「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(六)

 世界の政治の動きは私が考えているよりもずっと早い。総裁選の各候補者の演説のどこが良いとか悪いとか言って日本がもたもたしているうちに、外からドカーンと恫喝の声が届けられた。13日と14日のアメリカからの威嚇である。

米下院委、「慰安婦」で対日決議採択 責任認知など要求

 米下院国際関係委員会(ハイド委員長)は13日、第2次世界大戦中のいわゆる慰安婦問題に関する対日決議を採択した。法的な拘束力を伴わない決議形式だが、この問題について日本政府に対し、(1)歴史責任の認知(2)学校教育での指導(3)慰安婦問題はなかったとする議論への公式反論-などを求めている。

 決議は民主党のエバンス下院議員らが提出し、表現を一部修正のうえ採択された。慰安婦については「若い女性を性的苦役に就かせる目的で誘拐した」などと認定している。(ワシントン=山本秀也)

【2006/09/14 産経新聞 大阪夕刊から】

 新政権の扱いは最初が肝心とばかりに、脅しをかけて来たのであろう。靖国問題ならアメリカからすでに注文が出されていて、さして驚くに値しない。なんと例の「従軍慰安婦」問題である。しかも個人の意見ではなく、一委員会の決議採択であるからそれなりに重い。

 中国人のロビー活動が裏にあると想定されるが、厄介な事態である。決議内容の事実無根なること、過去十年の日本の言論界においてすでに論破しつくされていること、それゆえ今さらここで再反論に値しないことはことあらためて言う必要はあるまい。(そう思わない人は当日録の読者であるべきでなく、勉強をし直していたゞくほかない。)

 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年12月に起ち上がったそもそもの切っ掛けはこの問題だった。安倍政権の発足直前に、中国からではなくアメリカから、教科書問題を振り出しに戻すように「慰安婦」問題の学校教育へのこのような取り入れ要求が出されたことは政治的に重大である。

 昭和20年代に米進駐軍用日本人慰安婦20万人余、巷にあふれたパンパンの群れ、処女狩りもあったという噂も耳にしている私の世代の日本人は、アメリカ兵常習の「慰安婦問題」をアメリカの「国際関係委員会」に告発したいくらいである。

 ひきつづき9月14日に、米下院外交委員会の公聴会でまたまた靖国問題が取り上げられた。

<米議会>靖国神社遊就館の展示に変更求める ハイド委員長

 【ワシントン及川正也】米下院外交委員会のハイド委員長(共和党)は14日、日本と近隣諸国に関する公聴会で、靖国神社にある戦史展示施設「遊就館」について「事実に基づかない歴史が教えられており、修正されるべきだ」と述べ、展示内容の変更を求めた。

 また、民主党のラントス筆頭委員は小泉純一郎首相の靖国神社参拝を「日本の歴史に関する健忘症の最もひどい例だ」と指摘し、「次期首相はこのしきたりをやめなければならない」と参拝中止を求めた。米国内には首相の靖国参拝による日中関係悪化を懸念する声があり、米外交に影響力を持つ両議員の発言は日米間に波紋を広げそうだ。

 ハイド委員長は「遊就館が第二次大戦は日本による西側帝国主義からの解放だと若い世代に教えていることに困惑する」と批判。ラントス議員は「A級戦犯が祭られている靖国神社への参拝はドイツで(ナチス幹部の)ヒムラーらの墓に献花するのと同じ。韓国や中国の怒りをあえて招くことをする限り、日本が国際社会で重要な役割を演じるのは難しい」と述べた。
(毎日新聞 15日12時00分)

 靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事内容は、岡崎久彦氏が8月24日産経コラム「正論」で「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と先走って書いていたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはたゞの推理ではなく、ほゞ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。

 岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 問題はその岡崎氏が安倍内閣の外交のブレーンだと噂されていることである。「遊就館」の展示内容変更への靖国側に対する強要も、岡崎氏と手を組んだ安倍氏の意向であり、したがって「次期首相」の参拝中止を求めるアメリカの声にも安倍氏は威圧され、足がすくんでしまう可能性をも示唆している。

 中国や韓国からの圧力ならはね返すのは何でもない。小泉首相は中国と韓国だけが相手で、今度のように背後からアメリカに威嚇されるというケースではなかった。しかも、今度は靖国だけでなく、「従軍慰安婦」までも威嚇のタネとなっている。

 「靖国」と「歴史教科書」は二大タームなのである。この両方をゆさぶり、骨抜きにする計画は中国や韓国からアメリカにまで伝播した。いよいよ日本の正念場である。どうしても負けられない一線である。

 安倍氏よ、ここで日本男子であることを証明して欲しい。自民党総裁になった日に必ず記者会見で「靖国参拝をどうされますか」と問われる。世界中が注目している一瞬である。ひるむことなく日ごろの所信、「毎年必ず参拝します」と明言してもらいたい。この一語であなたの価値はきまる。そのためにはアメリカと口裏を合わせる怪しげな外交ブレーン、宦官のごとき卑劣の輩を近づけるな。

 もし万が一安倍氏が外圧に屈し、靖国参拝について姑息な言辞――言いわけや逃げ腰のことば――を弄したなら、この秋、日本には不穏なことが相次いで起こるであろう。

 上記二つの外信記事は「米中握手」の時代が近づいていて、小泉時代とは外交局面が変わりつつあることを物語っている。それだけに、日本が日本であること、およそ民族の「信仰」の問題で、両サイドのどちらからの威圧にも屈しない魂の表白を首相たる者、国民を代表してなし遂げなければならないのだ。「靖国」と「歴史教科書」のどちらも、外患に怯み、奸臣不逞の徒の手に委ねてはならないテーマなのである。

 じつは上記二つの外信記事は必ずしもアメリカの代表意見ではない。日本の新政権を揺さぶる外交戦略の一つにほかならない。まずそう考え、気持を切り換える必要がある。

 例えば、アメリカ軍備管理軍縮局上級顧問トーマス・スニッチ氏(産経、8月22日)は、次のように述べている。

米・軍備管理軍縮局元上級顧問 トーマス・スニッチ氏

 (前略)日本の首相が靖国参拝を取りやめさえすれば、中韓首脳会談の実現など、すべてが順調に運ぶという趣旨だが、こうした見解は間違っている。日本の事情や日本社会における靖国神社の意味を理解していないのではないかとも思える。

 小泉純一郎首相はこれまで何度、第二次世界大戦に関しておわびを述べてきただろう。この数年でも多くの日本の指導者が謝罪を繰り返している。あと何度謝れというのか。謝罪とは一度きりであるべきだ。
(中略)
 日本がドイツを手本にすべきだというが、これは不条理な話だ。冷戦時代に米ソがともに得た教訓を挙げると、ある国のモデルを別の国に移植することは不可能だ。米国は東南アジアで、ソ連はアフリカで似たようなことを試したが全部ダメだった。

 そもそもドイツは、戦後の分断国家であり、東西ドイツの国境がすなわちソ連軍との前線という状況だった。北大西洋条約機構(NATO)のメンバーだった西独は、他のNATO諸国との関係構築の上に戦後の発展を進めざるを得なかった。日本にはこうした状況はなかった。

 靖国神社が仮に地上から消え去ったところで、中国が他の問題で日本を問い詰めるのは間違いない。多くの国内矛盾を抱える中国にすれば、靖国問題は国内の注意を国外にそらして日本を指弾する格好の材料なのだ。次期首相が参拝を中止すれば状況が好転するとの見方はあまりに楽観的で、どうみても現実的とはいえない。

(08/21 産経22:11)

 新首相はこうした理解ある言葉をしっかり胸に秘めて、つまらぬ臆病風に吹かされぬようにして欲しい。

 ここで誤解のないように言っておくが、私は単純な「反米」の徒ではない。「外交」において親米、「歴史」において反米たらざるを得ぬ、と言っているまでである。戦争をした歴史の必然である。

 米英関係は今は親密だが、今でもイギリスの歴史教科書はアメリカの独立戦争をイギリスへの「反乱」と記し、ワシントンを「逆賊」と書いている。

 岡崎久彦氏は、遊就館の展示に戦争の原因をルーズベルト大統領のニューディール政策の失敗に見ている見方があり、これを「唾棄すべき安っぽい議論」として削除すべきだと言っているし、すでに削除は実行されているらしい。

 しかし、ならば氏に借問す。スミソニアン原爆博物館に、すでに無力化した敗北直前の日本への原爆投下の米側の動機は100万の米軍将兵の生命を救い、戦争を早期終結させるため、と書かれているそうだが、これも「唾棄すべき安っぽい議論」ではないだろうか。先にこちらの削除を要求すべきではないか。

 遊就館には戦争の原因がほかにも数多く書かれていて、ルーズベルトの経済政策失敗説はそのうちの一つにすぎなかろう。日本は戦争の動機を「自存自衛」と「アジア解放」に求めているが、アメリカは「侵略」と言い張っている。それでもわれわれは相手方の考え方に削除を要求できないでいる。

