本の表題

本の表題  追想40年 『正論』」創刊40周年記念号より 

 1973年はまだ私がかけ出しの文藝評論家だった時代である。処女作にあたる二冊のヨーロッパ論のあとの三年間に私が出した単行本は、『悲劇人の姿勢』(1971年、新潮社)、『情熱を喪った光景』(1972年、河出書房新社)、『懐疑の精神』(1974年、中央公論社)、などだった。どれも大まじめに付けた表題で、これで通用したのだから、今思うと不思議である。

 不思議と言ったのは私ではなく、最近ある編集者が今どきこんな題では本は出せない、まして若い評論家の自己主張の本にしては余りに否定的なトーンの表題で、読者受けしない、と言われてそんなものかと思った。しかし、世界や日本を否定するトーンの表題を私はその後もいっこうに改めなかった。『地図のない時代』(1976年、読売新聞社)、『智恵の凋落』(1989年、福武書店)、『日本の不安』(1990年、PHP研究所)、『自由の悲劇』(1990年、講談社)、『日本の孤独』(1991年、PHP研究所)、『確信の喪失』(1993年、学研)・・・・といった具合である。世界を否定的に語ることで自己を主張し、同時にそれが私の世界肯定の思想になるという逆説は、私にとっては生得的な何かであるのかもしれない。

 問題は私がそうした題を掲げるのを好んだことではなく、それが広い読書界で広く迎えられたかどうかは別としても、少なくとも許されたということである。否定がじつは肯定になるというアイロニーを理解し、愛好する一定数の読者に私が恵まれたことである。

 1979年に小林秀雄氏が『感想』という表題の評論集を出されて、私は日本経済新聞に頼まれてこの本の書評を書いた。内容よりも、表題に私はど肝を抜かれた。老年になっても私はおそらくこんな堂々たる題を付けた本は出せないだろうな、と予想したが、その通りになった。私がかりにいま『感想』という書を出せばどことなく滑稽にみえるだろう。で、私が本年出した評論集の題は『憂国のリアリズム』(2013年、ビジネス社)ということになる。世界と日本を否定するトーンの表題は行き着くところついにこういう仕儀に立ち至った。否定だけで肯定を含意した今までの打ち出し方はもう出来ない時代に面し、「憂国」という否定語に、「リアリズム」という肯定的主張語を組み合せざるを得ないことになったのだ。

 ものを書き始めた1960年―70年代初頭に、私は『新潮』『自由』『文学界』『季刊藝術』『批評』などに依拠していたが、丁度そのころ新左翼の出現と学生の反乱に危機感を深めた保守系知識人が日本文化会議を立ち上げ、その流れで1969年5月に『諸君!』が、73年10月に『正論』が創刊された。私も自然にそこに名を列ねるライターの一人となっていくが、当時世界や日本を否定するトーンの表題を自著に好んで付けたのは、この政治的流れと無関係ではないものの、それと必ずしも一致するものではない。私以外の世の多くの保守系論客は世界と日本を最初から力強く肯定的に語っていた。私が否定的に語ったのは、自分を否定することにつながり、自分を否定する契機を経ずして、世界や日本を簡単に肯定的に語っても、私の精神は伝えられないと考えたからである。

 当時の言論界は、何を語るかではなく、どう語るかつまり語り手の倫理的動機がたえず読者に意識され、共有されていた。政治や世相を語っても、単に政治や世相を事柄として語るのではなく、語り手の精神の高さがどの辺にあるのかが同時に問われていた。そういうことを気にしないで、乱暴に、人生の安易な生き方、面白い考え方を説いて読者を喜ばせる一方の人もいるにはいたが、政治や世相をどう考えどう論じたかではなく、論じた人の精神の高さがある意味で勝負だった。文章に現れた人品が問われることを書き手はつねに知っていなくてはならなかった。読者は本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題だった。当時の言論界はまだ小さく、書き手と読み手の間の交流が感じられ、ある意味で関係は「私小説的」だった。小林秀雄が『感想』というほぼ無題のような評論集を出すことが可能だったのは、この精神的空間のゆえである。

 小林は自己表現の「自己」をいつも問題にした。自分を生かそうと敢えてしたときに自分は生きない。小林はだから「無私」ということを言った。福田恆存は自我の芯を剥き出しにして戦ってはならないとつねづね語った。自己の「隠し場所」が必要である、と。自己ほど手に負えないものはない、は福田の口癖だった。私が世界と日本を否定するトーンを表題に選んだのも、そこに関係があるのだが、私は「自己」を否定することで自分を生かそうというこわばった意識に囚われてきた点でまだまだダメである。「憂国のリアリズム」ではまだまだ青臭い。

 けれども今の言論界には語り手の精神を問題にする空気はもはやない。情報の量や出所がきめ手になった。素人でも新しい情報さえ手に入れれば言論界の主役になれる。どう語るかよりも何が語られるかだけが中心になった。勢い、本の表題は題材主義となり、過激になるか、長たらしく説明的になるかのいずれかになりがちである。

