講演会のチラシ

 11月19日の講演会「ニーチェと学問」は350~400人くらいの入りで、ひとまず盛会だった。講演内容の説明はここで簡単にはできないので、お許したまわりたい。

 当日会場で4枚のチラシが配られた。私の本の広告とつくる会の入会案内である。私の本は相次いで三冊出るので、チラシを見ていただきたい。文藝春秋、新潮社、徳間書店の順で並べる。さいごに、つくる会の広告もお見せする。

 三冊の本のうち新潮社のだけは来年1月刊行で、まだ出ていない。このチラシは編集者がペンで書いた手造りである。文言は気に入っているが、読みにくいので、打ち直して掲示する。

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天皇と原爆

強烈な選民思想で国を束ねる
「つくられた」国家と、
世界の諸文明伝播の終着点に
「生まれた」おおらかな清明心の国。

それはまったく異質な
二つの「神の国」の
激突だった――。

真珠湾での開戦から70年。

なぜ、あれほどアメリカは
日本を戦争へと
おびき出したかったのか?

あの日米戦争の淵源を
世界史の「宿命」の中に
長大なスケールでたどりきる、
精細かつ果敢な
複眼的歴史論考

平成24年1月下旬刊行 新潮社

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パールハーバー七〇周年記念出版

 私は一年も前からパールハーバー七〇周年を意識して出版の計画を立てていたが、マスコミの反応は鈍かった。ようやく12月8日が近づいてきた二、三週間前から、動きが出て来た。パールハーバーに関連する企画への私の参加内容と記念出版についてお知らせする。

①『正論』(今の号、12月号)論文「真珠湾攻撃に高い道義あり」
11月27日講演「日米開戦の由来を再考する」於靖国会館、1時30分開始。主催二宮報徳会、参加費¥1000。参加自由。
③『歴史通』(次の号)、対談、高山正之氏と日米戦争前史をめぐって
④『SAPIO』(次の号)題未定、論文掲載。
⑤日本文化チャンネル桜「闘論!倒論!討論!」
大東亜戦争開戦70周年記念大討論、日本はどうする!」放送12月10日(土)20:00~23:00

 さて、私の記念出版(徳間書店)は既報のとおり、次の二冊である。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満洲、支那の排日』

 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 
 5、は既刊、6は刊行されて約一週間で、今店頭に出ている。新聞広告はこれからである。どちらも¥1800。

 二冊はこの日のために準備してきた決定版である。くどいことは言わない。この二冊を読まずして今後、戦争の歴史を語るなかれ。

 本日は内容紹介として、目次だけでなく、あえて冒頭書き出しの3ページを引用紹介する。

GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜 GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜
(2011/11/17)
西尾幹二

商品詳細を見る

GHQ焚書図書開封 6

第一章 アメリカの野望は日本国民にどう説明されていたか
第二章 戦争の原因はアメリカの対支経済野望だった
第三章 アメリカの仮想敵国はドイツではなく日本だった
第四章 日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた
第五章 アメリカ外交の自己欺瞞
第六章 黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇
第七章 開戦前の日本の言い分(一)
第八章 開戦前の日本の言い分(二)
第九章 特命全権大使・來栖三郎の語った日米交渉の経緯
第十章 アメリカのハワイ敗戦を検証したロバーツ委員会報告
第十一章 世界史的立場と日本
第十二章 総力戦の哲学
 あとがき

アメリカに対する不安と楽観

 日本の一般国民は戦前においてアメリカに悪感情を抱いていませんでした。小説『風と共に去りぬ』はすでにベストセラーでしたし、アメリカ映画は『キングコング』を始め愛好され、アメリカ映画の上映禁止はやっと開戦二日後になってからでした。アメリカの国内向け対日悪宣伝のほうがはるかに先を行っていたはずです。

 一般の日本人はアメリカの実力を知っていましたので、本当に戦争する相手国になるとは永い間思っていませんでした。むしろシナ大陸に介入しているイギリスやソ連はけしからぬと考えていて、その力の排除が必要とは考えられていました。イギリスとアメリカはどこまでも別の国でした。イギリスは超大国であり、アメリカは日本と並び立つ新興国であるという19世紀以来の歴史の流れの中にありました。アメリカはドイツや日本を倒す前に、まずイギリスを抑えないと先へ進めません。戦前はそういう時代でした。アメリカが超大国であることはいまだ自明の前提ではありませんでした。

 戦争直前に「近代の超克」が論じられました。文学者や哲学者がさし迫る戦時への覚悟を文明論として討議したものですが、ここでいう「近代」は「西洋近代」であり、意識されていたのはアメリカではなくヨーロッパでした。日本はヨーロッパ文明と対決するつもりでいたのです。アメリカはどこまでもヨーロッパから派生した枝葉の文明にすぎないと見られていました。

 私見では日本政府は昭和十四年(1939年)あたりまで「英米可分」で行けると踏んでいた節があります。大陸をめぐる争いの中にアメリカは出遅れていて、欧州各国の進出地に簡単に手出しはできませんでした。太平洋の島々の奪取とフィリピンの征服までは遠慮なく武力侵略をしていたにも拘わらず、大陸にはいきなり軍事介入はせず、南の方の陣固めをしていました。フィリピンやグアムを據点に、イギリス、オーストラリア、オランダと組んで日本を包囲する陣形をつくり上げ、時の到来を待っていました。アメリカは蒋介石を傀儡(かいらい)として利用することにおいてイギリスと手を組みました。

 蒋介石に手を付けたのは勿論イギリスが先です。共産党(コミンテルン)と北方軍閥と国民党(蒋介石)とが入り乱れて争うシナ大陸の内乱の中で、「排日」から「抗日」の気運が高まるのはイギリスとアメリカにとってもっけの幸いでした。日支両国が手を結ぶことを恐れていた彼らは、両国の離反のために謀略の限りを尽くします。支那の学生の抗日デモに経済支援したり、キリスト教の宣教師を動員したり、支那を味方につけようと必死で排日・抗日に協力します。このプロセスの中でいつしか「英米不可分」の情勢がかもし出されていました。それなのに、日本はずっとアメリカは対日参戦してこないと思いつづけ、「英米可分」でやって行けると信じつづけていました。ですから突如としてアメリカが正面の敵として襲いかかってきたという印象が日本人の記憶から拭(ぬぐ)えません。

 しかし少しずつ日本に圧力を加えるアメリカの黒い影は、それよりはるか前から日本国民に意識されていないはずもありません。まさかアメリカは日本に戦争するはずはないし、そんなことをしてもアメリカにとっても利益はないと日本人は信じていた反面、心の中で「日米もし戦わば」の不安な予感のストーリーがはぐくまれてもいたのです。それはそれなりの長い期間つづいていて、十数年はあったでしょう。

