次の総理

 『文藝春秋』2011年7月号のアンケート「次の総理はこの人」に私は以下のごとく回答した。7月号はまだ発売前なのでルール違反だが、次の総理が決まってしまってからでは面白味がなくなるので、あえて私の回答をおしらせしておく。

行動で自らを証明した亀井静香氏

 亀井静香

 政治は言葉だけではなく行動で自分を表現する仕事だ。中曽根から小泉に至る「改革」という名の日本を蝕む強迫観念に断固抵抗し、生き残った亀井静香氏は、TPPと尖閣という米国と中国の双方の圧力から日本を守る気概を持つ。連立内閣で裏切られた責任をとり閣僚を辞めた潔さも今の世に貴重だ。解散総選挙が難しい震災後の情勢で、各党から等距離にあり、政界再編の芽ともなり得る。民主党はすでに人材を出し尽くし、自民党は若手にのみホープがいるがいまだしである。石原慎太郎氏は過去何度もの好機を自らの勇気の無さで失ってきて、勇気のある亀井氏が最適任者である。

『文藝春秋』7月号より

「最悪を想定できない『和』の社会の病理」

 『WiLL』7月号の「脱原発こそ国家永続の道」に先立って同誌6月号に私は「最悪を想定できない『和』の病理」を書いた。(これは違う題名になって掲載されているが、私の本意とする題名は表記の通りである。)

 6月号と7月号の二論文はセットとなって私の今の考えを表現しているので、6月号論文を以下に全文一括掲示する。雑誌で読み落としている方もいると思うので、二論文を併読していただきたい。

原子力安全・保安院の「未必の故意」

日本永久占領 

 震災の起こる直前に、米国務省日本部長のメア氏の沖縄に関する問題発言があった。地震と津波と原発の印象があまりにも強くて、大概の人は忘れてしまったと思うが、沖縄人は「ごまかし」と「ゆすり」が得意という彼のもの言いが侮辱発言だと騒ぎになり、米国政府が平謝りし、メア氏をあっさり更迭したので、もちろん、今さらここで何も取り上げるべきことではない。
 
 ただ、メア氏の発言のなかには「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というもう一つの問題の言葉があった。ここにアメリカの本音が漏れていて、騒ぎが大きくなるのは日本永久占領意志がばれて困るという米当局の思惑からの更迭だろう、と私は推察し、沖縄人侮辱発言のせいでは必ずしもない、と思っていた。
 
 つまりこうだ。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、いまだに日本に主権はないと考えねばならない。アメリカはここを失えば、かつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の場からいよいよ滑り落ちる。日本はいわば最後の砦である。
 
 アメリカが必死なのは当然である。ルーピー鳩山以後の日本政府の子供っぽい「反抗」にも我慢して、ぐらつく普天間にも忍耐づよく振る舞っているのは、帝国の襟度を守りたいからであるが、しかし、それが見えている日本人は、だからこそ、真の独立をめざして必死にここを突破しなければ、日本復活のシナリオは生まれてはこないのだと考える。日本の政治が三流に甘んじていてダメなのは、いまだに日本があらゆる点で主権国家であることを放棄して恥じないからに外ならない。そう考えるべきだし、私はそう考えていた──。

福島原発とリビア軍事介入 

 と、ちょうどそのとき、地震と津波が起こった。アメリカは救援に大艦隊を派遣した。「ともだち作戦」とそれを名づけた。
 
アメリカは、苦境に陥っている人や国を救助する能力のある国だということをあらためて証明した。迅速で有効な展開力と行動力は、見事ですらあった。日本人の多くが心強く思い、感謝したのは当然である。さすがアメリカだ、と。私もその一人であることを正直に申し上げる。ここに何もことさらに下心や邪心を読む必要はない。アメリカ人らしい明るさと公正さと善良さに、我々は大きく包まれる思いがした。
 
もちろん、アメリカは日本の原子力開発には他人事ならぬ関心と期待を寄せつづける理由があった。この国は軍事的な核大国であり、核技術の蓄積も日本の比ではないが、スリーマイルの事故以来、原発は後退している。ウェスティング社を日本に託して、産業政策としての原発の未来の可能性はいつに日本のこの分野の進歩にかかっているとさえ見られていた。
 
 原子力発電の新規拡大には国内に反対勢力が強く、オバマ大統領がそれでも原発を目玉政策に掲げざるを得ないのはCO2削減もあるが、原油の値上げもあって、世界各国の動向がいよいよこれから原発の増大にはずみのかかっている折も折だったからだ。アメリカもフランスも、日本の失敗は他人事ではなく気が気でなかった。中東政策にも影を落とさざるを得ない。リビアへの軍事介入は、福島の事故が起こってからそれを横目に見ての出来事だった。
 
 もとより、「ともだち作戦」は地震と津波に襲われ、呆然としたわが国の自然災害の救助に向けられたのであって、福島第一原発の事故対応は直接の目的ではなかった。が、ほぼ時を移さずして、事故はアメリカ政府の最大の関心事となった。クリントン国務長官は冷却法の提供など技術援助を惜しまぬと語ったが、廃炉を恐れた東京電力がこれを断った。アメリカは不信を募らせた。日本政府の政治意志はこの間、ほとんど存在しなかったに等しい。

事実上の無政府状態

 「政治主導」は民主党政権が成立して以来、偉そうに言われてきた言葉であるが、政治家に官僚や企業人を超える知性と現実に対する謙虚さがなければ、逆にマイナスに働いてしまう事柄である。菅政権は知的指導力もなければ謙虚さもなく、いたずらに政治家が采配を振るおうとして、結果的に東京電力の情報に振り回されたり、官僚を使いこなせなかったり、惨憺たる有り様だった。
 
 菅総理には、自分にも分からないものがあるのだという政治家の限界への認識がない。それゆえ、すぐに特別災害救済法を発令するというようなことも思いつかず、他人の力に任せるという度量もない。それでいて、結果的には政治家が自らの力でできることはほとんど何もない。原発事故に関しては、司令塔は東京電力の内にあったに等しく、官房長官は東京電力のスポークスマンにすぎなかった。しかも、失敗すると責任を他人のせいにするのがこの政権の始末の悪い処で、その最悪のケースは低レベル汚染水の海中放出の事件であった。
 
 原子力規制の基となる通称「原子炉等規制法」というのがあり、第十五条にすべての決定は政府の管理下でなされると書かれていて、この法令がすでに発令されていた。第六十四条には「危険時の措置」が示されていて、応急の措置は大臣の命令による裁可に基づくと書かれている。放射能汚染水の海中放出は「危険時の措置」に外ならない。
 
 海江田経産大臣が、東電は何でこんな危ないことをやったのか自分は知らなかった、などと後から責任逃れのようなことを言うのはまったく筋が通らない。韓国政府が日本政府に抗議したのは当然である。外務大臣はあのとき謝罪すべきであって、醜い反論をしたのはさらにおかしい。
 
 菅総理が後から閣内不統一を認めてこれから指導すると弁解したのは、外国に事実上の無政府状態を告白したようなものである。韓国が「日本政府は無能」と追い討ちをかけたのは、残念ながら正鵠を射た罵倒語であった。

日本国家消滅の可能性

 アメリカは、こうしたいきさつをすべて見ているはずである。日本の政治がもう何年も低迷し、「権力の不在」という病理現象を呈していることを知り抜いている。少し前に中国の尖閣揺さぶりがあり、ロシア大統領の北方領土訪問の威嚇があったのも、日本の政治が真空化しかけているしるしだった。民主党政権が自らの危うさに気がつかず、空威張りの政権しがみつきを継続していること自体が、極東のこの地域一帯の政治権力の空洞化の危険な徴候である。

 そういう状態で巨大な災害、地震と津波と原発事故が起こった。これをアメリカが見ればどう見えるだろうか。オバマ大統領はなぜ空母を含む大艦隊を急派し、同盟国としての援助を惜しまぬと大見得を切ったのだろうか。

 「ともだち作戦」は、もちろん友愛と同情のしるしだが、ただそれだけの目的の行動力の展開だろうか。百五十名の核特殊部隊は横田基地に待機している。ほかにも、軍人や軍属は日本の許可なしに出入りし、艦隊の移動も自由であるのは日米安保条約六条に基づく日米地位協定に由る。安保条約は発動され、緊急事態に対処しはじめているのである。

 アメリカから見れば、日本列島もアフガンもイラクも、あるいはかつてのフィリピンもベトナムも南朝鮮も、政権がしっかりしていないこと、単独で危機に対処する能力がないこと、いざとなれば米軍のてこ入れで臨時政府をつくる必要がある地域であることは同じであって、つねに国家漂流の可能性は計算されているはずである。何とも情けない話だが、日本のこの現実を今の日本政府は増幅させている。

 もちろん、そんな可能性は万に一つもないと日米ともに平常時には考えているし、福島第一原発の小休止状態──不安をはらんだままの──である四月半ば過ぎの段階においては、考慮する必要はまだないのかもしれない。しかし、アメリカが日本支援に起ち上がったあの原発事故の初期の時期には、日本という国家の突然の消滅の可能性を想定していたはずだ。そして、原発の今後の動向いかんでは、再び想定せざるを得ない場合もあり得るだろう。

 放射能放出が止まらず、冷却水の循環装置の修復も困難となった場合に、国際社会ははたして黙っているだろうか。日本は原発事故の収拾権をIAEA(国際原子力機関)に奪われ、この点に関するかぎり、国家主権を制限される羽目に陥るのではないだろうか。否、ひょっとすると我々が知らないだけで、すでにそうなっているのかもしれない。 

 『週刊文春』四月二十一日号によると、アメリカ政府は当初から東電本社の対策統合本部の近くに会議室を強引に借り受け、そこから矢継ぎ早に・進言・を下しているという。今やあらゆる原発事故のデータはワシントンへ届き、分析されている。そして、日本政府のさまざまな分野に・助言・がなされているらしい。「おともだち」の単なる支援救援を越え、日本の首相が決断すべき国家の意志決定のプロセスに事実上、介入する事態に立ち至っているようである。

