「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

  
   占領時代の「閉ざされた言語空間」の中で交わされた、占領軍にだけ都合の良い限られた情報で充たされた戦争観は、占領期間、その後の自己検閲の長い期間を経てじっくりと刷り込まれたものであり、それは未だに残っている。そして今日でも容易には変えることが出来ない。それが総ての根源にあると考えます。

 幾つか具体例を拾って見ます。

<人種平等宣言>

 今日、人種平等は当たり前のことで、民主国家米国は南北戦争でこの問題を克服したというフィクションが存在しますが、ご存知の方も多いでしょうがそうではない。むしろこの点で日本が世界をリードしていたのです。それは占領時代に消し去られたことです。

 第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議で戦後の平和体制構築を目的に国際連盟の設立が討議されました。その際、日本は連盟規約に「人種平等」を入れることを提案します。然しこれは”米国のウィルソン大統領”が主導した反対運動で否決されてしまいました。

 第二次大戦で連合国側は大西洋憲章などで、自由、人権、民主主義、平等などを盛んに宣伝しますが、人権も自由も民主主義も、平等も白人のみを念頭に置いていたことはこの国際連盟規約への日本が提案した人種平等への拒否された状態が続いていたことからも明らかでした。

 然し、米占領下でこの様なことを一切報道や教育の場で語らせなかった。今日日本人の大部分は、ベルサイユ会議でこの様な理不尽な仕打ちを米国や欧州各国が行ったことも知りません。ですから、戦争前の世界が今と同じ人種平等の理念があったという錯覚で戦争を想像してしまいます。

 現在のアジア、アフリカの大部分は欧米の植民地であり、その根幹には抜きがたい人種差別という彼等の信念がありました。東南アジアもそうでした。日本が戦争に際して、大東亜の植民地解放を唱えた根拠には、それに先立つ22年前の第一次大戦後のベルサイユ会議での国際連盟人種平等規約提案があったのです。我々が小学校の頃は、占領中でありましたが、先生方の中にはそれを踏まえ、「アジアの植民地解放」が戦争目的の一つであったことを認識し、我々に教えてくれた人も居たわけです。然し、言論界、教育界ではそれが封殺されていた。それが、その間、その後の国際連盟での日本の「人種平等規約提案」も「アジアの植民地解放による大東亜共栄圏」も厳しいタブーとなったのでした。

 占領軍に言わば阿る、「日本は領土的野心を持ってアジアに攻め入り多大の迷惑をかけた侵略戦争を実施した」「”大東亜共栄圏”はそれを糊塗するものである」との刷り込みが数十年間行われたわけです。日本が戦時中、独立を与えたビルマも、ベトナム、ラオス、カンボジアも、終戦の2日後に日本の現地軍の密かな援助で独立宣言したインドネシアも、その後、再び旧植民地宗主国が支配を再開しようとし、内戦などを経てようやく独立を達成するわけです。そこには未だ旧植民地宗主国の強い「人種差別感」が残存していたことは、こりもせず植民地支配を復活しようとしたことからも明らかです。

 人種差別に関連し、カリフォルニアから全米に広がった、排日法についてもそんなことがあったことはプレス・コードで報道は厳しく禁止されましたし、学校教育で教えられることもありませんでした。ですから、戦争後のアメリカ人の態度と同じ態度が戦前にも日本、日本人に向けられたと受け取ることが広く深く浸透していきました。戦前のアメリカが如何に日本、日本人に酷い厳しさ、人種差別感で対応していたかなど今日の日本人には想像出来ないでしょう。

 米国の人権、自由、民主主義、平等などの普遍性についての対応は戦後の表面上の日米関係だけから観察して言えるものであり、戦前、日露戦争後からの長い日米関係史の中では決して全然異なったのです。「排日法」(絶対的排日法なる言い方もある)の存在と広がり自体がその証拠です。

<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の”しゃれこうべ”が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、”鬼畜米英”のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の”鬼畜米英”のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも”人道的な”米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に”鬼畜米英”と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。

<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

<ハル・ノート>

 昭和16年10月18日、東条内閣が成立し、日本は甲案乙案を軸に米国との関係打開を図りました。それは前の近衛内閣時代に実施した南部仏印進駐からの撤兵を条件に、米国の資産凍結、石油禁輸措置などの解除を求めるものでした。

 そんな中11月26日米国国務長官コーデル・ハルは野村吉三郎大使に所謂「ハル・ノート」を手交します。その内容の主なものは、日、米、英、蘭、重慶政府、タイ、ソ連との不可侵条約締結、日独伊三国同盟否認、南京(汪兆銘)政府否認、仏印からの全面撤兵、中国全土からの全面撤兵、その他でした。
占領期間中、これについての言及は一切禁止されていました。(日本の当局は戦時中もこれを公表していないと記憶します)

 これが、占領の初期に公表されていたら、昭和20年12月から占領軍がNHKと新聞を通じて、発表を強制した「太平洋戦争史」がそのまま日本人に受け入れられ、今日第部分の日本人が抱く戦争に対する認識とは違ったものとなっていたでしょう。

< 翼賛選挙と、斉藤隆夫>

 斉藤隆夫代議士は戦前軍部を激しく糾弾、所謂粛軍演説で軍のみならず、衆議院除名されます。現在の人名辞典などの説明では、彼の戦前戦中の活動はそこで終わり、その後敗戦と共に政治家として復活し、国務大臣になるというふうになっています。ところが、そうではない。