 つまり日本人の心の中では、アメリカとはひょっとして戦争になるかもしれないと思いつつ、従って油断大敵、準備怠りなく、などと声を掛け合いながら、どう考えてもそんなことは起こりそうもないと信じてもいたのでした。

アメリカの東洋進出――最初の一歩

 そこで、開戦の十年あるいは十五年ぐらい前に、日本がアメリカをどのように意識していたのか、またアメリカを中心とする太平洋の動き全体をどんなふうに展望していたのか、そして当時の識者たちは日本国民にどう説明していたのか、これは今検討する価値があります。

 戦争が本当に近づいたら、これはもう「敵国」という意識がはっきりするわけですが、それ以前の段階でアメリカにたいしてどんな考えをしていたのか。本書では最初にこの関心から、昭和7年4月20日に刊行された『日米戦ふ可きか』という本を取り上げてみたいと思います。満州事変から一年、日米双方の国民の感情も険しくなりはじめていましたが、まだまだそれほど敵対的ではない、そんな時代に出た本です。

 当時はこの類の本がたくさん刊行されました。『日米戦争物語』『日米不戦論』『日米果して戦ふか』『日米戦争の勝敗』『日米開戦 米機遂に帝都を襲撃?』『日米はどうなるか』『日米決戦と增産問題の解決』『日米百年戦背負う』『日米危機とその見透し』『日米もし戦はば』『日米十年戦争』『日米開戦の眞相』『日米交渉の經緯』……。

 昭和三、四年ごろから刊行されはじめ、昭和十五、六年あたりまでこうした本はつづきます。とにかく、たくさんありますから、いったいどの本が代表的で、どの本がいちばんすぐれているのか、比較調査もできないまま、たまたま入手できたこの『日米戦ふ可きか』をご紹介しようと思います。

浅野正美さんの感想

西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427
 

 当ブログ「西尾幹二のインターネット日録」はいささか手前味噌の内容、ナルシズムの傾きがあることはよく承知している。出版物ではできないことだ。前回の鈴木敏明さんの文章を紹介したように、他の人が私を誉めて下さる文章を好んで掲示する自己抑制の無さをお見せすることがよくあることは本人が心得ている。それがブログというものの有難さかもしれない、と勝手に解釈してもいる。

 友人の鈴木敏明さんにつづいて、同じく友人の浅野正美さんが私の全集について、西法太郎さんが私の脱原発論について、それぞれ二度づつご自分の体験を書いて下さっている。今日は浅野さんの文章をご紹介する。私は拝読して大変にうれしかった。実はこれを読んで、11月19日(土)の講演「ニーチェと学問」のある方向を決めたほどだ。

西尾幹二先生
全集刊行誠におめでとうございます。本日版元から送られてきて、そのずしりと重たい大冊を手にして、我がことのように喜びをかみ締めています。何という立派な装丁、そして先生の筆になる題字の美しさも際だっております。
書棚に置いたときに、輝くような存在感を発揮する書物をほとんど目にすることがなくなった昨今ですが、先生の全集にはその佇まいにも内容に劣らない気品を感じることができました。
今年1月8日のお正月、坦々塾の新年会で先生の個人全集刊行のことを初めてお聞きしてから、この日の来ることを長く待ち続けておりました。
これから足かけ6年、季節の巡りに合わせて先生の全集が届くということが、何よりの楽しみになるものと思います。
平成19年4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念パーティーの折りに配られた西尾先生の「謝辞」をここに引用させていただきます。
『私は28歳のとき、ドイツ文学振興会賞という学会関係の小さな賞をいただいたことがあります。「ニーチェと学問」と「ニーチェの言語観」の2篇が対象でした。もうこれでお分かりと思います。「学問」と「言語」は『江戸のダイナミズム』の中心をなすテーマです。若い頃の処女論文のあの日から一本の道がまっすぐに今日にまでつづいて、そしてそのテーマを拡大深化させたのが、今日のこの本だといっていいのかもしれません』

こうした言葉を読み返して見ると、全集の刊行をあえて第五巻のニーチェ論から始められたのも、納得することができます。
思想家としての西尾先生は、難解な事象を解りやすく伝える名人でもあります。言葉は伝わらなければ意味がない、という先生の思いがそうした表現に繋がっているのだと思います。上等なお酒を味わうように、じっくりと堪能させていただきます。浅野正美

 19日の講演「ニーチェと学問」について東京新聞に間もなく予告広告が出る。新聞にスペースがあって、短くまとめたその中味をのせてくれるというので、次のようにまとめた。

ニーチェは古代ギリシアの言語と思想を研究する古典文献学者でした。緻密な言葉の検証と言葉では捉えられない過去との乖離(かいり)に引き裂かれる体験は、「神の死」の自覚に直結します。古代の価値が不安定になり、把捉不可能になる17-19世紀の問題の発見は、西洋だけでなく、中国にも日本にもあり、荻生徂徠や本居宣長らの古代の復権への悲劇的認識はニーチェに先がけてさえいます。「ニーチェと学問」のテーマを世界史の広い相で再考するという新しい試みです。

 「ニーチェと学問」は話せばきりのない専門的テーマである。そこで日本人にとってそれが何であるかを語ることがむしろ必要な時代になっていると判断してのことである。

 浅野さんの次の感想文は、「坦々塾のブログ」11月9日付からの転載である。

西尾幹二全集 第五巻 感想文

<光と断崖 最晩年のニーチェ>    

         坦々塾会員 浅野 正美

 西尾先生の個人全集がついに刊行されました。私も宮崎先生と同じように、しばらくはただ眺めていました。10月21日に届いてから10日間、毎日背表紙を眺め続けて気持ちを集中していきました。時間をかけてゆっくり読もう、ドイツ語論文以外はすべて読もう、と決意して11月に変わった日から読み始めました。1頁の文字数が原稿用紙3枚になる大判にして600頁近い大冊です。果たしてどれだけの時間がかかるのか、計算すると14時間と出ました。毎日2時間で一週間と予定を立てて読み始めてから一時間後、進んだ頁数はやっと30でした。

 決して急がず、時には前に戻りながら目の前にある文章の理解に努める、という読み方で毎日朝夕1時間をこの本のためだけに費やすこと8日、やっと読了することができました。不思議なことに、この間他の文章を読むという気分にならず、新聞や週刊誌を始め、本業に関する報告書や業界紙にもほとんど目を通すことがありませんでした。一切の夾雑物を廃して挑まねば、この高峰には登れないという意識が働いたのではないかと思っています。読み進んでいるときに感じたのは、若い頃に多少遊んだ北アルプスの雪山登山の経験と似通っているということでした。雪山であれば、夏道と呼ばれる曲がりくねった登山道も雪に埋もれているため、一直線に頂を目指すことができます。その分勾配は急になり、呼吸も荒くなります。確実にいえることは、一歩一歩の歩みは苦しくとも、確実に頂上に近づいているという事実です。ただしこれだけでは頁を繰ることの集積で登頂が果たせるということになってしまいます。