 もし万が一に、四千万人の避難民が西に移動する東日本崩壊という事態になったら、日本は完全な無政府状態に陥るだろう。そのとき頼りになるのはアメリカだと考えるのは、じつはあまりにも安易である。アメリカは政治的に干渉するが、実力部隊は介入すまい。

つねに最悪を考える

 三月十六日頃の原子炉内のメルトダウンと温度急上昇によって、大量の放射能の出ることが予測され、東京が一気に危険圏内になったあのとき、アメリカ軍は八十キロ圏外に逃れ、原発の現場の作業に一人の米兵も参加しなかった。米船舶は西日本に移動し、ヘリは三沢基地に逃れた。現場に急行し、放水して危機を防いだのは周知のとおり、わが消防隊と自衛隊だった。自分の国と国民を守るのは外国人では決してない。そのことを我々は肝に銘じておかなくてはならない。

 アメリカは、日本が国家漂流の状態になることがあり得るという可能性を想定内に入れているからこそ、大部隊を派遣したのである。しかし、日本が国家喪失の状態になった後には実力を振るうが、そうなるまでは日本の混乱を冷淡に突き放して放置するだろう。自国兵の被曝の危険をできるだけ用心深く避けながら、極東の地域一帯の政治権力の喪失状態を何とかして回避したいと今も考えている。

 しかし、日本では政府も民間人もそこまで考えているだろうか。福島原発がコントロールできなくなるような最悪の事態、国家の方向舵喪失のあげくの果ての、政治だけでなく市民生活全般における恐怖のカオスの状態を念頭に置いているだろうか。

 アメリカ政府にあって日本政府にないのは、地球全体を見ている統治者の意識である。アメリカの政治家にあって日本の政治家にないのは、あらゆる条件のなかの最悪の条件を起点にして未来の計画図を立てているか否かである。つねに最悪を考えるのは、軍事的知能と結びついている。

官僚化した日本社会

 歴史書を繙くと、軍事行動に踏み切ることにいちばん慎重なのは軍人であることに気がつくことが多い。政治家とマスコミは戦争を煽る。軍人は臆病なのではなく、最悪の事態、困難な事態を一番よく知っているのである。軍事と政治を直結させないできた日本の政治的知性は不用心で、楽観的で、細心の注意で選択し、行動しないことが多い。

 そのことを典型的に表すのは、大事故に対する日頃の心の用意の質とレベルである。福島原発の事故が人災かどうかは別として、日本の社会の官僚化の欠陥が表面化したのだということは、軍事不在国の関連においてもどうしても言っておかなくてはならない点である。

 四月十日の午前中のテレビ朝日「サンデーフロントライン」の座談会で、原子力安全委員会の元委員長の肩書きの人がぺロッと口を滑らせた重要な発言があった。事故を防ぐために何から何まで想定して防止策を立てることは経費のうえからいってできない、と。

 原子力安全委員は「経費」を考える立場だろうか。これはおかしい、と東京新聞の人がそのとき釘をさしていたのに私も納得した。監視する側の人が監視される側の人と同じ立場に立ち、同じ意識でいる。馴れ合いと仲間意識が関係者同士の批判意識を鈍らせているようである。

 経産省は原子力推進勢力の一つである。その付属機関に、原子力・安全保安院があるのはおかしいのではないか。同じ仲間が、どこまで厳しく安全を守るためのチェック機能を働かせているだろうか。法律に照らして監視さえしておけばいい、事故が起こっても俺たちの責任じゃない、で日々を安易に済ませていないか。

 たとえば、聞くところによると、問題を起こした福島第一原発の一号機はアメリカのGE製、二号機はGEと東芝の共同製であった。電源設備が最初からあまりにもお粗末なつくりであったことで知られていた。ところが、これの点検やチェックは搬入後なされていない。アメリカで合格とされたものに、日本でバックチェックはあり得ないからだそうである。法の遡及は考えられない取り決めだというのである。何という実際性のない硬直した対応だろう。今日のここで起こった大事故の正体は、原子力・安全保安院の「未必の故意」ではないのか。

 東電を監視する側の官庁である経産省の高級官僚、エネルギー庁長官が今年一月、東電の顧問に天下りした人事はまさにアットオドロクタメゴロウであった(ただし、四月十六日に急遽解消された)。民主党政権になって急遽なされた人事で、自民党時代の天下りにはまだあったためらいも迷いもないストレートな決定だった。今回の原発事故からは「人災」の匂いが立ちのぼってくる。

 人間同士が対立的関係で相互監視しないシステムは日本社会の甘さの特徴でもあり、あらゆる案件に人が最悪の事態を想定して対応するという欧米風の習慣を育てない風土でもある。

事故の最大の温床

 今回、事故説明にテレビに登場したソフトな物腰の、安全と無害を国民に触れ回る東大教授の諸先生を、私は週刊誌が言うごとく「御用学者」だとからかうつもりはない。だが、東電の元社長や副社長の誰彼も、前原子力安全委員会委員長も、現委員長も、原子力安全・保安院の誰彼も、東芝、日立などメーカーのお偉いさんもことごとく東大工学部原子力工学科の出身者で、いわば「東大原子力村」、あるいは「東大原子力一家」とも名づけるべき閉鎖的相互無批判集合社会を形成していることが明らかになるにつれ、これ自体が今回の事故の最大の温床であり、誤魔化しと無為無策の土壌であったと私は判定せざるを得ない。たとえば、京大系に名にし負う反原発の俊秀がいることは知られている。私は素人で当分野に無関係の人間だが、ネットで主張を聞くかぎり、理筋の通っている人だ。同じテーブルについて互いに学問的に開かれた討議をし、甲論乙駁することが、国民の幸福と安全のためにもなるのではないかと愚考する次第である。

 ドイツの大学の人事に「同一学内招聘禁止法」(Hausberufungsverbot)という慣習法が存在する。教授資格を得た者は、母校である出身大学に就職することができない。必ず他大学に応募しなければならない。いいかえれば、老教授は自分の愛弟子を後任に選ぶことが禁じられている。それだけでなく、准教授から正教授へ昇格するときも、自分の今まで勤務していた大学でそのまま上位の地位を得るのではなく、必ず他大学に応募し、複数の候補者と論文だけでなく講義の実演を公開して、新たに「挑戦」することが義務づけられている。いうまでもなく、馴れ合いを排し、正当な競争が公正に行われるための条件を守りつづけるシステムとして、こうした慣習が確立しているのである。アメリカの大学はドイツとは相互関係が異なるので必ずしもドイツほど厳格ではないが、ハーバード大学の出身者はハーバード大学の教授にはなれない、などの不文律はあると聞く。

人間社会の暗黙の「和」

 人間社会の暗黙の「和」を信用せず、「競争」の維持を最優先させるシステムといってよい。それはまた、人間相互の悪と不信を前提とする個人主義に立脚している。個人主義は性悪説から成り立っている。原子力安全委員長が電力会社の思惑を公衆の前で平然と代弁するような、検事が弁護士になり替わってしまうような日本社会の生ぬるいいい加減さ、監督官庁の幹部が監督される企業の幹部に無警戒に天下りし、同じ大学の出身者が企業、学界、官界を独占的に牛耳り、肌暖め合ってなにごとでもツーカーと分かり合ってしまうような精神風土が、今度の大事故の背景にあったことに我々は冷静な批判のメスを入れるべきときである。

 現場に対し監督側に立つ企業の幹部や、企業を監督する原子力安全委員や原子力安全・保安院のメンバーには、万が一の事故が起こった場合には何らかの刑事罰が課せられるような法改正がなされてしかるべきではないだろうか。それでなければ、国家の根幹を揺るがすこともある原子力発電の今後の継続など、安易に口にすべきではないように思える。

 原子力の安全神話が間違っているのではなく、安全神話を担いで外からの批判を封じ、ある全体的な雰囲気をつくって仲間意識を拡大し、政治やマスコミを巻きこんでソレイケドンドンとやってきた集合意識が、問題なのである。異論は、共産党や一部左翼の議論であるとして、非理性的に排除されてきた。異論や反論を同じテーブルにつける公明正大なディスカッションの場が、これからいよいよ必要であると思う。

 日本の一般社会の空気も問題である。東京電力のような影響力の大きい企業の人事が、江戸時代の農村メンタリティで決せられていないだろうか。詳しい事情は知らないが、減点法で無難な人が出世し、批判力や指導力よりも社内に敵のいない既成の枠を守る人、創造力よりも気配りのいい保守型の人、こういう人物が出世の階段を昇り易くなっていないだろうか。

 日本は、これからはこの手の人材ではもう発展が望めないと言われて久しいのに、千年一日のごとく「和」のムードを優先させているのが政・官・財・学に共通する日本の人事の実態のように見受ける。

現実の承認と現実の否定

 もとより西欧型、米国型の「個人主義」が、すべてにわたって優位にあるとは必ずしもいえない。ただ、自然科学はそもそも欧米からきた。そこに日本の伝統技術も加算された。原子力発電は日本で進歩が著しいといわれるものの、いざ事故が起こってみると、事故対応の役に立つロボット技術ひとつ用意されていない。バケツで水を撒いたり、汚水の穴にオガクズやおしめの類を入れてみたり、子供のマンガを見させられているような滑稽なシーンがつづいた。

 さらに、昨日の危機は改善されずに今日の危機が目前にあったことも見逃せない。地震から一カ月経った四月十一日午後五時過ぎに大きな余震が起こり、津波の恐れがあったのに再び電源が切れ、建屋内への注水が途絶えた。作業員の手動による応急措置が待たれたが、たまたま津波警報で作業員は現場から離れざるを得ず約五十分、またしても一カ月前と同じ大事故の危機が生じた。

 幸い、東北電力からの電源が回復し、一同ホッとしてことなきを得たが、電源が切れたら第二、第三の予防措置を講じるという、あのとき求められていた強い要望は、あっという間に忘れられていた。津波警報が出て作業員がいなくなる、という「想定外」の出来事がまたまた起こったのである。現場はまたしてもなす術がなかったのだ。

