「英米は常に対立していた」(福井)
「英に変わってスペインにとどめを刺した」(西尾)福井 『天皇と原爆』でこう書かれています。「アメリカはイギリスから独立したのですから、『兄弟国家』ではあります。しかし独立戦争で激しく衝突しイギリスを痛めつけていましたので『敵対国家』でもあります。イギリスは大英帝国といわれたくらいですからその力は強大でした。そのイギリスを少しずつ押さえ込み、倒さない限り、アメリカは大をなす時代は来ません。二十世紀史の最も重要なモチーフだったと考えられます。ペリーの来航もイギリスとの競争を考えてのことだったと思います」(四二〜四三ページ)
要は、アメリカとイギリスは敵対していたということですね。日本では保守派の間でも、英米をセットで考えている人がいますが、実はそれは違う。英米は常に対立していたし、アメリカは最終的にイギリスを追い落とそうとしていた。それが分からなければ、第二次世界大戦における、ルーズベルトのチャーチルに対する異常に冷たい態度は理解できないわけですよね。ここは、重要な指摘じゃないかと思いました。
西尾 優しかったはずのアメリカの対日態度が一九〇七年ぐらいから突然、変わって、日本は説明のできないアメリカの変貌、未知の国の国家意志の壁にぶつかる。アメリカの政策がぐるぐる変わって理不尽になり、日本は戸惑ってその真意が分からなくなるという局面を迎えます。
これは何でしょう。一八九八年の米西戦争でアメリカはスペインを倒しました。何世紀にもわたったスペインとの対立にイギリスはとどめを刺す力がなくて、結局はアメリカがそれを成し遂げた。これが西太平洋からイギリスの艦隊が静かに撤退し始め、覇権がアメリカへ移動していく第一幕になった。そうして、太平洋がスペインの海からアメリカの海になることによって、日米の対立構造が産声を上げます。その後一九〇四~〇六年に日露戦争がある。そして一九〇七年に、日本に対するアメリカの態度が豹変する。この背景にイギリスとアメリカの力関係もあるのではないかと考えています。
「『正義が受けて立つ』スタイル貫く」(福井)
「なぜアメリカのやり方を見抜けなかったか」(西尾)福井 『天皇と原爆』四六ページには、こう書かれています。 「一八九八年二月、キューバのハバナ港に碇泊していたアメリカ戦艦メーン号が爆破され沈没し、二百六十人の乗組員が死亡しました。アメリカはキューバ内戦の鎮圧を口じつにスペインに宣戦布告しました。この沈没事件はアメリカの謀略によるものだという説が燻っています。(真珠湾攻撃もルーズベルトの謀略に乗せられた、という説がそれなりに有力になるのはアメリカ史にこういう背景があるからなんです)」 これについては、当時の標語が「リメンバー・ザ・メーン」だったわけですよね。しかし、今では内部爆発説がほぼ確定しています。つまり、メーン号の爆沈にスペインは関係なかったということです。
西尾 アメリカの自作自演ですか。
福井 アメリカが意図的に爆発させたのか、あるいは偶発的事故で爆発したのか確定されていないと思いますが、とにかく爆発は船の内側から起きていて、スペインが外側から爆発させたということはあり得ないと考えられています。 この「相手に先に手を出させる」というのは、リンカーンの北軍も同じことをしています。南軍が先に手を出さざるを得ないような状況に南部諸州を追い込んだ。アメリカは常に「やむをえず正義が受けて立つ」というスタイルを貫いてきたわけです。 第一次世界大戦でも、一九一五年にイギリス客船のルシタニア号がドイツの「Uボート」に撃沈され、アメリカ人を含め、女性と子供が多数死んだことがその後のアメリカ参戦のきっかけとなりました。実はルシタニア号は事前にイギリス海軍から武力抵抗を命じられており、しかも弾薬を積んでいましたから、撃沈は国際法上、必ずしも違法だったとはいえません。しかし、「敵はひどいやつだから、アメリカは受けて立つ」というプロパガンダを繰り広げた。アメリカは常にそのパターンで戦争を始めていて、日米開戦もその構図にあてはまっている。
西尾 アメリカ通であった山本五十六に、なぜそれが見抜けなかったのか。情けない話ですね。
福井 それと、英米不可分論というのが日本にもあったわけですが、じつは不可分ではなくて可分だったわけです。
西尾 そうです。少なくとも一九三八(昭和十三)年ぐらいまでは可分でしたね。
福井 イギリスやオランダが植民地としている南方の石油を求めるというだけであれば、アメリカを攻める必要はなかったわけですよね。
西尾 そうです。だから、私が研究している思想家の仲小路彰は、日本海軍の末次信正大将と、富岡定俊大佐らとタイアップして海軍をインド洋に動かし、中東で南下してくるドイツ軍と連携して、イギリスを倒して、そしてアメリカのソ連援助をそこで封鎖するという計画を考案していました。そうすれば、ドイツも助かるし、アメリカも日本と戦争をする根拠を失うと考えた。英米は別と見なしていたからです。日本の大本営も考えていた作戦で、作戦名もあった。ところが、突如として真珠湾攻撃を実施する計画になってしまった。このあたりの経緯が分かりませんが、山本五十六の勇み足ではないですか。
福井 アメリカの世論は、イギリスを支援することはよいけれども、参戦には反対するという声が圧倒的で、アメリカから日本に宣戦布告をすることは政治的にはおそらく不可能でした。それがなぜ、日本人には分からなかったのか。
西尾 ハル・ノートを通告されても、その内容をアメリカのマスコミに暴露させる手もあったとよく言われていますよね。
福井 のらりくらりとかわせばよかった。ハル・ノートで日本の撤退を求めた「中国」には満洲が含まれるのかどうか議論して時間稼ぎをするという手もあったはずです。それは日本人の性には合わないということでしょうか。
西尾 できなかったんでしょう。石油の残量を考えて、いま開戦しなければ勝ち目はないと焦ってもいましたね。いずれにせよ、真珠湾攻撃後にアメリカで言われた「リメンバー・パールハーバー」という言葉は、「リメンバー・ザ・メーン」という言葉が以前にあったから、容易に流布したということですね。
福井 そうだと思います。
『正論』12月号より つづく
カテゴリー: 対談
「アメリカ観の新しい展開」(四)
「『ワン・ワールド』の理想を信じ切る」(福井)
「きれいごとを言いながら遠隔操作」(西尾)西尾 この点は大きな考え方の分かれ目になるところでもありますね。いまのお話でも日本人、中国人、フィリピン人をなんら区別せず、虫けらのように考えていたということになりますからね。たしかに東海岸の帝国主義者たち…。
福井 アメリカ帝国主義者です。
西尾 彼らが歴代の大統領でもあり、アメリカの主流を成していて今のネオコンにもつながる人たちですけれども、彼らは、イギリスの植民地主義に対してネガティブだったのではないですか?
