驚愕!「父親殺し」だった可能性も
西尾 主として現場の記録の検証から、張作霖は河本の仕掛けた爆発で死んだのではなく、本当の首謀者は別にいて致命的な爆発物は列車内にあらかじめ仕掛けられていたに相違ないことを説明していただきました。加藤さんの推定はここから当時の中国の状況を加味して、本当の首謀者探しに向かいます。『謎解き張作霖』で引用された数多くの歴史的事象や証言は、我が国の中国理解や近現代史にとっても重大な意味を持つ話だと思います。
加藤 事件が起きた一九二八年六月当時の中国大陸では、北伐を進めていた蒋介石軍、いわゆる南方軍に大変な勢いがあり、満州・奉天から北京に進出し、北方軍閥の連合軍である安国軍を率いていた張作霖も敗勢でした。張作霖が完全敗北することで、満州にまで国民政府の影響力が及び、またソ連が南下するのを恐れた日本軍の再三の勧告もあって、張作霖は奉天に一旦引き返すことを決断。爆殺事件はこの途中に起こりました。
西尾 この時、張作霖に対して殺意を抱いていた、あるいは排除しようと思っていた勢力なり集団は四つあって、①河本たち日本軍、②蒋介石軍のほかに、③ソ連、そして④謀反を考えていた張作霖配下のグループを挙げていますね。
加藤 ソ連については、『正論』二〇〇六年四月号に掲載された『GRU帝国』の著書、プロホロフのインタビューでも詳しく紹介されています。張作霖とソ連は一九二四年以降、中国東北鉄道(中東鉄道)を共同運営していましたが、張作霖軍側の代金未払いなどをめぐって衝突します。さらに張作霖の反共姿勢もあって、ソ連は一九二六年に張作霖の暗殺を計画、奉天の張作霖の宮殿に地雷を施設して爆殺しようとしましたが、事前に発覚して未遂に終わりました。
張作霖はこの事件で反共姿勢を強め、翌二七年に北京のソ連総領事館を捜索し、工作員リストや大量の武器、破壊工作や中国共産党に対する指示文書などを押収します。大量の中共党員を逮捕し、党創設メンバーも銃殺しました。さらに一九二八年に入って反ソ反共の満州共和国創設を日本と協議したことから、スターリンが再び暗殺を決めた|これが、プロホロフのいうソ連の張作霖排除の動機です。
実際、当時の田中義一首相は共産主義革命後のソ連の脅威を感じ始めていて、防共の砦として張作霖を使い、当面はそれで満州は安泰になると考えていたはずです。
西尾 しかし、河本や二葉会の幕僚たちには張作霖排除の意識があった。張作霖は日本軍の統率に従わなかったのがその理由とされていますが、満州の民衆に苛斂誅求の税を課し、通貨を乱発して経済も攪乱していた。私が読んだ長与善郎という作家の『少年満州読本』(昭和十三、新潮社)にも、当時の満州人も日本人も張作霖を相当憎々しく思っていたことがよく描かれています。
最後に④の張作霖に対して謀反、背信を考えていた配下のグループですが、加藤さんが名前を挙げたのが、驚くことに長男の張学良です。
加藤 産経新聞(二〇〇六年)が報じましたが、張学良は事件の前年の一九二七年七月、国民党に極秘入党していました。これは重要な要因だと思います。
西尾 当時は蒋介石軍の北伐が行われていて、国民党は張作霖軍と戦っている最中です。父親に対する重大な謀反行為です。
加藤 ただ、国民党入党で蒋介石と通じていたと単純に見るわけにはいきません。国民党内の共産党分子と通じていたとも考えられます。爆殺された張作霖の跡を継いだ学良は、籏をそれまで使用していた北洋政府の五色旗から、国民党政府の青天白日満地紅旗に代え、国民党に降伏します。「易幟(えきし)」です。この時、奉天城内外に青天白日満地紅旗とともに大量の赤旗が翻っていたことが確認されています。
西尾 そして、先ほどのような張作霖排除の動機をもったソ連が張学良を暗殺計画に巻き込んだということですね。そこに、張作霖の懐刀であった楊宇霆(よううてい)と、常蔭槐(じょういんかい)という二人の人物が登場します。
蒋介石軍の日本人参謀の影
加藤 実は楊宇霆も張作霖を裏切り、国民党に近づいていました。この事実を知っていたのが、参謀本部から派遣され、蒋介石軍の参謀を務めていた佐々木到一中佐で、手記にこう書き残しています。「新しがり屋の張学良や、奉天派の新人をもって目された楊宇霆らの国民党との接合ぶりを見聞している予として、(中略)奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、しかる後において、我が国内としてとるべき策があるべきものと判断した」(『ある軍人の自伝』)。張学良と楊宇霆の謀反の動きに乗じて張作霖を排除し、国民党に奉天を支配させたうえで手打ちをする計画だと読めます。
西尾 そして、事実そのように動いたというのが、加藤さんの描いた筋書きですね。
加藤 そうです。ちなみに常蔭槐は交通委員会副委員長で、京奉線をグリップしている鉄道のプロでした。彼が楊宇霆から指示され、機関士上がりの工兵、工作員を使い、機関区で張作霖のお召し列車の天井に爆薬を仕込んだと思われます。
爆破された時、張作霖の列車はかなり速度を落としていました。関東軍の斎藤所見によれば、通常の列車はこの現場を時速約三〇キロで走行するのに、残された車両の状況で判明した張作霖列車の速度は一〇キロ程度。斎藤所見は「(列車)内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制動を行いし者ありしに非ずや」「緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものに非ずや」と指摘しています。この「策応者」つまり機関士に、現場通過時に速度を落とせと指示したのも常蔭槐でしょう。
西尾 張学良は、事件翌年の一九二九年一月に楊宇霆と常蔭槐を酒席名目で自宅に招き、射殺します。「父親殺し」の真相を知っている二人の口封じだったとみるわけですね。
加藤 張学良は、二人を殺害した理由を「謀反を企てていた」と称していましたが、謀反などありませんでした。
西尾 さらに話を複雑にするのが、蒋介石です。加藤さんが引用した『日本外交年表並主要文書1840―1945』によると、蒋介石は事件前年の一九二七(昭和二)年に日本で田中義一首相と会い、「支那で排日行動が起きるのは、日本が張作霖を助けていると国民が思うからです。(中略)日本は(国民党による)革命を早く完成させるよう我々を助けてくれれば国民の誤解は一掃されます。ロシアだって支那に干渉を加えています。なんで日本が我々に干渉や援助を与えてはいけないのですか」と言い含めた。
加藤 本当はコミンテルンが反日感情を煽り、テロ事件も起こしていたんですが、「張作霖がいるから中国で反日感情が高まって困っている。なんとかしてほしい」と持ちかけたとも考えられます。
西尾 張作霖は日本側についているというのが当時の通説だった。だから、そういう言葉もあり得ますね。
加藤 私は、この蒋介石の言葉を国民党幹部が佐々木に伝えた可能性もあると思います。佐々木は、コミンテルン分子が張学良らを使って張作霖爆殺計画を進めていることもかぎつけていた。そこで、張作霖を「絶対にやる」と言っていた河本を教唆し、張学良チームと河本チームをコラボさせた暗殺計画を立てた可能性があると思います。河本は、佐々木から伝えられた蒋介石の「日本への依頼」も含めてすべてを飲み込んだつもりとなり、関東軍の犯行だと示唆する証拠を故意に残したのかもしれません。そして「日本軍の犯行に見せかける」というコミンテルンの狙いにはまってしまった。
つづく
『正論』2011年7月号より