 つねに最悪のことを考え用意する。最悪を見つづけるのは人間として勇気を要するが、それが大切だと私は本論で繰り返し書いてきた。事故に対するも、人間関係、人事や政治においても欧米社会にこの点で一日の長があることは、軍事ということを片時も忘れずにいる社会と、六十五年間これを忘れてしまった社会の差でもある。江戸時代の農村メンタリティに戻ってしまい、学者や経営者たちまでが前近代的に生きているのに、自分は最先端の技術を駆使する超近代人であると思いこんでいる錯覚が問題である。それが、今度の事故で打ちのめされたと言っていい。それはいいことである。この絶望から、この敗北感から再出発せざるを得まい。

 米国務省日本部長メア氏の「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなる」の発言に、私は冒頭で多少とも立腹した。日本の政治がこのまま三流に甘んじていてはダメだと書いた。

 日本よ立ち上がれ、のそのときの気持ちに今も変わりはないが、政治とは学者や企業人の指導力を含む概念であり、政界だけの問題ではない。口惜しくても、米軍を必要とする現実はつづいているのである。日本の再生はこの現実の承認と、さらにその先を見つめたこの現実の否定からようやくはじまるはずである。

「脱原発こそ国家永続の道」について

 原発事故から心が離れない。私は事故直後にすぐ判断した。日本の将来のことを考えて「脱原発」こそ目指すべき方向である、と。産経コラム正論(3月30日付)にも、『WiLL』6月号の拙稿「原子力安全・保安院の『未必の故意』」にもそう書いたし、4月14日のチャンネル桜の討論会では福島の学童集団疎開さえ提言した。

 福島第一原発の情勢の悪化を今も非常に心配している。狭い国土における「内部被曝」は人体におけると同様に始末に負えない。それに使用済核燃料の最終処理の見通しの立たない原発は、われわれが子孫に伝えるべき美しい国土を永久に汚辱し侵害するおそれがあると考えられる。私は「守る」とは何か、をしきりに考察した。派遣されたアメリカの大艦隊、「ともだち作戦」の真意と現実、東アジアにおける日本の陥った危ういポジションをどう考えるかも、問題として一体化している。

 こうしたすべての点を踏まえて『WiLL』7月号(5月26日発売号)に「脱原発こそ国家永続の道」(12ページ立ての評論)を発表する。ネットの読者には申し訳ないが、今のこの時点での私の考え方を集約した論考はこれになるので、ご一読たまわりたい。また5月26日より以後に、同論文へのコメントを今日のここに投稿していたゞけるとありがたい。

 事故直後から私は「脱原発」を唱え始めたと書いたが、私を取り巻く言論空間は必ずしも私と同じではなかったし、今も同じではない。あるいは無言と沈黙がつづいている。産経新聞は原発支持であり、『文藝春秋』と『正論』は態度を示さないし、『WiLL』6月号も雑誌として「脱原発」の声は上げていなかった。代りに『世界』がよく売れ、増刷に増刷を重ねていると聞く。

 事故以前にすでにあったイデオロギーの対立が事故以後に引きつづき持ち越されていることは明らかだが、資源エネルギー問題などをイデオロギーに捉えられて考えるべきではない。できるだけ感情的にならずに合理的に、クールに考察を進める必要がある。人は体験から学ぶべきものである。これほどの大事故が起こった以上、心が震えない人はおかしい。今までのいきさつに囚われていてよいかどうか、原発について漠然と抱いていた固定観念をいったん白紙に戻す謙虚さが求められている。

 けれども保守系の言論界を見る限り、歯切れが悪い。原発は現代の産業維持に不可欠の存在と思い定めていて、梃子でもそこから動かない。もとより私とて原発は明日すぐに全廃することはできず、上手に稼動させ少しづつ減らしていく以外にないと考えている。しかし原発の新規増設はいずれにしてももう望めまい。望みたくても国民が許さない。

 いろいろな「悪」がこれから白日の下に曝されるようになるだろう。お金を積んで説得した地域対策費、すでに巨額にのぼり今後さらにどれくらいの額になるかも分らない廃棄物処理コスト、政治家やマスコミにばらまかれたこれまでの反論封じ込め費――これらが次々と暴かれるであろう。また暴かれる必要がある。

 原子力安全委員会委員長に斑目という人物がいる。You Tubeで彼の発言を聞いて、その余りにあけすけな卑劣さに、私は腰を抜かさんばかりに驚き、にわかに信じられなかった。彼は廃棄物の最後の捨て場を引き受けてくれる自治体はあるのかという質問に答えて、「お金ですよ。最後はお金です。ダメといわれたら二倍にすればよい。それでもダメなら、結局はお金ですから、五倍にして、否という人はひとりもいません。」

 巨悪ということばがあるが、巨大なものはどうしてもグロテスクになる。電力会社は日本経済の高度成長を支えるうえで決定的役割を果してきたが、度が過ぎると、自己抑制のコントロールを失う。台所の「オール電化」の叫び声がわが家の戸口にも襲来し、東京ガスを一気に追い払おうとしていた。東京電力のキャンペーンのしつこさは事故のほんの少し前まであった目立つ出来事だった。すべてはやり過ぎなのである。原子力発電が無限の利益もたらすという幻想に今度歯止めがかかったのは良いことだった。

 国民は健全な常識があり、賢明である。おかしいのはいつの時代にも知識人である。昔は左の知識人が常識を踏み外していたが、今はどうであろう。保守系の知識人や言論紙が少しおかしいのではないか。今日(5月20日)の産経の社説は、いま徹底的に批判されるべき(東電以上に批判されてしかるべき)原子力安全・保安院をしきりに擁護しているのには驚いた。

 菅総理を批判するのは今は誰にでも簡単にできる。民主党がダメなことは今では高校生でも弁じることができる。中国の悪口ももうそろそろ底をついた。こういう方向のこと、安易なことだけを元気よく語りつづけてきた有名な誰彼の教授、評論家、女性ジャーナリスト諸氏をみていると、原発の是非についてはなぜか固く口を噤んでいるのがかえって異様で、目立つのである。

 保守の論客たちは心を閉ざしている。何かに怯えて見て見ない振りをしている。原発事故の大きな悲劇と不安に対し、人間としての素直で自然な感情で対応しようとしていない。私は過日ソフトバンクの孫正義社長の講演をUstreamで聴いたが、さすが噂にきく大きな人物だけのことはある。真剣に考えていることはすぐ分った。国民の一人として心が震えていた。私は孫という人をこれまで誤解していた。皆さんもぜひ講演を聴いてご覧なさい。

 名だたる保守系知識人、名誉教授や有名な論客がたまたま一堂に会したシンポジウムがあったそうで、四月の末か五月の初めらしいが、「原発は必要だ、一度ぐらいの失敗でオタオタしてはいけない」の大合唱になり、会場で聴いていた人から私に連絡があった。「先生、僕は保守派が嫌いになりました。まるっきり反省がないんです。有名なK先生が、国鉄に事故ひとつない日本の技術をもってすれば、原発の事故なんて今後起こらない!事故が現に起こっているのにそう言うんですよ。」

 日本の技術が秀れているのは確かだが、国鉄にできて原発にできるとは限らないのは、当「日録」の粕谷哲夫さんのゲストエッセー(5月12日)を一読いたゞきたい。また、私の4月22日付日録に付せられた21番目のコメントをお読みいただきたい。原発技術はアメリカ直輸入で、国鉄などとはいかに違うかを考えさせてくれる秀れた内容のコメントだった。

 日本の技術は世界一だというのはひとつの「観念」である。この観念が成立するまでには力量と人格と哲学を具えた技術者たちの戦いの現実がある。日本の原子力発電にそれがあったかどうかが今後問われるだろう。

 保守系知識人は「観念」をう呑みにし、背後の「現実」を見ていない。知識人は左右を問わず、いつもそうである。「現実」から目をそむけて「観念」でものを言う。

 何も勉強しないで原発は絶対に欠かせないときめこんでいるとか、東電叩きは歪んでいる(東谷暁氏)とか、原子力保安院は一生懸命やっているとか、津波対策だけすればよく地震は心配ない(中曽根康弘氏)とか、最近のこういう声に私は思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じているということを申し添えておく。

 反原発を主張する『世界』掲載の論文や小出裕章氏とか広瀬隆氏とかの所論はどれも力をこめて何年にもわたり原発否定の科学的根拠を提示しつづけて来た人々の努力の結晶なので、その内容には説得力があり、事故が起こってしまった今、なにびとも簡単に反論できないリアリティがある。例えば教授ポストを捨てて生涯を危険の警告に生きた小出氏などは、話し方にもパトスがあり、人生に謙虚で真実味があり、原子力安全・保安院長のあの人格のお粗末ぶりとは違って、説得力にも雲泥の差があるともいえるだろう。

 けれども一つだけ総じて反対派に共通していえるのは、大抵みな「平和主義者」だということである。彼らが軍事ということをどう考えているのかが分らない。ここが問題である。

 福島第一原発の事故の現場について誰も言っていないことは、核戦争の最前線に近いということである。ロボット大国のはずの日本製ロボットは役に立たず、アメリカの戦場用ロボットが初めて実用に耐えたことをどう考えるべきなのか。保守系言論人は、ここに着目すべきなのである。日本の技術は世界一だから一回くらいの事故でオタオタするな、などと空威張りするのではなく、世界一の技術がなぜ敗退したのか、そこから考えるべきである。武器輸出ひとつできない「平和病」の状態で、原発を世界に売る産業政策を口にするのはそもそも間違っていたのではないのか。

 私の「脱原発は国家永続の道」はこの矛盾の轍の中に飛び込んだ論考である。5月26日の『WiLL』7月号をお読みいただきたい。そして、コメントはここに記して下さい。

追記 『WiLL』6月号の拙論の題名「原子力安全・保安院の『未必の故意』は、私がつけた本来の題は「最悪を想定しない『和』の社会の病理」でした。花田編集長は今回は珍しく、題名をひねって取り替えたのは自分の失敗だった、と反省していました。

チャンネル桜の感想  2011年4月25日

 粕谷哲夫氏は私の大学時代の友人で、元住友商事理事。原発事故で考えること多いらしく、いろいろな情報を持ってきてくれるし、電話で長談義も惜しまない。年老いても自分の心で反応しているし、体で受け止めている。イデオロギーからはもっとも遠い。人間としての本源にかえって考えている。私は彼の情報と発見から教えられことが多い。
 