福井 ネガティブです。
西尾 アメリカは開国のときからイギリスに対抗心があり、しかしイギリスを模範にもしていて、イギリスつぶしの動機が常にありながら弱い小国の時代にはイギリスの尻尾を追って利益を得ていました。そして最後はイギリスを抱き込むように手を結びますよね。
福井 はい。ただし、あくまでも一時的方便としてです。世界は一つで、世界中にアメリカン・デモクラシーを普及しなければならない、植民地として支配されるような民族があってはいけないということが、彼らの理想なんです。
西尾 そうだ。アメリカが一貫して言う、いわゆる「きれいごと」ですね。一八九九年に国務長官のジョン・ヘイが出した中国に関する「門戸開放・機会均等・領土保全」の三原則、一九一八年にウィルソン大統領が出した十四カ条のヴェルサイユ条項、それから一九四一年のチャーチル=ルーズベルト洋上会談の大西洋憲章と、アメリカは三度にわたって植民地を否定する宣言を世界に出しましたが、これは「きれいごと」に過ぎず、実は秘かなイギリスつぶしの作戦だっただろうという気もしています。
福井 そうです。だからアメリカは基本的に勢力均衡を認めません。1940年の大統領選挙で共和党候補でありながら、現職のルーズベルトとほとんど同じ主張を繰り広げ、大戦中はその特使として活躍したウェンデル・ウィルキーの大ベストセラーの題名が『ワン・ワールド』。アメリカは植民地主義や帝国主義から解放された「ひとつの世界」を実現する使命を帯びているのです。
西尾 要するに、各国が同盟を結んでその相互の均衡で平和を保つという第一次世界大戦までのヨーロッパのやり方を否定して、国際連盟をつくるというのは、自分がその主人公になるという発想でしたからね。世界政府志向ですよね。
福井 そうです。「きれいごと」ではありますが、彼らはそれを信じ切っている。信じ切っているからこそ強いと思うんですね。単なる建前であれば、あれだけの力は出ないでしょう。
西尾 自分の善を信じ切っている。信仰だからです。それだからこそ困る、厄介なんだ。宗教的信条なんです。彼らが、その「きれいごと」を言い続けてこられたのは、まず資源が豊富であり、人口が過剰ではなく、むしろ移民を必要とする国であること。そして下層労働力を国内に抱えているので、過剰な領土の獲得意欲に駆り立てられることもない。だから中国に進出しようとしたときも、中国を割拠しかけていた各国の動きを、むしろ不便だと感じていて、手出しをしないでしばらく様子を見て、それから干渉して中国分割を止めさせようとした。そして、金融支配を通じ丸ごと中国を遠隔操作で支配しようとしたわけです。
その遠隔操作の手段の一つはドルです。他国に対するドルによる遠隔操作が可能になったのは、実際には第二次大戦後だと思いますが、早い時期にそういう志向性を示していた。ペリーの来航から十九世紀にかけての時代は、暴力的なことをアジア・アフリカ諸国でやっているイギリスの後ろにくっついて、自分は手を汚さず、しかし同じ条約をきっちりと結んで利益だけは得ていた。
開国期の日本では、それがオルコック(イギリスの駐日総領事・公使)とハリス(アメリカの駐日公使)の対立になって現れます。オルコックはイギリス流で日本に厳しいことをガンガン突きつけたのに対し、ハリスは優しくソフトな物言いで、しかもいかにも日本のためになるようなことばかりを言っていた。
『正論』12月号より つづく
「アメリカ観の新しい展開」(三)
人種問題は日米開戦の要因か
西尾 今年、『日米開戦の人種的側面、アメリカの反省1944』(草思社、原題は「人種偏見、日系アメリカ人、アメリカの人種的不寛容のシンボル」)という翻訳本が出されました。カレイ・マックウィリアムスというアメリカ人が、一九四四年に出版した本です。訳者は、最近、アメリカに関する大著を書き続けている渡辺惣樹さんです。
この本は、一九〇〇年にカリフォルニアと日本との間に戦争が始まり、それが拡大して国家間の戦争になった、人種偏見こそが日米開戦の根本的モチーフであるという主旨で書かれています。おもしろいのは、カリフォルニアにたくさん集まっていたアイルランド系の労働者、アイルランド系移民がイギリスを憎んでいたが故に、日英同盟は彼らには大きな衝撃となり、しかも日本がその同盟関係を利用して日露戦争に勝ったことから、抑えることのできない反日感情がわき起こったという分析の展開です。日英同盟とその後の歴史に対するこの感情は、私見ではオーストラリア人の反日感情の由来とそっくり同じですが、それがカリフォルニアにおける日系移民排斥の悲劇、さらには一九二四年の排日移民法につながったということを同書はつぶさに検証しています。
当時の日系移民排斥の動きは、一九一〇年代、二〇年代に南部諸州がこぞってカリフォルニアを応援し、司法までが彼らに味方をしたために激しくなった経緯が詳述されています。さらに訳者の渡辺氏は、「まえがき」でこう書いています。「排日移民法は日本が関東大震災(一九二三年九月一日)の惨禍に喘いでいる最中に成立している。それでも日本の政治家は、外交的妥協を通じて軍縮の道を選んだのである。しかし軍部はロンドン軍縮会議の妥協(大型巡洋艦対米比率六割二厘、当初要求七割)が許せなかった。統帥権干犯問題を持ち出して軍部が強硬な姿勢に変容していくのはこの頃である。
多くの史家が、この時代に日本が誤りを犯したと解釈する。あの暗い昭和の一時期を、あたかも日本という国が、その体内から発生した『遺伝性の癌』に冒された時代であるかのように分析する。統帥権干犯問題は大日本帝国憲法の欠陥に起因するとの分析は、筋のよい歴史解釈となる。しかし、マックウィリアムスが本書で描いている、カリフォルニア州における白人の反日本人の態度と、それに対する日本のリーダーや知識人、そして一般の人々の激しい反発のさまをバランスよく読み解いていけば、そうした史家が描き出す『悪性の癌』は本当に遺伝性だったのだろうかとの疑念が生じる。むしろ、白人種の激しい日本人差別という外部的刺激に起因した『ビールス性の癌』に冒されたのではないかと疑わせる」と。
