財政規律の問題

 粕谷哲夫君は私の大学教養学部時代の同級生で、住友商事に永く勤め、同社の理事になった。海外経験も豊富で、「つくる会」には強い関心と共感をいだき、協力を惜しまなかった。「つくる会」賛同者の表に名を列ねてもいる。 

 粕谷哲夫 
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 財政規律の問題

 私は西尾幹二氏の旧友であり、種子島氏とも同じ同窓である。

 実は二年ぐらい前だったか、某団体の会長がその会の資金1千万円の不正使用があったのではないかという疑いが出たことがあった。私は西尾幹二氏に、当該団体のような問題が発生すると「つくる会」の運動に重大な事態を招きかねないので、老婆心ながらよく目配りするよう進言したことがあった。

 というのは 現在日本の抱える問題の重要な部分は、他人のカネを預かるものが、その善良なる管理者の義務を忘れて放漫に流れることによって生じたものであることを骨の髄まで認識していたからであった。

 目の前のカネがあり、それが自分のカネではなく他人のカネであれば、放漫な支出に流れるのは、おそらく人間の悲しい性である。巨額な財政累積赤字、銀行の不良債権問題、厚生労働省のナンセンスな施設群の建設とその処分などなど、すべて「他人のカネ」の放漫管理から発生した問題である。こういう危機管理の意識は私自身の職業的体験から醸成されたものである。

 この懸念について西尾幹二氏からは「自分も同じ認識を持っている。そういうことがないようにやかましく言っている」という趣旨の回答だった。 その後の会話から、氏が「つくる会」の資金管理について予想以上の厳しい認識を持っていることを知った。

 またこういうことがあった。前回の採択戦に備えて、「つくる会」は寄付を募った。彼からは1万円寄付の要請があり、こころよく同意した。彼自身は100万円の寄付をし、かつ理事たちにも相応の寄付を求めているという話であった。100万円が多いか少ないか、いろいろな判断はあろうが、小生はかなり大きいと感じたが、逆に氏のこの寄付行動は会の財政節度に対する厳しい認識を示す証として一安心したものである。

 と同時に理事たちは個人的な寄付をたとえ5万円でも10万円でも要請されれば、「西尾氏が会長であると寄付させられるからかなわない」という反発が生じるのではないか?と心配になった。しかし彼はその危惧をとっさに否定した。「理事はいろいろあっても、そういうことは分かっている」というニュアンスだったと記憶する。

 その募金活動は、結果的に目標を超える金額の募金を達成したと聞く。ところが西尾氏は、「募金金額の達成に理事たちは自己の集金力を過大評価している。浮かれてはならない。将来の会の財政見通しはけっして楽観できない。いっそうの財政節度が必要だ」とつけ加えるのを忘れなかった。

 また、「幸い『国民の歴史』の多額の印税が「つくる会」の財政に貢献したが、今後この種の臨時のヒット収入を見込むことは出来ないだろう」という悲観的な見通しを述べたと記憶する。

 コンピュータ問題はそのあとに出て来た問題である。私はコンピュータ・ソフトについても多少の心得はある。なぜ早く相談してくれなかったのかという気持ちは残るが、宮崎氏にこのコンピュータ問題で邪念はなかった、しかし理事一同無知であったというのが私の判断であり、その支出は「無知の代償」といえる。宮崎氏の事後の処理を伴う問題点は、遠藤氏の報告書に詳細にあるようだ。それを見れば分かるはずである。コンピュータ・ソフトの会社からの事後値引きもあったと聞く。

 しかし「無知の代償」を認識した西尾氏は、この件の責任は宮崎氏のみ負うのではなく、理事全員も応分の連帯責任を負うべきであると提議し、合計100万円の負担が合意されたと聞く。しかし宮崎更迭問題がこじれてこの話は沙汰止みなったそうである。

 宮崎氏はいい人ではあったが、教科書採択の状況は厳しさを増したこともあり、西尾氏の求める事務局長像がより厳しいものになってきたことも十分ありうると思う。この事務局長の戦略的機能の問題について、日録によれば宮崎氏更迭の考えは八木、藤岡、種子島の三氏の間に同意され共有されていた。この段階では一枚岩であったと私は理解した。

 企業であれば、そういうコンセンサスが幹部間にあれば合理的な意思決定がなされるであろう。

 その後コンセンサスは突然白紙に戻った。これを知ったときの西尾幹二氏の驚愕と当惑の電話は今でも耳に残っている。

 それ以降の展開はご存知のとおりである。

 誰がこの会を運営するにせよ、まず財務管理に対する根本的な意識の変革が会全体に浸透しない限り、会は資金的に行き詰るのではないかと危惧している。NHKは半強制的に視聴料を請求できるが、「つくる会」の運営資金は会員の寄進によるものである。「会員の爪に火点すなけなしの寄付」である。会員の心が離れれば、会は雲消霧散する。デフレを経て支出管理を徹底している昨今の企業の金銭感覚の厳しさをまねる必要があるのではないか。その感覚は西尾幹二氏が一番強かったのではないか? 

 昨夜来の情報によると、種子島氏、八木氏などの退任が決まったようである。

 新執行部におかれては、浄財の拠出者のことをつねに頭において、効率的な運営を図ってほしい。

 

 

新しい友人の到来(四)


伊藤悠可氏誌す

私はあまり心配していないのです。われわれが目撃している事実は「カタルシス」だということがだんだんわかってきたからです。「Katharsis」というのは内臓の中に溜まった悪いものを排泄させることを意味する言葉らしいのですが、易の火風鼎の卦がそれです。鼎は三本足の素焼きの祭祀具。中央下から火をくべて、上部の鍋の供物を煮るのだが、これを神聖なものとして供するには、一度逆さにして調理の残り物、残滓を除いてからでないといけない。
カタルシスだと悟れば、こびりついた煮物は除かれる。

「森鴎外か小説『渋江抽斎』に登場させた人物。『金風さん』と親しく呼んでいる人は長井金風のことだが、彼は『最新周易物語』でこんなことを書いている。

『――徳川の時、渡邊蒙庵とかいひし物があって、遠州のもので、真淵の末流を組んだものだが、日本書紀の注釈といふを書き、それが冷泉卿か、菊亭卿の手から上覧に入ったといふので、おおひに面目を施したつもりに思ってゐた。一年洛に上りその卿に謁することになった。本人の考へでは余程賞めに預かることと心得て行ったのだが、恭しく導かれて謁見を賜はつたまではよかりしも、卿は蒙庵を一目見て、その方賤しき匹夫の身を持って、国家の大典を注釈せんなど、神明に憚らざる不埒ものである、といつたのみで、御簾は既にきりきりっと捲き下された。蒙庵はぶるぶると振ひながら罷りくだつたといふ。』

金風はこの卿のわきまえのあるを讃え、もと国史というものは百姓を導くために書かれたものではなく、帝王の鑑として帝王のためにつきうられたのみである、と言っている。古事記の傳なり、初期の注なりと我れは顔に物して、小人匹夫が触れ得るものにあらず。あまりにおのれを知らざる天朝を憚らぬものどもで、田舎の神主あがりの国学者などというもののしたり顔して御事蹟を喋々するのが多い、と怒っている。

伊藤思う。いまどき、このようなことをいう知識人はいないし、またいたとしても巷間、誰もそれに服するものなどはあろうはずがないが、しかし、面白い話だと思って読んだ。天朝、国家の大典という言葉をかざして人を黙らせるのが痛快だという意味では勿論ない。身分の隔てがなくなった今、誰もが人倫国家を云々できるようになったが、本来、精神の貴族性をもたない人々が参加できるような運動ではないのであろう。百姓というのは精神性の「貴」と「清」とが無縁な人というふうに充当すれば、この長井金風の意とするところはちっともおかしくはない。

