『天皇と原爆』の刊行(四)

坂本忠雄氏(元『新潮』編集長)

 再啓 その後大変遅くなりまして申し訳ありませんが、『天皇と原爆』を非常に充実した手応えをもって読了致しました。

 読み進んで、第十一回で、「歴史というものは善悪の彼岸なんです」、第二十回で、「論証はもちろん大切だが、じつは歴史が始まるのはそこから先なんですね。否、文学的宗教的想像力がかき立てられていなければ、そもそも実証的な証拠さがしもあり得ないし、出来ないはずですよ」という二つの御文に接して、御高著の根本的なモチーフがここに潜在していることが得心できたように存じました。

 そこには『国民の歴史』や『江戸のダイナミズム』で積み重ねられた粘り強い御研鑽が下支えとなっていることも感得され、御高著読了後の現在、このご両著も腰を据えて再読致したい思いに駆られております。

 そして『国民の歴史』のなかに引かれている福田(恆)さんの「大東亜戦争の否定論の否定論」を御高著によって親しみやすい口調で詳細に実践された成果でもあることに感服いたしました。

 今盛んに読まれている半藤一利や加藤陽子氏の昭和史論への鋭い御批判も全てこのモチーフから発せられているように思われましたが、殊に私は半藤氏や司馬遼太郎氏の今次大戦への批判をかねてから疑問に思っておりましたので、胸のすく思いが致しました。

 そして私が最も教えられましたのは、アメリカの「独立宣言」の「平等」の個所で、「すべての人と言われているのはアングロサクソン民族内部のすべての人にすぎなかったのに、あたかも地球上のあらゆる人という意味に解せられるような言葉で表現されている」というところで、これは根本的なアメリカ批判として目を開かされました。そこに根ざしているアメリカの「闇の宗教」がまた「神の国」である日本に向けられて今次大戦が起こったという御考察を極めて詳細に辿りつづけられての今度の著者の御成果は、小林秀雄や福田恆存などが未開拓の領域での御達成で、御高著の生命力を証しているものと確信いたしました。

 それにしても「ニーチェの言語観」で、「およそ停滞を知らぬ精神にとっては、懐疑とは疑うことではなく、疑うという行為そのものに徹することなのである。」という御述懐が、永年にわたる御実践でここまで到られたことに改めて深い敬意を表させていただきます。(「神道」についての御考察にも色々と教えられましたが、挙げればキリがありませんので、省略致します。)

 やっと春の気配が少し感じられるようになりましたが、気候不順の砌、呉々も御自愛の上、次なる御健筆をお祈り申し上げます。

右、甚だ延引致しましたが、愚見と御礼まで申述べます。

三月四日

                     敬具

 以上は了解を得ての私信の公開である。坂本忠雄氏は小林秀雄、河上徹太郎、福田恆存、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎など重要ライターを担当し、一貫して『新潮』編集部に在籍し、純文学の鬼といわれた名編集者である。 

『天皇と原爆』の刊行(三)

 『天皇と原爆』の出版には、私なりの思い入れがあるが、じつは初めての試みが内容面ではなく、本の造りにおいてもおこなわれている。この本には、著者の年齢・経歴・業績などがいっさい書かれていない。私の名前が記されているだけである。

 私の著作家人生において初経験である。かねてこういう本を出したいと思っていたが、今の出版界の常識に反するので、実行できなかった。

 この案を最初に言い出したのは私ではなく、新潮社の担当者の富澤祥郎さんだった。私は渡りに船だった。これは前からの願望だったが、自分からは言い出せなかった。言い出しても実現されないと思っていたからである。

 戦前の本はたいてい著者名だけだった。本の奥付あたりに、ごたごたと著者の来歴を書く習慣は戦後に始まったのである。何故だろう。理由はわからない。

 何でもシンプルが一番いい。今回は『WiLL』4月号の堤堯さんの書評をお送りする。ストレートな書評である。

 本書は、著者がCS放送(シアターTV)で行った連続講話をまとめた。小欄は毎回の放映を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第十代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、 「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」と告げた。西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を戴く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワンシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば十兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて、日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカへの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮からきている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないにかかわらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張──それが本書全編に流れる通奏低音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

堤堯『WiLL』4月号より

日本には「保守」は存在しない

 私は前から日本には「保守」と呼べるような政治的文化的集団ないし階層は存在しない、と思っていた。ところが人は安易に「保守はこう考えるべきだ」とか「私たち保守は」などと口にする。「保守言論界」とか「保守陣営」とかいう言葉もとび交っている。

