9月5日(日)
午後2:00より故林健太郎先生のご霊前に参ずる。先生の訃報に接した日私は東京不在で、昨日電話をかけてご都合を伺い、今日ご焼香させていただいた。
帰宅して心に思う所あり、一息で一文を認め、「林健太郎先生のご逝去」と題して「日録」に掲げた。
以下は後日談だが、一月の訪問記と合わせて改筆し、『諸君!』に20枚程の林先生を偲ぶ文を書いてはと編集部に勧められ、私はその気になった。ご臨終の前後のデータに間違いがあってはいけないと思い、A4で2枚の「日録」のコピーを郵便で奥さまに送って訂正すべき個所を教えてほしいと書き添えておいた。奥さまから電話で思いがけないご返事があった。
奥さまがご体験になったご臨終の前夜のあのシーンは、秘そかな思い出のまゝにしたいので『諸君!』に書かないでほしい、と。葬儀委員長の人選に私が「憤慨」したという一件も気になさっていたようなので、お立場上デリケートな一線に私が敢えて触れてしまったせいかもしれない。「『諸君!』の件はどうかわたしに預からせてください」と仰有った。私は諒承した。
編集部にその侭伝えて、諦めてもらった。せっかく幾つかの先生の論考や資料を揃えてもらっていたし、私も先生の旧著を書棚から取り出して、心の用意をしていたので、少し残念だった。翌月の『正論』の読者の欄に、林先生を軽んじる文章がのっていたので、このまゝ先生に汚名を着せられて終るのはいやだとも思ったが、今さらどうにもならない。
林先生の追悼文を言論誌に見ない。長生きするとこういうことになるのだろうか。葬儀委員長にあのような人物を据えた勢力の人々が、先生を本当に理解する追悼文を書くとも思えない。先生は立派な、マルクス主義の根本的誤謬を説いた言論人だった。小泉信三に匹敵する人だった。私でなくていいから、やはり『諸君!』か『正論』に追悼文があってしかるべきであろう。
しかし、ふと思った。「林健太郎先生のご逝去」という私の一文はインターネットに公表ずみである。あとで自著に収録することに私はためらいをもたない。
満面に笑いを浮かべて死期の到来に気づいたことを知らせた先生のあの従容たる挙措は、歴史に語り継がれてしかるべきだろうと思う。先生の最後のお姿は先生を敬愛した読者の財産でもある。
9月6日(月)
今日は3:00から定期検診の病院に予約が入っているし、夜は6:00から「つくる会」理事会である。しかし、八木秀次氏との対談本『新・国民の油断』の第一回対談が9日であるのに、準備が進んでいない。病院も理事会も急遽キャンセルした。仕方がない。こういうことは往々にして起こる。
ジェンダーフリー批判という今度の対談のテーマについて、八木さんは専門家はだしだから格別の準備も要らないらしい。しかし私には私に特有のアプローチの仕方があり、私でなければ語れない立論を打ち出していきたいが、同時に八木さんと話が噛み合わなくてはいけないから、共通の土俵も準備しておかなくてはならない。その後者の予備知識が私には不十分なのである。
それで、今日はたくさんの本や文献資料を前に呆然としながら時間を過ごした。ご承知の通り、この世界をいろいろ読み調べることは、あまり楽しい体験ではない。
9月7日(火)
私が最初から気にしていたのは、八木秀次さんや山谷えり子さんらが唱えている伝統的性道徳、健全な家庭の子育ての基準を今の社会に上から振り翳して、果してジェンダーフリー派の撒き散らしている「今の子供の性の現実」に太刀打ちできるのだろうかという疑問だった。
彼らの早期性教育論は、今の子供たちを性感染症、強姦や売春や暴力団の介入、望まない妊娠からいかにして守るかという、それなりに筋の通った一貫した主張に裏づけられている。子供たちに性行為の過度の知識――過激に見える――を早くから与えるのは、彼らに性を勧めているのではなく、もうどうにも止まらない所まできた今の子の性生活を少しでも破壊から守るためだという現場教師の声に根拠を求めている。
それに対し伝統派は、過激な性教育をするから子供の心に抑制がなくなり、安易に「性の自己決定権」などといって責任のとれない年齢の者を無理な行動に走らせてしまうのだと反論する。他方、早期性教育論者は、これとは逆のことを言う。性の正しい知識を早くから与えてやらないから、自分の身体をみすみす破壊に追いやってしまう、と。ニワトリが先かタマゴが先かという、議論の堂々めぐりで、どっちが正しいか、本当のところは私にも分らない。恐らくその両方に理があるのだろう。
援助交際をする女の子たちはお金が目当てではなく、「半分以上の子供たちが最初に口にするのは『とても大事にされるから』という驚くべき理由でした」と語る水谷修氏(夜間高校教師)のレポート(『SEXUALITY』NO.13所収)には、私はかなり説得された。
「中学生は妊娠しないと言われて、避妊をしない性交を本当に行っていた子どもたちもたくさんいます。」「女性の薬物中毒は助からないといわれています。・・・・・・薬物のためなら何でもやる。そこに売買春が入りこんできてしまうために、女性は生きていけてしまう。悲しい話ですがよくいわれます。」「我々が行うべき性教育とはどういうものかを考えた時、僕は、愛とは何かを教えることではないと思います。・・・・・・何回不特定多数と性交渉すると確実に性感染症になるか」というようなことを統計数値を見ながら研究し、教えていくことだという。
水谷さんは12年間で4000人を数える子どもたちと直接的に交流をもった。この世界では1対3対3対3という有名な比率がある。関わる子どもの1割は自殺し、3割は刑務所か少年院の檻の中にいて、3割は先生のことばを信じて薬物なしの生活に努力し、残りの3割は行方不明になってしまうという。
事実は恐らくこの通りだと思う。人間の弱さというものが問題の基本にあることは絶対に見落としてはならない。性教育を議論するうえでの重要な条件の一つである。けれども、子供たちの現実の一部がここまで弱さをさらけ出し、その現実に即した救いが求められているからといって、学校の公教育の場で、同じレベルの治療法的即効性教育をあらゆる子供に与えるべきだという話にはなるまい。