 日本における数多くの戦争の原因説明の一つに、アメリカにとって必ずしも全面的に賛成しかねる理由が述べられていても、「旧敵国」同士なのであるから、怪しむに足りないであろう。

 岡崎氏よ、なぜあなたは「公正」ぶるのか。それは公正ではなく「卑屈」ということなのである。

 日本の外交官にはつねに「卑屈」が宿命のようにつきまとっているようにみえる。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(五)

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。

 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏への干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(四)

 7月2日の「新しい歴史教科書をつくる会」総会の終了後にいつものように懇親会があった。櫻井よしこさんその他が挨拶をした。櫻井さんはいつも来る顔である。この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。

 岡崎氏は私が名誉会長であった間は総会に来たことがない。多分気恥しいひけ目があったからだろう。(彼は「つくる会」創設時には脛に傷もつ身である。)私が姿を見せなくなったら突然現われ、紛争について叱責調で、「つまらない争いはやめろ、一体何で争っているのか分らない。怪メールが非難されているが、自分には何が悪いことなのかまったく分らない。八木氏の中国訪問に何も問題はない」と語ったそうだ。

 伝え聞きなので正確を欠くかもしれないが、ともかくそういうことを言ったそうだ。櫻井よしこさんも「子供みたいな喧嘩は止めなさい」というたぐいのお説教を述べたそうである。

 櫻井さんの動機はよく分らないが、岡崎氏がここへ出て来て、偉そうにして、参集した「つくる会」会員を叱ったのは今からみるととても奇怪な話なのである。なぜなら、岡崎氏は内紛の一方の味方になって彼らにピタッと張り付いた、実は紛争の当事者の一人であることが次第に分って来たからである。

 子供たちが喧嘩をしている場に先生がやって来て、もう争いは止めなさいと喧嘩両成敗のふりをして、じつは先生が一方に勝たせるためにきれいごとを言っていたというケースにも似ている。

 先生はA君を勝たせたい。B君が勝つと先生の職員会議での立場がなくなる。放って置くと必ずB君が勝つ。B君の主張のほうが正義であり、A君は汚い手を使っているからである。A君の汚い手は世間に知られると学校の名誉が傷つきまずい。そんなものはなかったことにしてしまいたい。

 というわけで先生はB君の仲間が集っている教室にやって来て、「お前たち、子供みたいな喧嘩はやめなさい」と叫んだ。B君とその仲間を黙らせることがA君を救うことになり、結果的に学校を救うことになる。岡崎先生は校長からそういう指示を受けていたに相違ない。櫻井先生もあるいはそうだったかもしれない。小田村四郎先生はその長い教員生活で間違いなくそういう指令を敏感に受け取って忠実に実行することでよく知られている人だった。

 B君たちはどこまでも自分を貫きたい。しかしそう出来ない事情がある。学校をやめさせられると明日から困るという事情がある。本当はやめてしまいたいのだが、B君たちは学校から「歴史教科書を出版してもらう」という業務資格を与えられているからである。退学したいが、退学してしまうとその業務資格をも失う。

 岡崎先生はB君たちのその弱点を知っている。人の弱味につけこんで居丈高に振舞うのは卑劣の徒のすることだが、平成も18年に及ぶと、卑劣は正義の仮面をつけて大通りを歩む。

 岡崎先生の後に学校長がいる。そのまた後に誰かがいるのではないか。

 その誰かに秋波を送るために学園あげてせっせと卑劣の技を磨いているのではないか。多くの人はだんだんその全体事情が分るようになって来た。

 じつは昨日「つくる会」に関係する件で、ここでは語れない非常に不愉快な別件が起こった。私が信頼している地方の会員さんが悩んで、長いメールを下さった。(私は会を辞任して久しいのだが、今でも切実な言葉を訴えてくる方が後を絶たないのである。)

 その方が、どんな不愉快な出来事が新たに起こっても、八木秀次氏(いわずと知れたA君のこと)の会に対して犯した「三つの罪」に比べれば取るに足りない、と、次のように書いてこられた。

 「今問題になっているこの件ですが、再びつくる会の混乱を招くことは避けたい、というのが現在の私の心境です。八木氏の三つの大罪、つくる会会長の身分で勝手に訪中し、定期会合まで約束した。藤岡先生の共産党脱退の期日を公安の名まで出して偽り、陥れようとした。(これは刑事告発されるような問題と思います)。雑誌「アエラ」につくる会にとっては不倶戴天の敵朝日新聞に批判されない歴史教科書をつくると公言した。

このようなことが、なんら咎められることなく、日本教育再生機構の代表に祭り上げられる。そして多くの識者が臭い物に蓋をして平然と祝辞を述べる。正に虚偽の集合体と言うほかない。しかし、これが目の前にある現実なんだ、と肯定はしませんが認識せざるを得ない。今起こっている新しい問題は、これに較べれば軽いものです。

 B君のグループはこうして教室の中で静かに膝をかかえて、じっと忍耐し、推移を見守っている。つまらない喧嘩はやめろ、と岡崎先生も、櫻井先生も、小田村先生も言うけれど、「三つの大罪」を正すことがどうしてつまらない喧嘩だといって切り捨てられるのだろうか、と生徒たちは腑に落ちない。

 どうも何か新しい事態が起こりそうなのだ。新しい理事長が学園にやってくる。A君も、岡崎久彦先生も、小田村四郎先生も、伊藤哲夫先生も、否、学園の組織全体が妙な雰囲気になり、歯車が狂い始めているのはそのせいらしいのだ。

 常識では考えられないことが相次いで起こっている。紛争のどちらの側にも味方しないと言っていた新聞社がA君の仲間の記事だけを目立つ場所に掲げる。B君たちの大集会のあった「総会」の日に合わせてA君の新聞コラムを載せた。出版社はA君の本や岡崎先生の本をこれ見よがしに出すことも忘れない。

 と、そうこうするうちに岡崎先生は勢い余って、靖国にまで手を出し、B君たちの歴史観は正しくないと大見栄を切ることさえやってのけた。やがて手ひどい竹箆返しを食らう日もくるだろう。

 一番バカバカしいと思ったのはA君たちの「日本教育再生機構」のこの「日本教育再生」という文字が新理事長の赴任後の方針に出てくる文字と符合していること、集会の日に配られたパンフの表紙に大きな字で「美しい日本の心を伝える」とあり、これまた何処かで聞いたことばなんだ・・・・・・

 え?「美しい日本」・・・・・・「美しい国」・・・・・・どっちが先なの?どっちが真似したの?自分を新理事長に似せようとするこの涙ぐましい生徒達の愚行。新しい権力者に平然とすり寄る羞恥心の欠落!

 新理事長が学校に赴任したらいい大人たちが手に手に旗をもって歓声を挙げて走り寄るのであろう。美と、健康と、清潔を掲げるスローガン。ハイル!ハイル!何とか。

 学園内部の紛争は新理事長の自ら関知しないことだったかもしれない。しかし、その人の着任を知って、ありとあらゆる学内の組織と人事が「おべっか」の組織的自己調節を始めた。

 「歴史教科書の出版権」という業務資格はB君たちに対する生殺与奪の権である。「おべっか」の組織がこれを振り翳して理不尽な圧力を加えればそこに必死の抵抗が始まる。三つの大罪を犯した者に理由もなく(まったく理由もなく)一方的に特権を与えようとすれば、必然的に混乱と争乱が始まる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の真の原因はこうして次第に明らかになりつつあるといってよいだろう。

 たとえこれから何が起こっても、A君の「三つの大罪」への追及の手がゆるむことはないだろう。A君が権力者に取り入り何らかの目立つ地位に就いた暁には、「三つの大罪」はそれだけかえって大きくクローズアップされ、ひときわグロテクスな輝きを放つことになるであろう。

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(二)

 以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。

 半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。

 みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。

 その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。

 敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。

 ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。

 どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。

 「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。

 戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。

 「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。

 もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。

 ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。

 自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。

 「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。

 小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。

 尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。

 しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。

 権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。

 安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。

 権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。

 安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)

 昭和35年(1960年)私は大学院の修士二年に在学中であった。本郷のキャンパスは興奮に包まれた。樺美智子さんという一学生が「虐殺」されたというのである。実際には国会正門になだれこもうとしたデモ隊に踏みにじられて圧死したのである。

 しかしそんなことが聴き入れられる雰囲気ではなかった。酩酊していたのは学生たちだけではない。ほとんどの教室は休講だった。教授たちもこういう日には授業なんかしていられない、一緒に国会デモに参加するという人が多かった。

