「路の会」の新年会

 「報道2001」の私のテレビ発言について、50個に近いコメントが寄せられた。近頃にないことで心から御礼申し上げる。ひとつだけこの件で言っておきたいのは、今回は局側が私の発言をそれほど強く制限しなかったので、私はある程度、自説を述べられたのであって、とくにあの日体調が良かったからとか、自分好みの論題だったからとかいうことではない。この点は誤解しないで頂きたい。

 もし私に30分の自由時間をテレビが与えてくれたら、国民に心に残るメッセージを与えることは可能だろう。しかし地上波テレビは私にそういうチャンスを与えない。日本文化チャンネル桜のYou Tubeを見ていたゞきたい。これを見れば、私の訴えはすべてお分かりになるだろうと思う。

 「報道2001」は今回は私に例外的な対応をした。従って、このあと当分の間は出演を言ってこないだろう。左翼から圧力がかかっているだろう。視聴者のみなさんは、私に限らずいい人のいい話を聞けるか否かも局側の匙加減ひとつであって、出演者の自由でも責任でも努力課題でもない、ということを分っていただきたい。日頃のテレビを悪くしているのはすべてテレビ局にあるのだということをよく弁え、局にがんがん投稿することが必要である。左翼が圧力をかけつづけているのであるから・・・・。

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 さて皆さん、正月10日に「路の会」で新年会を開催した。「路の会」は毎月順調に例会を開いてきたが、当ブログではあまり報告されていない。

 新年会は故遠藤浩一さんに対する黙祷から始まった。何とも言いようもない衝撃で幕を開けた今年の正月だった。私は1月3日に彼から葉書をもらっていて、日付をみると12月31日に書かれていて、1日に投函されている。ひょっとしたら絶筆かもしれない。みなさんにお見せした。この一枚の葉書をどう扱ったらよいか分らない。葬儀が行われないというので、気持が鎮まりようがない。私は「正論」に追悼文を約束しているので、そこに祈りをこめることとする。

 新年会には21人が集まった。順不同で、加藤康男、尾崎護、大島陽一、木下博生、入江隆則、三浦小太郎、渡辺望(今回初参加)、伊藤悠可、堤堯、福井義高、大塚海夫、高山正之、宮脇淳子、河添恵子、藤井厳喜、北村良和、宮崎正弘、そして徳間編集部の力石幸一、赤石の諸氏に私である。

 長老の尾崎さんの「献杯」で会は始まり、中華料理をいたゞきながらの自由討論会となった。昨年アメリカに渡って、慰安婦像設置反対のための講演の旅をした藤井厳喜さんの話をぜひ聞きたいと堤堯さんから提案が出され、まずその話が披露された。

 サンフランシスコ郊外にクパチーノという町がある。アップルの本社があるシリコンバレーの中心の一つで、しかも反日運動の拠点だといわれる世界抗日連合会本部が置かれている都市である。かつて拉致された慰安婦は20万人とのばかばかしい数字がひとり歩きしていたが、世界抗日連合会は50万人にかさ上げした。半分は韓国人、半分は中国人だそうである。中国が運動に介入してきたからで、そうなると「白髪三千丈」のたぐいの大ウソが平気でどんどん広まる。

 藤井さんはクパチーノ市の市長と会ってきた。市議会議員は5人しかいないが、うち4人は慰安婦像の設置に反対している。外国人の間のトラブルを自分たちのコミュニティーに持込んでもらっては困る、という常識的判断が働いている。議会筋の話も入れて総合すると、この市の像設置はおそらくないだろう。だがと藤井さんは言った。

 今後はアメリカ全土の見通しは楽観できない。中国が介入し、ロビー活動が動き出しているからである。慰安婦も、南京も、いよいよ攻撃が強まるだろう。在米日本人はがんばっているが、日本政府がしっかりしていない。歯がゆいばかりである、と。

