「新・国民の油断」の刊行(一)

 八木秀次氏との対談形式の共著であるこの本(PHP研究所刊、¥1500)には、「ジェンダーフリー」「過激な性教育」は国を亡ぼす、という副題がついている。副題が示す通りグロテスクでショッキングなグラビア、図版、写真が一杯のっている告発的攻撃本である。

 今までジェンダーフリー派の本はたくさん出版されているが、反論本はまだ出されていない。ことに一冊で問題のすべてを引き受ける反撃の本、実例も豊富で、必要な科学的知識の手引きもあり、反論するための理論上のマニュアルにもなる本、そういう根本的な本を作りたいと二人は考えた。

 ジェンダーフリーとか性教育とかいうことになると、どうしても具体的な事例に目が奪われ、現象論になりがちである。それだけでは面白くないので、なぜこんな奇現象が起こったかという冷戦以後の政治史的解明をも試みているが、さらにそれだけでも性愛に関わるテーマは論じ尽くせない。

 八木さんと私とではアプローチの仕方が少し違う。私は種族と個体の生命、古代の生死観、宇宙の神秘にも関わる問題とみなし、愛とは何かから羞恥心とは何かまで、スタンダールの恋愛論からサデイズムの心理にまで説き及んだ。

 性に関する現代の露骨と隠蔽の二重性に、古代ローマ末期との文明論上の類似性を示唆したが、これはほんのとば口を書いただけで、これから以後にもっと深く考えてみたいと思っている現代文明の新しいテーマの発見である。

 ところでこの本には約10ページにわたって日録の管理人長谷川さんのインサイドレポートがのっている。彼女が約一年間広島県廿日市市で男女共同参画プラン策定ワーキングメンバーをつとめた体験記録が収録されているので、当日録の読者にはその点の興味をも引くであろう。

 「まえがき」は八木氏、「あとがき」は私である。
(二)に目次の概略と「あとがき」の全文を紹介する。

1月の私の表現

(1) 平松茂雄氏との対談「領海侵犯は偶然ではない」Voice2月号
1月10日発売
特集・「日中友好」は終った、の中の一つである。
この特集には古森義久、岡崎久彦、櫻井よしこの各氏が執筆している。

この2~3年でVoiceはすっかり甦った。ひところ目的不鮮明の雑誌になって、売行きの落ちた時期があったが、最近はそれ以前の代表的オピニオン誌の立場に再び復帰した。一層の発展を祈る。

(2) 講演加筆再現「行動家・福田恆存の精神を今に生かす」諸君2月号
12月25日に店頭に出たので、これについてはすでに詳報した。

(3) 八木秀次氏との共著新・国民の油断――「ジェンダー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす――』
1月11日店頭発売。386ページの大著。
PHP研究所刊 ¥1500(特価)
これについては1月11日にあらためて詳報する。

(4) つくる会第27回シンポジウム
国民の油断 ジェンダーフリー・領土・教科書

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親よりもすすんだ子供の性知識と野蛮な言葉狩り・映像干渉
伝統的家族・社会を蝕んでいくジェンダーフリー派のソフトファシズム
もはや尖閣にとどまらず、沖ノ鳥島から沖縄全域が脅かされている南西領土問題
そして、歴史だけでなくすべての教科に広がる教科書の反日・無国籍化
驚くべき写真やフィルムで次々に明らかにされる衝撃的な現実
あなたは、この亡国的状況に果たして耐えられるか?

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パネリスト:平松茂雄、工藤美代子、中西輝政、西尾幹二、八木秀次

日 時  :平成17年1月23日(日)13:30開場/14:00開演/18:00閉演

会 場  :銀座ブロッサム
      東京都中央区銀座2-15-6
     地下鉄有楽町線 新富町駅 1番出口 徒歩1分
     地下鉄日比谷線・都営浅草線 東銀座駅 3・5番出口 徒歩8分

前売り券:¥1800下記にて発売中(当日券は2000円)
● ローソン(Lコード:39806)
● チケットぴあ(http://t.pia.co.jp)
(Pコード:603-656、取扱いはセブン・イレブン、ファミリーマート、サンクス)
(TEL 0570-02-9966・自動応答)
*つくる会会員の方は「史」11月号をご参照の上、お申し込みください。

主催・問合せ
新しい歴史教科書をつくる会
TEL 03-5800-8552
FAX 03-5804-8662
http://www.tsukurukai.com

(5) 講演「国家解体をどう阻止するか――ジェンダーフリーと南西領土問題――」
1月30日(日)午後6:00~8:00
長崎県佐世保市 アルカスSASEBO(JR・MR佐世保駅から徒歩3分)