 手塚富雄教授(ドイツ文学)は保守的学者だと思われていたが、翌月の文芸誌『群像』に「学生たちのニヒリズムは終った」とかいう題のデモ讃美の評論を書いていた。

 私はおかしいと思っていた。安保改訂はそれまでの「不平等条約」の日本からみての一歩前進なのである。今でこそこれは通り相場になっているが、そういう常識が評論の世界でさえ言えるようになるのにもそれから20年はかかっている。

 私とて確信があったわけではない。大学の内も外も、新聞も雑誌(当時の代表誌は『中央公論』)も、私の考え方に相反する内容に満たされていた。私はまだ若い。「おかしい、変だな」と思うだけで、それ以上言葉にならない。

 大学で私は黙っていた。デモには一度も行かなかった。気になるから本郷の構内にまでは行くが、私と同じ少し斜にかまえているごく少数の友人とひそひそ語り合い、「冷笑派」に徹していた。

 その少数の友人たちとも政治的議論を詰めて語り合ったのではない。デモの旗を振っている同級生のリーダーを「あいつはアナウンサーみたいにペラペラ喋る奴だな」と嘲りの言葉を口走って、憂さ晴らしをしていただけだった。

 私が秘かに個人的に深めていた時流への批判と疑問を、大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。

 樺美智子さんが死亡した翌日、構内は「今日のデモは葬い合戦だ」と騒然としていた。法文大教室では社会党の議員が演説をしていた。「虐殺抗議大集会」と張り出されていた。

 私は「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったら、友人の柏原兵三君――後に芥川賞作家になり38歳で亡くなった――が私の口をぱっと塞ぎ、手を引いて人混みをかき分け、会場の外へ連れ出した。

 私の身に危害が加えられるのを彼は恐れたのである。友情から出た思慮深い行動だった。

 われわれは少し間を置いてドイツ文学科の研究室に行くと、大学院生がほゞ全員集っていた。そして何やら熱心に座の中央で演説をしている同級生がいる。その人の名は柴田翔といい、彼もまた『されどわれらが日々』という学生運動を扱った小説で芥川賞を後日受賞している人物である。その頃のドイツ文学科には多彩な人材が多く、古井由吉君もこの同じ場にいたはずである。

 柴田翔君が次のような提言をした。「今日は午後、大きなデモが計画されている。学部の学生諸君は国会正門を突破すると言っている。警官隊も今日は手強いと思う。何が起こるか分らない。大学院生のわれわれは学部の学生諸君に頑張れ、とエールを送りたい。独文科大学院生の名において独文科の学部の学生諸君の行動を全面支援する声明を出したいが、全員賛成してもらえるか」

 「賛成、賛成」という声があがる。黙っている人もいる。私は変だなと思った。ちょっとおかしいもの言いだと思った。手を挙げて次のように言った。

 「本日の危険なデモに際し学部の学生諸君の行動をわれわれ大学院生が支援するかどうかという問題ではなく、われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか」

 「大学院生の声明は学部の諸君を勇気づけることになる」と柴田君は言った。

 「それはおかしい、大学院生の特権意識ではないか。」

 すると柴田君はすかさず次ように言った。
 「西尾君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている。」

 そうだ、そうだという声があがり、ある人が大きな声で「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と言うと、興奮した一団の声は一気に高まり、私の言葉をかき消した。

 今まで黙っていた、平生温和しいM君――後にドイツ中世語の研究家となった――が「西尾君の言う通りだと自分は思う。自分がデモに参加するのかしないのか、参加できるのかできないのか、それが問われるべき問題なのだ。」

つづく

「昭和の戦争」補論――歴史を知るとは

福地  惇(大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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1 今やその讒謗に応答する

 西尾幹二氏の「インターネット日録コメント欄」に頻繁に寄稿するバガボンドなる者が、六月後半期にゲストエッセイ欄に10回連載された拙稿「昭和の戦争」に対して、その初回から強い疑義を唱えて讒謗してきた。「大東亜戦争肯定論」を思想とする副会長が「新しい歴史教科書をつくる会」にいるのは許せないと抗議してきた。その物言いの横柄さから、一瞬、いかなる思想・宗教の筋に繋がる高等審問官なのかと訝しんだのである。  

 それにしても、放浪者を自認する御仁が、国民子女に善い歴史教科書を提供しようとする「つくる会」の命運を案じているとは意外である。危険思想の副会長は退陣せよと言う心も、つくる会運動を支援すればこそなのであろう。ならば、つい先だってつくる会年次総会が開催された際に、福地罷免動議を出せばよかった。それが可決されれば、私は粛々と退陣したであろうに。

 ところで、バガボンドは拙稿の「はじめに」を読んだ途端にこう言った。「日本が中国に大軍を展開した目的は何か?福地さんという人はとんでもない『思想』の持ち主である。(中略)大切なことは日本が中国(支那大陸)で『何を』しようとしていたのか、ということである。日本は中国で(他の国々と同様)一定の『権益』を所有していたが、要は、その権益の『程度』である。今後の論述で、たぶん彼は、『日本は他の列強に比べ特別強大な権益を持っていた。それは蒋介石政府を無視することが出来るほどの権益・権限だった』ということが前提にするだろう」と。本論を読む以前に、私が述べることが分るというのだという。また、第1回を斜め読みしただけで、論旨を主観的に予断して「エッセイ」だとも讒謗した。主観的なつまりは「自分に都合よい得手勝手な判断」から、そして浅薄な歴史知識から、気侭な予断を述べて、私に喧嘩を売って来たのである。

 勿論、拙論を読んでくださった方々には、彼の予断が的外れだったことが判明している筈だ。彼の議論は、私が見落としている重大な歴史事実や思いも付かない斬新な解釈を提示しようとする真面目な批判とは初めから別物だったのである。

 匿名で敵を誹謗中傷する陰湿な行動はやめて、こいつは許せないと思うならば、堂々と名を名乗った上で実践行動するがよいと言いたい。そのような訳だから、最初のコメントを見て、相手にするに値しない奴輩だと思った。また、素っ頓狂な言い掛かりつける匿名者と議論するのは、私の好みに元来合わない。それで、私はこれまで彼の讒言や挑発を聞き流して来た。だが、バガボンドは、西尾ブログで真面目な議論者間の論争でも礼儀も節度もない不毛な議論を継続している。そこで、問題提起者として何等かの応答は責務だと思い直し、ここに無礼な讒言に対しする若干の所感を述べたいと思う。

2 「昭和の戦争」は国際政治に目配りした近代日本史概説である

 拙稿「昭和の戦争」は、ペダンチックな学術論文ではない。言うなれば、国際政治の中での近代日本史概説である。ここで論述意図と公表経緯を簡明に述べておこう。

 第一、現在日本国民の歴史常識では、大東亜戦争の正式呼称は憚られ太平洋戦争として定着し、この戦争は日本軍国主義の悪辣な大陸侵略戦争だったことになっている。だが、この常識は、歴史の事実に適合するであろうか。これが私の問題関心である。

 第二、「昭和の戦争」は、実に複雑な国際政治状況の中で、謀略的にして強力なある国家群によって誘導されたようにして生起したと理解できる。日本の「侵略戦争」とは、気安くは言えない複雑な性格を帯びた戦争である。常識を疑わねばならぬ。日本人の眼で近代国際政治の中での戦争を見ることが必要である。明治維新から大東亜戦争に至る間の国際政治の中での日本を通史的に検討した。菲才を顧みずに考察した結果、あの戦争は「侵略戦争」とは言えず、壮大な「国際謀略の渦に巻き込まれた戦争」、「国際的抑圧勢力への対抗戦争」、いわば「防衛戦争」であった、と観るのが正しいとの暫定的結論に達した。だが、その見方を妨げる障害物がある。それは、歴史の真実を善悪転倒する目的で創作されたのが「太平洋戦争史観」別名「東京裁判史観」なのである。

 第三、実は、「邪悪な侵略戦争」という観念は、戦後の国家体制を支えるイデオロギーである。我が国体(くにがら)を軽視・軽蔑する、軍事を排除する、外交を他国の信義に委ねる異型の国家体制、実は国家といえない国家体制を支える基底に「日本は戦争犯罪国家だ」とのイデオロギーがある。体制とイデオロギーは車の両輪である。私は、この状態を「敗戦国体制」と「敗戦国イデオロギー」と名付けている。日本侵略国家論、戦争犯罪国家論が国際世論となり、国民常識となっている。この現実が擬似国家日本を正常化しようとする時に、最大の障害物になっている。(「敗戦国体制」については、拙稿「敗戦国体制護持の迷夢」正論誌二〇〇四年三、四月号連載で論じたのでご参照願いたい)

 第四、要するに、この旧敵国連合によって巧みに仕組まれた冤罪を晴らす手段は、正しい歴史像を作り上げることによって虚偽の歴史像を断罪し排除することである。それ以外に有効な手立てはない、と愚考するのである。

