西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』の刊行(一)

 青木直人さんと私の対談本『第二次尖閣戦争』は今、店頭に出ています。青木さんは中国と日本の政財界の不透明な関係を永年取材して来た方で、正義心と愛国心が確かな方です。北朝鮮にも詳しく、この本は東アジア全域の彼の今後の予測も語られています。

 「まえがき」は私、「あとがき」は青木さんが書きました。「まえがき」をここに紹介します。

 2010年9月の中国船による尖閣襲撃事件を私たちは「尖閣戦争」という名で呼んで、同名の本新書を刊行しました。好評をいただき、おかげさまで版を重ねました。

 2012年9月に中国全土において反日暴動デモが起こり、そのあと中国公船の尖閣海域への侵入、威嚇、しつこい回遊、ならびに台湾船団の襲来と水の掛け合い等は、中国政府の激語を並べた挑発行為も含めて、「第二次尖閣戦争」と呼ぶにふさわしいと考えます。本書の標題はそのような意味で名づけられています。

 さりとて本書は、海上で起こった挑発と防衛のシーンを報告したものでも、メディアの一部にすでに出ている両国海軍の実力比較や実践のシミュレーションを描いたものでもありません。事件の背景、世界の政治、経済、外交のさまざまな現実の問題から尖閣のテーマに光を当て、考察を重ねた一書です。それはつまるところ中国論であり、アメリカ論に尽きるといっても過言ではないでしょう。目次をご覧の通り、現代において尖閣問題が、頂上をきわめた中国の没落への秒読みと、黄昏の帝国アメリカの踏ん張りと逃げ腰の姿勢のどちらにリアリティがあるかという問題にほぼきわまるといっても、決して言い過ぎではありません。

 冷戦が終わった二三年前から、日本の運命は中国とアメリカの谷間に置かれたことが分かっていました。いよいよ正念場を迎えているのです。われわれは両国の正体、その本音と詭弁、真実と偽装をしかと見つめて、道を踏み誤らぬようにしなければなりません。

 詳しくは本書全体をお読みいただけばよいのですが、一つだけ本書を仕上げた後で感じたことで、私個人が強調して訴えておきたいことがございます。第四章の末尾に私は次のように書きました。

 「第二次大戦のときもそうでしたが、中国の災いが日本にのみ『政治リスク』となって降りかかり、アメリカやヨーロッパ諸国は大陸で稼ぐだけ稼いで機を見てさっと逃げ出せばよく、日本だけが耐え忍ばねばならないのは、二十世紀前半とまったく同じ不運と悲劇であり得ることをよくわれわれは心し、今から万全の警戒措置をとっておかねばなりません」

 今回の大規模デモ暴動に見る、わからず屋の中国人と、半ば逃げ腰のアメリカ人の姿から、私が本書の読者に訴えたいのは、「先の大戦がなぜ起こったか体験的にわかったでしょう、現代を通じて歴史がわかったでしょう」ということです。「100年以上前から日本民族が東アジアでいかに誠実で孤独であったか、日本人の戦いが不利で切ない状況下での健気な苦闘であったかが今度わかったでしょう」ということです。

 そしてもうひとつ訴えたいのは、わが国は少しでも独立した軍事意志を確立することがまさに急務ですが、それには時間が、もうそんなにないということです。

 われわれ二人は数多くの切実な問題点を本書で訴えました。私は前書にひきつづき良きパートナーを得て、今この大切なチャンスに、時を移さずに貴重な提言を重ね、読者の皆さまに注意を喚起することが可能になったことを、喜びといたしております。

目 次

1章 正念場を迎えた日本の対中政策
2章 東アジアをめぐるアメリカの本音と思惑
3章 東アジアをじわじわと浸潤する中国
4章 やがて襲いくる中国社会の断末魔
5章 アメリカを頼らない自立の道とは

中国に対する悠然たる優位

 中国で起こった反日暴動デモについて、私が書いた最初の感想が次の文章です。『正論』11月号(10月1日発売)にのったわずか6枚の短文です。時間的にみて、暴動デモのテレビ映像がまだ生々しく瞼に残っているそんな時期に書かれました。題して「中国に対する悠然たる優位」です。

 支那人は自分の喋っていることでだんだん昂奮し、自己催眠に羅る民族で、口角泡を飛ばしという形容があるがじつにその通りで、口の角から唾を飛ばし、足を踏み鳴らし、手を振り、上海では興奮の余りついに黄浦江に飛びこんで死んだのがいたそうだ。演説の値段は普通50銭で、巧いのは1円、女学生は別格でみんな1円、天津で女学生の演説を聞いてみると、森永のミルクキャラメルには毒が入っているから買うなと言っている。丁度その頃支那側で森永に似せた菓子を造りだしていた時で、菓子屋が女学生にお金をやって自社製品の宣伝をさせていたのである。新聞も随分デタラメで、例えば昨夜日本人が果物屋の店先にある西瓜に毒を注射して歩いたというようなことがでかでかと書いてある。長野朗『支那三十年』(1942年刊、GHQ焚書図書)の一節からである。

 戦前の「排日運動」が一挙に火を噴いたのは1919年(大正8年)だった。支那の学校の教科書が余りにひどいのは当時日本でも問題になった。「地理」の教科書が最初に狙われた。日本に「あそこも取られた。ここも取られた」と書けば小中学生でも「なんて日本は悪い国なんだ」と思うようになる。しかも根拠のない嘘ばかりである。日本は「我が琉球を縣とし、臺灣(たいわん)を割(さ)き」などと書いている。

 英米人の煽動も実に目に余るものがあった。ひそかに学生たちに運動費を出す。英語新聞が排日運動の音頭取りをやる。学生運動の拠点はすべて英米人の経営の学校だった。宣教師たちが排日運動には決定的役割を果たした。ことに基督教青年会の活動が目立った。第一次世界大戦中に拡大した日本の支那貿易をつぶすのに、日支離間を策したのである。

 「日貨排斥」(日本商品のボイコット)が排日の第二段階だった。1923年頃から、排日の主役はコミンテルン主導の中国共産党にバトンタッチされた。この第三段階で排日は「抗日」へと転じた。もしそのとき日本の資本と英米の資本が手を結ぶことができたなら、一致団結してコミンテルンの動きを封じ、毛沢東の出現を阻むこともできたわけだが、英米人は愚かにも反共より反日を必要と考え、歴史の進歩に逆行した。二十世紀の歴史の暗黒化はここに始まる。第二次世界大戦における謎、英米のソ連抱き込み、日本の孤立、独伊への接近という流れは、英米が選択した進路だった。すべては支那大陸における「排日」から始まったのだ。支那人の対日劣等感、嫉妬心、自己の立ち遅れを正視しない唯我独尊、いつまでも自己を世界の中心と思い込む愚昧な独善性、煽動されるとどこまでも突っ走る付和雷同性、愛国心のかけらもないくせに群がるアリの集団ような盲目的集合性、人格の不在、宗教性の欠如――支那人、漢民族のこれらの未発達のいっさいのバカバカしさを利用したのが当時の英米キリスト教文化人であり、次いでロシア革命成功直後のコミンテルンの組織運動家たちだった。

 昨年は、辛亥革命(1911年)から丁度百年経った。昨日今日の尖閣をめぐる大陸の騒乱を見るにつけ、中華民国治下の内乱時代の支那人の行動の仕方、生き方、考え方等々となにも変わっていないこと、その余りの進歩のないことにあらためて驚く。

 なるほどわが国もまた同じ時代に英米文化、西洋文化の洗礼を受け、マルクス主義的共産主義の深甚な影響をもろに受けた歴史を持つ。愚かなイミテーション文化や観念的空想的理想主義を追い回した過去の幾多の錯誤は忘れるべきではあるまい。けれども、支那人たちの狂躁ぶり、無反省な惑乱ぶりを目撃するたびに、大抵の日本人は今や冷静に、軽蔑とある種の憐れみの念すら抱くであろう。

 日本は成熟した国家である。いったいあれは何事かという以上の感想を持てない。支那人は森永キャラメルに毒が入っていたと女学生が嘘の演説をした時代と何も変わっていない。日本人は必ずしも意思的努力をして自己を確立しているわけではない。ただ、何となく自然に、日本国民は英米キリスト教文化もマルクス主義的共産体制も自分とは別の世界、他者であり、遠い世界であるとして客観視することができている。同時に、古代支那文化は尊重すべきだが、現代中国から学ぶものは何もないとはっきり認識できている。つまり、そう肩ひじ張らずに、自己を確立しているのである。そのことに自信を持ったほうがいい。

 中国サイドからのあるレポートに、日本に対する経済制裁をせよ――とあったのを見て、私は笑った。日本は1996年以来、累計830億ドルの対中投資をしているのに対し、中国の対日投資はほとんどないに等しい。中国は日本からの投資だけでなく、技術に依存してやっと生産を支えている。重機やハイテク機器だけでなく、各生産物の部品や素材を日本からの輸入に負うている。今や日本は少しでもそれらを売りたいという根性をここで抑えて、中国の経済に痛打を与える経済制裁を実行すべきである。

 はっきり言っておくが、中国に対し譲歩する姿勢で領土問題の落とし処を探り合うようなやり方をすれば、必ず相手は嵩にかかって威嚇してくる。力で押しまくってくる相手には力で押し返すしかない。日本の力は今のところは軍事力ではない。投資や技術の力である。これを政治のカードにする以外に日本に勝ち目はない。言い換えれば、経済が牙を持つことである。

 日本の経済人がこのことを分かっていない耄碌(もうろく)ぶりは真に深刻な憂慮の種子である。経済人に言っておくが、尖閣を失えば、世界の中で日本はいっぺんに軽視され、国債は暴落し、株は投げ売りされ、国家の格が地に落ちた影響はたちどころに他の地域との輸出入にも響いてくるだろう。

 戦後の日本は経済力が国家の格を支えてきたが、逆にいえば、国家の格が経済力を支えてきたともいえるのである。尖閣はだからこそ、経済のためにも死に物ぐるいで守らなければならないのだ。

 「許容性資産指数」という国連の評価基準を用いると、中国のGDPはいまだ日本に及ばず世界第三位だそうである。中国の「環球時報」(電子版、2012年6月30日付)がそれを自ら認めている。

日本人の弱さが生む政治の空白

 池田修一郎さんのゲストエッセーをお送りします。池田さんは「あきんど」のHNで以前しばしば投稿して下さった北海道在住の事業家です。私あてのメール形式ですが、時宜に適っているので掲示します。

ゲストエッセイ 
池田修一郎

「日本人の弱さが生む政治の空白」  

 シアターテレビジョンでの討論を拝見させていただきました。日本の政治は戦後吉田茂以降、誰が政治を司とっても国民の期待に沿う結果を生み出せなかった・・・と言われる風潮がありますが、議院内閣制を守りつづける限り、その問題は避けられないと思うわけです。政治家個人の理想とは掛け離れて、国民の要望が政治家を苦しめている実態は、つい忘れてしまいがちな大きな問題だと私は思います。日本の総理は多岐に渡り様々な内政に縛られ、大局に目を向けにくいパターンがあまりにも多すぎると思えます。

