前橋講演における皇室問題への言及(二)

強い危機感を抱く

 「国家解体をどう阻止するか」といういくらかおどろおどろしいタイトルでありますが、解体しかかっているし、すでにしているのではないかと、むしろ強い危機感を抱いていますゆえに、こういうタイトルにしております。この間津波が南アジアを襲い、町に大きな水が流れ込む光景をテレビでみました。一番烈しい画像では建物そのものや車が何台も水に浮かんで押し流されていく姿が見えまして、これはすごいものだなと思いました。引いたあとのつめ跡、残骸・・・・・まあ私、今の日本を見ていて、水際で津波を待っている心境というのがいわば、私の心境なのです。そういう津波にいつ襲われてもおかしくない、そういう状態ですよ、と申し上げたい。それに対し何の備えもない。色々備えがあるように聞いておりますけれども、実際に手が打たれていないし、考えは語る人はいるけれども間に合わないように思う。

 今日は一見して相互につながりのないいろんな種類の問題についてお話したいと思っております。一つは皇室の問題、二番目は南の島々の防衛の問題、それから三番目は、といっても全部底流ではつながっているのですが、国の外でなく内側の問題。つまり教育や少子化、そしてジェンダーフリーの問題など、これら全部がひとつながりであると私には思えてなりません。すなわち、内側がグラグラと解体しているときには、外から敵が忍び寄ってきても気が付かない。

 あるいは現にもう何十年も前から外から侵害されていても打つ手を打ってない。ですからもう間に合わないところに来ているという、その目の前にいて、しかも手足を動かそうとすると、足元の国民の心が麻痺したようになっている。そして麻痺させるような解体運動が繰り広げられていて、手足を不自由にする勢力が大きな力を国内で発揮している。こういう現実を目撃し、観察してきたつもりでおりますので、皆様に少しくはっきり見えるようにお話ししてみたいという風に思っているのです。

皇室問題について

 最初のテーマは、非常に難しいテーマだとあえて申し上げるつもりでございます。つまり皇室の問題です。わが国のこの10年から15年の間に、経済の方面でバブル崩壊、そしてまた道徳の破局、様々な頽廃の姿をみました。すべて昭和天皇亡きあとに起っていることですね。この国民が自分たちを歯がゆく思っているゆえんはどこにあるか分かりませんが、ソ連の消滅で冷戦に終止符が打たれたあのときは、アメリカから「第3次世界大戦の勝者は日本であった」という、忌々しげな声があがったのを覚えておられると思います。これはつい15年ぐらい前の話です。

 そのころは小中学生の数学と理科の国際学力はつねに日本が一位でした。治安もよかった。犯罪検挙率も高かった。中学生の校内暴力は既にありましたが、不登校とか引きこもりとか、援助交際などということは、そんな言葉もなかった。政治への不満は強かったけれども、「官僚が一流だからこの国は大丈夫だ」という声が世上を覆っておりまして、事実その通りであった。官僚は何よりも愛国心があった。

 対米自動車輸出の自主規制で指導力を発揮した通産省は、産学協力の見事な見本としてアメリカの嫉妬を招いたほどでした。これは遠い昔の話ではない。1989年、ベルリンの壁の崩壊から起った世界の激変、それが昭和天皇の崩御となった年と重なります。すべて悪いことは平成になってから起ったことなのです。だから私たちは確実でしっかりしていたつい先日までの日本をなぜ今取り戻すことができないのか。そのことについて考えざるを得ない訳です。昭和天皇が亡くなられたら、何かがありゃしないかという国民の不安はずっとございましたが、まさか、という思いが私はしています。

前橋講演における皇室問題への言及(一)

 2月10日に群馬県前橋市の正論懇話会で、「国家解体をどう阻止するか」といういささか仰々しいタイトルを振り翳した講演をした。

 皇位継承問題、南西諸島と台湾をめぐる中国との摩擦、男女共同参画や過激な性教育のことなど多方面にわたる話題だったが、天皇制度についての数少い私の発言が講演の冒頭でなされている。

 11日の産経新聞の講演要旨にこの冒頭の部分だけが取り上げられた。

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 日本解体に警鐘
 群馬「正論」懇話会 西尾幹二氏講演

  第6回群馬「正論」懇話会(会長・金子才十郎群馬県商工会議所連合会名誉会長)が10日、前橋市内のマーキュリーホテルで開かれ、評論家の西尾幹二氏が「国家解体をどう阻止するか」と題して講演した=写真。

  西尾氏は、国家解体につながる動きとして女性天皇論の台頭、防衛政策の無策、ジェンダーフリーの流行を指摘。「日本は解体してしまっているという危機感を抱いている。手を打たないと間に合わない」と訴えた。

  特に、「女性天皇」容認論について、「天皇は、万世一系で男系でなければならないとある。過去の女性天皇は中継ぎ役だった。歴史の事実を覆していいのか」と強調。「(女性天皇が誕生すれば)天皇制否定論者が、『万世一系ではない』と言い出すはず。30年後を憂慮する」と述べた。