 つくる会FAX通信172、173号が発行されました。173号の前半に種子島、八木両氏の捨て台詞めいた弁明文の要約、後半に藤岡氏の公正めかした美しい演説文の要約がのっていますが、ここではそれらを取り払って、本日録に関係のある部分のみを掲示します。

(2)藤岡・福地両理事による反論

 両理事は、「つくる会の混乱の原因と責任に関する見解」という本文6ページと
 付属資料からなる文書を用意し、概要次のように述べ会長・副会長の辞任理由
 に反論しました。

〈我々両名は、2月理事会の翌日28日から3月28日理事会までの1ヶ月間、種子島
会長を支える会長補佐として会の再建に微力を尽くしてきた。3月28日の理事会で
は、副会長複数制が妥当であるとの我々の進言を無視し、会長はその任命権を行
使するとして八木氏のみを副会長に任命した。それでも理事会の宥和を重視し、
我々はその人事に同意し、二度と内紛を起こさないようにしようという精神で合
意した。このまま何事もなく推移すれば、7月に無事に八木会長が誕生したはずで
ある。

 ところが、この理事会直後から、会の宥和と団結の精神に反する不審な事態が
 続発した。
 
1.3月29日付け産経新聞は理事会の内容を歪曲し、理事会で議論すらしていない
ことまで報道された。理事の誰かが誤情報を流して書かせたのである。

2.3月末から4月初めにかけて、西尾元会長の自宅に一連の脅迫的な内容の怪文
書がファックスで次々と送られた。これについて西尾氏が自身のブログで発信す
る事態となった。

3.4月3日、渡辺記者は藤岡理事に面会を求め、藤岡理事に関する「平成13年 
日共離党」という情報を八木氏に見せられて信用してしまったが、ガセネタであ
ることがわかったと告白して謝罪した。6日には、謀略的怪文書を流しているのが
「八木、宮崎、新田」であると言明した。

 福地理事は、事態は深刻であり速やかに事の真相を糺す必要があると判断、4月
 7日に種子島会長に八木副会長から事情聴取する必要があると進言したが拒否さ
 れた。4月12日、西尾宅に送られた「西尾・藤岡往復私信」は八木氏の手にわた
 ったもの以外ではあり得ないことが判明した。同日、藤岡・福地の両理事は会
 長に対し、八木氏が3月理事会の精神に反する一連の謀略工作の中心にいる可
 能性が極めて高く、その証拠もあることを説明し八木氏の聴聞会の開催を改め
 て求めた。会長は、1.八木氏に確かめ、事実を認めれば解任し、自分も任命
 責任をとって会長を辞す、2.否認すれば八木聴聞会を開く、と表明した。翌
 日13日、種子島、八木、藤岡、福地、鈴木の5人の会合の場がもたれ、冒頭で会
 長は両名の辞任を表明した。従って、前日の1のケースであったことになる。
 こうして会を正常化しようとする我々の真摯な努力は水泡に帰した。

 この間、種子島会長は、「過去は問題にしない」と言い続けてきたが、一連の
 謀略による内紛の再燃は、宥和を確認した3月理事会の後に起こったことであり、
 現在の問題である、また、辞任の理由として、我々両理事が内紛を仕掛けたか
 のように語っているが、それは明らかな事実誤認に基づく責任転嫁である。〉

(3)討論の流れ

 田久保理事から、「藤岡理事は八木氏宅へのファックスにたった一言書き込ん
 だ言葉について八木氏の自宅に赴き、夫人に謝罪した。藤岡氏の党籍問題に関
 するデマ情報の流布は極めて重大な問題であり、八木氏はそれを他の理事など
 に公安調査庁の確かな情報であるとして吹聴したことについて藤岡氏に謝罪す
 べきである」との発言がありました。事実関係についても、参加者から具体的
 な補足情報の提供がありました。

 内田理事は、藤岡理事の言動が会の最大の障害であるとして、藤岡理事を解任
 すれば種子島会長は辞任を思い留まるのかと質問しました。それに対し、種子
 島会長は、それが筋だが健康に自信がない旨述べて会長を続けるつもりはない
 と発言しました。
 
(中略)
 
 議論は2時間半以上にわたって続きましたが、結局八木氏は謝罪せず、種子島・
 八木両氏は辞意を撤回するに至らず、辞任が確定しました。この両氏の辞任に
 続いて、新田・内田・勝岡・松浦の4理事も辞意を表明(松浦氏は欠席のため文
 書を提出)、会議場から退出しました。
                                (以上)

5/3 追記

新しい友人の到来(三)

伊藤悠可氏誌す

「なぜ、ここにいる」と先生を罵倒した男。先生は全共闘を彷彿されたという。全共闘世代。これは先の親世代が甘やかして育てた過剰肥料の産物だ。或いは、心が緩んでいた時に生んだ子供たちだ。戦争で緊張感があった。その時代に命をなげうった人には子供がいない。終戦で、死ぬかもしれないという危険がゼロになった。そこでどっと子供が生まれた。「ああ、死ななくてよかった」と弛緩したときに生まれた子供たちなのだ。だから二十歳になってイタズラをしたのだ。今まで彼らがやったことを児戯でなかったと思ったことは一度もない。そのオフセット版がいみじくも先生があぶり出した保守屋の中年。全共闘世代を評する限りサルトルは当たっている。「この世に放り出されただけ」の存在なのだ。私も全共闘世代に入るらしいが。

そう言えば、「保守」の人口が増えたなというのが、あるときからの印象である。今回のような事件をみると、水増ししたに違いない。こんなにいるはずがない。あの当時は全然いなかった。

こういうときは悪人のほうがわかりやすい。善人は語るべきときに語らず、語ってはならないときに語ったりする。不測の事態というときには、善人が当てにならないだけではなく、実際に悪い役割を果たす。

「愚直」というのはない。愚かなるものは必ず曲がる。「愚曲」はあり、「愚直」はなし。私が歩いた拙い人生からでもそれが言える。自分で愚直といってえばる人間はほとんど曲がっている。

「保守」という言葉も、全共闘が汚してしまった「総括」と同じように穢れてしまうのだろうか。紫の朱を奪うものたちの手によって。

「目的の為には手段を選ぶ」。これが日本人の澡雪の中心である。先生は昔から左翼であっても進歩主義者であっても、隔意なく人間として敬意をもっておつきあいなされた。それを最近の日録で知って我が意を得たりと思った。九段下会議で先生の身振り手振りをみているだけで、それはわかるはずだ。

「目的の為に手段を選ぶ」。その中には、禮も長幼の序も金銭の使途の性格も、さらに言えば団体に参加しているという動機までも、規範されるものであろう。つまり、卑怯をしないということだ。

わが古代から中世へかけて廃れていた思想に「恩を知る」ということと、「分を守る」という思想があって、それは平和的な感情でもあるが、運命的な思想に培われたものであると私は信じる。けれどもその運命を裏切らんとした人々が不必要な動乱を敢えてしたために、世の人々が難渋したことも幾度もあったので、これも日本だけのことではないであろうが、この二つの感情が自然と流れていた時代と人世にノスタルジーさえ感じる。
突き詰めて言えば、この二つさえ放擲しないで生きられるなら、人としてあまり大きな過ちはおかさないでいられると思うほどである。

保守知識層が結集してやっておられる運動の大半は、「大衆感化運動」だと思っている。大衆覚醒運動と呼んでもかまわない。しかし、この運動の核にほとんどの大衆が入ってきては困るのだ。

こちらが大衆浴場になってしまったら、誰に呼びかけるのであろうか。
(つづく)