 以下は、4月14日の私も参加したチャンネル桜での討論会に対する彼の感想である。

ゲストエッセイ 

  

粕谷哲夫

 座談会は多様な内容が含まれていてたいへんよかったと思う。そこで議論された個別の問題の感想ではなく、全体的な感想である。

 御用学者の巣としていま東大工学部は評判が悪いが、東大工学部にも立派な人はいる。機械学科を卒業して、国鉄始まって以来の100点満点で入社試験に合格したという伝説的な逸材、山之内秀一郎(JR東日本会長)を思い出したからである。事故の発生を防ぐという強靭な信念の持ち主で、国鉄で事故の撲滅に没頭された。すでに故人となられてしまった。同世代の山之内秀一郎ご自身からお聞きしたお話が、今回の討論を聞いていて浮かんできた。 私はJR に「安全」という文化があるとすれば、この彼のエンジニアリング哲学に負うところ少なくないと思っている。新幹線に開業以来、事故らしい事故が無いのは、偶然ではない。

 山之内秀一郎は、国鉄において事故が如何に発生するかの解明に執念を燃やした。それまでに発生した国鉄の事故のすべてを洗い出し、それらを分析し、分類し徹底的に調査した。彼は改善のために事故を愛したとさえいえるほどに執拗に事故事例を追い求めた。事故を起こした運転手や作業員を処罰するより、まず状況の聴取に努めたのである。その一つ一つに対応してつくられた、的確な対策がこんにちのJR 安全文化の基礎をなしているという。彼にとっては既知の事故の再発は、技術者として許されないという強い信念があったものと思われる。

 山之内は JR の後に、宇宙開発事業団に移籍した。衛星打ち上げの失敗が続いていて、宇宙事業団の体質改善は急務であった。山之内をおいて適任者はないという政治判断があった。宇宙開発そのものは、原発と違っていわば緊急性はない。なくてすぐに困るというものではない。そして、打ち上げに失敗すれば何百億円規模の巨額の資金が吹っ飛んでしまう。「山之内で失敗したら宇宙開発は、国家として断念せざるを得ない」というような最後通牒が突き付けられていたように思われる。とはいえ宇宙事業団内部には既に、衛星に関わる百戦錬磨の専門家が多数おり、いくら優秀であろうと外様の機械学科出身の占領軍のような位置づけの山之内に対する抵抗は根強くあって当然である。またもっと大事なことは、事業団には、山之内から見れば緊張感を欠く雰囲気があったようである。

 「衛星打ち上げの失敗はどこの国にでもある。これだけ努力して失敗したからといっていちいちとがめられてはやっていけない」という雰囲気であろう。この雰囲気を克服して、新しい安全文化を短期間で定着させるなどということは、山之内にしても至難の業であった。

 彼が着任して、初めての衛星打ち上げが行われることになった。その予定時間の天候には若干の不安があった。これで失敗すれば、一巻の終りという差し迫った状況であった。いくべきか立ち止まるべきか、ハムレットの心境である。山之内にはまだ衛星について十分な知見も体験もない。しかし誰かが決断しなければならない。究極の決断は責任者である山之内にある。すべての準備は終わっている。中止して再び立ち上げるには時間もカネもかかる。大多数の技術者は予定通りの打ち上げ発射を主張した。彼らには彼らなりの自身とプライドがあった。山之内は何人かの信頼できる部下をまねいて、個別に耳を傾けた。熟慮の結果、打ち上げの延期を決断した。苦渋の選択である。積極派からはブーイングである。発射の決断をしていたからといって、かならず失敗したということではない。成功していたかもしれない。しかし山之内が決断に至る苦悩のプロセスが全員に感動を呼んだのである。彼の信頼は高まった。以来事故らしい事故はない。

 討論を聞いていてもそうであるが、どうも原発推進の東電や通産省の要人に山之内のような信頼や醸成された良質の企業文化が欠落しているように思われてならない。いまでも東電で褒められるのは、現場の従業員や作業員で、東電の貴族的な幹部や安全工学的な素養を欠くように見える保安院ではない。原発のような巨大なリスクを背負う、超大型の複雑系のマンモス工業運営は、テクノロジーそのものももちろん大事だが、それ以上に大事なのは山之内流の企業文化である。どの優れた企業にも、その文化の創造には節々に、山之内秀一郎のような立派な人物が必ず存在する(入交昭一郎から聞いたホンダの本田宗一郎の詳細な分析も忘れることはできない)。

 山之内秀一郎は、野球の監督の思考パターンで言うと、長嶋茂雄型というより野村克也型である。野村の名言に、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがある。含蓄のある言葉である。

 この野村的なペシミズムは 避けて通れない。懐疑、不安、おそれ(恐れ ときに 畏れ)があって初めて安全の門が開けるのである。原発推進を唱導する地位ある人々には、こういうものが、ほとんど感じられない。「原子力発電こそが輝ける未来のエネルギーだ」「安全は何重にも保証されている」という安全神話と無謬信仰に浸っている。そしてマニュアルをきちんと書けば、すべてうまくいくという認識のようである。万一事故が起これば計量不能な天文学的、あるいは国家破滅につながりかねない巨大リスクを背負うには、それなりの哲学と技量と人間力が必要であるとおもう。

 山之内秀一郎にせよ、本田宗一郎にせよ、対象である電車も列車も自動車も隅から隅まで熟知している。故障があれば自分で治せるし、現場の諸問題にも精通している。原発に関する意思決定、政策決定をする殿上人にはそういうものはない。

 地震学者や原子炉設計者の警告を殿上人たちは寄せ付けなかった。 山之内秀一郎や本田宗一郎が東電にいたら、どうだったであろうか。たぶん原発反対者の意見や警告を渋々ではなく、積極的に自ら求めて聴いたのではないか。

 注目すべきは、原子炉設計者に原発反対者が多いことである。彼らが気付いた問題点に電力会社は耳を傾けないどころか、彼らを近づけることはなかった。

 さらに無視できないたいへん不幸なことは、日本の原子力の問題には多くの場合、イデオロギーがからむということである。原発反対の勢力は、「アメリカの核は汚い核、中ソの核はきれいな核」と恥もなく言いふらした。これに対抗するために、政府や電力会社は、原発の安全神話をつくりあげた。そして西尾幹二も私もそれを信用した。積極派はイデオロギーから自由な反対論者をもブランドを付けて抹殺していった。抹殺と言えば、福島県知事だった佐藤栄佐久はいみじくも『知事抹殺』という本を書いた。討論で出された前田氏の「プルト君」も推進者側の必死の努力の証しでもあった。

 私は福島第一原発事故発生以来、動画を中心とするネット情報の収集に没頭している。ヒロシマの原爆投下の翌朝の新聞を防空壕の中で読んだ経験もあり、翌年には地方の文化講演会で、日本原子力の父といわれる仁科芳男博士の講演を聞きもした。しかしいま新たに全く新しいことを知るに至り、無知を恥じるばかりである。

 とはいえ原発反対論者の言うことにも若干わからないことがある。「ヒロシマは、これからは50年間は草木も生えず人も住めない」、と言われたものである。これにたいしてヒロシマに使われたウランの総量は、福島第一とはケタが違う、キロとトンの違いと聞いて納得した。また、冷戦時代には大気中の原爆実験が行われて、膨大な量の放射能が観測されたという。しからばその影響はどうであったのか? については説明がない。イギリスのセラフィールドの使用済み核燃料の処理工場ではかなりの期間、汚染された水を海に流していたそうだが、アイルランドは具体的にどのような被害を被ったのか? 被ったとすれば、水俣病と比較するとどうなのか? 解説はない。

 原発を推進するにせよしないにせよ、 原発と放射能被害にはいまでも捏造と隠蔽が跋扈している(こういうことは日本だけでなく、どこにもあるものである)。賛否両陣営がひとつずつ論点を潰していくことが出来ないものだろうか?

 世論の流れは明らかである。この事故は 「社民党を利する」 こと間違いなく、民主党や保守系には大きな打撃となるだろうと、公言してはばからなかった。今朝テレビで ”No more atomic anything.” の 反原発デモが映っていた。案の定、人口80万を超える世田谷区の区長選挙は、原発反対を軸に据えた社民党が勝利した。これは私の「社民党を利する」 の想定境界線をはるかに越えるものであった。選挙の背景には複雑な事情があったものの、「想定外」の大激震であったことは間違いない。

シアターテレビ出演のお知らせ

■ウェブ配信:シアター・テレビジョン 無料ネットテレビ「ピラニアTV」http://www.pirania.tv
■放送:スカイパーフェクTV! 262ch 「シアター・テレビジョン」
■番組に関するお問合せ:シアター・テレビジョン03-5114-8886(平日10時~18時)
■チャンネルURL:http://www.theatertv.co.jp
■番組名:討論番組『そのまま言うよ、やらまいか!』(各60分番組)

【放送日 放送時刻】
討論番組「そのまま言うよ、やらまいか」#14テーマ:「東日本大震災、原発と民主主義」
出演:日下公人、杉田勝、高山正之、武田邦彦、堤堯、西尾幹二、宮脇淳子、古河雄太、大塚隆一 ゲスト:長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)(収録:2011年4月7日)
放送日 放送時刻
05月13日 11:15  18:00 
05月14日 23:00 
05月15日 16:40 
05月20日 16:20 
05月21日 23:00 
05月22日 18:10 
05月27日 11:15  24:15 
05月28日 23:00 

最近の感想

ゲストエッセイ 
坦々塾事務局長 大石朋子

今年は地震の恐怖のせいか、何時もより暑くなるのが早いような気がします。
団扇と扇子が手放せない夏になりそうですね。

私は、日本人が電気を使わなければならないような生活パターンになって行く道を進んできたように思います。
進んできたと言うより、進まされて来たという方が正しいのかもしれません。

この道を進む限りは、資源の無い日本において原発は必要なのでしょうが、江戸時代に戻るのではなく、進む方向を少し変えれば、考え方を少し変えれば、西洋に全て学ばなければならない訳ではないと、今一度考え直す良い機会なのかもしれません。