 ですから出す政策が常に枝葉末節なものばかり。

 つまりこれが「政治の甘い囁き」ということなんでしょう。結果、子供手当や高校の授業料無料化など、消し去れないパンドラの箱のような政策が居座り、更には政治の改善を頭で理解していながら、国民の多くは危ない囁きに靡いてしまうという実態を生んでしまっています。二年前の選挙で民主党を選ばねばならない状況を生んだ原因は、様々な要因がありますが、一番の原因は、自民党を解体しなければならない国民感情を利用した力(マスコミがそれを誘導したと言われていますが)によるものであり、その力を更に利用したのが民主党だったということです。そんな流れの危険性を囁く一部の正義がようやく出せた最後の抵抗が、小沢氏の金に纏わる問題だったと言えます。しかし、そんなブレーキも一瞬の間は効果がありましたが、加速を続けていた車両の重さは予想以上に重たく、惰性だけでゴールに到着してしまいました。

 私はただこの時の鳩山氏の操縦はなかなかに上手だったと思っています。一度転びそうになった車両を、よく転倒させなかったな・・・と感心したのは事実です。でもよくよく考えてみると、あの頃の麻生総理は既に死に体で、両足は土俵の外に浮いていました。あの頃西尾先生は、麻生氏と小沢氏の人間性を分析され、いかに小沢氏が政治家としての危険性を孕んでいるかを語られていました。
つまり、小沢という人物は今の日本の政治そのものであり、彼がいかに国民心理を利用して、悪魔の囁きを続けて来たかを西尾先生は何度も訴えてきました。

 彼のような寝技が得意なタイプには、立ち技で臨んでも勝ち目はありません。寝技には寝技で応酬するしかないと思います。ところが今日本にはそれを為せる人材がいません。野党時代の管直人なんかはある種その才能がありましたが、彼は左利きですから癖がありすぎます。やはりここは正当に組める人間、多少ダサいイメージはありますが、信頼性は持ち備えている人物が必要です。

 民主党の代表が管直人ではあっても、実は彼が最大の敵ではないのです。本当の敵は小沢氏のような悪魔の囁きに耳を傾けてしまう、我々国民の内面が最大の敵なのです。民主党のような、砂上の楼閣にすぎないような政党を選んでしまう心理が最大の敵なのです。

 そうした背景から、西尾先生が亀井静氏を次の総理に相応しいと発言された事は、正鵠を射る発言だと言えます。彼は確かにその政治姿勢が自分に忠実で、けして洗練された才能を持ち合わせているかは不確実ですが、少なくとも潔白さはかなり持ち合わせています。マスコミに出過ぎた時代もありますが、彼は「ノー」と言える数少ない人間です。少なくとも今はそれが重要な資質であり、とにかく国民の悪魔の囁きに耳を傾ける癖を糾す役割は担えそうです。

 さて問題はもうひとつ・・・討論会で次の総理に相応しい方は誰かという視聴者からの質問に、「安倍氏が最適だ」と応えるパネラーがいました。確かにその流れは未だに強いですし、私の期待のどこかにも、安倍氏は存在しているかもしれません。しかし、よく考えてみると、私たち・・・特に安倍氏に期待する国民は、あまりに過剰評価をしているのではないか、何か一つの理想の総理像を、安倍氏に押し付けしすぎているのではないか、そして不思議な現象として、本来なら期待を裏切られれば、人間は倍になって不満を訴えるはずなのに、何故か安倍神話は根強く、まだ仮想の理想像を追い求めている、それが実態だと思います。こうした心理は今回の原発問題とリンクしていて、同種の心理的問題を孕んでいると思います。期待感だけが先走り、それを安倍氏に無理矢理はめ込もうとするこの日本人の弱さは、どうしても治療不可能なのでしょうか。

 小沢の囁きに靡く弱さと、その反動なのでしょう、アイドルに理想を嵌め込む強引さは、裏で一体化した日本人の一番大きな問題であり、何故かその心理は政治という場に現れやすいのも事実です。
どうやらそうした日本人の資質は今悪い方向にしか向かない傾向にあり、それをどうにかしなければ問題の解決は困難だと言わざるを得ません。

 私は日本人はトータルバランスを欠いているように思います。どこか局所的な才能ばかり長けてきて、多面的な才能を置き忘れてきた、そんなイメージを持っています。財界人と政治家が縦割りだった時代が長すぎたからでしょうか。それもあるでしょう。それが結局二世議員を多く生ませた原因かもしれません。様々な場所でサラブレッドが礼賛され、個人の哲学が育たない社会をもたらした。その弱点が総合的に社会現象化した。

 つまり、今の日本社会には競争の原理が埋没しているのではないでしょうか。特にそれが顕著なのは教育の場にあります。昔はまだ辛うじて教育の場にはそれがありましたが、それすら消滅してしまった。本来なら教育の場から社会の場に移行されるべきだったのですが、教育の場ばかりに負担が強すぎた過去の反省から、いつのまにか競争の原理は抹消の道に向かってしまった。

 この事がトータルバランスを持てない人間の多産をもたらしたと言えると思うのです。しかも多くの社会人は競争からは無縁な時間に浸っていますから、出来そうもない夢ばかり描いて、政治の世界での地道さを無視してきたのかもしれません。理想の総理の不在はそんな現実の影に原因があるのではないでしょうか。

脱原発こそ国家永続の道 (三)

『WiLL』7月号より

跡を絶たない観念保守派 

 否、そんなことはない、と言う人にはあえて言っておくが、東日本復興のための財源がなくて、やれ増税とか、やれ国債の日銀買取りとか論じられている昨今だが、日本は世界の債権国で、アメリカには百兆円も貸しつけている。その金が動かせないと頭から信じこまされているのはなぜなのか。そのうち三十兆円をいま使えば、増税も国債発行も必要ないのに、口が裂けても誰もそれを言わないし、言わないのは当然という顔をしているのは──本当に不自然な話!──なぜなのか。日本はすでにして、完全な操り人形国家なのである。
 
 この悪夢の轍から逃れる唯一の道は、日本の軍事的自立以外にないのである。商人国家像の否定以外にないのである。
 
 原発に話を戻すが、中曽根以来の原発路線は、軍事的にはアメリカに封じられたIAEA体制下に置かれ、まさに商人国家路線にほかならず、これを否定することが独立への第一歩である。これは、戦争が終わるや否や戦前が悪だったと反省するたぐいの歴史否定の自己欺瞞とは、およそ原理を異とする別件にほかならない。戦争の歴史と原発の歴史を同一視する頭の硬い保守派のイデオローグは、どうしてそんな簡単なことが分からないのか。
 
 新幹線に事故のなかった国鉄を省みて、日本の技術力をもってすれば原発にも事故なきを期待できる──事故が現に起きているのに!──と強弁する観念保守派が今なお跡を絶たないが、そういう人はおよそ現実というものを正確に見ていない。国鉄には山之内幸一郎というような伝説的な逸材、事故事例を追い求めて、二度と同じ事故は許されないという強い信念と哲学を持つ技術者が中心にいた。彼がもし東電にいたら、反原発派の主張にも膝を屈し、進んで謙虚に耳を傾けただろう。
 
 ホンダでも、トヨタでも、一流の企業文化には必ずそういう人間力と技量と哲学を兼ねそなえた技術者たちに培われた時期というものがある。残念ながら、日本の原子力発電は、そういう歴史を持っていない。基本的にアメリカの模倣であり、加えられた日本の技術は改良技術にとどまっている。

原発最優先キャンペーン

 福島第一原発において一号炉はGE製であり、二号炉から六号炉までは東芝や日立が製作しているが、アメリカが設計図を引いたもののコピーにすぎない。日本中の他の原子炉も沸騰水型、加圧水型を問わず、設計の基本はアメリカにある。構造の改良は不十分で、残念ながら、地震の多い国に適用できる構造にはなっていないようだ。武田邦彦氏がマグニチュード6・0の直下型地震で日本の原発はすべて必ず壊れるようになっていると言っているのも、むべなるかなである。

 国鉄やトヨタやホンダのような国産の企業文化、技術文化のうえに立脚していないのがわが原子力産業の実態であり、その馬脚が露骨に現れたのが、今回の事故であったといわざるを得ないだろう。武器輸出さえできないこの国で、どうして核爆弾と隣り合わせる原発の技術において、国産の枠を競えるであろう。

 「第二の敗戦」「失われた十年」といわれた中曽根から小泉に至るわが国の対米再従属・対中新屈辱の歴史と歩みをともにした原発の歴史は、あらためて「非核三原則」の廃止に踏み切り、政治を再生し、そこから再出発する覚悟を新たにするしか、復活の道はないであろう。そこまで覚悟するなら、国産にも期待できる。今のままの原発依存の道を進むべきではあるまい。
 
 日本人は、江戸時代の貧しさに立ち還る覚悟がなければ、今の原発を止めることはできないなどと安易な言葉で威す人がいる。あるいは、原発を止めれば日本の人口は遠からず半減するだろう、などと言う人もいる。果たしてそうだろうか。
 
 われわれは「計画停電」で脅迫されたが、夏の盛りは別として、原発を停止しても休止中の火力発電を復活すればそんな危機はすぐこないという数字上の証明も、すでに各方面でなされている。もちろん、残された原発を今直ちに止めることは不合理である。日本は当分の間、稼働中の原発を上手に、合理的に運転していかなければならない。何ごとでも急激な変化、過激な措置は慎まなければならない。
 
 けれども、原発による発電の価格は安く、太陽光など自然エネルギーは高くつくので、前者を後者で代替することは到底できない、と広く今まで信じられてきた前提には、数多くの疑問符がつけられてもいるのである。
 
 原発は順調に運転されている稼働中の単位コストは安いかもしれないが、大金で住民を買収する地域対策費、巨額にのぼる廃棄物処理コストを加えて計算されているだろうか。さらに、今度のような事故が起これば、被害補償費は天文学的数字になり、安いなどとは到底いえないだろう。
 
 太陽光発電、風力発電、地熱発電などは、まだわが国では本格的に試みられていない。あんなものは役立たないと鼻先で笑う人が多いが、ドイツでは発電量の二五~三〇%を占めるまでになっている。それは、電力会社による各家庭からの買い取りシステムが確立されているからである。
 
 わが国でなぜ自然エネルギーの開発が立ち遅れたのかは、原発を最優先にする政治上のキャンペーンに抑圧され、足踏み段階で抑え込まれてしまっているからである。

浜岡原発停止は正しい

 東電による「オール電化」のキャンペーンは実際、各家庭を襲ってもの凄かった。東京ガスは気押されていた。わが家の門前にも、ガスを止めて台所を全電化せよの誘いがうるさいほど来たと聞く。事故以来、ピタッと来なくなった。電力不足時代がはじまったからである。これで初めて、太陽光などの各家庭からの買い取りシステムが活発に動き出す下地ができたともいえるだろう。

 電力不足が自然エネルギーの多様な開発を可能にし、コストを下げる作用をするだろう。必要が開発を促進する。日本がドイツ並みに全電力の二五~三〇%を代替エネルギーで賄うのも、そう難しい道のりではないと思う。

 原発の今後の存続の可能性は、地震国に適応した日本独自の技術開発のいかんにかかっているが、相当に難しいのは、使い終わった燃料棒の処理にある。

 じつは、使用済核燃料の処理は世界でどこもまだ成功していないのだと聞いている。アメリカとフィンランドは、燃料の残りは全部土中深く埋めこむ計画だが、まだ計画の段階である。日本とフランスは再利用する方向で、高速増殖炉は日本特有の技術ではあるが、平成十四年四月に停止してしまって、成功していない。他方、六ヶ所村の再処理工場は別の方向だが、ここも最終試験段階でトラブルが発生している。かりに成功してもいっぺんに処理できないので、中間貯蔵施設に使用済を何千本と保存しなくてはならないが、その施設がまだ出来上がっていないとも聞く。