つまり、日本では、戦争の原因を国内だけでほじくり返す論争が言論界に蔓延っているけれども、そんな話ではないのではないかという異議を提示しているわけです。カリフォルニアで生起した排日の動きは、日本人にとってはいかんともしがたい話で、しかもカリフォルニアは石油産出「国」で日本のエネルギー資源の生命線を握っていた。
渡辺氏は、さらにオックスフォード大学のヨルグ・フリードリッヒ博士の分析も紹介しています。日本が満洲事変を引き起こした究極の目標は、自給可能な経済ブロックを作り上げることにあったが、満洲を選んだのは失敗であった。なぜなら食糧や石炭、鉄鉱石などの資源は豊かだったが、石油はなかったからで、かえって当時の圧倒的な石油産出国であるアメリカへの依存度を高めてしまった。そして「日本の行動を容認するわけではないが」と但し書きをしながらも、「石油禁輸を受けた日本には、ボルネオやスマトラの石油を略取する方法しか残されていなかった」としています。
いずれにしても、すでに戦争中の一九四四年にこういう研究をして著述した人がアメリカの中にいた、というのがおもしろいし、立派だと思います。それはアメリカの懐の広さだけれども、同時に非常に多様な人種がいる国だから、いろいろな考え方があるということですね。
福井 はい。ただ、当時のカリフォルニアでは現実に日系人がいて、現地の白人の労働者との対立は激しかったと思いますが、全般的には、日米戦争を主導した人たちは東部のインターナショナリストであって、「人種差別は良くない」と主張していた人たちなんですね。
西尾 ときのセオドア・ルーズベルト大統領はカリフォルニアの「バカ者」どもを抑えたがっていました。
福井 はい。当時、東部のエスタブリッシュメントの人たちは、じつはかなり反英でもありました。イギリス帝国主義の植民地支配は望ましくないと考えていた。人種的偏見が強いとは言えないと思います。
アメリカの移民政策は、一九二四年の移民法の改正、いわゆる排日移民法でほぼ骨格が固まりましたが。第一次世界大戦でイギリスに騙されたのだから、アメリカはアメリカだけでいこうという孤立主義の流れが強くあって、むしろ連邦政府、東部エスタブリッシュメントは移民法改正を抑えにかかったんですが、議会が法案を通してしまった。
ですから、むしろ移民法を通した人たちは、日本と戦争をしたいと思っていなかったのではないか。考えようによっては、日本人と中国人のような野蛮人同士で争っていようが、アメリカは関係ないという発想だってあり得るわけです。
実は米西戦争のときもまったく同じ議論があって、戦争の結果、アメリカはフィリピンを領有しますが、「そんなことをすれば非文明人を抱えることになるからフィリピンなど要らない」という意見も有力だったのです。ですから、私は人種的偏見と日米戦争は、それほど強い因果関係はないのではないかと考えています。
『正論』12月号より つづく
「アメリカ観の新しい展開」(二)
「お節介ではた迷惑なアメリカの使命感」(西尾)
西尾 二〇〇一年の同時多発テロ後には、アメリカに住んでいる中東系の人たちの収容も検討されました。実現する可能性はほとんどなかったでしょうが、これは第二次大戦時の日本人収容と同じ発想であって、日本人収容への反省は何であったのかと疑わせる動きでした。
福井 あの中東系の人たちの収容計画は、このオールド・ライトの系譜を引くパレオコンサバティブの人たちが厳しく批判しました。「ネオコンサバティブは何も歴史から学んでいないのか」と。いまのご発言を聞き、オールド・ライトと先生の発想は非常に近いという気が改めてしますね。もう一つ、西尾先生は『天皇と原爆』で、アメリカを対日独戦へ駆り立てた「宗教的な動機」を強調されています。日本の保守派の間でも「何を言っているの」という反応もあったようですが、これも実はアメリカでは昔から言われていることです。
代表的な文献は、アーネスト・リー・トゥーヴェソンという宗教思想史家の『リディーマー・ネイション(Redeemer Nation、救済する国家)』です。アメリカの対外政策史は、「リデンプション・オブ・ザ・ワールド(redemption of the world)」、つまり世界を救済するというミッション、使命感に強く支えられてきた歴史であるということが書かれています。この本はシカゴ大学出版局から一九六八年に刊行され、八〇年に「ミッドウェー・リプリント」として再刊されています。古典という評価が定まったということでしょう。トゥーヴェソンは生涯独身で自宅もマイカーも持たない隠遁者のような人生を送る一方、学界で高く評価されていた碩学です。
西尾 詳しく説明していただけますか。
福井 アメリカで支配的な一部プロテスタントの神学は、カトリックなどと違って神の国と地上の国を区別しません。地上で「千年王国を実現する」という強い志向がある。そして、その使命を帯びているのがアメリカであり、アメリカの対外政策は強くその志向に支配されているという内容です。西尾先生が指摘された戦争に対する「宗教的な動機」は、アメリカの学界エスタブリッシュメントの間でも常識の範囲内の議論であるということです。
西尾 日本にとっては、そういうアメリカ人の使命感は、余計なお節介あるいは、はた迷惑だというのが私の感想です。
福井 『救済する国家』自体は学術書で、価値中立的なスタイルで書かれていますが、オールド・ライトは、そうした使命感は間違いだと強く主張しています。アメリカの保守というのは伝統的には反戦です。よその国のことは基本的にどうでもよい、というのが原則的な姿勢です。
西尾 アメリカとは、リンカーンの時代から、そうした使命感を持った国であったということですよね。
福井 その通りです。
『正論』12月号より つづく
「アメリカ観の新しい展開」(一)
いま『正論』で三回連載の対談でアメリカ観の新機軸をお目にかけている。対談の相手は青山学院大学教授の福井義高さんで、専門は会計学、畑違いと思うかもしれないが、彼の独自のアメリカ観に魅かれて、話し合おうということになり、この試みが始まった。迚も新鮮である。私は毎回刺激を受けているし、私も新しいことが話せるようになって楽しい。