 第五、この小文は、ある教育機関の講義案として纏めたものであるが、ここに縁が有って西尾幹二氏の日録のゲストエッセイ欄に掲載させて頂いたと言う訳である。

 さて、戦勝諸国、特に米国の日本占領統治の目的は、日本民族を自己喪失者に改造して、二度と再び米国に対する軍事的脅威になることを阻止する点にあった。日本人の勇気と自信を剥奪して自己喪失者へと誘導し、衰亡させることにあった。目的達成の手段は、大日本帝国を最大限に卑しめること、戦争犯罪国家の烙印を深々と押しつけること、であった。これが所謂「太平洋史観・東京裁判史観」というイデオロギーだ。その謀略と姦策の展開過程は単純ではなかったが、占領期間中に進駐軍権力に同調した左傾化した我が同朋が、社会主義革命や共産主義革命を夢見て、祖国の歴史を貶めて捩じ曲げる、利敵行為に勤しんで、大きな成果を挙げた。これこそが、自らの手で招き寄せた第二の敗戦である。征服者の米国は利敵行為者を実に有効に活用した。彼らの目的は、買弁的日本人の手によって見事に達成されたのである。

 私は日本民族の自力による自己挽回、つまり民族の歴史の正統への回帰、そして真の独立主権の回復を強く希求している。サンフランシスコ平和条約締結以後の戦後日本政治の大目的は、この問題でなくてはならなかっただろうと思っている。そして、我々日本人が占領政策によって自己喪失のカラクリの箍を嵌められた原点には、あの大戦争に対する捩じ曲げられた評価の問題が深く横たわっていと睨んでいる。この問題を解く鍵は、「昭和の戦争」の解釈=評価問題の内にあると睨んでいる。

 拙稿執筆の背後の動機は以上である。拙稿の本論そのものは、飽く迄も戦争の歴史を軸にした近代日本史考察であり、そこから得た一応の結論が「昭和の戦争」は侵略戦争に非ずなのである。そのことは、「はじめに」と最後の「現下の課題」に表明してある。バガボンドは、これに噛み付いてきた。要するに、彼は「敗戦国体制護持論者」のようだから、私の思想を危険で異質な者と嗅ぎ取ったのであろう。それはそれで正解であるが、大東亜戦争の歴史的意義をどう捉えるかの問題では、完全に論点が食い違っていて、議論にならないのである。

3「昭和の戦争」を考える視座が完全に食い違っている

 バガボンドが拙稿を「大東亜戦争肯定論」だと決め付けて批判するのは自由である。旧敵国側は、我が国が二度と再び彼らの軍事的脅威にならないようにとの高度の政治目的で「太平洋戦争史観・東京裁判史観」を日本人に刷り込む様々な策略を弄した。これを肯定するのも、確かに自由であるが、日本民族の尊厳と独立を回復する方法とは正反対のものであることを知れねばならない。

 問題に核心は、「昭和の戦争」の歴史の真実とその意義を自らの眼と頭でしかと見定めたいと思うか、その問題は既に結論が出ているのだから、今更再検証は不必要だと思うか、そこが「昭和に戦争」を考えるための最初の視座の相違なのである。
 
 私は歴史の事実を直視すれば「昭和の戦争」はこう理解できると言ったのである。だが、バガボンドは初めから聞く耳を持たずに、「太平洋戦争史観・東京裁判史観」は正しいし、それを守りたいと思っている。そうであるから拙稿に激しい怒りを覚えるのであろう。わが日本国民が正気に戻ることを恐れる支那・朝鮮や日本の左翼が、「つくる会」に異様な怒りを示す情念と相似形である。いまさら、「東京裁判史観」批判でもあるまいという雰囲気も見せているから、バガボンドは、親米実利主義者のようにも見受けられる。

 いずれにせよ、形振り構わぬ実利主義的政治家や実業家が、金満国家さえ維持できれば、支那・朝鮮から軽蔑されようが、米国の属国に甘んじ続けることになろうが、金儲けさえできればよいとする。歴史の真実にお構いなしに「中国人民・韓国国民の痛みも考慮せよ」、「日中貿易の将来を考えろ」「日米同盟を強化しよう」として、首相靖国参拝問題や歴史教科書問題を政治取引の材料にして恥じない。この二つは、いずれも内政事項である。支那・韓国のこの問題に関する言い掛かりは、どんな屁理屈をコネとも歴然とした内政干渉である。

 自尊心を喪失させられ独立主権を制限されたままにノウノウと時を過ごし、徒に経済成長だけを達成した我が国に対して、支那・朝鮮が「太平洋戦争史観・東京裁判史観」をあたかも自分たちの権利・既得権益であるかのようにして活用し、我が国に揺すりタカリ攻勢を掛け続けるのも、その外交行為で自らの国益を高め、自尊心を高めることが出来ると学習したからに他ならない。我が国内に潜在的敵国である彼らに同調・宥和する勢力が存在するから、なおさら調子付くのである。 

 現時点においては、支那・朝鮮は、間違いなく我が日本の敵対勢力であるから軍事的脅威なのである。米国のCIAも竊に蠢動している雰囲気も徐々に高まっている。我が国は相変わらず大陸と太平洋の東西両方面から挟撃され続けているのだ。

 そんなことには無頓着な連中は、あるいは支那・朝鮮に同調し、あるいは米国の庇護に益々縋ることが我が国に国益保護の要諦だと信じているかのようである。愚かにも潜在的敵対者に徒に媚を売ることが、我が国益を守る所以だと錯覚している。このような政治姿勢を買弁的日和見主義者と言うのだ。お飯(マンマ)が鱈腹食えるならば、我が国を打ち滅ぼしたいと考えている敵対勢力の奴隷になっても、経済アニマルとして生存できれば本望だとする情けない精神の持ち主とでも言う可きか。だが、奴隷にされては、肝心の目的である経済アニマルとして生存し鱈腹お飯(マンマ)を食いたいという儚い願望も許し続けてもらえるのかどうか。その方面への配慮は、果たして如何なものだろうか、是非とも知りたい所である。

4 常識を疑うことから知的探求は始まる――歴史を知るとは

 バガボンドよ、君の言い掛かりは歴史論議ではなく、戦後の常識なり世論に忠実な立場からの単なる自己の狭い見解の独白に過ぎない。なぜならば、明治維新なり日露戦争なり日韓併合なりスターリンの対日戦略・東アジア戦略・世界戦略なり満洲事変なり幣原外交なり西安事件なり盧溝橋事件なり、その他諸々の叙述の論点に関して歴史の事実に基づく対抗解釈が全くないからである。政界筋の論議や朝日新聞的・NNK的なメディアの論調や共産支那政府・韓国政府の日本非難の議論を鸚鵡返しにするような全く独創性のない低い水準の発言である。ブログ愛好者のようだから、インターネットにおける上澄情報を聞き混ぜての浅薄な知識で、この世の中の森羅万象を理解したかのような気分に浸っているのではないか。  

 何故ならば、君は、6月15日の最初のコメントでこう反発を示した。「どんな屁理屈をつけようと、中国でその政府の許可なしに日本軍を好きなように展開した。いつの時代にもこんなことが正当化できるはずがない」と。これは如何にも幼稚で大人としては極めて異様な見解である。鈍すぎる歴史感覚と浅薄な歴史知識の持ち主であることの自白である。日露戦争後の大陸事情の変化に対応して日本軍は大陸の戦線に繰り出した。支那との抗争が遂には米英そしてソ連との戦争へと発展した。どうしてそうなってしまったのか、その事情を拙稿「昭和の戦争」は論述しているのだ。「中国でその政府の許可なしに日本軍を好きなように展開した」などと言う戯言が通用する平板で単純な政治・軍事状況では全くなかったと言うのに、何とも能天気な発言ではないか。

 20世紀に入って以降の我が日本周辺の事例だけでも、次のことが挙げられる。ロシア帝国の沿海州占領、満洲およびモンゴル侵略、英国の印度植民地化や支那大陸での諸利権獲得、ドイツ・フランスの植民地拡大と支那要所の租借権獲得、米国のハワイやフィリピン侵略、これら諸々の国家行為が何時どのようになされたか。その時、支那やフィリピンやベトナムやハワイの王様や政府はどう反応したのだ。日本が全く軍事行動に出なかったと仮定したとき、どのような東アジアの勢力地盤の変動が予想されるか。 

 また、現在只今でも、君の国際正義は国際政治の場で一般化しているのか。米国・イラク戦争において、アメリカはイラクのフセイン政権の「許可」を得てから軍事力を展開したのか。世界は広いので類似の事例を列挙すれば十数行を必要としよう。また、現在の時点で韓国の竹島占領、共産支那の尖閣列島地下資源発掘、ロシアの千島列島、樺太占領、みな日本政府に「許可」を得てからの行動か。君はどう考え、どう答えるのか。何時の時代にも普遍的に存在する国際政治の常識は、「弱肉強食」の論理なのである。

