足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取
8月10日の朝日新聞朝刊を見て、はっとしました。ほんの数時間前に読了したばかりの掲題著者杉本信行氏が亡くなられたことが書かれていたからです。死因が「末期肺癌」であったことは「中国の環境汚染はそこまできていたのか」とショックを受けましたし、なによりも、この訃報で、地位あるエリート外交官がここまで踏み込んで中国の恐るべき真実に踏みこんだ背景がはっきりと理解できました。
杉本信行氏は外交官上級試験に合格し73年に外務省入省、74年に未だ文革中の中国の北京、瀋陽で語学研修を受けました。その後、合間に、ベルギー、台湾などの勤務を交え、北京大使館には、若き日一等書記官として、更に80年代には公使として勤務、昨年まで上海総領事を勤め、合計14年の中国生活の後、去る8月3日に亡くなられたのです。
繰り返しますが、病名は「末期肺癌」でした。
「大地の咆哮」は従来の日本の外交官は勿論、中国専門家も書くことを躊躇するようなリアルな中国の実情を記したものです。
北京オリンピックが迫ると言うのに、恐るべき水不足の進行とそれに対する無策。およそ近代とは思えない中世以前を思わせる、農民に対する制度上、実質両面の酷い差別。医療、失業、老後などに対するセーフティーネットの崩壊。見かけは華々しいが、中身はメチャクチャで何時崩壊してもおかしくない経済。社会正義など存在しない、不公正、不公平そのままの物凄い貧富の格差。荒れたままで政府の援助が殆んどない放置されっぱなしの義務教育の現状、遅れ。官僚の腐敗と汚職。・・・
中国の実態は、不公平、不公正、不正義が蔓延し、何が起きてもおかしくない緊迫した酷さであることが赤裸々に描かれています。要は「弱きを助け強きを挫く正義の味方」であるはずの共産党、共産主義社会が今や「弱きを挫き、強きを助け、”不正義”の味方「”逆”鞍馬天狗」の跋扈する世を作り出している。そして中華人共和国なる国家は、今や、解放軍、武装警察、警察による力で辛くも維持されている状態であることが示されているのです。
更に、日本の援助に対する中国側の対応の酷さ。台湾問題に対する中国、日本の無理解。靖国問題。などなどまで杉本氏の筆は及んでいます。
その視点も従来の外務官僚に見られない国益への強い姿勢が窺えます。
その原動力は何か。今となって判るのは、中国経験者、特に外務省故の制約からくる行動と言論の限界へのフラストレーション、更に現役時代に味わった数々の苦渋、就中、部下であった上海総領事館の職員の自殺事件を巡る中国側との口に出来ない数々の事柄、組織の一員としての悩みなど、直接蒙った打撃への歯軋りする思いなどがこの本に込められている筈です。
然し、死期迫る闘病生活の中で、杉本氏は全を書き切ることは出来ませんでした。
先ず、杉本氏は自分を殺したものが中国、即ち恐るべき中国の環境汚染であることを書く暇がありませんでした。(仄聞するところでは、90年代後半某邦銀の北京支店長夫人が肺癌で死亡、次の支店長本人も肺癌で死亡ししたとのことです。)日本のメディアは報じていませんが、中国の環境汚染はエリート外交官の命を奪うほどのレベルにきているらしいのです。
汚染ワースト世界10大都市の中で中国当局によれば5都市が、又国際機関によれば7都市が中国の都市だそうです。環境モデル都市の北京でさえ04年10月に予定されていたフランス航空ショーを大気汚染の観点で中止しなければなりませんでした。上海の街を走る100万台の自動車の70%は最も古い欧州の排ガス規制を満足していないそうです。石炭の出す亜硫酸ガスが原因の酸性雨は黒土の1/4、農地の1/3を汚染し、日本の酸性雨の50%は中国から来ています。黄砂には、大気中に浮遊している鉛、マグネシウム、ダイオキシンが含まれています。
実際、僅か1週間前に会った上海で事業を営む関係者は私の顔を見て開口一番「上海の空気汚染は酷くなりすぎている」と話しかけてきました。
環境汚染だけではありません。日本の企業が投資行動自体も問われるようになってきている。
農村から出稼ぎで来る労働者の労働条件の酷さを杉本氏は本の中で世銀の前総裁から、「10年間労働者の待遇は変っていないが、これは外資による搾取ではないか」と言われたと書いています。USCC(米-中国経済安全保障レビュー委員会)の8月3日と4日の公聴会で、アフリカ問題の専門学者から、アフリカの工業化で初期産業にある繊維工業が中国の低賃金労働ダンピングで立ち行かなくなっていると証言しています。中国が東南アジアなどで展開している自由貿易圏構築の動きはただでさえ貧困にあえぐ自国農民に大打撃を与えています。
こんな状態を放置して、日本を含む各国の経済人、組合指導者、農業関係者、そして政治家が許されるものなのでしょうか。
杉本氏が全然触れていない問題に、中国の大量破壊兵器(WMD)・運搬手段(DS)の拡散問題があります。中国の国有企業は、テロ支援国家、懸念国家へ過去十数年に亘りWMD・DSを輸出し、米国はそれに制裁を加えてきています。この問題についての言及もないまま杉本氏は亡くなりました。これは十数年に亘る問題ですが、日本のメディアは保守系の雑誌を含めて取り上げたことがない。二言目には「唯一の被爆国」であることを強調する日本のメディアが触れない理由は何か大いなる疑問です。
アセアン地域において中国と日本の地位に大きな変動が見られることも杉本氏は触れていません。中国がアセアン各国と着々と17億の共同自由貿易市場構築のステップを進めつつあること。03年10月に中国はアセアンと友好協力協定を結んだこと。04年にはアセアン各国を招いて安全保障フォーラムを北京で開いたこと。人間衛星神舟の打ち上げ成功を利用してアセアンに共同宇宙開発を提案していることなど、日本のプレゼンスが最もあった地域アセアンでの日本外交の明らかな敗退については一言も触れられていないのです。以上触れられていないことは彼が知らなかったのか、そうでなく知ってはいたが書かなかったのかは不明ですが、是非知りたい点です。
「大地の咆哮」の初版が発売されたのは杉本氏が亡くなる1ヶ月前の7月7日でした。7月5日には北朝鮮による7発のミサイル発射実験が行われ、これに対して日本外交は、珍しい程鮮やかに、北朝鮮に万景峰号の入港を禁止し、国連安保理で北朝鮮への制裁決議を提出し、中国の行動を完全に封殺、押し捲り、中国、ロシアを含めた北朝鮮非難の全会一致決議を成立させました。
この日本の珍しく鮮やかな行動は、中国についての十分な分析なくしては不可能であったと思われます。多分、それへの貢献が杉本氏の生前の最後の仕事だったのではないでしょうか。
杉本氏のような優秀で、国益に忠実な外交官は多い筈です。又中国問題について、多くの優秀な人材を日本も抱えている筈です。然し今回のような外交上の一時的成功は個人の力に頼るべきものではありません。
日本の積年の問題は、有為な人材や資源を動員し、国全体の能力を極大化させるシステムが存在していないことです。その存在が、相手を知り自らを知る為の必要な第一歩であるし、失敗を避け国の安全と繁栄のための基盤ではないでしょうか。
最後に、杉本氏のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。