今回は三回達成のうちの第一回、12月号をお目にかける。とにかく福井さんの知見は素晴らしい。いま私の周りには、私より若い、有力な研究者や論客が多方面から続々と集まって来ている。これはありがたいことである。対応に忙しくても老いてなお負けないつもりだし、私の関心はますます盛んである。
本から学ぶだけではなく、人から学ぶことも大切なのである。小さく縮こまってしまってはいけない。何にでも自分をオープンにして、激しく変化している世界の情報に身をさらさなければいけない。つねにそう思っている。
この対談は拙著『天皇と原爆』に対する福井さんの関心と論評が起点になっている。三ヶ月以上かかるが、とびとびに全対談をご紹介する。
アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか 上
「世界救済」国家論とオールド・ライトの思想
アメリカの戦意を知らなければ、あの戦争は 理解できない。
大東亜戦争研究の新たな地平
評論家●にしお・かんじ 西尾 幹二 青山学院大学教授●ふくい・よしたか 福井 義高「ルーズベルトの対日独戦決意は常識」(福井)
編集部 大東亜戦争の評価をめぐって、戦後、左翼反日陣営と保守陣営の争いが続いてきました。そして90年代、いわゆる「従軍慰安婦」問題や「南京大虐殺」が中学校の教科書にも掲載されるに至って、西尾先生たちは教科書正常化運動に立ち上がり、「日本はアジアで残虐非道なことをしてきた」という左翼陣営の歴史観に基づく記述の訂正を求めてこられた。
世紀が変わり、西尾先生たちの主張はある程度浸透しましたが、他方で、新しい反日的、自虐的な歴史観が台頭してきました。「日本は残虐非道だった」とことさらに言うことはないけれども、開戦に至った経緯を検証する中で日本の誤りや責任や愚かさだけを追及している。代表的なのは半藤一利、保阪正康、秦郁彦、加藤陽子、北岡伸一の各氏らで、一見、「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」とは異なり、客観的な史料に基づいた主張のように思えます。これに対しても、やはり保守派から、彼らも結局は勝者による敗者の裁きに左翼が悪乗りして言い続けている「東京裁判史観」、つまりは「日本悪玉史観」「日本侵略国家論」を、装いを新たに唱えているだけではないか、戦争には相手があるのにその相手の戦意を見ず、専ら日本国内の出来事や資料を取りあげているだけの「蛸壺史観」だ、という反論が出てきました。その流れの中で、西尾先生が今年、『天皇と原爆』(新潮社)を刊行された。この本はまさに、その相手国の事情を見ていこう、アメリカはなぜ日本と戦争をしたのかを考えていこうという試みを地でいく内容です。しかも、宗教戦争という新しい視点を取り入れて、幅広い論点が提示されている。今後の第二次世界大戦研究の一つの方向を提唱されたとも言えます。
福井先生は、アメリカのみならず世界各地の歴史研究の潮流を手広く調査されています。今日は、西尾先生の試みが、世界的な歴史研究の流れの中でどう位置付けられるのか話し合っていただきたいと思います。福井 『天皇と原爆』を拝読すると、自虐史観が蔓延したが故の日本の危機に対する西尾先生の焦燥感を強く感じる一方で、先生のお考えは、アメリカ「保守」の現在の主流であるネオコンサバティブではない従来の保守派、オールド・ライトといわれる人たちを含む、伝統的な孤立主義者あるいは非干渉主義者といわれる人たちの歴史観にかなり近いことが分かります。
実はアメリカでも、第二次大戦開戦当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は、対日独戦争をやむなしと考えていた、あるいは積極的に両国とは戦争すべきだと考えていたということは、専門家の間では常識です。当時のアメリカ国内には、第一次大戦では英仏帝国主義者に騙されて多大な犠牲を払ったというコンセンサスがあり、非常に反戦意識、厭戦気分が強かった。にもかかわらずルーズベルトが国民を、いわばだますかたちで戦争に誘導していったということは、今ではほとんど誰も否定していないし、日本の卑怯な不意打ち攻撃にガツンと殴られてやむなく戦争をしたなどという話も、一般大衆向けの宣伝や子供向けの教科書はともかく、専門の研究者は誰も信じていません。
ただし、そのルーズベルトと日独戦に対する評価には二通りあります。通説、あるいは主流は、あれは「グッド・ウォー」、つまり「良き戦争」であったというものです。ルーズベルトがとった手法─国民には「戦争はしない」と約束しながら、経済封鎖などで日本を対米戦へと追い詰め、日米戦を口実にして欧州戦線にも参戦した─には、民主国家としては好ましくない手段ではあっても、邪悪な日独を叩きつぶすためにはやむを得なかった、むしろそれはリーダーとして当然であったという見方ですね。
もう一つの立場からの評価は、逆にルーズベルトに対して極めてネガティブです。先ほど触れたオールド・ライトたち、いまではネオコンサバティブに対してパレオコンサバティブと呼ばれていますが、彼らはアメリカという、汚辱にまみれたヨーロッパとは違う新世界で、「理想の国家をつくる」というのがワシントン以来の建国の理念だと考えていて、ルーズベルトの国内・対外政策は、その建国の理念への裏切りであると見なしています。
このオールド・ライトの立場、あるいは孤立主義は、第二次世界大戦が「良き戦争」だという見方が通説になってからは過去のものと位置づけられてきましたが、昨今のアメリカの中東政策の行き詰まりが誰の目にも明らかになるにつれて、復権しつつあります。
例えば今年の共和党大統領予備選挙で、堂々と孤立主義を主張したロン・ポール下院議員が、大手マスコミが基本的にまったく無視したにもかかわらず、大善戦しました。草の根保守の間では、孤立主義的なものの考え方が戻ってきているということを示しています。
彼らの反ルーズベルト史観からいえば、西尾先生と同様に、好戦的だったリンカーン(南北戦争)、セオドア・ルーズベルト(中南米への軍事介入常態化)、ウッドロウ・ウィルソン(第一次大戦)、フランクリン・ルーズベルト(第二次大戦)が、アメリカ大統領史上の「四大悪人」です(笑い)。彼らの考え方は、学界主流からは批判され、日本ではほとんど無視されてきましたが、何人かの著名な歴史研究者の中にいまでも受け継がれています。