 それよりも何よりも、「昭和の戦争」の本質を尋ねる際には、それこそ気が遠くなるような膨大な史料の山がある。専門歴史研究者でない君でも、北京議定書なりポーツマス講和条約なり対華二十一カ条要求なりリットン調査団報告書なり塘湖停戦協定なりヤルタ協定なりポツダム宣言なり、「昭和の戦争」を少しでも考えたい者が是非目を通すべき最低限の基礎的史料を見なくてはならない。それらを真剣に熟読して、自分の頭で解釈し理解しなくてはならない。そんな営為に取り組んだことがあるのか。恐らくないであろう。歴史論争を挑むならば、歴史事実の取上げ方とその解釈の異同を以て厳しい批判や議論を構築されんことを望む。歴史を知るとは歴史の事実(史料批判が大事)を踏まえて自分の世界観・人間観を以て解釈を加えることである。

 なお、私の「昭和の戦争」概説には一箇所たりとも「大東亜戦争肯定論」の用語は出てこない。歴史の事実を精査すると、拙稿「昭和の戦争」のように叙述できると私は言ったまでである。思考の順序は、始めに肯定論ありきではない。私の拙い史的考察の結果は、かくの如くであり、それを第三者が「肯定論」だと評価するのは自由である。だが。君は、論述内容を理解しようともせずに、ただ独善的判断に問答無用とばかりに「大東亜戦争肯定論」は許せぬと叫喚する。それは批判ではなく、自己の見解が正しいと確信してそれを他人に無理矢理にでも押し付けたいとする妄言である。駄々っ子のような脆弱な精神から発せられた感情的で情緒的な言い掛かりではお話しにならない。歴史の事実に基づいた解釈問題を軽視するようでは、議論の余地は最初からありえないのである。

 要するに、私は我が国の歴史の尊厳と光輝ある国の在り方を復権したいと思っている。「敗戦国体制」と「敗戦国イデオロギー」を打破せずして、その目的を達成することは困難だと考えている。それに対してバガボンド、君は戦後の敗戦国体制と敗戦国イデオロギーを「保守」しようとしている。それでは日本民族の自立と尊厳の回復はありえないであろう。民族の異様な変質と衰亡を希求する「保守主義者」とは、語の矛盾であろう。亡国の思想を「保守本流」と自称する転倒した発想は、詭弁であり危険である。君に日本民族の将来を思う真心があるならば、以後倒錯した大言壮語は慎まれるよう切に希望する次第である。

 最後に、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセイの箴言を掲げよう。

 「現代の特徴は、凡俗な人間が自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする所にある。………大衆はあらゆる非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別な才能をもったもの、選ばれたものを巻き込んでいる。すべての人間と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険に曝されているのだ。だが、この『すべての人』が『すべての人』でないのは、明らかだ」(オルテガ『大衆の反逆』白水社版58頁)
                (了)

管理人からのお知らせ

 現在日録コメント欄は、一部議論がかみ合わない状態が続いています。

 これは、おそらく論述すべき内容が、一部人格攻撃になっていることなどに起因しているように思われます。

 事実、解釈、意見の相違はどのように発表なさってもかまいませんが、その目的が人格攻撃になってしまっては、感情的な行き違いが起きるもとです。

 そこで、今後このような不毛な行き違いを避けるために、投稿をする時のルールを設定します。

 基本的ルール
 ◎コメント欄の投稿において、事実は事実としてお互いの認識の違いを議論することは良いが、そのことから派生しやすいお互いの人格への言及、評価、形容などは極力避けること。

 ◎このルールに反していることに気がついた時点で管理人は警告を発し、投稿者も注意しあうこと。

 ◎再三の警告に従わない時、最終的に管理人が判定し、適当な期間、投稿を自粛していただきます。

このような方針で今後管理していきますので、宜しくお願いいたします。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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   占領時代の「閉ざされた言語空間」の中で交わされた、占領軍にだけ都合の良い限られた情報で充たされた戦争観は、占領期間、その後の自己検閲の長い期間を経てじっくりと刷り込まれたものであり、それは未だに残っている。そして今日でも容易には変えることが出来ない。それが総ての根源にあると考えます。

 幾つか具体例を拾って見ます。

<人種平等宣言>

 今日、人種平等は当たり前のことで、民主国家米国は南北戦争でこの問題を克服したというフィクションが存在しますが、ご存知の方も多いでしょうがそうではない。むしろこの点で日本が世界をリードしていたのです。それは占領時代に消し去られたことです。

 第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議で戦後の平和体制構築を目的に国際連盟の設立が討議されました。その際、日本は連盟規約に「人種平等」を入れることを提案します。然しこれは”米国のウィルソン大統領”が主導した反対運動で否決されてしまいました。

 第二次大戦で連合国側は大西洋憲章などで、自由、人権、民主主義、平等などを盛んに宣伝しますが、人権も自由も民主主義も、平等も白人のみを念頭に置いていたことはこの国際連盟規約への日本が提案した人種平等への拒否された状態が続いていたことからも明らかでした。

 然し、米占領下でこの様なことを一切報道や教育の場で語らせなかった。今日日本人の大部分は、ベルサイユ会議でこの様な理不尽な仕打ちを米国や欧州各国が行ったことも知りません。ですから、戦争前の世界が今と同じ人種平等の理念があったという錯覚で戦争を想像してしまいます。

 現在のアジア、アフリカの大部分は欧米の植民地であり、その根幹には抜きがたい人種差別という彼等の信念がありました。東南アジアもそうでした。日本が戦争に際して、大東亜の植民地解放を唱えた根拠には、それに先立つ22年前の第一次大戦後のベルサイユ会議での国際連盟人種平等規約提案があったのです。我々が小学校の頃は、占領中でありましたが、先生方の中にはそれを踏まえ、「アジアの植民地解放」が戦争目的の一つであったことを認識し、我々に教えてくれた人も居たわけです。然し、言論界、教育界ではそれが封殺されていた。それが、その間、その後の国際連盟での日本の「人種平等規約提案」も「アジアの植民地解放による大東亜共栄圏」も厳しいタブーとなったのでした。

 占領軍に言わば阿る、「日本は領土的野心を持ってアジアに攻め入り多大の迷惑をかけた侵略戦争を実施した」「”大東亜共栄圏”はそれを糊塗するものである」との刷り込みが数十年間行われたわけです。日本が戦時中、独立を与えたビルマも、ベトナム、ラオス、カンボジアも、終戦の2日後に日本の現地軍の密かな援助で独立宣言したインドネシアも、その後、再び旧植民地宗主国が支配を再開しようとし、内戦などを経てようやく独立を達成するわけです。そこには未だ旧植民地宗主国の強い「人種差別感」が残存していたことは、こりもせず植民地支配を復活しようとしたことからも明らかです。

 人種差別に関連し、カリフォルニアから全米に広がった、排日法についてもそんなことがあったことはプレス・コードで報道は厳しく禁止されましたし、学校教育で教えられることもありませんでした。ですから、戦争後のアメリカ人の態度と同じ態度が戦前にも日本、日本人に向けられたと受け取ることが広く深く浸透していきました。戦前のアメリカが如何に日本、日本人に酷い厳しさ、人種差別感で対応していたかなど今日の日本人には想像出来ないでしょう。

 米国の人権、自由、民主主義、平等などの普遍性についての対応は戦後の表面上の日米関係だけから観察して言えるものであり、戦前、日露戦争後からの長い日米関係史の中では決して全然異なったのです。「排日法」(絶対的排日法なる言い方もある)の存在と広がり自体がその証拠です。

<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の”しゃれこうべ”が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、”鬼畜米英”のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の”鬼畜米英”のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも”人道的な”米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に”鬼畜米英”と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。

<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

<ハル・ノート>

 昭和16年10月18日、東条内閣が成立し、日本は甲案乙案を軸に米国との関係打開を図りました。それは前の近衛内閣時代に実施した南部仏印進駐からの撤兵を条件に、米国の資産凍結、石油禁輸措置などの解除を求めるものでした。

 そんな中11月26日米国国務長官コーデル・ハルは野村吉三郎大使に所謂「ハル・ノート」を手交します。その内容の主なものは、日、米、英、蘭、重慶政府、タイ、ソ連との不可侵条約締結、日独伊三国同盟否認、南京(汪兆銘)政府否認、仏印からの全面撤兵、中国全土からの全面撤兵、その他でした。
占領期間中、これについての言及は一切禁止されていました。(日本の当局は戦時中もこれを公表していないと記憶します)

 これが、占領の初期に公表されていたら、昭和20年12月から占領軍がNHKと新聞を通じて、発表を強制した「太平洋戦争史」がそのまま日本人に受け入れられ、今日第部分の日本人が抱く戦争に対する認識とは違ったものとなっていたでしょう。