 しかも、再処理ができても「高レベル放射性廃棄物」は最後にどうしても残るのである。これを地下三百メートルに埋めこむ計画のようだが、どの自治体も受け入れを拒否している。三百メートルといっても、日本列島は地震大国である。地殻変動で将来何が起こるか分からない。燃料の最終処理はフランスも成功していない。前にも述べたが、子孫に残すべき国土は民族の遺産であって、永久の汚辱の大地にすることはできない。保守といわれる知識人のなかに、どうして美しく保存されるべき豊葦原瑞穂の国を、何万年にもわたり汚染してもいいと考えている人が少なくないのか、私にはまったく理解できない。それに、いかなる人の故郷も奪われてはならない。エネルギー問題をイデオロギーに囚われて争っていてはならない。

 尖閣を中国から「守る」ことをしようとしなかった菅総理は、「守る」ということを正しく知っているとは思えない人物だが、彼による浜岡原発の停止命令は、その動機のあいまいさや場当たり性は別として、事柄自体としては私は評価している。福島と静岡の事故の挟み撃ちが万が一起こったら、日本は亡んでしまうだろう。誰よりもホッとしたのは、中部電力の幹部たちであっただろう。
世界から見放される日本

 私は大震災から二週間ほど経た頃、産経新聞「正論」欄(二〇一一・三・三〇)に書いたコラムの末尾を次のように結んだ。

 今後、わが国の原発からの撤退とエネルギー政策の抜本的立て直しは避け難く、原発を外国に売る産業政策ももう終わりである。原発は東電という企業の中でも厄介者扱いされ、一種の「鬼っ子」になるだろう。それでいて電力の三分の一を賄う原発を今すぐに止めるわけにいかず、熱意が冷めた中で、残された全国四十八基の原子炉を維持管理しなくてはならない。そうでなくても電力会社に危険防止の意志が乏しいことはすでに見た通りだ。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、企業は安全のための予算をさらに渋って、人材配置にも熱意を失うだろう。私はこのような事態が招く再度の原発事故を最も恐れている。日本という国そのものが、完全に世界から見放される日である。

 手に負えぬ四十八個の「火の玉」をいやいやながら抱きかかえ、しかも上手に「火」を消していく責任は企業ではなく、国家の政治指導者の仕事でなくてはならない。 

 震災直後のこの考えは今もまったく変わっていない。

 最近知ったが、ドイツ政府には放射線防護庁という役所があり、十六の原子炉のある周辺地域で、幼児がガンにかかる確率が高いことが分かった。放射線の量はきわめて低く、現在の科学のレベルでは関連は証明できない。けれども、すべての原発立地地区で同じ結果が出たという事実だけが明らかになった。

 また、私が信頼している人から直接聞いた話であるが、東京のがんセンターにある子供の病棟に茨城出身者が多く、東海村事故のせいとの観測が関係者の間で囁かれている。ドイツでは政府が公表し、日本では隠匿されている。今後、こうした問題は公開の場で討議されるべきである。

 私は四月十四日に、保守系のある討論会で福島の子供の学童集団疎開を提言したが、参加者数名から言下に否定された。子供と大人では受ける影響が著しく違うことをもっと真剣に考えるようでありたい。

脱原発こそ国家永続の道 (二)

『WiLL』7月号より

国にとっての「外部被曝」

 震災後の海と陸に展開された自衛隊の今回の救援活動を日本人は心強く思い、感謝の気持が高まっている。朝日新聞やNHKですら、国民感情を無視できなくなっている。自衛隊のおかげです、ありがとう、の気持ちは自然で素直だが、日本人はかつて戦地で戦う軍人にも、頼もしさとありがとうの感謝の気持ちを熱く抱いていたのである。子供の歌にも「肩ヲ並ベテ兄サント 今日モ学校ヘ行ケルノハ、オ国ノタメニ戦ツタ、兵隊サンノオカゲデスー♪」と歌ったものだった。今の自衛隊に対するのと変わらない自然で、素直な気持だった。
 
 理窟を言い出したのは敗戦後である。人間が愚かで卑劣になったのは戦後である。はっきり言うが、歴史を思い出すとき、なぜあの時代の国民の自然で、素直な感情に戻らないのか。「守る」ということは生命の本来の欲求で、人間がまともなら少しも難しいことではないのである。
 今回は原発事故だが、明日は外敵の襲来かもしれない。尖閣周辺は今もきな臭い。戦争を「想定外」として、いつまでも裂け目の外を覗き見る勇気のない国民には、そもそも原子力発電などを手がける資格がないのである。
 
 震災から二カ月半も経ったのに、被災地で弁当の配達をしているのは自衛隊員であるのを知って、隊員を本務に戻さない政府のやり方に怒りさえ覚えた。中央の官僚の大量投入と現地の被災民の組織化を、なぜしなかったのか。
 
 私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは最悪を想定し、最大限に可能な予防措置を施し、しかも平生はそれを忘れたかのごとく平穏に振る舞い、晴朗に生きる心掛けを創り出すことだと考えている。
 
 最近、放射能汚染をめぐって「内部被曝」と「外部被曝」の違いがよく取り上げられる。口や鼻から体内に入った前者は、後者に比べて破壊力が大きく、取り返しがつかない。この例にならって、国家も人体と同じように考えれば、国内に引き入れられた放射能の被曝は、国外から襲われる被曝よりも、よほど始末に悪い厄介なしろものだということが考えられねばならない。
 
 国にとっての「外部被曝」は、核攻撃と他国の原発事故の影響である。核攻撃から身を守るには、大国の核の傘に頼るか自ら核武装するか以外に方法はない。他国の原発事故の影響は防衛困難だが、日本は国境までの距離が大きいだけに、ヨーロッパに比べていくらか有利であるかもしれない。
 
 それに対し、「内部被曝」すなわち国内の原発事故は、土地が狭く、地震と津波の多い国土である日本は条件的に不利で、今度の経験から、原発はやらないで済ませられるならやらないに越したことはないと考える。「内部被曝」は、一人の人間の身体内と同様に、一つの国の国土内に起こると、被害は深層に入り、汚染は何十年と続く。
 
 しかも、核燃料廃棄物の最終処理が技術的に解決されていない以上、子孫に伝えるべき大切な国土が永久的に汚辱され、廃棄物をどんなに地下深く埋めても、地殻変動で将来どうなるものか分からない。国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない。

原発反対派に転じた理由 

 原発事故が起こってから、私は原発賛成派から反対派に転じた。考えを改めた。今まで原発賛成といっても、経済面で合理的で安全なものなら反対する理由はないと思っていただけで、無関心派に近かった。格別そこに道義や理念を持ちこんで考えていたわけではない。たかがエネルギーの問題で、国家の価値観や歴史の尊厳とは関係がない。
 
 しかし、福島の事故が起こって、原発は経済面で合理的でもないし、安全なものでもないと分かったし、国家や歴史を犯すものと分かった以上、人は選択肢を変えることに躊躇すべきではない。人間は経験から学ぶべきものである。
 
 自分を「守る」とはどういうことか。最悪の事態を想定して生きることであるとさきほど申し上げた。治にあって乱を忘れぬことである。しかし、乱をよろこぶということでは決してない。しなくて済む乱は、これを避けるに越したことはない。
 
 原発の選択は本当に不可避であったか、これまで真剣に問われないできたし、代替エネルギーの開発も原発が合理的という声に抑えられて本格的になされないできた。これから問われ、かつ急速に研究推進されるであろう。
 
 よくこういう問題で、「勇気」を持ち出す人がいる。ことに保守派に多いが、たかが事故の一つや二つ起こったくらいでオタオタするな、というのである。しかし、正直いって私はオタオタしている。福島の情勢が悪化することを、私は最初からひどく心配してきた。その徴候はいま現にある。別の原発で二度目の事故が起こることをさらに心配している。ダブルパンチを受けたら、この国は本当に亡びるかもしれない。
 
 体内の「内部被曝」の怖いことがよく分かった。国も同じで、内側がやられたらもう手に負えない。「勇気」を発揮しようにも発揮できなくなる。勇気や精神力を持ち出すケースでないことは、あまりにも明らかだろう。外敵と戦うのとは違うのである。
 
 それに、子を持つ母親の恐怖は深い。女性の参政権の強いこの国では今後、原発賛成では選挙に勝てないだろう。自治体は財政をかかえるから、すぐに反対はいえないだろうが、一般住民の意識ではすでに原発反対が圧倒的多数を占めている。日本国民は賢明で常識を具えている。

天使のような侵略
 
 私たちは、日常の裂け目からいったん奥を覗き見たのだ。奥にある破壊の相を目にした以上、生命力は奮然としてそこから身を守る戦いを開始したのである。今までの平穏で長閑な日常には、もう戻れないかもしれない。

 「守る」とは何か。本当の「勇気」とは何か。原発に必ずしも反対でなかった者が、私のように突然、慎重になると、戦争支持者が戦後突然、替わり身早く戦前を否定するようなことを言い出すのと同じ話だと騒ぎ立てている人がいるらしいが、これは見当違いも甚だしい。
 
 原子力発電は中曽根内閣からはじまった。そして、経済界が全面的にこれをバックアップした。私はかねて国家というものは政治、経済、外交、軍事の四輪が平均的に揃ってはじめて前へ進める車のようなものとしきりに言ってきた。日本のように、経済だけ突出した商人国家像を否定してきた。中曽根から小泉に至る自民党政治と経団連との野合を批判してきた。最近では『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)で、表紙に人名を刷って、中曽根康弘、後藤田正晴、宮澤喜一、河野洋平、小泉純一郎、小沢一郎、鳩山由紀夫のほかに、あえて奥田碩、御手洗冨士夫、小林陽太郎、北城恪太郎の四人の財界人を告発した。この商人国家路線が、いよいよここにきて破産したのである。自民も民主も同じ穴の狢である。3・11にはじまる原発事故が、日本の国家路線にNO! を突きつける警告のメッセージを発したと考えている。概略すればこうだ。
 
 一九九三年に同時成立した江沢民とクリントンの政権に脅され、絡め取られて再敗戦国家を演じつづけてきたわが国は、米中両国に屈服し、3・11で沈没しかかり、オバマの派遣した大艦隊の「トモダチ作戦」によって、権力の真空地帯を守ってもらった。東アジアに生じた権力の空洞は中国、北朝鮮、ロシアの垂涎の的である。しかも、福島原発はアメリカの危機感を別の面でも揺さぶった。
 
 アメリカのエネルギー政策の進路は、日本の原発の行方にかかっている。加えて万一、放射能が東日本を蔽い、四千万人が西へ移動するパニックが発生すればこの列島は無政府状態になり、アメリカは「臨時政府」を考えなくてはならない立場だ。かつての南ベトナムや南鮮の再来である。あの素早い大艦隊の派遣には、戦後史の記憶が宿っている。ルーピー鳩山以来、ますますアメリカからは日本がそういうレベルの国に見られているのは間違いない。
 