『ナショナル・インタレスト』という有名なエスタブリッシュメントの雑誌があります。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を発表した外交評論誌で、外交政策に関しては高く評価されています。この雑誌のロバート・メリー編集長が、今年の六月、ホームページに日米開戦の経緯を書いていて、そのなかで、一九四一年十一月二十六日に日系人のリストアップが極秘で始められたと記しています。
西尾 例の「ハル・ノート」、日本に最終的に対米開戦を決意させたあの文書を、アメリカが日本に突きつけた日だね。
福井 ええ。こういうことを権威ある雑誌の編集長が大胆に書いているわけです。全くその通りかどうかはともかく、そうした事実があったことは確かなようです。
西尾 あくまで計画だけれども、その後の日系人収容へとつながる対日戦の準備であったことは間違いない。
福井 メリー編集長は、その当時の情勢と現在のオバマ大統領の対イラン政策を対比して、非常に似ていると指摘しています。ルーズベルトが日本にやったのと同じように、オバマ大統領はイランに厳しい経済制裁を科し、さらに交渉を望む相手の意図を受け止めず、逆にはねつけるように行動している。
西尾 つぶしてかかる。
福井 ルーズベルトがイギリスの首相だったチャーチルに対日強硬策を迫られたのと同様、オバマはイスラエルのネタニヤフ首相から同じようなプレッシャーを受けているとも書いています。 さらに、メリー編集長は、ルーズベルトが日本との戦争を望んでいたことは歴史的に明らかであるのに対し、オバマがイランとの戦争を望んでいるのかどうか、今はまだ分からないという点を大きな違いとして挙げています。対イラン戦争を望んでいるなら今までのオバマの行動はメイク・センス(合理的)だけども、望んでいないのであれば無謀すぎると指摘しています。いずれにせよ、ルーズベルトが対日戦を望んでいたという内容の文章を、堂々とエスタブリッシュメントの雑誌の編集長が書いている。西尾先生の言われることは、過激でも異端でもないということです。
『正論』12月号より つづく
私の書くものは全て自己物語(四)
遠藤 「悲劇人の姿勢」は、三島由紀夫さんが自決した直後に発刊されました。
西尾 そのため、あの本は三島論集だと誤解されたんですよ。
遠藤 三島さんとお会いしたのは?
西尾 わずか一度だけです。ある方に案内され、ご自宅に伺い、感激の対面をしました。本当に気持ちのいい、呵々大笑する方で、人の悪口もカラッと言う(笑)。 晩餐に招待され、六本木にゴーゴーを踊りに行こうと誘われ、夫人を伴い、車で案内してくれました。途中である店の前を指し、「数日前、あの男が立っているのが遠くから見えてね。その辺の空気がいっぺんに汚れ、曇ったように思えて、僕はそこから一目散に逃げ出したのだ。百メートルくらい走ったのだ」と身振りで走る真似をなさいました。あの男とは小田実さんです。
遠藤 その三島さんから、西尾先生は「新らしい日本人の代表」と評されたわけですが。
西尾 『ヨーロッパ像の転換』の裏表紙の推薦のことばです。でも、あれはどう見ても褒め過ぎです。三島さんに関連する私の文章、データは全集の第二巻『悲劇人の姿勢』にまとめました。
遠藤 三島さんに関してはその他にも、「憂国忌 没後三十年」と「没後四十年」などが収められています。それにしても、全集の目次を見ると、これまで述べてきたもの以外にも、第六巻「ショーペンハウアーの思想と人間像」や、第八巻「日本の教育 ドイツの教育」、第十二巻「日本の孤独」、第二十一巻「危機に立つ保守」など、実に幅広い分野を扱われていますね。
世界史のなかの日米戦争
西尾 とにかく、私は知性の狭さが嫌いでした。専門に閉じ込められる知性などおかしいと、若い頃から思っていました。ところが、常に広い知性を必要とすべきだと思っている一方で、「広すぎる知性のウソ」にも気がついていました。 たとえば、歴史を研究する際には、遠い過去に思いをはせるわけですが、そのようなときに大空から、すなわち俯瞰史観で物事を見る──それは過去を考えるためには、一方では非常に大事なことなのですが──上から広く見るウソがある。人間は神の位置には立てない。単に俯瞰してもダメです。遠い過去の時代の人たちがどのように未来を信じていたか、言いかえれば、どのように閉ざされて生きていたかを見ずに、ただ自由で開かれた現在の認識で遠い過去を俯瞰して見下ろしたところで、それは歴史でも何でもありません。
遠藤 現在の尺度から過去を見て評価を下す知識人や歴史学者が多い。そのことを『GHQ焚書図書開封』(徳間書店)などでも一貫して指摘されています。
西尾 先の大戦について、なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか、とばかり日本人は問いつづけてきて、なぜアメリカは日本と戦争をしたのか、とは問わないできた。これはおかしい。私は、十七世紀くらいからの世界史のなかの日米戦争を考え直す構想をいだいています。さもないと、このままいくと、「戦後百年」を迎えて、この国はまだ占領期ということになりますよ。
了
『WiLL』2011年12月号より
私の書くものは全て自己物語(三)
「江戸」がニーチェの続篇?
遠藤 西尾幹二といえば、やはりニーチェに関する論考が興味深い。ニーチェというと、読者の方は多少難しく感じてしまうかもしれないのですが、先生のニーチェ論を読んでいると、ご自身の自画像をなぞっておられるのでは、との印象を受けることがあるのですが。
西尾 膨大な史料に基く客観的研究であるのに、そんなふうに言われると困るのですが、実は私を知るある校正者からも「これは先生自身のことを書いているのではないですか」と告げられました(笑)。 第四巻に、私の『ニーチェ』二部作を合本で収録しています。私が第三部を期待され、今日まで実行できないことには事情がいろいろありましたが、今日は申しません。ただ、ここで申し上げたいのは、もうすでに第三部を書いているということです。それが第二十巻の『江戸のダイナミズム』です。
遠藤 「江戸」がニーチェの続篇?
