投稿者: toshiueh
全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」感想文
渡辺望氏による感想文
1月19日、市ヶ谷グランドヒルにておこなわれました西尾先生の全集記念講演会「第四巻 ニーチェ」を拝聴しました者の一人として、講演会の感想を記させていただきたいと思います。
西尾先生はニーチェに関して、実にたくさんの評論、翻訳の仕事を残してこられましたことは周知の通りで、西尾幹二とニーチェの両者のイメージは、戦後日本では水魚のように分かち難く結びついています。だからこそなのでしょうけれど、西尾先生がニーチェを演題にして語られると聞くと、西尾先生とニーチェのかかわりの個人的歴史の整理というものではないか、という先入観を私などはもってしまいがちです。もしかしたら新しい論点はそれほどないのではないか、という下手な先入観です。
しかしその先入観は(幸運にも)まったくの間違いでした。西尾先生が従来展開してこられたニーチェ解釈に、新しいニーチェ解釈が加わり、さらにそれら解釈の現代的意義が加わり、この三者が有機的に連関することで、豊饒かつ新奇な発見に満ちた内容が構成された講演でした。ただ惜しむらくは、三者の結びつきのスピーディーさが、壮大な文明論の入り口に入りかけていたところで講演時間が終えてしまったことでしょう。今回の講演は、完成体ではなく、「入り口」とでもいうべき新しいニーチェ論だったと思います。
たとえば、キリスト教の融通のなさ、対話性のなさということと、現代アメリカの宗教国家性を結びつけていることなどは、実は日本で指摘された方は他にはいないのではないかと感じられるお話でした。ニーチェが生涯格闘したヨーロッパ形而上学が、現代アメリカに再生している可能性を先生は指摘されました。ニーチェを読む精神と「アメリカという国の読み解き」の精神は21世紀に一致するものになってくるかもしれない。ニーチェで理論武装した「アメリカという国の読み解き」というようなものがこれからありうるのかもしれないという「入り口」です。
あるいは、秦郁彦や加藤陽子たち歴史学者が依拠している近代主義的歴史観=「歴史的事実は固有的であり、歴史観は普遍的である」というイデオロギーへの反論は、すでにニーチェにおいて完全になされており、秦や加藤が19世紀の歴史観に閉塞しているという先生の指摘も興味深いものでありました。先生が講演の中途で紹介されたように、ニーチェは仏教をはじめとする東洋的価値観をキリスト教世界に優位するものだと強調していました。
にもかかわらず、キリスト教世界を模範とした近代日本において、ニーチェが一番怒りの対象にしそうな近代主義的歴史学が依然として優位にたっているのは、実に皮肉な現象に他なりません。西尾先生は左翼史観だけでなく、皇国史観も近代主義の一派生と講演内で断じられましたが、ニーチェが現代日本にいても、おそらく同じふうに裁断したことでしょう。ここには、「ニーチェを表層からしか取り入れなかった近代日本」という、これまた大きな文明論の「入り口」がありそうです。
このようにいろいろな「入り口」の発見に出会うことのできた講演会だったわけですが、その発見のいろいろの中で、自分にとって特に新鮮に感じられた話の内容の一つ、提供していただいた「入り口」の一つに「ニーチェとユーモア」ということがありました。ニーチェにおけるユーモアという問題について、今までの私はほとんど無自覚でしたが、西尾先生の講演のおかげで、このことについて少なからず考えることができました。
今回の講演で、西尾先生はたくさんのニーチェの言葉の引用をされましたけれど、たとえばそんな先生の引用の一つに、カントを揶揄する目的でいった、「神はついに物自体になったのだ!」という言葉があり、私は思わず声を出して笑ってしまいました(先生も笑っていました)カントの批判哲学が本当は神とか永遠を否定しうる力をもっていたのに、カントはそれをあえてせずにキリスト教世界に反転して引き返し、そこに引きこもった、そういうある種の哲学喜劇をニーチェは言おうとしている。でも単に論理的に言うのではなくて、ユーモアをこめて書いているのです。ニーチェ自身もこのくだりを書きながら、おそらく笑っていたに違いない。
そこで感じたのですが、自分は哲学書を読んで「笑った」という経験はほとんどない人間です。ところが、ニーチェの哲学書を読んでいると、笑ってしまうことが多々ある。しかもいろんな笑いがある。哄笑、苦笑、微笑、ブラックユーモアなどなど、笑いの種類も豊かです。実はニーチェほど笑い・ユーモアに親しい哲学者は他にいないのではないか。ニーチェ自身も、そのことにきわめて自覚的で、笑い・ユーモアの意義を認めた文章もたいへんに多いのです。
「笑いと智恵とが結ばれるだろう。そしておそらくそのときは<悦ばしい知識>だけが存在することになるだろう」「ツァラトゥストラは予言する。ツァラトゥストラは笑って予言する。我慢できない者ではない。絶対者ではない。縦に横に飛ぶことが大好きな者なのだ」こうしたニーチェの言葉からすると、ニーチェの言うところの超人には、どうも笑いが不可欠なことがわかってくる。笑いやユーモアを定義した哲学者はベルクソンなどはじめたくさんいました。しかし自身の哲学の不可欠の要素として、笑いやユーモアを取り入れた哲学者は、ほとんど稀なのではないでしょうか。
西尾先生も、ニーチェ論『光と断崖』で、『この人を見よ』について、「・・・・この作品で私自身を特別な存在のように語る彼の尊大さが、自己諷刺やアイロニーとうまく手を取り合っていて、読者を爽快な深刻さに心地よく誘う効果を発揮している。ときにはそこに笑いの要素さえないではない」(『西尾幹二全集』第五巻所収)と、ニーチェ哲学のユーモアの存在について指摘しています。晩年の狂気やナチスの思想的利用などによってとかく暗いイメージの漂うニーチェですが、実は少しも暗いものではなく、ユーモアを好みそれを武器にし、好んだだけではなくて、それを生かすことのできるユーモアの天才でもあったのではないか、と思われます。
「ユーモアの天才」という視点で読む楽しみを与えてくれる哲学者がニーチェならば、「ユーモアの凡才」の典型ともいうべき哲学者は、まさにニーチェにユーモラスに批判されたカントでしょう。講演会で西尾先生は、「カントは結局、常識人なのだ」といわれましたが、この場合の「常識人」という言葉の意味は「常識に引きこもる人」という意味だと思われます。普遍的慣習その他の肯定的意味としての「常識」ではなく、世間的現実の妥協ラインとしての「常識」に従う人、ということです。ヴォルテールは「常識は、実はそれほど常識ではないのである」といい両者の常識を区別しましたが、カントの文章世界にはたしかに、時折露骨なほどの、世間的現実、すなわち当時のヨーロッパ世界との妥協をは
かろうとする彼の意図があると私には感じられる。たとえばニーチェには次のようなカント評があります。「カントは物自体を搾取したその罰として、定言命法に忍び込まれ、それを胸に抱きしめてまたもや神、霊魂、自由、さらには不死のもとへと、まるで自分の檻の中へと迷い帰る狐のように、迷い帰っていった。しかも、この檻を破ひらいたのが、ほかならぬ彼の力であり英知であったというのに!」ニーチェはカントによって、ヨーロッパ哲学におけるラディカルな懐疑論が始まっていることを卒直に認めている。にもかかわらず、カントは、再び、キリスト教世界の迷妄な「常識」の数々に、舞い戻ってしまったのです。
狐は狡猾な動物です。カントは自身の哲学の力をもって否定しえたはずの神や霊魂や不死といった概念のもとに、カントという狐は狡猾に舞い戻ってしまった。もしかしたら「迷い帰る」ことさえも、狐の演技かもしれません。このカント評は「神は物自体になったのだ!」という先生の講演会で紹介されたニーチェのカント評と同じ意味であり、同じくユーモアなのでしょう。