 今こそきちんと検証しておくべきである。思想的に近いと思っていた者同士でも今では互いに相反し、てんでんばらばらの対立した関係になっているではないか。皇室問題で男系か女系か、原発派か脱原発派か、TPP賛成派か反対派か――ひとつにまとまった従来の「保守」グループで色分けすることはできなくなっている。

 もともと「保守」など存在しなかったことの現われなのである。この点を過日掘り下げて「WiLL」2月号に書いたので、ここに掲示する。

 わが国に「保守」は存在するのだろうか。「疑似保守」は存在したが、それは永い間「親米反共」の別名であった。米ソ冷戦時代のいわゆる五五年体制において、自由主義体制を守ろうとする思想の立場である。世は反体制一色で、左翼でなければ思想家でない時代、一九六〇年代から七〇年代を思い起こしてほしい。日本を共産主義陣営の一国に本気でしようとしているのかそうでないかもよく分からないような、無責任で危ない論調の『世界』『中央公論』に対し、竹山道雄、福田恆存、林健太郎、田中美知太郎氏等々が拠点としたのが『自由』だった。六〇年代は『自由』が保守の中核と思われていたが、正しくは「親米反共」の中核であって、必ずしも「保守」という言葉では呼べない。  
 
 六〇年代の終わりに、新左翼の出現と学生の反乱に財界と知識人の一部が危機感を深めて日本文化会議が起ち上げられ、一九六九年五月に『諸君』が、七三年十一月に『正論』が創刊された。ここに拠った新しく増幅された勢力も、「反米容共」に対抗するために力を結集したのであって、私に言わせれば言葉の正しい意味での「保守」ではない。日本に西洋でいうところのconservativeの概念は成立したことがない。

 明治以来の近代化の流れのなかに、尊王攘夷に対する文明開化、民族的守旧感情に対する西洋的個人主義・自由主義の対立はあったが、対立し合うどちらも「革新」であった。革新官僚とか革新皇道派とか、前向きのいいことをするのは革新勢力であって、保守が積極概念で呼ばれたことはない。歴史の流れのなかに革新はあり、それに対する反動はあったが、保守はなかった。積極的な運動概念としての保守はなかった。背後を支える市民階級が存在しなかったからである。  

 政治概念として保守が唱えられだしたのは戦後であり、政治思想の書物に最初に用いられたのは、たしか一九五六年のはずだ。五五年の保守合同を受けてのことである。左右の社会党が統一したのにほぼ歩調を合わせて、自由党と民主党がひとつになり、いまの自民党ができて、世間では自民党と社会党とを保守と革新の対立項で呼ぶようになった。けれども、それでも「保守」が成立したとはいえない。

 いったい、自民党は保守だろうか。国際共産主義に対する防波堤ではあっても、何かというと「改革!」を叫ぶ自民党は日本の何を守ろうとしてきただろうか。ずっと改革路線を歩み、経済政策でも政治外交方針でもアメリカの市場競争原理やアメリカ型民主主義に合わせること以外のことをしてこなかった。自民党を保守と呼ぶことはできるだろうか。

 自民党をはじめ、日本の既成政治勢力は自らを保守と呼ぶことに後ろめたさを持っていた。もしそうでなければ、自らをなぜ「保守党」とためらわず名づけることができなかったのだろうか。 「保守」は人気のない、悪い言葉だった。永いこと大衆の価値概念ではなく、選挙に使えなかった。福田恆存氏がときおり自分のことを、「私は保守反動ですから……」とわざと口にしたのは氏一流のアイロニーであって、「保守」がネガティヴな意味合いを持っていたからこそ、悪者ぶってみせる言葉の遊びが可能になったのであった。

「保守」を利用する思惑

 ところが、どういうわけだか最近、というかここ十年、二十年くらい「保守」はいい言葉として用いられるようになっている。保守派を名乗ることが、言論人の一つの価値標識にさえなった。いつまでつづくか分からないが、若いもの書きは競い合って自分を保守派として売り込んでいる。保守言論界と言ってみたり、保守思想史研究を唱えてみたりしている。私はそういうのをあまり信じないのだが、十年後の日本を占う当企画の一項目に「保守」があがっていること自体に、隔世の感がある。

 おそらく、元左翼の人たちがいっせいに右旋回した時代に、「保守」がカッコイイ看板に担ぎ上げられたといういきさつがあったためであろう。西部邁氏の果たした役割の一つがこれであったと思う。また、市民階級は生まれなくても、二十世紀の終わり頃のわが国には一定の小市民的中間層が成立し、一億中流意識が定着した、とまでいわれた経済の安定期があって、それが「保守」の概念を良い意味に格上げし、支え、維持したといえなくもない。