 戦争開始約半年後の昭和17年4月、所謂、”翼賛選挙”が行われました。そこで、斉藤隆夫は無所属で立候補、見事に当選しているのです。ですから、彼の議会活動は戦時中の続いていたことになります。これは戦前、戦中の時代を完璧な暗黒時代と表現しますが、その見方にやや疑問を呈せざるをえないことになります。斉藤藤隆夫も、それを取り巻く時代も「閉ざされた言語空間」以降に固まった固定観念とは随分違っていたのではないでしょうか。

<戦後教育>

 戦後教育では、戦前の日本の教育が、軍国主義の温床であったということで、教育基本法が定められました。学校では、憲法の「戦争の否定、戦力の否定、自衛権の否定」と同じ考え方で、個人も「暴力に否定、話し合いのみでの解決」が謳われました。問題はその後「いじめ」となって顕在化します。日本では”話し合い”が絶対ですから、その結果、暴力を振るう者が、それをやめない限り、優位に立ち、問題は解決せず、うやむやになってしまいます。その結果、暴力、いじめ、不正義がはびこることになります。暴力や不正を力で抑えることを教育が放棄していますから、学校はこれを隠蔽し、「いじめ」不正はエスカレートし発展し今日全く解決不能になっているのです。

 そもそも、教育の場、学校で正義を教えず、追求せずして、社会に正義が生まれ行渡るのでしょうか。学校が正義を教えず放置することを生徒に刷り込めば社会は必ず悪くなります。学校の存在意義は失われたのです。この隠蔽体質は学校から社会全体に広がってきています。これでは幾ら警官の数を増やしても犯罪はなくならないでしょう。

 米国に勤務していた折、娘が小学校で先生(女の先生でした)から教えられたことは、「いじめにあったら、敢然と戦え」ということでした。

 正義を教えない学校に意味はないことを、日本以外では教えており、戦前の日本でも教えていたことと同じだったのです。

 娘の小学校生活で判ったことは、米国の学校で教えていること、行われている教育の殆どは日本の戦前の小学校で行われていた教育と同じだったことです。少し考えれば、当たり前でしょう、明治維新以降日本は欧米の教育制度を輸入改良してきたのですから、その基本にそんなに差があるはずはなかったのです。然し、「閉ざされた言語空間」で外国と完全に遮断された日本では、占領政策を受けて知識人たちが戦前の日本の教育を「軍国主義教育」と決めつけ、欧米の教育が戦前の日本の教育と正反対のものであり、「個性を伸ばし、自由放任」との先鋭的な教育を押し広げたのです。

 北米で日本を見ていると義務や権利について日本の誤解があります。2年程前六本木ヒルズのビルの回転ドアに挟まれて6歳の子供が死亡しました。日本では、ビルのオーナーと回転ドアメーカーが責任を追及され親に慰謝料が払われ解決したそうです。日本では北米でもそのような解決がなされると受け取っているでしょう。然し、回転ドアの多い北米でそんな事故は聞きません。12歳以下の子供がその様な事故にあえば親が責任を追及されるからです。親は必死になって子供の手を握り、走らせないようにするからです。若し子供が回転ドアに挟まれて死ねば親は警察に捕まり、裁判にかけられます。子供の命の変わりに補償金を貰うなど、正に正反対です。

 こういったことも「閉ざされた言語空間」故に日本だけで起きる現象でしょう。子供の人権とは親に守る責任が科せられるのです。

 国旗、国歌を教えることは米国の小学校では当たり前のことですし、カナダなどではそんなことに加え、暫く前には映画官でも上映前に全員起立国歌「オーカナダ」を歌ったそうです。

 要は、日本は戦前学校で欧米と同じことを教えていたのですが、米国占領軍により、先ず「閉ざされた言語空間」が構築され、欧米と全く違う教育空間、教育内容にされてしまったのです。

 何でそうしたか、それは、米国が日本を自分達と同じ様な国にしておくことを許さないと決意していたからです。何故そうか、それは次に述べることになりますが、米国は米国に対抗する強国を常に排除し自国の安全を図ることを国是としてきています。そのことを忘れてはなりません。

 正に小泉少尉が言ったように「アメリカはあらゆる悪辣な手段を使って日本を骨抜きにした」のです。
この米国の戦後の言論検閲統制は凄まじいものであり、仄聞する所では、戦後米占領軍は、「焚書」さえ実施したそうであり、実に7000余点の書籍が図書館、出版社から抹殺されたと言います。この分野の研究は今の日本が描いている、戦前の日本、戦後の日本の歴史を大きく改めるものとなるでしょう。その成果を待ちたいと思います。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(一)

お 知 ら せ

 私が8月15日千代田区立内幸町ホールで行なった約2時間の講演は、『正論』10月号(9月1日発売号)に掲載されます。

 題して――
  安倍氏よ、「小泉」にならないで欲しい
――これからの日米間の落し穴を直視できるか――

 全体の約三分の二が収録されました。〆切り日が近づいて、目次予定がほゞ定まっている時期に、40枚の分量をのせるスペースをあえて作った編集部の英断に感謝します。

 9月1日以後に、コメント欄はこの講演録を取り上げ、論じ合って下さることをお願いします。

西尾

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

    
 文春新書「あの戦争に何故負けたのか」はある意味で米国が待ち望んいた本かも知れません。

 独立戦争、南北戦争、メキシコからのテキサス独立と併合、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアまでの広い領土の併合、そしてハワイと和親条約締結を結び半世紀後に併合、米西戦争ではフィリピン併合。この一連の歴史には随分酷いことが行われていますが、米国はそれを削除し、自らの歴史を正義と栄光の、物語として描いています。
 