 しかし、私はふとこうも思う。日本は完全に堕ちるところまで堕ちるがよい。アメリカに作ってもらった「臨時政府」は、アメリカの手を借りてようやく「憲法改正」を果たすだろう。アメリカはなにしろ「トモダチ」である。嗚呼! わが国は堕ちるところまで堕ちて、悪魔のような侵略にではなく、天使のような侵略にさらされるがよい。
 
 そして、戦後もそうであったように、国柄そのものを奪われていく。戦後GHQは日本の左翼を利用して伝統文化を破壊したが、今回はオバマが民主党を利用して、TPPや外国人参政権その他を使って、わが国を再占領国家にふさわしく、中国やロシアや朝鮮半島に差し出す操り人形に仕立てあげるだろう。

つづく

脱原発こそ国家永続の道 (一)

『WiLL』7月号より

目に浮かぶ業苦の光景 

 今でも毎日のようにテレビに映る被災地の情景、木材と瓦礫と泥土に埋まった車、家、船の信じられないシーンにも、最近は少しずつ慣れてきた。そして、ふと、このなかに欠けているものがあることに気がついた。肝心かなめのものが写し出されていない。遺体だ。
 
 一度だけ、中国の新聞に出た被災地の写真をネットで目にしたことがある。民家の階段に両手を開いてあお向けに倒れている男性の遺体だった。もう一枚は、瓦礫のなかに投げ出された泥土のついたままの昭和天皇のお写真だった。どちらも、日本ではめったに写し出されることのない映像である。
 
 私たちが見ていないものを、現地の人や救助隊の人は日々、目にしているのである。平凡で和やかなはずの日常が突然破れ、口が開いた裂け目は、現地ではおそらく、私たちとは違った形で人々を直撃しつづけてきたのであろう。
 
 避難地域のテレビ報道で、悲惨な牛舎のシーンを見た。乳牛が幾頭も倒れて死んでいる光景だった。そしてパッとカメラが回った。牛舎の柵から頭を思いきり出して秣のほうに首を延ばしてそのまま死んでいる七、八頭の牛がいた。仔牛もいた。秣の山が届かなくて、必死に首を延ばして息絶えたのだろう。鼻の先に餌はまだ山をなして残っている。しかし、柵で首が届かない。見てはいけないシーンをみたように思った。業苦の光景が目に浮かんだ。
 
 人間の屍体がいたるところにある社会で、動物への残酷は看過ごされる。震災の現場は、私たちの知らない日本でありつづけている。
 
 裂け目から覗き見えたある不気味なもの、無秩序といっても混沌といってもうまく言い得ていないある空っぽで暗いもの、そのうえに私たちの文明社会が辛うじて載っかっている。土台ともいえない土台──ちょうど今度の地震で地盤沈下を起こして建物が斜めに傾いた地域があったが、文明全体があれと同じようにとても脆弱で、頼りない土台のうえに載っている。ぐらついていて、明日倒壊してもおかしくはないと実感される。裂け目から奥が見えて、ぞっと寒気もする。

どんな事故も「想定外」

 地震と津波に原発事故が重なったのはじつに因果だが、いわば一体で、切り離すことはできない。国民全部の元気がなくなっているのは、東北の犠牲者への鎮魂の思いからだけでも、放射能の広がりへの恐れからだけでも、より大型の余震や東海・東南海地震の新たな発生へのおびえからだけでもない。それらのすべてがまじった、説明のできない不安がここそこに漂っている。

 これはなぜか存在の不安、生きていること自体の不安にも似ている。

 この国の住人は永い間、裂け目の奥を覗き見ることをしないできた。ロボット大国といわれた日本の原発事故で、すぐ使える役に立つロボットがなかった。強い放射能にも耐えられるロボットは開発されていなかった。核戦争を前提としたアメリカの軍事用ロボットが初めて役に立った。いいかえれば、日本の原子力発電所は事故を前提としない事故対策をしていたにすぎない。原発の事故の現場は、核戦争の最前線と同じだという認識が頭からなかった。

 地震と津波が「想定外」の規模であったことは、誰しも認めている。しかし、非常用電源が津波で流されない仕組みやシステムを作っておかなかったのは人間の不用意であり、あらかじめ八方から注意や警告を受けていたのに対応しなかったことが「人災」だといわれるのは当然なのではあるが、私はそもそも、日本の原子力発電所は最初からどんな事故も「想定」していなかったのではないかとむしろ考えている。放射能に耐えるロボットも、セシウム除去装置も、丈の高い注水ポンプも、すべて事故が起こる前から用意されていてしかるべきではなかったか。日本は技術大国ではなかったのか。

 東電は企業だから、経費のかかることはやりたがらない。それなら、原子力安全委員会や原子力安全・保安院はあらかじめ事故を「想定」するシミュレーションを試みていただろうか。私は、罪深いのはむしろ内閣府や経済産業省と一体をなしているこれら企業に対する監視体制であったと考えている。そもそも、経済産業省は原発推進の中心勢力であった。そこに、附属機関として原子力安全・保安院がくっついているという仕組み自体が間違いではないか。

戦争も「想定外」 

 ある人の講演を聴いて知ったが、今から一年前の新聞に、福島第一原発はこれからなお二十年は運転可能であり、健全に維持できると原子力安全・保安院からいわばお墨付きを与えられていたと報じられていた。原発というのは四十年、内部が中性子を浴びつづけると圧力容器がどうしても脆くなって危うくなるものだそうで、そのあたりを厳密に審査して承認したのだろうか。
 
 世界の原子炉は、平均二十二年で廃炉になるそうである。日本でも法律で定期安全評価義務が求められていて、三十年経つと、必ず再評価が法令で義務づけられているのは良いことだが、すでに四十年経っているあの福島第一原発をすべて合格、しかも、これからなお二十年は運転可能と承認していたというのだから、いったい原子力安全・保安院はどんな審査をして、これほどの評価を与えたのだろうか。現に、メルトダウンし圧力容器に穴があいているといわれているではないか。
 
 四十年を超えている原子炉は世界では稀なケースだそうである。言っておくが、電源の置かれた位置や予備発電装置も審査の対象だったはずである。
 
 考えてみると、日本の原子力発電にとっては津波の大きさだけではなく、すべての事故が「想定外」だったのである。事故は起こらないという大前提でことは進められていたに相違ない。そして、そのことは日本の根本問題につながっている。この平然たる呑気さは原発だけの話ではないからだ。原発にとって事故は「想定外」であったと同じように、そもそも自衛隊にとって戦争は「想定外」なのではないだろうか。
 
 この国の住人が何となくうそ寒い不安を覚えているのは、日本がこのままで大丈夫なのだろうかという意識に襲われるからである。外から何かがあったら、今度の原発ショック以上のことが起こりはしないかと国民は口にこそ出さぬが、漠然と感じているのである。
 
 原発にとって、事故は「想定」してはならないものでさえあった。さもなければ、官僚機構のど真ん中にある原子力安全・保安院のこれほどの間抜けぶりは考えられない。最悪を「想定」するところから物事をはじめる、という考えがまったく育っていない。企業人だけでなく、官僚も、学者も、政治家も、文明の永遠の存続を前提とし、その裂け目から、文明が破壊された廃墟をあらゆる想像力を駆使して覗き見るということをしていない。同じように、自衛隊にとって戦争は──本当はそれが目的で存立している組織であるのに──「想定」してはならないものとして観念されているのではないだろうか。

原発建設より憲法改正を 

 アメリカやフランスは核保有国である。アメリカや中国やロシアは国土が広い。フランスや北欧は地震がない。しかも、原発を引き入れるこれらの国々では戦争は「想定外」ではない。フランスはつい最近も、リビアを空爆した。日本では、拉致被害者を武力で取り戻すことができないことを当たり前のことのように受け入れてしまっている。こういう国では、ロボット技術がいくら発達しても軍事用のロボットをつくる意識が育たないのだ。そういう国では、原発技術をいくら高めても、事故はそもそも「想定外」のままなのである。いつまで経っても、事故に対する備えの意識は本格化しないだろう。
 
 原発事故は戦争の現場と同じである。憲法九条をいつまでも抱えこんでいるこの国が、原発に先に手を着けたのが間違いである。アメリカは完全装備の核部隊を持っている。日本の自衛隊にそういう部隊はあるのだろうか。福島の現場がいよいよ軽装備の普通の作業員の手に負えなくなったら、どういうことになるのだろうか。今回の件は、戦争を忘れていた日本に襲来した戦争にほかならない。
 私は、日本の原発は作るべきではなかったと言っているのではなく、憲法を改正するのが先で、順序を間違えていなかったかと言っているのである。

つづく

次の総理

 『文藝春秋』2011年7月号のアンケート「次の総理はこの人」に私は以下のごとく回答した。7月号はまだ発売前なのでルール違反だが、次の総理が決まってしまってからでは面白味がなくなるので、あえて私の回答をおしらせしておく。

行動で自らを証明した亀井静香氏

 亀井静香

 政治は言葉だけではなく行動で自分を表現する仕事だ。中曽根から小泉に至る「改革」という名の日本を蝕む強迫観念に断固抵抗し、生き残った亀井静香氏は、TPPと尖閣という米国と中国の双方の圧力から日本を守る気概を持つ。連立内閣で裏切られた責任をとり閣僚を辞めた潔さも今の世に貴重だ。解散総選挙が難しい震災後の情勢で、各党から等距離にあり、政界再編の芽ともなり得る。民主党はすでに人材を出し尽くし、自民党は若手にのみホープがいるがいまだしである。石原慎太郎氏は過去何度もの好機を自らの勇気の無さで失ってきて、勇気のある亀井氏が最適任者である。

『文藝春秋』7月号より

「最悪を想定できない『和』の社会の病理」

 『WiLL』7月号の「脱原発こそ国家永続の道」に先立って同誌6月号に私は「最悪を想定できない『和』の病理」を書いた。(これは違う題名になって掲載されているが、私の本意とする題名は表記の通りである。)

 6月号と7月号の二論文はセットとなって私の今の考えを表現しているので、6月号論文を以下に全文一括掲示する。雑誌で読み落としている方もいると思うので、二論文を併読していただきたい。

原子力安全・保安院の「未必の故意」

日本永久占領 

 震災の起こる直前に、米国務省日本部長のメア氏の沖縄に関する問題発言があった。地震と津波と原発の印象があまりにも強くて、大概の人は忘れてしまったと思うが、沖縄人は「ごまかし」と「ゆすり」が得意という彼のもの言いが侮辱発言だと騒ぎになり、米国政府が平謝りし、メア氏をあっさり更迭したので、もちろん、今さらここで何も取り上げるべきことではない。
 
 ただ、メア氏の発言のなかには「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というもう一つの問題の言葉があった。ここにアメリカの本音が漏れていて、騒ぎが大きくなるのは日本永久占領意志がばれて困るという米当局の思惑からの更迭だろう、と私は推察し、沖縄人侮辱発言のせいでは必ずしもない、と思っていた。
 
 つまりこうだ。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、いまだに日本に主権はないと考えねばならない。アメリカはここを失えば、かつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の場からいよいよ滑り落ちる。日本はいわば最後の砦である。
 
 アメリカが必死なのは当然である。ルーピー鳩山以後の日本政府の子供っぽい「反抗」にも我慢して、ぐらつく普天間にも忍耐づよく振る舞っているのは、帝国の襟度を守りたいからであるが、しかし、それが見えている日本人は、だからこそ、真の独立をめざして必死にここを突破しなければ、日本復活のシナリオは生まれてはこないのだと考える。日本の政治が三流に甘んじていてダメなのは、いまだに日本があらゆる点で主権国家であることを放棄して恥じないからに外ならない。そう考えるべきだし、私はそう考えていた──。