 若い頃の私にとって、西尾先生は里から仰ぎ見る霊峰のごとき存在でした。ただし「光と断崖 最晩年のニーチェ」を読み終えた今、その山に登頂したという気持ちはまったくありません。里からアプローチにたどりついてみたら、里からながめているたおやかな峰が、峨々たる岩肌も露わな、かくも巨大な岩稜であると知り途方に暮れてしまった、といった表現が正直なところです。思想の核心に一歩でも近づくことができなかったならば、それはただ単に本を読んだという事実があるに過ぎません。

 この巻にも収録されている西尾先生訳の「この人を見よ」は、過去に新潮文庫で二度、筑摩文庫のニーチェ全集で一度読んだことがあり、今回で4回目の挑戦になりました。私にはニーチェに強く惹かれたという経験はなく、それでも筑摩の文庫全集は全部読みましたが、時々はっとする短い箴言に共感することはあっても、全体を通した理解には遠く及びませんでした。正直に言えば、日本語で読んでいて、こんなにもわからない本はない、というのが私の偽りのない実感でした。

 西尾先生が何度か強調されているように、「言葉と学問」を糸口に、改めて主要作品を読み返してみようと思っています。ニーチェに対しては、猛毒を帯びた危険な存在、悪書、というイメージが一般にはあるのではないかと思います。神を殺した野蛮人であり、ナチズムの思想的バックボーンとなった誤った思想家、あるいは最後には狂人と化した怪物。ナチズム云々に関しては本書で、トーマスマンの誤解が後年通説化して一般に広まってしまったという歴史的な事実を知ることができました。

 ニーチェの思想を勝手に解釈して自己の政治的正当性の根拠にしようという試みや、ナチズムが胚胎する元になった、ドイツ民族優越論は、ニーチェにその萌芽を見ることができるといった曲解はニーチェには何の責任もないことであり、意味合いは違うのかもしれませんが、日本が軍国化した基層には神話と神道、そして天皇制にその原因があるという、戦後抜きがたく定着してしまった我が国の不幸に通じるものを感じました。

 ニーチェに惹かれるレベルまで理解の及ばない私が、仮にも文庫全集を読もうと思ったのは、この人が後生に与えたあまりに大きな影響が導火線になっています。引き合うにせよ反発するにせよ、多くの人がこの巨人の磁力に巻き込まれて多くの言葉を残しています。R・シュトラウスは、冒頭のメロディーだけならだれもが知っている交響詩「ツアラトストラ」を作曲し、現在でもオーケストラの演奏会では主要な演奏レパートリーとして盛んに取り上げられています。

 ワーグナーとニーチェとの関係は、当初の賞賛から一方的な決裂という破局まで180度の転換を見せますが、この極端な変化の原因を私は何度か人に尋ねたことがありました。大方の答えは「似たもの通しだから」、「磁石の同極が反発し合うようなもの」というありきたりの答えで、充分納得できるものではありませんでした。西尾先生はこの両者の関係を、ニーチェの文体とワーグナーの音楽の構造に見られる類似性から説き起こし、凡百の解説とは雲泥の差をもって明快に説いておられます。

 残念ながら私には、ワーグナーの聖地バイロイト劇場で彼の作品を鑑賞したという経験がありませんが、本書には若い日の西尾先生がそこに一週間滞在し、ワーグナーが理想的な上演を目指して建てさせた独特な構造を持つ劇場で音楽を体験した日のことが書かれています。多分「リング四部作」を始めとして、代表的なオペラの内のいくつかを聴かれたのではないかと思います。きっとそこでは東京の一般的な劇場やレコードでは味わうことのできない音楽が鳴り響いていたことと思います。この箇所を読みながら、最後までワーグナーに耽溺し国庫を空っぽにしてまで理想の城を造り続けたバイエルンの国王、ルートヴッヒ二世のことを思い浮かべていました。ヴィスコンティの耽美的な映画を観た方も多いのではないかと思います。彼は晩年にいたって幽閉され、癈人同様となり、発狂するか絶望して入水自殺したといわれています。

 ルートヴッヒ2世が建てた城の中でももっとも有名なノイシュバンシュタイン城(別名白鳥城)には、新婚旅行で一度だけ行きました。観光客が見ることができるのは宏大な建物の内のごく一部に限られますが、若き国王がこの城にワーグナーの作品世界を贅沢に再現したその情念には、ただただ圧倒されるばかりでした。

 フュッセンという南ドイツの田舎町にこの城はあり、城の建つ丘の上からは市街を一望に見渡すことができます。緑の中に建物が点在するのどかな田園風景に暮らす人の多くが、狂王の遺産である観光資源によって幾ばくかの糧を得ているのは間違いのないことだと思います。黄葉の森に囲まれた城と下界の街を見ながら、「ルートヴッヒさん、100年かけてあなたは充分に元を取りましたね。」と心の中でつぶやいていました。

 西尾先生には何としても200歳か300歳まで仕事をしていただいて、個人全訳ニーチェ全集を出版していただきたい、という妄想とも夢想ともつかない願望をこの一巻を読んで痛切に感じました。まずは未だ未読の西尾先生の訳になる「アンチクリスト キリスト教呪詛」を必ず読もうと思います。
今ニーチェを読み返せば、今までよりは多少理解できることがあるのではないか、というのは根拠のない錯覚かもしれませんが。

 私は西尾先生を巨大な山に例え、いくら読んでも登頂することが叶わない永遠の未踏峰であると感じました。山男は登頂することを征服するともいいますから、当然のことですがそんなことができるはずがありません。先生は今年の夏、駆け足で上高地と飛騨高山の旅をされたと書かれていました。上高地では、梓川の向こうに穂高連峰が連なって見えますが、先生が行かれたときにはその姿を目にすることができたのでしょうか。私も上高地には、山登りをしていた頃に何度も通い、ここで半年間働いていたこともあります。麓の安曇野からも見える北アルプスの山々は、上高地まで来るとぐっと近く、大きく、迫力を増して見えますが、この山の本当の大きさと厳しさは、上高地からさらに20㎞以上歩いた先でないと実感することはできません。樹林帯を進むとき、山は一端視界から消え、森林限界を超えて空が広くなった時に初めてその全容や岩の荒々しさが目の前に飛び込んできます。

 全集22巻を通読したときに、果たして私の視線はどの位置から西尾幹二という巨峰を仰ぎ見ているのかというのは、今の私にとって楽しみでもあり恐怖でもあります。願わくばアルピニストのベースキャンプでもある個沢(からさわ、標高2500メートル地点にあり穂高連峰へはここから本格的な山登りが始まる)まで到達していたいと思いますが、ひょっとしたらそのときもまだ安曇野の田園風景の遠くに連なる山を仰いでいるかもしれません。象徴的なことですが、安曇野から見える山々は前山といって、穂高の主砲群ではありません。この前山は燕岳、常念岳、蝶ヶ岳、霞沢岳、六百山と連なっていますが、上高地から上流を見たときには右手、川の左岸に連なる山々で、右岸に連なる槍ヶ岳から焼岳にいたる山脈とは遠く隔たっています。里からはこの前山が衝立の役割をはたしてしまい、槍、穂高の峰々の目隠しになっているのです。前山を見て、「穂高を見た!」と叫ぶことだけはしたくないと思います。