 ところが、「あの戦争に何故負けたか」は1941年12月8日から1945年8月15日までの日米戦争を、米国について殆んど、批判も言及することもなく終える本であり、そんな本が日本側から出版されたのですから、彼等にとっては願ってもないことだったでしょう。
 
 「あの戦争に何故負けたのか」は不思議な本です。それは、何故戦争が起きたのかについての分析らしいものが「三国同盟」を挙げる程度で全く抜け落ちているからです。第一、戦争というものが複数の国によって行われるものであり乍ら、日本以外の国、特に日本の主要敵国であったアメリカの政策、意図、行動についての分析言及が皆無に等しいのです。そして何よりも不思議なことは、それが、現在の「言語空間」(後述)の中でのみ議論されていることです。この本の中で個々の戦闘についての議論が精緻になればなる程、以上の奇妙な点、即ち重要な点の欠落が浮彫りにされるのです。尚この「言語空間」と言う言葉は後程説明しますが、「あの戦争」の評価にとって最重要な言葉になります。

1.小泉少尉の警告
 阿川弘之氏の代表作の一つ「春の城」(昭和28年発表)の中に、印象的な場面があります。それは戦争末期の漢口(中国)。アメリカの大学留学中に日米開戦となり、交換船で帰国、海軍入りしてきた小泉少尉が主人公の小畑中尉(阿川氏自身をモデルとしている)に語る、次の言葉です。

 「アメリカが妥協的な動きを示すなんて思ったら、とんでもない間違いだと思うんです」

 また、特攻隊の志願者の募集があったらどう対するかに小畑中尉が

 「私は開戦の時、この戦争になら命を投げ出せると思ったんだ、そして今でも勝つ為にーー勝てなくても出来るだけ日本に有利な道を拓く為に働きたいという気がするんだけど、募られて特攻隊の志願が出来るかと云うと、正直に云ってひどく迷うだろうな。何とか偽善的な理屈を並べて、遁れようとするかも知れない」と述べるのに対して、小泉少尉はこう答えます。

 「そうですか。私はいくなあ。行けますよ。アメリカは必ずあらゆる悪どい手段で徹底的にやってくると思うんだ。日本はアメリカに占領されたら完全に骨抜きにされますよ。それを守る為なら行けるじゃないですか」

 この文章は阿川氏の当時の気持ちと会話内容てあったと考えます。戦争後8年間の世の激変の中で阿川氏自身の考えは変ったのかも知れませんが、戦時中の氏自身の気持ちと、小泉少尉のモデルとなった戦友の言葉はそのまま再現していると信じられます。

 阿川弘之とはそういう作家です。阿川氏は志賀直哉最後の弟子として神の如く尊敬し傾倒し、志賀直哉の最期を見守った。阿川弘之はその伝記「志賀直哉」を執筆しています。そこでは、自身があれ程尊敬傾倒した志賀直哉を、ここまで書くのかと思う程、不都合な事もそのまま記しているのです。

 志賀直哉に対してまで「事実」については筆を緩めなかった阿川氏であることを考えれば、この「春の城」では、小説家志望の文学青年で戦争、陸軍を嫌悪していた小畑中尉(阿川氏自身)が「この戦争には自分の命を投げ出せると思った」と書き、憧れの米国留学中に帰国し海軍に入り、「アメリカはいいですよ」と時に語る小泉少尉が 「戦争に負けたらアメリカはあらゆる悪辣な手段で日本を必ず骨抜きにする。それをさせないために求められれば自分は特攻に参加する」と答えたと記しているのは大変重みのあることなのです。

 然し、今日、戦争前、戦時中の若者がそんな気持ちであったということは「春の城」以外では目に触れることは皆無に等しい。これは一体どうしたことなのでしょうか。

 戦争が終わって間もなく昭和23年に小学校に入学した私の記憶では、小学校時代の担任の先生は折に触れ、「今日、我々がこうして平和で暮らせるのも、アジアの国々が独立出来たのも、戦争で亡くなられた兵隊さん達のおかげだ。終戦のご決断を下された天皇陛下のおかげである」と話してくれた記憶があります。

 それが、長い時間を経ていつの間にか、あの戦争で亡くなった方々は「国のために命を捧げた、アジアの植民地独立の為に亡くなった」と語られることがなくなり、「”心ならずも”命を失った」と語られる様になってしまいました。そして、あの戦争は、避けることが(簡単に)出来たのに、愚かな指導者達がそれを怠り、無謀、無益に仕掛けてしまった戦争であった。国民誰もが心の中で反対だったのに、愚かな指導者が、嫌がる国民を引きずり込んだ戦争であり、アジアの国々(当時植民地で国ではなかった)を巻き込み迷惑をかけた戦争であった。と語られるようになり、指導者によっては、「アジアに対する侵略戦争であった」とまで唱えるよになっています。本当に今語られていることが事実だったのか。「春の城」で描かれた日本人は存在していなかったのか。それを解き明かすことこそ「あの戦争の原因」「あの戦争に何故負けたのか」を解く鍵になると考えます。