参加費:¥1000
主 催 :日本会議長崎
連絡先:090-8295-8969朝永氏
     0958-23-9140北村氏
日本会議長崎事務局
〒850-0006長崎市上西山町19-3

謹賀新年(五)

 年末から年始にかけては独特な忙しさがある。それがいやで、正月は嫌いだという人も少なくない。そういう忙しい時期を津波のように襲ってくるのが年賀状である。

 準備が容易ではない。私は印刷と宛名書きまでは他人の手に委ねている。そこから先は自分の仕事である。ひとりひとりに寸言を記す。今年は約1000枚なので、全部にはとうていできない。

 しかしそれよりも時間を要するのは、元旦の配達から発送リストに合わせて、到来したか否かをチェックする仕事である。住所の変更も確かめる。7日ぐらいまでこれがつづく。そんなことをしなければ良いと思うかもしれないが、ある著名な作家から82歳になったので年賀状を止めるので来年から出さないでくれと書いてきたし、ある物故した私の先生の奥様のご家族から、母は養老院に入ったので、永い歳月のお付き合いを感謝しますと認めてあり、暗に来年から賀状は寄越さないでほしいという意味を認めてある。

 これらは今年のうちにリストから消しておかないと、来年も機械的に発送され、迷惑をかけることになる。一年間で住所を変更した人が少なくない。これらも今年のうちにリストの住所を修正しておかないと、来年は宛先不明で戻ってくる年賀状の山が築かれることになる。郵便局が旧住所でも届けてくれるのは一年間に限られるからである。

 それやこれやで、正月は賀状の山と格闘する時間がバカにならない。津波のように襲ってくるこの波に耐え、何とか泳ぎきると、もう休み明けの日常が始まっている。毎年こんな調子である。

 他の人はどうしているのだろう。やはり年賀状に苦労しているのだろうか。それでも昔と違って、年始回りをしないし、年始客も来ない。年賀状くらいは最後のつとめとも思う。

 昔は元旦に、近所の奥様が正装してお互いの家に挨拶回りしていた。母が応対していた。午後になると必ず羽子板の音が聞こえた。獅子舞いもあって、門付けといって若干のお金を包んで渡した。若い女性は大晦日のうちに髪結いに行って丸髷げに結ってもらって、初詣は必ず和服だった。

 大晦日は美容院も床屋も明け方までやっていた。初詣の神社の境内は、私の記憶では1975年くらいまで、女性の華やかな和服姿で一杯だった。私は正月二日か三日に何軒かの先生や先輩の家に年始のご挨拶に伺い、馳走に与った。

 あんな時代もあったなァ、と思う。会社や団体のお偉いさんの家ではやはり今でも、元旦から千客万来なのだろうか。私は世間のこの面には疎くなって、他家の様子がもう分らない。

 さて、年賀状に戻るが、今年来た中で、印刷されていた文言にハッとなって、私の目を射た一文があった。ご本人の承諾を得て掲載する。元『文藝春秋』編集長の堤堯氏からの賀状である。

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謹賀新年

台湾の命運が気になります。いまやアメリカは独立へ向けての住民投票にすら反対します。かつて米中国交回復のおり、二十年来の忠実な同盟国を冷酷に切り捨てました。日米安保も不変ではあり得ません。ここ数年が、日本の岐路と思われます。

今年も変らぬご健勝を念じております。
2005年元旦

堤  堯

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 住民投票の「住民」に傍点が付ってあった。アメリカは自国の流儀を他国に強制して恥じない。自国の法律を他国に当て嵌めることにも躊躇しない。北朝鮮人権法がそれである。しかし法を施行するかどうかはいつも自国の事情次第である。

 北朝鮮にはせっかくつくった法を発動せず、台湾には法がなくても住民投票にまで無遠慮に干渉する。そういうことになるかもしれない。すべて自国のご都合主義だからである。

 9・11ニューヨーク同時多発テロまで、アメリカは中国を仮想敵国とみなし、包囲網をつくりつつあった。最大の敵はテロだということになって以来、対中国政策を緩和した。中国はその好機をつかんで、巧妙に立ち回り、経済維持につとめている。