浅野正美

西尾幹二全集(全22巻)発刊に思う

ゲストエッセイ 
鈴木敏明 えんだんじのブログ 1938年 神奈川県生まれ
1956年 県立鎌倉高校卒業
外資系五社渡り歩いて定年
定年後著作活動、講演等に専念
これまでの著作
・「ある凡人の自叙伝」1999年 自費出版図書館編集室
・「大東亜戦争は、アメリカが悪い」2004年 碧天社
・「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」2006年 展転社
・「逆境に生きた日本人」2008年 展転社

 私は成人して以来、50年間日本の知識人の言動を見てきました。戦後日本の知識人の印象と言えば、彼らは本当にバカ、アホ丸出しの救いがたい人たちの一言につきます。その理由はなにか?彼らは共産主義、ソ連に惚れ込みまさに悪女に憑かれたという表現がぴったりです。ソ連という悪女の醜さに自らの目と耳を覆い盲信、盲進したのだ。日ソ不可侵条約の突如の破棄、北方四島略奪、60万日本兵の強制収容と強制労働、そのために日本兵が5万から7万人の死者が出た。これらの現実は、まだ戦後日本人の記憶の中にある生々しい史実なのだ。ところが知識人は、この現実を見ようとしないのだ。そしてあの有名な安保騒動。ぞっとする彼らの徹底した親ソ反米。一方我々一般庶民は、ソ連の実態をすでに認識していて、日本はアメリカ占領軍に支配されたが、ソ連軍に支配されなかったのは不幸中の幸いで、心底ソ連軍に占領されなくて良かったというのが認識だったのだ。だからこそあれほどの安保騒動後に自民党政府は解散し、総選挙しても、自民党政府の圧勝に終わったのです。当時著名な知識人であった蝋山政道は、自著「日本の歴史26巻」(よみがえる日本 文芸春秋社)、の中で総選挙敗北の教訓を次ぎのように書いている。

 「第一は、日米安保条約のごとき国際外交問題に対して、日本国民はいまだ平素じゅうぶんな知識や情報をあたえられていない。日常生活に関する地域または職域についての国内問題であるなら、一定の知識・経験によって実感的に判断する能力をもっているが、外交政策になると、その実感は一方的な不満や不安をかきたてる宣伝に動かされやすい」

 「第二は、第一のそれとつながっている。日常生活と国際的地位という大きな距離とギャップを持っている政策問題について、一般の国民にそれを統一する理解を期待し、政策形成に寄与することを求めることはできない」

 どうですか、蝋山政道のこの傲慢ぶり、完全に日本の一般国民をバカにし、自分たちの主張が正しいのだと言わんばかりですし、総選挙での革新派の大敗を国民の無知のせいにしているのだ。このように安保騒動後の総選挙大敗後も一般国民と知識人とのソ連に対する認識ギャップを意識することなく、自分たちの考えが正しいのだとソ連にのめりこんでいったのだ。そしてベトナム戦争で見せた日本の知識人の勝手な幻想、すなわち北ベトナムは天使、南ベトナムとアメリカは悪魔との幻想が北ベトナムによる共産党一党独裁国家の樹立という目的を見抜くことができなかった。どうして戦後日本の知識人は、こうまで愚かなのか。結局彼らは、現実を直視しようとせず、時勢、時流、権力に迎合することに夢中になるからです。すなわち彼らは、日本人のくせにソ連の権力に迎合したのです。

 ここで日本通の一人の外国人が、日本の知識人をどう見ているのかとりあげてみました。その外国人の名は、オランダ人のジャーナリストでカレル・ヴァン・ウォルフレン。ウォルフレン氏は、日本経済絶頂期の1989年に「日本/権力構造の謎」(The Enigma Of Japanese Power)という本を出版した。この本は世界10ヶ国語に翻訳され、1200万部売れたという。私もその頃この本の翻訳本を読みましたが、いまでは何が書いてあったかほとんど忘れてしまっています。私は、このウォルフレン氏がきらいなのです。彼は日本語がペラペラ、その日本語で大東亜戦争日本悪玉論を主張するのです。私は日本語を話せない外国人が外国語で大東亜戦争日本悪玉論を語っているより、日本語堪能の外国人が大東亜戦争日本悪玉論を語っている方が怒りを強く感じるのです。「日本をもっと勉強しろ」といいたくなるのです。第一ウォルフレン氏がオランダ人であることが気にいらない。大東亜戦争の時オランダ軍など当時の日本軍にとってはハエや蚊のような存在だ。オランダはアメリカと同盟を組んでいたからこそ勝利国になれたにすぎない。終戦後は、勝利国面して日本批判を繰り返し、オランダの女王が来日した時、平然と日本を批判した。オランダが植民地、インドネシアに何をしてきたというのだ。オランダに日本を非難する資格など一切ない。こういうことをウォルフレン氏に直接言いたいくらいなのです。それではなぜ、ウォルフレン氏をとりあげたのか。彼が日本の知識人について名言を吐いているからです。

 彼は自著「日本の知識人へ」(窓社)の冒頭のページでこう書いています。
 
 「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の利益を守ることにあるからだ」
まさにこれは、名言ですよ。知識人らしい知識人がいないことは、日本国民にとって悲しむべきであり、危険なことであると言っているのは、まさにその通りです。私などそのことを、痛切に感じています。さらに彼は、こう書いています。

 「日本では、権力から独立した知識人がいないどころか、むしろ、権力によっても認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流でした」

 全くその通りです。多くの知識人は、権力に認められることを望むのだ。そのために権力に認められようとあからさまな行動にでる。ここまで知識人としてのあるべき姿について私の意見とウォルフレン氏の意見を紹介してきました。この両者の意見を保守言論界の長老とも言われる西尾幹二氏にあてはめてみました。私は主張しました。日本の知識人は、あまりにも時勢、時流、権力に迎合過ぎる。その例外が西尾幹二氏なのです。西尾氏は、時勢、時流、権力に迎合しないどころか、あらゆる団体、業界などからの支援なども一切受けず、学閥、学会などとは無縁です。従って西尾氏の発言には損得勘定がない。要するに私に言わせれば、西尾氏は、崇高なまでに孤高をつらぬいて現在の学者として地位を築いてきたわけです。この崇高なまでの孤高は、知識人にとって非常に重要で、そのことが、ウォルフレン氏の指摘する知識人としての規格にあてはまるのです。西尾氏は、知識人が一番必要とされている時に、知識人らしく振舞える非常に数少ない知識人の一人なのです。知識人が必要な時に知識人らしく振舞えるとは、どういうことかと言うと、非常に難しい問題が生じ、私たち一般庶民が明快な回答に窮するとき、あの人ならどんな考えを持つのだろうかと、その人の意見に期待を寄せることができる人の意味です。西尾氏は、どう考えているのだろうかと私たち庶民が期待をよせることができる数少ない知識人ではないでしょうか。