< 翼賛選挙と、斉藤隆夫>

 斉藤隆夫代議士は戦前軍部を激しく糾弾、所謂粛軍演説で軍のみならず、衆議院除名されます。現在の人名辞典などの説明では、彼の戦前戦中の活動はそこで終わり、その後敗戦と共に政治家として復活し、国務大臣になるというふうになっています。ところが、そうではない。

 戦争開始約半年後の昭和17年4月、所謂、”翼賛選挙”が行われました。そこで、斉藤隆夫は無所属で立候補、見事に当選しているのです。ですから、彼の議会活動は戦時中の続いていたことになります。これは戦前、戦中の時代を完璧な暗黒時代と表現しますが、その見方にやや疑問を呈せざるをえないことになります。斉藤藤隆夫も、それを取り巻く時代も「閉ざされた言語空間」以降に固まった固定観念とは随分違っていたのではないでしょうか。

<戦後教育>

 戦後教育では、戦前の日本の教育が、軍国主義の温床であったということで、教育基本法が定められました。学校では、憲法の「戦争の否定、戦力の否定、自衛権の否定」と同じ考え方で、個人も「暴力に否定、話し合いのみでの解決」が謳われました。問題はその後「いじめ」となって顕在化します。日本では”話し合い”が絶対ですから、その結果、暴力を振るう者が、それをやめない限り、優位に立ち、問題は解決せず、うやむやになってしまいます。その結果、暴力、いじめ、不正義がはびこることになります。暴力や不正を力で抑えることを教育が放棄していますから、学校はこれを隠蔽し、「いじめ」不正はエスカレートし発展し今日全く解決不能になっているのです。

 そもそも、教育の場、学校で正義を教えず、追求せずして、社会に正義が生まれ行渡るのでしょうか。学校が正義を教えず放置することを生徒に刷り込めば社会は必ず悪くなります。学校の存在意義は失われたのです。この隠蔽体質は学校から社会全体に広がってきています。これでは幾ら警官の数を増やしても犯罪はなくならないでしょう。

 米国に勤務していた折、娘が小学校で先生(女の先生でした)から教えられたことは、「いじめにあったら、敢然と戦え」ということでした。

 正義を教えない学校に意味はないことを、日本以外では教えており、戦前の日本でも教えていたことと同じだったのです。

 娘の小学校生活で判ったことは、米国の学校で教えていること、行われている教育の殆どは日本の戦前の小学校で行われていた教育と同じだったことです。少し考えれば、当たり前でしょう、明治維新以降日本は欧米の教育制度を輸入改良してきたのですから、その基本にそんなに差があるはずはなかったのです。然し、「閉ざされた言語空間」で外国と完全に遮断された日本では、占領政策を受けて知識人たちが戦前の日本の教育を「軍国主義教育」と決めつけ、欧米の教育が戦前の日本の教育と正反対のものであり、「個性を伸ばし、自由放任」との先鋭的な教育を押し広げたのです。

 北米で日本を見ていると義務や権利について日本の誤解があります。2年程前六本木ヒルズのビルの回転ドアに挟まれて6歳の子供が死亡しました。日本では、ビルのオーナーと回転ドアメーカーが責任を追及され親に慰謝料が払われ解決したそうです。日本では北米でもそのような解決がなされると受け取っているでしょう。然し、回転ドアの多い北米でそんな事故は聞きません。12歳以下の子供がその様な事故にあえば親が責任を追及されるからです。親は必死になって子供の手を握り、走らせないようにするからです。若し子供が回転ドアに挟まれて死ねば親は警察に捕まり、裁判にかけられます。子供の命の変わりに補償金を貰うなど、正に正反対です。

 こういったことも「閉ざされた言語空間」故に日本だけで起きる現象でしょう。子供の人権とは親に守る責任が科せられるのです。

 国旗、国歌を教えることは米国の小学校では当たり前のことですし、カナダなどではそんなことに加え、暫く前には映画官でも上映前に全員起立国歌「オーカナダ」を歌ったそうです。

 要は、日本は戦前学校で欧米と同じことを教えていたのですが、米国占領軍により、先ず「閉ざされた言語空間」が構築され、欧米と全く違う教育空間、教育内容にされてしまったのです。

 何でそうしたか、それは、米国が日本を自分達と同じ様な国にしておくことを許さないと決意していたからです。何故そうか、それは次に述べることになりますが、米国は米国に対抗する強国を常に排除し自国の安全を図ることを国是としてきています。そのことを忘れてはなりません。

 正に小泉少尉が言ったように「アメリカはあらゆる悪辣な手段を使って日本を骨抜きにした」のです。
この米国の戦後の言論検閲統制は凄まじいものであり、仄聞する所では、戦後米占領軍は、「焚書」さえ実施したそうであり、実に7000余点の書籍が図書館、出版社から抹殺されたと言います。この分野の研究は今の日本が描いている、戦前の日本、戦後の日本の歴史を大きく改めるものとなるでしょう。その成果を待ちたいと思います。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(一)

お 知 ら せ

 私が8月15日千代田区立内幸町ホールで行なった約2時間の講演は、『正論』10月号(9月1日発売号)に掲載されます。

 題して――
  安倍氏よ、「小泉」にならないで欲しい
――これからの日米間の落し穴を直視できるか――

 全体の約三分の二が収録されました。〆切り日が近づいて、目次予定がほゞ定まっている時期に、40枚の分量をのせるスペースをあえて作った編集部の英断に感謝します。

 9月1日以後に、コメント欄はこの講演録を取り上げ、論じ合って下さることをお願いします。

西尾

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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 文春新書「あの戦争に何故負けたのか」はある意味で米国が待ち望んいた本かも知れません。

 独立戦争、南北戦争、メキシコからのテキサス独立と併合、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアまでの広い領土の併合、そしてハワイと和親条約締結を結び半世紀後に併合、米西戦争ではフィリピン併合。この一連の歴史には随分酷いことが行われていますが、米国はそれを削除し、自らの歴史を正義と栄光の、物語として描いています。
 
 ところが、「あの戦争に何故負けたか」は1941年12月8日から1945年8月15日までの日米戦争を、米国について殆んど、批判も言及することもなく終える本であり、そんな本が日本側から出版されたのですから、彼等にとっては願ってもないことだったでしょう。
 
 「あの戦争に何故負けたのか」は不思議な本です。それは、何故戦争が起きたのかについての分析らしいものが「三国同盟」を挙げる程度で全く抜け落ちているからです。第一、戦争というものが複数の国によって行われるものであり乍ら、日本以外の国、特に日本の主要敵国であったアメリカの政策、意図、行動についての分析言及が皆無に等しいのです。そして何よりも不思議なことは、それが、現在の「言語空間」(後述)の中でのみ議論されていることです。この本の中で個々の戦闘についての議論が精緻になればなる程、以上の奇妙な点、即ち重要な点の欠落が浮彫りにされるのです。尚この「言語空間」と言う言葉は後程説明しますが、「あの戦争」の評価にとって最重要な言葉になります。

1.小泉少尉の警告
 阿川弘之氏の代表作の一つ「春の城」(昭和28年発表)の中に、印象的な場面があります。それは戦争末期の漢口(中国)。アメリカの大学留学中に日米開戦となり、交換船で帰国、海軍入りしてきた小泉少尉が主人公の小畑中尉(阿川氏自身をモデルとしている)に語る、次の言葉です。

 「アメリカが妥協的な動きを示すなんて思ったら、とんでもない間違いだと思うんです」

 また、特攻隊の志願者の募集があったらどう対するかに小畑中尉が

 「私は開戦の時、この戦争になら命を投げ出せると思ったんだ、そして今でも勝つ為にーー勝てなくても出来るだけ日本に有利な道を拓く為に働きたいという気がするんだけど、募られて特攻隊の志願が出来るかと云うと、正直に云ってひどく迷うだろうな。何とか偽善的な理屈を並べて、遁れようとするかも知れない」と述べるのに対して、小泉少尉はこう答えます。

 「そうですか。私はいくなあ。行けますよ。アメリカは必ずあらゆる悪どい手段で徹底的にやってくると思うんだ。日本はアメリカに占領されたら完全に骨抜きにされますよ。それを守る為なら行けるじゃないですか」

 この文章は阿川氏の当時の気持ちと会話内容てあったと考えます。戦争後8年間の世の激変の中で阿川氏自身の考えは変ったのかも知れませんが、戦時中の氏自身の気持ちと、小泉少尉のモデルとなった戦友の言葉はそのまま再現していると信じられます。

 阿川弘之とはそういう作家です。阿川氏は志賀直哉最後の弟子として神の如く尊敬し傾倒し、志賀直哉の最期を見守った。阿川弘之はその伝記「志賀直哉」を執筆しています。そこでは、自身があれ程尊敬傾倒した志賀直哉を、ここまで書くのかと思う程、不都合な事もそのまま記しているのです。