 日本も組織的反中反韓運動を組み立て、政府がそこに資金を投じ、情報キャンペーンに本腰を入れるべきである。現代の戦争は歴史の解釈の戦争であり、言葉の戦争である。まず日本国内で「日中友好」再燃ムード阻止、「韓国冬季オリンピック」協力ムードの阻止を確立すべきであると思う。

 海上自衛隊の大塚海夫さんが久し振りに姿をみせた。以前は例会を欠かしたことのない人だったが、国家の周辺の急変事態でこのところずっとお休みだった。「海将補」という新しい名刺をもらったが、昔の位でいえば海軍少将だそうである。

 靖国参拝についてのアメリカの例の「失望した」発言でこのところぎくしゃくしている日米関係が防衛にどう波及するかが話題になった。大塚さんは在日米軍と海上自衛隊との関係はゆるぎないものであると仰有った。もともと在日米軍の主力は海軍なのだが、家族を含めて日本に在留しているので、日本の良さがよく分っていて、それが米軍そのものとの良好な関係にもつながっているとのお話であった。さもありなんと想像できた。その他微妙な情報もいろいろあったが、ここで公開するわけにはいかない。

 ブルートレイン廃止の是か非かで、1月3日の産經に大きな顔写真と共に石破自民党幹事長との対討記事がのっていた福井義高さんがお話になった。福井さんは元国鉄勤務で、その方面の本もある。ブルートレインは廃止論者で、存続論の石破氏と立場を異にしていた。しかし新年会で話題になさったのは鉄道のことではない。アメリカ大統領選挙のことだった。

 オバマの次は誰になるか、が日本の政治にも関係してくる。前回の選挙で立候補した共和党のロン・ポールは80歳で、最近引退し、息子のラント・ポール上院議員(50歳)が父の思想的立場を承けて立候補するらしい。ロン・ポールは名うての孤立主義者で、今のアメリカの向かっている潮流に棹さしていた。ラント・ポールは同じ傾向とはいえ父親より穏健なので、より巾広い層の支持を得られる可能性がある、との福井さんの観測であった。

 孤立主義はオバマがすでにそうである。オバマは評判が悪い。日本に対してはそもそも関心がない。しかし福井さんにいわせれば日本が「離米」するチャンスでもある。孤立主義の外交政策は日本は日本の侭で行かせよ、という考え方である。米海軍はラインを東南へ引き下げる。陸軍のコミットメントを止める。アメリカの国境はいよいよ露骨に日本列島そのものになる。むかしのアチソンラインに似ている。日本列島がアメリカの軍事的最前線になり、しかも米軍は主力を引き上げる。長距離核だけで対峙するということになろうか。いよいよ日本はぼんやりしてはいられない。庇護者アメリカは完全に消えてなくなるだけでなく、日本を砲弾の楯にしようとしているのである。

 在日米軍は家族ぐるみで日本社会と接しているので、大塚さんの仰有る通りたしかに他国よりも日本に親和性を保っているのかもしれない。しかし軍は政治の支配下にある。時期大統領選挙は日本の運命は大きく影響するので、今から研究を重ねていく必要があろう。

「「路の会」の新年会」への1件のフィードバック

  1. 西尾先生の「懐疑の精神」に関するAmazon書評に下記を投稿しました(公開時期は不明。ガイドラインに抵触したら不掲載)。いつのまにか投稿の字数制限がなくなっていたので、かなり長いです。
    青臭い内容かもしれませんが、転載させていただきます。

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    「未来に残したい歌謡曲100選」みたいで通俗的かもしれないが、私のなかでは未来に読み継がれるべき昭和・平成の知識人として、著者は確実にリスト入りする言論人である。便宜的に分けるとすると、著者の作品は主に次の5つに分かれると見ている。もちろん私は研究者ではないので、すべてを読んでいるわけではなく、素朴に思いつきで読んできた素人から見た感想である。