2.江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」
 昭和54年9月から昭和55年7月まで、文芸評論家の故江藤淳氏は米国ワシントン市にあるメリーランド大学付属図書館プランゲ文庫で、戦後占領時代、アメリカ占領軍が日本で実施した言論検閲と統制に関する資料の調査研究に当っていました。それは、米占領軍が日本で行った検閲書き込み入り、付箋つきの原稿や書信の類との出会いの日々であり、発行停止となった多くの原稿そのままを目の当たりに調査したものでした。

 この調査、研究の結果は氏の著作「落ち葉の掃き寄せ」「1946年憲法」「忘れたことと忘れさせられたこと」「閉ざされた言語空間」に収められてます。

 そこには、正に「春の城」で小泉少尉が「アメリカは凡ゆる手段を使って、必ず日本を完全に骨抜きにする」と警告したそのことが起きていたことが実証されたのであり、今更ながら「春の城」に驚嘆させざるをえないのです。

 それは江藤氏が調査、研究するまで戦後実に30年以上も日本人に知られることもなかったことにアメリカという国の恐ろしさを感じない訳にはいきません。

 ここで、戦争直後の出来事を吉川弘文館の年表などを参考に拾ってみます。

(昭和20年)
11月:サイクロトロンの破壊命令、航空に関する研究の禁止
12月:占領軍の命令により、新聞各紙「太平洋戦争史」の連載を開始
   :占領軍の命令によるNHK放送番組「真相はこうだ」の放送開始
   ::占領軍「大東亜戦争」の呼称を禁止
   ::占領軍覚書「国家神道に対する政府の後援、統制、普及の廃止
(昭和21年)
1月19日:連合軍最高司令官による特別宣言書に基づく裁判所条例に基づく極東国際軍事裁判の設置を定める(その根拠はポツダム宣言にあるとされた)
 2月:公職追放例
3月6日:幣原内閣、GHQの憲法草案を「日本政府独自」の憲法として公表
5月3日:極東軍事裁判開廷
11月:当用漢字1850字、新仮名遣い決定
12月:6334制教育体制発表
(昭和22年)
1月:皇室典範・皇室経済法
2月:教育基本法、学校教育法公布
4月:6334制実施

 以上の年表には、米国占領軍による言論検閲、統制についての記載は全く記載されていません。それは後述の米占領軍による言論検閲、統制で最も秘密とされた検閲、統制による禁止秘匿事項であったからでしょう。

 さて、ポツダム宣言は確かに厳しいものが含まれていました。然しどんな法理論解釈からも、それは、占領軍が以上実施した宗教、教育制度、国語政策にまで手を加える権限、などはどこにも含まれていません。まして、言論、出版に検閲統制を加え、日本と日本人を、江藤淳氏の言う「閉ざされた言語空間」に封殺する権限など与えられる筈もありませんし。そんな大それたことは日本人の想像外だったのです。

 ちなみに、以下にご説明しますが、米占領軍は、言論検閲、統制により日本と日本人を完全に孤立させ、世界との間の情報を遮断し、日本人自身の思考を閉じ込めた状態とし、米占領軍の言論検閲、統制の支配、管理下におきました。その状態を江藤淳氏は「閉ざされた言語空間」と呼称したわけです。

 この言論検閲、統制は巧妙を極めたものでした。その構想の大きさが、先ず「日本と日本人を外部世界の情報と完全に遮断する」という桁はずれの構想から始められたのです。例えば、日本のそれまでの教育は、「軍国主義的教育」或は「遅れた教育」とされましたが、米国や欧州の教育の実際の姿は日本人の間から完全に封鎖されていました。だから、日本人はそれを信じる外はなかった。特に当時は進歩的インテリは「アメリカでは」を口癖に占領政策を推進していましたから、だれもが「アメリカではそうだ。そうに違いない」と信じたわけです。後述しますがそれは殆んどが嘘といってよいものであり、その影響は今日でも尾を引いています。(因みに30年前のカナダの小学校では鞭を持って教壇に上がる先生もいたとのことです。)

 又、戦後既に米ソ対立、東西冷戦は次第に熾烈になっていましたが、それを論ずる報道は禁止されていました。

 昭和26年日本はサンフランシスコ講和会議で独立を認められ、翌年の昭和27年4月に発効しますが、当時の南原東大総長をはじめとする学者、言論界、左派社会党などは全面講和論を唱え、サンフランシスコ講和条約に反対しました。東西冷戦の真っ只中、全面講和など現実性皆無であった筈ですが、その様な反対論が一部とは言え支持されたのは、この様な「閉ざされた言語空間」が原因であったと思われます。

 もう少しその巧妙な言論検閲統制を見てみます。

 米占領軍は、言論検閲、統制を30ケ条のプレス・コードにより実施したと、江藤淳氏は著書「閉ざされた言語空間」で述べています。その根幹にあるものは、言論検閲、統制が実施されている事実の徹底的隠蔽でした。