 志賀直哉に対してまで「事実」については筆を緩めなかった阿川氏であることを考えれば、この「春の城」では、小説家志望の文学青年で戦争、陸軍を嫌悪していた小畑中尉(阿川氏自身)が「この戦争には自分の命を投げ出せると思った」と書き、憧れの米国留学中に帰国し海軍に入り、「アメリカはいいですよ」と時に語る小泉少尉が 「戦争に負けたらアメリカはあらゆる悪辣な手段で日本を必ず骨抜きにする。それをさせないために求められれば自分は特攻に参加する」と答えたと記しているのは大変重みのあることなのです。

 然し、今日、戦争前、戦時中の若者がそんな気持ちであったということは「春の城」以外では目に触れることは皆無に等しい。これは一体どうしたことなのでしょうか。

 戦争が終わって間もなく昭和23年に小学校に入学した私の記憶では、小学校時代の担任の先生は折に触れ、「今日、我々がこうして平和で暮らせるのも、アジアの国々が独立出来たのも、戦争で亡くなられた兵隊さん達のおかげだ。終戦のご決断を下された天皇陛下のおかげである」と話してくれた記憶があります。

 それが、長い時間を経ていつの間にか、あの戦争で亡くなった方々は「国のために命を捧げた、アジアの植民地独立の為に亡くなった」と語られることがなくなり、「”心ならずも”命を失った」と語られる様になってしまいました。そして、あの戦争は、避けることが(簡単に)出来たのに、愚かな指導者達がそれを怠り、無謀、無益に仕掛けてしまった戦争であった。国民誰もが心の中で反対だったのに、愚かな指導者が、嫌がる国民を引きずり込んだ戦争であり、アジアの国々(当時植民地で国ではなかった)を巻き込み迷惑をかけた戦争であった。と語られるようになり、指導者によっては、「アジアに対する侵略戦争であった」とまで唱えるよになっています。本当に今語られていることが事実だったのか。「春の城」で描かれた日本人は存在していなかったのか。それを解き明かすことこそ「あの戦争の原因」「あの戦争に何故負けたのか」を解く鍵になると考えます。

2.江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」
 昭和54年9月から昭和55年7月まで、文芸評論家の故江藤淳氏は米国ワシントン市にあるメリーランド大学付属図書館プランゲ文庫で、戦後占領時代、アメリカ占領軍が日本で実施した言論検閲と統制に関する資料の調査研究に当っていました。それは、米占領軍が日本で行った検閲書き込み入り、付箋つきの原稿や書信の類との出会いの日々であり、発行停止となった多くの原稿そのままを目の当たりに調査したものでした。

 この調査、研究の結果は氏の著作「落ち葉の掃き寄せ」「1946年憲法」「忘れたことと忘れさせられたこと」「閉ざされた言語空間」に収められてます。

 そこには、正に「春の城」で小泉少尉が「アメリカは凡ゆる手段を使って、必ず日本を完全に骨抜きにする」と警告したそのことが起きていたことが実証されたのであり、今更ながら「春の城」に驚嘆させざるをえないのです。

 それは江藤氏が調査、研究するまで戦後実に30年以上も日本人に知られることもなかったことにアメリカという国の恐ろしさを感じない訳にはいきません。

 ここで、戦争直後の出来事を吉川弘文館の年表などを参考に拾ってみます。

(昭和20年)
11月:サイクロトロンの破壊命令、航空に関する研究の禁止
12月:占領軍の命令により、新聞各紙「太平洋戦争史」の連載を開始
   :占領軍の命令によるNHK放送番組「真相はこうだ」の放送開始
   ::占領軍「大東亜戦争」の呼称を禁止
   ::占領軍覚書「国家神道に対する政府の後援、統制、普及の廃止
(昭和21年)
1月19日:連合軍最高司令官による特別宣言書に基づく裁判所条例に基づく極東国際軍事裁判の設置を定める(その根拠はポツダム宣言にあるとされた)
 2月:公職追放例
3月6日:幣原内閣、GHQの憲法草案を「日本政府独自」の憲法として公表
5月3日:極東軍事裁判開廷
11月:当用漢字1850字、新仮名遣い決定
12月:6334制教育体制発表
(昭和22年)
1月:皇室典範・皇室経済法
2月:教育基本法、学校教育法公布
4月:6334制実施

 以上の年表には、米国占領軍による言論検閲、統制についての記載は全く記載されていません。それは後述の米占領軍による言論検閲、統制で最も秘密とされた検閲、統制による禁止秘匿事項であったからでしょう。

 さて、ポツダム宣言は確かに厳しいものが含まれていました。然しどんな法理論解釈からも、それは、占領軍が以上実施した宗教、教育制度、国語政策にまで手を加える権限、などはどこにも含まれていません。まして、言論、出版に検閲統制を加え、日本と日本人を、江藤淳氏の言う「閉ざされた言語空間」に封殺する権限など与えられる筈もありませんし。そんな大それたことは日本人の想像外だったのです。

 ちなみに、以下にご説明しますが、米占領軍は、言論検閲、統制により日本と日本人を完全に孤立させ、世界との間の情報を遮断し、日本人自身の思考を閉じ込めた状態とし、米占領軍の言論検閲、統制の支配、管理下におきました。その状態を江藤淳氏は「閉ざされた言語空間」と呼称したわけです。

 この言論検閲、統制は巧妙を極めたものでした。その構想の大きさが、先ず「日本と日本人を外部世界の情報と完全に遮断する」という桁はずれの構想から始められたのです。例えば、日本のそれまでの教育は、「軍国主義的教育」或は「遅れた教育」とされましたが、米国や欧州の教育の実際の姿は日本人の間から完全に封鎖されていました。だから、日本人はそれを信じる外はなかった。特に当時は進歩的インテリは「アメリカでは」を口癖に占領政策を推進していましたから、だれもが「アメリカではそうだ。そうに違いない」と信じたわけです。後述しますがそれは殆んどが嘘といってよいものであり、その影響は今日でも尾を引いています。(因みに30年前のカナダの小学校では鞭を持って教壇に上がる先生もいたとのことです。)

 又、戦後既に米ソ対立、東西冷戦は次第に熾烈になっていましたが、それを論ずる報道は禁止されていました。

 昭和26年日本はサンフランシスコ講和会議で独立を認められ、翌年の昭和27年4月に発効しますが、当時の南原東大総長をはじめとする学者、言論界、左派社会党などは全面講和論を唱え、サンフランシスコ講和条約に反対しました。東西冷戦の真っ只中、全面講和など現実性皆無であった筈ですが、その様な反対論が一部とは言え支持されたのは、この様な「閉ざされた言語空間」が原因であったと思われます。

 もう少しその巧妙な言論検閲統制を見てみます。

 米占領軍は、言論検閲、統制を30ケ条のプレス・コードにより実施したと、江藤淳氏は著書「閉ざされた言語空間」で述べています。その根幹にあるものは、言論検閲、統制が実施されている事実の徹底的隠蔽でした。

 それに次いで、憲法の制定に占領軍が関与したことへの言及、極東軍事裁判批判、更に日本、枢軸国以外の総ての国に不利な言論、東西冷戦について論ずること、占領軍の日本人女性との交渉についての言及、闇市言及、それら総てが禁止され、最後には「解禁されていない情報の報道」が禁止され、つまり総べての言論が米占領軍により恣意的に統制される体制が出来ていたのです。

 再度申し上げますが、この様な言論検閲は勿論日本が受諾したポツダム宣言の如何なる条項にも一切含まれていません。そんなことが実施されているとは大部分の日本人は知らなかったし、今でも知らない人が圧倒多数だと思われます。。

 こうして、米国占領軍は日本及び日本人総てを丁度、蟻をガラス箱の中に閉じ込めて飼育、観察、管理するような環境を完成させたのです。これが「閉ざされた言語空間」であった訳です。

 こういう「言語空間」の影響は想像以上です。人はその認識の殆んど総てを、実地体験ではなく、他からの情報で入手します。それが占領軍に6年半恣意的に管理統制支配されていた、ガラス箱の蟻の状態であったわけです。

 人間の考え、記憶は意外に脆いものです。

 江藤氏は上記米国での調査中、保管されていた検閲された資料を調査していたのですが、その中に、占領時代に書かれた河盛好蔵氏のエッセイも含まれていました。それは、殆んど戦前戦中の軍国主義への反省で綴られたものですが、ほんの一寸(多分大恐慌以降のブロック経済で日本を排除したことを念頭に置いたのでしょう)米英が日本に経済的な点で配慮があったならとのほんの僅かな箇所が原因で発表が差し止められたらしいのです。江藤氏は早速河盛氏に照会しますが、河盛氏から「全く記憶にない」旨の返事であったとのことです。戦後の激変の中で、河盛氏の占領軍の検閲との戦いの記憶は全く失われていたわけですし、氏の思想にも変化が生じていたのかもしれません。