 ウォルフレン氏は「日本では、権力から独立した知識人がいない」という。確かにそのとおりだと思います。しかし例外もあります。西尾幹二氏です。権力から独立した、日本では非常に数の少ない、希少価値のある知識人です。これは何十年間にわたって崇高なまでに孤高をつらぬいてできる知識人の技とも言えるのではないでしょうか。

 その西尾幹二氏の全集、全22巻のうち最初の5巻「光と断崖―最晩年のニーチェ」が国書刊行会から先月出版された。今どき全集が出せる文筆家や知識人はいない。西尾氏のすぐれた学問的業績が認められたためでもあり同時に50数年にわたる生き様も認められたのだと思い、素直に西尾先生にお祝いの言葉をささげます。また同時に全集出版は、私のような西尾ファンにとってもとても喜ばしいのです。出版社は慈善事業ではありません。全集を出したところで売れないと判断したら、誰が出版するものですか。全集を出しても売れると判断したからこそ出版するのです。ということは私のような西尾ファンが全国大勢いるということです。そのことは、現在のような情けない状態の日本でも健全保守、健全な愛国者が多いいということを改めて認識させてくれるので非常に嬉しいし、心強い思いをさせてくれるのです。

 西尾先生、おめでとうございます。これからも日本国家のため、長く、長く健筆をふるってくださるよう切にお願い申し上げます。

全集書評

宮崎正弘さんによる書評 
 これは現代日本の思想界の“事件”だ

            西尾幹二全集、刊行開始! 特集号

西尾幹二『西尾幹二全集 5 光と断崖、最晩年のニーチェ』(国書刊行会)

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 ▲ニーチェの多岐にわたる全貌、知のダイナマイトが爆発

 西尾幹二全集の第一回配本はニーチェ。単行本になおして五、六冊分を収録している。

 まずは造本、装丁のみごとさにうたれ、じっと本棚において観ていた。二、三日のあいだ、ただ眺めていたのである。

 これを読み徹すために、今後、いかなる読書時間を配分するか、毎日すこしずつ読んでいくしか方法がないだろうけれども、それをどう工夫するかという形而上学以前の思考に明け暮れる始末だった。

 本棚のもう一つの棚には福田恒存全集(麗澤大学出版版)が鎮座ましまし、ともかく全巻がそろっているが、ようやく半分を読んだに過ぎない。福田さんの書き方は平明だから速読出来るが、それでもあの膨大な作品群をぜんぶ読むとなると、それはそれは大変な作業である。もうひとつ余計なことをつけくわえると私の本棚に三島全集はない。全作品をばらばらで持っており、文庫版にいたっては同じ本を3冊も四冊ももっているけれど。

 村松剛は全作品もっているが、江藤淳は一冊しかない。小林秀雄と保田輿重郎もほぼ全作品をばらばらに持っている。

 さて、わたし自身、西尾さんの良い読者とは言えない。

  『ヨーロッパの個人主義』『ヨーロッパ像の転換』など学生時代に夢中になって読んだし、衝撃的デビュー作以後の西尾作品をほぼ全部読んだつもりでいたのは、じつに浅はかな錯覚で、というより思い違いだった。全集の作品一覧をみて、西尾さんはこれほど多作だったのかと感嘆したのだ。

 ▲これほどの多作家だったとは

 西尾幹二全集の概要を見渡せば、冷戦終結以後の東欧のルポや『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』などを鮮明に記憶するのに、初期の作品群と翻訳は『この人を見よ』いがいに読んでいないことに気がついて、やや茫然とする。

 ただし新潮文庫にはいった西尾幹二訳の『この人を見よ』は三回か四回読んでいる。そうでありながらまだ咀嚼できない。

 ニーチェは難しい。

 ニーチェは日本で最も人気のある哲学者・思想家だが、これほど広く誤解されている、あるいは完全にまちがって人口に膾炙された思想家もいないだろう。またナチスの魁だとか、『権力への意思』は未完成だったが、その死後の真実も殆ど知られていない。トーマスマンが批判したニーチェ解釈が、まだ日本の読書界の一部に蔓延している。

 そもそもニヒリズムを「虚無主義」と日本で翻訳されたところが誤解の出発ではなかったのか。キリストを否定した一点で毛嫌いされた読書家も多いらしいが、虚無だけの観点なら中里介山『大菩薩峠』という仏教の無を表した作品がある。

 「ニヒリズム」とは何か。西尾さんは簡潔に言う。

 「ニーチェは二千五百年に及ぶプラトン以来の形而上学の歴史が意味を失ったことともってニヒリズムとしている」(479p)。

▲三島由紀夫とニーチェ

 さて小生にとってのニーチェとは、文学青年時代に濫読した思想家のワンノブゼムでしかなく、熱狂したこともなければ、すみずみまでを舐めるように全作品を読み通した体験もない。

 そうはいうもののサルトルやラッセルなど途中で本を捨てた哲学者とは異なって、何となくニーチェに関心を抱いたのは、じつは三島由紀夫が触媒である。

 三島が『豊饒の海』に取り組む前までに、もっとも影響を受けた思想家はニーチェである。断定的に聞こえるかもしれないが、三島の『宴のあと』『絹と明察』はまことにニーチェ的であり、『美しい星』の主人公達はディモーニッシュであり、三島がニーチェをよくよく読みこなしていたことは研究者のあいだにも知られる。そして三島が好んだ音楽はワグナーだった。

 さすがに西尾さんは、この点に重々ふれて、次の文言を挿入されている。

 「萩原朔太郎が表現と情緒において感性的影響を受けた孤独は漂泊者の姿、斎藤茂吉の作歌の隅々に反響している生命観のリズム、小林秀雄が歴史の客観的学問に懐疑を寄せた際の、美と生の模範としての概念拒否の姿勢、三島由紀夫が認識と行為の矛盾した軌跡に示したパトスの源泉としての意味」。

 つまり三島とニーチェの結びつきは、「最初からなんとなく予感されるある内的緊密生」(529p)を保有している、と。

 三島がニーチェを卒業し、神道から仏教思想へいたる過程が『奔馬』『暁の寺』である。

 わたしはニーチェが仏教について次のように書いていたことを、西尾幹二全集を通して、じつは初めて知った。

 ニーチェの仏教のとらえ方とは、

 「仏教は、幾百年とつづいた哲学的運動の後に出現しているのだ。<神>という概念は、出現当時すでに、始末がついている」

 「仏教は、もはや<罪に対する戦い>などを口にしない。その代わり、どこまでも現実というものを認めた上で、<苦悩に対する戦い>を言う。仏教はーーこの点でキリスト教からは深く区別されるのだがーー道徳概念の自己欺瞞をとうに脱却している」