福島原発とリビア軍事介入 

 と、ちょうどそのとき、地震と津波が起こった。アメリカは救援に大艦隊を派遣した。「ともだち作戦」とそれを名づけた。
 
アメリカは、苦境に陥っている人や国を救助する能力のある国だということをあらためて証明した。迅速で有効な展開力と行動力は、見事ですらあった。日本人の多くが心強く思い、感謝したのは当然である。さすがアメリカだ、と。私もその一人であることを正直に申し上げる。ここに何もことさらに下心や邪心を読む必要はない。アメリカ人らしい明るさと公正さと善良さに、我々は大きく包まれる思いがした。
 
もちろん、アメリカは日本の原子力開発には他人事ならぬ関心と期待を寄せつづける理由があった。この国は軍事的な核大国であり、核技術の蓄積も日本の比ではないが、スリーマイルの事故以来、原発は後退している。ウェスティング社を日本に託して、産業政策としての原発の未来の可能性はいつに日本のこの分野の進歩にかかっているとさえ見られていた。
 
 原子力発電の新規拡大には国内に反対勢力が強く、オバマ大統領がそれでも原発を目玉政策に掲げざるを得ないのはCO2削減もあるが、原油の値上げもあって、世界各国の動向がいよいよこれから原発の増大にはずみのかかっている折も折だったからだ。アメリカもフランスも、日本の失敗は他人事ではなく気が気でなかった。中東政策にも影を落とさざるを得ない。リビアへの軍事介入は、福島の事故が起こってからそれを横目に見ての出来事だった。
 
 もとより、「ともだち作戦」は地震と津波に襲われ、呆然としたわが国の自然災害の救助に向けられたのであって、福島第一原発の事故対応は直接の目的ではなかった。が、ほぼ時を移さずして、事故はアメリカ政府の最大の関心事となった。クリントン国務長官は冷却法の提供など技術援助を惜しまぬと語ったが、廃炉を恐れた東京電力がこれを断った。アメリカは不信を募らせた。日本政府の政治意志はこの間、ほとんど存在しなかったに等しい。

事実上の無政府状態

 「政治主導」は民主党政権が成立して以来、偉そうに言われてきた言葉であるが、政治家に官僚や企業人を超える知性と現実に対する謙虚さがなければ、逆にマイナスに働いてしまう事柄である。菅政権は知的指導力もなければ謙虚さもなく、いたずらに政治家が采配を振るおうとして、結果的に東京電力の情報に振り回されたり、官僚を使いこなせなかったり、惨憺たる有り様だった。
 
 菅総理には、自分にも分からないものがあるのだという政治家の限界への認識がない。それゆえ、すぐに特別災害救済法を発令するというようなことも思いつかず、他人の力に任せるという度量もない。それでいて、結果的には政治家が自らの力でできることはほとんど何もない。原発事故に関しては、司令塔は東京電力の内にあったに等しく、官房長官は東京電力のスポークスマンにすぎなかった。しかも、失敗すると責任を他人のせいにするのがこの政権の始末の悪い処で、その最悪のケースは低レベル汚染水の海中放出の事件であった。
 
 原子力規制の基となる通称「原子炉等規制法」というのがあり、第十五条にすべての決定は政府の管理下でなされると書かれていて、この法令がすでに発令されていた。第六十四条には「危険時の措置」が示されていて、応急の措置は大臣の命令による裁可に基づくと書かれている。放射能汚染水の海中放出は「危険時の措置」に外ならない。
 
 海江田経産大臣が、東電は何でこんな危ないことをやったのか自分は知らなかった、などと後から責任逃れのようなことを言うのはまったく筋が通らない。韓国政府が日本政府に抗議したのは当然である。外務大臣はあのとき謝罪すべきであって、醜い反論をしたのはさらにおかしい。
 
 菅総理が後から閣内不統一を認めてこれから指導すると弁解したのは、外国に事実上の無政府状態を告白したようなものである。韓国が「日本政府は無能」と追い討ちをかけたのは、残念ながら正鵠を射た罵倒語であった。

日本国家消滅の可能性

 アメリカは、こうしたいきさつをすべて見ているはずである。日本の政治がもう何年も低迷し、「権力の不在」という病理現象を呈していることを知り抜いている。少し前に中国の尖閣揺さぶりがあり、ロシア大統領の北方領土訪問の威嚇があったのも、日本の政治が真空化しかけているしるしだった。民主党政権が自らの危うさに気がつかず、空威張りの政権しがみつきを継続していること自体が、極東のこの地域一帯の政治権力の空洞化の危険な徴候である。

 そういう状態で巨大な災害、地震と津波と原発事故が起こった。これをアメリカが見ればどう見えるだろうか。オバマ大統領はなぜ空母を含む大艦隊を急派し、同盟国としての援助を惜しまぬと大見得を切ったのだろうか。

 「ともだち作戦」は、もちろん友愛と同情のしるしだが、ただそれだけの目的の行動力の展開だろうか。百五十名の核特殊部隊は横田基地に待機している。ほかにも、軍人や軍属は日本の許可なしに出入りし、艦隊の移動も自由であるのは日米安保条約六条に基づく日米地位協定に由る。安保条約は発動され、緊急事態に対処しはじめているのである。

 アメリカから見れば、日本列島もアフガンもイラクも、あるいはかつてのフィリピンもベトナムも南朝鮮も、政権がしっかりしていないこと、単独で危機に対処する能力がないこと、いざとなれば米軍のてこ入れで臨時政府をつくる必要がある地域であることは同じであって、つねに国家漂流の可能性は計算されているはずである。何とも情けない話だが、日本のこの現実を今の日本政府は増幅させている。

 もちろん、そんな可能性は万に一つもないと日米ともに平常時には考えているし、福島第一原発の小休止状態──不安をはらんだままの──である四月半ば過ぎの段階においては、考慮する必要はまだないのかもしれない。しかし、アメリカが日本支援に起ち上がったあの原発事故の初期の時期には、日本という国家の突然の消滅の可能性を想定していたはずだ。そして、原発の今後の動向いかんでは、再び想定せざるを得ない場合もあり得るだろう。

 放射能放出が止まらず、冷却水の循環装置の修復も困難となった場合に、国際社会ははたして黙っているだろうか。日本は原発事故の収拾権をIAEA(国際原子力機関)に奪われ、この点に関するかぎり、国家主権を制限される羽目に陥るのではないだろうか。否、ひょっとすると我々が知らないだけで、すでにそうなっているのかもしれない。 

 『週刊文春』四月二十一日号によると、アメリカ政府は当初から東電本社の対策統合本部の近くに会議室を強引に借り受け、そこから矢継ぎ早に・進言・を下しているという。今やあらゆる原発事故のデータはワシントンへ届き、分析されている。そして、日本政府のさまざまな分野に・助言・がなされているらしい。「おともだち」の単なる支援救援を越え、日本の首相が決断すべき国家の意志決定のプロセスに事実上、介入する事態に立ち至っているようである。

 もし万が一に、四千万人の避難民が西に移動する東日本崩壊という事態になったら、日本は完全な無政府状態に陥るだろう。そのとき頼りになるのはアメリカだと考えるのは、じつはあまりにも安易である。アメリカは政治的に干渉するが、実力部隊は介入すまい。

つねに最悪を考える

 三月十六日頃の原子炉内のメルトダウンと温度急上昇によって、大量の放射能の出ることが予測され、東京が一気に危険圏内になったあのとき、アメリカ軍は八十キロ圏外に逃れ、原発の現場の作業に一人の米兵も参加しなかった。米船舶は西日本に移動し、ヘリは三沢基地に逃れた。現場に急行し、放水して危機を防いだのは周知のとおり、わが消防隊と自衛隊だった。自分の国と国民を守るのは外国人では決してない。そのことを我々は肝に銘じておかなくてはならない。

 アメリカは、日本が国家漂流の状態になることがあり得るという可能性を想定内に入れているからこそ、大部隊を派遣したのである。しかし、日本が国家喪失の状態になった後には実力を振るうが、そうなるまでは日本の混乱を冷淡に突き放して放置するだろう。自国兵の被曝の危険をできるだけ用心深く避けながら、極東の地域一帯の政治権力の喪失状態を何とかして回避したいと今も考えている。

 しかし、日本では政府も民間人もそこまで考えているだろうか。福島原発がコントロールできなくなるような最悪の事態、国家の方向舵喪失のあげくの果ての、政治だけでなく市民生活全般における恐怖のカオスの状態を念頭に置いているだろうか。

 アメリカ政府にあって日本政府にないのは、地球全体を見ている統治者の意識である。アメリカの政治家にあって日本の政治家にないのは、あらゆる条件のなかの最悪の条件を起点にして未来の計画図を立てているか否かである。つねに最悪を考えるのは、軍事的知能と結びついている。

官僚化した日本社会

 歴史書を繙くと、軍事行動に踏み切ることにいちばん慎重なのは軍人であることに気がつくことが多い。政治家とマスコミは戦争を煽る。軍人は臆病なのではなく、最悪の事態、困難な事態を一番よく知っているのである。軍事と政治を直結させないできた日本の政治的知性は不用心で、楽観的で、細心の注意で選択し、行動しないことが多い。

 そのことを典型的に表すのは、大事故に対する日頃の心の用意の質とレベルである。福島原発の事故が人災かどうかは別として、日本の社会の官僚化の欠陥が表面化したのだということは、軍事不在国の関連においてもどうしても言っておかなくてはならない点である。

 四月十日の午前中のテレビ朝日「サンデーフロントライン」の座談会で、原子力安全委員会の元委員長の肩書きの人がぺロッと口を滑らせた重要な発言があった。事故を防ぐために何から何まで想定して防止策を立てることは経費のうえからいってできない、と。

 原子力安全委員は「経費」を考える立場だろうか。これはおかしい、と東京新聞の人がそのとき釘をさしていたのに私も納得した。監視する側の人が監視される側の人と同じ立場に立ち、同じ意識でいる。馴れ合いと仲間意識が関係者同士の批判意識を鈍らせているようである。

 経産省は原子力推進勢力の一つである。その付属機関に、原子力・安全保安院があるのはおかしいのではないか。同じ仲間が、どこまで厳しく安全を守るためのチェック機能を働かせているだろうか。法律に照らして監視さえしておけばいい、事故が起こっても俺たちの責任じゃない、で日々を安易に済ませていないか。

 たとえば、聞くところによると、問題を起こした福島第一原発の一号機はアメリカのGE製、二号機はGEと東芝の共同製であった。電源設備が最初からあまりにもお粗末なつくりであったことで知られていた。ところが、これの点検やチェックは搬入後なされていない。アメリカで合格とされたものに、日本でバックチェックはあり得ないからだそうである。法の遡及は考えられない取り決めだというのである。何という実際性のない硬直した対応だろう。今日のここで起こった大事故の正体は、原子力・安全保安院の「未必の故意」ではないのか。

 東電を監視する側の官庁である経産省の高級官僚、エネルギー庁長官が今年一月、東電の顧問に天下りした人事はまさにアットオドロクタメゴロウであった(ただし、四月十六日に急遽解消された)。民主党政権になって急遽なされた人事で、自民党時代の天下りにはまだあったためらいも迷いもないストレートな決定だった。今回の原発事故からは「人災」の匂いが立ちのぼってくる。