「保守」を利用する人たちの思惑はどうであれ、人々がこの言葉を価値として用いることに際して抵抗を覚えないムードが形成された背景の事情はそれなりに理解できる。しかし、二つの理由からこれはいかにも空しい。あっという間に消えてなくなる根拠なきものであることを申し上げたい。一つは、思想的根拠にエドマンド・バークなどを代表とする外国の思想家を求め、日本の歴史のなかに必然性を発見できていない。もう一つは、金融危機が世界を襲いつつある現代において、新興国はもとより、先進国にも格差社会が到来し、中間階層が引き裂かれ、再び体制と反体制とが生じ、両者が反目する怨念の渦が逆巻く嵐の社会になるであろうということである。

 安定期にうたた寝をまどろむことのできた仮そめの「疑似保守」は、十年後には雲散霧消し、やがてどこにも「保守」という言葉をいい言葉として、価値あるものの印として掲げる人はいなくなるであろう。大切なことは、一九六〇~七〇年代に「反米容共」に取り巻かれた左翼中心の思想空間で「親米反共」を命がけで説いた世代の人々は、自らを決して保守とは呼ばなかったことだ。たとえば、三島由紀夫は保守だったろうか。命がけで説いたその熱情はいまも必要であり、大事なのは愛国の熱情の維持であって、時代環境が変わればそれを振り向ける対象も変わって当然である。

 十年後の悲劇的破局の光景  

 時代は大きく変わった。「親米反共」が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片一方に傾くことはいまや危うい。それなのに、一昔前の冷戦思考のままに、「親米反共」の古いけだるい流行歌を唄いつづけている人々がいまだにいて、しかもこれがいつの間にかある種の「体制」を形成している。そして、愛国心も国家意識もない最近の経済界、商人国家の請負人たちと手を結んでいる。「生ぬるい保守」「微温的な保守」「ハーフリベラルな保守」と一脈通じ合っているにもかかわらず、自分たちを「真正保守」と思い込んで、そのように名づけて振る舞っている一群の人々がいる。言論界では岡崎久彦氏から竹中平蔵氏、櫻井よしこ氏まで、冷戦思考を引き摺っている人々はいまだに多く、新聞やテレビは大半がこの固定観念のままである。

 中国に対する軍事的警戒はもとより、きわめて重要である。しかしそれと同じくらいに、あるいはそれ以上に、アメリカに対する金融的警戒が必要なのである。遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、付加価値をつけて高く売るということで成り立ってきた五百年来の資本主義の支配構造が、いまや危殆に瀕しているのである。一九七三年の石油危機でOPECの挑戦を受けた先進国は、いまや防戦に血眼になっている。資源国は次第に有利になり、日本を含む先進国の企業は収益率が下がり、賃金の長期低落傾向にあるが、それでも日本は物づくりに精を出し、戦後六十年間で貯めた外貨資産は十五兆ドル(一千五百兆円)に達した。

 ところが、欧米主導の金融資本はわずか十三年間で手品のように百兆ドル(一京円)のカネを作り出した。あぶくのようなそのカネが逆流して自らの足許を脅かしているのは、目下、展開中の破産寸前の欧米の光景である。アメリカは「先物取引」という手を用いて石油価格の決定権をニューヨークとロンドンに取り戻すといった、資源国との戦いをいま限界まで演じているが、もう間もなく打つ手は行き詰まり、次に狙っているのは日本の金融資産である。

 「非関税障壁の撤廃」(ISD条項はその手段)を振り翳したTPPの目的は明瞭である。日本からあの手この手で収奪する以外に、アメリカは目前に迫った破産を逃れる術がないことはよく分かっているのだ。「親米反共」の古い歌を唄っている自称「保守」体制は、これから収奪される国民の恨みと怒りの総攻撃を受けるであろう。格差社会はますます激しくなり、反体制政治運動が愛国の名においてはじまるだろう。

 「保守」などという積極概念は、もともとわが国にはなかった。いま「親米反共」路線を気楽に歩む者は、政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙をき、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。『WiLL』2月号より

名古屋市長発言と日中歴史共同研究

 3月26日に発売される『WiLL』5月号に、私ほか三人の名の共同討議「虐殺を認めた『日中共同研究』徹底批判」が出ます。これは名古屋市長の南京発言を支援する内容です。

 昨年の今頃まで福地惇、福井雄三、柏原竜一、西尾幹二の「シリーズ現代史を見直す」が断続的に『WiLL』に連載されていました。東日本大震災が起こり、これが中断しました。
「日中歴史共同研究」徹底批判は四回を予定し、三回で途切れました。今回四回目を掲載いたします。