例えば「はめ殺し窓」。
外の空気を取り入れることなど考えずに設計されているので、常にエアコンを使う以外に空調・温度調節をすることが出来ない。
電気が無くなるということを考えていないからです。
最近のオフィスはこのような窓が多く見受けられます。

最近建てられたマンションも同じように、窓を開放するという考え方をしないので、風通しという発想が起きないのでしょう。
この夏、本当の停電が起きたとき、どうするのでしょう・・・と他人事ですが・・・心配してしまいます。

扉を開けるという動作を省くため、自動ドア、オートロック。
停電の際、扉が開かなくて困ったという話しも聞きました。

嘗て、身体障害者のために作られた「電動歯ブラシ」も些細な量ですが、電気を無駄に使います。
歯磨きしながらボーっと考え事をするのは、私は好きです。

現代の人々は、少しのことを我慢できずに全て電気に頼るのです。

節電の為に【トイレの便座の温度は低めに】とACだったか・・・TVで流れていました。
馬鹿言ってんじゃない!
冷たいのが嫌なら便座カバーを使え!
と、テレビに向かって騒いでいました。

話しが逸れますが、洋式便座のない頃は、多分足腰の弱いご老人は少なかったのではないのかと思います。
何故なら、毎回気付かないうちに、ストレッチ運動をしていたからです。

そんな理由で、少子化問題も起きているかもしれません。
体力が無い、お産が重い。
エレベーターに頼る。足腰が弱る。
こうなると、鶏が先か卵が先かの堂々巡りになります。

全て電気に頼ってきた「つけ」なのだと思います。

今回の震災は貞観津波から千年以上。
歴史を学び、常に備えていれば今回のようなことにはならなかったはず。
山の上には「ここより下に家を建てぬよう」忠告が書かれていたと知りました。

同じ平安時代の清原元輔でさえ、貞観津波は(過去にあった)万が一のような表現として「末の松山波越さじ」という言葉で表しています。高だか百年位前の出来事でさえ、恋の歌の言葉として使われているのが、過去に学ばずにいる例でしょうと思います。

この先、日本という国が続く限りこのまま電気に頼り続ける生活をするということは、原発の増設が続くということなのではないかと、不安になります。

原子爆弾を作るのにプルトニウムが8kg必要だと聞いたことがあります。
現在、どれだけのプルトニウムがあるのでしょうか?

私の記憶では、九段下会議の頃のことですので、現在の正確な数字は知りませんが、英仏の再処理施設には約38tのプルトニウムがあったそうです。その頃の日本には、5.9tあったそうです。
そこで心配していたことが「テロ」でした。
今回、先生も仰っていたことと同じ事を考えていました。
ですから、アメリカはじめ諸外国は、日本が核弾頭を持つことに危機感を持っていた。そんなことだと思います。
日本の再処理施設は常にIAEAの監視下にあったと聞いたことがありました。

2006年。米・ワイオミング州の核ミサイル基地のミニットマンⅢ型ミサイルは分散配置(多分テロを警戒してだと思います)されていると聞きました。
面積は「日本の四国」くらいの面積だそうです。
核、原子力を持つということは、そのくらいのリスクと広大な土地が必要なので、直ぐ傍に民家がある、食料を育てる畑や牧畜業がある、ということ自体がおかしいのではないかと思います。

面積の少ない日本。
冷却するための大河の無い日本は、海岸に水を求めて建設しますが、海岸には大河と異なり津波が起こる可能性がある。
それを考えずに設計したことも今回の震災に繋がったわけで、施設だけを真似しても環境が違えば、それなりの備えが必要になることを考えなかった。そこで大きな事故に繋がった。そんなことだと思います。

私は中学二年の夏休みに「(旧ソビエト連邦の)サターン5型の脅威」という自由研究をしました。
その頃から無防備な日本を憂いていました。
その後80年代に入り、ソ連は中距離弾道ミサイルSS20を西ドイツに向けて、西ドイツのコール首相は国民の反対を押し切って、アメリカの核ミサイル(パーシングⅡGCLM)を配置したそうです。記憶に間違いが無ければですが。

武器としての核を持つことは、私個人は賛成です。
何故なら、周辺に話しをしても無駄な国が、我が国に向けて核ミサイルを設置しているからです。
核を持つということは、核の抑止力になると思うからです。

ただ、楽な生活のみを求めて、増大する消費電力の為だけに原子力を使い、無尽蔵に原発を増設することには絶対反対です。

震災復興のための「国債」のことですが、坦々塾のブログに今年の一月十四日にアップしました「箪笥預金よりも」
http://tantanjuku.seesaa.net/article/180436010.htmlの無記名債券が、特に今の時点では最良ではないかと私は考えています。

歴史に学び、先を読み、常に備えよ。
毎日、そう考えて行動しているつもりです。

蚊取り線香は「ベープ電気蚊取り」だと電気や電池を使うので、
多分ですが・・・今年の夏は「キンチョーの蚊取り線香」(渦巻きのです)が売れるような気がします。(笑)

夏に向けて、「すだれ」の準備と「蔓もの」の種を蒔きました。

大石

  

           

原発をめぐる個人的顛末(三)

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ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(3)ドイツでの憂鬱な日々

先週、二十年来お世話になっている旅行社の女性と電話で話した。日本人が経営している、日本行きチケットが専門の旅行社だ。状況を訊くと、やはりドイツ人のキャンセルが頻発しているらしいが、ただ、そのヒステリックな様子には音をあげているということだった。

キャンセルの確認がすぐに取れないため、あとで連絡すると言うと、「白血病になったらどうするのだ!」と、興奮するお客がいる。「なぜ、原発反対のデモに、数百人しか集まらないのだ」と非難するドイツ人もいたというが、大きなお世話だ。私たちは、今、デモよりも他にすることがある。
シュトゥットガルトのある日本人の話では、郵便配達夫が日本からの手紙を他の雑誌の上に乗せて持ってきて、「触りたくないので、雑誌ごと受け取れ」と言ったらしい。上司にそう指示されたという言い訳が本当かどうかわからないが、無学を証明しているような話だ。いつもは何に対しても懐疑的なくせに、何かの拍子でマイナスの方向に振れると、集団パニックや過激なデモなど、一丸でとんでもなくヒステリックになっていくのがドイツ人だが、今回も例外ではないようだ。そう言えば、チェルノブイリ原発の事故の時も、一番ひどい風評が巻き起こったのがドイツだった。

前述の旅行社の女性は、「在独の日本人のお客さんと話すと、皆、憂鬱そうです。そのうち、日本人差別が起こるのではないかと、心配していらっしゃるお客さんもいますよ」と、かなり落ち込んでいる様子だった。私たち日本人はそのうち、“井戸に毒を投げ込んだ民”にされてしまうのだろうか。
すでにドイツでは日本からの食料品の輸入は規制されており、お寿司屋も客が激減。はっきり言って、ドイツの安い回転寿司屋は、日本人の経営でないものがほとんどだし、日本からの高い輸入魚など元々使っていないのに、それでもドイツ人はもう寿司屋へは行かない。

ニュースでは、港に到着した日本からのコンテナが、被曝検査を受けている様子が報道された。ドイツ国民を安心させるためなのか、危機感を煽るためなのか、そこら辺がよくわからない。昔、狂牛病の疑いのある牛肉の缶詰をドッグフード用として輸出したのは、確かドイツだったが、私たち日本人は、放射能に汚染された品物を売ったりはしない。そういえば、フランクフルト空港では、強制ではないが、人間の被曝検査も行われている。

4月5日から広島国立美術館で予定されていた特別展「印象派の誕生」は、急遽中止。作品の60パーセントを貸し出すはずだったフランスで、日本向けのすべての美術品輸出停止命令が出たためだ。岡山県立美術館も同じで、22日からの「トーベ・ヤンソンとムーミンの世界展」は、フィンランドが原画の貸し出しを取りやめたため、やはり中止だ。他にも、中止になったものは、たくさんある。

日本では何が起こるかわからないということと、作品に同行する人間の安全確保のためだそうだが、そういうことなら、日本はこれからもいつどこで地震があるかわからない不確実な国だから、将来は、著名な音楽家も、高価な美術品も一切やって来なくなるということなのだろうか。この間まで日本にたくさんいた外国人も、ごそっと引き揚げてしまったようだし、いっそのこと、日本は鎖国してしまえば、平和でいいかもしれない。

そんな中、昨日、ダイムラー・ベンツの人と世間話をしていて、少し気が晴れた。「そういえば、お宅の会社は、ハイテク作業車を20台も寄付してくださったんですってね」と私。 新聞で読んだのだが、瓦礫の上でもガンガン走る「ウニモグ」4台、ショベルやクレーンを取り付けられるトラック「ゼトロス」8台など、優れモノがすでに日本に到着しているらしい。「社員の間で寄付も集めているよ。先週、50万ユーロ近くになっていた」ということだが、嬉しい話だ。しっかり集めてほしい。
「いやあ、それにしても、福島原発のおかげでドイツの原子力政策が180度方向転換した。あの事故なしには、こんなに早く原発廃止の方向にはいかなかっただろうね」と彼。3月27日に行われた我が州バーデン・ヴュルテンベルクの州議会選挙では、原発反対を唱えていた緑の党が突然票を伸ばし、50年以上続いていたCDU(キリスト教民主同盟)の政権を覆してしまった。(CDUは得票数は第一位だったが、二位の緑の党と三位のSPD社民党が連立して、CDUから政権を奪った)。そんなわけで、緑の党の支持者である彼は大喜びなのだ。しかも、今年はまだベルリン、ブレーメン、そして、メクレンブルク‐フォーポメルン州(メルケル首相の選挙区)と大事な地方選挙が続くので、この調子でいくと、ドイツの政治地図は、フクシマの負の力で左寄りに塗り替えられる可能性も捨てきれない。

私は原発推進派ではないが、フクシマ後の緑の党のはしゃぎようは、いくら彼らが30年来原発廃止に力を注いできたからと言っても、少々目に余った。それに、私はメルケル首相のファンなので、今回の一連のことで、彼女の力が弱まってしまうのは残念でならない。ドイツ在住の日本人にとって、これからもまだまだ憂鬱の日々は続きそうだ。

原発をめぐる個人的顛末(二)