 産経新聞2月11日付 2面

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 翌日、畏友小堀桂一郎君――私の大学時代の同級生であることは知る人は知っていよう――から、心強い応援だという葉書をもらった。

 私は小堀君ほど天皇とその制度について詳しい知識を持たない。普段法制的な面にはあまり関心もない。私がどう考えているかを多分彼はそのころ知らなかったし、自分と相容れないと思っていたかもしれない。

 前橋に行ったのは2月10日で、それから丁度一週間で『正論』4月号の拙論「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」(短期集中連載第二回)を書いた。

 例のライブドアがニッポン放送株の買い占めを始め(2月8日)、マスコミが騒然となっていた頃である。

 『正論』4月号が出た3月初旬に小堀君から良く言って下さったという感謝と喜びのことばを綴った書簡をいただいた。彼が最近同誌5月号でこの問題をあらためて歴史を掘り下げて徹底して論じたことはご覧の通りである。私にその根気も知識もないが、私には私に特有の論法がある。今の日本人を説得するにはどうしたらよいか、という文章上の戦略がある。

 前記「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」で皇位継承問題について言及したのはわずか20枚弱だが、「女帝でいいじゃないか」という小泉首相と同じような考えの人が日本国民の大半であることを私は知っている。

 保守層でもそうである。「路の会」でもそうだった。天照大神が女神なのだから女帝でいいのではという人さえいた。そういう人々を前提にして説くほかないというのがこのデリケートな問題のむつかしさだと思っている。

 だからこのテーマに関しては頭ごなしに、叱りつけるような調子で言っても説得力がないのである。未来への不安と予想を先取りするようにして、手遅れの意識を共有しながら語りかけるしかないのだ。

 私の言わんとする本意はどうか4月号の拙論を見ていただきたい。また説き方にすべて賭けた論述の仕方に目を向けてほしい。たゞ、丁度これを書く直前に、私は前橋で同じテーマについて簡略に語った。本当に簡略に、である。

 皇室問題についての私の発言は少い。たまたま乞われて講演録をまとめたので、この部分だけ掲示することとした。

東大文学部への公開質問状

 八木秀次さんとの共著
『新・国民の油断』(PHP研究所)に、「上野千鶴子」問題で、付録3として東大文学部に対し公開質問状を掲げている。

 同書は現在のところ三刷で1万3000部である。今の時代に多いといえば多いが、人が気づくには少いといえば少い。インターネットの伝播力を期待してここに再掲示する。

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 公開質問状

 「上野千鶴子」問題(本文169~178ページ、212~217ページ、225~232ページ参照)については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』(口絵6上、本文172~178ページ参照)は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で「表現の自由」と「学問の自由」は保障されていますが、表現の「評価」は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は「評価」に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の「評価」の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

平成16年12月8日
                               西尾幹二・八木秀次

【東京大学文学部 学部長および社会学講座教員】
●平成4年 文学部長 柴田翔 /社会学教授 庄司興吉 /助教授 盛山和夫/似田貝香門
●平成5年 文学部長 西本晃二 /社会学教授  庄司興吉 /助教授 盛山和夫/上野千鶴子/武川正吾/似田貝香門
●平成6年 文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/ 似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/助教授 上野千鶴子/武川正吾
●平成7年 大学院人文社会系研究科長・文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/上野千鶴子/助教授 武川正吾/佐藤健二
『全国大学職員録 国公立大学編』(廣潤社)より

上野千鶴子氏・略歴
昭和23年(1948)年7月12日生まれ。石川県立二水高等学校卒業。昭和47年、京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。昭和52年、同大学院文学研究科博士課程単位満期退学。同年、京都大学大学院文学研究課研究生。昭和53年、日本学術振興会奨励研究員。昭和54年、平安女学院短期大学専任講師。平成元年、京都精華大学人文学部助教授。平成5年、東京大学文学部助教授(社会学)。平成7年、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授(社会学)

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 以上の通りである。広い読者の注意を喚起したい。ここで取り上げている『女遊び』がどういう本で、なにゆえに公開質問状で関係機関の責任を問うまでしたかは、『新・国民の油断』を見て、判断していただきたい。

 同書は1月26日刊で、年初に東大文学部長と社会学科主任教授には版元より贈呈されている。

 あらためて彼らの社会的責任を問いたい。

『人生の深淵について』の刊行(五)

 日垣隆さんが『人生の深淵について』を、ご自身の会員制のホームページで取り上げてくださっていることを知った。関連部分が知人から送られてきたからである。

 有料サイトを無断で引例するのは失礼かもしれないが、拙著に関連する部分だけなのでお許しいただきたい。

 日垣さんは1954年生、初期の作品『〈檢証〉大学の冒險』を拝読した覚えがある。その後随分本を出されている。文藝春秋読者賞、新潮ドキュメント賞などの受賞者でもある。近作では『世間のウソ』(新潮新書)、『売文生活』(ちくま新書)が話題である。

 ことに後者は漱石の時代以来の作家の原稿料の研究を通じて、日本の著述世界の特徴を描いた作品だとの紹介があったので、面白そうだな、読んでみたいなと思っていたところだった。