 つくる会の種子島会長、八木副会長は4月30日の理事会で会長・副会長のみならず理事も辞任し、会そのものから離れると発表しました。

 さらに新田、内田、松浦、勝岡の四理事も辞任。

 ただし、会長、副会長の自己弁解を披瀝したつくる会FAX通信172号は、新執行部(高池会長代行)の成立直前に、これを出し抜いて出した種子島、八木両氏の犯した、不正かつ卑劣な文書で、ただちに無効となっている。

 私はただ、八木は知らず、種子島の何故かくも、陋劣なるかを、彼を知る旧友とともに哀れむのみ。

4/30 追記

新しい友人の到来(二)

 それからしばらくして、さらに次のような長文の感想文が届いた。今の私が今の私の置かれた環境をこれ以上語ることは困難だと思っていた矢先、外から私と私の環境を心をこめて語って下さる次のような文章を得て嬉しい。さっそくにも紹介したい。


伊藤悠可氏誌す

「つくる会」幹部の不可解。おそらく語るに落ちる行状がふくまれているにちがいない。尋常なら今のような収拾(注・4月3日の段階・八木氏副会長へ復帰)をするはずがない。易経の水地比の卦にある「人に匪ず。また傷ましからずや」といったものだろう。「人にあらざる人と交わりを強いられ」先生が心を傷められたという卦です。それらの大部分を胸内に秘めて語らずにおられるのは、保守の軒下にいるはずのない人間がいたという衝撃と、もう一つは理ありとも事に益なきは君子言わず、という思いがおありになるからだ。ここでいう「益」とは足を引っ張ってきた君たちが思っている「利益」「私益」ではない。「実りあるもの」に資するという意味なのだ。先生は大変な忍耐をしておられる。

事実無根の中傷と誹謗に対して、おのれ自身のために弁明するのは時として徳を損なうかもしれないが、人がいわれなき中傷誹謗にさらされているのを見たときは、断然その人のために弁明しなければならない。それが日本人ではなかったのか、保守ではなかったのか。理事の面々よ。

産経新聞の某記者まで繰り出して、狂騒乱舞しはじめた「つくる会」。やっぱり「ふるいにかけられた」連中は想像したとおりの愚をおかす。彼らは苦しくてしかたがないのだ。つまり、先生の眼前で、正体をあらわしてしまった悶えにすぎない。これからもっと百鬼夜行のような景色がみられると思う。楽しみにながめていたい。

八木氏は、蘇生する最後のチャンスを自分でつぶしてしまった。わざわざ先生が一日、会って下さったというのに。転んだ少年がまた馬上に乗っかってしまった。彼はいつか見たことのある「上祐さーん」というようなファンがいっぱいいる。先生が日録に書かれた御婦人たちもその類になる可能性が高い。目覚めてほしい。

「つくる会」が内部から腐ってしまったというのに、「つくる会」の看板だけ磨いて住みつづけようという人がいる。Bestではないが、Betterならよいと、声援をおくる人が私の近しい中にもいる。私はいずれもうまくいかないと思う。同志的結合でない利害集団はかならず内ゲバをおっぴろげる。小人の群はそれが専売特許だから。

泣いて馬謖を斬ろうとしたら、「ぼくは斬られるのがイヤだ」と馬謖が走り去ってしまった。そんなやつなら「魏」に逃げ込むのだろうと、思っていたら何と「蜀」に戻ってきていて、この国をよくしたいと言い出した。西尾先生の泣く機会を奪った八木さんの罪は重い。だから先生は泣かないで笑うしかないのだ。

つくる会のゆくすえを案じる方々、どうか不謹慎だとお怒りにならないでください。吾々がいま見ているのはまさしく「喜劇」なのだ。国は「喜劇」のなかにおいて亡びていく。「悲劇」のなかでは国は亡びない。
(つづく)

SAPIO最新号(5月10日号)に怪メール事件が報じられました。

4/29 追記

新しい友人の到来(一)

 九段下会議は最近開かれていないが、以前そこで知り合った伊藤悠可さんという方がいる。いつも無口で、静かに注意深く人の言を聴いている方だが、最近私に励ましのメールを下さってからこの方のご文章に感服し、文通が始まった。

 ご自身の自己紹介によると「記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営むかたわら、易経や左伝の塾を開いている」という。これは丁度いい、私も徂徠の難著『論語徴』を読み始めた所なので、難解な箇所を教えてもらおうと思う。

 伊藤さんは高校時代に拙著『ヨーロッパの個人主義』を読んで、生涯のうちに必ずこの本の著者に会えるかもしれないと思っていたそうで、こういう勘は全部当っているという。小林秀雄先生にも、岡潔先生にも、思った通りに会えて、直に御話しする光栄に浴したという。福田恆存先生にも編集者時代に目の前にお姿を拝したという。

 私も会えると思って伊藤さんが読みつづけて来て下さった一人に入れていただいているようでむしろ光栄だが、まず書簡の一部を紹介すると、

九段下会議に小川揚司さんが君も来ないか、西尾先生にご紹介するからと呼ばれたとき、ああ38年ぶりにあの頃思ったことが実現せられるのだとドキドキしたことでございました。大石さん経由のメールがきっかけで御葉書の文に接し肩がすぼみました。恐懼して居ります。

つくる会の連中はこの先生の怖さがわからないのです。犬猫は神社の境内、神前でも尿を排して悔ゆることはありません。先生にあのような言葉が吐けるということ自体彼らは既にその類である証明、人倫国家を語る以前の問題で、人品の賤しき保守というのは高潔な詐欺師というに等しく本来矛盾の存在です。

先生が目撃なされた彼らの卑怯は想像を超えたものと察します。私個人の感情としては、もうあのような低劣な人達の中で孤軍奮闘なさるのは痛々しく、誰か先生に代って泥とつきあう者はいないか、弟子はいないかとはらはらしていたことでした。実際先生の文面をなぞって、今度は幾夜自分のほうが憤りを制御するのが難しい程でした。
(中略)
つくる会で暗躍する者は早晩自壊作用をもよおします。彼らの行動はなめくじが塩を求めることになりましょう。率直な気持ちを申し上げれば、先生はしばらく地上の雑音から遠ざかり一旦成層圏に昇られ悠々と俯瞰なさることが一番ではないか。
(中略)
然し先生にふるいをかけられ、正体をあばかれた者たちは大いに煩悶し、憎悪の念を燃やし妬忌を行うでありましょう。悪知恵は尽きることはありませんが、現下の先生の沈黙は却って彼らを苦悶させ、自壊を促すとみています。
(中略)
先生には世俗的な表現に過ぎますが、いのちの洗濯をなさることがあってもいい、手塚富雄先生のお言葉を以って、私などが西尾先生に呼びかけるのは本末転倒ですが、「行動する人間にとっては、正しいことを行うのが重要な問題である。正しいことが起こるかどうかについて心を煩わすべきではない」とゲェテは箴言と省察の中で言い、手塚先生は世に正しいことはほとんど起こらないが、「しかし広く見る者は、それにもかかわらず自分のする正しいことが人間の世界にたいして意味をもつことを疑いはしない。それは微小でも時と共に象徴として力を増してくるのである」と仰せられ、まさしくこれは西尾先生の御立場だと、発見した気持ちになりました。

怪メール事件(二)

