非公開:私のうけた戦後教育(四)

続・民主教育の矛盾と欠陥

 知育偏重とよく言われるが、けっしてそういう事実はないのである。これは大学だけではない。中学や高校の教科内容においても大学と同様、知識の過剰が教育を歪めているのではなく、制度や組織、あるいは方法や動機の方に問題があるのである。

 六三三制の採用は12才から18才までを二分し、二度の受験によって生活から落ち着きや持続性を奪うという弊害があり、そしてこれは事実なのだが、受験のための詰め込み勉強そのことが悪いのではない。試験の内容や方法がいかにも悪い。私自身の経験からも言えることだが、○×式・穴うめ式試験方法は、大量の受験生をさばくために公平を期すという機能面にとらわれすぎて、大事なことが見失われているように思える。

 自分の言葉で自分の思考を発展させて行く前に、他人の言葉で自分の思考が規定されてしまうのである。しまいには他人の言葉がなければ思考できず、他人の言葉を符牒のように受けとって一定の条件反射を繰返す型の知能を生み出す。競争が激化すればするほど試験の《形式》に自己を適応させて行くのが受験生の習性である。

 今日行なわれている試験は、思考能力を問うているというより、その適応能力を問うているといった方が正しい。問題を正直に考え過ぎる人間はかえって損をする。果たしてどの程度のことが問われているのか、などと予め出題の動機まで見抜いてかからなければ答えられないような問題さえなかにはある。

 こうした出題がなされているかぎり試験競争はたしかに有害であるし、これはぜひとも至急改めてもらわなければならない。最大の教育問題の一つなのである。しかし、競争そのことが有害なのではけっしてない。これはいくら激化しても憂うる心配はなに一つない。一部の民主教育理論家が言うように、試験によって人間の能力を判定している社会の価値観は人格に差をつけようとする思想の反映である、などという理屈は成立たない。

 逆に民主主義がすすみ、既成の価値観が壊滅し、人間が平均化すればするほど、エリート養成法として最も安易で人工的な「試験」への要求度は高まるだろう。どんな社会にもエリートは存在するし、また必要とされる。問題は、教育の機会均等という美名の下に戦後20年正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことの方にある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。

 知識習得への情熱は、本来無償の情熱である。それは真理への情熱だと言ってもいい。権力への情熱でもないし、世に言う教養のためでもない。が、今日ほどこういう言葉が迂遠に響く時代もないだろう。今日夥しい数の受験生を支えている衝動は一体何か。知識欲だとはお世辞にも言えまい。快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲――要するに自己逃避へ欲求以外の何物でもない。しかもこの逃避に負けず自己と戦う受験という試練に耐え抜かねばならないのである。これは明かに矛盾である。

 一年乃至数年の熾烈な禁欲に耐える予備校の浪人達こそ、教育とは自己教育であるという教育精神の真諦をいわば体得した人達であり、現代日本で教育を受ける苦しみとそして喜びとを知り得た数少ない例外者達だが、奇怪なことに、彼らの教育へ真の情熱は、将来の生活保証という、まことに見窄らしい思想によってしか支えられていないのである。かつて維新の開国期に「緒方塾」に参集した福沢諭吉ら青年壮士を支えたような情熱はむろんどこにもない。逃避のあるところにしか教育がない――これが戦後教育の反語的現実である。

 好むと好まざるとにかかわらず、これは私達の現実である。そうはっきり認めたうえで、私はすべてを善しとするつもりはない。これが事実であることをどこまでも誤魔化さずに見抜いておくことが現代の教育論議の前提だというのである。私はそう悟った上ですべてを悪とみる。受験生に理想がないからではない。今日の日本に、あるいは近代文明そのもののなかに、どんな理想も存在しないし、存在したところで、それは結局作り物の合言葉で終るしかないように思えるからである。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:私のうけた戦後教育(三)

民主教育の矛盾と欠陥

 知識教育がその後全国的にいっせいに再開されたということは、戦後の民主教育の根本的な矛盾と欠陥が克服されたことを意味しはしない。じつはそこに問題があるように思える。教育に民主主義という抽象理念をもちこんで、その純粋培養をはかろうとすることの愚さがひろく認識されたことの結果ではけっしてない。受験という否応のない現実に強いられ、仕方なく理念を修正し、頭の中の抽象的夢想を一時保留しておかなければならないと、やむなく教育者が妥協した結果でしかないように思える。私が受けた教育経験だからそう言うのではない。最近ある進歩的教育集会に出席してみて、しみじみそう感じた。