 日垣氏は私について次のような記憶を語っている。

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 『日本の教育 智恵と矛盾』(中公叢書)で臨教審を批判した氏が、その後、中教審のメンバーを引き受けたこともちょっとした事件であったが、そのなかで果たされた努力と孤軍奮闘は、それ以上に鮮烈な出来事だった。中教審での役人に対する絶望の深さと、転んでもただでは起きぬ強靭な論理的提言力は『教育と自由』(新潮選書)と『教育を掴む』(洋泉社)に結実する。
(中略)
 氏の名を知る若い人は、せいぜいかつての「朝まで生テレビ」でのやや頑迷な物言いや、「新しい歴史教科書をつくる会」での抗争を思い浮かべるかもしれない。私にとって西尾氏は、思索の人であり、数少ない論理的な日本語の書き手である。

 以下、最新刊『人生の深淵について』(洋泉社、2005年3月刊)から引用する。

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 私は自分の本の中から自分で引用して、これは名言だろう、ここをぜひ読んでくれというわけにはいかない。しかし日垣さんのような人が抜き書きしてくれた箇所を引用することは許されるだろう。

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 《生産的な不安を欠くことが、私に言わせれば、無教養ということに外ならない。それに対し絶えず自分に疑問を抱き、稔(みの)りある問いを発しつづけることが真の教養ということである。》(「教養について」同書P198)
 
 《退屈は苦痛であり、退屈をなくすために人類は暴動を起したり、わざと自分の身を傷つけたり、果ては自殺するようなことさえ敢えてして来た。退屈がわざわいの根源であることは、古今の知恵者が倦(う)むことなく語って来た通りである。けれども、もし人が目の前に起こるたいていの出来事に退屈を感じないでいられるとしたら、その人の精神がむしろ貧弱であることの現われだし、いかなる事柄もいっさい退屈を感じないのだとしたら、痴呆にも近い。人間が退屈を感じるということは、まさに、知的活動をしている証拠なのである。
 
 知性の中には人間を複雑にし、不活性にする要素もあるが、また人間を冒険に駆り立てる要素も含まれている。知的冒険ほどスリルに満ちたものはなく、いったんこの味を覚えた者は、他のどんな仕事も、労働も、単調に見え耐え難いであろう。(中略)
 
 たしかに世の中には、自ら退屈することを知らぬほどすこぶる精力的で、忙しく立ち働き、この人生が面白くてたまらぬという顔をしている、じつに退屈な人種がいる。自ら退屈しない人間は、いつの世にも、他人を退屈させる存在である。》(「退屈について」同書P88~91)
 
 《すべての人間に人間としてのぎりぎりの自尊心が保障されたことは、いわば「近代」の証しであり、文明の勝利であろう。しかしそこにまた別の問題が生じた。万人に等しく自尊心が保証されたときに、自尊心の質も下落し、これだけはどうしても譲れないという自分に固有の領分に、誇り高い孤高の薔薇が開花することは難しくなった。
 
 人間がみな隣人仲間と同じように扱ってもらうだけで満足するのならば、ひとり高い自尊心を掲げ、それゆえに深く傷つき激しく怒るという人間の情熱は、尊重されなくなるだろう。しかしこれまで偉大な思想を生み、偉大な業績をあげて文化に貢献して来たのはこうした孤高の自尊心の持ち主たちに外ならないのである。》(「怒りについて」同書P14)
 
 《一般にマスコミ関係者や大学の知識人や評論家やジャーナリストは、政治や経済の実験から切り離されている。収入も低く、知的にのみ秀れていると自惚(うぬぼ)れている人が多い。そのために、概してこの内向的復讐感情(ルサンチマン)の虜(とりこ)になりやすい。新聞・週刊誌・テレビなどのなんとなく反体制的に偏向した編集の仕方を、そうした背後の心理原因から眺めてみる心掛けも大切である。
 
 人間にとってどうにも解決のできない困難な相手は、社会的・政治的な課題ではなく、自分という存在に外ならない。自分ほどに困った、厄介な相手はこの世にいない。〔中略〕
自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。》(「宿命について」同書P170~171)

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 日垣氏は同文の他の個所でこの本は「名著」だと言ってくれている。

 しかしなかには三木清の「人生論ノート」を思い出させて、しゃら臭いと言わんばかりの皮肉を言う友人もいる。人さまざまである。三木清とは似ても似つかぬ心の世界を展開していることは、読んだ人には誤解の余地はあるまい。

 徳間書店の元編集長の松崎さんが良質の短編小説集を読んだときのような読後感がある、と言ってくださった。つまり、読み易い一冊であり、哲学書ではないのである。

『人生の深淵について』の刊行(四)

お知らせ

 ★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 ★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜 
 私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
  司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)

 私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)

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 『人生の深淵について』の刊行(四)