 私の家に3月8日に届いた最初の「警察公安情報」の出所が何処かは、勿論分らない。「発信04481」という信号は、私には何のことか見当がつかない。

 怪メール事件は2月27日と3月28日の二つの理事会の間に起こり、「つくる会」を揺さぶった。それが問題である。会が八木=宮崎プラス四人組のグループとそれ以外の勢力に完全に割れてしまっていることは、この問題を考える前提である。そして八木氏は2月27日に会長を外され、屈辱の中にあった。会長としての職務放棄と指導力不足、具体的にいえば、長期にわたり理事会を開かず混乱を放置し、唐突な会長声明を出してそれをまた取り消すなど、何をやっているのかといわれるような体たらく振りが理由で、解任されたのに、自分は何も悪いことをしていない、不当な解任だと言いつづけていた。そのことは既報の通りである。(解任は票決によるもので、議長票を入れれば7対5という厳粛な決定である。)

 3月20日福地惇理事は八木、宮崎両氏と会談した。八木氏は自分の方から「警察公安情報」の存在を知っているか、と問うた。福地氏は「単なる噂ではないか、自分は見ていない。それは何処に根拠があるのか」と問い質した。八木氏は「単なる噂ではない。公安情報を正式につかんでいる。警察公安と自分はパイプがあって、これには確かな証言がある」と自信ありげに、得意げに強調した。

 八木氏は会談中に同テーマを二度も口にし、強調したそうだ。恐らく他のさまざまな人にも言って歩いているのであろう。情報メールを私に送ったのはひょっとして八木氏自身ではないかとさえ思うが、真偽は分らない。しかしメールの発信者でないとしても、公安とのパイプを強調し、それを種子に「つくる会」の理事を貶める言動を示したことは、メールを未知の人に秘かに送るのと同じ行為である。少なくとも公安を用いて仲間を脅迫していることでは同じである。

 八木氏は一体自分がしていることがどんなに恐ろしいことかに気がついているのだろうか。氏は「公安のイヌ」になり下がっているのである。

 昔ならそれだけで言論人としての資格剥奪である。今だってそれに近い措置をされても文句を言えまい。

 八木氏は大きな政治背景をもつ謀略の意図があってやっているのならともかく、それよりももっと悪いのは、謀略のまねごとに手を出し、自分が何をしているのか分っていない「未成熟」な人間なのである。私は丁度そのころTVに問題にされていた民主党偽メール事件の永田議員と同じだなァ、と思った。永田議員は小泉内閣の幹事長が憎い。シメタと思って後先を見ない。藤岡氏が憎い、シメタと思ったのとよく似ている。

 やっていることは「政治ごっこ」である。それでいて仲間を確実に傷つけ、自分の属する会を内部から撹乱し、不信感をかき立ててきた。

 そしてさらに重要なことは、産経の渡辺浩記者は今日までに八木サイドとの関係をすべて打ち明けたようだ。渡辺氏は「警察公安情報」をずっと前から何度も八木氏から見せられ、炊きつけられ、記事のトーンが八木サイドになったのはそのせいだ、ご免なさい、と謝罪したそうだ。これは重要である。

 謝罪の言を聴いた人は高池勝彦氏と藤岡氏で、渡辺記者は自分の報道の偏りを認め、八木=宮崎サイドにのみ情報ソースを求めていたのは失敗だったと告白したそうだが、私にはどこまでもまだ間接情報である。けれども八木氏が「公安のイヌ」となって、自分の地位上昇のために、新聞記者を威して、報道を誘導し、ねじ曲げさせたことは疑いを容れまい。

 仄聞する処では八木=宮崎その他四人組の一部はいつも合議し、そのつど渡辺氏が呼ばれて同席していたという。3月1日、2日、9日、29日の偏向報道の上手に仕組まれた構成はこうして作られた。

 とりわけ11、12日の評議員・支部長会議を前にした9日の二つの記事は意図的である。「つくる会北海道支部が反旗、前会長解任、白紙化を要望」は北海道支部から事実誤認と抗議が発せられたことからみて、意図的贋報道である。次いで、つねづね藤岡ぎらいの伊藤隆氏に懇請して、藤岡氏非難の「つくる会」退任の弁を書かせて(ヤラセである)、タイミングを見計らって辞意を新聞にのせさせ、前記会議で、内田智理事が読み上げた。これも同日新田均理事が袋一杯の悪言罵倒文書をつめて、出席者に配ったのとあいまって、彼らが新聞との連携プレーで、学生運動まがいの情宣活動を展開した記録の痕跡である。

 尚新田氏と八木氏は早大大学院政治学科小林昭三ゼミの先輩後輩の関係で、八木氏は先輩の結婚式にも招かれている近い仲である。

 不思議なことに八木氏は汚れ役をやらない。人にやらせる。彼は11、12日の評議員・支部長会議に姿をみせなかった。6日の首都圏支部長会議にも出席しない。批判を浴びそうな場からはパッと身を引く。「逃げも隠れもしないよ」という男らしさがない。理事会を長期間開かなかったのもこの手である。連絡をしないで相手をじらせる手も知っている。そしてウラで知能犯的な作戦を練る。小型スターリンの真似である。身体を張らないで、上昇志向のみ強く、心は冷たい。

 こういうタイプが会長になれば「つくる会」は異様な雰囲気の漂う、自由にものの言えない沈滞した独裁体制になるであろう。そして何よりも、八木=宮崎プラス四人組グループ以外の多数派の理事が次々と辞意を表明し、逃げていくであろう。

 どこまでも残留するのは、およそプライドというものを持たない藤岡氏であろう。何度も副会長を降ろされてなお辞めない。彼は教科書問題の残存する場所にひっついていなければ生きていけないからなのか。八木氏に奴隷のように扱われても、伏してお願いし、理事の末端に居残るだろう。そして最後に叩き出されるだろう。

 このまま予定どおり八木会長体制が成立すれば、どうなるかの予想を描いてみた。八木氏は「公安のイヌ」であることを片時も忘れるな。

 人間は目的のために手段を選ぶ。そこに人間の品位がかかる。

 3月28日の理事会に先立って、種子島氏は八木副会長案を八木氏に打診した。八木氏は3月末にすぐ会長として復帰するのでなければいやで、副会長ならむしろ平の理事でいたい、と返答した。そして翌日誰かと相談したらしく、種子島氏に電話で副会長案を受け入れるとあらためて言ってきたそうだ。自分を何さまと思っているのだろう、とある人は言った。

 しかし種子島氏はホッとした。なぜなら種子島会長は八木=宮崎四人組グループに、3月の初旬のあるときを転機に、完全にとりこにされ――なにか仔細があるかもしれない――今や百パーセント屈服しているからである。そこには理性も、道理も、判断力も、そして未来への予知力ももはや認めがたい。

 かくて「八木問題」はいつしか「種子島問題」と化しているのである。

「私の党籍問題について」という藤岡信勝氏の文章が「怪メール事件」(一)に掲載されています。

4/10 赤字文章追加

怪メール事件(一)

 3月初旬から20日ごろにかけて、「警察公安情報」と題した一枚の簡単なメールがファクスで「つくる会」のあちこちに送られた。私の家には8日に届いた。扶桑社にも送られたと聴いている。多分、産経新聞社にも送られたろう。種子島会長の処には来ていないと仰言っていた。

 八木秀次氏が会長を解任された失権の理事会、種子島氏が代りに会長になった理事会は2月27日である。そして3月28日は八木氏が復権を果たし得るか否かの、彼にとって大切な理事会であった。これから述べるすべての出来事はこの日付の前後に起こっている。

 拙宅に届いた最初の怪メールは次の通りである。

警察公安情報
藤岡教授の日共遍歴

日共東京都委員会所属不明
S39 4月16日開催の道学連在札幌編集者会議出席、
    道学新支部再建準備会出席
S41 北海道大学大学院教育学部所属
S56 東大教育学部助教授
H10 東大大学院教育学部研究科教授
H13 日共離党

                          (怪文書1)
 