 この両国の良好な関係がいつまで、どこまでつづくか分らない。

 堤氏の言う通り、日本は最悪のことを考えておかなくてはいけないのかもしれない。それでもアメリカが100パーセントの鍵を握っているのではなく、台湾防衛に日本がどういう意志をもちどれだけのことをするかひとつで、情勢は少からず左右されるはずである。

 「ここ数年が、日本の岐路と思われます」は、他の何人かから来た賀状にも認められてあった。戦後60年はやはり戦後50年とは少し違うようである。戦後50年は国会謝罪決議などというばかげた猿芝居に現(うつつ)を抜かしたが、さすがにもうそういう空気ではない。

 最後に、年賀状ではないが、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の「読者の声」に私と私の講演に関する記事があったので、転載させて頂く。宮崎氏を介して、筆者のご了解を得てある。

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(読者の声2)『いま日本は、いわゆる生ぬるい保守と「共産主義と一体化していた左翼進歩平和主義」とが対立しているものではもはやない。後者は例の゛週刊金曜日゛に屯するていどの矮小グループに転落した。代わりに保守が二つに割れて、日本改造の構想力をもつ行動的保守と、リベラル左翼にほぼ重なっている生ぬるい現状維持の保守、外交的にいえば中国不信派と中国眉態派、威嚇や恫喝に屈しない派と威嚇されれば無限に謝罪する派とに分裂し始めているといってもいいであろう。』以上は《愛国者の死》と題した西尾幹二氏の、坂本多加雄氏追悼文の一節です。年頭この論に接して自分らは”日本改造の構想力をもつ行動的保守”に連なりたいと誓い、また”中国不信派”・ ”威嚇や恫喝に屈しない派”でありたいと念じます。
西尾氏は昨年11月の福田恒存氏に関わる講演会で <文化や学問で人は果たして死ねるか>というマックス・ウェーバーの言葉を引用しています。この鋭い刃を持った言葉を日本の知識人に突きつけたのが福田恒存氏であると。命を懸けてというと誤解を招き反論を浴びるもの云いですが、旧制高校、旧制大学に蔓延った『知的あり方』とそこを拠所とした”知識人”が批判の的です。
微温的で、閉ざされた狭い世界で限られた仲間と薄っぺらな知識と軽薄な自尊心で民を啓蒙しているとうぬぼれている日本の”知識人”への痛罵です。知識や論を弄ぶ輩は所詮いのちを差し出してまで事を行なう覚悟はあるまいという卓見です。その意味で三島由紀夫は日本文化を守ろうと命を懸けた例外的な稀有の存在です。
『日本人が国境を越えた外のものに公平で、憧れをもって遠望し、近づいてくれば無邪気にこれを歓迎するのは、太古からの本能みたいなものではなかろうか。縄文以来といえばべつに証拠はないので大げさといわれるかもしれない。』(諸君掲載の西尾氏論文より)。
そんな無邪気な日本人はいつになったら福田氏の悟達に至れるのでしょう。
文化面だけではありません。80年代あれほどうまくいっていた日本的経営を守れず、90年代にグローバル・スタンダードというアングロ・サクソン基準で見事なまでに欧米に食い潰されボロボロにされた日本経済。それに手を貸したMBA帰りの同胞諸兄。日本の安全、国民生活の安寧を守ることが言葉や言論を以ってどこまで可能なのか。自らを助けることが出来る国に果たしてなれるのか。
それは何時になるのか。そんな自問自答を正月、半酔半醒の中でしています(笑)。
          (しなの六文銭)

 
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 私の昨今の意向をよくつかみ取って下さった一文にあらためて感謝する。この手の文が宮崎正弘氏のメルマガに掲げられ、私の日録の感想掲示板には出てこないのは遺憾である。

謹賀新年(四)

 空白の歴史のうちに足踏みしていると、退行するというか、途方もない方向へ逸れてしまうというか、思いもかけない不安が露呈するのは憲法の場合にも当て嵌まる。

 自民党案といい、民主党案といい、財界の案といい、最近出ている憲法改正案には、在日外国人の人権を認める条項とか、環境権とか、男女参画社会の基本権とか、妙なものが次々と並んで、今のままの憲法のほうがまだましだという思いすらしてくる。

 私は3年ほど前、改正憲法からは「化け猫」が出てくるという論文を書いたが、不幸にも私の予言通りになってきた。

 私は今、憲法改正反対論者である。たゞ一点、9条の2項を削除する改正案だけを国民投票にかけて、それ以外は当分凍結するにしくはない。今の国会議員には新憲法を作成する力はない。