 それに次いで、憲法の制定に占領軍が関与したことへの言及、極東軍事裁判批判、更に日本、枢軸国以外の総ての国に不利な言論、東西冷戦について論ずること、占領軍の日本人女性との交渉についての言及、闇市言及、それら総てが禁止され、最後には「解禁されていない情報の報道」が禁止され、つまり総べての言論が米占領軍により恣意的に統制される体制が出来ていたのです。

 再度申し上げますが、この様な言論検閲は勿論日本が受諾したポツダム宣言の如何なる条項にも一切含まれていません。そんなことが実施されているとは大部分の日本人は知らなかったし、今でも知らない人が圧倒多数だと思われます。。

 こうして、米国占領軍は日本及び日本人総てを丁度、蟻をガラス箱の中に閉じ込めて飼育、観察、管理するような環境を完成させたのです。これが「閉ざされた言語空間」であった訳です。

 こういう「言語空間」の影響は想像以上です。人はその認識の殆んど総てを、実地体験ではなく、他からの情報で入手します。それが占領軍に6年半恣意的に管理統制支配されていた、ガラス箱の蟻の状態であったわけです。

 人間の考え、記憶は意外に脆いものです。

 江藤氏は上記米国での調査中、保管されていた検閲された資料を調査していたのですが、その中に、占領時代に書かれた河盛好蔵氏のエッセイも含まれていました。それは、殆んど戦前戦中の軍国主義への反省で綴られたものですが、ほんの一寸(多分大恐慌以降のブロック経済で日本を排除したことを念頭に置いたのでしょう)米英が日本に経済的な点で配慮があったならとのほんの僅かな箇所が原因で発表が差し止められたらしいのです。江藤氏は早速河盛氏に照会しますが、河盛氏から「全く記憶にない」旨の返事であったとのことです。戦後の激変の中で、河盛氏の占領軍の検閲との戦いの記憶は全く失われていたわけですし、氏の思想にも変化が生じていたのかもしれません。

 人の記憶や、考え方はかくも移ろい易い脆いものらしい。

 吉田満氏の「戦艦大和の最期」の一番初めに書かれた文章は発行禁止になり、吉田満氏は何とか出版許可を得ようと求め、何度も書き直し、とうとう出版にこぎつけます。然し出版され現在も書店に並んでいる「戦艦大和の最期」は最初に書かれたものとは全く異なるものとなっていました。江藤淳氏は吉田氏自身の保持していた精神的なものもいつの間にか、失われたとしていますが、読み比べてみれば誰でもそれはが点が行きます。敢えて個人的な感想を述べれば、一番最初の「戦艦大和の最後」には「春の城」の香りが強く漂っていますが、許可を受けて世に出たものにはその香りは皆無となっています。

 米占領軍、米国が残したものは斯くも徹底した厳しいものでした。

 更に占領中期になると、占領軍は狡猾にも検閲方法を「事前検閲」から「事後検閲」に変えます。これで報道機関、出版社は自ら事前に自己検閲して、事後検閲で引っかかり、膨大な損失が出ないようにする。自己検閲の効果は、占領軍が行っていた事前検閲よりも厳しいものになりがちであったらしい。これは占領が終わった後も日本の言論出版界に定着存続していると江藤氏は述べています。

 先に述べましたが、占領期間中の小学校の担任の先生の戦死者への追悼と今日の首相の追悼の言葉は全く似て非なるものであり、それがむしろ占領が終わってからの長い時間に刷り込まれたことに注目せざるを得ません。

つづく

大地の咆哮(杉本信行著、PHP社刊)について

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

        
 8月10日の朝日新聞朝刊を見て、はっとしました。ほんの数時間前に読了したばかりの掲題著者杉本信行氏が亡くなられたことが書かれていたからです。

 死因が「末期肺癌」であったことは「中国の環境汚染はそこまできていたのか」とショックを受けましたし、なによりも、この訃報で、地位あるエリート外交官がここまで踏み込んで中国の恐るべき真実に踏みこんだ背景がはっきりと理解できました。

 杉本信行氏は外交官上級試験に合格し73年に外務省入省、74年に未だ文革中の中国の北京、瀋陽で語学研修を受けました。その後、合間に、ベルギー、台湾などの勤務を交え、北京大使館には、若き日一等書記官として、更に80年代には公使として勤務、昨年まで上海総領事を勤め、合計14年の中国生活の後、去る8月3日に亡くなられたのです。

 繰り返しますが、病名は「末期肺癌」でした。

 「大地の咆哮」は従来の日本の外交官は勿論、中国専門家も書くことを躊躇するようなリアルな中国の実情を記したものです。

 北京オリンピックが迫ると言うのに、恐るべき水不足の進行とそれに対する無策。およそ近代とは思えない中世以前を思わせる、農民に対する制度上、実質両面の酷い差別。医療、失業、老後などに対するセーフティーネットの崩壊。見かけは華々しいが、中身はメチャクチャで何時崩壊してもおかしくない経済。社会正義など存在しない、不公正、不公平そのままの物凄い貧富の格差。荒れたままで政府の援助が殆んどない放置されっぱなしの義務教育の現状、遅れ。官僚の腐敗と汚職。・・・

 中国の実態は、不公平、不公正、不正義が蔓延し、何が起きてもおかしくない緊迫した酷さであることが赤裸々に描かれています。要は「弱きを助け強きを挫く正義の味方」であるはずの共産党、共産主義社会が今や「弱きを挫き、強きを助け、”不正義”の味方「”逆”鞍馬天狗」の跋扈する世を作り出している。そして中華人共和国なる国家は、今や、解放軍、武装警察、警察による力で辛くも維持されている状態であることが示されているのです。