 そしてこうも言う。

「仏陀は、心を平静にする、あるいは晴れやかにする理念だけを要求する」

「仏教の前提をなすものは、きわめて温暖な風土と、風俗習慣に観られる大いなる柔和さ、暢びやかさといったものであって決してミリタリズムではない」

 もっとも『この人を見よ』には次の記述があった。

 「(ルサンチマンが御法度と知っていたのは仏教であり)、仏陀の『宗教』は、むしろ一種の衛生学と読んだ方が、キリスト教のようなあんな哀れむべきものとの混同を避けるためにもかえって良いのだが、この『宗教』はルサンチマンに打ち勝つことを持ってその功徳としていた。つまり、魂がルサンチマンによって左右されないようにすることーーこれが病気からの回復への第一歩なのである」(西尾訳)

▲ニーチェの翻訳は岩魂を鑿で彫り刻むような仕事

 西尾氏のニーチェへの取り組みは全生涯かけての学問的要求と執念に満ちている。

 その凄まじいまでの取り組み姿勢は留学中のドイツでイタリア人のニーチェ研究家に会い、膨大な文献、未整理の資料に圧倒され、また西ドイツのニーチェ研究がむしろ遅れていること、ワイマールのニーチェ蔵書が手つかずのまま残っていることなどを知る。

 訳業にあたっては精読に精読を重ね、ドイツ留学時代にもあらゆる関連文献を探し、あるいは目処をつけ、幾多の資料を買い込み、マイクロフィルムにも特注し、私製の海賊版をつくり、そして書斎に寝かせて“熟成させる“歳月も必要だった。

 西尾さんは翻訳の苦労に関してこういう。

 「ニーチェの文章を翻訳するのは岩魂を鑿で彫り刻むように仕事である。一語一語が緊密に詰まって、内容が圧縮されているからである。しかも語と語のあいだに意味上の空隙があり、飛躍があり、従って訳語の選択にはきわめて大きな自由の幅が与えられている。訳者の解釈力がそのつど強力に問われる」

 そしてできあがったニーチェ研究の集大成にはドイツにおける研究成果の検証、日本における高山樗牛からかれこれ百年になろうというニーチェ研究の来歴を総括されるという、あきれるほどの労力が濃縮されて第一回配本に集約されたのである。

 一週間かけて、ようやく初回配本を(ドイツ語論文をのぞいて)読み終え、呑んだ珈琲のおいしかったこと!

全著作を収めた初の決定版全集!!  西尾幹二全集

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全22巻(年4冊刊行)

 ―  ニーチェ研究で衝撃のデビューを果たし、日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた「知の巨人」西尾幹二の集大成。

― ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、文学評論、教育論、日本の歴史、世界史観、さらにはヨーロッパ留学から病気体験を経て、自己の少年期までを語る自分史を通じ、自由とは何か、人生の価値とは何か、日本の根本問題とは何かを問うてきた思想家の、そのひたむきな軌跡を辿る。

第一回配本 第五巻(六〇九〇円(税込) 発売中

 『光と断崖──最晩年のニーチェ』 ~発狂直前のニーチェ像を立体化し、未刊行の・西尾のニーチェ・を集成する

(全巻の内容)

西尾幹二全集 全二十二巻(巻数順に年四冊配本予定)

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第 一 巻 ヨーロッパの個人主義 平成二十四年一月刊行予定

第 二 巻 悲劇人の姿勢

第 三 巻 懐疑の精神

第 四 巻 ニーチェ

第 五 巻 光と断崖―最晩年のニーチェ(発売中)

第 六 巻 ショーペンハウアーの思想と人間像

第 七 巻 ソ連知識人との対話

第 八 巻 日本の教育 ドイツの教育 

第 九 巻 文学評論

第 十 巻 ヨーロッパとの対決

第 十一 巻 自由の悲劇

第 十二 巻 日本の孤独

第 十三 巻 全体主義の呪い

第 十四 巻 人生の価値について

第 十五 巻 わたしの昭和史

第 十六 巻 歴史を裁く愚かさ

第 十七 巻 沈黙する歴史

第 十八 巻 決定版 国民の歴史

第 十九 巻 日本の根本問題

第 二十 巻 江戸のダイナミズム

第二十一巻 危機に立つ保守

第二十二巻 戦争史観の革新

内容見本ご希望の方は、下記へお問い合わせ下さい。

株式会社 国書刊行会

電話:03-5970-7421 Fax :03-5970-7427

Email:nakagawara@kokusho.co.jp

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 <西尾幹二全集刊行 記念講演会>

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西尾幹二先生の全集刊行が開始されました。これを記念して氏の講演会が開催されます。ふるってご参集下さい。入場無料です。

         記

とき  11月19日(土曜) 午後六時開場 六時半開演

ところ 池袋「豊島公会堂」http://www.toshima-mirai.jp/center/a_koukai/

演題  西尾幹二「ニーチェと学問」

入場  無料

主催  国書刊行会(http://www.kokusho.co.jp)

    問合せ先03‐5970‐7421

黙々と課題を片づける

 日々の課題を黙々と片づける生活がつづいている。気温が下がる時期には体調に変化が生じるので気をつけないといけないと思いつつ、時間をフルタイムに使って生きている。

 今日やった課題が表に出るのは一ヶ月後だったり、一年後だったりするので世間からは私の毎日の暮らしは見えない。最近いいことは早く寝て早く起きるようになったことだ。「夜型」人間であることを止めて久しい。

 『WiLL』12月号(10月26日発売号)だが、「西尾幹二全集 刊行記念 特別対談」と銘打って、遠藤浩一さんとのトーク、題して「私の書くものは全て自己物語です」という10ページ仕立ての対談を出していただく。

 小見出しは下記の通りである。

● 出会いは高校三年生
● 「自由」が与えられた恐怖
● 「比較」には驚きが大事
● 根源的な大江健三郎批判
● 「江戸」がニーチェの続篇?
● 福田恆存からの離反劇
● 三島由紀夫との出会い
● 世界史のなかの日米戦争

 小見出しだけ見ても何のことか分らないだろうが、何となく分るという方もおられるかもしれない。花田編集長曰く「これを読めばきっと全集を買いたくなりますよ」に、私は「え?ホント?」と応じて、半ば期待し、半ば「そんなに甘くないぞ」と思っている。全集は今日(21日)にやっと予約者に配送されだしたようだ。

 次いで『正論』12月号は特集「日米開戦20年と歴史問題」に対応し、「真珠湾攻撃の高い道義」を寄稿した。最初に予定した題「このまゝ『戦後百年』が来ていいのか」は長すぎてダメ、次に考えた「アメリカの敵はイギリスだった」は気を引く題だが、特集に合わない。小島副編集長とあぁでもないこうでもないと話し合って上記にやっと決まった。