 人間同士が対立的関係で相互監視しないシステムは日本社会の甘さの特徴でもあり、あらゆる案件に人が最悪の事態を想定して対応するという欧米風の習慣を育てない風土でもある。

事故の最大の温床

 今回、事故説明にテレビに登場したソフトな物腰の、安全と無害を国民に触れ回る東大教授の諸先生を、私は週刊誌が言うごとく「御用学者」だとからかうつもりはない。だが、東電の元社長や副社長の誰彼も、前原子力安全委員会委員長も、現委員長も、原子力安全・保安院の誰彼も、東芝、日立などメーカーのお偉いさんもことごとく東大工学部原子力工学科の出身者で、いわば「東大原子力村」、あるいは「東大原子力一家」とも名づけるべき閉鎖的相互無批判集合社会を形成していることが明らかになるにつれ、これ自体が今回の事故の最大の温床であり、誤魔化しと無為無策の土壌であったと私は判定せざるを得ない。たとえば、京大系に名にし負う反原発の俊秀がいることは知られている。私は素人で当分野に無関係の人間だが、ネットで主張を聞くかぎり、理筋の通っている人だ。同じテーブルについて互いに学問的に開かれた討議をし、甲論乙駁することが、国民の幸福と安全のためにもなるのではないかと愚考する次第である。

 ドイツの大学の人事に「同一学内招聘禁止法」(Hausberufungsverbot)という慣習法が存在する。教授資格を得た者は、母校である出身大学に就職することができない。必ず他大学に応募しなければならない。いいかえれば、老教授は自分の愛弟子を後任に選ぶことが禁じられている。それだけでなく、准教授から正教授へ昇格するときも、自分の今まで勤務していた大学でそのまま上位の地位を得るのではなく、必ず他大学に応募し、複数の候補者と論文だけでなく講義の実演を公開して、新たに「挑戦」することが義務づけられている。いうまでもなく、馴れ合いを排し、正当な競争が公正に行われるための条件を守りつづけるシステムとして、こうした慣習が確立しているのである。アメリカの大学はドイツとは相互関係が異なるので必ずしもドイツほど厳格ではないが、ハーバード大学の出身者はハーバード大学の教授にはなれない、などの不文律はあると聞く。

人間社会の暗黙の「和」

 人間社会の暗黙の「和」を信用せず、「競争」の維持を最優先させるシステムといってよい。それはまた、人間相互の悪と不信を前提とする個人主義に立脚している。個人主義は性悪説から成り立っている。原子力安全委員長が電力会社の思惑を公衆の前で平然と代弁するような、検事が弁護士になり替わってしまうような日本社会の生ぬるいいい加減さ、監督官庁の幹部が監督される企業の幹部に無警戒に天下りし、同じ大学の出身者が企業、学界、官界を独占的に牛耳り、肌暖め合ってなにごとでもツーカーと分かり合ってしまうような精神風土が、今度の大事故の背景にあったことに我々は冷静な批判のメスを入れるべきときである。

 現場に対し監督側に立つ企業の幹部や、企業を監督する原子力安全委員や原子力安全・保安院のメンバーには、万が一の事故が起こった場合には何らかの刑事罰が課せられるような法改正がなされてしかるべきではないだろうか。それでなければ、国家の根幹を揺るがすこともある原子力発電の今後の継続など、安易に口にすべきではないように思える。

 原子力の安全神話が間違っているのではなく、安全神話を担いで外からの批判を封じ、ある全体的な雰囲気をつくって仲間意識を拡大し、政治やマスコミを巻きこんでソレイケドンドンとやってきた集合意識が、問題なのである。異論は、共産党や一部左翼の議論であるとして、非理性的に排除されてきた。異論や反論を同じテーブルにつける公明正大なディスカッションの場が、これからいよいよ必要であると思う。

 日本の一般社会の空気も問題である。東京電力のような影響力の大きい企業の人事が、江戸時代の農村メンタリティで決せられていないだろうか。詳しい事情は知らないが、減点法で無難な人が出世し、批判力や指導力よりも社内に敵のいない既成の枠を守る人、創造力よりも気配りのいい保守型の人、こういう人物が出世の階段を昇り易くなっていないだろうか。

 日本は、これからはこの手の人材ではもう発展が望めないと言われて久しいのに、千年一日のごとく「和」のムードを優先させているのが政・官・財・学に共通する日本の人事の実態のように見受ける。

現実の承認と現実の否定

 もとより西欧型、米国型の「個人主義」が、すべてにわたって優位にあるとは必ずしもいえない。ただ、自然科学はそもそも欧米からきた。そこに日本の伝統技術も加算された。原子力発電は日本で進歩が著しいといわれるものの、いざ事故が起こってみると、事故対応の役に立つロボット技術ひとつ用意されていない。バケツで水を撒いたり、汚水の穴にオガクズやおしめの類を入れてみたり、子供のマンガを見させられているような滑稽なシーンがつづいた。

 さらに、昨日の危機は改善されずに今日の危機が目前にあったことも見逃せない。地震から一カ月経った四月十一日午後五時過ぎに大きな余震が起こり、津波の恐れがあったのに再び電源が切れ、建屋内への注水が途絶えた。作業員の手動による応急措置が待たれたが、たまたま津波警報で作業員は現場から離れざるを得ず約五十分、またしても一カ月前と同じ大事故の危機が生じた。

 幸い、東北電力からの電源が回復し、一同ホッとしてことなきを得たが、電源が切れたら第二、第三の予防措置を講じるという、あのとき求められていた強い要望は、あっという間に忘れられていた。津波警報が出て作業員がいなくなる、という「想定外」の出来事がまたまた起こったのである。現場はまたしてもなす術がなかったのだ。

 つねに最悪のことを考え用意する。最悪を見つづけるのは人間として勇気を要するが、それが大切だと私は本論で繰り返し書いてきた。事故に対するも、人間関係、人事や政治においても欧米社会にこの点で一日の長があることは、軍事ということを片時も忘れずにいる社会と、六十五年間これを忘れてしまった社会の差でもある。江戸時代の農村メンタリティに戻ってしまい、学者や経営者たちまでが前近代的に生きているのに、自分は最先端の技術を駆使する超近代人であると思いこんでいる錯覚が問題である。それが、今度の事故で打ちのめされたと言っていい。それはいいことである。この絶望から、この敗北感から再出発せざるを得まい。

 米国務省日本部長メア氏の「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなる」の発言に、私は冒頭で多少とも立腹した。日本の政治がこのまま三流に甘んじていてはダメだと書いた。

 日本よ立ち上がれ、のそのときの気持ちに今も変わりはないが、政治とは学者や企業人の指導力を含む概念であり、政界だけの問題ではない。口惜しくても、米軍を必要とする現実はつづいているのである。日本の再生はこの現実の承認と、さらにその先を見つめたこの現実の否定からようやくはじまるはずである。

「脱原発こそ国家永続の道」について

 原発事故から心が離れない。私は事故直後にすぐ判断した。日本の将来のことを考えて「脱原発」こそ目指すべき方向である、と。産経コラム正論(3月30日付)にも、『WiLL』6月号の拙稿「原子力安全・保安院の『未必の故意』」にもそう書いたし、4月14日のチャンネル桜の討論会では福島の学童集団疎開さえ提言した。

 福島第一原発の情勢の悪化を今も非常に心配している。狭い国土における「内部被曝」は人体におけると同様に始末に負えない。それに使用済核燃料の最終処理の見通しの立たない原発は、われわれが子孫に伝えるべき美しい国土を永久に汚辱し侵害するおそれがあると考えられる。私は「守る」とは何か、をしきりに考察した。派遣されたアメリカの大艦隊、「ともだち作戦」の真意と現実、東アジアにおける日本の陥った危ういポジションをどう考えるかも、問題として一体化している。

 こうしたすべての点を踏まえて『WiLL』7月号(5月26日発売号)に「脱原発こそ国家永続の道」(12ページ立ての評論)を発表する。ネットの読者には申し訳ないが、今のこの時点での私の考え方を集約した論考はこれになるので、ご一読たまわりたい。また5月26日より以後に、同論文へのコメントを今日のここに投稿していたゞけるとありがたい。

 事故直後から私は「脱原発」を唱え始めたと書いたが、私を取り巻く言論空間は必ずしも私と同じではなかったし、今も同じではない。あるいは無言と沈黙がつづいている。産経新聞は原発支持であり、『文藝春秋』と『正論』は態度を示さないし、『WiLL』6月号も雑誌として「脱原発」の声は上げていなかった。代りに『世界』がよく売れ、増刷に増刷を重ねていると聞く。

 事故以前にすでにあったイデオロギーの対立が事故以後に引きつづき持ち越されていることは明らかだが、資源エネルギー問題などをイデオロギーに捉えられて考えるべきではない。できるだけ感情的にならずに合理的に、クールに考察を進める必要がある。人は体験から学ぶべきものである。これほどの大事故が起こった以上、心が震えない人はおかしい。今までのいきさつに囚われていてよいかどうか、原発について漠然と抱いていた固定観念をいったん白紙に戻す謙虚さが求められている。

 けれども保守系の言論界を見る限り、歯切れが悪い。原発は現代の産業維持に不可欠の存在と思い定めていて、梃子でもそこから動かない。もとより私とて原発は明日すぐに全廃することはできず、上手に稼動させ少しづつ減らしていく以外にないと考えている。しかし原発の新規増設はいずれにしてももう望めまい。望みたくても国民が許さない。

 いろいろな「悪」がこれから白日の下に曝されるようになるだろう。お金を積んで説得した地域対策費、すでに巨額にのぼり今後さらにどれくらいの額になるかも分らない廃棄物処理コスト、政治家やマスコミにばらまかれたこれまでの反論封じ込め費――これらが次々と暴かれるであろう。また暴かれる必要がある。

 原子力安全委員会委員長に斑目という人物がいる。You Tubeで彼の発言を聞いて、その余りにあけすけな卑劣さに、私は腰を抜かさんばかりに驚き、にわかに信じられなかった。彼は廃棄物の最後の捨て場を引き受けてくれる自治体はあるのかという質問に答えて、「お金ですよ。最後はお金です。ダメといわれたら二倍にすればよい。それでもダメなら、結局はお金ですから、五倍にして、否という人はひとりもいません。」

 巨悪ということばがあるが、巨大なものはどうしてもグロテスクになる。電力会社は日本経済の高度成長を支えるうえで決定的役割を果してきたが、度が過ぎると、自己抑制のコントロールを失う。台所の「オール電化」の叫び声がわが家の戸口にも襲来し、東京ガスを一気に追い払おうとしていた。東京電力のキャンペーンのしつこさは事故のほんの少し前まであった目立つ出来事だった。すべてはやり過ぎなのである。原子力発電が無限の利益もたらすという幻想に今度歯止めがかかったのは良いことだった。

 国民は健全な常識があり、賢明である。おかしいのはいつの時代にも知識人である。昔は左の知識人が常識を踏み外していたが、今はどうであろう。保守系の知識人や言論紙が少しおかしいのではないか。今日(5月20日)の産経の社説は、いま徹底的に批判されるべき(東電以上に批判されてしかるべき)原子力安全・保安院をしきりに擁護しているのには驚いた。