「急告」

 川口マーン惠美さんのゲストエッセイ連載の途中ですが、ひとこと急いで報告することがあり、この場を借ります。

 かねて5月刊と申し上げていた西尾幹二全集の刊行は大震災の影響で延期され、9月刊が予定されています。

 出版の準備は着々と進められていて、12ページの内容見本がすでに完成しています。全集自体の印刷は一冊目が終わり、いま二冊目の初校が出ているほど先へ進んでいますが、刊行が延びているのは大震災での読書界の沈滞した空気を慮ってのことです。

 大型新刊の企画は各社どこも止まっているはずです。震災の影響はここでも大きいのです。版元の国書刊行会にどうなっているのかとの電話問い合わせが多数寄せられているので、ひとことご報告しておきます。

ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(2)放射能の国からの生還者

腹を立てながら乗った飛行機は、なぜかまた北京経由だという。日本人の客室乗務員に理由を訊いたら、北京で給油と点検、乗務員の交代、機内の清掃をし、そしてケータリングを積むという答えだった。乗客は、一度降りて、空港で待機するのだそうだ。他の飛行機も同じなのかと尋ねると、よくはわからないが、エール・フランスはソウルに寄って同じようなことをしている、という返事だった。
ところが、その彼女が、北京に着く直前に再び私のところへやってきて言った。「すみません。機長の気が変わったらしく、清掃は中止、乗客は機内に留まることになりました」。

敢えて北京に降りたくもなかったので、それもいいかと思いつつ、待たされること一時間。ようやく北京を飛び立つと、すぐに日本語の機内放送があり、引き続き日本人の客室乗務員が乗ってはいるが、ここ北京から目的地コペンハーゲンまでは、非番で同乗しているだけなので、業務できないことをあらかじめ詫びた。こんな変わった内容の機内放送を聞いたのは初めてだった。それから乗客は、東京の危険な放射性機内食ではなく、中国製の安全な機内食を食べた。

隣に座っていた若者はスウェーデン人で、交換留学で東大に行っていたが、親が心配して、とにかく帰って来いとうるさいので、勉学を中断して一旦ストックホルムに戻るのだそうだ。「スウェーデンってどう? いい国?」と訊くと、「いい国だ」と言うので、「何がいいの?」と訊いたら、「政府がいい」と答えたのでびっくりした。私も外国人に向かって、一度そう答えてみたいものだ。
九時間後コペンハーゲンに着いた途端、私たちはデンマークのテレビチームに迎えられた。放射能の国からの生還者だ。しかし、到着が大幅に遅れたので、ほとんどの生還者(もちろん私も)は後続便に乗り遅れ、ホテルで一夜を明かすことになった。

翌日、シュトゥットガルト行きのゲートにいたら、偶然、前日の飛行機で見かけたドイツ人女性がやって来たので、思わず、「あら、あなたもシュトゥットガルトだったの?」と声を掛けた。聞いてみると、地震の時、岩手にいたという。大きな被害のあった場所なので、私は少し驚いて、大変だったかと訊くと、「地震にも驚いたが、なにより大変だったのは、岩手から成田までたどり着くことだった」と、その苦労を語ってくれた。

「ドイツの家の人が心配しているでしょう」と言うと、「ええ。でも、なんだか変なのよ。主人が、一日でも早い飛行機があれば、それに替えろと言ってきたの。冗談じゃないわよね、もったいない」。私はおかしくなって、「そりゃ、そうよ。だって、ドイツでは皆、明日にも再臨界が起こって、日本中が放射能で汚染されてしまうと思っているんだから」と言って、“死の恐怖に包まれた東京”の新聞を見せてあげたら、びっくり仰天していた。そして、「そうだったのね。せっかくこの飛行機があるのに、惜しげもなくもう一枚チケットを買えだなんて、いつもの主人の性格からして何がなんだか訳がわからなかったんだけど、このせいだったのね」と大笑いしながら、至極納得していた。岩手では、日本のニュースさえろくに見られず、ましてや、地球の裏側のドイツで放射線測定器が売れているなどとは、夢にも思っていなかったらしい。

そんなわけで、ようやくドイツに辿り着いたのだが、帰ってきてからが、また大変だった。ここでも私は生還者なのだ。だから、「よかった、よかった」と喜ばれると、心配してもらったことを嬉しくも思うのだが、同時に、「自分だけが助かろうと思ってホクホクと逃げてきたわけではないのに」と、私の感情はどんどん屈折していく。

だから、「安全な水のあるドイツに戻ってこられて、ホッとしたでしょう」と言われると、どうしても、「東京の水も安全だ」と反論してしまう。しかし、東京の住民が危険に晒されながら脱出できずにいる中、一人ドイツに戻って来られた果報者は、反論などしてはいけないのだ。たちまち「赤ちゃんに飲ませるなという水が、安全なわけはない」、「ペットボトルを配っていたのを知らないのか」、「ドイツでも微量ながら放射性物質が計測されたのに、東京が安全なはずがない」、「原発の建屋が爆発で破壊された写真は、日本では発表されていないのか」、「野菜の出荷制限もしているではないか」などなど、東京が安全であってはならないという強い信念を含んだ言葉が、100倍にもなって返ってくる。

それにしても、今まで日本の地名なんて、「トウキョウ」と「ヒロシマ」ぐらいしか知らなかった人たちが、「フクシマ」という難しい単語を「ベルリン」と言うのと同じぐらいすらすら発音しているのは、驚くべきことだ。しかし、なんと言っても一番驚いたのは、普段は世界の時事などに一切興味を示さない友人が、突然、口角飛ばして「テプコ」の話をし出したときだった。「テプコ」が「東電」の略称だと気づくまでに、私は数秒の時間を要したのだが、私の知らない間に、「テプコ」は、ドイツで一番ポピュラーな日本の固有名詞となってしまった。

いずれにしても、フクシマがいかに危険な状態かを、テレビに出てくる有名な原子力学者の解説によってちゃんと知らされているドイツ国民は、日本人よりも事情に詳しいと思い込んでいる。それなのに愚かな日本国民は、報道規制のかかった発表や、改竄された不完全な情報をナイーヴにも鵜呑みにしており、真実を知らないまま、不条理に黙々と耐えているのだ。

「盲目的に原子力を信じていた日本人も、これでやっと危険に気付いただろう」というような言い方をされたときには、柔和な私もさすがに堪忍袋の緒が切れた。そこで、話題を“死の恐怖に包まれた東京”の記事に変え、ドイツのパニック報道を激しく非難したら、相手が黙りこんだので、私の怒りは少し静まった。

そういえば、最初は感嘆の的だった東北の被災者の礼儀正しい態度さえ、今では、どんな不幸にも文句を言わず、抗議の声もあげず、我慢ばかりしているのはちょっと変じゃないかという見方に変わってきている。耐えることに慣らされた従順すぎる国民・・。今や、私たちが北朝鮮の国民を見るような目で、ドイツ人は私たちを見ている。
これについては、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2404(原発事故でパニックを煽ったドイツのトンデモ報道 芸者、フジヤマ、ハラキリまで復活させて大騒ぎ)に詳しく書いたので、参考にしていただきたい。

つづく

原発をめぐる個人的顛末(一)

 今回はドイツ在住の川口マーン惠美さんのゲストエッセイとなる。今日本人が知りたい国際的な「風評被害」について体験記を連載で書いていたゞくこととする。

 川口さんは好評な最新刊『サービスできないドイツ人、主張できない日本人』(草思社)を本年2月に刊行されたのを機に来日し、3月の地震を体験され、何日か後にドイツに帰国された。夏までにはまた来日されるそうである。

ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(1)地震、原発、そして成田空港

 ドイツへ戻ってきてからも、憂鬱な日が続いている。余震はないし、停電もないが、風評というものがある。

地震のあった時は、ちょうど日本にいた。二日もすると、ドイツから悲痛なメールが入り始めた。「すぐに帰って来い」「チケットが取れないなら、こちらで手配する」云々。私が日本でフォローしていた限りでも、確かにドイツメディアは、日本列島全体がまもなく放射能の雲に包まれてしまうかのような、パニック報道をしていた。その結果、ドイツでは医者の警告にもかかわらずヨードが売れ(ヨードは下手に服用すると、副作用が大きい)、なんと、放射線測定器まで品薄になるという現象が起こっていた。

そんなわけで、私がまだ日本にいたころ、捜索犬を連れて到着した41名ものドイツの大救援隊は、2日足らずで活動を停止し、帰り支度に入っていたし、15日にはルフトハンザは成田就航を見合わせた。そして、多くのドイツ人は、先を争うように日本を離れており、17日にはドイツ大使館も大阪に引っ越しすることに決まっていたのだから、ドイツで私の家族や友人たちが慌てたのは無理もない。
彼らは、「大丈夫よ。私の飛行機はSASだから、たぶん予定通り飛ぶから」と、東京で呑気に構えていた私にイライラし、おそらく正気の沙汰ではないと思っていたはずだ。すでに彼らの頭の中には、数年後、白血病で死の床についている私の姿さえちらついていたのだろう。

しかし、私は実際に東京にいたのだから明言できる。私たちは慣れない節電で右往左往していたのは事実だが、放射能の危険を感じて恐怖におびえていたというのは正しくない。ましてや、放射能の怖さを啓蒙されていない無知な人間でもなかったし、あるいは、情報操作された政府のウソ報告を丸のみにしている愚かな市民というわけでもなかった。そもそも、私たち全員が憂鬱になっていたのは、震災の犠牲者と被災者の不幸を思い、原発の事故にショックを受け、それら二重の悲劇の大きさに、どうしていいかわからないほど打ちのめされていたからであった。

このころZDF(ドイツ第二放送)は、首都圏の住民3800万人がまもなく逃走し始めると、南へ向かう経路は、一本の主要鉄道と数本の幹線道路があるだけなので大混乱が起こるだろうと不吉な予言をしていた。しかし、私の知る限り、東京では、彼らの言うエクソダス(旧約聖書の出エジプト記に出てくるユダヤ人の大量国外脱出)が始まる気配も前兆もなかった。ちなみに、深刻な面持ちで地図まで見せてその報道をしたジャーナリストは、翌日にはすでに大阪のスタジオから生中継(!)していたので、何のことはない、逃走したのは彼だったのだ。