西尾 私の心のなかではそうです。地球上で「歴史意識」というものが生まれたのは、地中海域とシナ大陸と日本列島のわずか三地点です。そこで花開いた「言語文化ルネサンス」は単なる学問ではありません。認識の科学ではない。古き神を尋ね、それを疑い、あるいは言祝ぎ、ときには背後に回り、これを廃絶し、新しき神の誕生を求めもする情熱と決断のドラマでした。 「神は死んだ」とニーチェは言いましたが、西洋の古典文献学、日本の儒学・国学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです。明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません。
遠藤 ここでも、「比較」という認識に基づいて考察されたわけですね。
西尾 そうです。このことを、東北大学名誉教授の源了圓先生が月報に「今度の全集の核心となるのは、『江戸のダイナミズム』である」とご指摘いただき、また、次のように述べて下さったことに大変感激しました。 〈一巻(『江戸のダイナミズム』)の中心となるのは本居宣長論であるが、小林秀雄の宣長論が世界の文明に心を開かないで、自己閉鎖的な態度で宣長論を書いていたのに対して、この巻で西尾さんはヨーロッパ、中国、日本において文献学がどのような仕方で展開したかを、広く、そして深く追求しようとしている。この西尾さんの問題追求は、今後取るべき規範であることはよく判り、そしてこの態度に私は共感した〉
福田恆存からの離反劇
遠藤 西尾先生は、小林秀雄をはじめ、福田恆存や三島由紀夫といった戦後を代表する評論家や文学者と実際に接して来られ、影響を受け、あるいはそこから離脱されようとした。最も影響を受けたのは、やはり福田恆存ですか。
西尾 若いときの無邪気な幻想ですが、小林秀雄はランボオとベルグソン、福田恆存はロレンス、私はニーチェだと、精神的血縁の系譜を秘かに思い描いていました。小林さんの文体は音楽と同じで、目を離すと消えて、概念で要約できない。その独特なアフォリズムの文体は福田恆存に受け継がれていますが、福田さんの文章は要約できないことはない。私はお二人の飛躍と逆理の文体を真似して、敗北感ばかりでした。福田先生から直に、お前の文章は中村光夫に似ているといわれ、どういうことか悩みました。結果的にはいま一番親近感を覚えるのは、三島由紀夫の評論文章です。 福田先生には公私ともに接し、二十六歳頃から私淑し、呪縛されました。先生の口真似のようなことまでしました。
遠藤 代筆されたこともありましたね。
西尾 ドイツ留学前の二十九歳の時、福田先生から、筑摩書房刊の『現代日本思想大系』第三十二巻『反近代の思想』(福田恆存編)の百枚解説文の下原稿を頼まれました。先生は発表に当たり、手を加えましたが事実上、代筆になりました。これは久しく秘事とされ、同解説文は二人のどちらの全集にも入れることのできない奇妙な文章に終わりましたが、先生は公明正大で、末尾に私の名を付記し、かつ月報(一九六五年二月)の原稿を私の名で書かせて下さった。第三巻「懐疑の精神」に収録した「知性過信の弊」が、その文章です。月報の書き手は二人いて、もう一人はなんと保田與重郎さんでした。 とにかく、福田先生は人間が立派でした。ご夫妻ともどもに立派でした。私の結婚式で大勢の著名な先生方にスピーチをいただいたのですが、亡くなった母から「一番愛情が籠っていたスピーチは福田先生だったよ」と言われました。
遠藤 ところがそこから、離反しようとあがく……。
西尾 先生から離反しなければ、私は一人立ちできないと考えていたからですが……、離反劇は私の一人相撲で、先生は案外、なにもお感じになっていなかったかもしれません。第二巻「悲劇人の姿勢」で、その点に触れています。
三島由紀夫との出会い
遠藤 その第二巻には「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」が収められていますが、この「素心」というのは大変良い言葉ですね。
西尾 角川版福田集に、先生ご自身で素晴らしい揮毫を書かれていて、それを使わせていただいたんです。先生はよく「私は素人、そして職人だ」と仰っていましたが、その言葉をよく表している言葉が「素心」であり、先生を表現する際、これに勝る言葉はないと思っています。
つづく
『WiLL』2011年12月号より
私の書くものは全て自己物語(二)
私小説的な自我のあり方
西尾 遠藤さんもご存知のように、私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。ドイツ留学を皮切りに、ソ連文学官僚との思想対話や西ドイツの学校めぐり、中教審委員や新しい歴史教科書をつくる会の会長時代の体験記、戦争と疎開世代である私の幼少年物語、はては自分のガン体験まで、「私」が主題でないものはありません。私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。
遠藤 先生がドイツに留学されたのは、一九六五年から一九六七年の間ですね。当時は、ヨーロッパ留学など簡単ではない時期だったのでは。
西尾 羽田空港から出発する際に、三十人もの教え子の学生たちが「西尾先生バンザーイ」とやってくれた、まだそんな時代ですから。ドイツの街のショーウィンドウに見る日本のカメラ、家電が誇らしく、見るもの聞くもの何でも日本と比較していました。
遠藤 え? 「比較」ですか。
西尾 ヨーロッパについて私が書いたことは当時、まだ書かれていなかったヨーロッパでした。日本に伝えられていないヨーロッパがあったのです。私は新鮮な驚きと感動をもって「比較」しました。日本の高校進学率が七割を越えていたあの時代に、逆にドイツは中学卒(義務教育)で終わる人が七割でした。それから、ドイツの大学には「卒業」がなかった。え、何だろう? とこの二つの事実に、私は強い疑問を持ちました。『日本の教育 ドイツの教育』にはじまる私の教育社会論は、ここから展開されたのでした。 ところが、日本の大学では比較文化や比較文学が大流行していました。出版界では『タテ社会の人間関係』や『縮み志向の日本人』、『甘えの構造』『日本人の意識構造』など、日本人論花盛りだった。私は違うと思った。私の出発をなした『ヨーロッパ像の転換』や『ヨーロッパの個人主義』も「比較」を用いていますが、動機が違う。私も日本を意識していますが、日本人を定義なんかしていない。日本文化を特殊視していない。
遠藤 なるほど、比較文化や比較文学に対して疑問を持たれていた。
西尾 比較とは本来、認識の手段や方法に過ぎず、それを体系化したり、自己目的化するものではありません。日本では比較文化や比較文学にしても、「比較学」として学問化してしまうのです。 ある著名な東大教授は比較の系譜を辿り、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが比較の先蹤であり、フランスの思想家ヴォルテールが二番手、日本の比較学のはしりは『魏志倭人伝』だと言った。そんなバカなことがあるかと思いました。この方面の学会では、その後も「ヘーゲルと空海」とか「漱石とカフカ」、「ハイデガーと道元」といった論文が様々な学者から発表されました。二つを選んで最初に似ていると決めてかかれば答えが先にあるので、それで終わってしまう。言わば、イデオロギーに過ぎません。
「比較」には驚きが大事
遠藤 日本人にとってそれは、物事のスタンダード(基準)は常に外にあり、外の基準で自己を評価しなければならないというイデオロギーになってしまう。アメリカやヨーロッパの政治を基準に、日本の政治が遅れているとかいわんばかりの議論がまだされていますが、こんなくだらない話はありません。日本人は往々にして、他者の視点で自己を評価するということをしがちですが、それは「比較」の自己目的化がもたらした弊害だと思います。 話は戻りますが、先生の比較学に対する批判はその後どのように?