 私は道徳というものが嫌いである。正義も嫌いだが、道徳が顔を出すと、人間を考えるうえですべてが台無しになる。

 この本の冒頭は「怒りについて」と名づけられている。怒りは恐しい。人は怒りに駆られると何をしでかすか分らない。自分を制御できなくなった怒りは身を亡ぼす。現代では犯罪の現場以外に、そのような怒りの爆発の機会はない。

 怒りは文明のオブラートに包まれて、個人生活の奥の方にそっと隠される。この自己隠蔽は、現代人が自尊心を失っていることとある意味でパラレルである。

 大きな自尊心を持った人だけが後世が驚く大きな業績を達成する。しかし大きな自尊心はまた同時に一身を破滅させる危い感情と隣り合わせでもあるといっていい。

 つまり真に価値のある行為は危険と一体で、道徳とは関係がないということを私は言いたいのである。道徳は人間の行為を小さくする。

 自尊心を傷つけられ、怒りで判断を失うようなことは、誰でも人生のいろいろな場面で遭遇するだろう。が、それを恥じてはならない。それくらいの愚かさを持たない人間の自尊心はたいしたものではないのだ。

 「道徳的」であることや「社会的に正しい」ことはこの場面では次元が低いのである。高い宗教心を持つ者も道徳を決して尊重しない。道徳は信仰の妨げである。信仰は危険に生きることを内に含むからである。

 さて、私の本が人生の「深淵」についてと題した理由はここから察していたゞけよう。「深淵」とはきわどい場所であり、辷って足を踏み外したら、あっという間に奈落へ落っこちてしまうこわい場所である。

 私の本は「怒り」につづけて、「虚栄」「孤独」「退屈」「羞恥」「嘘」「死」「宿命」「教養」「苦悩」「権力欲」についてそれぞれ考察している。どの語もきわどい場所を示している。「人生の深淵について」という言葉の意味が何となくお分かりいたゞけるだろう。

 完本作成のための試みなので、一般誌紙の書評の対象にはならないと思っていたら、『週刊文春』(2005、3、31)に小さな記事が出た。

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 昨今流行の浅薄な人生相談の類ではない。個人的体験と歴史の相関をふまえ、内省を重ね抽出した“モラル”の本である。保守思想家として有名な筆者の、厳しい精神修養の足跡も感じさせる。

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 それからAmazonのレビュー欄(2005、3、16)に書評(筆者kitano daichi)が出た。その一部に次の言葉がある。

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 この本が解き明かしているのは、人生の様々な問題の結論や解決では決してない。生きることのどうにもならない理不尽さ、生きる意味を知らない苦しみ、死の恐怖・・・・・軽薄な励ましに満ちた人生論が多い中、本書の人生を誠実に見つめる姿勢に深い共感を覚えた。

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 どちらも読者に甘いことばを囁くたぐいの人生論ではないと言ってくれているのは有難いし、当っている。

 その意味でこの本のカバーに大きい文字で「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」は必ずしも正確ではない。むしろ「生きることに自信を感じ、気力充実しているときに手にとるべき本がある。それが西尾人生論だ!」というような言葉を掲げてくれた方がこの本の実際に近いだろう。

 この本を読むにはそれなりの勇気が要るからである。おどかしているのではない。心の奥に「驚き」を感じて欲しいからである。弱い心はただ読み過ごすだけで、驚いて立ち停まることを知らない。プラトンは「驚き」こそがものを考える泉だと言っている。

 その意味で宮崎正弘さんの「国際情勢・早読み」(2005.3.11)に付記された書評は、拙著が氏の心の奥に触れたことを示す文言があって嬉しかった。

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 本書に収録された文章の幾つかは扶桑社版『西尾幹二の思想と行動』で一部読んだ記憶があるが、こうやって定本となって新しいかたちにまとまると、ああなるほど、こういうかたちに結局は落ち着いたのだと一種不思議な感慨にとらえられる。
 大方の文章は、しかも四半世紀前に或る雑誌に四年間に亘って連載され、それから二十年間、単行本にされなかった理由こそが、本書をよむ愉しみ、本質的な人生論になる。
 小学生時代のささいな友人との衝突や、疎開先でのいじめや、青年時代の友情と破裂と嫉妬のなかで、微細な風景画をみるような、詩を書く少年のごとく、感受性に富んだ心理描写が随所に出てくる。
 西尾氏が人生にもとめたもの、友人のうちの何人かが、結局はつまらぬ人生を送った経緯などを対比されながら、やはり公表を今日までひかえた人間的な動機も読みすすんでいく裡に深く頷けるのだ。
 批評家の顔、翻訳者の顔、哲学者の顔、そして「行動者」の顔をあわせもつ近年の氏の複雑な思想の軌跡は、単なる保守哲学をもとめたのではなく、モラリストとして人生の真実を求める営為であったのか、とこの作品を読むと得心がいくのである。
 嘗て『テーミス』誌が西尾さんを「保守論壇の四番バッター」と評したことがあった。この希有の行動をともなう知識人は、しかし何故に書斎から飛び出したのか?
「言葉は何千キロをへだて、何百年をへだててわれわれに伝えられるとき、どんなに厳密な仕方で再現されても、万人に等しく、同一の内容が、そのままに正確につたえられるというものではない。受け取るわれわれが千差万別であることに左右されるからである。言葉の理解は受取手いかんに依る。われわれは誰でも自分自身の背丈でしか相手をはかれない」。
だから書斎にこもりがちの「読書する怠け者」を遡上にのせて、
 「もうひとつ大事なことがある。遠い異国や遙かな過去の詩人、哲人、聖者たちの遺した言葉が、よしどんなに魅力的で、深い内容をたたえていたとしても、それらの言葉は彼らの行為に及ばない。彼らの体験に及ばない。言葉は行為や体験よりも貧弱なのである。」
 ここで西尾氏は『ツァラトゥストラ』の次の言葉を引用されている。
 「いっさいの書かれたもののうち、私はただ血で書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は血が精神であることを知るだろう。他人の血を理解するなどは簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む」。
 三島由紀夫の檄文を思い出した。
 「行動」についても次のように考察されている。
 「行動とはーーたとえいかように些細な行動であろうともーーおよそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることにほかならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われているものなのだ」。
 執筆時期とは関係なく西尾さんの人生の本質をめぐる行動哲学の源泉が四半世紀前にこのように開陳されていたのだった。

