日本人の世界を見る盲目性
外の世界を見る日本人の眼に、良くいえばある甘さ、悪くいえば黒幕のかかったような外光拒否の盲目性があるのではないか、と思わせることは他にも多々あり、敏感な外国人がときどき気がつき、指摘してくれます。
昭和11年にユダヤ系の哲学者、カール・レーヴィットが日本に亡命し、東北大学で教鞭をとりました。有名な哲学者で、戦後よく読まれ、翻訳本も多く出ています。
レーヴィットは日本に来る前に、ある日本人数学者と知り合いになっていました。仮にK氏と名づけておきます。K氏から、ドイツ語で書いた論文の文章を修正してもらえないかと頼まれました。外国語で論文を出すときには誰でも必ず現地の人に見てもらいますから、これはごく普通の依頼です。
K氏は、ドイツで刊行される数学の専門書に参加するようドイツ人同僚から誘われていたのです。その専門書にはドイツ人、イタリア人、日本人の数学者がそれぞれ一篇ずつ論文を寄稿することになっていて、K氏は共著に誘われたことを非常に名誉と感じていました。
そこで自分の論文に序言をつけ、「3人の数学者の協力は日独伊の間の政治的三角形を学問の側からも補強するようなものにしていきたい」との希望を表明していました。そして序で、アインシュタインに対する自分の最高の尊敬の意を申し添え、序言の結びに、文章の修正を助けてくれたレーヴィットへの謝辞も付け加えてありました。K氏は、レーヴィットがユダヤ人であることを知っていました。
これを読んだレーヴィットは
「わたしの名前は消した方がよいこと、アインシュタインについてのあなたの文を印刷すれば、あなたのドイツ人の同僚にかなり厄介なことがもちあがるであろうこと、この2点をわかってもらおうと私がやってみたとき、悪意のないこの人の理解力は突然に停止してしまった」(カール・レーヴィット『ナチズムと私の生活』秋間実訳、法政大学出版局)
K氏は、思ってもいなかったことを言われたときに人が呆然自失するあの心境のなかに突如、置かれたのでした。アインシュタインがユダヤ人で、もうドイツで教鞭をとっていないことはすでに知られていました。
しかし数学のなかで暮らしていた彼には、アインシュタインの名前が当時のドイツで現実にどういう意味をもっているかを、一度もはっきり理解しようとしたことはありませんでした。それほどに自分の専門の外に出ようとしない人なのに、何ということでしょう!日本の目指す東アジアの新秩序に、深い理解を持つ国がドイツとイタリアであるということだけは新聞から読み取っていて、心から共感していました。
当時の日本の知識人の世界理解はおおむねこの程度であった、とレーヴィットは言うのです。彼は「ある日本的な単純さ」と呼んでいます。
ドイツに利用された日本
この逸話は、私にはとても示唆的に見えます。当時もいまも、日本人の世界を見る眼は多かれ少なかれ、数学者・K氏の「単純さ」を引き継いでいる処があるように思えてなりません。日本が盲目的に戦争に突入したのも、戦争が終わったら今度は亀の甲に首を引込めるように自閉的になってしまったのも、どちらもK氏の「単純さ」のようなものが日本の政治を動かしてきた結果ではないでしょうか。
なにも数学者だからかくも非現実的なのではありません。日本が日独伊三国同盟を結んだとき、ドイツはすでに忍び寄る敗色を漂わせていました。往時の日本外交の拙劣さは、外の世界のさまざまな差異、対立、力点が見えなかったこと、無差別で見境いがなかったことに尽きるように思えます。米英両国は永い間、日本をヨーロッパ政局とは切り離し、別扱いにしていました。
日本がドイツと盟約を結んで以来、態度を急変させ、もうその後、いかなる交渉を求めても、ハル・ノートまで一直線に進んだのです。そのドイツは日本を尊敬していたのではなく、太平洋で米国と戦わせ、ヨーロッパ戦線でのドイツの負担の軽減を狙っていたに過ぎません。日本は、追い詰められていたドイツに利用されただけの話です。
ところが日本の政治は、この現代においてなおK氏のいわゆる「単純さ」をほとんど克服していないように思えてなりません。
どういうわけか日本人は、「非政治的」であることを自己の美点の一つのように思いなす弊があります。人前で政治信条を表明することは野暮ったいことで、日常会話から外し、中立、不偏不党であることを知的優越のように思いなしがちです。会社で政治上の論争はほとんどしません。これは動乱の時代にかえって人を危うくし、国家の方針を狂わせます。
アメリカのオバマ大統領が広島を初訪問することに決した、と報じられました。日本では早速、「歴史的決断」とこれを評価し、核兵器のない時代に一歩でも近づく世紀のセレモニーを唯一の被爆国の名誉にかけて成功させなければならない等といいます。新聞は、日米関係はこれをもって新段階に入ったとはしゃぎ気味です。
オバマ大統領の八年間の評価は低く、現在の世界の不安定の相当程度に彼の無能に原因があります。何といっても同盟国を軽視し、仮想敵国に融和を図るその腰のぐらつきは困ったもので、日本、イスラエル、トルコ、サウジアラビア等をいたく不安がらせました。
対米不信はさらに広がり、イギリス、ドイツ、韓国を習近平のシナ帝国に走らせ、オーストラリアもその意向を迎えて日本の潜水艦を買わぬこととし、南シナ海で短刀(ドス)で脅かされているに等しいフィリピンまでが、親中派新大統領を選びました。アメリカの嫌がる安倍総理のロシアへの接近も、親米一辺倒の昔の自民党なら考えられぬことです。
つづく
Hanada-2016年7月号より