 どうだろう?大胆すぎるだろうか?否、ちっとも驚かない、もうここいらで普通並だと思うだろうか。とにかく70年経過して、何をどう言おうともう人に衝撃を与えることはできまい。

 遠藤さんとの先の対談の最後の小見出し「世界史のなかの日米戦争」に関係もあるテーマであり、次の私の仕事の大構想がこれである。生きている間に果たすことができるか。

 それにともかく、徳間のシリーズの⑤はすでに出ているが、11月中に⑥を出して、次のように二冊まとめて世に訴えることになっている。

「パールハーバー70周年記念」
『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ・満洲・支那の排日』
『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』

 いま校正ゲラ刷りを見ている最中である。日々の課題を黙々と片づける私の日常生活はこんなふうに続いている。今日は有楽町朝日ホールの「これからの原子力を考える」シンポジウムに行って言うべきことをガンガン言ってきた。保守派で数少ない原発反対の役割は小さくない、と自認している。明日は小石川高校の久し振りの同窓会である。日比谷公園内の松本楼で開かれる。また酒を飲むことになる。

西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

シンポジウムのお知らせ

 シンポジウム

これからの原子力を考える
  東京電力(株)・福島第一原子力発電所事故と原子力の行方

日時:平成23年10月21日(金)14:00~16:30

場所:東京・有楽町朝日ホール(有楽町マリオン11階)03-3284-0131

主催:社団法人日本原子力文化振興財団

パネリスト:石川迪夫氏 日本原子力技術協会・最高顧問
      豊田有恒氏  劇作家
      西尾幹二氏  評論家
      山名 元氏  京都大学原子炉実験所・教授
      吉岡 斉氏  九州大学副学長・教授

コーディネーター:田原総一朗氏 ジャーナリスト

構成
福島第一原発事故とは〇事故の原因は?(地震は関係なかったのか)
〇原子力は人間に制御できる技術なのか?
〇なぜ日本の原子力は、事故を想定していなかったのか?
◇放射線・放射能の危険性とは→放射線の専門家1名加わる

日本の原子力の行方、エネルギーの展望〇日本だけが「脱原発」で意味があるのか?(中国や韓国などの動き)
〇原子力をやめるとしたら、使用済燃料サイクルや放射性廃棄物はどうするのか?
〇ポスト原発、やめるとしたら、ポスト原発はどのようなエネルギー源で賄っていくのか(原子力を減らしていけるか)?

全集刊行開始

 平成23年(2011年)10月13日、刊行予定日に西尾幹二全集第五巻(第一回配本)が無事に刊行されました。大手書店の店頭には17日に現われます。ご予約いただいている方には17日の週より宅送されます。地方は遅れますが、月末までには届くとのことです。ありがとうございました。

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 多数の方々からご予約いたゞけたことは大変に嬉しく、光栄に存じております。

 内容見本は版元に電話(03-5970-7421)して下されば送ってもらえます。まだの方はどうかよろしくお願いします。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (5)

 『正論』11月号に「ニーチェ研究と私」が出ている。全集第5巻(第一回)の内容を示唆するだけでなく、ニーチェについて私がした仕事、し残した仕事を整理して述べている。

 『WiLL』12月号のために明日遠藤浩一さんと私の全集発刊の意義をめぐって対談をする。雑誌面で読めるのは今月の末になる。この両雑誌の全面的支援はまことにありがたい。

 全集の新聞広告は10月末に朝日、読売、日経、産経等に出るときいているが、広告のキャプションづくりで国書刊行会の編集部は大変に苦労したようだ。

 やっと決まったというその内容を少し恥しいがご紹介する。

予約受付開始 善著作を収めた初の決定版全集!!

西尾幹二全集  全22巻 年四冊刊行

ニーチェ研究で衝撃デビューを果たし、
近代日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた
「知の巨人」西尾幹二の集大成。
ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、
文学評論、教育論、日本の歴史、江戸の学問論を展開。
世界の知識人との対話や
日本の言論界での苛烈な論戦を経て、
自由とは何か、人生の価値とは何か、
日本の根本問題は何かを問うてきた
思想家の半世紀を超える軌跡を辿る。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (4)

光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集) 光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集)
(2011/10/12)
西尾幹二

商品詳細を見る

 私がいま振り返って辛うじて他人に見せられるような文章を残しているのは25歳以後である。誰でも出発点をどう踏みしめてスタートしたかを確かめてみたくなる。30歳から40歳ごろまで私はこのうえなく多産だった。爆発的といってもよいくらいの活動をしている。

 主に三つに分類できる。全集を編集する前からそう思っていた。第一巻『ヨーロッパの個人主義』、第二巻『悲劇人の姿勢』、第三巻『懐疑の精神』の三巻に分けたのには理由がある。

 第一巻はドイツ留学体験記で、処女出版であり、文明論であり、言論界への出発点である。第二巻は私が師表として仰いだ東西の思想家小林秀雄、福田恆存、ニーチェを軸とし、三島由紀夫の悲劇的な死のテーマにつながる。

 それに対し第三巻は混沌として形をなさない。私は星雲状の嵐の中にいる。しかし意思は一番明確でもあった。私の批評の原型がこの「懐疑」ということばの中にある。

 第三巻『懐疑の精神』とは、出版という形になる前の私自身の思考の渦、外の現実の世界への触覚によるタッチから始まり、ゆっくりと転身し、静かに展開し、40歳台の安定期に入る軌跡を辿っている。もし将来私に関心を持つ解明家がいたら、この第三巻が私を解く鍵というだろう。

 第三巻の編集には大変に時間がかゝり、手間取った。ようやく「目次」が完成したのでお目にかけたい。非常に長い目次であるが、まずは説明の前に全体をお示しする。

第三巻 懐疑の精神

Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)

私の「戦後」観
私のうけた戦後教育
国家否定のあとにくるもの
知性過信の弊(一)
私の保守主義観

「雙面神」脱退の記
一夢想家の文明批評――堀田善衛『インドで考えたこと』について
夏期大学講師の横顔――福田恆存先生
民主教育への疑問
知識人と政治

Ⅱ 懐疑の展開

大江健三郎の幻想風な自我
状況の責任か、個人の責任か――ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』
老成した時代
短篇思想の国
帰国して日本を考える
 反近代」論への疑い( )日本人論ブームへの疑問( )読者の条件( )
 比較文化の功罪( )節操ということ( )前向きという名の熱病( )
 変化のなかの同一( )江戸の文化生活( )物理的な衝突( )現代のタブー( )
個人であることの苦渋
実用外国語を教えざるの弁
わたしの理想とする国語教科書

Ⅲ 反乱の時代への懐疑(ドイツからの帰国直後)