カントというと、数々のエピソードから、品行方正な人物をイメージするかもしれませんが、そういうイメージは必ずしも正しいものではありません。カントは哲学論以外に、膨大な数の社会批評めいた文章を残しており、それらを読むと相当に意地悪な人で、世間的常識を纏いながら実は、ニーチェにも増して人間観察と悪口の大好きな人だったことがわかります。しかしその表現はどれも直接的過ぎる。ユーモアや笑いという以前に、何か「余裕」というようなものがない。キリスト教社会の世間的常識からの視線を過剰に意識していたカントは、「悪口」とはいつでも反論可能なふうに論理的なものでなければならない、というような思い込みがあったのではないでしょうか。
たとえば女性について、(かなりの女性嫌いだったらしい)カントの悪口がこんなふうに炸裂します。「女性の場合には欲望は無限であり、ふしだらは増しても何物によっても抑制されない」「学問をしたがる女性は口髭をつけた方がいい」これが同じ女性への悪口でも、(やはりかなり女性嫌いだったらしい)ニーチェになるとこうです。「完全な女というものは、自分が愛するときは相手を八つ裂きにするものなのだ。私はそういう狂乱巫女たちを知っている。ああなんという危険な、忍び足で歩く、地下に住む猛獣!それでいて何とまあ好ましい」(『この人をみよ!』)この最後の「何とまあ好ましい!」はカントには決して書けないユーモアでしょう。両者の文章を比較してみて、哲学科でカントを専攻
する学生はいてもドイツ文学科でカントを専攻する学生がほとんどいないのはむべなるかな、と私には感じられます。カントがニーチェより劣っていたとか、文学的表現が哲学に必要だとかということでは全くありません。ただ私が考えるのは、本当に自由な観念を持たないと、ユーモアというものは生まれない、そして自己が属している文明なり宗教への批判的精神というものは生まれない、ことです。たとえば先生は講演会で、カントにはインドでのキリスト教宣教師の傲慢を紹介した文章があるといわれました。カントの博学は驚くべきもので、彼の平和論には江戸日本の鎖国政策や日本の宗教について触れているものさえあります。しかし彼の膨大な博学は、決して斬新な文明論を形成するには至らなかった。なぜかといえば彼は狡猾な狐のように、キリスト教社会の檻で再び生きることの代償として「自由でないこと」を
選んだから、です。自分のキリスト教文明を否定するような所為には、彼はあえて踏み出すことはできなかったのです。だからカントには笑いがない。ユダヤの格言だったと思いますが、「自分を笑うことのできるものは、他人から笑われない」という言葉を私は思い出します。ここにいたると、笑い・ユーモアというのは、自身や自身の文明を批判する自由ということと同義になるともいえましょう。
カントが狡猾に選択した不自由に比べ、ニーチェはヨーロッパ文明そのものを敵にまわすことで、実は完全といっていいほどの自由を手に入れた。彼の完全な自由は、一見するとおそろしい孤独を彼に与えてしまったようにも見えるけれども、しかし、彼の哲学書のいたるところにみられるユーモアをも可能にしたということができるのではないか、と思います。哲学論はともかくとして、文明論という面におけるカントとニーチェのスケールの差は、ユーモアの差、つまり自由の差なのではないでしょうか。
今回の先生の講演会を拝聴しまして、ニーチェという哲学者が、あらためてスケールの大きなテーマに生涯を賭けていたことを再認識しました。それは彼の人生を瓦解させたかもしれないし、21世紀に思想的根拠を与えるものだったかもしれません。しかしその巨大さの証しとして、彼の著作のいたるところにあふれているユーモア、笑いというものに注目してほしい、と私は思いました。先生はニーチェの講演会となりますと、幾度も幾度もニーチェの引用でお笑いになりますが、やはりニーチェのユーモアということの真髄を理解されているのではないかな、と私は想像しております。
文:渡辺望
『WiLL』現代史討論ついに本になる(四)
武田修志さんのご文章
今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。
いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。
ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。
彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。
また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。
新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。
年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。
三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。
私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。
ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。
そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。
三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。
先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。
そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。
今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。
御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。
いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
お元気で御活躍ください。平成25年1月6日
武田修志
西尾幹二先生
中村敏幸さんの当選作(三)
東京裁判とGHQの日本弱体化工作
開戦前に日米交渉に当った野村、来栖両全権大使は、ただアメリカの時間稼ぎに翻弄されていただけのように思われているが、来栖大使が開戦一年後に行った講演「日米交渉の経緯」には、日本がアメリカの悪意を正確に読み取っていたことが記されており、感慨深いものがある。(10)
また、硫黄島守備に当った市丸海軍少将が栗林陸軍中将と共に最後の総攻撃に臨む直前に記した「ルーズヴェルトニ與フル書」(11)にも東洋征覇を目指した、アングロサクソンの非道と我が国が開戦のやむなきに至った経緯が切々と述べられているが、何よりも、我が国が開戦を決意した経緯については「開戦の詔書」とそれに続く「帝國政府聲明」に言い尽くされている。我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入した訳ではない。対日包囲網の中にあって、ハル・ノートを突き付けられた時点で、我が国に残されていた道は、ハル・ノートを受入れ、戦わずして屈従の道をたどるか、それとも、勝敗を超えて敢然と必戦の決意を固めるかの二つに一つしか残されていなかったのであり(12)、当時多くの国民は、12月8日を、先行きに対する言い知れぬ不安感と共に、息の詰まるような圧迫感からの解放と「ついに来るべきものが来た」との覚悟を固めて迎えたのである。
そして、終戦直後の国民の多くは江藤淳氏がその著「閉ざされた言語空間」でいうように、あのような戦争と敗戦の悲惨な結末は自らの「愚かさ」や「不正」がもたらしたものとは少しも考えていなかったのであり、この多くの日本人の静かなる不服従に脅威を抱いたGHQは、占領後直ちに、予てから準備していた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」と「東京裁判」を実行に移し、彼等の攻撃の手は、我が国民の心の中に目標を定めたのである。
先ず、「降伏文書調印」の直後から報道、出版はもとより私信に至るまでの検閲よって言論を封じた上で、公職追放によって、各界に於いて、祖国の存亡をかけて奮戦した20万人余りの人々を一掃した後、その空いたポストを敵国に媚び諂った戦後利得者である左翼売国勢力に占拠させた。更に、7千冊以上に及ぶ書籍の焚書によって我が国の大義と歴史の真相を闇に葬り、洗脳番組の報道と神道指令や教育改革、占領憲法などの押しつけによって我が国の精神的な基盤を破壊した。
東京裁判の不正に就いては語り尽くされているためにここでは触れないが、これらの洗脳工作によって、国民の多くが、先の大戦は邪悪な侵略国家であった日本によって引き起こされたとの贖罪意識を植え付けられた。そのために、散華された200万余柱の英霊は残虐非道な侵略戦争のために戦ったとの烙印を押され、英霊に対する慰霊の心を失わせ、今日なお、各地の戦跡に眠る、約半数、100万余柱もの英霊の遺骨を収拾することなく、恬として恥じない国情を生み出してしまったのである。
日米戦争は姿と形を変えて現在も続いている
アメリカはペリー来航以来今日に至るまで、日本に対して真に友好的であったことは一度も無い。サンフランシスコ講和条約発効後も、我が国を自己決定権の持てないアメリカ覇権の手足となる隷属国家に仕立ててきた。
1960年代の「日米貿易摩擦」に始まり、「プラザ合意」、「日米構造協議」、「日米経済包括協議」、「年次改革要望書」と手を変え品を変えながら、アメリカは日本の金融と経済のしくみや日本型経営の基盤を破壊し続ける一方で、米国債購入やアメリカ起因による円高への為替介入によって生じた為替差損などによって日本から富を奪い続けた。そもそも、「日米構造協議」とは協議ではなく、「日本の構造は間違っており、アメリカ主導により、アメリカ流の(正しい)構造に改革させる」という意図をもって行われたものである。
我が国は、GHQの日本弱体化工作によって二度とアメリカの脅威とならないように精神的な基盤を破壊されたが、それに続いて日本社会の構造基盤をも破壊されたのであり、日本の強さの基盤を失った。これは筆者が日米戦争は姿と形を変えて現在も継続しているという所以であり、連戦連敗の状態が続いているのである。
日本再生への道標
最後に我が国がこれから再生へ向けて進むべき道標について示したい。
1.先ず第一に先の大戦で散華された英霊の慰霊と残された遺骨の収拾である。
先の大戦に於いて、我が国は、仕掛けられた戦争に対し、やむなく決然と立ち上がり、我が将兵は祖国の存亡をかけ東亜の解放を願って勇猛果敢に立派に戦ったのである。この史実を国民の多くが認識し、東京裁判史観とGHQ工作の呪縛を解き、200万余柱の英霊に対し感謝の誠を捧げて御霊を安んじ奉り、我が国再生への御加護を祈念しなければならない。そして、今なお各地の戦跡に眠る百100万余柱の英霊の遺骨収拾を国家として全力で行い、首相閣僚はもとより、天皇陛下の靖国神社御親拝を実現した時が、真に我が民族が誇りと自信を取り戻した時と言えるであろう。2.正しい歴史教科書づくりとその普及
自国が残虐非道を尽くした侵略国家であったと教えられて育った子供たちに、健全な精神が育成されるはずはない。歴史教科書から虚偽の自虐史観を一掃し、子供たちが自国に対して誇りと自信を持てるようになる教科書づくりとその普及が急務である。3.家族家庭の再生
現在、我が国は深刻な少子化問題を抱えているが、子供は国や社会が育てるのではなく、親が育てるのが第一義である。戦後の混乱期に於いて、我が父祖は、日々の食糧に事欠く中にあっても懸命に子供を育てた。少子化対策として子供手当や婚外子支援、はたまた外国人労働者の導入を唱える徒輩がいるが、本末転倒も甚だしい。先ずは、我が国の家庭の雰囲気が温和に保持され、家族の絆と祖先を敬い家系を守る気概を養うことが最重要課題であり、ジェンダ・フリー、過激な性教育、夫婦別姓、男女共同参画などによって家族破壊を押し進めてきたことが少子化の元凶である。4.グローバリズムとの対決
ゲェテは「親和力」に於いて、「種に於いて完成されたものが、初めて種を超えて普遍性を持つ」と述べているが(13)、世界中を席巻するグローバリズムの波は「種」としての「民族国家の個性」を喪失せしめ、世界をボーダレスで無性格な弱肉強食の草刈り場と化そうとするものである。むしろ、今、我が国がなすべきは、世界情勢の動向を諦視しつつ、グローバリズムの波を巧みにかわしながら、グローバリズムによって破壊された我が国本来の社会構造基盤の再生に努めるべきである。
今や国力が衰退傾向に陥り、半ば手負いの獅子となりつつあるアメリカは、昨今のTPP問題にとどまらず、今後一層凶暴になり、自らの国益追求のために更に過激な攻撃を仕掛けてくるように思えてならない。5.自主憲法制定
自主憲法制定については多くを触れないが、立案に先立ち、「万古不易、我が国を我が国たらしめてきた根源は何か」、「我が祖先が建国以来築き守ってきた国柄(国体)や伝統とは何か」を見つめ直し、次に「自主防衛体制」の確立を目指すことが最重要課題と考える。そもそも自国の防衛を駐留費を払って他国に依存する国は真の独立国家とは言えない。我が国がこの二つの課題の回復に努めるようになれば、現在我が国が抱えている多くのの難問は解決の方向に向かうに違いない。6.孤独を恐れず、我が国の正しさを正面に掲げて米中韓との激論を戦わす
アメリカは我が国と近隣諸国との友好を望まない。東京裁判によって突然表に出された「南京大虐殺」(25)、アメリカの後ろ盾によって大統領となった李承晩による「竹島不法占拠」、ヤルタ秘密協定によって生じた「ソ連の北方領土不法占拠」等、アメリカは戦後、我が国と近隣諸国との間に対立の火種を意図的に残した。今日でも、2007年の米下院に於ける「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」に代表されるような楔を打ち込み、「六カ国協議」という茶番劇を繰り返しながら北朝鮮の核開発もなし崩し的に容認し、中国の軍拡も、自国の軍事プレゼンスの正当化のために必要としているのではないかとさえ疑われる。中韓との軋轢は謝罪し補償することでは永久に解決されない。我が国は孤独を恐れず、支那事変は支那側からの突然の攻撃によって勃発したこと、そして、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦問題」も全くの虚偽捏造であることを主張して「村山談話」と「河野談話」を破棄無効とし、韓国が今日有るのは、日本の統治と戦後の経済や技術支援の寄与大なることを堂々と正面に掲げた中韓との真っ向勝負の激論を戦わさなければこの問題を解決することは出来ない。あわせて大東亜戦争もアメリカが仕掛けた戦争であることを主張して「東京裁判」を否定しなければならない。その時、米国、中国、韓国は彼らの主張する正義が崩壊するためにそれを最も恐れているのであり、他のアジア諸国からは必ずや支持と歓迎を受けるであろう。それを乗り越えて初めて「大東亜戦争の世界史的意義」が明らかになり、我が国は世界の平和と繁栄に貢献する国として世界史の新たなステージに立ち、「日米百五十年戦争」にも終止符を打つ道が開けるものと確信する。
我が国は今日なお、GHQによる日本弱体化工作の毒が全身に回っており、内閣が代わるたびに「村山談話」を踏絵にし、今日では虚偽捏造であることが明らかになった「南京大虐殺」についても、それを記載しなければ教科書検定に合格しない自己検閲状態が続き、病膏肓に入っている感がある。
しかし、潮流は表層が東から西へ向かっているようでも、下層では逆に西から東へ向かっていることがあるように、また、「陰窮まって陽を生ず」とも言い、昨今の「河村市長発言」や「石原都知事の尖閣購入発言」を支援する国民的なうねりが見られ、日本を貶め続けてきた「従軍慰安婦問題」はもとより「バターン死の行進」も憂国の史家の努力によって、全くの虚偽捏造であることが明らかになって来た。また、1951年5月の米国上院軍事外交合同委員会に於ける「連合国側の経済封鎖によって追い詰められた日本が、主に自衛(安全保障)上の理由から戦争に走った」とのマッカーサ―発言が、都立高校の、平成24年度版地理歴史教材に新たに記載されることになり、底流では、我が国再生への流れが勢いを増して来ているように思われる。
平成25年は20年毎に斎行されてきた伊勢神宮の式年遷宮の年に当る。神宮の御社が東の敷地から西の敷地へお移りになる時は、国威発揚の時期であると言われており(14)、これからの20年が、日本が本来の日本を取り戻し、世界に向かって羽ばたくために、孤独を恐れず、宿命としての孤独に耐え、眦を決して戦う秋である。
註3
(10)来栖三郎著「大東亜戦争の発火点・日米交渉の経緯」〔GHQ焚書図書〕。
(11)この書簡は、米軍の手に渡り(ルーズヴェルトは4月12日に急死)、原本はアナポリス海軍兵学校に保管されているが、その写しが靖国神社遊就館に展示されている。欧米列強の東洋侵略に対し下記のように抗議している下りがある。
*卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を何が故に嫰葉(ワカバ)において摘み取らんとするや。ただ東洋のものを東洋に帰すに過ぎざるや。卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にしてかつ狭量なる。
(12)東京裁判に於ける、東條・キーナン対決に於いて、東條元首相は「乙案のどの一項目でも、あなたのお国が受諾したら、真に太平洋の平和を欲し、互譲の精神をもって臨んでくれれば、戦争は起こらなかった(要約)」と述べている。
(13)「親和力」第2部9章の「オッティーリエの日記から」に次のように書かれている。「ある調べで鳴いているかぎりは、ナイチンゲール(夜啼き鶯)もまだ鳥である。しかしその調べを超えると、ナイチンゲールという鳥の種類の枠を超えてしまい、およそ鳥が歌を歌うとはどのようなことであるかを鳥一般に知らしめているように思われる。種に於いて完成されたものは種を超えていくに違いない。それは何か別のもの、比類を絶したものになっていくに違いない」。
(14)多少の周期のずれや、時代に応じた転調はあるが、明治開国以降の約150年を振り返ると下記のようになる。
*第55回(明治2年、東の敷地へ)維新後の国づくり期。第56回(明治22年、西の敷地へ)日清日露の戦役を経て世界へ飛躍。第57回(明治42年、東の敷地へ)大正時代を中心とする低迷期。第58回(昭和4年、西の敷地へ)満州事変から大東亜戦争へ。第59回(昭和28年、東の敷地へ)戦後の復興期。第60回(昭和48年、西の敷地へ)日本経済の安定成長期。ジャパン・アズ・ナンバーワン。第61回(平成5年、東の敷地へ)バブル崩壊と失われた20年。第62回(平成25年、西の敷地へ)真の日本再生期。文:中村敏幸
中村敏幸さんの当選作(二)
日米百五十年戦争と日本再生への道標
坦々塾会員 中村敏幸
コミンテルン工作と日支間を全面戦争に導け
ソ連と支那国民党は1919~20年の第1次、第2次カラハン宣言によって急速に接近し、ワシントン条約(九カ国条約)の枠組みから外れたソ連は外蒙を勢力下に置き、コミンテルンは直ちに工作員マーリンを支那に派遣して支那共産党(コミンテルン支那支部)を設立すると共に国共合作に向けた事前工作を始めた。
続いて1923年(大正12)の「孫文・ヨッフェ共同宣言」により、孫文は「連ソ容共」を唱えて直ちに蒋介石をソ連に派遣し、ソ連資金によって陸軍士官学校たる黄埔軍官学校を広州に、支那人革命家の養成所たる中山大学をモスクワに設立するに至った。コミンテルンから派遣された工作員ボロヂンとガーレンはそれぞれ孫文の政治顧問と軍事顧問になり、国民党を牛耳って第1次国共合作を実現させた。孫文は支那の覚醒と自主独立を切に願って支援を惜しまなかった頭山満、宮崎滔天、犬養毅、梅屋庄吉等の誠意を足蹴にし、完全にソ連の軍門に下ったのである。しかし、孫文没後の共産勢力台頭を恐れた蒋介石による、1927年4月の「上海反共クーデター」によってソ連からの顧問団は追放され国民党内での影響力を失った。ただし、コミンテルンはその直後の5月に開催された中央執行委員会に於いて、予てから国民党に潜入させていた共産党員の残留を指令している。
1935年になると、コミンテルンは第7回大会に於いて「人民戦線戦術の樹立」と、米英仏と提携して日独伊と戦う方針を打ち立て、支那に対しては「抗日民族統一戦線」によって「日支間を全面戦争に導け」との指令を下した。それに応えて、支那共産党の「八一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)」が出されたが、これは支那共産党による事実上の対日宣戦布告であり、翌年12月の西安事件によって第2次国共合作が成立すると、支那は全面的に抗日戦争へと突入するに至ったのである。今日では、1937年7月の盧溝橋事件とそれに続く第2次上海事変は国民党軍に潜入していた共産勢力の陰謀が発端となって起こったことが明らかになっている。また、同年8月21日に締結された「ソ支不可侵条約」の附則にはソ連による国民党軍への武器並びに資金の供与と「国民党はソ連の同意なくして日本との和平又は講和条約を締結せざること」が明記されている。(6)
米英仏ソの急速な接近連携と対支那支援
ソ連は1930年(昭和5)にリトヴィノフが外相に就任すると、米英仏等の資本主義諸国との共存に方針を転換した。また、アメリカは1933年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると直ちにソ連を国家として承認し、米英仏ソは急速に接近して「民主主義対ファシズムの戦い」との構図が宣揚され、ソ連は国際連盟加盟を果たした。しかし、領土拡大や植民地支配による搾取と人種差別の激しかった米英仏の民主主義は白人民主主義であり、権力闘争と粛清を繰り返した恐怖政治国家ソ連が民主主義国家の一員であるというのは噴飯ものである。これに異論を唱えない史家には基本的な思想批判力が欠如しており、近現代史を語る資格は無い。また、日本がファシズム国家であるとの説は作意をもった言い掛かりであり、それでもなお当時の日本はファシズム国家であったと強弁する論者に対しては「ファシズムの定義を述べ、当時の我が国の政情と比較せよ」と述べれば反論はそれで足りるであろう。むしろ蒋介石国民党こそがファシズムであった。
1937年に支那事変が起こると、米英仏ソは蒋介石国民党及び支那共産党に対し莫大な資金と軍需物資の支援を行った。日支間には互いに正式な宣戦布告がなされていなかった為に事変と呼ばれて戦争は拡大していったが、互いに宣戦布告がなされていれば、戦時国際法上、交戦相手国への支援は敵対行動であり、日本は事実上背後に有る米英仏ソと戦ったのである。
蒋介石は東洋の敵たる米英仏ソと戦うことなく、逆に手を握って日本と戦った。詩人高村光太郎は東洋の侵略者と結託する蒋介石の否を詩集「大いなる日に」所収の「沈思せよ蒋先生」という一編によって詠っている。(7)
対日包囲網とアメリカの対英仏ソ支支援
1929年(昭和4)のウォール街に於ける株価暴落に端を発して世界は大恐慌に陥ったが、アメリカは翌年「スムート・フォーリー法」によって、また、イギリスは1932年に「オタワ会議」によってブロック経済化を図った。更にドルとポンドの切下げを行い、フランスが「フランブロック」によって、また、オランダが「緊急輸入制限法」によって追随することにより日本は次第に世界貿易の枠組みから締め出されていった。
1937年になると、ルーズヴェルトによる「日独隔離演説」と翌年の「対日武器禁輸」、翌々年のハル国務長官による「日米航海通商条約の一方的な破棄通告」によって、アメリカは我が国の息の根を止めるべく正面から襲い掛かってきたのである。
1941年3月、アメリカは「レンド・リース法」を制定し、ルーズヴェルトは「アメリカは民主主義国家の兵器廠である」と述べて総額500億ドル(現在価値にして約7000億ドル)に及ぶ英仏ソ支への軍需物資支援を開始する一方で、日本に対しては在米日本資産の凍結や対日石油全面禁輸を行った。反日史家の多くは日本の仏印進駐が経済封鎖を招いたと主張するが、それは、アメリカ主導によって行われた既定の長期戦略であり、かつ事実上の対日宣戦布告であった。(8)
1939年にソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻して国際連盟を追放されたにも拘わらず、翌年8月にはバルト三国を併合し、更に、英ソは1941年8月、「レンド・リース」法に基づく支援物資の輸送ルート(ペルシャ回廊)を確保するため、イランを挟み撃ちにして占領しているのである。英ソのイラン占領に対し、イラン皇帝レザー・シャー(後に退位させられ亡命)はルーズヴェルトに対し「領土不拡大を唱えた大西洋憲章に違反する」と提訴したが、ルーズヴェルトは取り合わず、側近には「大西洋憲章は白人国家のものである」とうそぶいて憚らなかった。
これに先立ち、イギリスは1940年5月に中立国アイスランドに侵攻し、7月にはアメリカ自身がイギリスの肩代わりをしてアイスランドを占領しており、当時のアメリカ外交が二枚舌であったことは明々白々である。我が国の仏印進駐はフランスとの協定(松岡―アンリ協定)に基づいて行われた、援蒋ルート封鎖を目的とした行動であり、同時期に行われた米英ソの他国侵攻に大義はなく、日本の仏印進駐を非難する資格はない。
共産主義勢力のアメリカ潜入
近年ヴェノナ文書の解読と公開により、ルーズヴェルト政権内部に多くのコミンテルン工作員が潜入していたことや、ニューディーラーの大半が共産主義者であったことが明らかになっているが、知識人の共産主義化によって体制内部からの革命を目指したフランクフルト学派の工作も見逃せない。(9)
同派はドイツのフランクフルト大学の「社会研究所」を起点としたが、ナチスの政権獲得により、一斉にアメリカに亡命して拠点をコロンビア大学に移し、開戦後間もない1942年6月に設立されたOSS(戦略情報局、CIAの前身)に大挙して入り込んだ。そこで彼等は、日本占領計画である「日本計画」を策定し、やがてこの計画はGHQの民生局に踏襲されていった。
このように、ルーズヴェルト政権はルーズヴェルト自身が社会主義者であったと言われているが、各方面から共産主義勢力に侵食されていたのであり、この点を直視しなければ、ルーズヴェルトのなりふり構わぬソ連支援は理解出来ない。
アメリカは何故日本を標的にしたのか
欧米列強にとって、日本の存在と日支の協調接近は、彼等の東洋植民地支配を根底から脅かすものであった。特に、アメリカの太平洋での覇権構築にとって、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受け付けない独立主権国家日本の存在は最大の障害であった。
日米の衝突は、通説では、支那大陸の権益をめぐって起こったと考えられているが、私見によれは、それはアメリカが日本に対する攻撃の口実を得るための手段に過ぎなかったのであり、標的は初めから日本であったと考える。さもなければ、大戦が終結した途端に、手の平を返すようにアメリカが蒋介石に対しあれ程冷淡になり、何故あのようにやすやすと支那大陸を、そして、朝鮮半島北部までをも共産勢力に明け渡してしまったのか理解に苦しむものであり、かかる考えに傾かざるを得ないのである。しかし、この問題については、この視点による専門史家の今後の研究解明に期待したい。註2
(6)第7回大会にはゾルゲも出席した。また、盧溝橋事件直後に支那共産党に対し「あくまで局地戦を避け日支を全面的戦争に導け」、「右の目的を貫徹するために、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい」他の指令を出した。
コミンテルンの支那工作については興亜院政務部資料「コミンテルン並びに蘇連邦の対支政策に関する基本資料・昭和14年10月(国立国会図書館蔵)」に詳しく書かれている。
(7)次の下りがある。「先生は抗日一本槍に民心を導いた。/抗日思想のある限り、東亜に平和は来ない。/先生は東 亜の平和と共栄を好まないか。/今でも彼等異人種の手足となってゐる気か。/わたくしは先生の真意が知りたい」。
(8)東京裁判のローガン弁護人は最終弁論に於いて、「パリ不戦条約」の草案者の一人ケロッグ国務長官による1928年12月の上院外交委員会に於ける発言、「経済封鎖は断然戦争行為である」を引いて反論しており、当時の米国の共通認識によれば「経済封鎖=宣戦布告」であった。
(9)西欧に於いて労働者階級煽動による共産主義革命が行き詰まりを見せる中で、1923年、ルカーチを中心とする共産主義者が起こした学派であり、知識人の共産主義化により体制内部に入り、体制否定の理論(宗教、家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、畏敬心等、人間の徳目と価値の破壊)による体制の内部崩壊を目指した。1960年~70年代の新左翼全共闘学生は同学派の一人マルクーゼを理論的柱としたが、その後、彼らの多くは政・官・学・財の体制内部に入り込んで行った。最近のジェンダ・フリーと過激な性教育、夫婦別姓、外国人参政権付与、人権侵害救済案等は彼らの残党と公職追放後各界に送り込まれた左翼売国勢力の影響下に育った者の工作である。つづく
文:中村敏幸
中村敏幸さんの当選作(一)
アパグループの第五回「真の近現代史観」懸賞というのがあって、坦々塾会員の中村敏幸さんが「優秀賞」を受賞したことは当日録でお知らせしてあります(12月25日)。その内容の要約文もご自身がすでにここに書いています(12月9日)。しかし私の見るところ、要約文では当選作の魅力は十分に伝えられていないので、皆さんに内容全体をじっくり読んでいただきたいと考え、以下に三回に分けて掲示します。
日米百五十年戦争と日本再生への道標
坦々塾会員 中村敏幸はじめに
現在、我が国を襲っている精神的荒廃と国威低迷の根本原因は、我が国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効後60年を経た今日でもなお、言論マスコミ界、政官界、教育界、学界、法曹界が深く侵され宿痾と化している東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作にあり、これを打破根絶し、その洗脳から脱却しない限り我が国の真の再生を成し遂げることは出来ない。
支那事変から大東亜戦争に至る戦いは、日本が戦うことを望まず、平和を希求したにも拘わらず、米英ソ支が巧妙な連携の下に日本に対して行った執拗な挑発と、米英蘭による経済封鎖に続く、事実上のアメリカの対日宣戦布告文書である「ハル・ノート」によって日本を追い詰めた結果起こった戦争であった。しかしその史実に反して、戦後アメリカを中心とする連合国は、戦争を仕掛け、かつ日本各地への無差別爆撃や原爆投下によって100万人近い無辜の民を殺戮した自らの邪悪さを覆い隠すために、東京裁判とGHQ工作によって、逆に日本は残虐非道な侵略国家であり、平和と民主主義はアメリカによってもたらされたとの洗脳工作を行った。
戦前の我が国は、政党政治の未熟さや統帥権干犯問題に見られるように軍部の横暴や二・二六事件のような不幸な出来事はあったものの、五箇条の御誓文によって誓われたように「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スル」れっきとした議会制民主主義国家であり、「上下心ヲ一ツニシテ盛ニ経綸ヲ行フ」君民一体の比類なき国体を有していたのである。かつて、先住民(インディアン)を滅ぼし、奴隷制度を有し、1950年代以降の激しい公民権運動を経た後の1971年まで黒人に参政権を与えなかったアメリカが民主主義をもたらしたなどという物言いは悪い冗談でしかない。
GHQの強要によってもたらされたものは、「国の為に義務を尽くして権利を主張しない」我が国民の高貴さと精神的基盤の破壊であり、「義務を尽くさずして権利のみを主張する」スペインの思想家オルテガが言うところの「大衆の反逆」であった。
昭和史家は先の大戦を「満州事変」を発端とする「十五年戦争」と捉えるが、そのような近視眼的な見方では、「先の大戦の真相と世界史的意義」を見極めることは出来ない。日米武力戦争は昭和20年8月15日に終結したが、これはボクシングに例えれば前半戦に於いてワンダウンを受けたに過ぎず、筆者はペリー来航以来、「日米百五十年戦争」として今日もなお姿と形を変え継続しているものと捉える。更に、先の大戦の真相は、遠くはアメリカの建国以来の清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義と欧州列強の東洋侵攻を、また近くはコミンテルンの世界共産化計画を抜きにしては究明出来ないと考える。よって、本稿ではこの視座から大東亜戦争に至る歴史の真相を明らかにすると共に、東京裁判とGHQによる日本弱体化工作とそれに続く日米経済戦争も一貫した日米戦争と捉え、最後に、日本再生への道標を示したい。
近年、欧州大戦についても、ヒットラーは米英ソとの戦争を望んでおらず、戦争を挑発したのはルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三者であったとの説が出始めており、満州事変についても、日本の一方的な侵略と傀儡国家の建設であったという従来の定説が覆されつつあるが、この問題については紙幅の制約により本稿では触れない。
アメリカ建国の歴史と覇権主義
キリストは身を捨てて律法(旧約聖書の最初の五書)(1)を狂信したパリサイ人の不正を諌めて「愛の宗教」を説いたが、ローマカトリック教会に対する抗議(プロテスト)として起こったプロテスタントは「旧約に帰れ」と説いた。中でも、1620年以降にアメリカに渡り、建国の父と言われた清教徒は旧約の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲(2)を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲み、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であった。そして、彼等清教徒は入植直後から、滅ぼされるべき劣等民族として先住民の掃討を始め、それはその後1890年まで250年余りに亘って進められ、500万~1000万人いたと言われていた先住民は絶滅に近い仕打ちを受けた。
独立宣言直後に制定されたアメリカの国章にはANNUIT COEPTIS(ラテン語で「神は我々の企てにくみせり」の意)及びNOVUS ORDO SECLORUM(同じくラテン語で「新世界秩序」・英語ではNEW WORLD ORDER)(3)の文字が記されており、また、1935年に発行され現在も使用されている1ドル紙幣の裏面にも同様の文字が記されているが、これは「アメリカが神意によって『新世界秩序』を築く使命を有している」ということを国家として表明しているものである。
アメリカは1783年に東部13州で独立建国を果たしたが、建国後直ちに西へ西へと領土の拡大を開始した。そして、1845年にジョン・オサリバンによって「マニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)」なる標語が提唱されると、アメリカの西進は更に正当化され勢いを増してテキサスを併合し、3年後の1848年には「米墨戦争」によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア等の西部諸地域を強奪して太平洋岸に達した。
ペリー来航はそれから僅か5年後のことであり、太平洋の制覇に乗り出したアメリカは、1898年(明治31)には「米西戦争」によってフィリピン、グァムを領有すると共にハワイを併合して太平洋の覇権構築への橋頭堡を築くに至ったのである。
なお余談ながら、「米墨戦争」に先立ちアラモ砦を陥落させて「リメンバー・アラモ砦」を、また、「米西戦争」では老朽艦メイン号を爆沈させて「リメンバー・メイン号」との合言葉を唱えて戦争の正当化と戦意高揚を謀ったが、対戦相手国に先に一発を打たせるのがアメリカの常套手段であった。そのようなアメリカ戦史を知ってか知らずか、山本五十六並びに海軍統帥部は真珠湾先制攻撃を行ってアメリカの仕掛けた罠に進んで嵌り、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉によって、当時のアメリカ国民の反戦気運を一転させ、戦意を一気に高揚させた。更に、彼等は我が国の基本戦略であった「漸減邀撃作戦」を覆し、陸軍をも巻き込んだ南太平洋に於ける消耗戦に陥らせ、我が国将兵の多くが敵の弾に当たるのではなく、補給路を断たれて餓死病死するに至る悲惨極まりない結果を招いたのであり、彼等の罪は万死に値する。昭和史の大家と称せられる輩が、今日でもなお唱える山本五十六名将説や海軍善玉論も打破されなければならない。
アメリカの対日攻勢と排日・日支の離間工作
アメリカは早くも、米西戦争の翌年、1899年(明治32)には国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放通牒」によって支那大陸へ触手を伸ばし、日露戦争が終結(明治38)するや、セオドア・ルーズヴェルトは「余は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきではなくなった」と述べると共に対日戦争計画である「オレンジ計画」の策定を開始し、1909年にはホーマー・リー(後に孫文の軍事顧問)の「日米必戦論」が刊行されて脚光を浴び、この著作は日本でもその2年後に翻訳刊行された。
また一方、1907年(明治40)のカリフォルニアにおける反日暴動に端を発した排日は、1924年(大正13)の「絶対的排日移民法」制定によって、それまでの排日が州単位であったのに対し連邦法となり、アメリカは国家として日本人移民を完全に拒否した。しかし、同時期にヨーロッパから渡ってきた移民は毎年50万人前後に達していたのであり、日本人移民の数はその1パーセントにも満たなかったのである。
支那に於いては、ジョン・ヘイの提案により、義和団事件の賠償金によって、1911年に支那人クリスチャン留学生の予備校である「清華学院」を北京に設立して多くの留学生を渡米させ、彼等は帰国後反日親米勢力として活動したが、これは日露戦争後に起こった支那から日本への留学ブームに対する対抗措置でもあった。また、当時支那へ渡っていたアメリカ人宣教師もその数は2千人以上に達しており、彼等は支那の排日運動の黒幕として暗躍した。1919年に起こり、排日運動の発端となった「五四運動」に於いても、背後に米公使館と宣教師による煽動工作があったと言われている。
1921年(大正10)になるとアメリカは第一次世界大戦後、一層国力と存在感を増した日本の封じ込めを謀るために「ワシントン会議」を開いた。先ず、「四か国条約」によって太平洋の島々の領土と権益の相互尊重と非軍事基地化を唱って「日英同盟を破棄」させながら、米英はハワイとシンガポールを除外して軍事基地の増強を進めた。次に、「五カ国条約」によって海軍力の増強を封じ、日支の協調接近を最も恐れた米英仏は「九か国条約」によって日本の支那進出抑制と日支の離間を謀ったのである。
金融の分野では米英仏は日本に対し、1920年に「新四国借款団」の結成を強要し、日本独自の支那への投資に足枷を加えた。(4)
また、言論や文芸の分野に於いても、1931年(昭和6)以降のヘンリー・ルースの「タイム」に代表される徹底した蒋介石と宋美齢夫妻の賞賛と対日悪宣伝が展開され、パールバックの「大地」がピューリッツァー賞に続いてノーベル賞を受賞し、支那に対するアメリカ国民の友好感情を大きく高めたことも無視できない。
阿片戦争とイギリスの支那支配・抗日支援
英仏蘭欧州列強の本格的な東洋侵攻は17世紀初頭の東インド会社設立に端を発し、それ以降、東洋のほぼ全域を植民地化した。中でもイギリスはインド、マレー、ビルマ,ボルネオ北部を支配下においた後先鞭を切って支那に進出し、1840年に起こした阿片戦争と南京条約によって広州、上海、寧波、厦門、福州を開港させて租借地を確保し香港島の割譲を得た。