 そこで教科書のことを考える。「新しい歴史教科書」が普及し、それで育った世代が政治家の主流を占める時代になって初めて、憲法改正に取り組む資格が生じ、その時まで待つほうが安全だろう。今の政治家に任せていては危くて仕方がない。

 長い歴史の「空白」に漂っているうちに、次第に退行し、自ら正しい道を発見する本能を失い、当初は考えてもいなかった思いもかけない方向へ曲ってしまうことが起こり得る。日本の未来は恐ろしい。

 すでに確定した真実をも忘れた振りをして、前の嘘をよびもどして、平気な顔で嘘をくりかえすかと思うと、いつまでも昔のパターンにもどって、昔の習慣的思考にしがみつく――今の日本の光景である。

 中国の問題、東アジア共同体という妄想も今年は正念場を迎える。男女共同参画の理念委員会が次の五ヵ年計画を7月までに作定するという。そんなものを許していいのであろうか。

 平成17年(2005年)は本当に扉を開けて、国家意志を回復できるか、そうならずに一段と後退するか、雌雄を決する一年になりそうである。

謹賀新年(三)

 年末に皇位継承を考えるための懇話会が新設されたニュースがあった。メンバーには専門知識をもつ人が一人いるかいないかで、心もとない。女性天皇を認めるという簡単な答えで決着をつけようという官僚サイドの戦略が最初から見え見えである。

 万世一系の天皇の系譜を維持するには男系でなくてはならない。11宮家を復活して、将来に備える必要はたしかにある。そう正論を唱える人を私は支持するつもりだが、しかしすべては遅すぎるのではないか。

 11宮家を廃したのはたしかGHQだが、今上陛下が民間人と結婚なされたとき、旧宮家・旧華族は憤慨した。そして、皇太子殿下が東大出・ハーバード大出の学歴エリートと結婚なされたときには、旧宮家・旧華族は沈黙するのみで、もう反発の声さえなかった。11宮家を廃絶したのはGHQでは必ずしもない。天皇家自身が万世一系の天皇制度を無力にする行為を繰返してきたのである。

 そしてそれを諌める者は今まで誰もいなかった。なにしろ園遊会で日の丸・君が代の普及への努力を進言する者に、ネガティブなご発言をなさる陛下である。何かを恐れておられる。しかしそれが陛下のご意志だとなればどうにもならない。われわれの手に負えるものではない時間の空白が横たわっている。

 これもまた戦後60年を迎えた今年あらためて胸に迫ってくる空白の歴史の一つの帰結であるというほかないだろう。

 藩屏なき皇室はあり得ない、と私は言ってきたし、書きもした。しかしこういう言葉も、取り返しのつかない時間が経過した今、ないものねだりの強弁だったかもしれないとの思いも一方では募ってくる。

謹賀新年(二)

 この国はよく持ちこたえているとむしろ不思議に思える。アメリカと台湾の通報で日本は中国原潜の侵入を知ったらしい。侵入船が海域を離れてからやっと海上警備行動を発令するというおっかなびっくりの政府の措置を国民は笑ったが、この件を調べていて、私は石垣島、宮古島、与那国島が台湾のすぐ東側にあり、台湾防衛の拠点であることにあらためて強い印象を持った。

 中台戦争が始まれば、日本のこの三島を中国はただちに予防占領するだろう。アメリカの空母を近づけないようにするための、原潜による海域調査こそが中国の狙いである。

 それよりも、この件を調査中に私が知って愕然とした新しい事実がある。日本と台湾との空域を分けるラインが日本の領土である与那国島の上空を通っている。自衛隊機は与那国島に近づけない。近づけば台湾空軍がただちにスクランブルをかけるからである。自分の国の上空を平和時にすでに外国空軍に制せられている。

 関係者と話をしていて、異口同音に聞くことばは、日本の自衛隊はイラクやアフガニスタンに、また各地のPKOに、出て行く余裕はないということである。三島を含む西南諸島は丸裸である。自衛隊の事務連絡所が宮古島にあるだけで、隊員はひとりも駐留していない。

 焦点の西南諸島に自衛隊員を割く余裕がなく――こう公言されている――なんでイラクやアフガニスタンに行く余裕があるのか。と言っているうちに、財務省が隊員と艦船を削減した。かの担当の女性財務官は災害出動は自衛隊の仕事ではないと言ったそうだ。これは正論である。わずかに抵抗するかのごとく、自衛隊は札幌の雪祭りへの協力の小さな部分を辞退したとの報に接する。どうせなら雪祭りからの全面撤退をすればいいのに、そして国民に危機を知らせればいいのに。しかし「愛される自衛隊」などという欺瞞に溺れているのは自衛隊自身なのである。災害出動なども止めてしまえばいいのだ。