       3月11日 宮崎正弘の国際情報・早読み より

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 これを読んでいて、氏はあのプラトンの「驚き」を感じて下さったのだと思った。そして、書き方から感じたのだが、氏は文学者だということである。毎日のように綴られる「国際情勢・早読み」のグローバルな情報把握力にすっかり感服しているが、根はもともと浪漫派、詩人的なところのある人なのである。

 私は宮崎さんにメイルで書評のお礼を言ったら、折り返し次の返信が来た。

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 拝復 いただいた『人生の深淵について』は、古典的名作だと存じ上げます。
 アフォリズムに溢れ、しかし実体験からの箴言がまぶされていますから感動が深い
と思います。
 じつは家内も徹夜で読んで、次は娘が読みたいと言っております。
 月末「路の会」でお目にかかるのを楽しみにしております。
               宮崎正弘

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 奥様までが熱心に読んで下さっているというのである。これには感激し、心から感謝の思いを新たにしたのだった。

呉善花さんの災難

お知らせ

 ★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 ★集会 ■■■■■■ 人権擁護法案を考える緊急大会 ■■■■■■
人権.bmp

▼登壇者
《基調講演》長谷川三千子氏(埼玉大学教養学部教授)
西村幸祐氏(ジャーナリスト)
与野党の“闘う国会議員”多数
拉致問題関係者、法曹界ほか各界及び一般市民から登壇予定

平成17年4月4日(月)日比谷公会堂
18:30開会(18時開場、21時終了)入場無料

主催:人権擁護法案を考える市民の会
事務局:東京都目黒区中央町1-14-11-303
メッセージの宛先 

チャンネル桜キャスター三輪の「報道ワイド」(3/31、20:00~)
ラジオ日本「ミッキー安川のずばり勝負」(4/11、13:00~)で人権擁護法
案を取り上げ縦横に斬りまくります

 ★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜 
 私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
  司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)

 私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)

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 呉善花さんを災難から守ろう

 3月29日の路の会では、東中野修道氏に新刊の快著『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社、¥1500)の写真を143枚、インターネット画像で一枚一枚大写しして、解説していただいた。

 同書は8万部も出てベストセラーになった。しかし新聞に書評ひとつ出ない。3年かけて3万5000枚の写真を点検した研究成果である。

 同書の中国版と英語版をどのようにして世に出すか、みんなで相談した。どうしたらよいか、まだ五里霧中なので、いい智恵があったら教えてほしい。

 同書の中の幾枚かの写真は当「日録」でも後日にとりあげてみたい。今日は路の会に出席した呉善花さんが、今の韓国に起こっている反日の理不尽な嵐にまきこまれている苦境を会員に訴えられたことについて、ご報告する。

 この間韓国に行ってきたばかりの呉さんは、帰国後、出たばかりのご著書の新刊を手にした。『「韓流ブーム」ではわからない「反日・親北」韓国の暴走』(小学館、¥1400)である。

 この本が切っ掛けになって、『韓国日報』がホームページに批判文を掲げた。呉さんを非難する書きこみが2日で70以上、そのあとも次々と続けられている。

 ソウルの甥ごさんが「叔母さん、たいへんだ!」と電話をかけてきたそうである。

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韓国日報の記事

在日女教授日帝美化波紋
拓殖大呉善花氏「朝鮮発展寄与」本を出版

 日本内のある大学に在職している韓国人女教授が、日帝の植民地統治が朝鮮の経済と教育発展に大きく寄与したというなど、植民地支配を美化した内容を含んだ単行本を発刊し、波紋が予想される。

 呉 善花(49)日本拓殖大学国際開発学部教授は、29日東京市内書店で販売されている「反日・親北韓国の暴走」という本で「(植民地時代の間)日本が朝鮮に資本と技術、人力などを導入したおかげで北韓に大規模工業地帯が作られたし、南韓では資本主義的商業が大きく発達し、米生産が飛躍的に増えた」といいながら、「日本は朝鮮植民地経営に大きな利益を得たことがないし、むしろ投資過剰による赤字経営に終った」と主張した。

