管理人による出版記念会報告(八)

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吉田敦彦氏のご挨拶(二)

 

19世紀の後半から20世紀の前半にかけてドイツで一つの頂点を極めた、ヴィラモヴィッツ=メレンドルフを代表者とする西洋古典文献学は、古典古代の事象を文化人類学に照らし解釈しようとした。フレーザーらいわゆる英国ケンブリッヂ学派の能率家揃いの学者たちの膨大な著作などには、傲然として一顧も与えずに、原典の厳密な本文校訂を達成した。

 だが、一見すると「古代ギリシァのことは、あくまで古代ギリシァ語で」という、禁欲的な立場を見事に貫徹したように見えるヴィラモヴィッツ流のこの文献学は、西尾氏が「現代市民風の健全かつ凡庸な理性」(100頁)と喝破される、宣長の言う「後の世の意」を持って、古代ギリシアのことに終始対していた。それでその理性の常識ではそもそも、捕らえられようはずの無かった、明るい文明の表層の奥にある神秘と非合理の深層の把握がまったく欠落しているという、西尾氏が「想像を絶する一撃」と呼ばれる批判の痛打を、ニーチェから浴びせられることになった。

 他方で聖書解釈学の方は今や、西尾氏が「われわれはイエスが実際に語ったこと、本当に行なったことに、解釈学の研鑽を重ねることによって、いったいほんの少しでも正確に近づくことになるのでしょうか。それとも相対化された不可知論の空虚の中に、すべてが放り出されたままに終るのでしょうか」(104頁)と述べられて表明された、懸念のまさにその通りの袋小路に入り込む結果に立ち至っていると思われる。

 そのへんのことはたとえば、斯学のわが国における第一人者で世界的にも権威であられる、A氏の主著の一つを評して、門外漢だがきわめて慧眼のN氏がいみじくも、「猿がらっきょうの皮をせっせと剥いて行ったら、実が出てこなかったという本」と断じられた、至言に照らしても明らかであろう。

つづく
つづく

管理人による出版記念会報告(七)

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guestbunner2.gif長谷川真美

 
 つづきまして学習院大学名誉教授の吉田敦彦(よしだ・あつひこ)先生です。

ブーバー対話論とホリスティック教育―他者・呼びかけ・応答 ブーバー対話論とホリスティック教育―他者・呼びかけ・応答
吉田 敦彦 (2007/03)
勁草書房

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面白いほどよくわかるギリシャ神話―天地創造からヘラクレスまで、壮大な神話世界のすべて 面白いほどよくわかるギリシャ神話―天地創造からヘラクレスまで、壮大な神話世界のすべて
吉田 敦彦 (2005/08)
日本文芸社

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世界神話事典 世界神話事典
大林 太良、 他 (2005/03)
角川書店

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日本神話 日本神話
吉田 敦彦 (2006/05)
PHP研究所

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 吉田先生は神話に関する研究書や一般書をたくさん書かれた、人も知る神話学の世界的な権威、日本を代表する神話学者でいらっしゃいます。お願いもうしあげます。

 吉田敦彦氏のご挨拶(一)

西尾先生、本日は本当におめでとうございます。私のような者が、お話させていただくのは、本当に僭越ですけれども、先生からのご指名ですので、しばらくお耳を汚させていただきます。

 本文だけで550ページに垂らんとする大著述の『江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋』で、西尾幹二氏は、本居宣長の『古事記伝』をその精華とする「文献学」における、わが江戸期の文化の世界にも比類の無い価値と先進性を、端倪すべからざる博識を駆使され、満腔の情熱を傾注されて、もののみごとに解明してのけられた。

 西尾氏によれば「歴史意識」と呼べるものが成立した地域は、地球上でただ地中海域と中国、日本のみだが、「文献学」は奇しくも17世紀から19世紀にかけての時期に、これらの三地域に並行して勃興した。ただ中国で、古代語の精密な解明を目指す清朝考証学が開花したのは、乾隆、嘉慶の両皇帝の時代(1725~1820年)であり、この中国の文献学には、聖典として尊尚された経書の絶対性をそもそもの前提としていたので、その聖典であるテキストへの本来的懐疑は存在のしようがなかった。

 聖典であるテキストをも相対化する文献学は、西洋と日本でだけ成立したが、西洋で近代文献学の真の端緒を開いたヴォルフの『ホメロス序説』は、1795年に刊行された。ところがわが国では、清朝考証学の全盛期より半世紀も前にすでに、荻生徂徠の儒学によって、脱孔子の道を拓こうとする野心的な模索がされており、そのあと1745年には、当時30歳だった富永仲基によって、仏教の経典を批判的に考究した主著『出定後語』が刊行されていた。

 このような「聖典」に対する批判的な態度を西尾氏は、「一つの自立した知性が聖典の背後にまわり、宗教の開祖を相対化する破壊の刃を突きつけるという危険な意識」と呼ばれ、「不思議なことにそのような意識にいちばん早く目覚めたのは、・・・・江戸時代の日本であったことに気がつきます」と、言われている。

 ところがこれらの徂徠の儒学と仲基の仏教経典研究のあとに出て、国学の基礎を確立した偉業となった『古事記伝』44巻の中で本居宣長は、言語科学的分析を、それらよりいっそう厳密なものにする一方で、それによって明らかにされる『古事記』に書かれていることに対しては、後代の知恵による懐疑や批判を加えるのを、いっさい許容せぬ立場を徹底して貫いた。『古事記』のテキストに対するこの宣長の態度は、エッカーマンとの対話の中でゲーテが「ヴォルフはホメロスを破壊してしまった」と論評したという、ホメロスの原文に対するヴォルフの取り扱い方とは、まさに正反対のもので、一見すると徂徠や仲基の文献学に世界に先駆けて見られた、先進的な批判精神をいっきょに後退させてしまったようにも見える。

 だが西尾氏はこの宣長の『古事記』の原文の扱い方が、西洋古典文献学とその方法に倣って聖書、とりわけ福音書の原文を分析しようとした聖書解釈学とが、やがて共に陥ることになる陥穽を先んじて回避していたという点で、じつは別の意味できわめて先進的で、あった所以を、鋭く指摘されている。

つづく
つづく

管理人による出版記念会報告(六)

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佐藤雅美氏

 
 
それではここで何人かのゲストの皆様からご挨拶を頂きます。

 トップバッターは発起人を代表しまして、直木賞作家の佐藤雅美(さとう・まさよし)さんでございます。

覚悟の人―小栗上野介忠順伝 覚悟の人―小栗上野介忠順伝
佐藤 雅美 (2007/03)
岩波書店

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 佐藤さんは『大君の通貨』で鮮烈のデビューをされまして、江戸時代の造詣が深く、また十日ほど前には『小栗上野介伝(おぐりこうずけのすけ)』を岩波から出版されました。五月からテレビ朝日のゴールデンアワー、午後7時より、佐藤さんの小説がテレビドラマ化されます。まさに売れっ子作家でございます。

 それでは佐藤先生、お願い申し上げます。

 佐藤雅美氏のご挨拶
 

 今ご紹介いただいた佐藤と申します。私ごときが、また畑違いのものが、こんなところでご挨拶させていただくというのは、まことに恐れ多いのですが、ご指名いただきましたので、一、二分時間をとってご挨拶させていただきたいと思います。

 この江戸のダイナミズムが『諸君!』に連載されていたときに、ふと、本当にふと目が留まりまして、一度、二度、多分三度は読んだと思います。それで、早く本にならないかなとずっと楽しみにしておりました。その間に、先生のことは私は一ファンで存知あげなかったのですが、ご紹介いただいて、先生と親しくさせていただくようになりました。それで、いつごろ本になるんですか、とずっと尻をたたいていたというか、そう催促しておりました。

 昨年の暮れ、来年の何月ごろかに出ると決まって、いくらか私も文藝春秋の方と親しくしていただいておりますから、自分で書評をやらしてくれ、というふうに売り込みました。売り込んで、なかなか返事がいただけなくて、ちょっと心配だったのですが、二ヶ月くらいたって、やっとお願いしますという電話がかかってきたときには、嬉しかったです。

 もちろんそっくり一から読み直しまして、直ぐ書き上げて、原稿を送って、それがおかげさまでここに収録されております。内容については私は門外漢ですので、あれこれ言える立場にもおりませんが、特に私が感服したというのは、ちょっとこのくだりですが、書評に書いた部分を読んでみます。

といって内容は類書にありがちな、二、三行も読むと瞼が塞がる無味乾燥なものではなく、そこには巧まずしてストーリーがあり、倦ませることなく飽きさせることなく展開していて、こういっては畏れ多いのだが文章もこなれていて読みやすく、またはっとするほど、小説家も顔負けするほど、表
現や比喩に天性の上手さ巧みさがある。

 これが私が内容もさることながら、非常に感服して言いたかった点であります。先生はご存知のように当時は超難関高校の小石川高校から、もちろん超難関大学である東京大学に進まれておられますから、当然のことながら思想というそちらの方へ進まれたと思うのですけれど、もし先生が私らのように、私らのようにと言えば失礼なのですが、私のように並みの高校から並みの大学に進んでおられたら、学問の世界に進まれるということがなく、ひょっとしたら小説でも書いてみようか、などと思われたかもしれない。挑戦しておられたら、大作家になられておられたかもしれない、という風に思ってもみます。

 そんなことで、いろいろと今度の本も改めて読ませていただいて、感服いたしました。なんでも先生によると、あと10年は仕事を続けるということです。お酒もとても強くて、がんがん飲まれる、お仕事もこれからもどんどん続けていかれて、いついつまでも何冊も何冊も本を出して、読ませていただきたいと思います。どうも失礼しました。

佐藤先生、ありがとうございました。

つづく

管理人による出版記念会報告(五)

   

小澤征爾―日本人と西洋音楽 小澤征爾―日本人と西洋音楽
遠藤 浩一 (2004/09/16)
PHP研究所

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 遠藤先生の朗読のつづき

(七)伊藤仁斎の『論語古義』はもとよりとてもいい本です。例えば孔子が鬼神や人間の死生を論じないのは、こういう問題は人おのおのが自得すべきことで、本来人に教えるといった性質のものではない、だから口に出さなかったのだ、という解釈(巻の六十一余論)など、私はハタと膝を打ち、内心深く納得します。仁斎の孔子解釈は悪くないのです。しかしこれはあくまで仁斎の孔子解釈であって、『論語古義』を読んでいると純粋なる孔子、あるいは孔子それ自体というものがあたかも実在するかのごとく、そしてそれを自分だけが知っているというがごとくであって、彼が囲いを作って孔子の言説をその中に追い込んでいくような印象を受けます。

 新井白石にも荻生徂徠にもそれは感じません。『論語』をはじめ四書がテキストとして不完全だという自覚が仁斎にはまったくないかのごとくです。孔子の残した客観的で正確なテキストなどじつは存在しないのです。門人によって纏められた現存の『論語』の外に、孔子をめぐる膨大な言説と伝承がある。それは畢竟、すべてが神話です。この自覚こそほかでもない、私が本書でくりかえし強調して来た主題でした。

 (十)北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真っ先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです(中略)。

 ヨーロッパ人が同一性を確立するのに、十五-十六世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を、日本人は知りません。

(十三)文献学は認識を目的とします。しかし宣長やニーチェのような人にとって、認識はなにかのための手段でしかありません。二人は徹底的に文献学的ですが、また文献学の破壊者でもあります。通例の安定した客観性を目指している認識の徒には、とうてい理解の及ばない目的があるからです。

 それは一口でいえば、余り単純な言い方で気がひけるのですが、神の探求です。しかしそれは神の廃絶と同時に行われる行為で、懐疑と決断は別のものではなく、つねに一つの行為です。

 本章ではヨーロッパの文明の開始起点に不安があり、中国にはあまりそれがない、という観点をひとつ提起してみました。不安のあるなしは幸、不幸とは関係ありません。

中国には不安がない代わりに、歴史もありません。否、中国は歴史の国といわれていますが、歴史は自然と違って、変化の相を特徴とします。事実の一回性を尊重します。そういう意味での歴史がないのです。

(十四)地球上に歴史意識が成立したのは三地域しかありません。地中海域と中国と日本列島です。十七―十九世紀に、そこで文献学が同時勃興しました。江戸の儒学・国学が一番早かったといえるでしょう。古代と近代を結び合わせる言語ルネッサンスが、西洋古典文献学においても、清朝考証学においても、江戸につづいて相次いで起こりました。本書は可能な限り、三者を比較しつつ総合的に描こうと試みました。

 文献学は宗教の問題でした。私は思想史に関心がなく、偉大な思想家にのみ関心があります。

遠藤さん、有難うございました。
 

 会場は500人は入るという大広間。スクリーンに朗読中の文字を映すため、場内の照明は薄暗く落とされた。

 始まったばかりなので入り口は、人と人がぶつかるほど混雑しており、私は人混みを掻き分け、壁際の椅子が並んでいる場所に移動した。遠藤先生は、正面演台に向かって左手にある司会台に両手をつき、大きな体を少し前かがみにして、マイクに向かって朗読なさっていた。右手の大きなクリーンには、朗読されている文字が映し出されていた。

 西尾先生の文章は内容があるのに難解ではない。声に出せば心地よいリズムがあることがわかる。そのうえ、薄暗い中で遠藤先生が、ソフトでありながら力強く、メリハリの効いた口調でそれを朗読されるのだ。私はまるで芝居の世界に迷い込んだような、なんともいえないよい心地がした。その場は、背景の音楽とともに幻想的な雰囲気がかもし出されていた。宮崎さんの心憎い演出である。

 今、手許に来た朗読のテープを改めて聞いていると、つい聞きほれてしまう。音声をアップする技術が身に付いたら、是非この箇所だけでも皆さんにお聞かせしたいと思う。

 なお、上記に漢数字の番号が打ってあるのは、小冊子に抜粋してあるものと同じ便宜上のものである。

つづく

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映し出された画像
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朗読する遠藤氏

平成14年(2002年)8月から平成16年11月までの過去録はこちら

管理人による出版記念会報告(四)

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 遠藤浩一氏の発言部分  (江戸のダイナミズムからの抜粋・朗読原稿)  

 遠藤でございます。書棚に置いていたと過去形で司会者が言われましたが、今も置いておりますので、お間違いのないように。どうぞ皆さん、右手のスクリーンをご注目ください。

(一)よく考えてみると過去において日本人が シナの学問で世界像を描き出し、西洋の物指しで世界を測定して生きてきた事実はいぜんとして残り、にわかに消え去るものではありません。

 日本人は自分というものを持っていないから かような体たらくに陥っているのでしょうか。今まで私はずっとそう思いこんできました。ところが、話はじつはひょっとして逆かもしれない、と、ふとあるとき、私の心にひらめくものがありました。日本人はある意味で秘かに自分に自信をもっている。自分を偏愛してさえいる。ただそれをあらわに自己表現しないだけだ。シナからであれ、西洋からであれ、外から入って来たものは外からのものであるとずっと意識していて、忘れることがない。日本人は外と内とを区別しつづけている。逆に言えば、「内なる自分」というものを終始意識しつづけているともいえるでしょう。

 いったいこの「自分」は何であるのか。日本人は自分がないのではなく、自分があり過ぎるからといってもいいのかもしれませんが、それも詭弁とされるなら、日本人は一面では自分を主張しないですむ、何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きているがゆえに、簡単に外から借りてきた西洋史や中国史でやり過ごしてきたのではないか。

 外国から借りて自分を組み立ててもなお自信を失わないで済む背景というものが昔から日本人にはあったのではないか、「何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」と言ったのはその意味ですが、それはいったい何か、というこの問いに生涯かけて立ち向かった思想家が、ほかでもない、本居宣長であったと私は秘かに考えているのであります。

(二)日本には「道があるからこそ道という言葉がなく、道という言葉はないけれども、道はあったのだ」に、宣長のすべてが言い尽くされているといっていいでしょう。

 しかしこの美徳は本来外へ主張する声を持たないはずです。言挙げしないことを、 むしろ原則とします。ところが宣長は原則を破り、このような日本人の道なき道を外へ向かって主張し、言挙げしようとしたのでした。

 「皇大御國」の一語をもって『古事記傳』の序「直毘霊」を始めた理由はそこにあると思います。自己主張を必要としたという点で彼は近代人なのです。さりとて、政治的偏向をもって宣長が非難されるたぐいの固定観念は、彼にはもともとありません。日本人のおおらかさ、言葉をもたない柔軟さ、道といわれなくてもちゃんと太古から具わっている道、宇宙の中の鷹揚とした生き方、自然に開かれ、自分の個我を小さく感じる崇敬と謙虚の念――こういったものを、野蛮な外の世界のさまざまなイデオロギーから、彼は守ろうとしたにすぎません。宣長の思想は最初から最後まで守勢的であり、防衛的です。

 さて、しかしさらに考えると、戦う意思を捨てて戦うというこうしたあり方は一つの矛盾であり、論理破綻ではないでしょうか。

立場なき立場こそが日本人の無私なる本来性であるなら、これを主張する立場というものを立てるのはおかしいのではないか、という疑問が生じます。

 言挙げしないという日本人の良さをあえて言挙げする根拠はどこにあるか。我を突っ張らない日本人の自我の調和をどうやって世界に向けて突っ張るのか。

 宣長の自己表現の激越さは、この矛盾、論理破綻そのものの自覚に由来するように思えます。そして現代の日本人がじつは世界人であろうとして直面しているさまざまな問題もここに関係していることを我々は直視しなくてはなりません。宣長の矛盾、論理破綻の自覚の共有は、われわれ現代日本人の課題でもあるのです。

(四)知るということの意味が富永仲基と荻生徂徠とでは決定的に異なります。そこに問題があります。

「知る」とは仲基にあってはすべての人間に開かれていなければなりません。客観的な目に見えるしるしであると同時に、万人に公開され、受け入れられることをもってはじめて「公徴」となるのです。仲基は開明主義的合理の人でした。

それに対し徂徠はまったく違う世界観の住人でした。彼は時間的にも、空間的にもはるかかけ離れ、隔絶した中華草昧の時代に絶対の「価値」を置き、そこへの復帰の理想は復帰の不可能の認識を伴っています。「古文を知る」と言いながら、じつは言葉の裏には知り得ない絶望を湛えています。その矛盾が仲基には見えません。徂徠が亡くなった年に仲基は十四歳で、宣長と秋成の間の『呵刈葭』のような討論本が可能でなかったのはとても残念です。

本居宣長と上田秋成との間、荻生徂徠と富永仲基との間には、それぞれ決定的に深い溝があり、どちらも歩み寄りが不可能な、世界観を異とする二つの別の精神態度といえるでしょう。

 興味深いのは、秋成は宣長の古代認識を批判し、否定する際に、仲基は徂徠の古代認識を批判し、否定する際に、いずれも「私」という語を投げつけていることです。今日のことばでいえば、主観に堕している、という非難になりましょう。あるべき客観的歴史認識を怠っているという批判になるでしょう。しかし宣長も徂徠も泰然として動ぜず、主観も客観もないですよ、そういうものに捉われて遠い、高いものへの理想を失った者は、万民向きの広い世界を見るという、そういう「私」に陥っているまでですよ、と言うでありましょう。

つづく

つづく

管理人による出版記念会報告(三)

   
 

 今回、この「江戸のダイナミズム」の出版記念会をやってはどうかと最初に提案されたのは宮崎正弘先生らしい。宮崎先生が二次会で、西尾先生が犬の散歩がお好きなように、人の出版記念会を企画実行するのは私の趣味です、とおっしゃっていた。ということで、この会の裏方スタッフの中心は宮崎さんとそのお仲間の方々。その他に保守主義研究会の岩田温君を中心とする若い方々、内田さんを初めとする文藝春秋の方々、そして坦々塾という西尾先生を中心にした勉強会の何名か(私もその中の一員)である。司会は日本文化チャンネル桜の仙頭直子さん。

 それらのスタッフの方々から、写真やその日のテープ、司会原稿などの資料がようやく集まってきた。順を追ってあの会の内容を出来るだけ正確に再現していくことにする。司会の言葉は青色で、演出は緑色で表示し、途中私の感想は四角で囲み、来賓のご挨拶なども再現していきたい。

 なお、この会に出席した方の感想をコメント欄で受け付けます。

(1800)入場開始 (同時にBGMスタート)。1805頃から画像を点滅 x 2回。


 ただいま会場に流れております音楽は江戸時代とヨーロッパと中国を象徴する曲目です。モーツアルトのヴァイオリン・コンチエルト1番、長唄は「元禄花見踊り」、グレゴリオ聖歌「御身(おんみ)は羊らの牧者」、支那古典からは「紫竹調(しちくちょう)江南(こうなん)の童歌(わらべうた)」、小唄「梅は咲いたか」、そして「のりと」です。