 受験競争は社会の現実が生み出した一つの「必要」であって、善し悪しは別としても、そこには実体がある。が、教育者はそういう事実を認めることをつねに避けようとする。現実に耐えることから出発しようとする姿勢がまったくない。ただただ現実を「悪」として否定し、自分の仲間うちだけ通じる符牒のような言葉で、あるべき教育の姿を論じて夢想にふけっている。そして二言目には受験が教育を歪めているという。裏返せば、受験という強制の枠を外されれば、明日にでも民主主義という名の「道徳教育」の実践に乗り出し、子供を意識的・人為的・目的的な教育観の道具に化そうというのであろう。彼らがそういう目論見を意識しているというのではない。無意識ではあるが、というより無意識であることこそ、結果がこわいのである。

 多少皮肉な言い方をすれば、受験競争、出世競争があるからこそ教育は今日辛うじて教育らしい格好を保っているのではないか。教育の情熱が生きているのは、予備校だけではないか。それ以外のところでは、できれば子供を少しでも甘やかして育てたいという善意の倒錯があるだけだ。教育などはじつはどこにもありはしない。必要十分な知識を学ぼうとする激しい情熱、悪意や怨みをかってでもそれを教え込もうとする厳しい熱情――そういうものの生きていないところでは、教育そのものが成り立たないのだ。

 もし道徳教育というものが行なわれるとすれば、それは知識や技術を伝達していくその形式、態度、方法によって表現され、その厳しい習得過程のうちに自ずと形づくられるものなのである。けっして特定の「徳目」によってではない。かつて人文主義的な教育理想が追求されていたドイツのギムナジウムで、ギリシャ語やラテン語の詩句の暗記などがいかに厳格に行なわれ、そういう味けない作業を通じて西欧の伝統的な詩型と韻律への感受性、古代への愛情とその理想主義への畏敬の心が、いかに効果的に培われたかを考えれば、知識を軽視し、抽象理念を振り廻すといったようなことが、教育の自己破壊であることは自明の理であろう。

 にもかかわらず、毎年三月が来るたびに中学・高校の予備校化が新聞の話題になり、教育を歪める知育偏重の声が叫ばれる。知育偏重そのものはけっして悪いことだとは私には思えない。それどころか今日の教育の現状から考えれば、知識と技術の伝達はまだまだ足りないのだ。私自身甘やかされた教育課程を歩まされてきたお陰で、自分の中にたえず基礎的な知識や技術上の訓練の不足を感じている。私は勿論過去の教育内容に責任を転嫁しようなどと思ってはいない。

 が、ときにはなぜもっと漢文などを自由に読める下地を与えておいてくれなかったか、なぜ大学の教養課程でラテン語やギリシア語の少くとも一方を必須科目にしておいてくれなかったか、などという弱音を吐くときもないではない。そういう不満は私ばかりではない。

 戦後教育をうけてきた者が戦前の人達にもし劣っている点があるとすれば、この基礎的な訓練であって、例えば漢語造形能力、古文に親しむ習慣。ドイツ語ひとつを例にとっても、旧制高校では一週13時間あったものが、今日では4時間しかない。そしてなんら統一のない雑多な諸科学の詰め合わせセットを教養と称し、「幅広い教養人の養成」というまたしても抽象的・目的的な見取図によって、一番大事な時期に多大の時間を分散させ、二年きざみの学制によって自己集中の機会を逸している。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:私のうけた戦後教育(二)

直輸入教育の犠牲者として

 私達がうけた正規の授業は、大部分グループ教育、サークル教育の形式をとった。あるとき一学期全部を「アメリカ研究」というテーマに費やしたことがある。これは「総合教育」の成果として市の進駐軍から称賛されたばかりでなく、担任の先生はPTAの席上父兄を前に得意の一弁説をふるったという。私は県の教育関係者や県内各地の小中学の先生たちがさかんに私達のところへ視察と参観に来たことを覚えている。