 呉教授は「日本は朝鮮の文化を踏みにじっていなかった」といい、むしろ「ハングルと漢字教育を通して就学率と文字解読率を高めたし、伝統的なチェサと民間信仰を保存させながら古い身分制度と土地制度を改革して近代化を推進した」と明らかにした。

 呉教授ははじめにの言葉で「国内親日一派一掃と親北統一が韓国現政権の最大政治課題」といい「そのような方向で南北国家連合が成れば前例のない強固な反日民族主義国家が登場することは明らかであり、日本はもちろん東アジアの地図が一変する」と加えた。

 呉教授は1983年に日本に渡って留学した後、東京外国語大学で修士課程を終え「反日韓国には未来はない」「チマパラム」など韓国に批判的な本を出した。

連合 入力時間2005年3月29日18時19分

3月29日にこの記事に寄せられた「意見」の例(同記事の下に掲載されている)
 

この狂い女め。あの女を拉致してすさまじい拷問を与えるべきだ。3時間だけ寝かせ、また拷問を与え、彼女に入ってくるお金を私が取る。

3月30日にこの記事に寄せられた「意見」の例(同記事の下に掲載されている)
 

呉善花、この野郎をつかまえて市庁前広場で公開処刑しよう!!!

 呉善花売国奴野郎。父母、子ども、呉善花三代を滅しなければならない。学者?無知な者、きちがい、父母にも責任がありますよ。連座しなければならない、ペッ!

 あんな犬のような奴をぶっ殺す方法はないのか??

 あのサンヨン(下卑た女)の父母はいったい誰なのか??

 親日派先祖の下で見て学んだものがそれだけなんだから、そういう論理が出てくるしかない。

 お前たちはチンチンの味をわかっていてけなしているのか?ウエノム(倭奴)のチンチンの味を一度見て言え。チンチンの味もまともにわからないで、何をわかっているつもりでけなしているのか、本当に息苦しい。チンチンの味はなんといってもウエノムの味が最高よ。

 きちがい女ではないのか。そんなにチョッパリが好ければ国籍を変えろ。もしかしたら、チョッパリと結婚したのか疑わしい。それでなければ、先祖がチョッパリに忠誠をした売国奴なのかも、独立運動をした人々は全部悪者で、チョッパリに国を渡したイワンヨンなど売国奴は本当に国のための人だったと言うのか?

 呉善花!むしろ自決しなさい。お前のような人間がこの世に存在することが間違っているようだ。

 呉善花、お前は生きている価値がないのだ。

 サンヨン、死ね、日本で。

 危険性警告。韓国民であれば我らが見る観点から客観的に記述することが必要だ。我は被害者であって、日本国は加害者であり、その悲惨さは数百万の男女老小が味わった家庭ごともっている悲劇的な歴史として自明に証明されている。代表的な工場数十ヶ所・鉄道・港湾設備がこの悲劇を隠してなぐさめになったんだろうか?それすら朝鮮戦争のときに全部破壊されて、教育は我が式書堂中心ではなく技術はつまらない技術として伝わっていないし、ついには戦時動員と強制徴用として罪のない我が百姓(民衆)だけ数百万が、目もまともにつぶれないで死んで傷つけたのに呉教授はこれらすべての記述を省略して、日帝残酷史の結果をむしろ美化し賛美するからどうやら我が百姓の記述だと表することができるのか!呉教授はすでに我が土地で骨を受けた娘ではなく、日産エンジンを身につけた日本産なのだ。したがって、我が土地を踏む考えは再びしてはならない!危険だろう!!

12時現在でメール74件あり。     (以上 呉善花訳)

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 『韓国日報』といえばちゃんとした由緒ある新聞のはずである。メールによる書き込みには新聞社としての管理責任がある。

 韓国社会の民度の低さを哀れむばかりだが、これをこの侭放っておいてよいのだろうか。新聞のこの無節操な放言の垂れ流しに、日本の外交当局はなんの手も打たなくてよいのだろうか。彼女の身に危険が及ぶのを恐れる。

 いい智恵があったら教えてほしい。

 暴動になりかけている韓国の反日騒ぎに、日本社会がほとんど取り合わないで涼しい顔をして聞き流している――それがまた彼らの苛立ちと怒りと反発をかき立てている原因なのです、と彼女は分析していた。

お知らせ

 以下の会が開催されます。
この会の成功如何に、法案の成否はかかっているようです。
是非誘い合わせてご参加ください。

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「 人権擁護法案を考える緊急大会(仮称) 」
日時  : 平成17年4月4日(月)18:30開会
場所   : 日比谷公会堂 入場無料
登壇者 : 長谷川三千子氏・西村幸祐氏
主催   :人権擁護法案を考える市民の会

5月号月刊誌の私のライブドア論

5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 3月16日に書き始めて24日の夜中(25日の早朝)に最後の校正ゲラをもどした。脱稿は24日夕方である。9日間で90枚は私にしても珍しい集中度である。

