阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第六回)

26)自動車や電気冷蔵庫やテレビの普及率の高さは人間の「幸福」とはなんの関係もないし、個人の生き方、あり方の充実というものを離れて「幸福」を考えられない以上、戦争にいたる八十年間は不幸の連続であって、戦後はしばらく幸福で、今また不幸がしのびよっているなどという政治的煽動家に特有の機械論的人間観に私は与(くみ)する気になれない。
 それではあまりに人間の主体性というものがなさすぎるではないか。

27)人間はどんなに不幸な時代にも、幸福を求めるものだし、また幸福になりうる存在なのである。また、外見上どんなに繁栄して幸福にみえる時代にも、いや、そういう時代であればこそ、かえって幸福になることはむずかしい。

28)自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、決して帰属にならない。

29)われわれはつねに複眼を要求される。

30)どんな個人もエゴイズムをもっている。他者配への欲望をもっている。「個人」の解放とは、原理的には、仮借ない自己拡張欲に火をつけることであり、その行きつく先はアナーキズムしかない。しかしまた一方では、個人はつねづねなにかある全体的なものに帰属したいという欲望し支配されてもいる。個人はなにものかに奉仕し、隷属することによって、自分のエゴイズムを滅却し、そうすることで、はじめて、ある精神的な安定を得たいと念願するものである。一方には自我の拡大欲があり、他方には自我の止揚と救済への意志がある。われわれは人間性の根本に根ざすこの二つの相反する矛盾した方向に引き裂かれつつ、自分の生の安定と統一を保っている

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
26) P254上段より
27) P254下段より
28) P282上段下段より
29) P288上段より
30) P295上段下段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第五回)

21)なにか他を見るということは、その外側に目をさらしていることではなく、他から見られている自分を見ることであり、また、見ている自分を見ることを通じて、他を見ることなのである。言うは易いが、まことにこれほど難かしいことはない。

22)人はつねに自分にとって切実なことのみを語らねばならぬ。私には私自身に見えることしか見えない。君がもし、未来の世界についてかくあるべきと確信がもてるなら、そのような世界は、君にとって、生きる価値のない世界であることを知るがよい。もし未来が光輝あるものでなければならないと決まっていたら、君はいますぐ絶望するしかない。一寸先は闇である。だから生きるに値するのである。現実を解釈してはならない。君の隣人が善意でなかったことを怒る前に、なぜ君は自分の悪意に気がつかないか、自分の失敗を社会の罪にする前に、なぜ君は、成功だけは自分のせいにしたがる自分の弱さに気がつかないか。

23)もし現実の不平等にぶつかって腹をたてる人がいたなら、その人の意識はすでに平等である。平等でなければ腹が立つはずもない。

24)民主主義とは、人間相互のエゴイズムを調和させるために、ほかに仕方がないから、ある妥協の方法として生まれた消極的、相対的な政治形態でしかないのである。放置しておけば人間の欲望には際限がなく、エゴイズムの衝突は、必ず無政府状態か専制独裁か、そのいずれかに結果するしかないが、誰しも他人を独裁者にさせたくないという自分のエゴイズムをもっている。民主主義は、そういう相互のエゴイズムの調節手段としての、最悪よりも次善を選ぶ妥協の産物として成立したにすぎない。

25)人間はけっして平等にはなれない存在なのである。西洋ではそれは常識である。不平等を是認したうえで、それぞれが閉ざされた幸福を築くことをめざしていない日本のような社会では、優勝劣敗は歪んだ心理で意識下にもぐり、ただ欲求不満だけがときとして正義の仮面を被って他人への羨望の焔(ほのお)に身を焼きつくすことになろう。

出展 全集第一巻 
21) P221下段より ヨーロッパ像の転換
22) P225  ヨーロッパの個人主義
23) P235下段より ヨーロッパの個人主義
24) P241上段より ヨーロッパの個人主義
25) P244下段より ヨーロッパの個人主義

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第四回)