私がドイツに飛んだ日、成田空港は騒然としていた。コペンハーゲンから直行で来るはずだった私の飛行機は、なぜか北京に寄って来たので、出発が大幅に遅れるとのことだった。空港のあちこちの通路には、チェックインできない欧米の若者たちがべったりと座り込んでいた。予定していた飛行機が欠航になったか遅れるかしているのだろう。出国しようとしている中国人の群れを、中国のテレビチームが取材している。出国の旅券審査のホールに入ると、今度は、再入国手続きを待つ中国人の長蛇の列。外国人の間では、確かに、エクソダスがまっ盛りだった。
驚いて腰を抜かしそうになったのは、横に来ておとなしく腰掛けたいかつい欧米人の若者が、二人揃ってマスクをしていたことだ。これまで欧米人は、日本人のマスクをバカにしたり、からかったりすることはあっても、絶対に自分で掛けることはなかったのだ。そこで周りを見回すと、他にも神妙な顔つきでマスクを掛けた欧米人がちらほら。彼らのマスクは、日本人のそれとは目的が違う。もちろん、放射能を遮断するためだ。

搭乗するとき、ドイツの新聞があったので手に取ると、第一面に、背広を着て、マスクを掛けた日本人が、キッと真正面を向いた特大写真が目に飛び込んできた。通勤の途上、横断歩道で信号が青に変わるのを待っているところだ(と私には見える)。しかし、その下の大見出しには、“死の恐怖に包まれた東京”とあったので唖然。「そうか、ドイツでは、このマスクは放射能よけのマスクと解釈されるのだ」。信号を見ている目は、死の恐怖で見開かれた目・・。そう思うと、確かにそう思えてくるから不思議だ。

ただ、この写真を載せ、記事を書いたドイツ人特派員は、真実を知っていたはずだから、これはわざと誤解を招くための仕業に違いない。そう思うと、突然、むかむかと腹が立ってきた。

つづく

原発論争

 今日のこの日から当「日録」はコメント欄を復活することを宣言する。妨害者の乱入に悩まされてコメント欄を久しく閉鎖して来たが、復活を望む声も少なくなく、もうそろそろ開いて、自由な書き込みを歓迎すべきときではないかという声に従いたい。

 なお、コメントは、コメントと書いてある部分をクリックすると、一番下に記入欄が現われます。コメントは承認制となっています。

 原発事故とそれをめぐる今の国の状態について、WiLL6月号(4月26日発売号)に20枚ほど寄稿した。私の関心は大きくいって三つあった。第一はアメリカとの関係、今回の対日支援の本当のところは何であるかを考えてみた。第二は原発を操る人の質の問題、広い意味での政治、必ずしも政治家だけではなく、官僚・企業人・学者を蔽っている相互無批判な集団同調の心理を分析した。そして第三は資源エネルギーの未来のテーマ、原発に代わる代替エネルギーは果してあるのかないのかについてである。しかし今回は第三の主題には筆は及ばなかった。主として第一と第二の現状分析に終った。題して「最悪を想定できない『和』の社会の病理」。以上は文化チャンネル桜での私の発言内容と方向においてほゞ同一である。

 4月16日(土)に放送された文化チャンネル桜の原発事故をめぐる討論を見て下さった方は予想外に多かったようで、いろいろな反響があった。最初は仕事の関係でいま親しくお付き合いしている編集者の方(50歳台)からのメールである。

 

桜チャンネルを興味深く拝見いたしました。
西尾先生が常日頃述べられている東大支配の構造が、原発推進そのものであると、とても理解できました。
推進する側の官僚体質と自信が、とても気になりました。それにしても、菊池様は話は長いが、言葉が活きていてユニークな方ですね。

浜岡原発は、恐ろしい。
どうなるんでしょうか。また、お話をお聞かせください。
取り急ぎ、感想まで。

 「菊池様」とここにあげられている方は私の右隣にいた元GEの技術者、福島第一原発の施行管理担当者であった菊池洋一氏のことである。日本の原発を現場で最初に手がけた人である。

 次のメールはまだ若い外資系企業のビジネスマン(30歳台)の知人からである。

 昨日、チャンネル桜の3時間討論をネットで拝見しました。非常に明確で分かりやすいメッセージでした。GEで当時福島原発の施工管理をされていた方のコメントも重みがありました。
先生の現在の原発問題と将来のリスクを混同せず分けて議論する手法、国民が背負わなければならない将来のリスクの損害の大きさと原発推進のメリットの大きさの不均衡、 現在の原発を管理する制度上の問題、あるいはその背後にある根本問題、目の前にあるリスクに対する行動指針、どれもが明快で、原発推進派の優等生論文を言葉遊びで行動が伴わない暗愚と痛烈に批判されるあたりは全面的に共鳴しました。誰に囚われることなく自分でリスクを測り、シナリオを考慮し、行動することが求められる非常時である筈なのに、何か停滞感があるのは何なのだろうと思います。企業であれば即刻崩壊しています。

 ここでもやはり菊池さんは注目されている。

 WiLLの論文には書き落としたことがいくつかある。あまり人は言わないが、気がついている人は気がついているテロの危険である。今度の事故でテロリストに原発の弱点を公開してしまった形だ。爆弾を使わなくても電源設備をこわせばよいのである。使用済核燃料棒が高い処に貯められている構造も建屋の強度を殺いでいる。

 チャンネル桜の水島社長は福島第二原発の現場にも今度足を運んでみたそうで、驚いて言うには、入り口周辺に警備する人の姿もなく、まったくの無防備であった由。私の言う日本社会の病理とはこういうことを指している。事例は無数にある。

 この国の国民はこんなあぶない道具を使いこなす力がそもそもないのかもしれない。軍事ということからかけ離れて65年もうかつに過ごした。日本人は原子力潜水艦を建造した経験も運転した経験もないのだ。企業人や学者や官僚が手に余る危険な「火の玉」を扱っているという自覚が余りにも欠けている。原子力安全・保安院の係官は東京で電話連絡を受けているだけである。福島の現場に始めて係官が二人顔をみせたのは、何と事故発生から38日も経ってからのことであった。誰かが言っていたが、なぜ東電の会長と社長は防護服を着て、率先して放射能のある現場に入って、作業員の働くそば近くに行ってみようとしないのか。

 さて、私の友人の中にはテレビ討論での私の発言に反発し、否定的だった人もいる。尾形美明さんは元銀行マン、私の友人の一人である。私は彼から次のように手厳しく叱責されている。

今まで、チャンネル桜の討論を見ていました。
西尾先生はじめ、原発反対論者の意見の粗雑さと幼稚さに正直驚きました。
日本には「47の火の玉(運転中の原発のこと)がある。これを直ぐにとは言うわけには行くまいが、どう整理していくかが課題だ」などと言います。原発は制御不能な「火の玉」なのですか?試しに、原発を利用している国々に訊いてみたらいいですね。大笑いされるでしょう。

 要するに「原発NO」が当然という意見です。さらに、地熱発電だとか、太陽光発電だとか“代替”エネルギー源についても活発に発言していましたが、それが「代替にならない」ことを全く理解していません。勿論、そういったクリーンエネルギーの開発にも努力すべきですが、原発に代替になるはずがありません。
例えば太陽光発電で、半導体製造工場の稼動が可能だと考えるのでしょうか?

 元GE職員だったという人物の饒舌と、その話の内容のなさには呆れました。原発の周辺では「乳児の死亡率が54%も高い」のだそうです。何を根拠にそんなバカなことを言うのでしょうね。

 また日本が原発を止めても、フランスやアメリカが止めるはずがありません。中国やロシアだって同様です。いや、中東の産油国でさえも、原発建設を計画しています。化石燃料は有限であり、何時までも依存できないからです。

 技術開発には失敗が伴います。その失敗を活かしながら、より安全な技術を求めて行くしか人類が生き延びていく道はありません。(それも、世界人口が100億人を超えても無限に、というわけには行かないかも知れませんね。どこかで人類は、食料やエネルギーなどで“限界”に直面する筈です。いや、意外と水資源かも知れません。)

 少なくとも、エネルギーに関しては、「第二のプロメティウスの火」と持て囃された(産経紙、福島敏雄「土曜日に書く」)原子力を活用するしか、人類が高度の文明生活を享受する道はありません。
もし、原発を拒否するのであれば、人口を5分の一くらいに減らす覚悟をすべきです。
原発反対論者は、「3割電力消費を減らせば、原発不要」などと言いますが、それはあくまで“当面”でしかありません。

 チャンネル桜の討論を見て、つい、高ぶってしまったようです。失礼しました。

尾形拝
「つくる回ML」4月16日より

 ここでは菊池さんがひどくネガティヴに扱われているのは少し困るが、私自身はこのような叱責口調で批判されてもそれには理由があると思われるので別に驚かない。尾形さんには理由があるのである。理由は原子力に替わることのできる何らかの別の有力なエネルギーは存在しないという彼の確信から来ている。彼は次のようにも言っている。

エネルギー問題は安全保障の要でもあり、この安定的な供給がなければ、日本社会は「1日たりともやって行けない」ものです。そしてその主流は、現在のところ、火力発電か原発しかあり得ません。一時、期待された、「核融合」の実用化は無理なようです。

 極論ですが、電力需要を減らす一番確実な方法は、人口を減らすことです。これは石井さんの言い方を逆にしたものです。「安くて使い勝手が良く、大量に安定した電力」なければ、世界の死亡率は急上昇する、ということです。
でも、現実は年々、65百万人前後の人口増加が予想されます。(『世界国勢図解』)

 これも極論ですが、「原発で死んだ人は、何人いますか?」という考え方も出来ます。チェリノブイリでは直接の被爆で4千人が死んだと言われます。スリーマイル島では、死者はなかったのではないでしょうか。
一方、交通事故では世界中で毎年何十万人も死んでいるのではないでしょうか?でも、「自動車を廃止せよ!」という運動は起きません。ガス中毒も何万人かはいるでしょうね。でも「ガスを使うな!」という運動は起きません。