    1)文学者として本業の文学的批評(ニーチェや世界文学、日本文学に関する批評)
    2)人間について考えるエッセー(専門知識をあえて排して人間や自分を丸裸にしていく思索)
    3)時局問題に関する評論(日米関係、ソ連の問題、外国人労働者の移入、経済問題、原発問題など数多い)
    4)歴史認識に関する考察(「異なる悲劇日本とドイツ」など。欧米など外国歴史に関する考察も有り)
    5)日本とは何か、日本人とは何かという自画像の探求(「国民の歴史」や「江戸のダイナミズム」など)

    もちろん単純に分けることは難しい。皇室問題に関する提言などは、3)4)5)への考察がすべて含まれている。いや1)2)も潜在的に含まれているのだろう。だから分類するのは本来無意味であり、統合された思想的人格を稚拙に解体するようなことなのであるが、知らない人にとっては指針というか整理になるかもしれないと思って、あえて便宜的に分類した。

    このなかで、この「懐疑の精神」は1)のような文芸批評も含まれるが、どちらかというと2)に属すると思われる。著者について何も読んだことない方であれば、3)や5)などが比較的入りやすいかもしれない。けれども個人的には、特に若い方であれば、この「懐疑の精神」などを読んでから、他の作品を読んだほうがよいのかもしれないと思ってる。もし入試の現代文を読むような苦痛を感じるのであればベストセラーの「国民の歴史」などがよいかもしれない。

    「国民の歴史」という書名から勘違いするかもしれないが、これはナショナリズムを煽る本ではない。冒頭に「日本の誇り」などという言葉は感性的に受けつけないという著者の但し書きがある。ちなみに「国民の歴史」が話題になったときに、それに対する反論本がいくつか出た(歴史学者などによる)。私は反論本もできるだけ目を通したが、その全体的勝敗としては8勝2敗くらいで「国民の歴史」の勝ちと見た。とはいえ、歴史解釈はともかく難しい。歴史学科が文学部に属するのもうなづける。特定の歴史現象や事物をどう解釈するかは、百人一首のなかの一句をどう解釈するかというのと本質的には同じようなもので基本的にはひとつだけの正解はないと考える。

    進歩主義史観というものが現代のパラダイムであり、過去の歴史から現代の教訓を導き出すのが学問的義務のようになっているが、自然科学のように実験で単純に片がつかないので、歴史上の因果関係をいろいろ説明されてもうさん臭さがつきまとう。ともかく潔癖な学問として見るとなんとなく息苦しい。DNA調査や放射線炭素測定の結果からも見てとれる通り、過去の断片的遺物をもとにした机上の学問がどこまで信用できるかという問題もある。だから細かいところは、堅苦しい学問というより知的遊戯として考えればよいかもしれない。

    3)の時局に関する著作に関しては日本人への何らかの行動を呼びかける内容が多いと感じる。外国人労働者の移入などに関しては海外を見聞して深く思考した結果が反映されており、日本人が覚醒した目で政治を見ることを求められているように感じた。日本人の政治判断により日本の国家がぜんぜん別物になってしまう可能性があるということを啓発された。こういった時局問題に関しては、当然インターネットの方が情報量ではまさるが、現代に読んでも再考されるべき視点が提供されていて色あせない著作であると思う。

    (だんだん横道にそれてきたのでもとの「懐疑の精神」に戻すと)
    うまく表現するのが難しいが、健全な懐疑こそが知識人または言論人としての必須の条件であると考える。たとえば、懐疑に懐疑をかさねて何もかも疑わしくなり、すべてが消えてしまった、そこまで疑ってこそ見えてくるものがある。もちろん思索前提となる知識や情報がデタラメであってはいけないし、枝葉末節を捨てて幹だけに絞る勇気も必要である。また間違っていると気がつけば訂正する正直さも必要であるが、かといって一貫性のない言論は軽蔑される。また人間関係をあまり苦にしない社交性というか社会常識は必要だろうが、通俗的世間に感性を埋もれてしまえさせば独立独歩の深い社会観察をするのは難しい。