 ライブドア問題は日替りでニュースが動くので、早めに書き出すことができなかった。ようやく書き出すと、また動く。

 (1)では新株予約権発行差し止めの判決の地裁までで時間切れだった。(2)は高裁判決を主に対象にしている。(1)を書き終えてから(2)を書いた。

 ライブドア問題については「日録」にはいっさい私見を述べなかった。述べている時間的余裕がなかった。私の分析と考察はこの二作にすべて投入されている。

 (1)で「無国籍者」と呼んだのは堀江貴文氏と村上世彰氏と鹿子木康裁判官である。判決文に対しては丁寧な心理分析をほどこした。

 みんな同じ穴の狢である。高裁の鬼頭判事も例外ではない。アメリカの法律で日本を裁いている不可解さ。

 校正ゲラを手直ししている日にソフトバンクの登場のニュースを知って大急ぎで加筆した。フジサンケイグループにとって前門の虎、後門の狼だと思った。誰かが「フジはチンピラが恐くてヤクザに救いを求めた」と言っていたが、そういうことかと思う。

 最後に登場した北尾という人を見ていると、「株屋」という顔をしている。そういえばホリエモンも村上ファンドも昔流にいえば「株屋」である。

 日本人にはお金が貯っても株を買う習慣はあまりない。普通の人は郵便局や銀行に貯金してきた。銀行が代表して株を買った。証券会社は個人投資家を育ててこなかった。

 最近しきりに会社とは何かが問われる。会社は経営者のものでも、従業員のものでもなく、株主のものだと盛んにいわれるが、そういわれてピンとくる日本人は少ない。

 日本の株主は経営に関心を持たなかったからだ。株の上り下りにだけ関心をもった。経営者はたしかにいわれる通り株主への利益配当に熱意がなかった。

 日本の経営者は自社の製品の市場に占めるシェアーに異常な関心を示す。テレビの経営者なら視聴率にのみ関心を示す。株主への利益還元は二の次だった。

 だから日本の企業は生産性は高く収益は上げているのに、時価総額が低い。アメリカとは逆である。敵対的買収者に狙われ易い構造である。これからはたしかに日本の経営者には辛い時代がくる。

 フジテレビが1000円の配当金を5000円にして、自社の株をつり上げ、防衛策とした。他のテレビ会社は渋い顔をしているに違いない。相次いで同じことをしないと自社の株主たちの不満を買うことになるからだ。

 フジテレビの事件は毎日関心をもって国中から見つめられ、他業種の経営者にもとてもいい教育効果があったはずである。系列内の株式の持ち合いに守られていた時代の安定度がきっと懐かしいだろう。日本の資本主義の良さはもっと顧みられてよいのではないか。竹中平蔵氏に丸投げしている内閣は困ったものである。

 昨日、フジテレビが優良企業50社に自社の株を買って保有してくれと頼んだのは「株の持ち合い」策の復活である。安定経営が大切なのはどの社も同じである。

 拙論二篇は以上述べたこととはまた別の、もっと重要な、数多くの論点――文明論を背景にした私なりの会社論――を書きこんでいる。いずれも月の初頭に店頭にでる。

『人生の深淵について』の刊行(三)

 贈呈本には、この本を作った洋泉社の編集者小川哲生さんが、愛情あふれる紹介文を書いて、それを同封して送ってくれている。以下に掲載しこの本の紹介とする。

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 拝 啓
 このたび、3月新刊として、西尾幹二著
『人生の深淵について』刊行のはこびとなりましたので、早速お届けいたします。

群盲象をなでるという言葉があります。まさしく、本書の著者・西尾幹二氏の八面六臂の活躍は、その読者によって、さまざまな姿があらわれます。ある人にとっては、保守派論壇の雄であり、ある人にとっては、ニーチェ、ショーペンハウアーの翻訳・紹介者であり、またある人にとってはモンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコーといった「モラリスト」の系譜に連なる人間観察者、その人という具合であります。

いずれもが氏の本質であり、どれか一つで氏の本質を表すことは難しいというのが本当でしょう。しかしながら、私一個の人間理解からすれば、もっとも氏の本質をあらわすのは、最後の「モラリスト」というのが、偽らざる実感です。

 イデオロギー的裁断ではなく、氏の冷静な人間観察と鋭い心理洞察力を備えた資質はまさに「モラリスト」というべき以外に言葉がみつかりません。


『人生の価値について』にかつて接した人間はいたく、そう感じざるをえません。そして思うのです。この『人生の価値について』に先行する「人生論ノート」という連載があり、それは優に300枚を超えた作品であり、それがまだ公刊されずにあるのだ、と聞いたのはいつのことだったでしょうか。