 以上述べたことはいずれみな戦後60年の惰性を克服できず、「昔の名前で出ています」という調子のマンネリでやっていて、恥じる処がない現われである。

 いよいよ新しい扉を開けようとすると、手がすくんでドアの把手に手がかからない。いよいよ新しい歌を歌おうとすると、口は自ずと昔のリズムを口ずさんでいる。それが今の日本である。

謹賀新年(一)

明けましておめでとうございます。

 今年はいままで問題となってきたさまざまな分野で、左右が激突し、雌雄を決する年、というよりまだ生き残って悪だくみをつづけているマルクス主義の残党の息の根を止め、天地晴朗の日を迎えることができるか否かの年となりそうである。

 私は教科書採択の成否を言っているだけではない。それもその中の一つ、紛れもなく最も重要な、象徴的な一つであるが、他のさまざまな分野で扉を開けようとして、どうしても開けきれないで立ち尽くしている今の日本の歪んだ精神状況のことを言っているのである。

 拉致問題で日本の民衆はようやく目をさまし、国家の重要性に気がつきだしているといわれている。それはある程度そうであろう。けれども、どこまでも「ある程度」であって、いまだに何も変わっていないどころか、後退している光景さえみられる。

 李登輝が突如やって来た。けれども雪の京都を散策し、日本文化について語る彼を見たいと思っても、テレビは空港入国のほんの数景をちらっと出しただけで、なにかに遠慮している。中国の新華社の記者がぴったり張りついていて、しかもそれを日本の警察が、多分外務省の意向に添うてであろうが、むしろ守っているというのである。中国の秘密警察つきの年末のあわただしい日本再訪であった。

 昨年末に細田官房長官は政府官邸に「従軍慰安婦」と称する二人の外国人女性の正式訪問を受け、戦時中の日本軍部の犯した過ちに謝罪し、反省の弁を述べた。心あるひとは「あれ、おかしいんじゃないの」と思ったことであろう。

 「娼妓」は存在したが「従軍慰安婦」は存在せず、国家関与の強制行為、強制連行はなかったことは石原元官房副長官の証言によってはっきりと立証されたはずだった。間違いの元をなした謝罪談話の主の河野元官房長官でさえ、自分の談話が証拠に裏付けられていなかったこと、曖昧な憶測であったことを認めたはずだった。あれほど大騒ぎして、国家的恥辱をやっとの思いで言論界あげて克服したのは5年ほど前の出来事であった。

 わが政府首脳はあっさりこれを覆した。あまり深い考えもなく、まるで誰かにひっかけられたかのように、官邸に「従軍慰安婦」と称する女性を招き入れて謝罪した。これは彼の場合、国家行為となるのである。

 なにか何処かがおかしい。いよいよ新しい扉を開こうとすると、この国民はすくんだように後じさりする。そして歌い古した昔の歌をまた歌おうとする。

 中山文部科学大臣がある会合で教科書から「従軍慰安婦」の記述が減少したことを評価した。韓国がただちに妄言だと騒ぎ立てた。なんとわが政府首脳は韓国サイドに立ったのである。文科大臣は政治的願望を述べたのではなく、論証された歴史事実に忠実な評価を語ったにすぎない。

 なぜ前へ進めず、いよいよになると後ずさりするのだろうか。北朝鮮を再訪した小泉首相の行動に私は不審なものを予感した。金正日との間に「空白の十分間」の密談があったという予測を立てる人がいて、私はその可能性はあると考え、このサイトで論陣を張った。

 周知の通り、北朝鮮の遺骨返還はばかばかしい猿芝居に終わり、度重なる愚弄に、日本の国内ではもう話し合いの余地はないとの当然な声が高まった。経済制裁は野党を含む万人の声になった。しかるにひとり首相のみ抵抗する奇妙な図。川口元外相をアメリカに急派し、経済制裁はしないでくれ、と単独行動に出て、ブッシュ大統領をまであきれさせた。

 「空白の十分間」にやはり何かあったと考える方が妥当ではないか。この首相にして、あの官房長官あり。政府に統一意志はなく、北朝鮮は経済制裁に備えて闇金融ルートをすでに開いているらしく、いよいよ制裁となってももうきき目はないという話だ。