 掲載に際し、四回目の冒頭に私の次のような新しい発言が付加されました。名古屋市長発言を意識してあらためてこれを支持する目的の付言です。

 雑誌が出たら是非これにつづく「徹底批判」の内容をお読み下さい。

 名古屋の河村たかし市長が「南京事件はなかった」と率直に語ったことに対し、例によって左翼偏向した特定のマスコミと民主党藤村官房長官が待ったをかけました。

 「日中の大局を忘れるな」式の見え見えのことなかれ主義で、彼らが中国側にすり寄ったことはご存知のことと思います。その際、マスコミが錦の御旗に掲げたのは、北岡伸一氏が座長を務めた例の日中歴史共同研究です。

 「朝日新聞」は社説(二〇一二年三月八日)で、「南京大虐殺については、日中首脳の合意で作った日中歴史共同研究委員会で討議した。犠牲者数などで日中間で認識の違いはあるが、日本側が虐殺行為をしたことでは、委員会の議論でも一致している。」と早速にもあそこでなされた政治的取引きめいた決着を利用しています。

 「中日新聞(東京新聞)」も「河村市長発言、なぜ素直に撤回しない」と題した社説(二〇一二年二月二十八日)で、「南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。日中歴史共同研究の日本側論文も『集団的、個別的な虐殺事件が発生し』と明記する。」と共同研究を主張の根拠にしています。そして「市長は共同研究を『学者の個人的見解』と批判するが、国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった」と、北岡氏らのあの見えすいた非学問的決着を唯一の拠り所としています。
 
 そもそも民族間の「歴史認識の溝」は埋まらないときには永久に埋まらないのであって――英米間にだって溝はあるんですよ――それを強引に埋めさせようとした当時の自民党首脳の取り返しのつかない政治判断の誤りであると同時に、乗せられて学問の真実追究を捨て、政治外交世界の一時の取引きの道を選んだ北岡伸一氏がそもそもおかしいとは、われわれ四人の当研究会でもさんざん論じてきました。

 なぜか常に中国側に立つ日本のマスメディアに、いつの日にか必ず日中歴史共同研究は政治的に悪用されることが起こり得るだろうと私は思っていましたら、河村市長発言でその通りになりました。私たちはこの日があるのを予知していました。
 
 それほどにも、日本を傷つける可能性のある日中歴史共同研究のテキストはほとんど誰も読んでいないのです。翻訳ともども部厚い二冊本になる本文テキストを手に取る機会に恵まれた者は今のところ恐らく非常に限られた少数者でしょう。私たち四人は、その機会を得て、これを読破し、すでに三回の討議をもって、中国側代表の型にはまった恐るべき無内容と、日本側学者たちの日本国民を裏切るこれまた型通りの妥協の数々を追及し、批判してきました。
 
 かくて「日中歴史共同研究徹底批判」は本誌で今回をもって四回目となり、これをもって完結篇といたします。今回は南京事件を取り上げていますが、それに先立つ他のテーマから入っていきます。

「GHQ」第四回「正面の敵は実はイギリスだった」

「GHQ焚書図書開封」は2011年末までに92回放送され、6巻の本にまとめられました。あらためてここで2008年の第一回から毎週一本ずつ放送をYou Tubeで流し、普及につとめたいと思います。多くの方々に見ていたゞければ幸いです。

こちらからも視聴できます。

「GHQ」第三回「太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった」

「GHQ焚書図書開封」は2011年末までに92回放送され、6巻の本にまとめられました。あらためてここで2008年の第一回から毎週一本ずつ放送をYou Tubeで流し、普及につとめたいと思います。多くの方々に見ていたゞければ幸いです。

「太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった」

視聴できない方へ

こちらをご覧ください。

『週刊新潮』の記事

 『週刊新潮』(2月23日号)に「『雅子妃』をスポイルした『小和田恒』国際司法裁判所判事」という題の記事を書きました。週刊誌をお読みになった方が多いかもしれませんが、お読みになっていない方のためにここに掲示します。

 「雅子妃」をスポイルした「小和田恒」国際司法裁判所判事

雅子妃が療養を始められてすでに8年が過ぎた。なぜ、このような事態が続いているのか。その謎を解く1つのカギは、父親の小和田恒氏(79)にあるという。評論家の西尾幹二氏(76)は、小和田氏を「皇室とは余りにそりが合わない人格」と分析するのだ。

 雅子妃殿下のご父君、外交官小和田恒氏の七十九年の人生は、妃殿下の一連の不可解な行動がなかったら誰の関心をも呼ばず、無難に外交史の一隅に小さな名を留めるに過ぎなかったであろう。妃殿下は果して親孝行をしたのか、それとも親不幸だったのか。私の判定は後者だが、そう思うのは戦後史に迎合して必死に生きた小和田氏の生涯に多少とも憐れみを覚えているからである。

