未刊行の「江戸のダイナミズム」からの引用はここで終ります。
「ハンス・ホルバインとわたしの四十年」はなおしばらく続ける予定ですが、丁度雑誌原稿の〆め切と重なり、私が今時間がとれないので、次回はゲスト・エッセイを紹介させていただきます。
なお、コメント欄で「意見の小さい違いこそ決定的な違い」という私の語に対し、vagabondさんが「「小異を捨てて大同につく」ことの方が大切ではないかと問い質された問題に対し、少し時間をおきますが、後日、私からきちんと応答する予定です。
未刊行の「江戸のダイナミズム」からの引用はここで終ります。
「ハンス・ホルバインとわたしの四十年」はなおしばらく続ける予定ですが、丁度雑誌原稿の〆め切と重なり、私が今時間がとれないので、次回はゲスト・エッセイを紹介させていただきます。
なお、コメント欄で「意見の小さい違いこそ決定的な違い」という私の語に対し、vagabondさんが「「小異を捨てて大同につく」ことの方が大切ではないかと問い質された問題に対し、少し時間をおきますが、後日、私からきちんと応答する予定です。
『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より
しかし程度の差はあれ、古典のオリジナルの消滅とその再生のテーマはわが国においても同様です。わが国にはヨーロッパとは異なる独自の困難な条件がありました。
自らの言語の表音体系を表意文字で表していた矛盾が、江戸時代に入って、歴然と口を開けます。
荻生徂徠は漢文の訓読みを廃して、唐音に還ろうとします。本居宣長は儒仏を排斥し、純粋な古語に戻ろうとします。
神道、仏教、儒教の三つの神は習合していたようにみえ、かなり自覚的に三すくみ状態になります。それぞれ固有の神を求めるパッションは一挙に高まります。
その中で契沖は決して排他的ではありませんでした。人々がまだ文字を持たない単独素朴な時代、神々をめぐる口頭伝承のほか何も知らないナイーヴな時代に、表意文字が入ってきて、文字で自らの音体系を表現した「万葉仮名」の解明は、エラスムスを駆り立てた聖書のギリシア語訳の努力にも似た、あるいはそれ以上の困難な謎の探求でした。
校合に客観的で、内証に科学的であろうとした契沖の情熱は、ほとんど信仰者のそれです。「本朝ハ神國ナリ」の叫びは本然のもので、何の不自然もなかったはずです。
『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より
西洋でも中国でも古代文明の崩壊と消滅は日本史では測ることの出来ないほど巨大なスケールで起こり、同じ歴史が連続したとは思えないほどでした。ギリシア・ローマの伝統は地中海が約千年間イスラムの支配下に入った後では、アラビア人の歴史に属するのであって、今日西ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史とみなすのはその後の「学習」の歴史以上のものではありません。
中国史においていわゆる漢唐時代で古代は終わり、それ以後の中国史の連続性には疑問があります。モンゴルの征服による元朝の成立は漢民族の歴史に断絶をもたらしています。
これに比べると日本史に古代の成立と没落のドラマが本当にあったのかと思われるほどに、変化の規模は小さいのです。
源平の戦乱があり、承久の変を境いに古代王権に変化が生じますが、民族の同一性の度合いの高さと、神仏信仰を中心とした宗教の融和性の特質が、ある種の歴史の連続性を保証しています。
西ヨーロッパと呼ばれる地域には、古代はなく――各国の歴史教科書の古代はエジプトからです――、各民族の歴史は中世から始まります。その時期が日本の古代史の後半と中世史にほぼ重なります。
古代の文献の伝承の流れを跡づけてきた本書では、時間尺の短い日本の条件の有利さと、それにも拘わらず古代文書の原文は消えてなくなり、写本の確実性も保証されないという宿命において、問題の質が同じであることを見届けました。
お 知 ら せ
靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ
8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。
8・15国民集会
『保守なる人びとに問い質したきこと、これあり』
日 時 平成18年8月15日
午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名千代田区内幸町1-5-1 03-3500-5578
・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。
・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。
参加費 ¥1500-
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演「真昼の闇」の時代に目を開け
~安倍氏よ、
小泉にならないで欲しい~・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。
①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい□1600~1630 質疑 等
注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。
『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より
契沖は仏僧でありながら、儒教をよく知り、他方また空海の影響も受け悉曇(しったん)――サンスクリットのこと――に通じていたことが、彼を音に敏感にしました。
漢字の世界に梵語という表音文字がクロスしてきたことは、漢代の中国語をも揺さぶりますが、万葉仮名を解読し、歴史的仮名遣いを確立することに成功した契沖の場合にも、表音文字であるサンスクリットの漢字化の問題には無関心でいられたはずはありません。
いずれにせよ彼は、古代日本に流入したものの何かにこだわって何かを拒否したことはないのです。宣長のように儒教や仏教に対し外来の思想として敵意を示すたぐいのことはありませんでした。