阿片商人の多くは上海に拠点を構え、その後の「アロー号事件」と「天津条約」によって公認された阿片の輸入に拍車をかけ、清へ送り込まれた阿片の量はピーク時年間約5千トンにも達し、清一国を阿片漬けにして恥じるところがなかった。彼等は、阿片貿易で得た利益を英本国へ送金する為に「香港上海銀行(HSBC)」を設立し、その後、「浙江財閥」とも結託して支那の金融と経済を牛耳るに至った。(5)1937年(昭和12)に支那事変が起こると、英国は国家として援蒋ルートを通じて軍需物資を支援したが、上海の英国系金融資本も国民党軍へ莫大な資金援助を行って抗日を支援すると共に、アメリカに対し盛んに英米仏による対日禁輸を呼びかけたのである。
註1
(1)モーゼが神の啓示を受けて著したとされる旧約聖書の最初の五書、即ち「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」。モーゼ五書ともいう。
(2)選民意識、残忍性、世界支配欲は選民意識、残忍性、世界支配欲は律法の随所に見られるが、代表的な例としては下記のような記述があり、旧約聖書を深く信仰する(アメリカのキリスト教原理主義者は旧約の無謬性を信仰の中心に据えている)ことは自ずと選民意識、残忍性、世界支配欲を抱くことにつながる。「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫に凡てこれらの国を与へん、汝の子孫によりて天下皆福祉を得べし」(創世記26章4節)。「汝は汝の神エホバの汝に付し給はん民を尽く滅ぼし尽くすぺし、彼等を憐れみ見るべからず、また彼らの神に事ふべからず」(申命記7章16節)。「我が今日汝等に命ずる一切の誡命を守り行はば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の国人の上に立たしめ給ふべし」(申命記28章1節)。〔日本聖書協会編・文語訳〕
(3)父ブッシュは1991年9月11日の一般教書演説に於いて「国連の下での国際協力による新世界秩序が生まれようとしている」と演説し、更に、翌年1月29日の年頭教書演説で「湾岸戦争は新世界秩序という長く待たれた約束を果たすための機会を提供するもの」と言明したが、これは「新世界秩序」が今日のアメリカに於いても生きた標語であることを示している。
(4)「香港上海銀行」他の英米の銀行と日本の「横浜正金銀行」とによって設立された借款団であり、以後、支那への投資は同借款団を通して行われることになり、支那に対する日本の投資の手足を縛った。
(5)宋嘉樹を中心とした、上海を拠点にして支那経済を支配した浙江・江蘇両省出身者による金融資本団。蒋介石による上海反共クーデターを支援。宋霞齢(孔祥熙夫人)、宋慶齢(孫文夫人)、宋子文(国民党幹部)、宋美齢(蒋介石夫人)は宋家の四兄妹。
『WiLL』現代史討論ついに本になる(三)
26日発売の『WiLL』3月号巻頭に、私の「安倍政権の世界史的使命」という論文が発表されますので、ご報告しておきます。
『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店)をめぐって、討論者のおひとりの福地惇さんとテレビ討論を交しました。これは私のGHQ焚書図書開封の時間帯を利用して、チャンネル桜より1月16日と30日に放映されます。第一回目はすでにYou Tube にもなっています。本日はまず1月16日分のテレビ放映像をご紹介いたします。
読者へのご挨拶
今年の「謹賀新年」に付けられた「コメント5」に次の意見があった。
5.いつも、この日録とかネット番組:「GHQ焚書図書開封」を拝読・拝見いたしております。
ですが、先の総選挙における「阿倍政権」の誕生については、何の言及もありません。ひたすら、ご自分が関わられた著書の宣伝にこれ努めているという感じです。
西尾教授は、「反原発」のお立場の様ですから、この視点でも反駁されて然るべきかと思います。(尚、私めは「原発推進」・「核武装しかるべし」・「靖国分祠検討すべし」という立場です。)
何か、深い深いお考えがあっての「日録でのご発言」かとは推察いたしておりますが、少しく寂しく感じております。
コメント by 佐藤生 — 2013/1/6 日曜日 @ 16:37:01 |編集
これを読んで私は少し当惑しています。深い考えなどありません。当ブログは私の思想活動のごく一部、しかも小さな一部で、全体の思想活動を一冊の本にたとえると、ちょうど「目次」のような役割を果していると思います。そう思って見て下さい。
私は尖閣問題、女系天皇問題、原発問題、TPP問題について、また日米問題、総選挙とその結果についても、書物もしくは雑誌その他で大抵どのテーマであろうと洩れなく私の考えを述べています。雑誌は今は「正論」「WiLL」「言志」(チャンネル桜の電子言論マガジン)です。そのうちの幾つかは許される限り当ブログに掲示するようにしています。「脱原発」では書物を二冊出しています。
「コメント5」の佐藤生さんにおねがいします。書物や雑誌などの活字言論をきちんと見て下さい。そちらの方が私の本筋です。ブログだけ見て私の思想を判定しないで下さい。ブログは「目次」か「表紙」なのです。宣伝めいたものと思われても仕方ありません。読者の方はこれを手掛りにして下さい、と言っているだけです。ブログで全思想を表現している人もいますが、それとはやり方が違うのです。
『第二次尖閣戦争』について、アマゾンに書評がのっていましたので、紹介しておきます。
第二次尖閣戦争(祥伝社新書301) (2012/11/02) 西尾 幹二、青木 直人 他 |
「尖閣」でアジア近現代史の虎の尾を踏んだ中国, 2012/11/12
By 閑居人「尖閣諸島」という南海の小島の帰趨は、単なる領土紛争を超えて、「近代日本」という国家の政治的経済的アイデンティテイと表裏一体繋がっている。明治維新以来、弱肉強食の帝国主義の世界を生き抜き、敗戦による「帝国解体」も経験して、尚かつ「皇室」の伝統と民主的な諸文化に立脚する「日本」という民族国家。その近現代史と「国家主権」という一点で切り離すことができない問題だからである。
それにしても、中国人という人種は一体何者なのか。西尾が言うように「一度も国政選挙をしたことが無い国、近代法治国国家でない国、他国を威嚇し脅迫する(無法国家)」(233p)であることは疑えない。
この対談の中で西尾は繰り返し「中国人とは何者なのか」と問う。そして最近西尾自身が「GHQ焚書図書開封7」で紹介した戦前のシナ通、長野朗が指摘する「ウィルスのように侵入し、シロアリのように食い荒らし、エゴイスティックであるにもかかわらず、集合意志を持つ民族」といった表現に共鳴する。
本書の中で、西尾は怒りを隠さず過去の歴史から説き起こし、青木は冷静に中国、アメリカ、朝鮮半島等日本を取り巻く状況を分析する。西尾が説くように「尖閣戦争」は、近代以来の歴史問題を背後に潜まさせている。そしてそれは、これからの日本という国家の在りようと不可分の関係を持つ問題なのだ。この重大な問題に、石原慎太郎のトラップに乗った中国は、不覚にも多くの日本人を目覚めさせてしまった。
官製デモの連発は、振り返って1919年「五・四運動」や1920年代の「五・三十事件」等戦前の反日運動が巧妙に仕組まれた官製デモであり、しかも英米大使館やドイツの教唆、コミンテルンの策動と絡んだ事件であったことを改めて想起させた。1945年以来、GHQや共産中国、岩波・朝日が浸透させた「敗戦史観」は、学会で率直にその是非を論じたり、自由に批判したりすることがタブー視されていた。しかし、その呪縛は確実に解けている。
本書で、二人の論者が説くことは、「尖閣」という南海諸島の一角にある小島が、アジア近現代史において日本が引き受けざるを得なかった歴史の謎を解くと同時に、今後の日本国民の対応が21世紀アジア地域の平和と安定の鍵を握るという、国際政治の現実である。
日本政府よ、覚醒せよ! と訴える一冊。言うべきことははっきり主張すべきだ。, 2012/12/9
By あらフォーティー “Z”尖閣問題を起点に、中国の現状、米国の立場、そして
日本がとるべき態度と戦略を示す一冊。ひとつ驚いたことは、尖閣5島のうち、すでに2島は
米国に貸し出されていて、うち1島は国有だということ。新聞やTVはこのことを報道したか?