 私は今度、小和田氏の雑誌対談やインタビュー記事など資料9編を読んでみた。そこから浮かび上がるのは、アメリカ占領下の日本無力化政策にいかなる疑問も不安も抱かなかった、既成権力にひたすら従順で用心深い小心な一官僚の姿である。

 安全保障はアメリカに委ね自らは再武装せず経済福祉の追求に全力をあげるべしという「吉田ドクトリン」と、その基礎にある憲法第九条は、小和田氏にとっては時代が変わっても動かぬ永遠の真理、神聖な大原則であるかに見える。世界の新たな情勢下で、軍事力の分担すべき責任がふえている昨今、憲法を改正して再武装への道を開くべきだ、と主張する人がいるが、「この質問に対する答は『ノー』であるべきだ、と思う」とはっきり書いている(『参画から創造へ』第四章)。

 小和田氏が、日本は過去の自分の行動のゆえに国際社会の中で「ハンディギャップ国家」だと言い立てていることはよく知られている。中韓両国に永久に謝罪しつづけなければならない国という意味であろう。1985年11月8日の衆議院外務委員会で土井たか子氏の質問に答えて、小和田氏は東京裁判においてわが国は中国に対する侵略戦争を行った、これが「平和に対する罪」である、サンフランシスコ平和条約第十一条において日本は「裁判を受諾する」と言っている以上、「裁判の内容をそういうものとして受けとめる、承認するということでございます」と答弁しているが、これは百パーセント解釈の間違いである。

 平和条約第十一条は巣鴨に拘禁されている戦犯を赦免、減刑、仮出獄させる権限は講話が成立した以後、日本国にのみあることを明示している内容でしかない。英文では、その内容のjudgments(判決)を受諾する、と書かれていて、「裁判」を受諾するならtrialかproceedingsかが用いられる。国際法学者・佐藤和男氏は英語だけでなくフランス語、スペイン語の正文も参照して、日本は東京裁判そのものを十一条で「受諾」しているわけでは決してないこと、講話後もあくまでも東京裁判史観に縛られることを良しとする日本悪玉論が政府内にも残っていることに強い警告を発している(『憲法九条・侵略戦争・東京裁判』、原書房)。

 要するに小和田氏はその師・横田喜三郎氏と同様に、何が何でもあの戦争で日本を一方的に、永久に、悪者にしたい歴史観の持ち主なのだ。

 傲慢で権威主義者

 1990年に湾岸戦争が起こり、翌年、小和田氏は外務事務次官になった。審議官時代から、氏は自衛隊の派遣に反対の立場をとっていた。彼の非武装平和主義は湾岸戦争で破産したはずだった。櫻井よしこ氏から対談で、日本人は人も出さない、汗もかかないという国際世論からの批判があるが、と問い詰められても彼は何も答えられない。ドイツがNATO地域外に派兵できるように基本法を改正する件に触れて、「日本の場合は、まだそういう状況まではきていない」と彼はしきりに客観情勢を語ることで弁解する。だが、「そういう状況」をつくらないできたのは小和田氏たちではなかったか。櫻井氏に追い詰められ、「日本という非常に調和的な社会の中で、できるだけ事を荒だてないで処理したい」と思わず三流官僚のホンネを口に出して、私は笑った。

 すべての外務官僚がこういう人ばかりではない。現実を変えようと戦った人もいる。元駐米大使の村田良平氏は日本の自立自存を求めた理想主義者で、その回想録の中で、アメリカが日本の核武装を認めないなら、在日米軍基地を全廃するべしと言っている。

 アメリカの核の傘が事実上消えてなくなっている極東の現実を直視している。徹底した現実家だけが徹底した理想家になれる。小和田氏のような現状維持派は現実も見えないし、どんな理想とも無縁である。彼は船橋洋一氏との対談で、日本という「国を越えた共同体意識」の必要などと言っているが、それは理想ではなく、ただの空想である。

 理想を持たない空想的人格は決して現実と戦わない。戦わないから傷つくこともない。用心深く周囲を見渡して生き、世渡りだけを考える。ドイツ語にStreber(立身出世主義者、がっつき屋)という蔑視語があるが、小和田氏のことを考えると私はいつもこの言葉を思い出す。

 自分の国を悪者にしてこうべを垂れて平和とか言っている方が、胸を張り外国と戦って生きるより楽なのである。そういう人は本質的に謙虚ではなく、身近な人に対しては傲慢で、国内的にはとかく権威主義者である。