 更に、日本の援助に対する中国側の対応の酷さ。台湾問題に対する中国、日本の無理解。靖国問題。などなどまで杉本氏の筆は及んでいます。

 その視点も従来の外務官僚に見られない国益への強い姿勢が窺えます。

 その原動力は何か。今となって判るのは、中国経験者、特に外務省故の制約からくる行動と言論の限界へのフラストレーション、更に現役時代に味わった数々の苦渋、就中、部下であった上海総領事館の職員の自殺事件を巡る中国側との口に出来ない数々の事柄、組織の一員としての悩みなど、直接蒙った打撃への歯軋りする思いなどがこの本に込められている筈です。

 然し、死期迫る闘病生活の中で、杉本氏は全を書き切ることは出来ませんでした。

 先ず、杉本氏は自分を殺したものが中国、即ち恐るべき中国の環境汚染であることを書く暇がありませんでした。(仄聞するところでは、90年代後半某邦銀の北京支店長夫人が肺癌で死亡、次の支店長本人も肺癌で死亡ししたとのことです。)日本のメディアは報じていませんが、中国の環境汚染はエリート外交官の命を奪うほどのレベルにきているらしいのです。

 汚染ワースト世界10大都市の中で中国当局によれば5都市が、又国際機関によれば7都市が中国の都市だそうです。環境モデル都市の北京でさえ04年10月に予定されていたフランス航空ショーを大気汚染の観点で中止しなければなりませんでした。上海の街を走る100万台の自動車の70%は最も古い欧州の排ガス規制を満足していないそうです。石炭の出す亜硫酸ガスが原因の酸性雨は黒土の1/4、農地の1/3を汚染し、日本の酸性雨の50%は中国から来ています。黄砂には、大気中に浮遊している鉛、マグネシウム、ダイオキシンが含まれています。

 実際、僅か1週間前に会った上海で事業を営む関係者は私の顔を見て開口一番「上海の空気汚染は酷くなりすぎている」と話しかけてきました。

 環境汚染だけではありません。日本の企業が投資行動自体も問われるようになってきている。

 農村から出稼ぎで来る労働者の労働条件の酷さを杉本氏は本の中で世銀の前総裁から、「10年間労働者の待遇は変っていないが、これは外資による搾取ではないか」と言われたと書いています。USCC(米-中国経済安全保障レビュー委員会)の8月3日と4日の公聴会で、アフリカ問題の専門学者から、アフリカの工業化で初期産業にある繊維工業が中国の低賃金労働ダンピングで立ち行かなくなっていると証言しています。中国が東南アジアなどで展開している自由貿易圏構築の動きはただでさえ貧困にあえぐ自国農民に大打撃を与えています。

 こんな状態を放置して、日本を含む各国の経済人、組合指導者、農業関係者、そして政治家が許されるものなのでしょうか。

 杉本氏が全然触れていない問題に、中国の大量破壊兵器(WMD)・運搬手段(DS)の拡散問題があります。中国の国有企業は、テロ支援国家、懸念国家へ過去十数年に亘りWMD・DSを輸出し、米国はそれに制裁を加えてきています。この問題についての言及もないまま杉本氏は亡くなりました。これは十数年に亘る問題ですが、日本のメディアは保守系の雑誌を含めて取り上げたことがない。二言目には「唯一の被爆国」であることを強調する日本のメディアが触れない理由は何か大いなる疑問です。

 アセアン地域において中国と日本の地位に大きな変動が見られることも杉本氏は触れていません。中国がアセアン各国と着々と17億の共同自由貿易市場構築のステップを進めつつあること。03年10月に中国はアセアンと友好協力協定を結んだこと。04年にはアセアン各国を招いて安全保障フォーラムを北京で開いたこと。人間衛星神舟の打ち上げ成功を利用してアセアンに共同宇宙開発を提案していることなど、日本のプレゼンスが最もあった地域アセアンでの日本外交の明らかな敗退については一言も触れられていないのです。以上触れられていないことは彼が知らなかったのか、そうでなく知ってはいたが書かなかったのかは不明ですが、是非知りたい点です。

 「大地の咆哮」の初版が発売されたのは杉本氏が亡くなる1ヶ月前の7月7日でした。7月5日には北朝鮮による7発のミサイル発射実験が行われ、これに対して日本外交は、珍しい程鮮やかに、北朝鮮に万景峰号の入港を禁止し、国連安保理で北朝鮮への制裁決議を提出し、中国の行動を完全に封殺、押し捲り、中国、ロシアを含めた北朝鮮非難の全会一致決議を成立させました。

 この日本の珍しく鮮やかな行動は、中国についての十分な分析なくしては不可能であったと思われます。多分、それへの貢献が杉本氏の生前の最後の仕事だったのではないでしょうか。

 杉本氏のような優秀で、国益に忠実な外交官は多い筈です。又中国問題について、多くの優秀な人材を日本も抱えている筈です。然し今回のような外交上の一時的成功は個人の力に頼るべきものではありません。

 日本の積年の問題は、有為な人材や資源を動員し、国全体の能力を極大化させるシステムが存在していないことです。その存在が、相手を知り自らを知る為の必要な第一歩であるし、失敗を避け国の安全と繁栄のための基盤ではないでしょうか。