 その経過を振返ってみたい。私達はまずアメリカ研究の方法について、相談役である先生の意見を参考にしつつクラス討論を行なった。実際はともかく、一応形は生徒の自主性で事を進めるという建前がとられていたのだ。それから各班がアメリカの工業、アメリカの地理、アメリカの家庭生活、アメリカの歴史といった研究グループにそれぞれ分れた。まるでクラブ活動みたいなものだ。時間割がないのだから、毎日がこの「社会科」である。国語などは、一ヶ月に一回ぐらいしかない。日本の地理や歴史は全然習わなかった。

 私が属したのは「アメリカの地理」というグループである。そこで何をやったか。私はことさらに誇張して言っているのではない。正規の授業時間中に私は何度も粘土や絵具を買いに町に出かけ(時間の利用は生徒の自由に任されている)、社会科教室約半分の大きさに北米大陸の模型を作り、粘土のロッキー山脈に色を塗り、紙で作ったニュー・ヨークや各都市の間に電気機関車を走らせる。要するに遊びである。遊びたい盛りの年頃にはこれほど楽しい学校はないわけだ。

 が、先生に言わせれば、地理を学びながら同時に図工を学ぶという総合教育の成果を上げ得たことになるらしい。また一つの研究目的に力を合わせることで民主的な共同精神が養われるという。それは知識教育では得られない貴重な生きた教育だという。三ヵ月後に各班が作ったグラフや模型を材料にして、研究成果(?)を発表し合ったが、参考書の丸写しにすぎない内容を読み上げることが、自分の意見を堂々と発表できる自主的な子供を育てるためだと説明された。

 まったくお笑いである。

 しかし、いまだから笑ってすまされるが、私達はていのいいモルモットであっただけでなく、じつは深刻な犠牲者でもあったのだ。学力の低下は著しく、私はこの二年間に手ひどい被害をこうむった。見るに見かねた両親が中学三年の始めにこの学校から私を退学させ、東京の普通中学に移したとき、二年間の空白は深刻な形で私を襲った。

 当時すでに東京では受験競争が始まっていたのである。私は温室のなかの民主主義から現実にほうり出されたほどの衝撃をうけた。アメリカ式新教育の途方もない誤解形式は、東京ではすでにある程度は是正されていたのかもしれない。受験準備の慌しい知識教育が今ほどではないが、可也り熱心にすすめられていた。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:私の29歳の評論と72歳のその朗読

 「花田紀凱ザ・インタビュー」というテレビ番組の再放送が本日23日(日)の午後7:00から8:00の時間帯にあり、私が出演します。

 TOKYO MXテレビ14の放送で、普通テレビ受像機では9チャンネルです。東京以外に電波がうまく届くのかどうか私は知らないのです。

 新聞をみると、少し羞しいのですが、「ザ・インタビュー(再)『これから成すべきこと』72歳論壇の雄・西尾幹二が明かす今後の計画」と書かれています。

 私が一般地上波テレビに出演することは滅多にないので、私の残りの人生の抱負を語る番組としてあえておしらせしておきます。この中で私は29歳のときに書いた大江健三郎批判の評論の一部を朗読しています。

 1965年(昭和40年)の『自由』7月号の「私のうけた戦後教育」からの朗読です。この評論は単行本に未収録で、今まで世にまったく知られていません。

 私の新人賞論文がのったのは同誌の2月号で、「私のうけた戦後教育」は二作目でした。大江健三郎は昭和33年に芥川賞を受賞し、小説の他に『厳粛なる綱渡り』というエッセー集を出していて、それを私が批判しました。今なら大江健三郎への批判は珍しくありませんが、当時はだれもまだ思いつきません。彼はほめちぎられていました。

 以下に全文を掲示します。大江への言及は終結部分に出てきます。

私のうけた戦後教育(一)

「民主教育」という愚かしく、腹立たしい体験から私は何を得たか。あるべき教育を訴える

 新制中学での体験

 私は戦前の教育を知らない。

 私のうけた教育は大半が戦後教育である。大半と言ったのは初等教育の最初の三年半が戦時中であったからで、私は「国民学校」に入学し、「尋常小学校」を卒業した年代に属するからである。中学は、「新制中学」であった。まだ戦禍の跡も生々しく残る昭和23年、私は疎開していた水戸市の茨城師範附属中学に入学し、二年後東京に戻ったが、その二年間に私が附属の教育をうけたということは、いまいろいろな意味で回顧に値することのように思える。