八木秀次さんと対談するとき、ここいらが難しいなァ、どういう風に話をしようかと私は思案した。
それにジェンダーフリー(性差は存在しない)の思想と性教育がどこでどう結びつくのかが分らない。こじつけがあるかもしれない。この方面の本を読んでいると、障害者、社会的弱者(先の薬物に溺れる子供なども含む)への差別の問題とジェンダーフリーが混同してもち出されてくる。どうもそこが奇妙である。
障害者、社会的弱者の救済はなされねばならない。しかしジェンダーフリーの主張とこれとは本来別のはずである。両者ははっきり区別されねばならない。そこが混ぜこぜで提出されるのがおかしいと思った。なにか詐術がありそうだ。
9月9日(水)
13:00~19:00 PHP研究所の一室で『新・国民の油断』の第一回の対談を実行した。
第一回は現象面の情報をできるだけ数多く紹介するページに役立つ話題を主に展開した。二人が用意した材料は夥しい。大人の性玩具のような見るも恥かしい露骨な「物体」の数々。それから、ジェンダーフリー派による言葉狩り(スチュアデスは客室乗務員とする、の類)、TVコマーシャルへの映像干渉、自治体の指定する男女役割分担禁止という名の私生活への介入。私は「これはファシズムですよ」と思わず叫んだ。
落合恵子(作家)さんというジェンダーフリー派のスターがいる。この人の講演筆録(『SEXUALITY』NO.13)を読んで、なかなか話がうまいなと思った。ホロリとさせる処がある。大抵の人はいかれてしまうだろう。私は八木さんとの対談の中でもこの話を一寸出した。
落合さんは私生児であると告白する。つまり、お母さんが未婚の母である。本人もお母さんも悩んだ。社会との約束ごとに背いた女だとの自責で母は苦しんだ、と落合さんは言う。
「(母は)私に対する後めたさと自分の親に『肩身の狭い思い』をさせてしまったという反省を張りつめた糸のように紡ぎながら生きてきたのだと思います。」やがて脅迫神経症になる。洗手恐怖症といって、指紋が消えてしまうほど一日中手を洗いつづける病気になったのだそうだ。
落合さんは10代のころ、「お母さん、どうして私を生んだの」と聞いたことがある。そのとき「お母さんはあなたのことがとてもほしかった。」「あなたのお父さんに当たる人を大好きだった。だからあなたは『大好き』から生れたこどもなのよ。」「お母さんがこんなにあなたを待っている、だからだからあなたはこんなにも待たれ、期待されて生れてきた子どもなのよ。」
10代の落合さんは母親のこの言葉に納得し、それが心の支えになって生きてきた。ここまでは私もよく分る。私は同情をもって読み進んだ。すると一転して、次のような議論が始まるのである。
==================
子どもは当然、自らの出生について何の責任もありません。
私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。
私たちの社会の中には「普通」という感覚がとても色濃く残っています。そして私は「普通」という言葉をなかなか使えません。というのも「普通」の価値観が根強い社会は必ずワンセットで「普通じゃない」という価値観を作りだすからです。「みんなと同じ」という言葉もそうです。みんなと同じという価値観が色濃い社会においては、みんなと違うという状況にある多くの人々が、みんなと違うという理由で選別をされ、切り捨てられてしまいます。人権というものを考える時、ここにもまた私たちが問いかけなければいけない大きなテーマがあるのではないかと思っています。
=================
落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。
落合さんはほかでもない、お母さんの子供である。お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。
もっと不幸な子供がいる。両親を知らない子供がいる。両親はいてもまったく愛されない子供もいる。落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。
もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。
彼女は決して「個」ではない。母の子である。母の愛の依存の中にいる。そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。そういう意味でなら彼女もまた「個」である。しかしそういう「個」、言葉の本当の意味における「個」は決して彼女のいうような意味での「解放」の概念ではない。
私は対談で以上のような議論を時間不足で十分ではなかったが、とりあえず展開した。『新・国民の油断』が出版されるのは12月だが、考えの浅い、愚かなジェンダーフリー派をたゞ頭ごなしに非難し、弾劾する本にはしないつもりである。
深く考える人に、敵の陥し穴がよく見えるような案内をしたいと考えている。
***********************
報 告
(1) Voice11月号(10月10日発売)
拙論「ブッシュに見捨てられる日本」25枚
尚同誌に横山洋吉(東京都教育長)、櫻井よしこ両氏の対談「扶桑社の教科書を 採択した理由」があり、注目すべき内容です。
(2)
11月20日(土)午後2:30~に科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線竹橋から6分、北の丸公園内)で福田恆存没後十年記念として、「福田恆存の哲学」と題する講演を行います。他に山田太一氏も講師として出席なさいます。
(入場料2000円、申し込み先・現代文化会議 電話03-5261-2753
メール bunkakaigi@u01.gate01.com )
10~11月私は雑誌論文をやめてもっぱら福田先生の旧著を読み直すことになりそうです。