テレビ出演のお知らせ

 10月20日(日)放送「新報道2001」に出演します。

 今週、靖国神社例大祭が催され、安倍首相は近隣諸国に配慮して、靖国参拝の自粛を検討されているようです。しかし韓国は、日本からの歩み寄りの姿勢に一向に応じる気配を見せず、日韓関係修復への道のりが長期化するのではないか、と懸念が高まっています。

 フジテレビの「新報道2001」では、「日韓関係修復への道~なぜ韓国は喧嘩を持ちかけてくるのか~」をテーマに、討論を行う由にて出演を求められました。支障のない限り、出る予定です。

 出演日時 10月20日(日)午前7時30分~午前8時25分頃まで(生放送)

宮崎正弘さんの出版記念会

 本年(平成25年)10月4日午后6時30分より、市ヶ谷ホテルグランドヒルにおいて、宮崎正弘さんの出版記念が行われました。

 発起人代表として私が僭越ながら最初に祝辞を述べさせていただき、次いで熊坂隆光産経新聞社長の祝辞があり、呉善花氏、日下公人氏と挨拶がつづき、村松英子氏の音頭で乾杯がなされました。そのあと宮崎氏自身の謝辞があり、しばらく休憩食事となりました。

 スピーチが再開され、じつに賑やかで豪華な顔触れでした。井尻千男氏、加瀬英明氏、池東旭氏、中村彰彦氏、高山正之氏、宮脇淳子氏、黄文雄氏、ベマ・ギャルボ氏、田母神俊雄氏、水島総氏、堤堯氏。ここで時間切れとなり、予定されていた各種エキジビションはとり止めとなりました。最後に花田紀凱WiLL編集長が中締めを行い、藤井厳喜氏の元気のいい三本締めで8時30分にお開きとなりました。

 しかしこれで終わらず、有志40名余が10時30分ごろまで同館内の別室で二次会を行い、カラオケ大会を開き、田母神氏の自衛隊を讃える(女性には聞かせられない)歌が拍手喝采でした。

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 さて、私の冒頭の祝辞は、次の通りの内容です(全文)。

宮崎正弘さん、おめでとうございます。

 今日は宮崎さんの現代中国研究の恩恵をこうむり、感謝し、かつ感嘆している方々がここに多数お集まりだろうと思います。私もその一人です。宮崎さんの中国研究はすべて自ら脚で歩いて、見かつ聞いた現地情報を基本とし、それに中国語、英語のメディアからの驚くほど多数の情報をもの凄いスピードで日夜読みこなし、あの有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」――本日10月4日で4037号を数えますが――にほゞ毎日、旅行中以外は休むことなく、ときに同じ日に2度3度と出すこともあり、ここで確認した情報をさらに整理し、ご自身の文明観や国際政治観を書き込んで、次々と本を出され、今日ここに160冊目となる一冊「出身地を知らなければ中国人は分からない」が出て、それを記念し、祝福したく、友人知人がこの場所に相集まった次第です。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は主に21世紀に入ってから書かれたもので、それ以前にも中国論は書かれていますが、この15年ほど広範囲の人々、政界・言論界はもとより、メディア以外にも学者や一般読者にも、中国が日本人にとって重大になるにつれてきわめて大きな影響力を発揮してきました。何より中国の全州に足を踏み入れ、いたるところを踏破し、新幹線ができてくればこれに全線全部乗り、北京と上海しか見ていない新聞記者顔負けの行動力で、どれくらい人の目を開かせ、日本人の知見を広めたか分りません。新聞社の中国特派員が宮崎さんのメルマガを見て書いていると聞いたことがあります。さもありなんと思いました。

 宮崎さん以後、若い現代中国研究家が続々と出現しました。今日お集まりの皆様の中にもいらっしゃると思います。ある人は、世界各地にあふれ出し、欧州アメリカその他をボロボロにするほどに迷惑をかけている中国人移民の生態とその政治的なトラブルを主なテーマにしています。またある人は中国人労働者、農民工の生活の苦しい内実、ことに中国人女性の暮らしぶりやものの考え方について数多くの観察レポートを書いています。またある人は中国と日本政府、官僚、財界人の不正なつながりに光を当て、中国進出の日本企業の陥った非情なる苦境につい徹底的に追及しています。こうした多士済々な活動は、宮崎さんが一度は何らかの形で手を着け、すでに発言し、展開しているテーマのうちにありますが、しかし宮崎さんひとりでは追い切れない特殊テーマの個別的研究といった体のもので、よく考えると宮崎さんが広げた大きな展開図の中で、単身では及ばなかったテーマの個人的追究といったものであって、宮崎さんはいわば現代中国研究の総合的役割を果してきたのだなと思い至るのであります。後から来た世代は宮崎さんの仕事を横目で見て、それと重ならぬように、そこから漏れたテーマに焦点を絞って、意図的に個別の研究をすすめてきました。宮崎さんの中国ウォッチングはそれらの人々の前提であり、先駆でした。すなわち宮崎さんは黙って一つの「役割」を果していたのだな、と今にして思い至るのであります。

 私自身は中国の現場についてほとんど何も知らず、160冊のご成果のあれこれについて意見を述べるのもおこがましく、今日お集まりの方々から各著作の特質について、専門的見地からの的確なお話が伺えるものと思います。だが、それほど重要な宮崎さんの現代中国探査報告、権力の中枢から市井の人々の呼吸まで伝えているレポートの数々は宮崎さんの著作活動の最初から存在したものではありません。今日入口で皆さまにお渡しした著作リストがありますね。後から前へと制作順が逆並びになっていて、最新作がトップに来ています。