そもそも調べてもいなかったのではないか?そして何よりも、「問題を起こしたくない」「とりあえず穏便に」という害務省の態度と、
中国に誘い込まれて進出し、人質となって逆に政府の足かせとなった経済界。
これが大きな問題だということがわかった。中国と米国の思惑をしたたかに利用して、日本の国益をしっかりと
守って欲しい。そういう知恵のある政治家の登場が待たれる。
なぜジュンク堂の特集コーナーには置いていないのか, 2013/1/14
Bymt –尖閣諸島問題・中国問題を取り上げた本の中では最高のものと思われる。以下、いくつか本書で取り上げられた衝撃の内容を書き出してみる。
・小泉首相の靖国神社参拝をめぐって中国で反日暴動がおこったとき、トヨタ自動車の奥田碩(会長)が胡錦濤と極秘に会談し、次期首相は絶対に参拝させないと約束し、実際に安倍首相は参拝しなかった。
・中国の対日経済制裁で困るのは日本国民ではなく、個別の進出企業である。
・最初から永住することを目的とした中国人が大量に来日しており、その連中が日本の福祉を享受している。
・国内問題で困った習近平が、大量流民を放出し、沖縄が占拠され、それが「人権」の名のもとに正当化され、日本侵略がすすんでいく可能性。尖閣問題はこうした破局に至るかどうかの一里塚である。
・2012年の暴動で日本企業が多大な被害を蒙ったその数日後に、野中広務・河野洋平・田中真紀子・高村正彦らは経団連会長の米倉弘昌とともに北京詣でをして、早々と膝を屈した。日本政府が抗議のために、公式行事を中止するようなことはいっさいなかった。
・日本からの中国向けODAは合計3兆6461億円で、2012年も無償援助と技術協力は42.5億円。さらに国民のまったく知らない、財務省の資源開発ローンが3兆円もある
・アジア開発銀行の出資は日本がトップであるが、総裁の黒田東彦は「中国は覇権国家ではない」と公言するほどの東アジア共同体論に染まった官僚で、日本からのODAが減っても、黒田からの対中出資は減っていない。
・アメリカはかつて尖閣の主権が日本にあると認めていた(ケネディとアイゼンハワー)が、その後態度を曖昧にしている(ニクソンから)。アメリカは日中紛争の火種を残しておきたいのである。久場島と大正島は米軍管理下にあり、少なくともこの2島についてはアメリカは中立の立場は取れないはず。それをマスコミも報道しない。
・中国は世界銀行人事をめぐってアメリカと対立はしていない。米中の経済相互依存関係は深く、米中が対立することは不可能となっている。
・中国とアメリカの石油メジャーは非常に仲がよい。クリントンの日中の共同油田開発論
・中曽根は、中韓の圧力に屈してすでに検定にとおった教科書を4回も改定させて。それ以降続く中曽根内閣の呪い。まだまだ、引用したい部分がある。ほかのレビューワーが西尾幹二氏の日本は三流国家となっている、という発言を敵視しているが、自分で自分を守れない日本はまさに三流国家になろうとしていると言えるだろう。
ところで、ジュンク堂の尖閣諸島特集コーナーにはこの本は置いていない(少なくとも大阪の3店舗では)。極左の孫崎亨の本は置いてあるのに、である。ジュンク堂の政治的偏向が伺われる。
『WiLL』現代史討論ついに本になる(二)
宮崎正弘の国際ニュース・早読みから(平成24年12月26日号より)
西尾幹二ほか『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@本書は月刊誌『WILL』に連載された四人の座談会をまとめたもので、西尾幹二、福井淳、柏原竜一、福井雄三という四人の論客が近・現代史を縦横に語り尽くしながらも偽歴史家、偽学者等の出鱈目な所論を俎上に載せて、ふたたび立ち上がれないほどに批判している。
ノモンハンは日本が勝利していたのに、ソ連の謀略宣伝と敵のプロパガンダに内通した日本側の利敵行為などにより、ソ連が勝ったと長く信じられてきた。
すでに南京大虐殺も、三光作戦もでっち上げであることは120%証明されたが、まだ左翼のプロパガンダを鵜呑みにして、意図的に中国に都合の悪い事実を伏せる売国的学者、それも東京大学あたりに蟠踞しているから始末が悪い。
本書では主に加藤陽子、北岡伸一、それから「長屋の歴史講釈師」として、まだ命脈をもっている半藤一利の三人を批判するが、ほかにも大勢の左翼作家(司馬遼太郎とか)や学者が批判の対象となって登場している。小誌の読者にとって、おそらく内容の紹介は多言を要せずだろう。
そこで本書のなかでふたつ気になった個所をのべてみると、第一は文明の衝突、あるいは宗教の衝突だったとする日米戦争という解釈において(その論旨には賛成であるが)、蒋介石は宋美齢にいわれて敬虔なキリスト教徒になったため米国の支援を受けたという流れ。
この指摘はまことにその通りだが、評者(宮崎)は一貫して蒋介石は偽キリスト教徒だったと考えている。
蒋介石の生まれ故郷は浙江省寧波郊外にある。かつて寧波のホテルからクルマを雇って二時間ほどで着いた。生家は観光客用に解放されているが、この家には礼拝室がない。
他方、南京、廬山、杭州などにある宋美齢の別荘を見学したが、かならず立派な礼拝室があり、大きなマリア像が客間に飾られ、いかにも意味深であり、そして不思議なことに夫婦のベッドルームは別々、風呂も別々だった。
蒋介石は積極的に聖書から引用しての演説をしていない。つまり礼拝室を意図的につくるなど、米国向けの演技の舞台装置である。
張作霖爆殺人も河本大作犯人説は覆った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC真犯人は張作霖の子、張学良か、あるいはロシアの謀略機関、もしくは両者の共同謀議であり、これも伊藤博文暗殺の真犯人が安重根でなかったことと同様に謀略の仕掛けは、ソ連式であることに留意しておきたい。
これらはともかくとして本書は中味がぎっしり詰まって左翼史観への反撃集となったが、装丁も親しみやすく、価格も廉価に抑えられていて、願わくは大ベストセラーとなって世の迷妄を晴らしてほしい。