 菅総理を批判するのは今は誰にでも簡単にできる。民主党がダメなことは今では高校生でも弁じることができる。中国の悪口ももうそろそろ底をついた。こういう方向のこと、安易なことだけを元気よく語りつづけてきた有名な誰彼の教授、評論家、女性ジャーナリスト諸氏をみていると、原発の是非についてはなぜか固く口を噤んでいるのがかえって異様で、目立つのである。

 保守の論客たちは心を閉ざしている。何かに怯えて見て見ない振りをしている。原発事故の大きな悲劇と不安に対し、人間としての素直で自然な感情で対応しようとしていない。私は過日ソフトバンクの孫正義社長の講演をUstreamで聴いたが、さすが噂にきく大きな人物だけのことはある。真剣に考えていることはすぐ分った。国民の一人として心が震えていた。私は孫という人をこれまで誤解していた。皆さんもぜひ講演を聴いてご覧なさい。

 名だたる保守系知識人、名誉教授や有名な論客がたまたま一堂に会したシンポジウムがあったそうで、四月の末か五月の初めらしいが、「原発は必要だ、一度ぐらいの失敗でオタオタしてはいけない」の大合唱になり、会場で聴いていた人から私に連絡があった。「先生、僕は保守派が嫌いになりました。まるっきり反省がないんです。有名なK先生が、国鉄に事故ひとつない日本の技術をもってすれば、原発の事故なんて今後起こらない!事故が現に起こっているのにそう言うんですよ。」

 日本の技術が秀れているのは確かだが、国鉄にできて原発にできるとは限らないのは、当「日録」の粕谷哲夫さんのゲストエッセー(5月12日)を一読いたゞきたい。また、私の4月22日付日録に付せられた21番目のコメントをお読みいただきたい。原発技術はアメリカ直輸入で、国鉄などとはいかに違うかを考えさせてくれる秀れた内容のコメントだった。

 日本の技術は世界一だというのはひとつの「観念」である。この観念が成立するまでには力量と人格と哲学を具えた技術者たちの戦いの現実がある。日本の原子力発電にそれがあったかどうかが今後問われるだろう。

 保守系知識人は「観念」をう呑みにし、背後の「現実」を見ていない。知識人は左右を問わず、いつもそうである。「現実」から目をそむけて「観念」でものを言う。

 何も勉強しないで原発は絶対に欠かせないときめこんでいるとか、東電叩きは歪んでいる(東谷暁氏)とか、原子力保安院は一生懸命やっているとか、津波対策だけすればよく地震は心配ない(中曽根康弘氏)とか、最近のこういう声に私は思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じているということを申し添えておく。

 反原発を主張する『世界』掲載の論文や小出裕章氏とか広瀬隆氏とかの所論はどれも力をこめて何年にもわたり原発否定の科学的根拠を提示しつづけて来た人々の努力の結晶なので、その内容には説得力があり、事故が起こってしまった今、なにびとも簡単に反論できないリアリティがある。例えば教授ポストを捨てて生涯を危険の警告に生きた小出氏などは、話し方にもパトスがあり、人生に謙虚で真実味があり、原子力安全・保安院長のあの人格のお粗末ぶりとは違って、説得力にも雲泥の差があるともいえるだろう。

 けれども一つだけ総じて反対派に共通していえるのは、大抵みな「平和主義者」だということである。彼らが軍事ということをどう考えているのかが分らない。ここが問題である。

 福島第一原発の事故の現場について誰も言っていないことは、核戦争の最前線に近いということである。ロボット大国のはずの日本製ロボットは役に立たず、アメリカの戦場用ロボットが初めて実用に耐えたことをどう考えるべきなのか。保守系言論人は、ここに着目すべきなのである。日本の技術は世界一だから一回くらいの事故でオタオタするな、などと空威張りするのではなく、世界一の技術がなぜ敗退したのか、そこから考えるべきである。武器輸出ひとつできない「平和病」の状態で、原発を世界に売る産業政策を口にするのはそもそも間違っていたのではないのか。

 私の「脱原発は国家永続の道」はこの矛盾の轍の中に飛び込んだ論考である。5月26日の『WiLL』7月号をお読みいただきたい。そして、コメントはここに記して下さい。

追記 『WiLL』6月号の拙論の題名「原子力安全・保安院の『未必の故意』は、私がつけた本来の題は「最悪を想定しない『和』の社会の病理」でした。花田編集長は今回は珍しく、題名をひねって取り替えたのは自分の失敗だった、と反省していました。

原発論争

 今日のこの日から当「日録」はコメント欄を復活することを宣言する。妨害者の乱入に悩まされてコメント欄を久しく閉鎖して来たが、復活を望む声も少なくなく、もうそろそろ開いて、自由な書き込みを歓迎すべきときではないかという声に従いたい。

 なお、コメントは、コメントと書いてある部分をクリックすると、一番下に記入欄が現われます。コメントは承認制となっています。

 原発事故とそれをめぐる今の国の状態について、WiLL6月号(4月26日発売号)に20枚ほど寄稿した。私の関心は大きくいって三つあった。第一はアメリカとの関係、今回の対日支援の本当のところは何であるかを考えてみた。第二は原発を操る人の質の問題、広い意味での政治、必ずしも政治家だけではなく、官僚・企業人・学者を蔽っている相互無批判な集団同調の心理を分析した。そして第三は資源エネルギーの未来のテーマ、原発に代わる代替エネルギーは果してあるのかないのかについてである。しかし今回は第三の主題には筆は及ばなかった。主として第一と第二の現状分析に終った。題して「最悪を想定できない『和』の社会の病理」。以上は文化チャンネル桜での私の発言内容と方向においてほゞ同一である。

 4月16日(土)に放送された文化チャンネル桜の原発事故をめぐる討論を見て下さった方は予想外に多かったようで、いろいろな反響があった。最初は仕事の関係でいま親しくお付き合いしている編集者の方(50歳台)からのメールである。

 

桜チャンネルを興味深く拝見いたしました。
西尾先生が常日頃述べられている東大支配の構造が、原発推進そのものであると、とても理解できました。
推進する側の官僚体質と自信が、とても気になりました。それにしても、菊池様は話は長いが、言葉が活きていてユニークな方ですね。

浜岡原発は、恐ろしい。
どうなるんでしょうか。また、お話をお聞かせください。
取り急ぎ、感想まで。

 「菊池様」とここにあげられている方は私の右隣にいた元GEの技術者、福島第一原発の施行管理担当者であった菊池洋一氏のことである。日本の原発を現場で最初に手がけた人である。

 次のメールはまだ若い外資系企業のビジネスマン(30歳台)の知人からである。

 昨日、チャンネル桜の3時間討論をネットで拝見しました。非常に明確で分かりやすいメッセージでした。GEで当時福島原発の施工管理をされていた方のコメントも重みがありました。
先生の現在の原発問題と将来のリスクを混同せず分けて議論する手法、国民が背負わなければならない将来のリスクの損害の大きさと原発推進のメリットの大きさの不均衡、 現在の原発を管理する制度上の問題、あるいはその背後にある根本問題、目の前にあるリスクに対する行動指針、どれもが明快で、原発推進派の優等生論文を言葉遊びで行動が伴わない暗愚と痛烈に批判されるあたりは全面的に共鳴しました。誰に囚われることなく自分でリスクを測り、シナリオを考慮し、行動することが求められる非常時である筈なのに、何か停滞感があるのは何なのだろうと思います。企業であれば即刻崩壊しています。

 ここでもやはり菊池さんは注目されている。

 WiLLの論文には書き落としたことがいくつかある。あまり人は言わないが、気がついている人は気がついているテロの危険である。今度の事故でテロリストに原発の弱点を公開してしまった形だ。爆弾を使わなくても電源設備をこわせばよいのである。使用済核燃料棒が高い処に貯められている構造も建屋の強度を殺いでいる。

 チャンネル桜の水島社長は福島第二原発の現場にも今度足を運んでみたそうで、驚いて言うには、入り口周辺に警備する人の姿もなく、まったくの無防備であった由。私の言う日本社会の病理とはこういうことを指している。事例は無数にある。

 この国の国民はこんなあぶない道具を使いこなす力がそもそもないのかもしれない。軍事ということからかけ離れて65年もうかつに過ごした。日本人は原子力潜水艦を建造した経験も運転した経験もないのだ。企業人や学者や官僚が手に余る危険な「火の玉」を扱っているという自覚が余りにも欠けている。原子力安全・保安院の係官は東京で電話連絡を受けているだけである。福島の現場に始めて係官が二人顔をみせたのは、何と事故発生から38日も経ってからのことであった。誰かが言っていたが、なぜ東電の会長と社長は防護服を着て、率先して放射能のある現場に入って、作業員の働くそば近くに行ってみようとしないのか。

 さて、私の友人の中にはテレビ討論での私の発言に反発し、否定的だった人もいる。尾形美明さんは元銀行マン、私の友人の一人である。私は彼から次のように手厳しく叱責されている。

今まで、チャンネル桜の討論を見ていました。
西尾先生はじめ、原発反対論者の意見の粗雑さと幼稚さに正直驚きました。
日本には「47の火の玉(運転中の原発のこと)がある。これを直ぐにとは言うわけには行くまいが、どう整理していくかが課題だ」などと言います。原発は制御不能な「火の玉」なのですか?試しに、原発を利用している国々に訊いてみたらいいですね。大笑いされるでしょう。

 要するに「原発NO」が当然という意見です。さらに、地熱発電だとか、太陽光発電だとか“代替”エネルギー源についても活発に発言していましたが、それが「代替にならない」ことを全く理解していません。勿論、そういったクリーンエネルギーの開発にも努力すべきですが、原発に代替になるはずがありません。
例えば太陽光発電で、半導体製造工場の稼動が可能だと考えるのでしょうか?