 これを見ますと1971年三島論が処女出版で、中国論が出版されたのは32冊目、1986年です。その一冊からまた飛んで、15年間中国論はなく、次は1990年の28冊目にやっと二冊目の中国論が書かれています。そういうわけで、中国論がたくさん書かれるようになったのは2001年より後です。2001年から今日までの68冊のうち45冊が中国ものとなります。私がお知り合いになったのはそれより少し後です。

 では、それ以前の宮崎さんは何をしていたのか。経済評論家であり、アメリカ論者であり、資源戦略や国際謀略などに詳しいグローバルな動機を基礎に置いた国際政治に関する著作家でした。

 私は成程と思いました。中国語の読み書きはもとより、英語の能力が高い。新聞雑誌の英語をもの凄いスピードで読む。メディアの英語は学校英語と違って、背景の広い国際知識をもたないと読めないもので、難しいのです。びっくりするのは世界の無数の政治家、経済人の名前をつねに正確にそらで覚えている。欧米人だけではありません。中東から中央アジアの政局にも詳しく、キルギスとかトルクメニスタン、あのあたりに政変があると、片仮名で書いても長くて舌を切りそうになる固有名詞をそらで覚えていて、次々と出す。パソコンを片端から叩いて、何も見ていないのでしょう。全部頭に入っている。これにはたまげます。

 宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか? いろいろな人の本を次々と書評もしている。私と同じ時期に送られてくる新刊本、整理べたの私がまだ本の封筒の袋を開けていないときに早くも宮崎さんのメルマガの書評欄にその本の書評がもう出ている。一体どうなっているのか。宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか。ほとんど怪物だと思うこと再三でした。記憶力抜群、筆の速度の天下一、鋭い分析力と時代の動きへの洞察力――もう負けたと思うこと再三でした。

 中国論は世に多いが、経済の理法を知らなければ今の中国は論じられません。また逆に、中国の動向を正確に観察していなければ、今の世界経済は論じられません。宮崎さんの仕事は世に出るべくして出て来たのです。

 昭和前期に長野朗と内田良平という蒋介石北伐時代の中国ウォッチャーがいますが、宮崎さんはどちらが好きで、どちらが自分に似ているとお考えでしょうか。一度きいてみたいと思っています。どちらも愛国者ですが、長野朗は農本主義者で、内田良平は日本浪漫派風の国士でした。私は内田良平のほうに似ているのではないかな、などと考えています。

 宮崎さんは人情に篤い。多くの人のために出版記念会の舞台づくりをして下さいました。私もその恩恵に与った一人です。友人思いです。友人の死はもとより、その奥様が急死なさる――そういうとき彼は自分の仕事を捨てて飛んで行きます。友人のために働き、友のために気配りし、自分のスケジュールを犠牲にしてもいとわない。

 私はいつも思うのです。あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・・・東ニ病気ノ子ガアレバ行ツテ看病シテヤリ」そうなのです。本当にそうなのです。「丈夫ナカラダヲ持チ、欲ハナク、決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ツテイル」・・・・・

 本当にそうなのです。仲間で言い合いがあって、少し激しくなってくると、宮崎さんはいつも茶化すような、思いがけない方角からの茶々を入れてみんなを笑わせ、一座の興奮を鎮めてしまう人です。

 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」・・・・・宮崎さんの場合は玄米ではなく「一日ニ焼酎四合」と言い直したらいいでしょう。そして「少シノ野菜ヲ食ベ」というのは本当で、宮崎さんは飲み出すと物を食べない。これはいけない。健康に悪い。それからもうひとつ煙草を吸いながら酒を飲む。これもいけない。われわれが止めろといくら言ってもきかないのです。

 宮崎さんの生活行動は文学者のそれで、日本浪漫派の無頼派の作家、破滅型の作家のモラルに似ている処があって、そこが心配です。最近は酒の量が少し減っているように見受けます。メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の欄外に飲み歩きの記録、消息案内があるのですが、最近その記事がいくらか減っているようで心配です。二、三年前には、西荻窪から中央線に乗って途中で降りないで眠ったまま東京駅まで行ってしまうようなことがありましたが、いくら何でももうそんな無茶はしないで、大事にしていたゞきたいと思います。

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全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

『天皇と原爆』書評/動画

 文芸評論家の冨岡幸一郎さんが二年も前に拙著『天皇と原爆』に対する書評をYou Yubeで流していることに気がついた。ずっと知らないでいた。遅ればせながら、ここに再現する。時間の短い寸感書評であるが、肝心なとことは捉えて下さっている。冨岡さんありがとう。

頭脳への刷り込みの恐ろしさ

 「新しい歴史教科書をつくる会」は『史』という機関紙を出していて、9月号が通巻100号記念となり、頼まれて次のような巻頭言を書いた。

 総理、歴史家に任せるとは言わないで下さい!
 
 「干天の慈雨」ということばがあるが、民主党政権下でずっと不安な思いをさせられ、いらいらしつづけた私にとって、安倍晋三政権の成立は「慈雨」にも等しいと観じられた。将来への大なる期待よりも、私などはこれで日本は危ういところを辛うじてやっと間に合った、タッチの差で奈落の渕に沈むところだったが何とか「常識」の通る社会をぎりぎり守ってくれそうだ、と、薄氷を踏む思いを新たにしているところである。

 安倍晋三氏が官房副長官であった当時が、『新しい歴史教科書』の最初の検定から採択への試練の時期であった。私は氏に何度もお目にかかり、窮境(きゅうきょう)を救っていただいた。故中川昭一氏とご一緒のところをお目にかかることも多かった。教科書問題とか歴史認識問題に一貫してご両名は関心が深かった。

 安倍氏が第二次政権の安定したパワーで再び同問題を支援して下さることを念願しているが、ひとつだけご発言で気がかりなことがある。「侵略」の概念は必ずしもまだ定まっていない、と正論を口にされたそのあとで、付け加えて自分は判断を専門家の議論に任せるという言い方をなさってきた。大平正芳氏も、竹下登氏も、あの戦争は侵略戦争かと問われて、政治家の口出しすべきことではない、歴史の専門家に判断を任せると言っていたのを覚えている。

 しかしじつはこれが一番最悪の選択なのだ。なぜなら日本の歴史の専門家は終戦以来、自国の歴史を捻じ曲げ、歪め、「歴史学会」という名の、異論を許さぬ徒弟(とてい)制度下の暗黒集団と化しているからである。文科省の教科書検定も、判断の拠り所を「歴史学会」の判定に求めているようである。だからいつまで経っても普通人の常識のラインにもどらない。「歴史学会」は若い学者に固定観念を植えつけ、ポストの配分などで抑え込んでいる。この世界では日本の「侵略」は、疑問を抱くことすら許されない絶対的真理なのである。学問というよりほとんど信仰、否、迷信の域に達している。

 日本史学会のボスの一人であったマルクス主義者永原慶二氏の『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館・平成15年刊)に、「つくる会」批判の表現がある。戦後の日本史学会は東京裁判史観という「正しい歴史認識」に恵まれ、正道を歩んできたのに、「つくる会」というとんでもない異端の説を唱える者が出て来てけしからん、という意味のことが書かれている。はからずも日本史学会は今まで東京裁判に歴史の基準を置いてきた、と言わずもがなの本音をもらしてしまったのだ。マルクス主義左翼がGHQのアメリカ占領政策を頼りにしてきた正体を明かしてしまったわけだ。

 安倍総理にお願いしたい。どうか「歴史の専門家の議論に任せる」とは仰らないでいただきたい。これでは千年一日のごとく動かない。のみならず、北岡伸一氏たちの『日中歴史共同研究』のようなあっと驚くハレンチな結果を再び引き起こすことになるばかりだろう。どうか総理には「広範囲な一般社会の公論の判断に任せる」という風にでも仰っていただけないかとお願いする。

 旧左翼(マルクス主義史観)とアメリカ占領軍(東京裁判史観)が裏でしっかり手を結んでいたことがこのところ次第にはっきりしてきた。ルーズベルトがスターリンの術中にはまっていて、アメリカは戦後すぐに東欧でもアジアでも共産主義の拡大に協力的ですらあった。今の中国はアメリカが作ったのである。

 安倍さんは日本が講和後には東京裁判に縛られる理由がないことも、侵略の概念については国際的な統一見解が存在しないことも知っておられるだろう。いつ言い出せるかが課題である。尖閣その他で緊張している間は、しばらく波風は立てられまいが、われわれはあくまで後押ししなければいけない。

 歴史に関する考え方は日本でも世界でもどんどん動いているが、戦後すぐに固定観念を刷り込まれてから、頭にこびりついて、完全に自由を失っている人は今も少なくない。

西尾幹二全集第8巻『教育文明論』の刊行

 いま私の生活の最大部分を占めているのは全集の刊行と正論連載である。この二つを仕上げるために他の小さな仕事は次第に縮小せざるを得ないと思っている。

 全集は資料蒐集つまりテキストの確保にはじまり、編成、校正、関連雑務とつづく。正直、息が抜けない。

 今月20日にようやく第8巻『教育文明論』が上梓される。何のかんのと言っているうちに8巻まで来て、三分の一を過ぎた。

 月報は天野郁夫氏(東大教授)と竹内洋氏(京大教授)の二人の教育社会学者におねがいした。このご両氏と侃侃諤諤の議論をし合った往時(1980年代)が懐かしい。

 まず目次をご覧いたゞきたい。私の45歳から55歳にかけての脂ののり切った10年間の全エネルギーが「教育改革」の一点に注がれたのである。

目 次

Ⅰ 『日本の教育 ドイツの教育』を書く前に私が教育について考えていたこと

 今の教師はなぜ評点を恐れるのか
 九割を越えた高校進学率――もう一つの選別手段を考えるべきとき
 教育学者や経済学者の肝心な点が抜けたままの教育論議
 わが父への感謝
 競争回避の知恵と矛盾
 文明病としての進学熱――R・P・ドーア氏の講演を聞いて

Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育

 第一章 ドイツ教育改革論議の渦中に立たされて
 第二章 教育は万能の女神か
 第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方
 第四章 大学都市テュービンゲンで考えたこと
 第五章 世界的視座で見た江戸時代以降の教育
 第六章 進学競争の病理
 第七章 日本の「学歴社会」は曲り角にあるか
 第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観
 終 章 精神のエリートを志す人のために
 あとがき
 主要参考文献

Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判

 自己教育ということ――『日本の教育 智恵と矛盾』の序
 どこまで絶望できるか
 「中曽根・教育改革」への提言
 経済繁栄の代価としての病理
 矛盾が皺寄せされる中学校教育
 校内暴力の背後にあるにがい真実
 臨教審、フリードマン、イヴァン・イリッチ
 「教育の自由化」路線を批判する
 「競争」概念の再考
 教育改革は革命にあらず――臨教審よ、常識に還れ――
 再び臨教審を批判する
 臨教審第二部会に再考を求める
 臨教審第一次答申を読んで
 なぜ第一次答申は無内容に終わったか
 「自由化」論敗退の政治的理由を推理する
 文教政策に必要な戦略的思考
 「臨教審」第二次答申案を読んで
 大学間「格差」を考える
 飯島宗一氏への公開状
 臨教審最終答申を読んで

Ⅳ 第十四期中央教育審議会委員として

 講演 日本の教育の平等と効率
 西原春夫前早大総長への公開質問状
 大学審議会と対立する中教審の認識
 中教審答申を提出して
 有馬朗人東大学長への公開質問状

Ⅴ 教育と自由 中教審報告から大学改革へ

 プロローグ
 第一章 中教審委員「懺悔録」
  第一節 指導者なき国で理想の指導者像は描けず
  第二節 「教育改革」論議はなぜ人を白けさせるのか
  第三節 答申から消された文部省批判
 第二章 自由の修正と自由の回復
  第一節 「 格差」と「序列」で身動きできない日本の学校
  第二節 文部省文書のスタイルを破る
  第三節 公立学校と私立学校の宿命的対比
  第四節 入学者選抜は「大学の自治」か
  第五節 なぜ地獄の入口に蓋をするのか
 第三章 すべての鍵を握る大学改革
  第一節 混沌たる自由の嵐を引き起こすために
  第二節 私の具体的な大学改革案
  第三節 “競争の精神(アゴーン)”を忘れた日本の学問
 終 章 競争はすでに最初に終了している
  第一節 誰にでも開かれているべき真の自由
  第二節 効率から創造へ
 付 録 学校制度に関する小委員会審議経過報告(中間報告)抄録

Ⅵ 大学改革への悲願
 大学を活性化する「教育独禁法」
 講演 大学の病理
 有馬朗人第十五期中教審会長にあらためて問う

Ⅶ 文部省の愚挙「放送大学」

後 記

小暮満寿雄Art Galleryより

2013年8月16日の小暮満寿雄さんのブログより、許可を得て転載します。

「天皇と原爆」~日本人は宗教に頑固?

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西尾幹二氏の「天皇と原爆」読了しました。

あ@花さんのススメで読んでみましたが、これは大変な名著ですね。
近頃になく感銘を受けました。

西尾幹二氏はニーチェ研究でも知られるドイツ文学者ですが、文字通り知の巨人であり、本書ではその碩学を遺憾無く発揮してるばかりか、ひじょうに読みやすく書かれているます。

「海賊とよばれた男」にもあるように、先の大東亜戦争が石油による戦争だっというのは周知の事実ですが、西尾氏は、欧米の植民地時代まで時間軸を伸ばし、かの戦争はアメリカと日本の宗教戦争だったという見方をしています。

それは天皇を中心にしたわが国の多神教と、キリスト教一神教の戦争という意味であります。もちろん、それが戦争の物理的原因というのではなく、戦争の根底にあったメンタルなものという意味であります。

ここで肝要なのは、わが国の方では、かの大東亜戦争戦争が宗教戦争のつもりはさらさらないということです。
ところが米国側の方は唯一神を頑として受け入れない日本人に対して、苛立ちと憎しみを感じていたというのです。

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さて、以下は本の内容とは少々ズレるところはありますが、よろしければお付き合いのほど。

私たちは日本人というものが、宗教に無関心、無宗教だということを変に信じています。しかし口では「無宗教」と言いながら、正月には初詣に行くし、お社やお寺の前ではキチンと手を合わせる。
挙げ句の果ては結婚式を教会で行い、平気で祝福をするという、一神教の人たちから見ると悪魔の所行に等しい理解に苦しむ行動をします。

これは西洋人の視点から言えば、明らかに無宗教ではなく「多神教」であります。

あちらの無宗教はatheism、無神論であり、「神はいない」とハッキリ否定します。ドストエフスキーの小説にも出てくるような、激しい無神論者は私たちが「無宗教」というのは明らかに違います。

「天皇と原爆」の中には、ある人が米国で宗教について尋ねられたくだりがあります。「何の宗教を持ってるのかね」と聞かれ、「ありません」と答えたら悪魔でも見るような顔をされたというのです。それで、「本当に何も宗教を信じてないのかね?」と聞かれ、仕方なく「仏教です」と答えたら、相手は安心してニコニコしたというのですね。

無神論者は悪魔視されるということですが、これは日本ではありえないことで、ある意味一神教の裏返しとも言えましょう。

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フランシスコ・ザビエルが日本に布教へやってきて、およそ470年になりますが、日本におけるキリスト教徒の数は一向に増えません。

明治時代、人口の1%だったクリスチャンは今でも横ばいと言いますが、それはひとえに日本人の一神教ぎらい、原理主義ぎらいによるものであります。

インドではカーストの苦しみから逃れるために、クリスチャンに改宗した人は多いですが、フィリピンや韓国などは、そういう理由以外で比較的容易にキリスト教化が進みました。
ところがわが国ではキリスト教徒の人口は一向に増えない。

ひとえにこれは一神教に対する拒否反応に加え、日本には古来より天皇という神の存在があったからだというのですね(ただ、天皇の存在に関しては長くなるので、今回は割愛)。

これは本に書かれてないことですが、特定な宗教を信じてない人の中には、新興宗教などに勧誘されると「宗教だ」と引いてしまうのも、そんな一神教に対する拒否感かもしれません。そんな「宗教」に引いてしまう人も、墓参りには行くし、初詣には行くのですから。

ザビエルもアメリカも頑としてキリスト教一神教に染まらない日本人に、苛立ちを感じ不気味さを感じた。それが米国側の憎しみとなって、日本とアメリカが戦争するように方向づけたとありますが、なるほど腑に落ちる話であります。

なわけでこちらは、以前ボツになった仏教本の企画書に使ったマンガです。
いずれ復活させてみせますが、仏教オンリーとはいかんだろうなあ。

今回は本の一部しかご紹介できませんでしたが、「天皇と原爆」は日本人なら一読の価値があります。ぜひお読みくださいませ。

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福井雄三さんの私信「ラスコールニコフとデミアン」

 友人の福井雄三さん(東京国際大学教授)が次のような読後感想の手紙を送って下さった。ちょっとユニークな観点なのでご紹介する。

西尾幹二先生

 西尾幹二全集第七巻『ソ連知識人との対話』読了いたしました。先生が昭和55年7月に中央公論に寄稿された「ソルジェニーツィンへの手紙」を読んだとき、私の心の中で思わずうなり声が生じました。私も彼の作品は『ガン病棟』から『収容所群島』にいたるまで、あらかた読破しております。うまく表現できないけれどこれまで彼に対して抱いていたもやもやした違和感の正体が、先生の文章を読んでいて一刀両断されたのです。

 「近代社会のいわゆる西側の自由主義体制の自由とは、それを決めてくれるものが各個人の心の外にはどこにもないということに他なりません。そういう覚悟が自由ということの内容を決定するのです。人間には善をなす自由のみならず、悪をなす自由もあるからです。それを外から抑制するいかなる手段も存在しません。あなたにはここのところがどうもおわかりにならないようですが、悪をなすもなさないも、決定権は個人の責任に委ねられているのです。それが自由ということです。その結果、社会が自由の行き過ぎで破滅するような事態がかりに起こったとしたら、それはそれで仕方がない、と申す他ないでしょう。無責任のようですが、自由は原理的にはそこから考えていかなくてはならない。もともと危険を宿した概念なのです。いいかえれば、自由は常に試されているといえるでしょう」

 ソルジェニーツィンがソ連から追放亡命後、西側諸国では彼をあたかも殉教者のごとくに持ち上げ、共産主義イデオロギーに戦いを挑む、自由の闘士であるかのごとくに賛美する風潮が一般的でした。日本の多くの文化人たちも例外ではありませんでした。だがしかしハーバード大学での講演に象徴されるような彼の叫びは(それが彼の偽らざる心底からの純粋な本音だったとしても)微妙なズレがあるのです。それに気づいた人は西側にもほとんどいませんでした。西側の多くの人士が彼のその叫びに同調し、拍手喝采したくらいなのですから。彼は自由の意味をとり違えているのです。
 
 これを見ると、やはりソルジェニーツィンは、ロシア革命後のソ連共産主義イデオロギーの中で精神形成がなされてきたのだ、と思わずにはいられません。帝政ロシア自体ツァーリの圧政のもとに呻吟していたのが、革命で共産主義の恐怖政治にとって代わったのは、ただ単に極端から極端へ移行しただけのことです。西ヨーロッパとはおよそ質を異にする精神風土が、革命後も変わることなく、数百年にわたってスラブ民族を呪縛してきた、ということなのでしょうね。その意味では先生の指摘されるごとく、ロシア人の文化的深層心理は、革命の前も後も途切れずに連続しているのでしょう。ソルジェニーツィンのアメリカ亡命後のあのような言動は、彼の背後に横たわる数百年のスラブの歴史がなさしめているのです。
 
 私の母が以前「西尾先生の著書を読んでいると、数学の難問が解けたときのような爽快感がある」と申しておりました。このたびの先生の文章を読んでいて、先生がここまで真贋を剔抉されたのは、まさに神技のレベルに近いものがあります。
 