文字を持たない素朴な古代日本人の生き方を彼はそのものとして認め、受け入れ、そこに自ずと道、古道、神の道の成り立つさまをみたのでした。しかもそれは歌の姿に現れるのであって、歌こそ彼には神の御業なのです。
『萬葉代匠記総釈』の冒頭に次のようにあります。
「本朝ハ神國ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ。上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ傳ヘタルマヽニテ、神道トテ、儒典佛書ナドノ如ク説オカレタル事ナシ」
契沖が客観性を重んじ、科学的であろうとしたことと、「本朝ハ神國ナリ」と断じたこととは少しも矛盾しておりません。
お 知 ら せ
靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ
8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。
8・15国民集会
『保守なる人びとに問い質したきこと、これあり』
日 時 平成18年8月15日
午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名千代田区内幸町1-5-1 03-3500-5578
・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。
・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。
参加費 ¥1500-
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演「真昼の闇」の時代に目を開け
~安倍氏よ、
小泉にならないで欲しい~・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。
①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい□1600~1630 質疑 等
注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。
私は『国民の歴史』の中にもう一項目書きたい、と計画し、担当者に打明け、時間切れで不可能になったテーマがある。すなわち「西洋古典文献学・清朝考証学・江戸の儒学国学」である。古代の聖典の探求と復元、その挫折と懐疑、そのとき三つの場所で歴史意識が試され、確かめられた。
私は別名でこれを「言語文化ルネサンス」と呼んでいる。16世紀から19世紀にかけて地球上のこの三地域に発生した古代の呼び戻し運動、あるいは古代精神の現代への奪還、分り易くいえば神の再生のドラマを指している。再生の前には必ず神の破壊のあるのが特徴である。
平成12年9月16日、東京杉並公会堂で「つくる会」主催の二度目の私の四時間独り語りが行われ、その題名は「江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋」であった。『国民の歴史』(平成11年10月刊)に盛り込みたくて時間切れで諦めたテーマを語った。この日は田中英道氏の「葛飾北斎とセザンヌ」のスライド比較紹介もあったので、それも入れると延べ5時間をこえる催しとなった。
それでも、一講演のモチーフはそんなに大きくはない。まとめれば小さくなる。『諸君』平成13年7月号に講演の一部を転載し、連載を始めてから、小さい入り口からどんどん大きくふくらんだ。断続連載で平成16年9月号までに20回を数えるに至って、(しかも終りごろは1回に60~70枚もゆるしていたゞき)終わってから2年近くたってやっと整理の最終段階を迎えている。
なぜ整理にそんなに時間がかかったのか――勿論小泉選挙や「つくる会」混乱に気を散らしたのがいけないのだが――理由はあまりにテーマが広く、多方面に及んでいることにある。なにしろヨーロッパと中国と日本における古代認識と「古代ルネサンス」のテーマである。古代と近代の衝突の問題である。渉猟した文献は数百を越えた。あちこちに、それぞれが大きな主題を内蔵した複数の重い房を垂らしたような、異様な形態の一冊になりそうである。
ところで第16章「西洋古典文献学と契沖『万葉代匠記』」にロッテルダムのエラスムスが登場する。この肖像画を描いたのがハンス・ホルバインである。
第16章の末尾の小部分を以下に四回に分けて掲示するが、勿論、叙述の中心は契沖である。
エラスムスとルターの論争は西洋精神史における最も深刻、かつ最も影響の大きい思想のドラマの一つである。追及するのを忘れてしまった私がいけない。まだ人生に時間は残っているので追いかけるかもしれないが、私の関心はご承知の通りその後ニーチェに向かった。
ニーチェは24歳でバーゼル大学の教授になり、ブルクハルトに出会い、ワーグナー夫妻と交流し――バーゼルから夫妻の住む同じスイスのルツェルン近郊トリプシェンへ行くのは難しくない――、そして『悲劇の誕生』をバーゼルで書いた。
私は29-30歳で『悲劇の誕生』を翻訳した。以来、この天才に呪縛されたのは紛れもない。ある人から「先生の『国民の歴史』は『悲劇の誕生』の影響を受けていますね。」と言われて、考えてもいないことだったのでハッと驚いた。「そうだったのか。ウーン、そうなのかもしれない」と思った。表立ってニーチェの名はほとんど出てこない本なのだが・・・・・・。
ニーチェは文献学者だった。しかし文献学を破壊する文献学者だった。すべての歴史は文献学に行き着く。しかし文献学にとどまる限り、歴史たり得ない。
仏陀にせよ、イエスにせよ、孔子にせよ、いくら文献を追求してもその実像は把えられない。仏陀のことばなどはごく一部の経典に記されたのは仏滅から500年も経った後である。すべては口から口へ伝承されたにすぎない。
『論語』が孔子の実像を伝えているという保証はない。あれは聖人のばらばらの発言集である。門人たちの覚え書きである。『聖書』も使徒たちの編集と改修の手を免れていない。
歴史とは何か?
