である中国を中心とする東アジアに争奪戦は忍び寄ったというのが、今まで私たちが見てきた歴史です。

 1800年には地球の陸地の35%を欧米列強が支配しており、1914年、第一次世界大戦が始まる頃にはその支配圏は84%にまで拡大しました。日本の明治維新は1800年と1914年の第一次世界大戦とのちょうど中間にあたる時期に起きた出来事です。拡大するヨーロッパ勢力に対する風前の灯であった日本の運命が暗示されております。

 戦うことにおいて激しいヨーロッパ人は、戦いを止めることにおいても徹底して冷静です。利益のためには自国の欲望を抑え、相手国と協定や条約を結ぶことも合理的で、パっと止めて裏側に回って手を結ぶ。そういうことにも徹底している。しかし、日本人にはこの二重性が見えない。実はこれが国際社会、国際化なのです。

 ある時、欧米人は満州の国際化ということを言い出しました。「満州は日本政府だけが独占すべきものではなくて、各国の利益の共同管理下に置くべきだ」と。国際化というのはそういう意味なのです。では、日本の国際化というのはどういう意味ですか。日本人は無邪気にずっと「日本の国際化」と言い続けていますが、「どこかの国が占領してください」「どこかの国が共同管理してください」と言っているようなものです。間が抜けて話にならない。つまり国際化というのは、西洋が運動体として自分の王家の戦争のためにやっていたあの植民地獲得戦争が、もうヨーロッパの中で手一杯になってしまったから外へ持っていく。それが彼らの言う国際化、近代世界システムなのです。

ヨーロッパ人の世界進出(三)

■自然の数学化というデカルトとガリレオの考え方

 しかし、それだけが全てでしょうか。ここには社会学的、政治学的、心理的、宗教的な原因だけでは説明できない何か別のものがある。私は心の中でどこかやはり西洋に恐怖がある。この程度の政治的な自我葛藤闘争の巧みさに恐怖を抱いているのではありません。実は私がずっと西洋を勉強してきて抱いている恐怖は、ガリレオとデカルトです。

 ガリレオとデカルトは、全ての自然物から感覚上の性質をはぎ取ってしまい、物体というものを大きさと形と位置と運動という幾何学的、数学的な方程式に置き換えることで世界を説明しました。この思考形式がものすごいスピードで発展してきました。そして臆面もなく今日の社会、世界に君臨しています。
ガリレオはある物体をイメージとして描く場合に、大きさ、形、位置、運動、このことだけで全て説明できると言っている。その物質が白いか赤いか、音を出すか出さないか、甘いか苦いかなど、そういう性質は人間の感覚主体の中に存在するに過ぎず、感覚主体が遠ざけられると、それらの諸性質は消え失せてなくなってしまうという。それは人間が生きているから、そういうものを感受する主体があるから存在するのであって、真に実在するものは、数学的、幾何学的な数値に還元されるもので、それ以外のものは存在しない、と。

 これは、ガリレオがデカルトと共に発見した世界を数学の方程式に置き換えるもので、デカルトに至っては、人間の身体もまた物であって、身体の感覚、例えば手足の痛みも手足の中にあるのではなく精神の中にあるとしている。

 しかし哲学的には、バークレー、ヒューム、カントが出て、デカルトやガリレオの考え方はあり得ないとしてすぐに否定されてしまいましたが、この自然の数学化という思考は哲学的には論駁されたにも関わらず、我々の日常の暮らしの世界にドカっと居座って、独立した自然科学の方法として一人歩きを始めました。

 感覚的、人間的諸性質を人間的あいまいさから切り離して、そういうものは人間の主観の中にあるのだと言って閉じこめて、別個これを切り離してしまう措置は科学にとってこの上ない便利な方法でしたから、かくて自然は死物として線引きされ、数値化されて、その死物世界が客観世界として有無を言わせぬ勢いで人間の目の前に突き戻され、それ自体が知らぬ間にどんどん肥大化して発展していく。最近は宇宙開発どころか、ナノテクノロジーというような訳の分からないものが出現して現実に実用化するという。

 ところが、これは全部目に見えない話なのです。一層の細分化と一層の遠方化へ、そして人間の身体も分解して物体化し、やがて人間の精神もまた脳生理学の対象として物質の法則に還元される。自然、人間の身体、精神などが長い歴史の中でこのように乱暴に扱われたことは、過去において一度もなかった。幾何学的自然科学の専横です。

 ガリレオやデカルトが言っていることは全部間違いだったのですが、実際にはコンピューターのグラフィックデザインが次々と物を作り出している。火薬と羅針盤と印刷術を発見した中国の科学は、ガリレオとデカルトにやられてしまったのです。そういうヨーロッパ人の世界進出の根本の問題がここにもうひとつあるということを、我々は考えておかなくてはいけないのではないでしょうか。

(4月8日、つくる会連続講座「歴史教科書・10の争点」より)

 ガリレオとデカルトと歴史との関わりについて私見をより詳しく知りたい方は、拙著「歴史と科学」(PHP新書)の第2章をご覧ください。この第2章は秘かに自信を抱いている一文である。