    また行動しなければ口先だけになるが、行動だけですべて自己表現しすぎても運動家みたいになってしまう、そして醜い党派性におちいらずに行動することは至難である。卓越していても個性的でなければさほど注目もされない、など「言うは易く、行うは大変むずかしい」ことなのである。そこには健全な懐疑とともに健全な常識というか信じるものとのバランス感覚のようなものも必要なのであろう。懐疑の精神をもった言論人には単純なエピゴーネン(模倣者)が派生しづらいという特徴があると思う。現在の有名作家やブロガーなど自己表現者の何割かは著者の影響を受けているだろうが、思想や視点は共通ではない代わりに、懐疑的に考えるとは何かを自問自答する上で何らかの影響を受けてきたのではないだろうかと想像する。

    「懐疑の精神」はかなり初期の作品で著者が30代の頃の作品で1970年代に書かれたものであるが、いまだに新しさを失っていない。キェルケゴールが時代を鋭く観察したように、当時の世相などを観察したものである。
    たとえば「老成した時代」というエッセーには、70年代に流行した日本人論であるイザヤ・ペンダサン「日本人とユダヤ人」について下記のような記述がある。

    <引用開始>
     ベンダサンの本を始めとするいわゆる日本人論の底の浅さは、こうした人間の文化的行為(※国文学者のドナルドキーン氏の研究行為を例にあげている)の当然の前提をなしているところの個人という視点が完全に欠落しているところにある。「類」というものがすべてを解決する鍵だと考えるような論の立て方にはそもそもなにか人間に対する侮辱的なものがある。しかも日本人を脅かしたり、すかしたり、からかったり、警告したり、媚びたりという、まことに手のこんだ千変万化の表情をみせるベンダサンの日本人の定義づけに、私の知る限り、相当に高度の知識人までが知的な刺激と快楽とを味わっていたらしい様子をみるにつけ、老成したこの時代に特有の、小利口な説明の仕方への多数の関心の高さを象徴している、一つの「社会的」出来事であった。

     ベンダサンの本を私はあまり好きではない、倫理的になにか不健康なものを感じると、あの本が騒がれた直後に私はある友人に語ったことがある。その友人は意外そうな顔をし、君の書いていることと、ベンダサンの意見とは重なっているところがあるから、君は大いに意を強くするのではないかと思っていた、と語った。なるほど、日本人に対する私の反省的分析とベンダサンのそれとは方向において似たような観察である場合が少なくないし、勿論、ベンダサンの観察の方がずっと精緻で、行き届いている。けれども、私の気持ちは別だった。同じことを言っているように見えても、動機が違っている、と私は友人に言いたかった。私はなにひとつ解決しなかったし、解決策を求めもしなかった。

     日本と西洋という対立図式が有効であるのは、客観的定義でなにかを解決するためではなく、解決できないなにかにぶつかるための、作業上の手続きとしてでしかない。私は先に言いたいことがあるからたまたま日本人ということを問題にしたのであって、価値観が先にあった。自他に対し必ずしも快適でないもの、自分にとってときに掟になるもの、それが本来の価値観ではないか。
    <引用終了>

    社会科学的な分野や人文的な分野では類型的な思考というものを欠かすことはできないのだろう。けれども、この「類型」という見方に簡単に陥るようではおそらくだめなのであろう。深い自己懐疑を経たうえでの類型的思考なら、何か意味があるのかもしれない。私は研究者でないが、人文学系や社会系研究を志す人にとっても意味のある思考訓練のヒントを与えてくれる著作であると思う。

    おそらく思考パターンとしては、社会科学的なものは「普遍から個にいたる」、それに対して人文学的なものは「個から普遍にいたる」のであろう。個人的には、すぐれた言論人といえると思ったのは、人文系出身の言論人が多かった。西尾と同じドイツ文学系では竹山道雄を筆頭に高橋義孝などである。ちなみに自分のことを「僕」と書く文学者の文章は読むのが苦痛である。著者はほぼ一貫して「私」と書いているので、その点からも好感が持てた。