西尾 批判的な発言を続けていたら、東大と東工大の比較文学研究科が私に発言させようと、私を招聘して二度のシンポジウムを開催しました。さすが公正です。東大は佐伯彰一先生、芳賀徹先生、東工大は江藤淳さんが中心で、錚々たるメンバー十数人を集めたのですが、私が半分ぐらい発言してしまった(笑)、その全記録も──これは本になっておらず──第三巻「懐疑の精神」に収録しています。
遠藤 そもそも、比較するとは、どういうことなのでしょうか?
西尾 比較とは、何よりも驚きが大事です。何かに出会って心に驚きがあり、その驚きを表現することが、すなわち生きることでもあるわけです。たとえば、私はドイツ人が釣銭を渡すのにも引き算ができず、足し算で計算することに驚きました。百マルク紙幣を出して四十五というお釣りを渡す際、五十五、六十五、七十五と返す。ドイツ人は名医を選ぶという考えがなく、医者はみな同じと思っている。これも驚きでした。 ところが、比較学として学問化されてしまうと、はたして驚きが生まれるのかどうか。驚き自体が目的化してしまうのではないかとの危惧から、比較文化や比較文学を学科にすること自体に反対したのです。
遠藤 全集の全てが先生の個人物語であり、これまで私小説的な自我で生きてこられたということでした。この私小説的自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質なのではないかと思います。自我の発露であるがゆえに言葉が強靱で、人を惹き付ける力がある。運動的、政治的な言葉ではなく、思想的、文学的な言葉であるところに、先生の文章の魅力と強さがあると思う。その意味で、政治や運動といった多数派の形成を目的としたグレーな言葉とは異なります。 さてそこで、かつて新しい歴史教科書をつくる会の会長という、いわば賛同者の拡大を目的とした営みのなかで言葉を発せられてこられたことに対して、矛盾や限界を感じられたことはありませんか。
西尾 あったからこそ失敗したのです。いまでも皆さんに迷惑をかけたと思っています。長谷川三千子さんが私のことを「孤軍奮闘の人」と書いて下さったことがあり、「たとへ百万の助太刀が駆けつけても、そのかたはらでやはり孤軍奮闘する人」と。ありがたいお褒めの言葉ですが、組織のリーダーには不向きということです。『国民の歴史』(文春文庫)を書くことで勘弁していただきました。
根源的な大江健三郎批判
遠藤 『国民の歴史』は、先生が批判された大江健三郎氏などから、かなり叩かれましたね。
西尾 反対陣営からの誹謗本が、私の知るかぎりでも五冊出ていますね。大江さんも、若い頃から私の批判をさんざん受けてきたので、恨み骨髄で『国民の歴史』を目の敵にしました。
遠藤 西尾先生は、大江氏批判をかなり早い時期になさっていますね。
西尾 二十九歳のとき、同世代の彼の「『民主主義』という文部省教科書に熱い感情」とか「戦争放棄はぼくのモラル」とかに、ウソ言いなさんなと書いた。三十三歳のとき、『批評』という雑誌に「大江健三郎の幻想風な自我」という五十枚の文芸評論を書いた。自分で言うのも恥ずかしいのですが、これがなかなか素晴らしい論文なのです(笑)。ところがなぜか、単行本に入れないで終わった。謎です。今度、『週刊新潮』掲示板のおかげで四十年ぶりに再会した。
遠藤 大江氏の何が一番気に入りませんか。
西尾 文体論からはじめ、私小説的自我の幻想肥大があると大江文学の根源的なところを否定しています。そして、幻想風な自我は石原慎太郎氏も同じとまで書いていますから、是非お読みいただきたいですね。
遠藤 この全集を読むことで、西尾先生が若い頃に書かれた論考が全て現在にがっているという全体像を手にすることができるわけですが、若い頃に書かれた文章がまた瑞々しくて鋭く、情熱と冷静さがあって、ひょっとすると三十代で西尾幹二という評論家は完成されていたのかと思うほどです。
西尾 実は、自分でも三十代後半に書いた文章が落ち着いたいい文章だと感じています。当時は、爆発的といってもよいくらいの活動をしていました。第三巻「懐疑の精神」には、「言葉を消毒する風潮」「マスメディアが麻痺する瞬間」「テレビの幻覚」「現代において『笑い』は可能か」といったメディア論も収録されています。
つづく
『WiLL』2011年12月号より
「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ
西尾幹二先生講演会
「個人主義と日本人の価値観」
〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。
ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。
★西尾幹二先生講演会
「個人主義と日本人の価値観」
【日時】 2012年2月4日(土曜日)
開場: 13:30 開演 14:00
※終演は、16:00を予定しております。【場所】 星陵会館ホール
【入場料】 1,000円
※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。
★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。
【場所】 星陵会館 シーボニア
※ 16:30~(18:30終了予定)
【参加費】 6,000円
※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。・国書刊行会 営業部
TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
E-mail:sales@kokusho.co.jp
・坦々塾事務局