16)博物館とは、文化形成の行為にではなく、行為の結果としての業績にのみ文化を求める非文化的文化意志の代表作であれば、美術館は、美が創り出される動きよりも、動きの結果としての作品に、美がア・プリオリに内在しているという錯覚信仰の上に胡坐をかいている。

17)そもそも、「自己」をもたないような人がいくら経験を積んでも、さもしい話題さがしの、薄っぺらな体験崇拝に終るだけであることは明瞭であるにしても、今度は逆に、「自己」などというものをおよそ容易に信じている人には、経験によってなにかが新しく開かれるということも起こり得ない。

18)西洋の芸術に関する限り、不思議なことに、知識をもっている日本人ほど感動と感傷とを混同する。この人はおそらくパルテノンをまだ見ぬうちに、飛行機で羽田を飛び立ったときに、すでに「感動」していたに違いないのである。

19)近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

20)「個人」などというものに何の確かさもない。「自己」などというものほどあやふやなものはない。そういう自覚を持つことによってはじめて、自立の何であるかという予感に接することが可能となるであろう。

出展 全集第一巻ヨーロッパ像の転換
16) P168上段より
17) P172下段より
18) P173頁下段より
19) P191上段より
20) P218下段より

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第三回)

11)自己をもってしか自己を測らぬというその自己中心的な態度の徹底こそ、われわれが学ばなければならぬヨーロッパの精神の型なのである。

12)外国人がわれわれの文化を好意をもって評価することがあるとすれば、それは彼らのためであって、別にわれわれのためではない。外国人の日本蔑視にはおよそ関心を抱かず、外国人の日本評価のうちには彼らのエゴイズムを読み取り、どちらにせよ、平然としてすごしていられる冷酷なこころの訓練こそが今われわれにはもっと必要なことであろう。

13)日本はアメリカと戦ったのではない。アメリカの背後にある西欧の影と戦って、敗れたのである。その結果、日本は自信を喪い、アメリカ人はヨーロッパ神話をついにうち破ったと信じた。

14)自己の弱点と劣勢を正視し、それを厳格に批判することは我が身を切る痛みを覚悟しなければ出来ないことであり、本当に自信がなければ出来ないことである。自己の弱点を別の面の希望や長所にすりかえるのは、女々しい怠惰な精神のなす作業である。

15)自己の弱点を正視することが本当に自信のあるもののなす態度であろう。

出展 全集第一巻 ヨーロッパ像の転換
11) P134下段より
12) P135上段下段より
13) P143下段より
14) P155上段より
15) P162下段より

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二回)

6)ヨーロッパの歴史過剰そのことが不健康なわけではない。歴史を喪うまいとするヨーロッパ人の意識過剰が不健康なのだ。

7)善かれ悪しかれ、われわれ日本人は自己の独自性への執着心がうすい。頑迷な自己愛を賤しむ。

8)ヨーロッパの価値観や美意識の延長線上に成立している日本の近代文化は、自分を測る基準を他文明に求めてしまった以上、自分の過去が自分自身の基準にならないという情けない状況におかれていることは誰にでも見易い事実だろう。

9)文化とは出来上がった過去の遺産のなかにあるのではない。文化とはわれわれの現在の生き方のなかにしかない。過去の文化遺産に価値があるのではなく、過去に対するわれわれの関わり方のいかんで価値が定められるのである。

10)人間にはもって生まれた能力の差がある。資質の違いがある。社会にはそれぞれの役割が必要である。もし不平等を前提として認めた安定社会であれば、日本のように平等意識だけが異常に、病的に発達することはないだろう。

出展 全集第一巻 ヨーロッパ像の転換
6) P92上段より
7) P93下段より
8) P118下段より
9) P119上段より
10) P125下段126上段より

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第一回)

 先ごろ私の旧著から村山秀太郎さんがアフォリズムを拾い出して下さいましたが、どういう選び出し方をなさるかを私は実例文を当ブログで目にする前には知りませんでした。管理人さんに全部お任せでした。

長谷川さんはご自身のブログで次のように書いています。

西尾先生の本から、
短文を選んだアフォリズムの特集?をやった。

これが意外にやっかいで、
私としては出所場所をきちんとしたいし、
一字一句正確にしたかったので、
文字を照らし合わせる日々が続いた。

今回のアフォリズムを選んだ村山さんは
結構自分流に解釈されたりしているようで、
大幅な略があったり、
主語が添えてあったりして、
これを直すのが大変だった。

そりゃあ、そのまま載せれば楽ちんなんだけれど、
西尾先生の文章は「て、に、を、は」まで、
考え抜いて書かれているので、
ちょっとでも変えるのは嫌だったので、
こだわった。

別に仕事でもなく、
義務でもないのに、
でもこれが私の役割だと思って・・・・・・

 阿由葉秀峰さんも同様に昔からの愛読者のお一人で、坦々塾会員です。これから同じようにアフォリズムを拾い出して下さいます。同じように私はお任せで、見ていません。長谷川さんに直送されましたので、これから少しづつ掲示されるのを拝読するのは楽しみです。人により、私がそれぞれ違って顔を見せるのを私自身があらためて眺めるのは面白いというより、不思議な体験になるでしょう。

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム

坦々塾会員 阿由葉 秀峰

 気宇壮大な西尾幹二全集は、大きな論考から、批評や紀行文、数十行の小さな随筆風にいたるまで、全てが文学の香気を醸し、さらにその有機体が纏まって、一巻一巻がそれぞれひとつの芸術としてふたたび昇華している現在進行中の作品群です。読み進む過程で光る一節にあたるたび、はたと立ち止まること屡々です。また、先生ご自身が編集する全集ゆえ、稀有な輝きを放つのでしょう。

 全集第2巻「悲劇人の姿勢」冒頭の「アフォリズムの美学」という昭和44年の論文に、「私はアフォリズムを読むのは好きだが、書いた経験はまだ持っていない。ただアフォリズムを十分に読みとることの厄介さ、読解することの難しさといったことを考えると、これを書くことのある種の危険もわかるような気がする。」(全集第2巻10頁上段)とあります。以降、アフォリズムを多産されてゆくというのに、それを読んだとき、私は何とも言いようの無い不思議な感覚に捉われました。

 エラスムスの云う「文章の短さ、鋭さ、機智、洗練、新奇、含蓄、簡潔さ」の強調(全集第2巻17頁上段)は、現代も有効なアフォリズムの要素でしょう。しかし、私が戴くこの機会は、そういった要素にそれほど捉われず、文章が短くはなくとも、寧ろ流麗さや韻律が感じられる文章、前後の文脈を知らなくても、それのみで独り立ちする文章を選んでみました。「何十年の体験の集積を、わずか数時間でわかってしまおうとするには、われわれは善良すぎる。」(全集2巻11頁下段)という、34歳の西尾先生の警句(アフォリズム)を肝に銘じつつ。

1)私たちは、私たちがこうして批判し、否定している対象そのものの一部であるという視点を見喪ってはならないのである。

2)内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎまい。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。

3)日本人に取り入れられているのは西洋人の平常服です。日本女性は西洋の正装というものを知らない。で、正装が必要なときは和服をきてごまかすわけだけれど、そのうち和服の平常の装いを忘れてしまって、したがって平常着の上に成り立つ正装ということ、逆に言えば、正装という規範がなければ、平常着そのものにも自信がもてないはずだという当然の道理に対し無感覚になってしまった。いいかえれば、儀式によって規制されている日常という、いわば風俗の様式そのものを見うしなったのではないですか。

4)過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものも生れて来ましょう。

5)伝統とは、その中にとっぷりひたっている者には、本来それとは意識できないなにものかを指す言葉なのである。

出展 全集第一巻 ヨーロッパ像の転換
1) P19下段より
2) P26下段より
3) P61上段より
4) P61下段より
5) P91下段92上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十四回)

71)日本人は自分がよくなるためには、社会や国家がよくならなければ駄目だと考えている最後の民族だという。

72)現代は知力はあっても、知性がない時代だ。現代の知性には節度と倫理性と想像力が欠けているのである。

73)なぜ明治以来、日本ではキリスト教は知識階級の愛玩物以上のものになりえないのか。(中略)キリスト教的な因襲や風俗の生きてないところに信仰は可能かだろうか。人間はさほどに純粋なものだろうか。さほどに抽象的に強いものだろうか

74)(ヨーロッパ)過去の文化遺産へのしつこさには・・・・・しだいに鬱陶しくもなってくる。

75)人間の弱さ、みじめさを知っているキリスト教が、したがってその弱さ、みじめさのために、かえってあのような過剰装飾、生きている人間の権勢欲念の表現に赴くのはなんという逆説であろうか。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
71) P362下段より
72) P369下段より
73) P432下段より 掌篇留学生活から
74) P488下段より 掌篇ヨーロッパ放浪
75) P499下段より 掌篇ヨーロッパ放浪

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)

66)自由とは役割を知ること。自己をつつむ共同体の力学全体への最大の想像力を働かせつつ、その枠のなかで自己の役割に徹し、自己の利害と全体の利益との調和のなかに自由を見出していこうとする忍耐強い意志。

67)人間は自己を統御するなにものかを持たないかぎり、自らの力だけでは、自己自身をよりよく統御することさえもできない。

68)人間への信仰、・・・・・進歩への希望、「解放」という概念はことばの厳密な意味においてエゴイズムのはてしない拡大とアナーキーにしか通じていない。精神的なアナーキーと全体主義は一つの事柄の二面である。

69)ヨーロッパには、進んでいることは価値ではない。むしろ場合によっては悪である、という思想がある。

70)疑ってばかりいてはなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信じる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
66) P339上下段より
67) P338下段より
68) P338上下段より
69) P348下段より
70) P349下段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十二回)

61)ドイツとイタリアは、・・・・極端に細分化された地方分権意識をもっていた。(中略)民族統一が、排外的ナショナリズムの理念を必要とせざるをえなかった。

62)意識的に全体感情が強調されるということは、すでに「全体」が失われた証拠。

63)善かれ悪しかれ、日本は素朴な平和民族であり、自己完結の小世界である。お人好し集団が冷たい風に当たれば、たちまちカッと逆上するし、敗北すれば萎縮してもう手も足も出ない。

64)われわれ(日本人)は外国を「敵」として意識するよりも、「師」として意識することのほうが多く、(中略)文化的に劣った野蛮民族との闘争や戦乱からははじめから免れていていたのである。これも「海」の果たした役割である。

65)処罰する力のない弱い体制は、成員を保護する力においても弱い。成員にしっかりした保護を与える体制ほど、異端者や反逆者への加虐性も遠慮なく強まることになる。

出展 全集第一巻ヨーロッパの個人主義
61) P327上下段より
62) P328下段より
63) P330上段より
64) P332上段より
65) P337上下段より

村山秀太郎が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

56)日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。

57)日本人・・・・・・は行動というものをつねに一種のスポーツと考え、当意即妙に、現実に適応する爽快な遊戯精神はそこからは出てこない。(中略)欧米人の・・・・・仮面の裏に、いつでも人をも私をも傷つける強靭な合理主義の刃が顔をのぞかせているのは行動の規範が他人への見栄にではなく、自己への誠実さそのものにもとめられているからにほかならない。

58)ヨーロッパ社会では・・・・人間同士の横のつながりに、もう一つの重直の軸が置かれている。

59)われわれは、これまで、つねに、個人であり過ぎるか、日本人であり過ぎるか、そのいずれかでしかなく、両者の契約的な、仮説的な、とらわれのない、自由な関わり方をどうしても身につけることじゃできなかった。

60)部分が全体を目的とせず、全体が部分を圧殺しないこの自由な関わり方は、(中略)ヨーロッパ・キリスト教世界全体をささえるあり方であるともいえるだろう。

出展 全集第一巻ヨーロッパの個人主義
56) P307上段より
57) P310上段より
58) P313下段より
59) P324下段より
60) P325下段より