また映し出されている画像は、『江戸のダイナミズム』の基調をなす、古代エジプトの海中に没した図書館から中国の清朝考証学関連、江戸の思想家、芸術家などの映像です。のちほど西尾先生から詳しい解説があります。
   

 < 音楽、画像中断。照明を明るく >

 まもなく会が始まります。来場の皆さまに御願いがあります。携帯電話のスイッチをお切り下さいますよう。また前の方が空いておりますので、ご参会の皆さま、できるだけ前の方へお詰め下さい。

 桜の満開はすぎたとはいえ、会場の付近には桜が咲き乱れています。

 皆さん、この嵐のような天候の中、ようこそおいで下さいました。ただいまから西尾幹二さん『江戸のダイナミズム』出版記念会を開催いたします。

 私は本日の総合司会役を仰せつかりました仙頭直子と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。有難うございます。

 本日はお忙しい中、また遠路はるばると上京されて参加いただいた方も大勢いらっしゃいます。外国からのお客様もいらっしゃいます。まさに、西尾先生の代表作のひとつ『江戸のダイナミズム』への関心の高さが伺えることと思います。

 それでは冒頭、正面の大型スクリーンにご注目下さい。

 これから西尾幹二先生の大作、『江戸のダイナミズム』の重要部分を数カ所、スクリーンに映し出します。またお手元の冊子にも同文が掲載されております。記念冊子の二ページ目からです。

 抜粋の朗読をしていただきますのは評論家、拓殖大学教授の遠藤浩一(えんどう・こういち)さんでございます。

 遠藤さんは高校二年生のときに、金沢の高校に講演にきた西尾先生のおはなしを聞いて、それ以来、交友会雑誌にのった西尾先生の講演記録をずっと大切に保存し、書棚のいつでも出せるところにおいていたそうでございます。

 それでは遠藤さん御願い申し上げます。

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右端が遠藤さん、真ん中が富岡幸一郎さんです。

つづく

管理人による出版記念会報告(二)

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 音楽評論家浅岡弘和さんのブログ巨匠亭から,許可を得て転載させていただいた画像です。西尾先生の所在を知らせるためのアドバルーン(銀色の風船)が上っています。
guestbunner2.gif長谷川真美

       

 4月4日の出版記念会に出席して下さった中の主だった人々

(A) 黒井千次、高井有一、岡田英弘、宮脇淳子、加瀬英明、桶谷秀昭、高山正之、日垣隆、藤井厳喜、平川祐弘、入江隆則、富岡幸一郎、猪瀬直樹、工藤美代子、百地 章、佐藤雅美、井尻千男、黄 文雄、田久保忠衛、渡部昇一、関岡英之、高階秀爾、吉田敦彦(神話学者)、遠藤浩一、石 平、三浦朱門、福井文雅(宗教学者)、萩野貞樹(国語学者)、呉 善花、平間洋一(近代日本史家)、饗庭孝男(文芸評論家)、ヴルピッタ・ロマノ(日本文学者)、カレル・フィアラ(日本文学者)、秦 恒平、石井竜生、潮 匡人、岸田 秀、西村幸祐、山崎行太郎、新野哲也、岸本裕紀子、大島信三、浜田麻記子、合田周平、花岡信昭、福田 逸、福地 惇、山際澄夫、高橋昌男、藤岡信勝、田中英道、大蔵雄之助、平田文昭、堤 堯、花田紀凱、宮崎正弘、

(B) 林田英樹(前東宮大夫・国立新美術館長)、伊藤哲朗(警視総監)、朱文清(台北代表処)、上野 徹(文藝春秋社長)、齋藤 禎(日本経済新聞出版社会長)、松下武義(徳間書店社長)、加瀬昌男(草思社会長)、木谷東男(草思社社長)、千野境子(産経新聞論説委員長)、鈴木隆一(ワック社長)、松山文彦(東京大神宮宮司)、山本卓眞(富士通名誉会長)、加藤惇平(元ベルギー大使・外務省元審議官)、黒河内久美(元フィンランド大使・軍縮会議日本政府代表部元大使)、尾崎 護(元大蔵事務次官・国民生活金融公庫総裁)、早川義郎(元東京高等裁判所判事)、奥島孝康(前早稲田大学総長)、岡本和也(元東京三菱銀行副頭取)、大島陽一(元東京銀行専務)、羽佐間重彰(元フジサンケイグループ代表)、田中健五(元文藝春秋社長)、川島廣守(元プロ野球コミッショナー)、藤井宏昭(国際交流基金理事長)、関 肇(元防衛医大副校長)、松島悠佐(元陸上自衛隊中部方面総監)、重松英夫(元陸上自衛隊関西地区補給処長)

(C) 山谷えり子(参議院議員・首相補佐官)、泉信也(参議院議員)、古屋圭司(衆議院議員)、高鳥修一(衆議院議員)、西村眞悟(衆議院議員)、戸井田とおる(衆議院議員)、古賀俊昭(都議会議員)、森喜朗(代)、中川昭一(代)、

祝金  森喜朗(元首相) 
     柏原保久
     念法眞教
     岩崎英二郎(元独文学会理事長)
     川渕 桂
     加藤 寛
     野井 晋
     杉山和子
     伊藤玲子

花輪 文藝春秋
    徳間書店 
    ワック
    PHP研究所
    産経新聞(住田良能、清原武彦 羽佐間重彰)
    台北代表処(許世階)
    植田剛彦
    長谷川三千子
    坦々塾

祝電 高市早苗(衆議院議員・内閣府特命担当大臣)
    下村博文(衆議院議員・首相補佐官)
    平岡英信(学校法人清風学園理事長)
    楠 峰光(西日本短期大学教授)
    高松敏男(大阪府立中之島図書館員)
    武田修志(鳥取大学助教授)

漢詩 寄上梓記念賀莚 孤劍楼(加地伸行)

 出席総数382名

 出版記念会事務局より以上の報告がありました。西尾先生から各方面へ心より御礼申し上げたい旨、伝言がなされていますことをご報告いたします。

 

 今こうして主だった人たちの名前を目にして、有名な方々が大勢来られていただろうということは感じていたが、予想以上の顔ぶれにびっくりした。会場では政治家をマイクで紹介したり、祝電の紹介もなかったので、森元首相からお祝いがあったことも意外だった。

 私が話しかけた方では、エスカレーターで山崎行太郎さん。動くエスカレーターの上でついこちらはインターネットで写真を見ているものだから、知り合いのように声をかけてしまった。

 井尻千男さんは、私が隣の山口県の水西倶楽部の会合でお会いしたことを告げると、嬉しそうに握手してくださった。

 西村幸祐さんには、以前西尾先生がよその人気サイトとトラブルがあった折に、仲をとって事を収めていただいたことがあり、その時の御礼をいった。

 山谷えり子さんは、広島においでいただいて講演会を開いたことがあったので、すぐに挨拶に行った。今は政府の中枢におられ、選挙もあり忙しいはずなのに、わざわざ出席してかなり長い間会場におられたようだ。

  名前はわからないのだけれど、壁際に並べてある椅子のところで、上品な年輩の男性がぽつんと座っておられた。私はお節介かなと思いながら、お寿司を運んでいった。普段は下にもおかない扱いをされるような、きっと社会的に地位の高い方だろうなと思う。

 もう一人、受付で男性が読みにくい字で記帳していて、何と読むのだろうと思っていたら、名刺を渡された・・・・・見るとオフィス松永の松永さんだった。電話で一度お話したことがあるので、声と顔と一致しませんね、というと、それはいい意味ですか?と聞かれてしまった。二次会でかなりゆっくりとお話することができた方である。
 
 西尾先生という一人の人間との関わりのために、あんなに大勢の人々が、あの春の冷たい嵐の中に集まっていたのだなと思うと本当に感心した。

 

つづく

管理人による出版記念会報告(一)

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guestbunner2.gif長谷川真美

       

 4月4日、市ヶ谷グランドヒルホテルの三階瑠璃の間で夕方6時半から、西尾先生のための「江戸のダイナミズム出版記念会」が開催された。

 東京は桜が満開とはいえ、予報では真冬並みの寒気団が下りて来ると聞いていたので、広島の家を出るときに私はスプリングコートにするか、冬用のコートにするかぎりぎりまで迷っていた。結局冬用のコートで出かけたが、その選択は東京にいる間、何度となく間違っていなかったと感じるほど、4日の東京は寒かった。

 当日私と娘はスタッフとしてお手伝いすることになっていた。ホテルを出る頃には、雲行きがあやしくなり、雷もなりはじめ、タクシーを待つ間、冷たい雨が容赦なく斜めにふきつけ、雨はだんだんにみぞれになっていった。あれだけの天候だったから、出席をあきらめた人も大勢おられたのではないだろうか。

 5時前にホテルに到着し、エスカレーターで階上に上っていると、下りのエスカレーターに乗っておられた西尾先生と奥様にすれちがった。スタッフと同じように、もう到着しておられたのだ。

 私と娘は出版記念会が終った翌日は、おのぼりさんのように「はとバス」で東京見物をしたので、昨晩遅く新幹線で帰宅した。感想はゆっくり書けばいいと思っていたのに、山崎行太郎ブログオフィス松永のブログ(現役雑誌記者によるブログ日記)に、もう出版記念会の様子が書いてあったので、ぼやぼやしていてはいけないと今キーボードをたたいている。

 現役記者「その他」さんも書いておられるとおり、その日の出席者は400名弱(380くらい?)で会場はぎっしり満員、どこに誰がいるのか近くの人しか解らないような混雑であった。受付や、雑用をして出たり入ったりしていたので、祝辞の内容も今詳しく書くことはできないが、そのあたりは全部の情報が集まってからひとつずつ報告していきたい。

 とりあえずは、私個人の目と耳が接した範囲での感想にとどめることにする。

 受付では、国会議員でも、どんな偉い人でも記帳をしていただき、会費を徴収し用意した小冊子を配布した。受付が一段落して私が会場に入った時は、中は薄暗く、ひな壇に向かって右手に大きなスクリーンが下ろされ、何かが写され(左手にいたので良く見ることができなかった)、遠藤浩一さんが「江戸のダイナミズム」の一節を朗読しておられた。  遠藤さんのめりはりの利いた声は、まるでお芝居の長い台詞のようであり、西尾先生の文章はどこを切り取ってもそのまま「台詞」として通用する、リズムのあるものだからなのだと感心もした。

 詳しくは続きで書いて行くが、全体の印象として保守的な政治集会でもないし、かといってジャーナリストばかりの会でもなく、いろいろなジャンルの学者の方々が西尾先生のコネクションで集まった重厚な顔ぶれの集まりであったように思った。

つづく

管理人による報告

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 現在西尾先生による日録は休載しておりますが、先生の許可を得て、管理人長谷川が、西尾先生の近況を報告させていただきます。

 『江戸のダイナミズム』の出版に伴い、出版記念会が開催されます。

 以下はその案内文です。この会に私も出席できることになりました。その折の報告もしてよいと言われましたので、5日に帰宅してから、エントリーを挙げる予定にしていますので楽しみにお待ちください。

 また、『江戸のダイナミズム』の感想に限り、コメントを受け付けますのでので、どうぞふるって書き込んで下さい。

西尾幹二さん『江戸のダイナミズム』出版記念会のご案内
 
 謹啓 季節も春めいて参りました。
 
 貴台におかれましてはご健勝のことと大慶に存じあげます。

 さて今般、私たちの知人・友人・酒友でもあり、広く健筆を振るわれる西尾幹二さんが、『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋』を文藝春秋から上梓されました。

 日本、中国、欧州の学術の歴史を比較するなかで、日本文明の核心を解き明かそうと試みたこの長編評論は、月刊誌『諸君!』に、足掛け四年にわたる連載ののち、推敲、注の作成にさらに二年余を費やした労作、まさに西尾さんの代表作といえる一冊です。

 多くの歴史観論争と哲学的論点を含み、新しい国語学上の問い掛けもあり、今後、言論界に大きな反響を呼び起こすことと思われます。

 心身共に切り替わる花の季節に合わせて、この大著の出版を記念した祝宴を開催させて頂きたく、
茲もと御案内申し上げる次第です。

                記

 一、と き  四月四日(水曜日)午後六時半より(六時開場)
 一、ところ  「ホテル・グランド・ヒル・市谷」三階「瑠璃の間」(同封地図をご参照下さい)
 一、会 費 壱万円(書籍代金(2900円)を含みます。ご夫妻でお見えの場合は一人分のみを頂戴します)

 なお誠に畏れ入りますが、御出欠のご都合を同封の返信葉書にてお知らせいただければ幸いです。

                                   謹白

 平成十九年三月吉日

発起人 井尻千男  桶谷秀昭  呉 善花  加地伸行  工藤美代子  黄 文雄  小浜逸郎  佐伯彰一  佐藤雅美  高井有一  田久保忠衛  芳賀 徹 長谷川三千子  平川祏弘  三浦朱門  宮崎正弘

上野 徹(文藝春秋社長)、江口克彦(PHP研究所社長)
加瀬昌男(草思社会長)、松下武義(徳間書店社長)〔50音順〕

 西尾幹二さん『江戸のダイナミズム』出版記念会事務局
(株)文藝春秋第二出版局 第一部気付(事務担当/内田博人)

怪メール事件(四)――

思想的背景を明らかにする新しい解説とそれへの補説を文末に記す。(4月21日)
ジャンプ
新しい解説の第二弾を加えました。(4月23日)ジャンプ
新しい解説の第三弾を加えました。(4月24日)ジャンプ   
私の立場を代弁している二文を掲げました。(4月25日)ジャンプ 
               
              
  (一)
 
郵便ではなくメールの時代になり、他人への転送も手軽になって、信書が他人に見られる危険も増大している。メールにだって公私の区別はある。私的メールは封筒に切手をはって出した私信と原則同じである。

 知人からのメールを第三者に無断で渡すのは、自分の立場を守るために行い、差出人の名誉を顧みない場合には、どう考えても社会的道義に反する。ましてメールの差出人を脅迫するために、見えない処から差出人に匿名でメールを送りつけるのは、ただの不道徳にとどまらない。刑法上の犯罪を構成する可能性があると私は考える。

 前回の日録で私はどこからか不意に送られてきた「怪文書2」を紹介した。その中に次の一行、「藤岡は『私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した』と証拠書類を配りました。」があったのを読者は覚えておられるだろう。証拠書類を藤岡氏が理事会(3月28日)に配った、という意味である。「怪文書2」をもう一度お確かめいただけると有難い。
 
理事会にそのような証拠書類は配られてはいなかった。ただ私の自宅に、「怪文書2」の送られた前日(3月31日)と同日(4月1日)に念を入れて二度、証拠書類が送られてきた。
 
証拠書類は私が過去に藤岡氏に出したメール(2月3日付)である。私信が回り回っていつしか覆面の脅迫者の手に渡っていて、脅迫文と一緒に、藤岡氏が「西尾の煽動に反論して」八木氏に屈服した証拠書類としてファクスで送られてきたのである。

 このメールは私が藤岡氏に「つくる会」の会長になることを強く要望し、藤岡氏がためらって逃げ腰であることに私が失望したという内容の、互いに正直に内心を打ち明けた往復私信であって、一枚の紙に二人で書き込まれ、ファクスで往復された(後に全文を公開する)。
 この2月3日付の「西尾・藤岡往復私信」が3月末日に覆面の脅迫者の手に渡っている事実からいえることは、まず第一に藤岡氏が私信を無断で他に流用した道義的罪である。第二に藤岡氏は敵対している勢力――八木秀次・新田均・宮崎正治の諸氏に脅迫されたか何かの理由で屈服し、秘かに私を裏切って、内通し、相手への自己の忠誠を誓うしるしとして差し出しているのではないかという私の疑問である。

 私は早くからこの疑問を抱いて、今回の怪メール事件のクライマックスはこれだと踏んでいた。なぜなら「西尾・藤岡往復私信」の西尾・藤岡以外の所有者が、覆面の脅迫者であり、彼こそ他でもない、「怪文書2」の作成者並びに発信者と同一人となるからである。犯罪人を突きとめる立証のカナメである。

 4月6日付の「日録」「産経新聞への私の対応」(四)のコメント欄に「永吉さんへ」と記した私自身の書きこみがある。そこに「そしてきわめつきは、私が理事の一人を支援すべく数ヶ月前に書いた文章に添え書きしたその人の反論がそのままファクスで送られてきた。その理事はもう八木氏に屈服した、これが証拠書類だ、と記した別の紙が届けられる。彼が自分の身を守るために相手にこれを渡したことは間違いない。」と書いた。
 
コメント欄の上記の一文に、長いこと互いに疎遠になっていた藤岡氏がパッと反応してきた。まるで釣餌にとびつく魚のようにである。その一枚をみせてほしい、と彼は言うのでファクスで送って、電話で「この紙は誰にいつ渡したのか」と藤岡氏に訊くと、「失くしてしまった。いま何処かにいってしまって分らない」と案の定子供みたいな返事をする。

 私は藤岡氏に正直に告白させるために手順を踏んだ。「怪メール事件」(三)を出して、次に私が「西尾・藤岡往復私信」を全面公開する意思を示して、4月14日に藤岡氏に質問状を送った。そして15日に会談が可能となり、真相と考えられ得る以下の内容が確認された。
       
                (二)
 
話は長くなるが、今回は総集編なので我慢してもらいたい。
 「つくる会」の事務局にいま事務局長は欠員だが、鈴木尚之氏という方がそれに似た役割で働いている。

 鈴木氏は私の会長時代にも働いて下さった方である。タフで、わけ知りで、情報通で、世故に長け、世に言う甘いも酸いも噛み分けた調停役で、若い人には親分肌で、年輩者には人情の機微を心得、人の気を外らさない話上手の心憎い人物である。国鉄をJRに変えた時代の労組関係の有名な立役者だった。しばらく他の組織にいたが、「つくる会」の危機に際し力を貸してほしいという要請を受けて舞い戻ってきた。

 鈴木氏は不思議なことに、八木氏と藤岡氏の両方から、信じられないほどに大きな信頼を寄せられている。両方からというのが奇妙である。私はつねづねそこに危うさを感じていた。

 成程、鈴木氏は人間通であり、学者たちの知らない方面の俗事に顔も広く、大人の知恵者であるが、また曲者でもある。何を考えているのか本当の処は分らないしたたかなひとだ。「つくる会」の行き止まりの危機に、ただひとり影響を与えているのは種子島氏でも、藤岡氏でも、八木氏でもなく、鈴木氏にほかならない。彼は重要なあらゆる会議に出席し、会を操縦している。

 組織が瀕死の危機にあるときには必ず不思議な人物が登場し、不思議な力を発揮するものである。鈴木氏は八木氏と藤岡氏を「握手」させるという「宥和」を根本方針としてきた。

 しかし本来的に和解できないものを和解させようとすると、病を重くする場合がある。解決をかえってこじらせる。円く収めるよりも膿を出した方がよい場合がある。そういう意味で鈴木氏がいい役割を果して来たかどうか、私はずっと疑問に思っている。
 
本題に入る前にもう一つ告げておきたいことがある。私が1月の理事会の翌日の17日に名誉会長の称号を返上し、会を離れる声明を出したのは、「つくる会」を見捨てたからではなく、会の外部に出て誰に遠慮もせずに内部の恥部を暴き、病巣を剔り出し、背後にうごめく他の組織の暗部に光を当てようと決心したからであった。
 
11月と1月の理事会で私は私が「四人組」と名づけた固い団結の分派活動に、異質の政治性を見た。会を呑み込まんとする陰険なネットワークの暗い闇を感じた。「四人組」とは新田均皇學館大学教授、内田智弁護士、勝岡寛治明星大学職員、松浦光修皇學館大学助教授であり、それに宮崎正治前事務局長がからむ。彼らは昭和44年5月発足の全国学生連絡協議会という早大を中心とした右派系学生運動の一団につながる。

 固い血の盟友関係を築いているせいではないかと思うが、2月と3月の彼らの行動を見ていると、汚れ役、文書役、見張り役、などのネットワークが出来ていて、連携プレーにそつはなく、パッと効果的に動き、集団で主張を通そうとする。彼らの行動の仕方について聞くたびに私は薄気味が悪い。

 彼らの目的は歴史教科書ではない。政治的支配権そのものが狙いだ。そして、新田氏の早大大学院政治学科の後輩である八木秀次氏は会長である立場を忘れ、昨年10月頃から事実上このグループの一員となって行動している。

 「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができなければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。
 