FAX:03-3684-7243
tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)
主催:国書刊行会・坦々塾
後援:月刊WiLL
私の書くものは全て自己物語(一)
『WiLL』2011年12月号が「西尾幹二全集刊行記念特別対談」と銘打って、遠藤浩一さんとのトーク「私の書くものは全て自己物語です」という10ページ仕立ての企画を打ち出してくれてのは大変にありがたく、あらためて編集部にお礼申し上げる。
このトークの全体を四回に分けて掲示する。
出会いは高校三年生
遠藤 私が西尾先生とはじめて出会ったのは、三十五年前の一九七六(昭和五十一)年のことで、まだ高校三年生でした。私が通っていた石川県立金沢桜丘高校の創立記念祭で、講演をしていただいたことがきっかけです。
西尾 数年前に、遠藤さんが電話でその講演の話をなさって、内容をすっかり忘れていた私に「ちょっと待って下さい」と言ってどこからか講演録をさっと持って来られた。「どこにあったの?」とその早さにビックリしていると、書棚にいまでも置いてあると聞いてさらにビックリ。大いに感激したのを覚えています。
遠藤 その講演を聞いて、まさに目から鱗が落ちる思い、知的刺激というものをはじめて体験した瞬間でした。「個人・学校・社会─ヨーロッパと日本の比較について」と題したお話でした。いまから考えると、高校生を前に、よくこのような内容でお話しされたなと感心してしまうのですが(笑)。
西尾 ちょうどモントリオールオリンピックの年で、たしかその話題からはじまったかと。
遠藤 オリンピックの選手たちは一体、なんのためにトレーニングするのか、君たちは何のために受験勉強するのか、どちらも自由な意志のなかでやっている。そして、自由とは孤独であり、そのこと自体に価値がある、とのお話からでしたね。
西尾 韓国の選手たちは金メダルを取ると高い報償金をもらえるのに、日本の選手にはそれがない。しかし保証のない自由、それが本来の自由だ。自由とは自己決定であり、自己決定とは安全とはかぎらず、身を誤るそれなりの危険や毒を孕んでいる、それでよいのだ、というようなことだったかな。そこいらからはじまって……。
遠藤 人間はもともと毒や危険を抱えている存在であり、そういった自己を直視すべきだという物の見方を示されて、人間を、世間を見る視点を得たような気がいたしました。それから、西尾先生の様々な書籍を読みはじめたわけですが、若い頃はとくに文学論に関心を持ちました。芥川賞作家の日野啓三氏の『天窓のあるガレージ』に対する批評は鮮烈でした。 人は仕切りのなかで自由というものを感じはじめる。仕切りがあることは実は幸せであるという批評文を読み、これはよほど面白い小説に違いないと思って読んだのですが、小説自体は面白くもなんともなかった(笑)。
西尾 一人の少年が天窓のあるガレージに一日中閉じこもっていると、そこに蜘蛛がツーと落ちてきて、やがて夜空に月が上がるという、それだけの話です(笑)。
遠藤 自分の部屋に閉じこもって一日中インターネットをやり、そこだけが外界との接点になっているという現在の多くの若者像とも重なる話なのですが、「自由」というものの本質を抉る批評でした。
西尾 現代人が自閉的になりがちなのは、宇宙開発とか、一万三千年前の縄文時代とか、科学が「自由」を拡大したことと関係がありますよね。空間的にも時間的にも広がり過ぎて、自閉は自己防衛なんです。生命維持装置なんです。今回の全集の第十一巻「自由の悲劇」はそのテーマでした。戦前にはなかったテーマですよ。「自由」という概念については、第十三巻「全体主義の呪い」も実は自閉と自由の問題でした。
「自由」が与えられた恐怖
遠藤 「全体主義の呪い」は、一九八九年のベルリンの壁崩壊以後の東ヨーロッパ情勢について、先生が実際に現地を歩かれ、取材されたルポルタージュですね。
西尾 一九九二年というベルリンの壁崩壊から間もない時期に、東ドイツ、チェコ、ポーランドに行き、ジャーナリスト、哲学者、詩人と「自由」を語り合った探訪記です。日本人には心を開いて語ってくれました。ドイツ人や他のヨーロッパ人には引き出せないような討議だったと思いますよ。「自由」のない閉ざされた共産圏の人たちはかえって安定して生きていて、ベルリンの壁崩壊で突然、「自由」が与えられた恐怖に襲われているのではないか、と観察しました。 彼らは「西側の自由主義社会では敵が見えなくて恐い」「自由はテロールである」「言論の自由も恐いが、商品の自由も恐い」などと語り、セックス情報の氾濫や商品の洪水へのめくるめく思いにおののいていました。
遠藤 東ヨーロッパで暮らしていた人たちは、物資と情報が極端に不足した社会から、突如として物資と情報が極端に溢れかえっている社会を目の前にして、目眩を覚え嘔吐したとお書きになっていますね。
西尾 ある東ドイツの知識人が西ドイツに来て、高い山の広い所に出たとき突然、「小さな狭い檻」に閉じこめられた幻覚に襲われ、嘔吐したという体験を語っています。子供のときから、小さな狭い檻に入れられて息を殺して生きていたからです。
遠藤 日本だって同じですよ。民主党という幼い政党が政権を取り、権力というものの前で当惑してこれを弄び、失敗を重ねている。そのイメージと東ヨーロッパのお話は、ピタリと一致します。 つまり、野党という仕切り、あるいは壁のなかで、これまで思う存分いわゆる「政治ゴッコ」をしていた人たちの眼前に突如、権力という巨大なものが現れたときに、彼らにまともな政治的感受性があったならば、当惑して……。
西尾 目眩を覚え吐き気を催さなければならない(笑)。
遠藤 そうです。つまり、西尾先生が指摘されていた問題はいまも残っている。本質的、根源的な提起をされてきたということです。