 運が悪いことに、皇室とは余りにもそれが合わない人格だ。なぜなら皇室は「無私」の象徴であるからだ。天皇皇后両陛下が現に国民の前でお示し下さっているたたずまいは、清潔、慎ましさ、控え目、ありのまま、飾りのなさ、正直、作為のなさ、無理をしないこと、利口ぶらないこと――等々の日本人が最も好む美徳の数々、あえて一語でいえば「清明心」ということであろう。1937年に出た『國體の本義』では「明き浄き直き心」ということばで表現された。

 皇后陛下のご実家の正田家は、自家とのへだたりを良く理解し、皇室に対し身を慎み、美智子様のご父君は実業世界の禍いが皇室に及んではいけないと身を退き、ご両親もご兄弟も私的に交わることをできるだけ抑制した。一方、小和田恒氏はさっそく国際司法裁判所の判事になった。私はそのとき雑誌で違和感を表明した。小和田氏は領土問題などの国際紛争のトラブルが皇室に及ぶことを恐れないのだろうか。雅子妃の妹さんたちがまるで皇族の一員のような顔で振舞い、妃殿下が皇族としての必要な席には欠席なさるのに、妹たち一家と頻繁に会っているさまは外交官小和田氏の人格と無関係だといえるだろうか。

 確信犯的無信心の徒

 雅子妃は2003年9月以来、宮中祭祀にほとんど出席されていない。ご父君は娘に注意しないのだろうか、これが巷の声である。娘が皇室に入ったのは、ある意味で、「修道女」になるようなことである。覚悟していたはずだ。個人の問題ではなく国家の問題である。勤労奉仕団に一寸した挨拶もなさらない。スキーやスケートなどの遊びは決して休まず、その直前に必ず小さな公務をこなしてみせるので、パフォーマンスは見抜かれている。皇后になれば病気は治り、評価も変わる。今の失態を人はすぐ忘れると、ある人が書いていた。あるいはそうかもしれない。私もかつてそう言ったことがある。しかしそれは妃殿下にウラオモテがあり、畏れ多くも天皇のご崩御を待っているということであろう。天皇皇后に会いたくないとは、今までに前例のない皇太子妃であり、日本国民は代が替わってもこのことは決して忘れはしない。

 皇太子殿下は温順で、幼少の頃からご両親にも周囲にも素直だったといわれる。私が恐れているのは皇室がなくなるのではないかという危機感である。小和田氏は代替わりした皇室に対し外戚として何をするか分からない。昔、天皇の顔を正面から見ると目が潰れると言っていた時代がある。今はそんなことを言う人はいないが、皇室に対する畏れと信心の基本はここにある。小和田氏にはどう見てもそういう信仰心はない。彼の師・横田喜三郎氏には皇室否定論の書『天皇制』(1949年)があるが、横田氏にせよ小和田氏にせよ、左翼がかった法律家は日本の神道の神々に対しては確信犯的な無信心の徒である。

 日本の民のために無私の祈りを捧げる「祭祀王」としての天皇が、天皇たりうる所以である。祭祀を離れた天皇はもはや天皇ではない。一説では、皇太子ご夫妻が唱えていた新しい時代の「公務」――天皇陛下から何かと問われ答えなかった――は、国連に関係する仕事であるらしい。何か勘違いなさっている。私が恐れるのは雅子妃が皇太子殿下に天皇としてあるまじき考えを持たせ、行動するように誘いはしないかという点である。まさか皇室廃止宣言をするような露骨なことはできまいが、皇室から宗教的意味合いを排除してしまうような方向へ持っていくことは不可能ではない。「祭祀王」ではない天皇は、もう天皇ではなくただの「王」にすぎないが、権力のない今の天皇は王ですらなくなってしまうだろう。ただの日本国国連特別代表などということになれば、日本人の心の中からは消えてなくなる。

 女性宮家の問題がここに深く関わっている。1月24日発信の竹田恒泰氏のツィッターに、旧皇族の一部の協議が23日に行われ、いざとなったら男系を守るために一族から皇族復帰者を用意する必要があると意見が一致した由である。重大ニュースである。

 私は小泉内閣の皇室典範改正の有識者会議を憂慮して、2005年12月3日朝日新聞に次のように書いたが、これを今改めて提出して本編を閉じる。
 

「もし愛子内親王とその子孫が皇位を継承するなら、血筋が女系でたどる原則になるため、天皇家の系図の中心を占めるのは小和田家になる。これは困るといって男系でたどる原則を適用すれば、一般民間人の〇〇家、△△家が天皇家本家の位置を占めることになる。

 どちらにしても男系で作られてきた皇統の系譜図は行き詰って、天皇の制度はここで終止符を打たれる。

 今から30~50年後にこうなったとき、『万世一系の天皇』を希求する声は今より一段と激しく高まり、保守伝統派の中から、旧宮家の末裔の一人を擁立して『男系の正統の天皇』を新たに別個打ちたてようという声が湧き起こってくるだろう。他方、左派は混乱に乗じて天皇の制度の廃止を一気に推し進める。