歴史とは神話である。歴史と神話との境界線は定かではない。
近い歴史を考えるわれわれでさえ「神話的」思考をしている。イラク戦争の原因について、われわれはすでに薄明の中にあり、トロイ戦争の時代の人よりもっと神話的かもしれない。
それでも人は言葉を求める。言葉による説明や解釈なしでは人間は生きていけないからだ。たちまち不安になる。歴史の成立は矛盾を孕んでいる。
ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。
歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。文献学がなくてはどんな学芸も、どんな哲学も、どんな叡智も成り立たない。文献学は自覚のやり直しの場といってもいい。それを別のことばでいえば「歴史意識」ということになる。
この地球上で歴史意識が存在した場所は地中海域と中国と日本列島の三個所しかない。文献学が誕生し、展開したのもこの三個所である。
ほゞ40年前の文章を本の中から取り出してこうして一区切りごとに丁寧に読むと、まるで自分の文章でないような気がしてくる。
「ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる」といった一文などは紛れも無く私の文章で、振り返ってみると私は四十年にわたり「あらずもがなの無用の言論」をずっと相手に「黙れ」「沈黙せよ」と叫び続けてきたようにも思える。
キリストの遺骸の絵について私はいま語るべき新たな言葉もない。たゞインターネットで大きな画像を読者にお届けできる時代になったことが不思議でならない。
私の本にはこの絵の挿絵は載っていない。また仮りに載っていても小さなモノクロ写真ではイメージを喚起できまい。もっぱら私は文章だけで衝撃を伝えようとしていた。文字は無力である。あらためてそう思う。
私は格別にホルバインの研究をしてきたわけではなく、彼について知る処は少ない。たゞ私の処女作がこの絵を取り上げ、さらに私がいま出版を前に原稿の整理に入っている『江戸のダイナミズム』がロッテルダムのエラスムスを取り上げていて、ホルバインはエラスムスと縁が深いのである。
スイスのバーゼルからの友の手紙で本稿は始まった。バーゼルは19世紀の精神史でいうとブルクハルトとニーチェの名がまず出てくるが、ルネサンス期の16世紀の精神史でいうと人文主義者ロッテルダムのエラスムスの名が大きいのである。エラスムスはこの町で幾つもの重要な事跡を残している。逗留した家も残っている。
『痴愚神礼讃』を書いている。聖書のギリシア語原典の復元を試みている。意志の自由をめぐってルターと論争している。『痴愚神礼讃』の挿絵を描いたのがホルバインであった。また、彼は一枚のよく知られたエラスムスの肖像画――後でこれはお見せする――を残している。
『痴愚神礼讃』は軽妙洒脱な本である。人間を生殖へと追い立てていく「痴愚神」、人間を戦争に駆り立てる「痴愚神」――いわば人間の狂乱と無思慮に対する痛烈な風刺の書といってよいだろう。どことなくからかい口調であれこれ人間の愚行について例をあげてさんざん言いたい放題。自由に語りかけるおどけた調子もあれば、危険思想ととられかねない激しさを秘めた苛烈な言葉も垣間みられる。若いころ私はすべての人間をバカ呼ばわりするエラスムスのものの言いように多少とも反感を覚え、この人の立脚点は何処にあるのかと怪しんだものだった。
これに比べルターの『奴隷意志論』は厳粛そのものに見えた。人間の意志には自由はない。神の全能と全知に対し、人の意志の不自由を対比させ、人は罪のうちにあるがゆえに、善を行うことにおいてまったく無能力である。これを救うのはたゞ神の恩寵の独占的な働きのほかにはない。・・・・・・・・
ルターとエラスムスとの自由意志をめぐる論争は学生時代に私がある友人とたびたび交わした論点の一つであった。互いにまだ知識もなく、わけもなく真摯に考えるべき人生の最大の難問の一つと思えていて、熱心に論じ合ったものだった。その友人はルターの研究家になった。ハイデルベルクに留学した。私はいつの間にかルターも、エラスムスも忘れてしまった。
この絵にはデューラーやグリューネヴァルトの描いたイエス像にみられる憂悶の表情や精神の翳りもない。
むろん後年の画家たちが好んで崇高化した神秘主義的なイエス美化の片鱗さえない。ここにあるのは「物」である。三日後にこれが復活するなどとは到底おもえない。