 人の記憶や、考え方はかくも移ろい易い脆いものらしい。

 吉田満氏の「戦艦大和の最期」の一番初めに書かれた文章は発行禁止になり、吉田満氏は何とか出版許可を得ようと求め、何度も書き直し、とうとう出版にこぎつけます。然し出版され現在も書店に並んでいる「戦艦大和の最期」は最初に書かれたものとは全く異なるものとなっていました。江藤淳氏は吉田氏自身の保持していた精神的なものもいつの間にか、失われたとしていますが、読み比べてみれば誰でもそれはが点が行きます。敢えて個人的な感想を述べれば、一番最初の「戦艦大和の最後」には「春の城」の香りが強く漂っていますが、許可を受けて世に出たものにはその香りは皆無となっています。

 米占領軍、米国が残したものは斯くも徹底した厳しいものでした。

 更に占領中期になると、占領軍は狡猾にも検閲方法を「事前検閲」から「事後検閲」に変えます。これで報道機関、出版社は自ら事前に自己検閲して、事後検閲で引っかかり、膨大な損失が出ないようにする。自己検閲の効果は、占領軍が行っていた事前検閲よりも厳しいものになりがちであったらしい。これは占領が終わった後も日本の言論出版界に定着存続していると江藤氏は述べています。

 先に述べましたが、占領期間中の小学校の担任の先生の戦死者への追悼と今日の首相の追悼の言葉は全く似て非なるものであり、それがむしろ占領が終わってからの長い時間に刷り込まれたことに注目せざるを得ません。

つづく

大地の咆哮(杉本信行著、PHP社刊)について

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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 8月10日の朝日新聞朝刊を見て、はっとしました。ほんの数時間前に読了したばかりの掲題著者杉本信行氏が亡くなられたことが書かれていたからです。

 死因が「末期肺癌」であったことは「中国の環境汚染はそこまできていたのか」とショックを受けましたし、なによりも、この訃報で、地位あるエリート外交官がここまで踏み込んで中国の恐るべき真実に踏みこんだ背景がはっきりと理解できました。

 杉本信行氏は外交官上級試験に合格し73年に外務省入省、74年に未だ文革中の中国の北京、瀋陽で語学研修を受けました。その後、合間に、ベルギー、台湾などの勤務を交え、北京大使館には、若き日一等書記官として、更に80年代には公使として勤務、昨年まで上海総領事を勤め、合計14年の中国生活の後、去る8月3日に亡くなられたのです。

 繰り返しますが、病名は「末期肺癌」でした。

 「大地の咆哮」は従来の日本の外交官は勿論、中国専門家も書くことを躊躇するようなリアルな中国の実情を記したものです。

 北京オリンピックが迫ると言うのに、恐るべき水不足の進行とそれに対する無策。およそ近代とは思えない中世以前を思わせる、農民に対する制度上、実質両面の酷い差別。医療、失業、老後などに対するセーフティーネットの崩壊。見かけは華々しいが、中身はメチャクチャで何時崩壊してもおかしくない経済。社会正義など存在しない、不公正、不公平そのままの物凄い貧富の格差。荒れたままで政府の援助が殆んどない放置されっぱなしの義務教育の現状、遅れ。官僚の腐敗と汚職。・・・

 中国の実態は、不公平、不公正、不正義が蔓延し、何が起きてもおかしくない緊迫した酷さであることが赤裸々に描かれています。要は「弱きを助け強きを挫く正義の味方」であるはずの共産党、共産主義社会が今や「弱きを挫き、強きを助け、”不正義”の味方「”逆”鞍馬天狗」の跋扈する世を作り出している。そして中華人共和国なる国家は、今や、解放軍、武装警察、警察による力で辛くも維持されている状態であることが示されているのです。

 更に、日本の援助に対する中国側の対応の酷さ。台湾問題に対する中国、日本の無理解。靖国問題。などなどまで杉本氏の筆は及んでいます。

 その視点も従来の外務官僚に見られない国益への強い姿勢が窺えます。

 その原動力は何か。今となって判るのは、中国経験者、特に外務省故の制約からくる行動と言論の限界へのフラストレーション、更に現役時代に味わった数々の苦渋、就中、部下であった上海総領事館の職員の自殺事件を巡る中国側との口に出来ない数々の事柄、組織の一員としての悩みなど、直接蒙った打撃への歯軋りする思いなどがこの本に込められている筈です。

 然し、死期迫る闘病生活の中で、杉本氏は全を書き切ることは出来ませんでした。

 先ず、杉本氏は自分を殺したものが中国、即ち恐るべき中国の環境汚染であることを書く暇がありませんでした。(仄聞するところでは、90年代後半某邦銀の北京支店長夫人が肺癌で死亡、次の支店長本人も肺癌で死亡ししたとのことです。)日本のメディアは報じていませんが、中国の環境汚染はエリート外交官の命を奪うほどのレベルにきているらしいのです。

 汚染ワースト世界10大都市の中で中国当局によれば5都市が、又国際機関によれば7都市が中国の都市だそうです。環境モデル都市の北京でさえ04年10月に予定されていたフランス航空ショーを大気汚染の観点で中止しなければなりませんでした。上海の街を走る100万台の自動車の70%は最も古い欧州の排ガス規制を満足していないそうです。石炭の出す亜硫酸ガスが原因の酸性雨は黒土の1/4、農地の1/3を汚染し、日本の酸性雨の50%は中国から来ています。黄砂には、大気中に浮遊している鉛、マグネシウム、ダイオキシンが含まれています。

 実際、僅か1週間前に会った上海で事業を営む関係者は私の顔を見て開口一番「上海の空気汚染は酷くなりすぎている」と話しかけてきました。

 環境汚染だけではありません。日本の企業が投資行動自体も問われるようになってきている。

 農村から出稼ぎで来る労働者の労働条件の酷さを杉本氏は本の中で世銀の前総裁から、「10年間労働者の待遇は変っていないが、これは外資による搾取ではないか」と言われたと書いています。USCC(米-中国経済安全保障レビュー委員会)の8月3日と4日の公聴会で、アフリカ問題の専門学者から、アフリカの工業化で初期産業にある繊維工業が中国の低賃金労働ダンピングで立ち行かなくなっていると証言しています。中国が東南アジアなどで展開している自由貿易圏構築の動きはただでさえ貧困にあえぐ自国農民に大打撃を与えています。

 こんな状態を放置して、日本を含む各国の経済人、組合指導者、農業関係者、そして政治家が許されるものなのでしょうか。

 杉本氏が全然触れていない問題に、中国の大量破壊兵器(WMD)・運搬手段(DS)の拡散問題があります。中国の国有企業は、テロ支援国家、懸念国家へ過去十数年に亘りWMD・DSを輸出し、米国はそれに制裁を加えてきています。この問題についての言及もないまま杉本氏は亡くなりました。これは十数年に亘る問題ですが、日本のメディアは保守系の雑誌を含めて取り上げたことがない。二言目には「唯一の被爆国」であることを強調する日本のメディアが触れない理由は何か大いなる疑問です。

 アセアン地域において中国と日本の地位に大きな変動が見られることも杉本氏は触れていません。中国がアセアン各国と着々と17億の共同自由貿易市場構築のステップを進めつつあること。03年10月に中国はアセアンと友好協力協定を結んだこと。04年にはアセアン各国を招いて安全保障フォーラムを北京で開いたこと。人間衛星神舟の打ち上げ成功を利用してアセアンに共同宇宙開発を提案していることなど、日本のプレゼンスが最もあった地域アセアンでの日本外交の明らかな敗退については一言も触れられていないのです。以上触れられていないことは彼が知らなかったのか、そうでなく知ってはいたが書かなかったのかは不明ですが、是非知りたい点です。

 「大地の咆哮」の初版が発売されたのは杉本氏が亡くなる1ヶ月前の7月7日でした。7月5日には北朝鮮による7発のミサイル発射実験が行われ、これに対して日本外交は、珍しい程鮮やかに、北朝鮮に万景峰号の入港を禁止し、国連安保理で北朝鮮への制裁決議を提出し、中国の行動を完全に封殺、押し捲り、中国、ロシアを含めた北朝鮮非難の全会一致決議を成立させました。

 この日本の珍しく鮮やかな行動は、中国についての十分な分析なくしては不可能であったと思われます。多分、それへの貢献が杉本氏の生前の最後の仕事だったのではないでしょうか。

 杉本氏のような優秀で、国益に忠実な外交官は多い筈です。又中国問題について、多くの優秀な人材を日本も抱えている筈です。然し今回のような外交上の一時的成功は個人の力に頼るべきものではありません。

 日本の積年の問題は、有為な人材や資源を動員し、国全体の能力を極大化させるシステムが存在していないことです。その存在が、相手を知り自らを知る為の必要な第一歩であるし、失敗を避け国の安全と繁栄のための基盤ではないでしょうか。

 最後に、杉本氏のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。