 そしてこの一枚には06年3月8日(水)10:05という日付と共に、「発信04481」という信号とP.01の文字がある。

 私の問い合わせに対し藤岡氏は、平成3年か4年にアメリカに旅行した際に、日共の規則で離党し、帰国後も離党のままにする旨口頭で東大の主任教授に伝えた、と電話で回答した。東大教育学部が共産党と人事面で一体となっていた恐るべき実体を今にして知ることが出来た情報で、これはこれで驚異とすべき事柄ではあるが、当面の問題ではない。

 次の理事会の近づく3月25日に種子島会長と福地氏が党籍離党の時期について本人に面談して事情聴取をした。上記とほゞ同じ答えであったが、離党者に対して伝え聞く厳しい査問や迫害はなかったのかという福地氏の質問に対し、藤岡氏はソ連が消滅した90年代より後には日共も方針を替えて、鉄の規律ではもはやなくなったと答えたそうだ。

 入党や離党が「口頭」でできるものなのか、入離党の規律は90年代には査問もなく、そんなにあっけらかんとしたものになってしまったのか、いまだに私にはよく分らないし、謎である。平成13年離党がもし事実なら、私の「つくる会」会長時代に藤岡氏は日共党員であったということになる。これは私には小さくない衝撃だった。3月初旬から私だけでなく、少からぬ理事諸氏がこの問題に悩んだ。藤岡氏を「つくる会」副会長にもう戻さないという種子島会長の決定に、この怪メールがある心理的役割を果したことは否めない。

 共産党との離党のいきさつは藤岡氏が今後正直に文章で告白して、日本の思想界の承認を得なければいけない論点である。他人の心をつかめずに他人の自由を操ろうとして、それが謀略めいて見えて、信用を失うことを彼は10年間、そして今も繰り返している。自分の権能の及ぶ範囲と及ばぬ範囲との区別が彼はつかない。このため小さな策を弄して、他人を言葉で操って動かそうとし、現実が大きく変わるとたちまち昨日言ったことを替えて、結果的に彼を支持しようとしてきた人の梯子を外す。裏切りである。言うことがクルクル変わる。昨日顔を真赤にして怒りを表明していた相手に、今日はお世辞を言って接近する。今日たのみごとがあると下手に出て礼をつくすことばで接触するかと思うと、用が終ると、同じ人に数日後に会っても鼻もひっかけない。

 彼と付き合えばみんな分っているこういう彼の性向挙動は、多分共産党歴の長い生活と不可分で、党生活が人間性、普通の良識ある社会性を破壊してしまったものと思われる。彼は平成に入ってもなぜかビクビクして生きてきたように思える。

 しかしそれは彼の教科書問題における業績とは別である。産経新聞社は彼の党歴は承知の上で「正論大賞」を授与したはずである。「つくる会」の会長もまた同様に、過去の経歴を当面の問題にはしない、と決定して、理事会に臨んだ。それはそれで良いと思う。

 藤岡氏へのこの信用の問題は「つくる会」とは別個で、藤岡氏自身がこれから書くべき告白文章と日々のビヘイビアで人々の納得のいくように解消してみせなければいけない。従って、これとは切り離して、3月の「つくる会」を揺さぶって、28日の理事会とその後に大きな影響を与えた怪メールの存在は、あくまで藤岡氏の党歴とは別個の問題として取り組まなければならないことは言うまでもない。

 怪メールはこのあとも続々と送られたからである。

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 藤岡氏から次のような明確な自己説明と状況説明をいただき、曖昧な靄がはれる思いがした。できるだけ多くの人に読んでいただけるよう、掲示のうえでも工夫したい。  

私の党籍問題について(投稿・藤岡信勝)

 西尾幹二氏の4月8日付けブログ「怪メール事件(一)」で、私の日本共産党の党籍問題が取り上げられている。私自身とつくる会の名誉のために、ここに正確な事実を明らかにしたい。この投稿の掲載を認めていただいた西尾氏に感謝する。

 湾岸戦争(1990-1991年)で目覚めるまで左翼だったという前歴を私は今まで一度も隠したことはない。党歴について語らなかったのは、あえてその必要もなかったからである。1990年8月の湾岸危機の勃発は、憲法9条を理想化していた私の思考枠を根底から破壊するものだった。この時期、産経新聞を読むようになり、1991年の前半に急激に思想的転換を遂げた。

 平成3年(1991年)年8月から翌年の8月までの丸一年間、私は文部省の在外研究員としてアメリカ合衆国に派遣された。家族ぐるみで渡米する前に、私は所属していた日本共産党を離党した。それは私の意思と合致していたと同時に、共産党の規則に従ったものでもあった。それには次のような事情があった。

 1970年代のことと記憶するが、韓国で太刀川という人が国際的なトラブルを起こすちょっとした事件があった。この人がたまたま日本共産党の党籍があったために、日本共産党はかなり不利な立場に立たされた。そこで、これ以後、長期にわたって海外で活動したり生活したりする党員は離党させる規則がつくられた。

 1年間の在米体験は、みずから獲得した新たな立脚点の正しさを確信させるものとなった。日本に帰国してから、私は自分が属していた支部の責任者に、「考えが変わったので党をやめる」という意思表示を行った。その人は特に引き留めもせず、私の意思を了解した。それ以後、ただの一度も党の関係者と接触したことはなく、また党の側からも私を呼び出したりしたことは一切ない。ついでにいうと、私の妻も地域支部所属の党員だったが、上記と全く同じ時期に、同じ手続きで離党した。

 私が歴史教育の改革に取り組む前に明確に離党の意思表示をしたのは、その後の言論活動が日本共産党の方針と鋭く対立するのは明らかであったから、「反党分子」などのレッテルを貼られ除名されるのを予め避けるためであった。実際、従軍慰安婦問題などについてのその後の私の言論活動に対する共産党の攻撃は熾烈を極めたが、私は党を除名されていない。私が先に離党していたからである。

 西尾ブログには、上記の私の離党の経過について間違っている箇所があるので指摘しておきたい。西尾ブログは、私の発言として《帰国後も離党のままにする旨口頭で東大の主任教授に伝えた》と紹介し、《東大教育学部が共産党と人事面で一体となっていた恐るべき実体を今にして知ることが出来た》と書いている。私は「私が属していた組織の責任者に」離党の意思を伝えたとお答えしたのだが、「私が属していた組織」という言葉を西尾氏は、大学の学部の学科やコースなどの「組織」と混同したらしく、「責任者」が「主任教授」に西尾氏の頭の中で変換されてしまったようだ。東大教育学部が共産党と人事面で一体となっているなどとは全くの事実無根である。

 また、西尾ブログには、次のような記述もある。《入党や離党が「口頭」でできるものなのか、入離党の規律は90年代には査問もなく、そんなにあっけらかんとしたものになってしまったのか、いまだに私にはよく分らないし、謎である》。私の学生時代には党員証というものがあった。ところが、党員証の紛失事故が頻発し、ある時期から党員証などの証明書を発行することはしなくなった。少なくとも私が所属してきた組織に関する限り、共産党は文書主義をほぼ完全に払拭していた。だから、私は文書で離党届を提出したのではない。口頭で伝えたあとは、責任者が上部機関に対して報告し、そこで何らかの処理が行われたものと思われる。しかし、それ以後のことは私は関知しない。

 「査問」についていえば、党員の身分のままで「反党行為」と称される行為をしたと推定される人物についてはなされるかもしれないが、自分の意思で離党する者には「査問」などあり得ない。昔は離党者に対して執拗な説得が行われた時期があるようだが、そんなことをすると「共産党はいったん入ると離党の自由がない」という噂が立って、新規に入党する人がいなくなるということで、離党者への執拗な説得はしてはならないことになっていた。西尾氏の記述は、戦前や戦争直後の共産党に対するイメージや知識で現在の共産党を見ているもので、実体とはかけ離れている。