後年ドストエフスキーはこの絵を見るためにわざわざバーゼルに立ち寄った。そしてこの絵の前に立ったとき、彼はあやうく持病の癇癪の発作を起こしそうになったと言われる。それほど凄まじい絵である。
彼は『白痴』の中でムイシュキン公爵にこう言わせている。
「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰をなくしてしまう人もいるかもしれない!」
信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描くことさえも出来ないのだ。ドストエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。
言うまでもなく、「物体」という観念が勝手にひとり歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。
現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼はそうも言いたかったのかもしれない。
それでいて、悲劇の規模は中世末期の混乱の時代の比ではない。悲劇の分量の大きさに比例して、それを糊塗する自己回避の言論の規模も大きくなるのが現代の特徴である。
ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる。こうしてことごとく悲劇の因果関係が説明され、自分の視野に閉じこめることで悲劇を遠斥けたと信じたがるが、そのこと自体が悲劇にもっとも近い地点に自分を立たせているのだということには気がつかない。
「つくる会」の元理事の弁護士内田智氏が、去る7月10日付配達証明で、私のSAPIO記事(6月14日号)が職業上の不利益をもたらしたとして500万円を3週以内にみずほ銀行の自分の口座に振込むようにと、口座番号を私に伝えて来た。
私は7月26日午後内容証明にて、私は八木グループから脅迫状を送りつけられた被害者であって、反証は正当防衛であること、内田氏は昨年11月会内部に小グループの意志形成をする上で主導的役割を果たし、また、会内部の人事に外部の団体の介入を許すような発言をし始めていたこと等から考えて、私への脅迫状や藤岡氏への公安情報利用の威嚇などに、たとえ彼自身が実行犯ではないにしても、責任意識をもつべき立場であることを伝えた。
私は会を立ち去った理事たちグループの共同行動を批判したのであって、内田氏個人を誹謗するものではまったくない。誤解して氏が金銭を要求するのはまことに不当であり、理解できない。
追記 上記の文章に寄せられたコメントの中に、
内田弁護士の書面が本物で、内容が事実であることが確認されたか心配である。
事実であれば、弁護士さんの行為としては誠に疑問である。Posted by: 田舎のダンディ at 2006年07月27日 08:10
というご意見があった。相手が相手だけに尤もなご心配である。
7月10日ある代表的な雑誌の編集長が八木秀次氏と打合わせのために落合った場に、内田智氏が現われ、500万円を振込めという私宛の件の書面を持っていて、八木氏に渡して報告していた。その際編集長にもそのコピーを手渡している。編集長からの証言である。
第三者の編集長に私宛の配達証明付の文書のコピーを簡単に手渡すというのもよく分らない、不可解な行為である。
注:このエントリーに関する限り、必要以上のトラブルを避けるために、コメント欄を閉鎖します。
7月28日
***西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール***
フェルメールは日本人好みの画工である。鳴り物入りで特別展がハーグで開かれた。大学の同僚のなかで何人かが春休みにわざわざ出かけて行った。むかしセザンヌ展が上野で開かれると、長蛇の列ができた時代と比べて隔世の感があり、日本人の贅沢と余裕もきわまった感じがする。
むかしは泰西名画というと印象派どまりだった。ヨーロッパ旅行が大衆観光旅行の範囲の中に入って四半世紀も経って以来、それまで日本人にほとんど知られていなかったフェルメールの名が浮かび上がった。
繊細で、精妙で、日常市民的で、静かな微光の漂うような明るさのある親しみやすさ、衣裳と器物に注がれた細密画の伝統の目、ヨーロッパ絵画に例の少ない黄や青のコントラストの美しさ、自己主張を抑えた西欧世界らしからぬ慎ましさの詩的小世界――どれ一つとっても、日本人好みではないものはない。