 戦争直後、アメリカ式コア・カリキュラムや民主教育の呼び声が怒濤のように流れ込んできたとき、鋭敏に反応し、まっ先にそれを受け入れたのが附属の教育である。学校全体がいわば新教育の実験場であった。附属というようなところには必らずといっていいほど熱心すぎる先生、教育理念にとり憑かれたような先生がいるものだが、私の担任もそんな一人だった。

 当時は社会風俗もひどく混乱していた時代だ。新教育のいき過ぎは社会の安定に伴いその後かなり是正されていったであろうから、以下の報告はいまではほとんど信じてもらえそうもない昔物語かもしれない。しかし、戦後の民主教育がたどった諸傾向のある意味における原初形態が、このとき私が体験したもののうちにあったことだけは認めてもよいだろう。

 教室における机の配置。通例の形式をとらず、三人づつ向い合う六人一組のグループ(男女各三)を八組ぐらい編成し、教室内に適当な間隔をあけて配置する。黒板に背中を向ける生徒もいるわけだ。教壇は取り払われ、先生の机は窓ぎわに移された。私達の学校は陸軍歩兵隊の兵舎跡を使っていたので部屋数にはかなりゆとりがあり、廊下をはさんだ向い側に、私達のクラスはもう一つの空き部屋「社会科教室」を与えられていた。

 特定の学科をのぞいて一切の時間割が廃止された。いま正確には記憶していないのだが、数学、理科、音楽の三科目をのぞく残りのすべての学科を総称して「社会科」とよんでいたように思う。たんに歴史や地理だけではない。国語も英語も体育も図工も社会科のうちの一部門にすぎなかったのだ。各科目を有機的に連関して教えてこそ生きた教育ができる、ということだったらしい。が、時間割というものがないのだから、クラス討論会のようなもので午後一杯をつぶすこともあれば、全然英語の授業のない週が二、三週間つづいたりする。

 要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行なわれていたのである。

 生徒の自主性を育てること、単なる知能教育を排して総合教育を行なうこと――これは当時さかんに言われていた「理念」であった。

 平等ということも新しい教育標識の一つであった。まず生徒同志の平等、次いで先生と生徒の人格的対等という関係。優等制度は廃止され、学年末には皆勤賞と努力賞だけが与えられた。先生が任命する級長はなくなり、生徒の互選する委員長が生まれた。先生は教えるのではなく生徒と共に考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。生徒の犯した罪は叱るのではなく、生徒の立場に立って理解するのである。

 どうもそういうことだったらしい。終始先生は私達の考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行なったが、子供の確乎とした考えがあるわけではなく、私達は教師の暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。どうもそんな気がする。

 私は子供心にも終始はぐらかされているような不快感をかんじていたことだけを、いまはっきり記憶しているからである。先生は私達子供を一人前の大人のように扱うことによって、師弟の対等な人格関係という民主教育の理想を体現しているという自己錯覚に陥っていたのではないか。先生の理想のために、子供の私達は利用されていたにすぎない。私達はけっして一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。しかも材料として操られていたのは子供達だけではない。先生もまた民主教育という観念に操られていた犠牲者の一人なのである。

 一般に大人が意図するところを子供に気づかせずに、意図した結果だけを子供に信じさせようとしてもそれは無理な話である。子供はそんなに単純ではない。いや、ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能なことかもしれない。しかし、大人が大人らしくなく振舞えば、それが何を意図するのかは分らないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。

 そこには不自然さがある。というより、嘘がある。新教育に熱心な先生に私がたえず感じていた子供心の反撥心は、そこになにか嘘があるという説明のできない不信感であった。先生が先生らしくなく振舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解のある態度を見せ、まるで友達同志のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。そこには非人間的な関係、抽象的な人間関係しかないのだ。

 あるとき私は、先生をしている友人に右のような話をしたところ、そういう弊害が起るのは日本の民主主義がまだ完成していないからだ、と言われたことがある。何という観念的な考え方だろう。民主主義が完成しようがしまいが、大人の心、子供の心に変りがあり得ようはずがない。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく