本の表題 追想40年 『正論』」創刊40周年記念号より
1973年はまだ私がかけ出しの文藝評論家だった時代である。処女作にあたる二冊のヨーロッパ論のあとの三年間に私が出した単行本は、『悲劇人の姿勢』(1971年、新潮社)、『情熱を喪った光景』(1972年、河出書房新社)、『懐疑の精神』(1974年、中央公論社)、などだった。どれも大まじめに付けた表題で、これで通用したのだから、今思うと不思議である。
不思議と言ったのは私ではなく、最近ある編集者が今どきこんな題では本は出せない、まして若い評論家の自己主張の本にしては余りに否定的なトーンの表題で、読者受けしない、と言われてそんなものかと思った。しかし、世界や日本を否定するトーンの表題を私はその後もいっこうに改めなかった。『地図のない時代』(1976年、読売新聞社)、『智恵の凋落』(1989年、福武書店)、『日本の不安』(1990年、PHP研究所)、『自由の悲劇』(1990年、講談社)、『日本の孤独』(1991年、PHP研究所)、『確信の喪失』(1993年、学研)・・・・といった具合である。世界を否定的に語ることで自己を主張し、同時にそれが私の世界肯定の思想になるという逆説は、私にとっては生得的な何かであるのかもしれない。
問題は私がそうした題を掲げるのを好んだことではなく、それが広い読書界で広く迎えられたかどうかは別としても、少なくとも許されたということである。否定がじつは肯定になるというアイロニーを理解し、愛好する一定数の読者に私が恵まれたことである。
1979年に小林秀雄氏が『感想』という表題の評論集を出されて、私は日本経済新聞に頼まれてこの本の書評を書いた。内容よりも、表題に私はど肝を抜かれた。老年になっても私はおそらくこんな堂々たる題を付けた本は出せないだろうな、と予想したが、その通りになった。私がかりにいま『感想』という書を出せばどことなく滑稽にみえるだろう。で、私が本年出した評論集の題は『憂国のリアリズム』(2013年、ビジネス社)ということになる。世界と日本を否定するトーンの表題は行き着くところついにこういう仕儀に立ち至った。否定だけで肯定を含意した今までの打ち出し方はもう出来ない時代に面し、「憂国」という否定語に、「リアリズム」という肯定的主張語を組み合せざるを得ないことになったのだ。
ものを書き始めた1960年―70年代初頭に、私は『新潮』『自由』『文学界』『季刊藝術』『批評』などに依拠していたが、丁度そのころ新左翼の出現と学生の反乱に危機感を深めた保守系知識人が日本文化会議を立ち上げ、その流れで1969年5月に『諸君!』が、73年10月に『正論』が創刊された。私も自然にそこに名を列ねるライターの一人となっていくが、当時世界や日本を否定するトーンの表題を自著に好んで付けたのは、この政治的流れと無関係ではないものの、それと必ずしも一致するものではない。私以外の世の多くの保守系論客は世界と日本を最初から力強く肯定的に語っていた。私が否定的に語ったのは、自分を否定することにつながり、自分を否定する契機を経ずして、世界や日本を簡単に肯定的に語っても、私の精神は伝えられないと考えたからである。
当時の言論界は、何を語るかではなく、どう語るかつまり語り手の倫理的動機がたえず読者に意識され、共有されていた。政治や世相を語っても、単に政治や世相を事柄として語るのではなく、語り手の精神の高さがどの辺にあるのかが同時に問われていた。そういうことを気にしないで、乱暴に、人生の安易な生き方、面白い考え方を説いて読者を喜ばせる一方の人もいるにはいたが、政治や世相をどう考えどう論じたかではなく、論じた人の精神の高さがある意味で勝負だった。文章に現れた人品が問われることを書き手はつねに知っていなくてはならなかった。読者は本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題だった。当時の言論界はまだ小さく、書き手と読み手の間の交流が感じられ、ある意味で関係は「私小説的」だった。小林秀雄が『感想』というほぼ無題のような評論集を出すことが可能だったのは、この精神的空間のゆえである。
小林は自己表現の「自己」をいつも問題にした。自分を生かそうと敢えてしたときに自分は生きない。小林はだから「無私」ということを言った。福田恆存は自我の芯を剥き出しにして戦ってはならないとつねづね語った。自己の「隠し場所」が必要である、と。自己ほど手に負えないものはない、は福田の口癖だった。私が世界と日本を否定するトーンを表題に選んだのも、そこに関係があるのだが、私は「自己」を否定することで自分を生かそうというこわばった意識に囚われてきた点でまだまだダメである。「憂国のリアリズム」ではまだまだ青臭い。
けれども今の言論界には語り手の精神を問題にする空気はもはやない。情報の量や出所がきめ手になった。素人でも新しい情報さえ手に入れれば言論界の主役になれる。どう語るかよりも何が語られるかだけが中心になった。勢い、本の表題は題材主義となり、過激になるか、長たらしく説明的になるかのいずれかになりがちである。