さて、そこで、今回の発端となった差出人不明のファックス文書であるが、3月8日に西尾氏宅に届いたという文面を読むと、これがガセネタであることは簡単に見破ることのできるシロモノである。例えば、《H10 東大大学院教育学研究科教授》とあるから、この年、教授に昇進したという意味なのだろうが、これは全くのデタラメである。私が教授に昇進したのは、平成3年6月で、私の人事記録で簡単に証明できる。私の教授昇進が平成10年だとすると、平成8年に刊行した『教科書が教えない歴史』に著者である私の身分を「東大教授」としているのは経歴詐称ということになる。

 この一行だけで、「警察・公安情報」と称するこの文書がいかにひどいガセネタであるかがわかる。その他の行もほとんどすべて間違いだらけである。この文書の最大の眼目は、《H13 日共離党》の一項であろう。そうすると、この年まで私は日本共産党の党員で、いわば私は共産党のスパイであるかのようなイメージになるが、スパイは既存の組織を弱体化したり破壊したりするために活動するものである。ところが私は、自由主義史観研究会や「新しい歴史教科書をつくる会」などをゼロから立ち上げてきたのである。

 こんなガセネタを流してまで私を貶めることに利益を感じている人物がいることになる。しかし、このような卑劣な方法は断じて許されるものではない。私自身とつくる会の名誉のために、この問題を徹底的に明らかにする。(4月10日午後)

4/10 藤岡論文追加

産経新聞への私の対応(四)――共同謀議の可能性――

 福地惇理事のお話によると、3月28日の理事会が終って、関係者が居酒屋に集合する約束だった。すぐ帰宅に向かった人は別として、会合に出ると約束していてなかなか来ない人が何人かいた。八木秀次氏、新田均氏など何人かの理事である。

 彼らは別の天麩羅屋にいるということで、事務局の鈴木尚之氏が携帯を入れて早く顔をみせてほしいと言い、やっと八木、新田の両氏は一時間半も遅れて会合場所に現れた。八木氏は「あゝ、天麩羅を食い損なった」と言って席につき、「お待たせしました」の挨拶の一言もないので、福地氏は例によって礼儀を知らない無礼な奴だと思ったので遅れた時間を覚えているという。

 この一時間半が問題である。ここで彼らは誰と会い、何をしていたのか。産経の渡辺記者や前事務局長の宮崎正治氏と密談をこらしていたのかいなかったのか、それはまだ分らない。渡辺氏は私に理事からの取材は電話で行ったと伝えている。彼らは天麩羅屋で密談し、産経新聞を誘導する電話の内容を練りあげたのかもしれない。

 いずれにせよ、当夜ウェッブ産経に、そして翌3月29日の東京朝刊に、「八木氏が会長復帰へ」というまだ決定されていない内容が大見出しで掲げられ、「宮崎氏事務局復帰も検討」「西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認」という、理事会の議事内容と反する事実が表現された。

 渡辺記者は種子島会長からは勿論電話取材をしているが、八木派の理事以外の他の一般の理事からはどうやら取材していないらしい。

 問題は3月29日の記事だけでなく、3月1日、2日、9日と立てつづけに八木氏を支持する一方的な偏向記事が連続して出て、産経の会社としての意志を示すかのごとき誤解を広い読者に与えた。11日と12日の評議員・支部長会議を前にした微妙な時期であっただけに、「つくる会」会員一般に、これらの記事が「圧力」として作用したことを疑うことができない。

 産経の住田社長は私にも、田久保、高池の両理事にも、つねづね、「つくる会」の人事には干渉しないだけでなく、関心をもってもいけないと社員には注意していると語っている。渡辺記者の偏向記事は異常で、際立っていた。高池理事が渡辺氏に「一方の話ばかり書いている」と電話で直接抗議したこともあった。私もじつに異様だと思っていたが、自分の名前が出るとき以外には何も言えないので黙っていた。

 渡辺記者に対しどういう処分がなされるかは産経の問題である。八木、新田の二理事が天麩羅屋で共同謀議をしていたか否かについては「つくる会」の理事会に調査権がある。物事を自分に有利に運ぶために報道機関を利用した罪は重く、悪辣であり、調査の結果いかんでは、「つくる会」からの二理事の追放処分が当然の措置となる。

 一連の怪メール、ファクスによる脅迫も八木氏のみに有利になるための工作で、いずれ天下の白日にさらす必要がある。

 尚これとは別件だが、2月28日の理事会の投票に関して、不在者票はカウントされなかったが、それはそれとして、「八木宛」とされる中西輝政氏の用紙はあらかじめ「八木会長殿」と一任する旨の文言が印刷され配達されてきて、すぐサインだけして送り返せというものだった。3月冒頭に中西氏ご本人から直かに聴いた人の証言による。遠くにいて、事情の分らない理事の票を偽装工作までして集めたという姑息な手がとられていたのである。尚、工藤美代子氏の委任状は手書きで藤岡氏の自宅に直送されている事実も確認されている。

 ところで、「日録」の4月4日付けの同記事(三)のコメント欄に「松田」という名で書きこまれているご意見は『諸君!』論文に関連して述べられている内容だが、私の気持ちに添うものなので、ここにあらためて掲示させていたゞく。

過去録を読んで、過去に教科書リライトに関してどういう軋轢があり、それが今回のすったもんだの背景をなしていたことも分かりました。

(中略)

 ただし、この一件そのものは、今回の産経新聞記事による誹謗中傷事件とは分けて考えるべきだと思います。なぜなら、産経新聞は扶桑社の出版案内でも社内報でもなく、一般売りされている全国紙だからです。
 今回の捏造誹謗事件の要点は、事実報道を旨とする新聞という公器において、一団体や一個人に対して事実とは反する報道を意図的、ないし過失によって行なってしまった。この生じてしまった報道被害に対して、産経新聞はどう対応をとるのかとらないのかということであります。その捏造記事の背景に自社関連会社の利害があったかどうかは、この際関係ないのであります。問われているのは、むしろ産経新聞の新聞としてのクオリティそのものであります。

 ここで、また長野県知事の捏造記事事件を例にとるのは、多少いやらしいかもしれませんが、わかりやすいので挙げます。長野県庁ホームページで音声ファイル公開されている知事定例会見をときどきお聴きになっている方はご存じでしょうが、あの記者会見(表現道場)において、朝日新聞も信濃毎日新聞もつねに田中知事に対して敵対的であり、ネチネチとつまらない質問を際限なく繰り返しています。これは朝日も信濃毎日も地元長野県企業から広告をとっているので、地元企業やその代表である県議会と対立する田中知事に間違ってもいい顔はできないからであります。つまり、朝日新聞は本来は田中知事とは利害を異にする会社なのであります。ですから、捏造記事事件においても、田中知事の抗議を受けて記者を処罰するということはしたくはなかったはずですが、やはり公正中立で事実報道に徹する新聞という建て前から、解雇という異例とも思える厳しい処置に踏み切ったわけであります。この際、朝日新聞と田中知事の間にはさまっている利害は関係ありません。むしろ相反するからこそ、ポーズとしても厳しく出ざるをえなかったのです。