 記憶はさだかではないのですが、いつかきっと読みたいと長い間、考えてきたのは私だけではないでしょう。

 それが、2000年12月に突如、その片鱗を表しました(扶桑社版『西尾幹二の思想と行動③論争の精神』)。残念ながら、全体像ではなく、抄録という形でありましたが、その出現はわたしの期待を裏切ることなく、圧倒的な力をもって迫ってきました。しかしながら、本来の姿は、完全な形で現れなければなりません。著者の意図したものを完全に提供するのは、編集者の務めではないでしょうか。4年の歳月を経て、ようやく読者に全体像を示せるのは編集者冥利につきるといっても過言ではありません。

 なぜかくも本書の全体像が明らかにされるのが遅れたかについて、著者は次のように述べております。

 《それなりに自信があるのに、なぜ単行本にしなかったかとあらためて問われるなら、(略)身近なひとびとの気に障るような内容を相当に含んでいるのではないか、という心配がずっとあったからである。(略)政治評論では公的な誰かを槍玉にあげ傷つけているが、人生論では私的な誰かの心理の内部に食い入って、これを傷つけているかもしれないのである。(略)最近その心配がすっかりなくなったわけではないが、私も六十五歳になり、他人の思惑や不満は墓の中に持っていけばいいと、やっと心が定まったのだった》と。

 かくして、ようやく本書は陽の目をみることができました。内容はけっして古びることなく、かえって新鮮です。人生という永遠のテーマはけっして古びることはないからです。もっとも新しい衣裳こそもっとも早く古びることはあまりにも自明です。

 本書に展開されるテーマはいずれもが難題です。解説で小浜逸郎氏も述べているように、難題が難題であるのは、生きることそのものが難題だからである、と。けだし名言です。

 本書の一句一句がアフォリズム集の趣が無きにしも非ずといっても過言ではなく、またわたしどもの惹句の「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」が紛れもなく真実であることを一読して感じていただけましたら、ひろく読者に伝えるよう御高評などいただければ幸いです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。

2005.3                         洋泉社編集部 小川哲生
敬具

『人生の深淵について』の刊行(二)

 私は現実の政治や社会問題について発言するのをもう止めようかと思うことがしばしばある。年齢とともにそれは強まっている。けれども性分というものかもしれないが、なかなかやめられない。

 現に今月もライブドアの株買収事件について『正論』に書き、朝日NHK贋報道事件、竹島問題、人権擁護法、ライブドア事件の四つに共通する底流について『諸君!』に書いている。

 扶桑社の永年の盟友真部君が「先生よくいろいろなテーマについて次々と挑戦しますね」と言ったので、「いやあ、僕が挑戦しているんじゃなく、日本が僕に挑戦してくるんだよ」と言って、二人で笑った。

 しかし本心はもっと別な仕事に心を傾ける時間が得られるようにしたいと思っている。ちょっと現実から離れたやりたい仕事があるのに、残された時間は少くなっていく一方だからである。

 前段で紹介した小浜逸郎さんの拙著への解説の中で、私がハッとしたのは、最後から二行目の「いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。」の一行であった。

 あゝそうか、そう言ってくれる人もいるのだ、と思うと少し迷いがフッ切れた。現実の問題と格闘して「いろいろやっていく」ことをやめてしまったら、恐らく他の何をやってもうまく行かないだろう。

 現実への生き生きした関心を持続しつづけること、それが私の他の活動にも生命を吹き込む源泉となってくれるのかもしれない。

 というわけで今月は経済問題にまで首を突っこんだ。対日投資会議報告書、米政府から日本政府への日米規制改革及び競争政策に関する要望書、法制審議会が決定した会社法制の現代化に関する要綱、経済産業省の日米投資イニシアティブ報告書、証券取引法などにまで踏みこんだ。

 畑違いのさまざまな領域に関与するのを年寄りの冷や水といって嘲笑う向きもあるかもしれない。けれども現実への関心が尽きないのだからこれはまあ仕方がない。

 最後に小浜さんが拙著の中から拾ってくれた二つの文章をここに掲げておく。

 

従って生きている限り、われわれは自分の生を総体として把握することを封ぜられている。それでいて、われわれは毎日のつまらぬ雑事、よしなしごとに果たして意味があるのかどうかを疑う心を持っている。それらの持つ全体としての意味が何であるかをあらためて問い直す心を持っている。しかしまた、同時に、それら雑然たる関心事や刺戟や用務の持つ個別の意味以外に何か究極の生の目的を見出そうとしてもそれは不可能だし、ドストエフスキーの描いた徒刑囚のように、人間が些少な個々の物事によってその日その日に自分の生を無言のうちに支え、自分をいわば生かしていることをもよく知っている。(「退屈について」・本文105P)

 

それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえばよいということか。諦めてしまえばそれでよいのか。私はそういう事を言っている積もりはない。むしろ、自分が何らかの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、その結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分が何かの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、そのときの自分をもっと尊重したらどうか、と言っているのだ。(「苦悩について」・本文215P)

 小浜さんはこの二文について「正直なところ、いずれも難題を突きつけられている気がする」と書いているが、私にとっても「難題」であることに変わりはない。

 今日取り返しのつかない失敗を私もしていないとも限らない。ただ「後悔」は不毛だというくらいの覚悟でせめて生きたい、と言っているだけである。