 今の天皇家は左右から挟撃される。南北動乱ほどではないにせよ、歴史は必ず復讐するものだ。有識者会議に必要なのは政治歴史的想像力であり、この悪夢を防ぐ布石を打つ知恵だったはずだ」

皇太子殿下の誕生日記者会見(二)

 『週刊朝日』(3月9日号)に皇太子殿下に関する次のような記事が出ている。

 「閣僚や企業のトップが被災地について話すときに、たとえ夫妻で訪ねたのだとしても、会見で『妻が、妻が』と繰り返すだろうか。」

 また「天皇陛下をお助けし、改めて更なる研鑽を積まなければならない」とのお覚悟のことばについて、「研鑽を積む」という言葉は50歳の誕生日から3年連続での登場で、宮内庁幹部が嘆いて、今上陛下が皇太子だったころのお言葉には「率直な思い」「印象に残る言葉」がたくさんあったのとひき比べているという。

 陛下のご手術前に秋篠宮ご夫妻から関係者に病状について細かいお尋ねがあったのに、皇太子ご夫妻からはお問い合わせはなかった。1987年の昭和天皇のご手術に際し、皇太子だったいまの陛下は何かあれば代りをつとめなければならない責任感から行動されていたのに、「いまの皇太子さまには少し危機感が欠けているのではないでしょうか」と宮内庁関係者は首をひねっているという。

 『週刊朝日』は殿下が52歳であられることを今回は特に問題にしている。同年齢の活躍している社会人11人の名を挙げ、カッコ枠でかこって強調している。石田衣良、大村秀章、田中耕一、西村徳文(ロッテ監督)、原口一博、渡辺謙、川島隆太(脳科学者)等々である。相当に辛辣な、毒をふくんだ記事である。

 少し前までは皇太子殿下に対してこれほどひどい批判は書かれていなかった。明らかに世間の目が雅子妃殿下から皇太子殿下に向きを変えつつあるようにみえる。

 私が憂慮していた通りである。このまま行くとやがては今上陛下に鉾先が向けられるようになるだろう。その前に何とかしていたゞかなくてはならないのである。

 幸い陛下のご手術は無事に修了した。皇太子殿下のお誕生日会見は年一回である。来年の会見においては殿下はこういうことを言われないで済むように脇を固めていたゞきたい。まだ時間は残されている。

 週刊誌だからといってバカにしてはいけない。週刊誌と『THEMIS』以外には事実報道はなされていない。

 『週刊朝日』はこうも書いている。皇室ジャーナリストの神田氏が曰く、皇太子の会見に「雅子妃をほめる内容が多いのは、雅子さまが今回の会見録を読むことを意識しているためでしょう。」

 神田氏は妃殿下を「一生お守りする」といった殿下の責任感からだと書いているが、常識的にみれば、心理的なこわばりのせい、妻を恐れているためであろう。

皇太子殿下の誕生日記者会見(一)

 私が最近『WiLL』(3月号)と『週刊新潮』(2月23日号)に皇室に関連する文章を出したので、皇太子殿下ご誕生日記者会見に関する私の意見を聞きたいとある人から問われた。そこで私の考えをついでに少しここに書いておきたい。

 皇太子殿下は大変に損な役割を演じさせられているように思える。お気の毒である。と同時に、こんなことがつづくと国民の信頼が失われる一方だという心配をあらためて強く抱いた。

 皇室評論家で文化学園大学客員教授の渡辺みどり氏の「東宮ご一家にはもどかしさを覚えるばかりだ」という次の発言をまず聞いておこう。

「いまの皇太子さまは、雅子さまの問題を抱えておられるとはいえ、あまりに“内向き”になられているように見受けられます。ご家庭のことばかりでなく、広く国民のためにご活動なさるよう、ご自覚をもってご公務にあたる姿勢が望まれます。現に大震災の時も、秋篠宮家に比べて東宮ご一家のご活動は少ないと感じました。昨年8月に雅子さまと愛子さまは、ご静養のため那須の御用邸に20日間もお籠もりになっていた。栃木まで行かれたのならば、例えば東北の避難所まで足を延ばし、被災地に千羽鶴をお供えになるといったこともできたのでは・・・・・。そう思うと、残念でなりません」(『週刊新潮』3月1日号)