 ですから、今回の産経新聞・西尾幹二問題に関しても、産経新聞がその子会社である扶桑社と利害を共にするからといって、新聞としてモラルに反する結果となってしまった記事やそれを書いた記者をそのままにしていいということにはなりません。朝日新聞事件からもわかるとおり、そこになんらかの利害の関与が疑われる場合にこそ厳粛に襟を正さなければならないのです。それがまっとうな会社というものです。ましてや、W記者は西尾ブログで抗議されるや、勝手に飛びだしてきて、2ちゃんねらーまがいのウソにウソを重ね、会社の顔に泥を塗った社員なのです。これをそのままにした日にはなんぞ、うちの新聞はどうせ三流紙でありんすから、記者もこんな程度でようござんす、え、うちの記事なんてしょせん扶桑社の出版案内程度のもんでござんす、と自分で言っていることになってしまいます。けれども、こうした事前了解がおそらくは産経新聞上層にはなかっただろうことは、W記者が名指されてもいない段階で、泡を食って飛びだしてき、直接交渉でもみ消しをはかったことからもわかります。よって、当該記者に対しては、なんらかの処罰が産経新聞自身による社内調査によって科される可能性が高いと思われます。そうでなくっちゃなりません。

 4月2日付の(二)のコメント欄にある「松田」さんの文内に朝日新聞の事件が次のように説明されている。

最近の似たような例では、長野県の田中知事が朝日新聞記者の捏造記事によって被害をうけ、記者が処罰されました。報道被害を受けた者が、好むと好まざるとにかかわらず、相手に抗議せざるをえないのは、それが新聞という何百万も刷って世間に配布される公器によるものであるからです。しかも、匿名記事・伝聞ときてはもはや放置できないでしょう。
・長野県知事記事捏造での朝日新聞のおわび

4/5 一部修正

産経新聞への私の対応(三)――『諸君!』なども――

 昨4月2日夜、産経の渡辺記者から直接電話があった。昔から友好関係を結んで来た方だけに静かな口調で話し合うことができた。ただ今回に限り一方に偏した報道内容には3月1日付の「院政」云々の憶測記事以来、北海道支部の誤報抗議もあり、言わずもがなの田中上奏文解説もあり、最後の私への名誉毀損をはらむ一行で、意図的な読者誘導は明らかであった。私も黙っているわけにいかなくなった。

 渡辺氏を無用に苦しめるつもりはないが、私は前記(二)に記述した通りで、考えを変えることはできない。この後は「貴方とつくる会会長との話し合いになるだけである」と私は答えた。そして、「理事会の確認と異なる誤情報を意図的に貴方に伝えた一人ないし複数の理事の名を貴方は結局は明かさなければならないだろう。さもなければ貴方は自分の立場を維持することができなくなるだろう」と申し上げた。

 渡辺氏は情報源に対しては守秘義務がある、の一点張りだったが、これはおかしい。守秘義務とは、身に身体上の危険の及ぶ可能性のある人の秘密を守る、というのが本来の趣旨で、今回のようなケースには当て嵌まらないと私は今申し上げておきたい。

 3月に入ってから「つくる会」の周囲には精神的になにか異様なものが漂っている。怪メール、脅迫状、偽情報を用いた新聞利用――などなど余りにも不健全である。「つくる会」がこれからいかに再出発しようとしても、こういうただならぬ空気を抱えた侭で自由で、暢びやかな活動が果してできるのであろうか。私はそれを心配している。

 さて、別件であるが『諸君!』5月号の仮名記事の筆者・西岡治秀なるジャーナリストは、私の推定では扶桑社書籍編集部の教科書担当者の真部栄一氏ではないかと考えられる。一昨年の教科書リライト問題において日録にM氏として登場している前後の記述(ここをクリック)※をお読みいただきたい。

 また文中のAさんは工藤美代子氏である。工藤氏の名誉のために言っておくが、感情的な意趣晴らしをはらむ間違いだらけの情報内容であった。私に関する見当外れについてはあえていま何も言わない。

 全体をよく読むと元事務局長の言い分だけを取材した文章であり、「事務局長の資質」「八木会長の指導力」の問題があると指摘しながら、ほとんど掘り下げないで逃げている。この二点こそ今回の事件の核心であるのに、論点をすり替えて、理事たちの心情をあれこれ憶測するだけの無責任な内容になっている。

 それでいて自分の勤務する会社に対し自分を守り、弁護し、個人的に恨みを抱く何人かの人に適当に意趣返しをして、また誰かに肩入れして、会を自分のつごうのいい方向に動かそうとしていて、全体としてまさに「愉快犯」のごとく振舞っているいい気な文章である。

 「つくる会」に残った人の中にも少数だが理想を失っていない人がいる。彼らは「事務局長の資質」「八木会長の指導力」に疑問を突きつけてきた。彼らは世間に広くまだ名前を知られていない。彼らがいや気がさして会をやめれば、そのときこそすべての幕が閉じるであろう。

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※ 参考箇所抜粋(過去録・教科書リライトについてより)

①(平成15年7月15日    (二) 重要発言より)
 教科書を担当している扶桑社の書籍編集部は、じつは私の一般書籍の出版を引き受け、私がひごろ世話になっている部局でもある。現に同じ時期に『日韓大討論』の製作が進行中で、5月30日付で同書が出版されている。書籍編集部の責任者M氏はPHP時代に『国民の油断』を出版した歴史教科書問題のベテランであり、「つくる会」運動に最初から関わってきた出版サイドの中心人物にほかならない。

 彼が問題の所在が何処にあるかを知らぬはずはなく、彼に悪意や変心があるなどとはまったく考えられない。私は彼の人柄をよく知っている。彼は私の永年の盟友である。しかしリライト作業が始まってから以降、「つくる会」の教科書を他の七社の教科書とは異質なものとして際立たせ、主張するのではなく、できるだけ同質のものに近づけようとする平均化への働きかけが、強力に、休みなくわれわれに向けられた。

 私はM氏自身さえ気がついていないなにか別の力が目にみえない形で作用していると考え始めていた。採択を成功させるため、という表向きの理由はよく分かっている。私はそこにもうひとつの別の力が介在している、と言っておきたいのである。分かり易くいえば、文部科学省と教科書協会の予測不能な圧力を、扶桑社自身がなんとなく予感し、意識し始めているということである。

 しかし、だからといって、今の私の目の前に出されたテキストの第一素案の現物を「これで結構です」と黙って看過すことは私にはできなかった。

②(平成15年7月15日    (三) 重要発言より)
 少しでも現場の教員の通念に合わせることで採択してもらいたいという欲求のために、会は本来の目的を見失っています。文部省はページ数の制限を求めていません。教科書協会が文部省との間で話し合ったと称して、ページ数の大よその目度を示しているだけです。ページ数の目度も独禁法では許されない「談合」なのです。すでに市販本を出すなど教科書協会の枠を破って行動してきた「つくる会」の教科書が、今さら教科書協会にすり寄り、その基準に合わせてみたところで、だから採択に有利になるという保証はありません。採択のために、できるだけ世の教科書の外形に自分を合わせたいという編集会議と扶桑社スタッフの気持ちも分らないではありませんが、それは前回の失敗が生み出した心の迷いです。自らの特色、自分のもっている良さを見失ったら、元も子もないのです。

 そこで以下私は編集会議と扶桑社スタッフに次のことを要求します。
 ①五月二十三日付「つくる会FAX通信」が明示した「総ページ数を320ページの現行版より約100ページ減」の方針を改め、削減幅を約20ページ減の程度に修正する。
 ②本文テキストは表現の平易化、漢字の平仮名化、中学生に不要な知識の削除などを主な改筆作業の課題として、現行教科書の叙述の流れと表現とを可能なかぎり踏襲する。(ガラリと別のイメージを与えるものにしない。)
 ③現行版のコラムをもう少し整理短縮し(例えば現行二ページの人物コラムを一ページにしたり、コラム「日本語の起源と神話の発生」や「明治維新と教育立国」――これらは私が書いたものですが――などをとり除く等)主なページ削減はそういうところで実行する。
 以上はすでに改筆作業の始まる前後に、編集会議のメンバーに、私が文筆で二度、理事会で一度、要請した内容とほぼ同じです。私の要請は三度無視され、その結果、教科書は今のような状態になっています。
 