フェルメールはもちろん私も好きな画家の一人である。中庭の幾何学的構成美を示したホーホや、絹や繻子(しゅす)の緻密な再現で目をみはらせるテルボルフなどの同時代のオランダ人画家とともに、ヨーロッパの美術館を訪れるたびに、私の足を立ち停(どま)らせ、私に感嘆措(お)くあたわざる思いをさせつづけてきた作家だ。「一枚の繒」にとりあげるのなら、例にどれを挙げてもいい。アムステルダムの『牛乳を注ぐ召使い』でも、ロンドンの『ヴァージナルの前の女』でも、パリの『レースを編む娘』でも、どれでもいい。
今から30年ほど前、ハーグのマウリツハイス美術館で、フェルメールの全作品を蒐めた展覧会が開かれた。私は偶然オランダ旅行中にこれに出合った。その頃、特別展を訪れる日本人の姿はほとんどなかった。フェルメールの名前と画像が心に刻みつけられたのはそれ以来である。というわけで、私も心と時間に余裕があれば、もう今後半世紀は行われないだろうといわれる今回のハーグの特別展に、同僚と行を共にしたかったという気がまったくないわけでもない。
けれども、あながちその気になれなかったのは、心と時間にゆとりがなかったからばかりではない。フェルメールは西欧美術の代表の位置、西欧精神の中枢を象徴する位置を決して占めていない。フェルメールだけを切り離して、個別に鑑賞しても、われわれは西欧精神の精髄に触れたことにならないだけでなく、明治以来の日本人のとかく陥りやすい間違いを再演することになりかねないからだ。
すなわち、日本人が自分の好みを西欧世界に投影し、自分の自我の反映像のなかに巨大怪異なる中世末以来のあの幾重にも歴史の層を成す西欧美術の全体を閉じこめ、片づけてしまうという誤解を再び演じることになりかねないのである。
ジョットなどイタリア初期ルネサンスの祭壇画から始まる西欧近世・近代美術の、キリスト教神話世界に材を求めた壁画風巨大画像の数々に、ヨーロッパの美術館で、圧倒され、打ちのめされた経験を味わわなかった日本人は恐らくいないであろう。
フェルメールにしてからがレンブラントの切り拓いたオランダ市民階級の肖像画の世界の一部に位置づけられるはずである。そして巨匠レンブラントの前にも後にも、数限りない巨匠が相並んでいる。わずか35点の小品を残したにすぎぬフェルメールの世界が、どんなに宝石箱のように美しくても、ティチアンも、ティントレットも、ファン・ダイクも、フランツ・ハルスも措いて、日本人がわかりやすい、なじみやすい、心地よい小風景にのみ心が傾斜し、吸いこまれるというのは、片寄っているというだけでなく、西欧と対峙する態度としてそもそも間違っているのではないかという気が、私はしている。
私はこの稿に「ルソー、クレー、フェルメール」という小噺三題のような妙な題をつけた。ルソーは日曜画家のはしりといわれた税関勤務のあの純真無垢の魂アンリ・ルソーである。クレーはいうまでもなくパウル・クレー。スイスの画家、版画家で、児童画のように単純な表意的形象で一世を風靡した、『日記』でも知られるあの有名な、色彩と空間構成の巨匠のことである。
この三人の名前を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初だろう。まことに奇妙なくくり方である。かつて例のない系譜のとりまとめ方だと言っていい。けれども、日本人であれば必ずピンとくるに違いない。日本人にだけはああそうかと分かる。“日本人好みの系譜”と言うべきものである。
ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が特に熱狂的に愛好した。そしてフェルメールは今や高度産業社会の爛熟した現代日本の人気の的である。それぞれフランス印象派、ピカソなどの20世紀抽象絵画、そして西欧中世・近世絵画が日本人の幅広い層の鑑賞の対象となった時代の動きのなかで、“日本人好み”の代表として立ち現れた。あえて“日本的センチメンタリズム”の代表と呼んでいいかもしれない。
この三者に共通点があることはどなたにでもお分かりであろう。前に「詩的小世界」という言葉を使ったが、「メルヘン的抒情世界」という言い方もできるかもしれない。こういう世界ばかりを好きになる日本人――私にもそういう一面がないわけではないが――を、私は本当は好きになれないのである。
(初出 原題「風景のあるエッセイ ルソー、クレー、フェルメール――日本型感傷の系譜」)「一枚の繪」1996年7月号