 これは、水島代表が先日、チャンネル桜で述べられていたことですが、こういう考えも出来ると、私は思います。要するに、江戸時代の生活に戻る覚悟がなければ、大量の電力を消費せざるを得ないのだ、ということです。

という具合で尾形さんのもの言いは止まる処を知らない。原発は人類の未来そのもので、他に取って替わるエネルギー源はない、という動かぬ前提から発していて、この前提が存在しつづける限り、彼の立論も終わる処を知らないであろう。

 私は今日は第三のこのテーマはペンディングにしておくと言った。よほど勉強しないと確信をもつには至らない。言論界も今後このテーマで沸騰するであろうが、まだ結論は早い。

 ひとこと言っておけば、自動車事故や飛行機事故を例にあげているが、これらの事故は限られた死者が出るだけで終わるのであり、原発のように土地を汚し半永久的に人の住めない死の土地を作るのとはわけが違う。原発は国土の歴史への破壊の可能性を孕んでいて、日本のように国土の狭い国には不向きである。

 もう一人の友人の粕谷哲夫さん(元商社マン、70歳台)はブログ「株式日記と経済展望」の末尾にあるコメント欄を引用して、それにさらに自らのコメントを付けて送ってきた。内容は未整理だが参考になると思う。

原子力発電の未来を問う!(Unknown)
2011-04-19 18:57:24
1/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
http://www.youtube.com/watchv=IRG8G_a7hBk&feature=player_profilepage

パネリスト:
 齋藤伸三(前原子力委員会委員長代理・元日本原子力研究所理事長)
 竹内哲夫(前原子力委員会委員・元日本原燃社長・元東京電力副社長)
 林勉(エネルギー問題に発言する会代表幹事・元原子炉メーカー技術者)
 兵頭二十八(軍学者)
 菊池洋一(元GE技術者・福島第一原子力発電所施工管理担当)
 鈴木邦男(作家・政治活動家)
 西尾幹二(評論家・文学博士)
 前田有一(映画批評家)
司会:水島総

2/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
http://www.youtube.com/watchv=9gk44zLpx4Y&feature=related

菊池さんの話、地上波では絶対放送できない内容でした(東京電力が結構スポンサーをしていますから)。確かに延々と話されて、聞いていると疲れも感じましたが、内容は非常に貴重なものでした。本当に原子力を推進していくのであれば、彼のように配管工事や施工工事の怖さや大事さを知っている技術者に大幅に権限を与え、『最高の原子炉を設計できるのはあなたしかいない』と言って、応援するべきだ。

必見動画 !!! 政府の情報隠しは旧ソ連の「ファシズム」と同じだ(Unknown)
2011-04-19 19:11:37
佐藤栄佐久前福島県知事がズバリ指摘
http://gendai.net/articles/view/syakai/130029
【動画】日本外国特派員協会で行われた佐藤栄佐久・前福島県知事の会見
http://facta.co.jp/blog/archives/20110419001004.html

(粕谷) この動画によると 昨年6月に 福島第一原発の2号機で停電事故が起きていた、幸いにも緊急電源が間にあって大事には至らなかったが、佐藤は東電に対し、 不測の事態にたいする予防、危機管理を強化するよう申し入れたが、東電は、「天敵」佐藤の要望を一蹴したという。今回の津波事故は 人災 と断言していた。
このプレスクラブでの発言は、多くの外国人記者によって世界中に流されるであろう。
佐藤は、自分の国策逮捕的な 政治的な動きは 安倍晋三の首相就任以降激しくなったようなことをほのめかしていた。どうも道州制反対の佐藤知事への圧力か?口を濁した。あそれらの問題は 自著【知事抹殺】を 読んでくれと宣伝していた。
佐藤は原発そのものに反対ではない。原発をやるならきちんとやれという立場である。
また日本の原子力政策は 通産省が完全支配しており、路線が敷かれた後はいわゆる政治の介入の余地はないというような実態にも触れていた。
福島原発の 推進には渡部恒三が大いにかかわっているようだが、 その点の記者の質問についての 渡部にたいする批判的な発言はなかった。
刑事被告人にんされただけに 佐藤の怒りは並大抵なものではない。

原子力発電の未来を問う![(Unknown)
2011-04-19 22:06:02

3/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
これだけ怒っている西尾先生の姿は久方ぶりに見た。西尾先生の怒りは、東電に対して、かなり強い。
東電の勝俣会長や、清水社長は、会見で頭を下げ謝罪の言葉は口にしたが、悪びれる様子も無く、そこにはなんらの当事者意識も感じられない、非人間的な姿が見て取れた。心の中ではなんとも思っていないのだろう。自分たちがしでかしたことに責任も持たず、むしろ俺たちは被害者だと居直っているのではないか
テレビでアホ発言したが、あとで謝罪した勝間などまだ良いほうだ。東電幹部たちのあの態度からは、人間の温かみなど露ほども感じられない。
日本人とはこんな冷徹な生き物ではなかろう。このことに西尾先生は怒っておられるのだろう。

http://www.youtube.com/watchv=kmnnevZeVhA&feature=BFa&list=SP4F05DB19CE6DD039&index=3

Unknown(Unknown)
2011-04-20 00:33:45
福島原発事故の現状について 京都大学原子炉実験所小出裕章先生に聞く

【福島原発】2011/4/19/火★1.作業員からも工程表に疑問-2.Meltdownとは 1/2 8分44秒
http://www.youtube.com/watchv=asrdKaAP1Rg

【福島原発】2011/4/19/火★1.作業員からも工程表に疑問-2.Meltdownとは 1/2  9分20秒  
http://www.youtube.com/watchv=47dJI69Yuhc

(粕谷) 動画投稿者は URL だけでなく何が報じられているか ぐらい書け!!
この動画にたいする 以下のコメント たいへん参考になる。
日本の原子力行政がいいかにいい加減か よくわかる。

コメント

紙の防護服…。車から5分程しか出なかったらしい枝野は、見たところかなりチャンとした”宇宙服”タイプを着用している様子だったが、その1着分だけでも命がけで作業して下さっている現場の人にまわすべきではないのか…。

本当に助かります。毎日アップしていただけるので、その時点での最新の分析がわかります。これからも期待しています。

主要紙の世論調査によると「原発やむを得ず」と考える人が一定数いることが明らかになった。
何故、事を小さく思わせる楽観的な状況を皆簡単に信じてしまうのでしょう?
事の深刻さを分かっている人はかなりいますが、依然として「原子力は日本の電力の1/3なのだし安いのだから仕方がない。」という洗脳から抜け出せないでいる国民。消費税はあれだけ皆が反対するのに、、、。
悪者を管氏に集中させ、野党はじめ皆が責めていますが、確かに初動云々はあったにしろ、問題の根源はもっと奥深くにあって、「安全神話」を作り既得権益を得てきた原子力安全委員会や推進派学者たちや東電の周りの取り巻の所業には考えが到達しない。
我慢強さは世界一の民族でしょう。でも今回の場合はそれは逆効果を生んでしまうのでは?という気すらしてしまいます。

アップありがとうございます。
小出先生の話は現状把握に役立ちます。

斑目!?・・・聞きたくもない名前が出てきた。

「希望的工程表」は、「民主党のマニフェスト」と同じだ。
「根拠無き楽観」は、この国の信用を失くし、国民を不幸にする。 小出先生ありがとうございます。 UPをありがとうございます。

小出先生、スタッフの皆さま、こうして日々信頼おける情報を提供して下さり、ありがとうございます。読み込んでいます…

* 小出先生と同じで、一日も早く冷却システムを作り上げて欲しいと思っています。
何か、良いアイデアはないものかと考えています。
全然役に立っていませんが・・・。

 今回は保守系の人でも二つに割れていて、岡崎久彦さんなどは「事故は次への飛躍への教訓」「工学は失敗を糧に育つ」などと言っているようである。尾形さんと同じ立場である。

 さいごに青山繁晴さんの最新の意見を掲げておく。私の知らない知見だった。

(汚染水の放射性物質の濃度を低くする作業については、フランスのアレバ社の技術を取り入れるということなんですが)

 東電や日本政府がこういう現状だから、フランスやアメリカの手を借りると安心だという雰囲気が日本にけっこう広がってて、特に高名な評論家やそういう方々が、フランスやアメリカが入ってくれるからという感じでおっしゃってるでしょ。よく現実を見てほしいと思うんですが、アレバはフランスの国策会社で、国が9割方株を持ってる。アレバの技術を使ってる核技術施設はすでに日本にあるんですよ。それは青森県の六ヶ所村の核燃料サイクル施設、あるいは核燃料の再処理工場なんですが、これフランスの技術を入れたためにずるずるいつまでも稼働できなくて、もう20回近く先延ばしになってですよ。で、元々の費用は7600億円でできるはずが、何と2兆2000億になってるんです、すでに。これ日本国民が知らなくて、国際社会ではほんとに有名な話で、このロベルジョンさん(CEO)も含めて、国際社会ではもうフランスは六ヶ所村を食い物にしてると言ってるわけですよ。

 じつは使用済核燃料の処理は世界でどこもまだ成功していないのだと聞いている。アメリカとフィンランドは燃料の残りは全部土中深く埋めこむ計画だがまだ計画の段階である。日本とフランスは再利用する方向で、高速増殖炉は日本特有の技術ではあるが、平成14年4月に停止してしまった。成功していない。他方、六ヶ所村の再処理工場は別の方向だが、ここも最終試験段階でトラブルが発生している。かりに成功してもいっぺんに処理できないので中間貯蔵施設に使用済を何千本と保存しなくてはならないが、その施設がまだ出来上っていないとも聞く。しかも、再処理ができても「高レベル放射性廃棄物」はさいごにどうしても残るのである。これを地下300メートルに埋めこむ計画のようだが、どの自治体も受け入れを拒否している。300メートルといっても日本列島は地震大国である。地殻変動で将来何が起こるか分らない。燃料の最終処理はフランスも成功していない。フランスは日本に望みをかけてきたのだと思う。

 世界は福島を転機に原子力への考え方を変える可能性があると私は考えている。しかし私はまだまだ知識が足りないので確たることはいえない。諸々のオピニオンを以上すべてここに掲げてみたのは、これからゆっくり考えるための一助になればと思ったからである。