私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だった。何で氏が阻まれる理由があろう。

 私はこの希望や期待を会を離れた直後の当時、誰にも隠さなかった。1月25日に九段下会議が終って、飲み屋で友人数人に事情を全部開陳した。30日の路の会で保守系知識人の諸先生に背景の経緯を全面公開し、藤岡さんにいよいよ会長になってもらうべきときが来た、と言った。その席に小田村四郎氏、石井公一郎氏といった日本会議の重鎮もおられた。
 
たちまち八木氏の耳に入った。当然である。私は隠し立てするつもりもないし、名誉会長を辞めても一会員として主張すべきことを主張する権利を失ったわけではない。

 国家の機密じゃあるまいし、たかが私的団体のこれからの方向に期待を表明するのをなんで陰険に隠し立てする必要があろう。路の会の当日の席上には扶桑社の真部栄一氏もいて、聴き耳を立てていた。

               (三)
 
2月2日の午後6時ごろ八木氏から私に電話がかゝり、これから藤岡、鈴木の三氏でつれ立って私の家に来たいという。緊急の相談があるらしい。西荻窪に彼らを迎え、空腹の三人に酒と粗餐をさし上げて、なごやかに、気分も良く話し合った。これ以上会のことを他人に話さないでほしい、というのが八木氏の私への要望であった。別れしなに「八木さん、ときどき電話を掛けてくださいよ」と私は言った。

 私の藤岡支持に変更はなかった。しかし、藤岡氏は鬱病にでもかかっているのではないかと思われるほど元気がなかった。2月3日朝、私は「昨夜の意図は?」と題したメールを彼に打った。するとメールの行間に、彼がペンで反論を書きこみ、ファクスで送り返して来た。それが以下に掲げる「西尾・藤岡往復私信」の全文である。
===========
昨夜の意図は?        注:青字が藤岡氏による反論    
昨夜は貴方にとって何のためにもならない会合をなぜしたのですか。
八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵だということ
が分らないのですか。                    ↑全く
のまちがいです。  
わたしが「これからは八木コントラ藤岡のはてしない闘争が始まる」と
いっ
            ↑デタラメです。宮崎・4人組・八木の行動に
良識派が怒                         っている
というのが事実です。
たら、あなたはニヤニヤ笑っていればいいのに、なぜすぐ打ち消したので
すか。
きのうは鈴木さんに仕切られ、あなたは八木さんのペースにはまってしま
いました。なんのための会ですか。             ↑事実で
はありません。
それよりなぜ求めて執行部会を開かせたのですか。会合をしない会長の怠

     ↑執行部としての正統性を利用して、まず宮崎辞任に追い込む
ためです。
をついて、文書攻撃を開始すべきだったのではないですか。
行動は果敢に、そして孤独にひとりでやるものです。西部グループに公民
教科書で屈したときに、私は援軍もなく一人でした。小林を追放したとき
は田久保さんがみかたでした。でも貴方でさえ傍観者でした。
こんどあなたには私をふくめ、たくさんの援軍がいます。しかし援軍はあ
くまで、助っ人です。それ以上のものではありません。
覇権は自分で獲得するものです。
 ↑私は覇権を求めたことなど一度もありません。今までの私の全行動が
それを証明しています。西尾さんは政党と、こういう会を混同しているの
ではありませんか。私の目的はよい歴史教科書を多くの子どもに届けるこ
とによって日本を建て直すことです。覇権は関係ありません。※
私はあなたを緊急応援するように、三副会長と福地さんに今朝、檄をとば
しました。(西尾)
=========== 
ただし藤岡氏の最後の文章に私がもう一度見解を述べて再度ファクスで送り返している。「ここに書かれたことは・・・・・・」以下がそれで、これに対する藤岡氏の返信はなかった。
===========
※ ここに書かれたことはキレイゴトすぎます。良識派は私も含めて、藤岡会長にするのがさし当りの終着点なのです。あなたはそれに全力で応えなくてはならないのではないですか。
============ 
以上の「西尾・藤岡往復私信」を経過して、私は藤岡氏にいたく失望した。穏和しい性格ではないのに、妙に温良ぶっている。戦意をすでに喪失している。昂然の気概がない。それにまた、心を打ち明けあった「私信」にユーモアひとつ書けないようではもうダメだ、先行きこれは見込みないと正直がっかりした。
 
「覇権」ということばがたゞのレトリックだということがどうして分らないのだろうか。「私の目的はよい歴史教科書を多くの子どもに届けることによって日本を建て直すこと」だって?
 
冗談じゃないよ。なんでこんな当り前すぎる、教訓めいたことばしか出てこないのか。
 
せめてひとこと「私は覇道ではなく王道を歩みます。されば援軍は雲霞のごとき大軍となりましょう。ご心配なく。」くらいの悠然たる言葉をなぜ吐けないのか。心がちぢこまって、生真面目がいいことだと思って、言葉に遊ぶ心が全然ないのである。それでいて物静かで地味な真面目さが本領という人柄ではなく、何かというとむきになって、顔を真赤にして、激語乱発で怒っている。
 
もちろん怒ることはいい。怒りは精神の高貴さにつながる。しかし真の怒りにはどこか他が見て笑いが宿っているような風情がなくてはいけないのだ。
 
この「私信」は私が藤岡氏に本心をぶっつけ、彼が自分の正体をさらした最後の記念的文章だから全文をのせた。これ以後、会長候補として彼を支持する気持はどんどん失せていった。私は彼を可哀そうな人だと思うようになった。彼は何が理由か分らぬが、すでに背骨が折れている。

 1ヶ月後の3月初めにさらに何かが起こったようだ。藤岡氏は6日の首都圏支部長会議で「八木氏は日本の宝です」と発言し、周囲をびっくりさせた。5日にはメールの激語が八木氏の家族をおびやかしたからといわれて、菓子折を持って八木氏宅に謝罪に行ったという噂がパッと広がった。鈴木氏がここでも悪い役割(藤岡氏の男の値打ちを下げる)を果たしている。
 
あの「怪文書1」、「日本共産党離党H13」のメールがあちこちに撒かれたのは3月初旬の同じ頃である。因果関係は分らない。

 藤岡氏は3月11、12日の全国評議員・支部長会議で沈痛な表情で多くを語らなかったそうだ。いい気になって藤岡排撃の侮辱語を並べる新田氏の演説に隣席でじっと耐えつづけるその姿は、哀れを催すばかりの悲惨さであった、とある評議員が私に報告してきた。
 
「つくる会」の半年に及ぶ混乱の原因の第一は、もとより八木氏の職務放棄とくりかえされる反則行動にあるが、しかし、それよりもっと大きな原因は藤岡氏の人間としての弱さにある。一方が倒れかかっているとき、他方の軸がぐらついていてはどうにもならない。いよいよになると藤岡氏は不可測な行動をする。

 ある理事に私が「藤岡さんには失望した。彼は将たり得ない人物だ」と言ったのもこの頃である。
 
             (四)
 
さて、そこで「西尾・藤岡往復私信」の行方という本題にいよいよ入る。
 
私は藤岡氏に同情こそすれ、決して道義的な罪を犯したことはないが、氏は2月3日付の「西尾・藤岡往復書簡」を同じ日に鈴木尚之氏に渡した、と表明している。一生懸命に彼を支援しようとしていた私に対する、同じ日の直後に起こった背信行為である。
 
「八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵」と書いた私のことばに藤岡氏は「全くのまちがいです」と付記した事実はご覧の通りであるが、鈴木氏に対し自分が善良な心を持っていることを証明し、鈴木氏への忠誠心を誓うために私との「私信」を利用したのである。 
自己弁明のためにあっさりと他人を売る。しかもその他人は自分を守り、支えようとしている人である。信義は弁明より値が安い。自分が誰かに媚を売るために、信義なんか糞くらえ、なのだ。藤岡氏はそういう男である。

 「私信」の移動、藤岡氏から鈴木氏への移動の心理的動機には以上のごとく背徳の匂いがする。
         
      (五)

 それなら鈴木氏の手に渡った「西尾・藤岡往復私信」のその後の運命はどうなったのだろうか。

 3月28日の理事会で種子島会長の不可解な独断裁定によって、いったん票決で解任されていたはずの八木氏が復権して、副会長に戻った。天麩羅屋で共同謀議のされた可能性のあるあの日の夜、多分、四人組プラス宮崎氏たちは祝勝ムードであったろう。

 八木氏は副会長に復帰して7月から会長になるという種子島氏のお墨つきを得た後――3月の末――でも、藤岡氏排撃の目的をやめようとしない。当り前である。こういう対立には原則として「宥和」はないからだ。それなのに、鈴木氏はまたしてもここで勘違いしたのだった。

 藤岡氏にはもともと会長を狙う気はないということを八木氏に納得させさえすれば八木側は鉾をおさめ、会は円くおさまり、融和すると鈴木氏は考え、「西尾・藤岡往復私信」を利用することを思いついた。そして「私信」を八木氏に3月30日か31日かに渡した。
 
八木氏は即日これを私への脅迫に利用した。「怪文書2」の「藤岡は『私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した』と証拠書類を配りました」という例の脅迫文句に対応させて、私に証拠書類として送ってきた。

 鈴木氏はその事実を次ぎのような経過で確認したと伝え聞く。
 鈴木氏は八木氏にこの件で4月6日から10日すぎごろまでに3回電話している。4月6日付「日録」のコメント欄に「永吉さんへ」という西尾署名の書きこみがあることは本稿(一)で記述したが、鈴木氏も目ざとくこれをよんで、例の「私信」が流出しているとピンと来た。

第一回目の八木氏への電話では

鈴木  「八木さん、あの書類は外に出していませんね。」
八木  「折り畳んで自室にしまっています。」
鈴木  「あなたが万一外に出したらすぐ分る仕掛けになっているんですよ。」
八木  「誰にも見せていませんよ。」
鈴木  「文章を私が精妙に改竄していて、西尾さんの所へファクスが届いている文章と合わせると、私にはあなたの手許にあるものと実物かどうか分るんですよ。だから、外へ出しちゃだめですよ。」
第二回目の電話では、
鈴木  「藤岡さんから問いつめられて、すでに西尾さんからファクスで送られて来た実物を見せられることになりました。そうすると、文字の改竄が一致すると八木さんの名を出さざるを得ませんよ。」
八木  「ウーン」
 これにつづく言葉はなかったそうだ。
第三回目の電話では
鈴木  「西尾さんから藤岡さんにファクスで送られてきた現物をついに見せられました。間違いなくこれは八木さんにお渡ししたものと同じものです。八木さん、ちゃんと確認しましたよ。」
八木  「いや 申し訳ない。だけれど自分がやったものではない。自分は新田氏にこれを転送した。」
 例によっていち早く他人に責任を転嫁し言い逃れをしている。しかし実行犯が誰であれ、司令塔である主犯格が八木氏である事実は覆らない。こういう場合には主謀者の罪の方が重い。
 新聞の誤報も、書いた渡辺記者に責任があるといわんばかりの言い逃れをしているそうだが、同じ卑劣のパターンである。
 