    素人の憶測であるが、人間を理解するには、やはり個別から普遍にいたる道しかないのかもしれないのかもしれない。とはいえ社会学系でも後世に語り継ぎたい言論人はいる。たとえば清水幾太郎である。現代ではほとんど忘れ去られているだろうが、文章も明晰でめっぽううまい達人である。何度も思想転向をしたことに私は人間的誠実性と時代の困難性を見た。清水の伝記の「わが人生の断片」は涙なしに読めなかった。こう考えると私が後世に伝えたいと思う言論人の共通点は、計算されたものではない素朴な愛国心をもった人々であると気づく。

    日本の言論界は歴史的に右と左の対立というのもあるだろうが、本質的には日本を肯定する立場と否定する立場に分かれると見ている。非常に軽薄な分類かもしれないが、あえてこう分類したい。まず、日本を否定する立場の典型は、「日本は世界の文化をごっちゃまぜに未消化で受けいれてきた得たいのしれない雑種文明で現在も混乱中である。また、文化移入の反応としても世界に影響を与えるような普遍的文化をなんら生み出してないし、つくりだしていないし輸出もしてない。典型的な亜流文明であり、継承すべき創造性も独自性もない」という考え方である。そして、そこまで必ずしも否定しないまでも冷淡につきはなして日本を完全相対化して、日本の文化や社会を知的に持てあそぶという立場である。

     それに対して、日本を肯定する立場としては、多くの文化を輸入しても日本は独自の仕方でそれらを消化して調和させ、それでもなお文化的独自性を保った稀有な文明と見る。そして巨大思想で他を威嚇するような攻撃性ではなく、異文化を包みこむような虚心さやその柔軟な基底文化の独自性こそが世界に示唆をあたえるような普遍性をもっているという立場である。そこには文化そのものよりも、文化の受け入れ方をも重視するような視点があるのだろう。この両者の隔たりは巨大であろう。見方によっては、どちらにも見れるかもしれない。どちらの要素もあるのだろう。また個人的な原体験のようなものも思想形成に重要な影響を与えるのであろう。

    前述で引用した「老成した時代」のなかには、地方の文化財的な保存家屋を著者が見学した際の感想が書かれていた。そこでは、その家屋の持ち主であった富豪一族が離散した後に、その一族の子孫が文化財になった建物を見学にきて懐かしむという話があった。ここからは私事となるが、それを読んで、自分も先祖のことを思い出した。自分の何代か前の先祖は地方有数の大富豪であった。それが農地改革なども大きかったのだろう。戦後は資産が大幅に縮小した。さらに農地以外に広大な土地をもっていたが困っていた人々に二束三文で分け与えたという。そして、それに対する恨みつらみや小言も一切残されていない。今や神社への寄進物(狛犬など)に先祖の名前がわずかに残されているのみである。今や資産はゼロ、中流階級というのも恥ずかしいようなさっぱりした庶民である。

    こういう話が稀有であれば伝記でも書きたくなるだろうが、こういうのがめずらしくもなんともなく自然な同胞意識をもっているのが普通の日本人の感覚だったのである。こういう話などを聞くにつれて、私は日本人に生まれてよかったとつくづく思ってきた。

    たしかに最近の韓国や中国などを見るとナショナリズムの否定面は痛感するだろう。いちいち日本の行動に反応してアドレナリンが大量放出していて、もはや韓国にとって日本は栄養ドリンクのようなものになっているとしか思えない。反面教師として参考にすべきだろう。また、もし自分の祖国が立派で偉大であると信じられなければ衰退するような愛国心は本物ではないのだろう、仮にどれほどみじめな国家であっても祖国を愛するのが本当の愛国心なのだろう。そういう愛国心は声高に自国の優秀性のみを主張しないものであると思っている。(とはいえ現在の日本の歴史はあまりに左翼によって暗黒部分ばかりが強調されてきたから、肯定的解釈を発掘して照明をあてるような考え方は必要であると思う)

    蛇行したが、ともかくも、成熟した現代にあっては、日本に生まれたことを不快と思うような人間や、日本の歴史骨格を安易に見下すような人間は、どれほど卓越した思考力や観察力があったとしても、後世に思想を残すのは難しいだろうと思っている。

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