 元GE職員だったという人物の饒舌と、その話の内容のなさには呆れました。原発の周辺では「乳児の死亡率が54%も高い」のだそうです。何を根拠にそんなバカなことを言うのでしょうね。

 また日本が原発を止めても、フランスやアメリカが止めるはずがありません。中国やロシアだって同様です。いや、中東の産油国でさえも、原発建設を計画しています。化石燃料は有限であり、何時までも依存できないからです。

 技術開発には失敗が伴います。その失敗を活かしながら、より安全な技術を求めて行くしか人類が生き延びていく道はありません。(それも、世界人口が100億人を超えても無限に、というわけには行かないかも知れませんね。どこかで人類は、食料やエネルギーなどで“限界”に直面する筈です。いや、意外と水資源かも知れません。)

 少なくとも、エネルギーに関しては、「第二のプロメティウスの火」と持て囃された(産経紙、福島敏雄「土曜日に書く」)原子力を活用するしか、人類が高度の文明生活を享受する道はありません。
もし、原発を拒否するのであれば、人口を5分の一くらいに減らす覚悟をすべきです。
原発反対論者は、「3割電力消費を減らせば、原発不要」などと言いますが、それはあくまで“当面”でしかありません。

 チャンネル桜の討論を見て、つい、高ぶってしまったようです。失礼しました。

尾形拝
「つくる回ML」4月16日より

 ここでは菊池さんがひどくネガティヴに扱われているのは少し困るが、私自身はこのような叱責口調で批判されてもそれには理由があると思われるので別に驚かない。尾形さんには理由があるのである。理由は原子力に替わることのできる何らかの別の有力なエネルギーは存在しないという彼の確信から来ている。彼は次のようにも言っている。

エネルギー問題は安全保障の要でもあり、この安定的な供給がなければ、日本社会は「1日たりともやって行けない」ものです。そしてその主流は、現在のところ、火力発電か原発しかあり得ません。一時、期待された、「核融合」の実用化は無理なようです。

 極論ですが、電力需要を減らす一番確実な方法は、人口を減らすことです。これは石井さんの言い方を逆にしたものです。「安くて使い勝手が良く、大量に安定した電力」なければ、世界の死亡率は急上昇する、ということです。
でも、現実は年々、65百万人前後の人口増加が予想されます。(『世界国勢図解』)

 これも極論ですが、「原発で死んだ人は、何人いますか?」という考え方も出来ます。チェリノブイリでは直接の被爆で4千人が死んだと言われます。スリーマイル島では、死者はなかったのではないでしょうか。
一方、交通事故では世界中で毎年何十万人も死んでいるのではないでしょうか?でも、「自動車を廃止せよ!」という運動は起きません。ガス中毒も何万人かはいるでしょうね。でも「ガスを使うな!」という運動は起きません。

 これは、水島代表が先日、チャンネル桜で述べられていたことですが、こういう考えも出来ると、私は思います。要するに、江戸時代の生活に戻る覚悟がなければ、大量の電力を消費せざるを得ないのだ、ということです。

という具合で尾形さんのもの言いは止まる処を知らない。原発は人類の未来そのもので、他に取って替わるエネルギー源はない、という動かぬ前提から発していて、この前提が存在しつづける限り、彼の立論も終わる処を知らないであろう。

 私は今日は第三のこのテーマはペンディングにしておくと言った。よほど勉強しないと確信をもつには至らない。言論界も今後このテーマで沸騰するであろうが、まだ結論は早い。

 ひとこと言っておけば、自動車事故や飛行機事故を例にあげているが、これらの事故は限られた死者が出るだけで終わるのであり、原発のように土地を汚し半永久的に人の住めない死の土地を作るのとはわけが違う。原発は国土の歴史への破壊の可能性を孕んでいて、日本のように国土の狭い国には不向きである。

 もう一人の友人の粕谷哲夫さん(元商社マン、70歳台)はブログ「株式日記と経済展望」の末尾にあるコメント欄を引用して、それにさらに自らのコメントを付けて送ってきた。内容は未整理だが参考になると思う。

原子力発電の未来を問う!(Unknown)
2011-04-19 18:57:24
1/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
http://www.youtube.com/watchv=IRG8G_a7hBk&feature=player_profilepage

パネリスト:
 齋藤伸三(前原子力委員会委員長代理・元日本原子力研究所理事長)
 竹内哲夫(前原子力委員会委員・元日本原燃社長・元東京電力副社長)
 林勉(エネルギー問題に発言する会代表幹事・元原子炉メーカー技術者)
 兵頭二十八(軍学者)
 菊池洋一(元GE技術者・福島第一原子力発電所施工管理担当)
 鈴木邦男(作家・政治活動家)
 西尾幹二(評論家・文学博士)
 前田有一(映画批評家)
司会:水島総

2/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
http://www.youtube.com/watchv=9gk44zLpx4Y&feature=related

菊池さんの話、地上波では絶対放送できない内容でした(東京電力が結構スポンサーをしていますから)。確かに延々と話されて、聞いていると疲れも感じましたが、内容は非常に貴重なものでした。本当に原子力を推進していくのであれば、彼のように配管工事や施工工事の怖さや大事さを知っている技術者に大幅に権限を与え、『最高の原子炉を設計できるのはあなたしかいない』と言って、応援するべきだ。

必見動画 !!! 政府の情報隠しは旧ソ連の「ファシズム」と同じだ(Unknown)
2011-04-19 19:11:37
佐藤栄佐久前福島県知事がズバリ指摘
http://gendai.net/articles/view/syakai/130029
【動画】日本外国特派員協会で行われた佐藤栄佐久・前福島県知事の会見
http://facta.co.jp/blog/archives/20110419001004.html

(粕谷) この動画によると 昨年6月に 福島第一原発の2号機で停電事故が起きていた、幸いにも緊急電源が間にあって大事には至らなかったが、佐藤は東電に対し、 不測の事態にたいする予防、危機管理を強化するよう申し入れたが、東電は、「天敵」佐藤の要望を一蹴したという。今回の津波事故は 人災 と断言していた。
このプレスクラブでの発言は、多くの外国人記者によって世界中に流されるであろう。
佐藤は、自分の国策逮捕的な 政治的な動きは 安倍晋三の首相就任以降激しくなったようなことをほのめかしていた。どうも道州制反対の佐藤知事への圧力か?口を濁した。あそれらの問題は 自著【知事抹殺】を 読んでくれと宣伝していた。
佐藤は原発そのものに反対ではない。原発をやるならきちんとやれという立場である。
また日本の原子力政策は 通産省が完全支配しており、路線が敷かれた後はいわゆる政治の介入の余地はないというような実態にも触れていた。
福島原発の 推進には渡部恒三が大いにかかわっているようだが、 その点の記者の質問についての 渡部にたいする批判的な発言はなかった。
刑事被告人にんされただけに 佐藤の怒りは並大抵なものではない。

原子力発電の未来を問う![(Unknown)
2011-04-19 22:06:02

3/3【討論!】原子力発電の未来を問う![桜H23/4/16]
これだけ怒っている西尾先生の姿は久方ぶりに見た。西尾先生の怒りは、東電に対して、かなり強い。
東電の勝俣会長や、清水社長は、会見で頭を下げ謝罪の言葉は口にしたが、悪びれる様子も無く、そこにはなんらの当事者意識も感じられない、非人間的な姿が見て取れた。心の中ではなんとも思っていないのだろう。自分たちがしでかしたことに責任も持たず、むしろ俺たちは被害者だと居直っているのではないか
テレビでアホ発言したが、あとで謝罪した勝間などまだ良いほうだ。東電幹部たちのあの態度からは、人間の温かみなど露ほども感じられない。
日本人とはこんな冷徹な生き物ではなかろう。このことに西尾先生は怒っておられるのだろう。

http://www.youtube.com/watchv=kmnnevZeVhA&feature=BFa&list=SP4F05DB19CE6DD039&index=3

Unknown(Unknown)
2011-04-20 00:33:45
福島原発事故の現状について 京都大学原子炉実験所小出裕章先生に聞く

【福島原発】2011/4/19/火★1.作業員からも工程表に疑問-2.Meltdownとは 1/2 8分44秒
http://www.youtube.com/watchv=asrdKaAP1Rg

【福島原発】2011/4/19/火★1.作業員からも工程表に疑問-2.Meltdownとは 1/2  9分20秒  
http://www.youtube.com/watchv=47dJI69Yuhc

(粕谷) 動画投稿者は URL だけでなく何が報じられているか ぐらい書け!!
この動画にたいする 以下のコメント たいへん参考になる。
日本の原子力行政がいいかにいい加減か よくわかる。

コメント

紙の防護服…。車から5分程しか出なかったらしい枝野は、見たところかなりチャンとした”宇宙服”タイプを着用している様子だったが、その1着分だけでも命がけで作業して下さっている現場の人にまわすべきではないのか…。

本当に助かります。毎日アップしていただけるので、その時点での最新の分析がわかります。これからも期待しています。

主要紙の世論調査によると「原発やむを得ず」と考える人が一定数いることが明らかになった。
何故、事を小さく思わせる楽観的な状況を皆簡単に信じてしまうのでしょう?
事の深刻さを分かっている人はかなりいますが、依然として「原子力は日本の電力の1/3なのだし安いのだから仕方がない。」という洗脳から抜け出せないでいる国民。消費税はあれだけ皆が反対するのに、、、。
悪者を管氏に集中させ、野党はじめ皆が責めていますが、確かに初動云々はあったにしろ、問題の根源はもっと奥深くにあって、「安全神話」を作り既得権益を得てきた原子力安全委員会や推進派学者たちや東電の周りの取り巻の所業には考えが到達しない。
我慢強さは世界一の民族でしょう。でも今回の場合はそれは逆効果を生んでしまうのでは?という気すらしてしまいます。

アップありがとうございます。
小出先生の話は現状把握に役立ちます。

斑目!?・・・聞きたくもない名前が出てきた。

「希望的工程表」は、「民主党のマニフェスト」と同じだ。
「根拠無き楽観」は、この国の信用を失くし、国民を不幸にする。 小出先生ありがとうございます。 UPをありがとうございます。

小出先生、スタッフの皆さま、こうして日々信頼おける情報を提供して下さり、ありがとうございます。読み込んでいます…

* 小出先生と同じで、一日も早く冷却システムを作り上げて欲しいと思っています。
何か、良いアイデアはないものかと考えています。
全然役に立っていませんが・・・。

 今回は保守系の人でも二つに割れていて、岡崎久彦さんなどは「事故は次への飛躍への教訓」「工学は失敗を糧に育つ」などと言っているようである。尾形さんと同じ立場である。

 さいごに青山繁晴さんの最新の意見を掲げておく。私の知らない知見だった。

(汚染水の放射性物質の濃度を低くする作業については、フランスのアレバ社の技術を取り入れるということなんですが)

 東電や日本政府がこういう現状だから、フランスやアメリカの手を借りると安心だという雰囲気が日本にけっこう広がってて、特に高名な評論家やそういう方々が、フランスやアメリカが入ってくれるからという感じでおっしゃってるでしょ。よく現実を見てほしいと思うんですが、アレバはフランスの国策会社で、国が9割方株を持ってる。アレバの技術を使ってる核技術施設はすでに日本にあるんですよ。それは青森県の六ヶ所村の核燃料サイクル施設、あるいは核燃料の再処理工場なんですが、これフランスの技術を入れたためにずるずるいつまでも稼働できなくて、もう20回近く先延ばしになってですよ。で、元々の費用は7600億円でできるはずが、何と2兆2000億になってるんです、すでに。これ日本国民が知らなくて、国際社会ではほんとに有名な話で、このロベルジョンさん(CEO)も含めて、国際社会ではもうフランスは六ヶ所村を食い物にしてると言ってるわけですよ。

 じつは使用済核燃料の処理は世界でどこもまだ成功していないのだと聞いている。アメリカとフィンランドは燃料の残りは全部土中深く埋めこむ計画だがまだ計画の段階である。日本とフランスは再利用する方向で、高速増殖炉は日本特有の技術ではあるが、平成14年4月に停止してしまった。成功していない。他方、六ヶ所村の再処理工場は別の方向だが、ここも最終試験段階でトラブルが発生している。かりに成功してもいっぺんに処理できないので中間貯蔵施設に使用済を何千本と保存しなくてはならないが、その施設がまだ出来上っていないとも聞く。しかも、再処理ができても「高レベル放射性廃棄物」はさいごにどうしても残るのである。これを地下300メートルに埋めこむ計画のようだが、どの自治体も受け入れを拒否している。300メートルといっても日本列島は地震大国である。地殻変動で将来何が起こるか分らない。燃料の最終処理はフランスも成功していない。フランスは日本に望みをかけてきたのだと思う。

 世界は福島を転機に原子力への考え方を変える可能性があると私は考えている。しかし私はまだまだ知識が足りないので確たることはいえない。諸々のオピニオンを以上すべてここに掲げてみたのは、これからゆっくり考えるための一助になればと思ったからである。