シンポジウムの発言は一人約6分、それを三回に分けて語ったので、自由討論は成り立たなかった。時間が少なく討論にはならないと私はいち早く見て、三回で全体がまとまるような話の展開にした。以下に私の発言部分だけを(二)から(七)で掲示したい。
尚シンポジウムは全文が『月刊日本』に掲載されると聞いている。
(二)
西尾幹二 昭和42年―43年当時、『論争ジャーナル』という月刊誌があり、ここを據点に保守系論客が結集していました。当時はまだ『諸君!』も『正論』もなく、『自由』とこの雑誌だけでした。
その11月号で福田恆存氏が三島由紀夫氏との対談で、西欧の王室と天皇とを比較してこんなことを言っています。
「エリザベス女王はカンタベリー大僧正によって戴冠式を行なふ。ちやんと二つに分けてある。ところが、天皇は自分で自分に戴冠しなければならない。」
すると三島さんが
「それは日本の天皇の一番つらいところだよ。同時に神権政治と王権政治が一つのものになってゐるといふ形態を守るには、天皇は現代社会で人より一番つらいことをしなければならない。それを覚悟していただかなければならない。といふのが僕の天皇論だよ。皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを僕は非常に言ひたいことです。」
こう述べる三島さんに対して、福田恆存氏が、 「今の皇太子には無理ですよ。天皇も生物学などやるべきぢやないですよ。」
三島氏が続けて 「やるべきぢやないよ。あんなものは」福田恆存氏が 「生物学など、下賎な者のやることですよ。政治家がさういふ風にしちやつたんだけど」
三島さん 「ただ、お祭りなんだ。天皇は、お祭りなんだ」
ここで天皇というのは昭和天皇、皇太子は今上陛下です。
こういう対話が、昭和42年(1967)年の『論争ジャーナル』で行われた。当時この雑誌には村松剛氏、日沼倫太郎氏、高坂正堯氏、遠藤周作氏、佐伯彰一氏などが、多く寄稿しまして、私も一番若い世代として参加しておりました。
当時の『論争ジャーナル』は、精神的に「楯の会」の母体のような位置にあり、そこで活躍していた人々の、私は最後の残党でございます。
ここまでは本当は何を二人が言っているのかよく分からないのですが、こんな風な、活発な、赤裸々な対話が昭和42年の11月号に載っております。
そこで福田恆存氏が、次のようにかなり手厳しいことをおっしゃっている。
「僕にとって、問題なのは、エゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムといふのは、ときには国家の名において押さへなければならない。それなら、国家のエゴイズムといふのは何によつて押さへるかといふと、この原理は、天皇制によつては出てこないだらう。日本の国家のエゴイズムを押えへるといふことは、天皇制から出てこない。僕は、天皇制を否定するんぢやなくて、天皇制ともう一つ併存するなにかがなくちやいけない。絶対天皇制といふのは、どうもまずいんだ。(中略)天皇制の必要と、それを超える――これは優位といふ意味ぢやなくて――他の原理を立てなければならない・・・・・・」
これは、三島さんの当時の生き方に対する、ある種のアンチテーゼとしておっしゃっている言葉だと、私は思います。つまり、国家のエゴイズムと個人のエゴイズムと、エゴイズムは両方にあるけれども、個人のエゴイズムを超えている国家というものがあって、国家がこれを抑えることはできるけれども、国家のエゴイズムは国家では超えられないと。
私が、ここからすぐに思いついたことは、次のようなことです。
ドイツ人、フランス人、イギリス人は自らのドイツ人であることを、フランス人であることをイギリス人であることを何とか超えることができるんです。それは、ヨーロッパというものがあるからです。だけれども、日本人は日本人であることを超えることができるか、日本の外に枠があるか。いうことは、永遠の課題として我々は考えなくてはならない。
ここで、そういう問題が一つ突きつけられているということをまず意識していただきたい。これに対して三島さんが、どんなことをおっしゃったかというのが大変面白いのであります。
「僕はその問題はかういふやうに考へてゐる。つまり、僕の言つてゐる天皇制といふのは、幻の南朝に忠勤を勵んでゐるので、いまの北朝ぢやないと言つたんだ。戦争が終つたと同時に北朝になつちやつた。僕は幻の南朝に忠義を尽くしてゐるので、幻の南朝とは何ぞやといふと、人にいはせれば、美的天皇制だ。戦前の八紘一宇の天皇制とは違ふ。
それは何かといふと、没我の精神で、僕にとつては、国家的エゴイズムを掣肘するファクターだ。現在は、個人的エゴイズムの原理で国民全体が動いてゐるときに、つまり、反エゴイズムの代表として皇室はなすべきことがあるんぢやないかといふ考へですね。そして皇室はつらいだらうが、自己犠牲の見本を示すべきだ。そのためには、今の天皇にもつともつと、お勤めなさることがあるんぢやないか。
そして、天皇といふのは、アンティ(反)なんだよ。今我々の持つてゐる心理に対するアンティ。我々の持つてゐる道徳に対するアンティ。さういつたものを天皇は代表していなければならないから、それがつまりバランスの中心になる力だといふんです。国民のエゴイズムがぐつと前に出れば、それを規制する一番の根本のファクターが、天皇だね。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。
その僕の考へが、既成右翼と違ふところだと思ふのは、天皇をあらゆる社会構造から抜き取つてしまふんです」
ここまで読んでもやっぱり難しい、なんか分りにくいことをお二人でおっしゃっておるんですが、福田さんには、国境の観念がある、一方三島さんには、国境の観念が希薄なんじゃないか。これ、国家概念とはいわないですよ。国家観の有無じゃないですよ。国境の観念の有無と言いたいんですよ。