「西尾・藤岡往復私信」の実物一致を通じて、もうひとつの脅迫文章「怪文書2」の作成者ならびに発信人の主体がとりもなおさず八木氏であることがほゞ確定したと言ってよい。

 加えて八木氏は、「怪メール事件」(二)で追跡確認した通り、ガセネタの「怪文書1」(共産党党歴メール)を公安調査庁に依頼してホンモノであるとのお墨つきを得たとして(ガセネタをホンモノへと自分の意志で偽装したことになるが)、新聞記者を瞞し、報道を動かした犯行が重なっている。
 
藤岡氏の私に対する行為には人間的信義をゆるがす道義的な罪の匂いがするが、犯罪の匂いはしない。しかし八木秀次氏の私に対する行為には、脅迫罪や私文書偽造といった、刑法上の罪の匂いがする。

 尚、「怪文書2」に私が脅迫されたと感じた証拠は、当日録では少し羞しくて書かなかったのだが、夜中に私は完全にあれに瞞されて、理事会の本当の情報の恐ろしさを教えてくれた人がいるのだと信じ、教えてくれたのは田久保忠衛氏に相違ないと考え、感謝の文言を書いて田久保氏にファクスしたのだった。翌朝二人で笑い話になったのは言うまでもないが、脅迫罪が成立する十分な根拠といえる。
 
そしてその脅迫の文書の作成者ならびに発信人は「西尾・藤岡往復私信」の発信人と同一であり、八木秀次氏にほかならないことをここに確認し、私は彼を告発する。
           お わ り に
 
 余りにも悲しい物語である。全国の「つくる会」の支援者にはお詫びのことばもない。しかし真実は白日に曝されねばならない。人は苦い真実を直視して、眼球の奥に黒い斑点が映ずるまでじっと瞼を閉じないで、見つづけなければいけない。
 
余りに乏しい人材が生んだ悲劇である。八木氏を私は会長に推薦したし、藤岡氏に会長になってもらいたいと念願した。責任の半ばは私自身にもある。

 余りに彼らは孤独に耐える力がない。自分を守るために人を裏切ったり、オママゴトのような謀略ごっこをして、それで大学の先生がつとまるということ自体もおかしい。歴史や公民の偉そうな教科書をつくる資格なんか今や全然ない。
 
小さな学者の団体には荷が重すぎた。国内的期待の大きさと国際的軋轢の厳しさに比べて、責任を担おうとつとめた人間たちの器が、私も含めて、小さ過ぎた。理事の中で、名前だけ出して実際に働こうとしない人たちが余りに多すぎたのも問題だ。一部の理事が労働過重になり、バランスを失した面も間違いなくあった。

 最初はたしかに、政治的野心のない学者の団体が教科書を実際に作り、採択してもらおうとしたことに、信用があった。「つくる会」の人気の秘密は非政治性にある。けれども採択のために自民党の協力を得ようとし、各種政治団体にも近づいた。自民党がお願いしてくるのが筋であり、各種政治団の方が近づいてくるのが本来なのだ。「つくる会」は地味な教科書製作の職人団体、そして誇り高い知識人の集団であればそれだけで十分だったのだ。
 
学者に政治家の真似はできないし、してはいけない。代りに会の中心にいる事局長が政治的活力の源泉でなければいけない。政治力の権化のような人物を事務局長に欲しいと思った。私が事務局長更迭を言い出した理由はそこにある。私は俵義文氏は、そのエネルギーといい果てしない執念の強さといい、敵ながら天晴れと思っている。
 
宮崎正治氏は己を知らな過ぎる。彼が日本の武士道や儒学を勉強してきたというのなら、それは笑い話にもならないであろう。彼のことを「法隆寺に火をつけた男」と書いていた人がいるが、当らずとも遠からずである。
 
藤岡氏にもひとこと、多くの人が口にする正直な疑問を私がいま代弁しておく。共産党離党は平成3年(1991年)であると信じてよいが、それでも常識からみると余りに遅いのである。先進工業国でマルクスは60年代の初頭に魅力を失っていた。

68年のソ連軍チェコ侵入は決定的だった。左翼は反米だけでなく反ソを標榜するようになり、いわゆる「新左翼」となった。私は彼らは理解できる。しかし70年代から80年代を通じて旧左翼、民青、共産党員であったことはどうしても理解できない。
 
青春時代に迷信を信じて近代社会を生きつづけることがなぜ可能だったのか。藤岡さん、やはりあなたが保守思想界に身を投じたのは周囲の迷惑であり、あなたの不幸でもあったのではないか。私はあなたが党との関係史を一冊の本にして、立派な告白文学を書いて下さることを希望しておく。
 
「先生、私に分らないことが二つあります」と言って来た人がいる。「種子島さんはなぜ変心したのですか。それから岡崎久彦さんを教科書の内容になぜ介入させたのですか。」

ことに後者はアメリカ属国の教科書でいいのか、という意味で、それはフジサンケイグループが望んでいる方向なのか、という率直な質問であった。この二つの質問のどちらに対しても私は分らないと答えるしかなかった。
 
「つくる会」の全国の支部の方々には謝罪しか今は言えない立場ではあるが、ひとつだけ考えてもらいたいことがある。あなた方は口を開けば本部が宥和し、円く収めろというが、それがいかに間違いかはお分かりになったであろう。
 
地方の教育官僚や教育委員たちが何と言っていたか覚えていますか。「扶桑社版では角が立つから、帝国書院か東京書籍かをえらんで、何とか宥和し、円く収めて下さい」と。「つくる会」の全国支部の人たちの精神構造も、教育官僚や教育委員たちとほとんど同じだといっては言葉が過ぎるだろうか。
 
すでにしてすべてが末期症状である。至る処に蟠踞するのは小人の群れ、末人の戯れ、畸人の気の触れ。正常な社会から見れば、血迷ってどこかおかしいと思わざるを得ない。いつの日か再興の刻が来るのであろうか。
 
私はここで余りにも悲しい物語の幕を下ろすのみである。
                                  ――了
――
4/21 一部追加
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補記(4月21日)  
 保守思想界にいま二筋の対立する思想の流れがあり、私は早い時期からそれが「近代保守」コントラ「神社右翼」の対立であると公言もし、書きもしてきたが、裏づけがとれなかった。本日コメント欄に出た下記の意見は、私も個人的によく知っている、著作もある若い思想家の分析である。背景の諸事情によく通じている人の見方なので、ここに特別枠で掲示する。

 これにより今回の騒動の背景の事情が、ようやくくっきりと浮かび上った。「左」と「右」の対立軸だけで考えて来た戦後思想界に曲り角が来たことを物語る。保守系オピニオン誌も新しい二軸の対立をあらためて意識し、選択する必要が生じ、無差別な野合は許されなくなったというべきだろう。
 
いうまでもなく日本の曲り角でもあるからである。「つくる会騒動」は思いも掛けない背景の薄明に、明るい光を当てる結果になったことを喜びたい。
 
ところで、上記とは別件だが、「怪メール事件」(一)~(四)において私は「つくる会」をつぶせなどとひとことも言っていない。厳しい自己否定を潜らなければ、会の再生は望めないと言っているまでである。文章というものを読めない人がいる。否定で語りかけることが強烈な肯定であることがなぜ分らないのだろう。
 
私は裏切りや謀略に関与した6人の理事の辞任を一会員として要求する。残りの理事諸氏は会を再建させ、発展させる十分な力を有しているので、会員諸氏は安心し、これからも期待してよい。  西尾 幹二

 八木秀次氏と渡辺浩氏に反論と弁明のことばをいただきたいので、サイドバー右
上にある連絡用メールにメールして下されば、この欄に特別掲示します。
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 補記(4月23日)
 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程に在籍している岩田温氏と私とは3年ほど前からのお付き合いで、日録にも氏は時折書き込んでおられた。ストーンヘッジさんは岩田氏のことで、今回覆面をぬいで、正面からご自身の見聞と体験を、所持している数多くの資料にもとずいて語っていただくことにした。
  
ひきつづき数日内に、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程に在籍中の早瀬善彦氏に、日本青年協議会での学生研修の実体験を語り、それを通じての思想的立場をご披瀝たまわることにした。岩田、早瀬両氏に、私は23日にお目にかかりすでに 打ち合わせをすませた。
  
なお私の日録を中心にした今回の文章は、「つくる会顛末記―――右翼からの訣別―――」と題して、緊急出版する予定である。
4/23 加筆
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日本青年協議会と谷口雅春信仰の実情―自身の体験から―
今回の一連のつくる会内紛を引き起こした主犯である四人組の背後にはある宗教への信仰心とそれに基づく政治団体が存在することはすでに明らかになったことと思う。ではこの黒幕たる日本青年協議会は現在具体的にどのような活動を通しその谷口雅春信仰の流布を行っているのか。純粋無垢な保守派青年を食い物にし、自らの信仰する宗教に帰依させようと動いているのか。約一年に渡り日本青年協議会傘下の学生組織である学生文化会
議に在籍した私の個人的な体験談からそれを明らかにしておきたい。
 
私が日本青年協議会と初めて出会ったのは平成13年の夏のことである。その当時は小泉総理の靖国参拝問題ならびに初のつくる会教科書の採択戦が重なり、連日のように左派勢力がその妨害に血道をあげていた。保守主義者を自認する一人としてこれらの問題を注視していた私は雑誌「正論」誌上に掲載されていた「首相の靖国参拝を求める学生の会」の一面広告を目にし、志を同じくする学生がいるのかと大変嬉しく思い、浪人生という身分にも関わらず彼らと会いに単身九段の靖国神社へと向ったのだった。しかし実際に出会ってみると確かに何人かの学生はいたものの、その会の中心となっていたのは社会人であった。思えばこの時点でより警戒心を持つべきであったのだろう。
 