 私はいまこの手紙を書きながら、ヘッセの『デミアン』の一場面を思い浮かべずにはいられません。主人公の「ぼく」が、ゴルゴタのイエス受難についてデミアンと語っていたとき、彼はそれまで想像すらできなかったことをデミアンから指摘され、気が動顛してしまいます。それは勧善懲悪といった単純なものではなく、なにかもっと得体の知れぬ不気味な、異教的なものでした。それまで主人公の「ぼく」が、当然のこととして受け入れていた価値観を根底から揺さぶり、市民社会の道徳に懐疑を投げかけ、偶像を破壊し、新たな世界へ、すなわちアプラクサスの彼方へと駆り立てるものでした。

 「ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立っているのは壮大な眺めさ。ところがあの馬鹿正直な盗っ人についてのセンチメンタルな宗教訓話はどうだい。はじめ
その男は悪漢でどんなに悪事を重ねたかわからないくらいなのに、こんどはすっかり弱気になって、改心と懺悔のあわれっぽい祭典をあげるんだからね。こんな
懺悔が墓場の一歩手前でなんの意味があるんだろう。これだってまた涙っぽい味とこの上なくありがたい背景を持った、めそめそした嘘っぱちの本格的な坊主の
話というほかはないよ。もし君がこの二人の盗っ人のうちの一人を友達に選ばなければならないとしたら、または二人のうちのどちらが信頼できるかを考えなければならないとしたら、それはもちろんあのあわれっぽい転向者ではない。もう一人のほうだ。そいつは頼もしい男だし気骨がある。転向なんぞてんで問題にしない。そいつから見れば転向なんてたわごとに決まってるんだからね。そいつはわが道を最後まで歩いていく。そしてそいつに加勢していた悪魔と最後まで縁を切らないんだ。そいつはしっかり者さ。そしてしっかりした連中は、聖書の物語の中じゃ、とかく貧乏くじを引くのさ」

 ヘッセはニーチェの一世代下で、青年期に彼の死に遭遇しています。彼自身が「内面の嵐」と呼んだ多感な青春期、彼はニーチェに狂熱的に傾倒し、彼の精神
はニーチェ一色に染まった時期がありました。ヘッセの描いたデミアン像は、ニーチェの化身といってもよいでしょう。『デミアン』は西ヨーロッパのこのような精神史の伝統から生まれた作品だと思います。
 
 これがソルジェニーツィンとニーチェの、つまりラスコーリニコフとデミアンの決定的な違いなのでしょう。この相違はソルジェニーツィンには理解できないと思われます。
 
 暑い日が続きますが、この夏は軽井沢にお出かけですか。近々またお会いしたいです。お元気で。

                                  平成25年8月9日 福井雄三 

 ここにご母堂のことが書かれてあるが、福井さんは鳥取の由緒ある旧家の出で、学識のある立派な高齢のご母堂が単身家を守っておられる。先年私は山陰を旅してご母堂にお目にかかったことがある。それでここに話題をされたのである。

『憂国のリアリズム』アマゾン書評より

閑居人さんの書評です。

素晴らしい内容の書評、ありがとうございました。

「憂国」の一番の敵は、「内なる敵」との戦いである 2013/7/25

By 閑居人

西尾によれば、現在の日本は、二つの外国勢力と戦っている。一つは、言うまでもなく、「アメリカ」である。「日米安保条約」は、独立国日本を引き続きアメリカのコントロール下に置くものであり、その後、70年近く、日本は安全保障をアメリカの「従属国」のままにしている。
もう一つの外敵は、「中国」である。本来、大陸中国は、「戦勝国」ではない。中国共産党は、実質、日本軍と戦ったことはない。ただ、マーシャルらを抱き込んで、アメリカを騙して国民党を台湾に追い出しただけである。しかし、彼らは、国連常任理事国入りと国交回復を果たすと「戦勝国」のように振る舞い、戦後利権にありつこうとする。そしてそれに、第二次大戦を「大日本帝国臣民」として戦った韓国が、戦後、一転して、アメリカ、中国に媚び、日本に対して居丈高に振る舞おうとしている。そして、ときにこの三国は裏で結託して「ジャパンバッシング」をしているように見える。
だが、西尾の本当の憂鬱は、アメリカや中国、韓国といった外敵の日本攻撃だけにあるわけではない。米中が影で何を企もうとも、国際社会の中で主権国家が国益を求めて様々な戦略・戦術を駆使することは、ある意味では当然のことであり、それを止める術はないからだ。
一番の問題は、「内なる敵」なのだ。つまり、敗戦史観を唯々諾々と受け入れて、日本という国家と日本人を貶める日本人の国家意識、歴史認識の問題であり、同時に世界に対する日本という国家ビジョンの欠如、戦略のなさなのだ。
その意味で、本書の根幹を成すものは、著者自身が言うように「第三章 日本の根源的致命傷を探る」であろう。ここで、西尾が展開していることは、西尾が一人の日本人として、どうしても言わずにはいられないことである。