 最後に、杉本氏のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。

お知らせ

 未刊行の「江戸のダイナミズム」からの引用はここで終ります。

 「ハンス・ホルバインとわたしの四十年」はなおしばらく続ける予定ですが、丁度雑誌原稿の〆め切と重なり、私が今時間がとれないので、次回はゲスト・エッセイを紹介させていただきます。

 なお、コメント欄で「意見の小さい違いこそ決定的な違い」という私の語に対し、vagabondさんが「「小異を捨てて大同につく」ことの方が大切ではないかと問い質された問題に対し、少し時間をおきますが、後日、私からきちんと応答する予定です。

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(十)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 しかし程度の差はあれ、古典のオリジナルの消滅とその再生のテーマはわが国においても同様です。わが国にはヨーロッパとは異なる独自の困難な条件がありました。

 自らの言語の表音体系を表意文字で表していた矛盾が、江戸時代に入って、歴然と口を開けます。

 荻生徂徠は漢文の訓読みを廃して、唐音に還ろうとします。本居宣長は儒仏を排斥し、純粋な古語に戻ろうとします。

 神道、仏教、儒教の三つの神は習合していたようにみえ、かなり自覚的に三すくみ状態になります。それぞれ固有の神を求めるパッションは一挙に高まります。

 その中で契沖は決して排他的ではありませんでした。人々がまだ文字を持たない単独素朴な時代、神々をめぐる口頭伝承のほか何も知らないナイーヴな時代に、表意文字が入ってきて、文字で自らの音体系を表現した「万葉仮名」の解明は、エラスムスを駆り立てた聖書のギリシア語訳の努力にも似た、あるいはそれ以上の困難な謎の探求でした。

 校合に客観的で、内証に科学的であろうとした契沖の情熱は、ほとんど信仰者のそれです。「本朝ハ神國ナリ」の叫びは本然のもので、何の不自然もなかったはずです。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

holbein.jpg

エラスムスの肖像画:ホルバイン

 北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。

 そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです。

 彼は四つの古いギリシア語写本を資料として見つけていて、教会が必ずしも好まないことをします。聖書の写本断片と自分の拙いギリシア語の力で聖書のオリジナルを復元し、キリスト教の神に関する真実を知ろうとしたのでした。

 西洋古典文献学と聖書解釈学がその後互いにからみ合って進展するヨーロッパの精神史の発端をなすエピソードといってよいでしょう。

 ヨーロッパ人が自己同一性(アイデンティティ)を確立するのに、15-16世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教も儒教も外から来たものですが、日本人はヨーロッパ人のように、仏典や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を知りません。

 ヨーロッパの各国における言語ルネサンスがまずギリシア語の獲得に向かったのは当然です。その後科学的精緻さを駆使して、古典古代の研究が激しく情熱的に燃えあがったのも当然です。

 聖書がばらばらに解体され、文献学的解釈学によって相対化のきわどい淵にさらされたのも当然です。

 彼らの破壊は神を求めるパッションの表現そのものでした。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(八)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 西洋でも中国でも古代文明の崩壊と消滅は日本史では測ることの出来ないほど巨大なスケールで起こり、同じ歴史が連続したとは思えないほどでした。ギリシア・ローマの伝統は地中海が約千年間イスラムの支配下に入った後では、アラビア人の歴史に属するのであって、今日西ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史とみなすのはその後の「学習」の歴史以上のものではありません。

 中国史においていわゆる漢唐時代で古代は終わり、それ以後の中国史の連続性には疑問があります。モンゴルの征服による元朝の成立は漢民族の歴史に断絶をもたらしています。

 これに比べると日本史に古代の成立と没落のドラマが本当にあったのかと思われるほどに、変化の規模は小さいのです。

 源平の戦乱があり、承久の変を境いに古代王権に変化が生じますが、民族の同一性の度合いの高さと、神仏信仰を中心とした宗教の融和性の特質が、ある種の歴史の連続性を保証しています。

 西ヨーロッパと呼ばれる地域には、古代はなく――各国の歴史教科書の古代はエジプトからです――、各民族の歴史は中世から始まります。その時期が日本の古代史の後半と中世史にほぼ重なります。

 古代の文献の伝承の流れを跡づけてきた本書では、時間尺の短い日本の条件の有利さと、それにも拘わらず古代文書の原文は消えてなくなり、写本の確実性も保証されないという宿命において、問題の質が同じであることを見届けました。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(七)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 契沖は仏僧でありながら、儒教をよく知り、他方また空海の影響も受け悉曇(しったん)――サンスクリットのこと――に通じていたことが、彼を音に敏感にしました。

 漢字の世界に梵語という表音文字がクロスしてきたことは、漢代の中国語をも揺さぶりますが、万葉仮名を解読し、歴史的仮名遣いを確立することに成功した契沖の場合にも、表音文字であるサンスクリットの漢字化の問題には無関心でいられたはずはありません。

 いずれにせよ彼は、古代日本に流入したものの何かにこだわって何かを拒否したことはないのです。宣長のように儒教や仏教に対し外来の思想として敵意を示すたぐいのことはありませんでした。