翌年、無事大学に入学した私は国家の問題について保守主義の立場から真剣に議論できるようなサークルを求め探していたところ愛国的なキャッチフレーズが載ったサークルの貼りビラを発見した。そこに書かれてあった学生の名前こそが正に昨年の夏、靖国神社で「関西にも保守的な学生がいるから是非会ってみて」と言われていた方の名であったのだ。愛国の思いを共に共有できる数少ない人物と出会えたことに嬉しさを感じ、このサークルにすぐ様入会してしまったことが正に宗教が背後にうごめくサークル加入への第一歩であったと言っても過言ではない。ちなみにこの方には先輩として個人的に大変お世話になり、また生長の家信仰を押し付けられたことはない、ということだけは申し添えておきたい。
 
さて、入会後しばらく経って聞かされたことは実はこのサークルは学生文化会議近畿ブロックという大きなサークル連合の一つだ、ということであった。このとき彼らはもちろん日青協の名前など一文字も出すことはない。まさに正体を徐々に徐々に小出しにしていく、という宗教サークルの手法の典型例である。ところで私は何の根拠もなくこの文化会議を宗教サークルと呼称したのではない。私が入会して、一ヶ月ほどが経過したとき聞かされたのが、文化会議が伝統的に師として仰いできた四先生の教え、というものであった。それこそがまさに「三島、小田村、葦津、そして谷口」の各氏であったのである。ここであまりに奇妙だったのはこの四先生なるものの「教え」を聞いたとき、このことはある程度以上の地位に就いているサークル幹部にしか教えてはならないものであり、他の誰にも口外してはならないと厳しく言われたことであった。正に秘境的教えともいうべきものである。通常の団体であれば自分たちが仰ぐ思想家を誇りに思い堂々と世間に対して表明するのが普通であろう。この四人中、谷口雅春ただ一人だけが宗教家であり新入生から怪訝に思われる、という危惧があったことは間違いないと思われる。しかし彼らが谷口氏を宗教家として信仰しそれに誇りを持つのならば堂々とその内実を初めから明かし、文化会議とはそういう流儀のサークルとして活動してきたのだということを素直に表明してくれてさえいれば私としてもそれなりの距離を置きながらこのサークルと付き合っていくという選択肢もありえたのかもしれない。

が、後にも詳しく述べるが彼らは最後の最後まで谷口雅春を信仰する宗教的要素をもった団体であるとは認めることはなかった。要は保守界全体において日本会議の中枢部・日本青年協議会が特殊な団体であり、ある種統一教会などと変わらないカルト的要素をもった組織であると私が断定し非難せざるを得ない理由がここにあったのである。ここで断っておきたいのは、彼らが谷口雅春の教義を信仰していること自体を非難しているわけでは決してない。例えばキリストの幕屋という保守系の宗教団体があるが、彼らはつくる会の会合に参加するときもごく普通に幕屋の信徒であることを明かしており、またつくる会の運動に参加することを利用して自らの宗教への勧誘を行ったりはしていない。愛国・反共産主義という思想の一致点において共闘しているにすぎない。彼ら日本青年協議会もこの幕屋と同じような運動方針でやっていれば私も非難するところは全くないのであった。が、彼らは最後まで非宗教の仮面を被り純粋な政治活動のみを行っていると強弁する。それでいて谷口雅春信仰を続け学生にはそれをひた隠しにしつつ巧みにその信仰を植えつけていく。彼らがよく使う論理として「われわれは谷口雅春を宗教家としてではなく一人の思想家として尊敬しているのだ」というものがあるが、悪質な詭弁に過ぎないのではないか。オウム真理教はすでに辞めたが、麻原彰晃を未だに尊敬してやまないと公言する人間をもはやオウム信者ではない、と言うのと同様の論理であろう。こうした日本青年協議会(=文化会議)という組織と付き合えば付き合っていくほど私の不信感は募って行くばかりなのである。
 
おりしも小泉総理の訪朝によって北朝鮮の国家犯罪が明らかとなりわれわれもこの国家の一大問題を考えるべく横田ご夫妻を大学にお呼びし講演会を開いたときのことである。私が講演会宣伝のビラにこの北朝鮮の大犯罪たる拉致を厳しく糾弾し非難する文章を執筆し、また北朝鮮を弾劾する発言をしていたところ、彼ら文化会議のメンバーが「君は少し過激すぎる」といった批判をしてきたのである。左翼の巣窟と化している大学当局からも同じような批判や注意があったことは納得できるにしても、我が陣営の方からも批判が来るとは夢にも思わず大変憤ったことを覚えている。私は今でもあの北朝鮮を批判した文章や発言が過激であったとは一切思っていない。無辜の日本国民を拉致していくという完全なる悪行を悪として厳しく難詰するという行為にこそ倫理・道徳といった精神が宿るのであって、その悪を放置することは不道徳へと繋がっていくのではないか。ただ私は彼ら日青協の北朝鮮への何かしらの甘さというものの根底には彼らの個人的な性格・パーソナリティというよりむしろ彼らの信仰心という問題が大きく関係しているのではないかと見ているのである。というのも、谷口雅春の教えの中には「人類は全て神の子である」という教義があるらしく、その教えに従えばあの金正日でさえ完全な悪人ではないという論理が成立するのである。彼らがそういった信仰心を持つこと自体はかまわないが冷徹な国際政治観を踏まえ拉致問題を考える私の思想を非難されることには怒りを感じざるをえない。詰まるところ彼らの信仰に基づく忠誠心を無意識であるにしろ非信徒に押し付けてきた事例であると言えよう。それは彼らの谷口雅春への信仰心の中でも最も重要な要素である「天皇信仰」という教義においてはさらにそれが顕著となるのである。
 
12月ごろ、文化会議の幹部の一人として私は中央委員会なる幹部会議への出席を求められた。このころからようやく私にも日青協という組織の実態が見え隠れしてきたことで、この学生文化会議なるサークルが実は何の主体性も有していない日青協傘下の完全な下部学生組織であるということも分かり始めてきていた。
 
逆に言えばこの中央委員会に呼ばれるということは日本青年協議会の実態を少しずつ明かしてもよい地位についてきたということなのであろう。私が見た彼らの資料の中には方針として、
一年目には四先生の教えを徹底させる。
二年目には天皇信仰を徹底させる。
そして三年目には総仕上げとして谷口雅春氏の教えを最後に植え付ける。
という裏のカリキュラム(洗脳プログラム)とでも言うべきものがある。この中央委員会では、かの四先生の名前とその教えが簡単に書かれたレジュメを渡され皆で「葦津先生、三島先生、小田村先生、谷口先生のご遺志を受け継ぎ、天皇国日本の再建を目指さん」と何度も復唱させられるのである。さらに心許してきた学生に対しては「今度、尊師(谷口雅春)のお墓に行こうと」と誘い、またより組織に定着してきたと思われる学生には谷口雅春の主著である『生命の実相』を読むように薦められる。こうしたやり方がカルティックといわずして何と言うのだろうか。

また彼らが口癖のように使う言葉として「思いが足りない」というものがある。例えば勉強会のときにニーチェ、オルテガといった西洋の思想家の名を出し彼らに反駁しただけで「君は日本人としての思いが足りない」と非難されるのである。が、果たしてこの抽象概念である「思い」というものを単純に比較・計量できるものなのであろうか。彼らの言う「思い」の多寡とは単なる信仰心に比例するものではないのか。この言葉は要するに彼らに対して論理的な反駁や質問を投げかけたときに、ある種の避難経路として使われるものにすぎない。さらに驚くべきことは、四先生よりも私は渡部昇一先生や福田恒存先生、西尾幹二先生の方を深く尊敬している、と言ったとき彼らは「西尾先生たちは思いが足りないから」と一言で斬り捨てたという事実である。要するに彼らの人物評価基準は学者としての能力性や愛国心の有無にあるのではなく、全ては天皇への信仰心の強さにあるのだと言ってよい。しかも、その天皇信仰という思想(ドグマ)そのものも元を辿っていけば谷口氏雅春への帰依に行き着くのである。彼らはまたいつ何時も天皇陛下が今何を考え、何を思ってらっしゃるかを考えて日々生きていけ」と説き、それこそが天皇陛下の大御心に従った正しい生き方である、と説く。かつて彼らのあまりにも度が過ぎた天皇信仰に嫌気が差した私は一度日青協幹部の一人に「『もし天皇が無辜の日本人に対してサリンを撒け』と命令したらその大御心に従いあなた方はサリンを撒くのか?」と敢えて過激に問うてみたことがある。そのとき彼らは本気で答えに窮したのであった。真に天皇陛下を敬うのであれば命を賭してでもそれをお止めするのが真の保守主義者の務めではないのか。思想や哲学といったものはあらゆる状況下においても耐えうるものでなくてはならない。単なる盲目的信仰と洗練された思想の違いはここにある。単なる右翼と保守主義者の違いもここにある。付記しておくならば、この質問を機に私は文化会議と完全に袂を分かったのである。
 
また彼らは日本青年協議会内部において昔の生学連の子弟たちへの態度と、私のような彼らの組織の二世ではない人間への扱いをいつまで経っても明確に分けていることも指摘しておきたおい。これは特に日本会議(日本青年協議会が事実上動かす組織で、実態のない空気のような組織)に当てはまることなのだが内部(日本青年協議会)で語っていることと外部の団体に語ることが往々にして異なることが多いのである。つまり外部団体には表面的には丁寧な態度を取る一方で内情はまったく以って明かさず、谷口雅春信仰のことや天皇信仰のことについては必死に隠そうと務めるのである。この事実からも彼らが愛国心の多寡というよりは、結局のところ谷口雅春への信仰心の有無によって相手への態度をすべて変えていることがわかるだろう。
 
以上、私がかつて文化会議に所属し日青協の内情について知りえたことを記してきたわけであるが、本論考からこの組織の特徴として、大きく三つのことが分かるのではないだろうか。すなわち、
1、 組織の運営全てにおいてドグマに基づく独善性で貫かれている
2、 カルティックなまでの天皇崇拝・信仰を下に動いている
3、 1,2の行動・信仰も全ては谷口雅春への帰依が元になっている

1については宗教であれば得てしてどれも同じことなのであろうが、先にも指摘したようにその教義を他者に対して強制的かつ執拗に押し付けてくるか、こないかという点で大きく違ってこよう。彼らはあくまで「宗教ではない」と言いながら徐々に徐々にその信仰・教義を植えつけてくるのであり、それを一般社会では「カルト」と呼ぶのである。(『マインドコントロールの恐怖』などを参照)