国鉄と大学
喪われた畏敬と羞恥
知性過信の弊(二)
文化の原理 政治の原理
二つの「否定」は終わった
ことばの恐ろしさ
見物人の知性
 見物人の知性( )外観と内容( )ネット裏の解説家( )
紙製の蝶々
自由という悪魔
高校生の「造反」は何に起因するか
生徒の自主性は育てるべきものか
大学知識人よ、幻想の中へ逆もどりするな
ヒッピー状況と教養人

Ⅳ 情報化社会への懐疑

言葉を消毒する風潮
マスメディアが麻痺する瞬間
テレビの幻覚
現代において「笑い」は可能か
日本主義――この自信と不安の表現

Ⅴ 地図のない時代

哲学の貧困
権利主張の表と裏
はじかれるのが恐い日本人
ソルジェニーツィンの国外追放
韓非子を読む毛沢東
ノーベル平和賞雑感
オリンピック・テロ事件に思う

Ⅵ 古典のなかの現代

知的節度ということ――サント・ブーヴとゲーテの知恵

人は己れの保身をどこまで自覚できるか
  ――ピランデルロと教養人の生き方

富と幸福をめぐる一考察
  ――ベーコン、ショーペンハウアー、ニーチェ
古典のなかの現代
  ――ベーコン、ニーチェ、ルソー、ヴォルテール、
パスカル、吉田兼好、マキアヴェリ

Ⅶ 観客の名において――私の演劇時評

序にかえて――ヨーロッパの観客
第一章 文学に対する演劇人の姿勢
第二章 解体の時代における劇とはなにか
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって
第四章 捨て石としての文化
第五章 ブレヒトと安部公房
第六章 情熱を喪った光景
第七章 シェイクスピアと現代

Ⅷ 比較文学・比較文化への懐疑

東大比較文学研究室シンポジウム発言(司会芳賀徹氏)
東工大比較文化研究室シンポジウム発言(司会江藤淳氏)

追補 今道友信・西尾幹二対談「比較研究の陥穽」

後記

 以上の長い目次のⅠのブロックを「懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」として区切ったのは、これが私の20歳台の文章であることを示している。ドイツ留学が29歳から32歳であったから丁度区切りがいいのである。

 私は20歳台後半に『雙面神』という同人誌に属していた。同人には小田実、饗庭孝男などがいた。戦後派作家特集が組まれた。堀田善衛特集号で私が彼の『インドで考えたこと』を批判する文章を書いたところ、同人会を牛耳っていた幹部Sが私に無断でこれを掲載しなかった。小田も饗庭もこの件には関与していない。

 同人会の幹部Sは、戦後派を批判してもいいが、「大きく救う」ところがなくてはいけないと言った。私はその言い分に疑問をもち、そこにまた当時の文壇を蔽っていた不健全な政治主義的空気を感じ、脱会した。

 この一件をどういうわけか文芸誌『新潮』が嗅ぎつけ、私は「『雙面神』脱退の記」という短文を書くことになった。これは私が公刊雑誌に最初に書いた文章で、しかも『新潮』との長い、重要な関係はこの時をもって始まる(1962年4月号)。

 このころ言論誌『自由』が懸賞論文を募っていた。私は「私の『戦後』観」をもって応募し、第一席に入った(1965年2月号)。選考委員は竹山道雄、林健太郎、福田恆存、木村健康、武藤光朗、平林たい子、関嘉彦の諸先生だった。

 「私のうけた戦後教育」は受賞第二作として同誌(1965年7月号)に掲載された。この中で私は芥川賞作家大江健三郎――大学の同期であった――のエッセイ集『厳粛なる綱渡り』をとり上げ、「戦後世代と憲法」という平和と民主主義を信仰のように崇める教育論に異議を唱えた。私の大江批判はこのときに始まる。29歳だった。

 「私の『戦後』観」は文藝春秋の池島信平氏の目に留まり、『文藝春秋』から依頼が来た。「国家否定の後にくるもの」(1965年8月号)がそれである。

 そのころお教えをいたゞいていた福田恆存先生から、身に余る大役を仰せつけられていた。インターネットにすでに明らかにされている通り、筑摩書房刊の現代日本思想大系第32巻『反近代の思想』(福田恆存編)の100枚解説文の下原稿を頼まれた。先生は発表に当たり手を加えたが、事実上代筆だった。

 これは永い間秘事として伏せられていたが、先生は公明正大で、末尾に私の名を付記し、かつ月報(1965年2月)の原稿を私の名で書かせた。業界関係者ならこれで何が起こったかは分る。ここに挙げた「知性過信の弊」というのはその月報の文章である。

 月報は一巻に二人だった。私のほかにもうひとりいて、
そのもうひとりは何と保田與重郎氏だった。『反近代の思想』は彼の「日本の橋」を収録していた。

 他に収録された著作家は夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、亀井勝一郎、唐木順三、山本健吉、小林秀雄だった。

 作者と作品の選定はもとより福田先生だった。ただ唐木順三「現代史への試み」だけは私がお願いして入れてもらった記憶がある。

 私は先生の文章を用い、口真似をしてその解説文を書いた。完全なエピゴーネンだった。それでも文体まで似せることはできない。意は似せられるが姿は似せられない、は誰かの有名なことばだった。

 同解説文は二人のどちらの全集にも入れることのできない奇妙な文章に終った。福田先生は昔から「解説」ごとき仕事をいっさいなさらなかった。小林秀雄もしなかった。

 同解説文は福田先生の名で出されたが、若いエピゴーネンが猿真似をして書いた、ということを証言しておくことが、先生の名誉のためにもなると思う。

 以上の出来事は私のドイツ留学前だった。『反近代の思想』解説は私自身の思想形成には役立ち、『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』を目に見えぬかたちで支えている。福田哲学は私の処女作に乗り移っている。

 「夏期大学講師の横顔――福田恆存先生」は先生が高知に講演に行かれた際、私に短いポートレートを書いて現地の求めに応じて欲しいとたのまれ、必死に書いた。わずか二枚程度だが、私の最初の福田恆存論である。高知新聞(1963年7月15日)に掲載された。

 私の福田関係諸論はすべて第二巻『悲劇人の姿勢』に集めてあるが、この一文だけは20歳台の文章なのでここに残した。

 「私の保守主義観」は清水幾太郎編『現代思想哲学事典』(講談社現代新書)の「保守主義」の項が私に託された折の一文である。清水先生からのご指名であった。

 「民主教育への疑問」「知識人と政治」は自民党の新聞『国民協会』(1965年2月21日及び7月11日)に頼まれて書いた。自民党に文章を出したというので悪評紛紛と湧き起こり、ドイツ文学の仲間や先輩たちの顰蹙を買った。自民党は人間の皮を被った悪魔の集団と思われていたからである。60年安保騒動から5年目である。私はその後も自民党の新聞に二度ほど寄稿し、ドイツからも送稿している。全集には記念として20歳台の最初の二篇のみを収録した。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427