 文字を持たない素朴な古代日本人の生き方を彼はそのものとして認め、受け入れ、そこに自ずと道、古道、神の道の成り立つさまをみたのでした。しかもそれは歌の姿に現れるのであって、歌こそ彼には神の御業なのです。

 『萬葉代匠記総釈』の冒頭に次のようにあります。

 

「本朝ハ神國ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ。上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ傳ヘタルマヽニテ、神道トテ、儒典佛書ナドノ如ク説オカレタル事ナシ」

 契沖が客観性を重んじ、科学的であろうとしたことと、「本朝ハ神國ナリ」と断じたこととは少しも矛盾しておりません。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(六)

 私は『国民の歴史』の中にもう一項目書きたい、と計画し、担当者に打明け、時間切れで不可能になったテーマがある。すなわち「西洋古典文献学・清朝考証学・江戸の儒学国学」である。古代の聖典の探求と復元、その挫折と懐疑、そのとき三つの場所で歴史意識が試され、確かめられた。

 私は別名でこれを「言語文化ルネサンス」と呼んでいる。16世紀から19世紀にかけて地球上のこの三地域に発生した古代の呼び戻し運動、あるいは古代精神の現代への奪還、分り易くいえば神の再生のドラマを指している。再生の前には必ず神の破壊のあるのが特徴である。

 平成12年9月16日、東京杉並公会堂で「つくる会」主催の二度目の私の四時間独り語りが行われ、その題名は「江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋」であった。『国民の歴史』(平成11年10月刊)に盛り込みたくて時間切れで諦めたテーマを語った。この日は田中英道氏の「葛飾北斎とセザンヌ」のスライド比較紹介もあったので、それも入れると延べ5時間をこえる催しとなった。

 それでも、一講演のモチーフはそんなに大きくはない。まとめれば小さくなる。『諸君』平成13年7月号に講演の一部を転載し、連載を始めてから、小さい入り口からどんどん大きくふくらんだ。断続連載で平成16年9月号までに20回を数えるに至って、(しかも終りごろは1回に60~70枚もゆるしていたゞき)終わってから2年近くたってやっと整理の最終段階を迎えている。

 なぜ整理にそんなに時間がかかったのか――勿論小泉選挙や「つくる会」混乱に気を散らしたのがいけないのだが――理由はあまりにテーマが広く、多方面に及んでいることにある。なにしろヨーロッパと中国と日本における古代認識と「古代ルネサンス」のテーマである。古代と近代の衝突の問題である。渉猟した文献は数百を越えた。あちこちに、それぞれが大きな主題を内蔵した複数の重い房を垂らしたような、異様な形態の一冊になりそうである。

 ところで第16章「西洋古典文献学と契沖『万葉代匠記』」にロッテルダムのエラスムスが登場する。この肖像画を描いたのがハンス・ホルバインである。

 第16章の末尾の小部分を以下に四回に分けて掲示するが、勿論、叙述の中心は契沖である。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(五)

 エラスムスとルターの論争は西洋精神史における最も深刻、かつ最も影響の大きい思想のドラマの一つである。追及するのを忘れてしまった私がいけない。まだ人生に時間は残っているので追いかけるかもしれないが、私の関心はご承知の通りその後ニーチェに向かった。

 ニーチェは24歳でバーゼル大学の教授になり、ブルクハルトに出会い、ワーグナー夫妻と交流し――バーゼルから夫妻の住む同じスイスのルツェルン近郊トリプシェンへ行くのは難しくない――、そして『悲劇の誕生』をバーゼルで書いた。

 私は29-30歳で『悲劇の誕生』を翻訳した。以来、この天才に呪縛されたのは紛れもない。ある人から「先生の『国民の歴史』は『悲劇の誕生』の影響を受けていますね。」と言われて、考えてもいないことだったのでハッと驚いた。「そうだったのか。ウーン、そうなのかもしれない」と思った。表立ってニーチェの名はほとんど出てこない本なのだが・・・・・・。

 ニーチェは文献学者だった。しかし文献学を破壊する文献学者だった。すべての歴史は文献学に行き着く。しかし文献学にとどまる限り、歴史たり得ない。

 仏陀にせよ、イエスにせよ、孔子にせよ、いくら文献を追求してもその実像は把えられない。仏陀のことばなどはごく一部の経典に記されたのは仏滅から500年も経った後である。すべては口から口へ伝承されたにすぎない。

 『論語』が孔子の実像を伝えているという保証はない。あれは聖人のばらばらの発言集である。門人たちの覚え書きである。『聖書』も使徒たちの編集と改修の手を免れていない。

 歴史とは何か? 
 歴史とは神話である。歴史と神話との境界線は定かではない。

 近い歴史を考えるわれわれでさえ「神話的」思考をしている。イラク戦争の原因について、われわれはすでに薄明の中にあり、トロイ戦争の時代の人よりもっと神話的かもしれない。

 それでも人は言葉を求める。言葉による説明や解釈なしでは人間は生きていけないからだ。たちまち不安になる。歴史の成立は矛盾を孕んでいる。

 ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。

 歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。文献学がなくてはどんな学芸も、どんな哲学も、どんな叡智も成り立たない。文献学は自覚のやり直しの場といってもいい。それを別のことばでいえば「歴史意識」ということになる。

 この地球上で歴史意識が存在した場所は地中海域と中国と日本列島の三個所しかない。文献学が誕生し、展開したのもこの三個所である。

つづく