 しごく当然な感想である。

 次に皇太子殿下の記者会見のお言葉を取り上げてみよう。雅子さまの最近のご様子は?という記者からの質問に対して――

「東日本大震災の被害に大変心を痛め、体調に波があるなかで、被災地の方々に心を寄せ、力を尽くしてきていると思います。また、愛子の学校での問題に関しては、母親としてできる限りの努力を払ってきた1年でもありました。とても大変だったと思いますが、本当に頑張ってよく愛子を支えたと思います」(『産経』2月23日)

 殿下のいつもの通りのお言葉だが、官僚の文章を読み上げている大臣の答弁のように聞こえてしまわないだろうか。どちらに心を配られているかも、これでは丸見えである。殿下はなぜもっと正直に、率直に語れないのだろうか。

 例えば、「じつは私も悩んでいるんです」とひとこと語って、じっと押し黙っていた、なんてシーンが会見中にあれば、国民はみんな胸が痛んで、たちまち殿下は人間的信頼をかち得ることができるだろうに、などと考える。しかしそれがどうしても難しいのだとすると、殿下がいつもウソをついているようにしか感じられなくなってくるのではないだろうか。

 誕生日会見については、事前にこんなことがあったらしい。
 

 「質問は5問。会見は約20分で、記者会の質問に対し、殿下はペーパーを見ながら、入念に選ばれたお言葉を読み上げられます。今回、事前に用意していた質問項目に、微に入り細に入り宮内庁側が注文を付けてきたのです」

 毎年、一カ月前には幹事社が質問項目を提出しておくのが通例。それについては、総務課報道室と事前にやりとりをするという。

 「今回は『ここを変えて欲しい』とか、“てにをは”に至るまで些事にこだわってきて、修正を要請されたのです。特に、もっとも国民が聞きたいであろう、ある質問について、報道室職員が『それはちょっと』と返してきた。もちろん職員が勝手に判断するわけはなく、殿下にご相談しているはずです」(東宮関係者)

 それは、雅子さまの行動が“波紋”を呼んだという部分だった。

 「問題視されたのは、『雅子さまの行動が、週刊誌で報じられ、波紋を呼んでいます』といった部分だったそうです。宮内庁は『波紋を呼んだ』という表現をやめてほしい、と突き返した。

 記者会側は、ずばり愛子さまの校外学習に雅子さまが付き添われたことについて、殿下はどうお考えになっているか、殿下はなぜそれをお許しになったのかをお聞きしたかったのです」(皇室担当記者)(『週刊文春』3月1日号)

 宮内庁と記者クラブの間でこんなやり取りがあったとは知らなかった。これでは皇太子の記者会見は作られたシナリオに従ったお芝居を見させられているようなものである。

 今上陛下の記者会見にはこんなことはない。陛下はゆっくりご自分のお言葉で語る。自然で、慎ましやかで、ウラオモテなどまったくない。つねに平静で穏やかである。

 皇太子殿下のお言葉が型通りで、いささかシラジラしい印象を与えるのは、殿下の置かれた立場、言葉を禁じられた立場がそうさせるのであろう。それは誰がそうさせるのかも天下周知である。

 私はこういう不自然なお言葉が今後もくりかえし展開される将来の可能性に不安を覚える。殿下が「じつは私も悩んでいるんです」と正直に胸のうちを語る日が来ないと、国民の心はますます離れていく。それで、そのまま即位され、お言葉の不自然な従属性に国民が耐えられなくなり、皇室に背を向けるのを私は最も恐れている。

 テレビは何でも映し出す。国民は黙ってすべてを見ているのである。

「脱原発杉並」へのメッセージ

 2月19日(日)に「脱原発杉並」という集会があり、青梅街道をデモ行進したようだ。私は集会にもデモにも参加できなかったが、次のようなメッセージを送った。集会の場で誰かが朗読して下さったようである。

 原発事故以後に私が一番驚いたのは、責任のある官僚と学者、原子力安全委員とか原子力安全・保安員とかいう連中のあまりの人間としてのレベルの低さ、人格のお粗末さであった。原子力安全委員会の委員長の斑目という人は原子炉の設置に地域の人が反対したらカネを二倍払えばいい、それでも反対なら五倍払っていやだという人はいませんよ、と豪語していた。私はこれをYouTubeで見た。

 ある東大教授(名前は忘れた)は事故の一年前に福島第一原発は今後二十年間はまだ使えると保証していた。そして事故の直後のテレビでメルトダウンはしていないと断言していた。その同一人物がまたまた今の新たな、再稼動検討の委員会に顔を出している。

 すべてがいい加減で、馴れ合いで、一切責任をとらない。私は怒りを覚える。

 いくらここで心を入れかえて再起するといっても、同じ連中が再稼動させるのである。人間は変わらない。「反省」などということはあり得ない。ゼロの地点に戻るべきである。

                        評論家西尾幹二

2月19日