2についてであるが、英米系保守主義の伝統に立脚する私としてはやはりどうしても個人的にはついていけない思想である。日本史における天皇家というものを考えてみたとき、それが伝統的な日本の文化・連続性の象徴であり、将来の日本国の存続・秩序の安定にとってなくてはならない高雅な存在であることは確かである。しかしそれが天皇陛下への個人崇拝になってはならないし、それこそあのソ連のスターリン崇拝や北朝鮮の金正日崇拝と同質のものになることが決してあってはならない。あくまで立憲君主制のもとでの統治を私は支持するものであり、戦前の2・26事件のような悲劇を二度と繰り返してはならないと考えるのである。

3に関しては、「全ての人間が神の子であり善なる心を持っている」という教義一つをとってみても全く以って納得のできないものであり私は谷口雅春の教えを絶対に信じる気にはなれない。埼玉の女子高生コンクリ詰め事件の犯人などに見るように、一部の人間はやはり途方もない残忍性、凶暴性をもって生れてくる。こういった厳然たる事実を谷口雅春の教義はどう説明し、納得させてくれるのだろうか。
 
そして最後に指摘しておかねばならない何よりも重要な問題は彼らの教義には確固としたアンチの思想が成立しえない、という点であろう。未だに徹底した暴力革命を目論む日本共産党や日本を心の底から憎悪し、日本国の消滅を願うカン・サンジュンのような一部の在日勢力とは断固として戦闘を続けていかねばならない。彼ら日本青年協議会の信仰心の論理でいけば日共などもまた同じ神の子となり、徹底的に闘っていくことが不可能と
なる。(然るに今回の謀略FAXや謀略メールを見ていると、彼らのダブルスタンダードが見え隠れするのだが・・・)とにかく共産主義思想などは時に愛国主義の仮面を被りながら国家を知らず知らずのうちに内部から蝕んでいくところにその恐ろしさがある。彼らの信仰が共産主義系の団体と相容れない理由はただ一点、マルクス・レーニン主義といったイデオロギーが決して君主制、すなわち日本で言えば「天皇制」を認めないという点からであろう。彼らと話をしていていつも思うのは共産主義そのものへの反発・義憤がないということである。仮に天皇を中心とした共産社会を目指すなどという戦前のような特殊な共産主義者が出現した場合彼らがなびく可能性がないとは言い切れないのではないだろうか。
 
今回の一連のつくる会内紛の問題において幸か不幸か世に判明したことは四人組が一つの宗教心から連帯しており、それを支える日本青年協議会及びその日青協がその中枢部を支配する日本の保守界の大御所と一般には思われている日本会議そのものが特定の宗教右翼の影響力の下にあるという恐るべき事実であった。西尾氏も書かれているとおりこの日本国がこの先永遠の繁栄を築き、その高貴さを永続させていくには日本保守界を特定の宗教右翼ではなく真の保守主義者たちの手に取り戻さねばならないのではないだろうか。
 
以上私が実際に体験した諸事実からこの度の論考を進めてきた。仮に事実と異なることがあれば提示して頂きたい。また読者の中には今回のつくる会内紛や私の論考が保守派の分裂を招き、憲法改正や皇室典範改悪反対など日本国の存続にとって急務となっている諸問題の進行が停滞してしまう、と危惧される方々も多いかもしれない。しかし、今回あの四人組が自らの信仰心に基づいた宗教的連帯を守り通すためだけに、一度は祖国再生のために志を共にした西尾氏らに対しあの卑劣極まりない謀略メールや怪文書をばら撒き、つくる会の内紛を引き起こしたという恐るべき事実を事実として受け止める勇気を時に人は持たねばならない、と私は考える。それゆえに今回私はあらゆる誹謗中傷を覚悟の上で筆を取ったしだいである。
       (文責・京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程一年
 早瀬善彦)
4/24 追加
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私には難しいことはよくわかりませんが、ここで西尾先生に対して抗議をなさっている方に申し上げておきたいことがあります。
コメント欄に生長の家関係のかたがおられ、西尾先生が生長の家を否定していると捕らえられ、短絡してお怒りになっているようですが、昨日の分だけ見て、岩田さんの言葉だけにカッカとなっておられます。でも、今回の騒動の顛末はもっと広い、異なった視点からとらえるべきで、本質を見失ってはいけないと思うのです。
今回の顛末を最初から読んでおられるでしょうか?怪メール事件も読まれましたか?
つくる会事務局長人事の混乱において、最初に日本会議や、日本政策研究センター、神社関係の組織名を出し、俺をやめさせればこれらの団体の協力が得られなくなるぞと言い出したのは宮崎前事務局長その人でした。
11月の理事会で、仲間がそろって事務局長を助けようと立ち上がった。その背後にどういう仲間であるかを探っているうちに、日本青年協議会など宮崎前事務局長に縁の深い団体等々、色々なことが判明してきたのではありませんか?
つくる会内部のことなのに、外部の圧力をあてにする人々が最初からいなければ、ことはこんなに大変なことにはなっていませんでした。
そしてまた、退会を宣言された西尾先生の元に、怪文書さえ届かなければ、ここまで解明しようとする気持にもならなかったでしょう。怪文書を出しているのは誰ですか?産経新聞に西尾先生を貶める記事を書かせたのは誰ですか?その人たちのしていることは正しいのですか?正しくないことを容認してまで、西尾先生を非難されるのですか?
つくる会にはいろいろな宗教団体が協力をしてくださっていて、私はそのことはそれで、とても有難いことだと思っています。ただ今回のように、宮崎前事務局長が、つくる会という独自の会なのに、自分の背景の団体をバックに、会の独立を犯し、自分の利益を守ろうとしたことが問題の発端なのです。(詳しくは「つくる会顛末記」に書かれています)

どなたかがおっしゃっているように、団体の意志としてそうなさったのかどうかはわかりません。しかし少なくともその威光をかざした人間がいたという事実、それにびびった会長がいたという事実、他団体の影に怯えなければならなかったという事実があります。
保守系にはいろいろな団体の、いろいろな運動があり、それはそれぞれ大切なものであると思います。しかし、それらの一つが他の団体の主権を踏みにじり、人事案件に関与し、どちらかの団体が親分で、どちらかの団体が子分のような関係になってはいけない。西尾先生はそのことの違和感から、出発されているように思います。
大切なことは、各団体の独立を尊重し合うことです。つくる会も小さいながら独自の団体であり、協力関係は距離をもってやりたいと言っているのです。人間はできるだけの自由を自分にも他人にも保証できるようにしなければならないということです。数をたのんで脅したり、理不尽なことを通すために怪情報を流したりという不正にはきちんと向き合ってそれらを許さないことです。たとえそれがどんなに危険で、孤独で、困難でも。

ここで、西尾先生にお別れを宣言なさっている方は、怪情報を流すような人々をこのまま許せとおっしゃるのでしょうか。つくる会の人事案件を内部で収束させようとしたのに、外部に持っていって圧力をかけた人たちがいるのに、その罪を責めずに目をつむれとおっしゃるのでしょうか。そして外部の団体の人たちは黙っていますが、何の責任もないのでしょうか。
私はそれらの団体こそ、こんなことをする人間は破門する、あるいは、自分達の組織の名を騙らないでくれと、言明するべきだと思っています。
最後にもうひとつ申し上げます。西尾先生はどんな宗教もその信徒の方々も、神社も、神主さんも、みなさんに感謝こそすれ、批判などしておられないと思います。ただ、宗教家の方々や信徒の皆さんを束ねている「事務局」に問題があると暗示なさっているのではありませんか。そして、その「事務局」が特定のむかしの学生政治運動組織に牛耳られかかっているのが、一番の問題ではないかとおっしゃっているのではないでしょうか。
それぞれが、自分の関与する場において、今回のことを契機に反省をしなくてはならないと思っています。
Posted by: 長谷川 at 2006年04月24日 13:56

今回の事件の根本にあるものは、現代人が陥りやすい宿命だと断定しても過言ではないのかもしれません。つまり、つくる会はいったい何の為に存在しているのかという単純な理念からどんどん離れてしまっていく様を、執行部は自身の言動によってそれを現してしまったと言えるのかもしれません。本来は国民の民度を高める教育の一端を担うことに心骨を注げばよいものが、いつしかその理念は空洞化し、活動の為の活動に化けてしまったと言えます。それは西尾先生にとっては自身の思想の世界では怠惰の分野に位置する行動であり、絶対に許認できるものではないのです。
1976年に出された「地図のない時代」という西尾先生の本にこんな節があります。
<引用開始>
P44から抜粋(ニーチェの言葉から始まります)
「彼らもやはり働く。というのは、働くことも慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。彼らはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もう誰も統治しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。牧人は存在しない、存在するのはただ一つの蓄群である。すべての者は平等を欲し、平等である・・・」 「彼らはみな怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だから彼らはたえず嘲笑の種をみつける。彼らも争いはする。しかしすぐに和解する-そうしなければ胃をそこなうからだ」
(中略)
彼の言おうとしているのは、およそ次のようなことであろう。人間は昔より多く理解し、多く寛容になったかもしれないが、それだけに真剣に生きることへの無関心がひろがっているともいえる。すべての人がほどほどに生きていて、適当に賢く、適当に怠け者である。それならば現代人には、成熟した中庸の徳が身にそなわっているのかというと、けしてそうではない。互いに足を引っ張り合い、すきを見つけて互いに他人を出し抜こうとしている。権威ある者を嘲笑し、すべての人が平等で、傑出したものなどどこにもないと宣伝したがっている。それなら本気で、権威と敢然と闘おうとしているのかというとそうではない。本当に他人と争うのかというとそうでもない。彼らはすぐに和解する。「そうしなければ胃をそこなうから」である。
<引用終わり>
1976年といえば西尾先生が41歳です。現在の八木氏とほぼ同い年です。私は詳しく八木氏の生き様を認識しておりませんが、一言言えるのは、上に引用した言葉と相対して、西尾先生はこれまで戦い続けて来たのは間違いないと思います。こうした一貫性はけして単なるこだわりと片付けられません。それよりも逆に自分を疑い貫き自分を嫌い自分を蔑め自分を逆境に追いやり続けた姿にこそ、真実があります。先生は尚今も戦い続けています。これは半端な行動ではないのです。
しかし、自分を疑う姿勢は同時に他にある良質な因子を受け入れる姿勢でもあるわけです。そうした賭けと言いますか、常に可能性を信じる原動力は西尾先生独自の悲劇を厭わない勇気と覚悟に下支えされていると言えますでしょう。
Posted by: あきんど@携帯 at 2006年04月25日 18:05