「旧敵国の立場から自国の歴史を書く歴史家たち」

昭和16年7月、日本は南部仏印に進駐した。前年の北部仏印進駐同様、英米の「援蒋ルート」を断ち切るためである。英米の支援の約束を蒋介石は信じすぎた。日本に徹底抗戦していくことが国民党の利益になるとは限らないのに、日本との和平交渉をサボタージュして、それを近衛政権のせいにした。そのシンボルが「援蒋ルート」だった。日本の多くの歴史家が「南部仏印進駐がアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは対日戦争を決意した」と、日本の「暴挙」を非難する。日本が北部仏印に進駐したのは、前年9月。フランスにビシー政権が成立し、そのビシー政権と話合っての南北進駐である。欧米の史家たちは、日本の南部仏印進駐が翌年になったことに驚きを隠さない。通常、迅速に、間髪を入れず行うものである。このことは、1939年9月の独ソによるポーランド分割を見れば、明瞭である。
また、この年の5月、イギリスはデンマーク領アイスランドとグリーンランドを予防占領したが、持ちこたえられないと見ると、7月、「中立国」アメリカが、イギリスに代わって占領し、ドイツ軍を押し返した。日本の南部仏印進駐と同時期であるが、明白な中立違反である。ドイツはアメリカを非難できたが、アメリカ、FDR、ルーズベルトの挑発に乗らなかった。中立国であるはずのアメリカがイギリスと大西洋上での「パトロール」と称する軍事共同行動を行い、しきりにドイツを挑発し続けていた時期である。FDRが戦争参加への機会を執拗に伺っていたことは、戦後、CH.ビーアドが「ルーズベルトの責任」で厳しく批判した通りである。
そもそもアメリカが、日本の軍事的戦略を非難すること自体が奇妙なことなのだ。しかし、半藤一利、加藤陽子のような歴史家たちは、戦後、アメリカが一貫して流し続けてきた「日本軍国主義」対「英米民主主義」の宣伝のまま、「日本軍国主義」の愚かさを嘲ってやまない。「南部仏印進駐がアメリカの虎の尾を踏んだ」彼らは、そう言って笑う。しかし、事実は、FDRは、既に戦線参加を決意していて、モーゲンソー財務長官とともに日本に対して、まず「経済戦争」を仕掛ける切っ掛けを探していただけのことである。一体、彼らの「日本人歴史家の視点」はどこにあるのか。多分、西尾の指摘する通りなのだろう。
「日本の戦後の歴史関係のメディアが一貫して旧敵国の立場から歴史を見ているという、大局を見失った、負け犬の歴史観に立つことを意味するのである」(p150)

「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」

西尾は、言う。「満州事変以後の『昭和史』に限定して日本の侵略を言い立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。」
「大東亜戦争は日本が始めた戦争では決してない。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。」
「侵略と防衛の関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、二十世紀初頭で中国の三分の一と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。」(p162)
そもそも、日本人310万人の英霊が生命を捧げた戦争は、「大東亜戦争」である。開戦後、昭和16年12月12日、日本政府は、シナ事変以降の戦争を一括して「大東亜戦争」と名付けた。その戦争目的の最大のものは「アジアの独立、英米仏蘭の植民地帝国主義の一掃」である。しかし、敗戦後、昭和20年12月15日、占領軍の通称「神道指令」によって「大東亜戦争」「八紘一宇」といった言葉は、使用禁止になり、徹底した言論統制が行われた。

(評者の経験したことを一つ紹介したい。ソビエト崩壊の直後だから、1991年の冬のことだろう。20人余りの高等学校「日本史」担当者に、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」の四つの名称を示し、一番、自分の実感に近い名称を選択させた。その数は統計的な有意差を示すものではないから特に記さないが、「大東亜戦争」を選択した者は一人もいなかった。「神道指令」と占領軍の検閲を知らない教師が全てだった。彼らは、いずれも世間で一流大学と目される大学の出身者である。)

問題は、戦争が終わり、国際条約によって新しい国際関係が開始されても、情報戦争は決して終わることがないということである。竹山道雄の「昭和の精神史」の本来の題は、「十年の後に」である。この題には、戦争の興奮と狂乱の時期が過ぎて、十年の後には、冷静な、多角的な視点からの議論ができるだろうという竹山の期待が込められていた。
残念ながら、公文書の公開が、30年50年というスパンであり、十年ではなかなか真実は分からない。しかし、大きな真相はいずれ明らかになり、日米開戦に際してのFDRの陰謀は、研究者にとって事実としては疑えないだろう。
西尾は、こういった日本人の歴史認識の根本を問うのである。

本書で、西尾は、「皇室」の問題を取り上げる。精神科医は不確かなことに口を挟まないから言わないが、彼等が心の中で感じている「皇太子妃殿下」の病状は「適応障害」ではなく、「人格障害」だろう。しかし、西尾は、限界ぎりぎりの表現をするだけで、皇太子殿下についても「無垢なる魂」と言うのみである。考えて見たらいい。「50歳にして、無垢なる魂」とは、一体、いかなる人格なのか。

西尾が己に律していることは、己の全ての言論表現活動は、この日本という国家の歴史と伝統、その正しきを継承していくためにあるということだろうか。であれば、西尾の禁欲とそれに反する迷い、動揺が、本書の魅力の根底にある。

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憂国のリアリズム 憂国のリアリズム
(2013/07/11)
西尾幹二

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