③(平成15年7月15日    (三) 重要発言より)
 もはや私の力を越えたところですべてが行われております。私は会の理事でもなく、編集委員でもなく、いかなる権限もありません。ただ現行版の代表執筆者として傍らで観察する役割を与えられていると信じ、ここに警告を発し、ご協力をお願いする次第です。

 私は現行版の維持にこだわっているのではありません。そうではなく、現行版をいっぺんに解体して一から作り直そうとするということで果たしていいのか。現在リライトを進める編集会議と扶桑社のスタッフに誰もそこまでの権限は与えていないはずです。分量を三分の一も減らせば一から書き直すしかないのです。本のリズムはこわれてしまいます。分量を大幅に減らす方針を扶桑社サイドから出され、会が押し切られたことに最大の原因があるようです。

産経新聞への私の対応(二)――種子島会長の書簡公表――

 29日朝の産経新聞29面に昨夜の「つくる会」理事会の内容が報道されているが、11時12分に、「つくる会」本部から「FAX通信」第170号が送られてきた。この通信の発行者は「つくる会」本部である。

 それは理事会報告の概要を伝えた後で、四角で囲んだ次の特別記事を掲げて読者に注意を促している。

 

『産経新聞』(3月29日付朝刊)で報道された理事会の内容は、憶測を多く含んでおり、「つくる会」本部として産経新聞社に対して正式に抗議しました。とくに、「西尾元会長の影響力排除を確認」「宮崎正治前事務局長の事務局復帰も検討」は明らかに理事会の協議・決定内容ではありませんので、会員各位におかれましては、誤解することの無いようにお願い致します。

 上記内容は会長の承認を得ているはずである。会長の意向に反して何ものかが捏造記事を記者に流したことを意味する。理事会に出席していたある人に電話で聞いた処によると、新聞は他にも事実に反することを書いている。八木氏が先に解任された主な理由が会長としての職務放棄、指導力不足にあったことが昨夜の理事会で確認されているのにそれは述べられていない、など。

 産経新聞の記者の中に明かに会の一部の勢力の謀略に協力して、捏造記事を※書く者がいることが以上で明瞭になったので、私に対する名誉毀損も含まれているので、本日、産経新聞住田良能社長に書簡を送り、事実調査をお願いした。記者の名を公表し、厳重に処罰することを要求した。書簡は29日付の郵送である。

※下線部分を以下のように訂正いたします。
それとは気づかずに、公式見解と記者が取材で得た事実を区別しないで

(上記訂正理由:渡辺記者から次のような内容を含む通信が管理人宛にきましたので、記事そのものが捏造ではないことを確認し、一部訂正いたしました。)

FAX通信についてのつくる会への抗議に対して、けさ種子島会長から電話で返答がありました。要旨は「記事が間違いだという意味ではない。今大事なときなので、過激な人たちを収めるために『公式発表と記者が取材で得た事実は区別して読んでほしい』という意味でFAX通信に書いた。辞めた西尾先生がブログなどでつくる会に言及することは理事一同迷惑している。また、宮崎さんについては記事の通り4月から戻ってもらう」との内容でした。

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4月2日の新稿はここからです。

 上記のいったん取り消した「捏造記事を」の五文字を復活させ、原文にもどします。

 (上記再訂正理由:種子島会長から「西尾幹二日録訂正お願い」という連絡が、管理人の長谷川さん宛てに4月2日午前9:58に入りました。種子島氏の全文を私の責任で掲示します。これによるとやはり「捏造記事」であったといわざるを得ません。)

Subject: 「西尾幹二日録」訂正お願い

4月1日付け日録、産経新聞記事に関する箇所で、渡辺記者から管理者あて
メールで、小生談話として紹介されていますうち、西尾名誉会長及び宮崎氏
に関する部分は、小生発言した覚えなく、同記者にも確認を求めております
。この点、日録上で訂正下さい。以上

 大切なことを申し上げます。私は渡辺記者を責めているのではありません。種子島会長の公式見解と明らかに違う「西尾の影響排除」「宮崎氏の事務局復帰検討」という虚報を産経記者に意図的に流した会の理事ないし幹部がいるということが明瞭になりました。

 誰がリークしたのでしょうか。渡辺記者は情報提供者の名を明らかにすべきです。それができないというのなら「捏造記事」を書いたインチキ記者の汚名を甘んじて受けるほかありません。

 なおコメント欄に出ていた次の指摘は理にかなっています。

違った見方をします。内部情報提供者による情報操作と思います。東京支部板に書きました。

>産経ウェブより 本文省略
>(03/28 21:53)
・先ず第一に、理事会が28日午後7時から開催されて、いろいろ言われているような議事進行があったとして、産経webが、上記時間(21:53)に発表できるということは、事前に事務局または八木前会長筋から、情報が流れていたということになる。
・しかも、理事会で論議されていなかったことが、あたかもつくる会の公式見解のごとく産経が書くのは、予め流した原稿が一定の予測(シナリオ)であったことを意味する。実際の理事会では議論されていなかった部分は、つくる会fax通信の末尾で「抗議」の形で訂正している。
・そこで推理すると、産経記者w氏がつくる会内部(事務局員または最近宮崎氏に代わり頻繁に事務局に出入りしているS氏)と通じていることである。八木前会長の関与が大であろう。

Posted by: 中年z at 2006年03月30日 14:04

 渡辺記者はどういう時間帯に誰から取材し、28日21時53分までにWEBに上げるのに間に合わせたのか、も明らかにしてほしい。

 信頼する複数の理事からいただいた説明によると、理事会では会長が宮崎氏の円満退職を淡々と報告し、それで終り質疑応答もなく、宮崎氏の話題はそれからいっさい出ていないそうです。

 ある理事が西尾の「院政」云々を話題にしようとしたが、別の理事が「誰が外で何を言おうが自由だ。それに踊らされる皆さんでもないでしょう。しかも、西尾さんは正しいことも言っている」別の一人が「先輩のことばだから聴くべきことは聴くべきだ」と言った後、「院政」云々を持ち出した理事も沈黙したそうです。予想外にこの日はおとなしかったとか。西尾の話はそれ以上出ていないそうです。「影響排除」などは討議も確認もされていないのです。

 従って3月28日の産経記事は明らかに異常であり、特殊な力が働いた突飛な内容で、恐らく八木支援者側の理事もわが目を疑うほどの虚報であったでしょう。渡辺記者は何者かに操られたのです。その人の実名を公表する以外に記者が身の正しさを証明することはできません。

 じつは今回はおかしなことが相次いで起こっている。3月に入ってから理事や出版社や私に白紙で名無しの怪メールのファクスが乱れとび、昨4月1日にまでも私あてに脅迫まがいのファクスが来ました。(いつか公表します。)それは必ず私と誰かを分断し、一定の勢力を有利にしようとする内容で、明らかに会の裏面を知っている近い筋の人の手になるものです。

 渡辺記者がそうした勢力に利用されていないことを証明できることを今は祈るばかりです。

 私は心機一転して、昨日は「桜の咲く少し前」を日録に出して、バカバカしいことから離れたいと思っているのに、後から後から追いかけてくるのです。申し上げておきたい。私は会に関与などしたくない。一般会員証も返したいと思っている。たゞ私は不正を憎んでいる。なにかがおかしい。今回はなにかが狂っている。

 私の持っている全資料を駆使して実情をマスコミに明らかにする日が近づいているのかもしれない。