ゲーテの神に立ち返って――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 田中卓氏は皇位継承問題にからんで、神宮祭祀の一般に知られざる伝統を持ち出して、男系でなくてもよいと説いた。私はめまいがした。氏は伊勢神宮の斎宮制の研究のほか、建国史のほうでは〈二大巨頭〉と仰がれる泰斗だそうである。

 私もこの人の古代史に関する本を何冊か持っている。『諸君!』(3月号)の「女帝天皇で問題ありません」という文章は二度読んだ。「私は誰よりも皇室を尊敬している。しかし天皇陛下も偉いが伊勢の神様のほうがずっと偉いので、その専門では最高峰の私の言うことを聞け!」と行間にはそう書いてあった。

 ややこしい人だ。この人は神や神の事蹟を調べるのが職掌である。半世紀も学問をしておられてどうしてこの過誤なのか。氏は神様を引っ張りだして皇室をいじったのである。

 また最近、生長の家の運動家といわれる人たちの信仰と政治的活動とが話題になった。その人たちの精鋭は政権中枢に近づいていろいろな改革や再生をめざしていると聞く。それはそれでいいではないかとも思う。

 信仰を捨てて政治的運動に参画しているのか、信仰のままに世界を動かそうとしているか、そんなことはわからない。慧可は自分の腕を切り落として達磨に入門を乞うた。信仰とはそれほど真剣なものだ、とは私に言えない。ただ、信仰に人が必要なのだろうか、政治が必要なのだろうか、と単純に思うだけだ。

 人の職業や信仰をとやかく言うことはない。私にはゲーテの神に対する考え方、態度のほうが、前述の日本人より身の丈にあっていて、そこへ帰りたくなる。ドイツ語が読めない私には、一知半解の勉強だが、ゲーテの神観はおおむね次のようにとらえられるのではないか。  

 ゲーテはキリストを神のひとつの表現として見るにとどめている。そこから越えなかった。キリストが唯一、神のすべてを体現した存在という意味ではなく、神が表現するためにキリストを必要としたという見方になると思われる。したがって神は同時にイスラム教の神であることもみとめた。神はキリスト教専用の神ではない。「専用されるものは神ではない」という立場を貫いた。

 ゲーテはまた、「自然」をほとんど「神」と同義語のように用いている。「自然のうちに神を、神のうちに自然を見る」(『年代記』1811年の項)という言い方をした。「神」がそのまま「自然」であり、「存在」がそのまま「神」と見るところから、そこからもゲーテは汎神論者と呼ばれる。六、七歳の頃に「自然の偉大な神」を愛慕したあまり、自分なりに工夫して部屋に祭壇をこしらえ祈ったことも知られている。

 神性は自然の「根本現象」の中に啓示されている、とゲーテは言う。この世界で起きる多様な現象は一つの神性の本質であり、啓示や象徴にほかならないというのである。『ファウスト』の「神秘の合唱団」は「すべて過ぎゆくもの(すなわち現象一般)は神の似姿にほかならぬ」と歌っている。

 キリストより前に生きていた偉大な人々、ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、旧約聖書の中の数人の猶太人と同じように神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。

 岡潔さんががよく使う「造化」というのも、ゲーテの神に通じるところがある。そう勝手な解釈をしているが、それほど間違っていないという気がする。「造化」は地上の至るところに、色とりどりの花を咲かせるようにして或る人たちを降ろした、という譬喩を岡さんはよく用いた。

 エッカーマンにゲーテはこう告白している。

 「宗教上の事柄でも、科学や政治のことでも、私がいつわらないで、感じたままを口にする勇気を持っていたということが、いつも私をやっかいな目にあわせた」

 「私は神や自然を信じ、高貴なものが悪いものに打ち勝つことを信じていた。ところが、善男善女には、それが不満で、彼らは私に三が一であり、一が三であるといったことを信じなければいけないというのだった。しかし、そんなことは私のこころの真理に対する感情に反していた。そのうえ私は、そんなことでいくらかでも助かるだろうなどとはどうしても思えなかった」(秋山英夫訳)

 三が一であり、一が三であるというのは、キリスト教のいわゆる三位一体説のことである。創造主としての父なる神と、キリストとして世にあらわれた子なる神と、信仰体験として聖霊なる神とが、一つであるという教えで、これは広く日本人も学校でならったことだが、所詮は勝手にあつらえた教えにすぎないと、ゲーテは与しなかった。

 キリストに対しても恭順畏敬をささげることができるし、同様の意味で太陽を拝むこともできる、とゲーテはどこかで言っている。これは驚くべきことだ。なぜ、ゲーテが日本に生まれなかったのか、と不思議に思うことがある。

 ゲーテはまた、寡黙がちではあったが「デモーニッシュなるもの」に言及し、その存在を信じていた。古代ギリシャ人が考えていた人間にひそむ神的存在「ダイモーン」。神のようであって神ではないものである。人間に似ているが人間的なものでもない。悪魔に似ているが悪魔的なものでもない。天使に似ているが天使的なものでもない。

 ゲーテは「自然のうちに、ただ矛盾の姿であらわれ、どんな概念でも包括できないようなあるもの」があると告白しているのだが、「ファウスト」におけるメフィストフェレスは別のものらしい。メフィストフェレスは「もっとネガティブな存在」だと言い、ダイモーンは「徹底的にポジティブな実行力のうちにあらわれる」として、ダイモーンとメフィストフェレスとを区別している。

 デモーニッシュな人々の代表は、絵画ではラファエロ、音楽ではモーツァルト、あのナポレオンも断然、デモーニッシュな典型とゲーテはいう。「私にはそういう資質はないが」とゲーテは否定しているが、ゲーテ自身がデモーニッシュな人でないわけがないと思う。

 私がとくに面白いと思うのは、ワイマル公国のカール・アウグストを評した部分だ。「無限の実行力にみち、安閑としていられない性分だったから、自分の国も小さすぎるくらいだった」。こういう人はホラッ、私たちの意外なほど近くにもいるのではありませんか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(八)

 言論人は反政府的であるべし、と決まっているわけではない。それは古い考え方である。それでも言論人と政治家とでは役割が異なる。言語で表現するのと、行動で表現するのとの原則上の違いがある。

 昔は言論人は反政府的ときまっていた。福田恆存のような、自分は「保守反動です」とわざということがアイロニーだった時代に文字通りの保守思想界を代表した論客が、選挙で何党を支持するのかと問われて、自民党と答えず民社党と言っていたのを面白いためらいと思ったことを覚えている。

 この原稿を私は私の若い時代、60年安保騒動の思い出から始めたので、もう少し思い出を加えてみよう。さらに6年ほどさかのぼった昭和29年(1954年)に、私は大学1年で、第5次吉田内閣のたしか官房長官だった増田甲子七という人が駒場のキャンパスに来て大教室で講演をしたのを聴いたことがある。

 あの頃保守政党の政治家は学生にとっては「人間」ではなかった。会場は怒声で溢れていた。彼がなんの話をしたのか、まったく覚えていないが、次々と質問に立つ学生が「増田!貴様は・・・・」という調子で呼び捨てにするので、私はひどい連中だと秘かに彼らのほうに腹を立てていた。

 すると会場からひとり「失礼ではないか。呼び捨て止めろ」の声を挙げる者がいて、その一声で会場がサーッと波打つように静かになって、私がホッと安堵したのがはっきり記憶にある。

 当時の学生たちの「非常識」と「常識」の二面を見る思いがしたものだが、要するに保守政党の政治家は学生世論では悪の権化であり、人間の皮を被った化物なのであった。

 そのわずか2年前(昭和27年)の5月に皇居前広場で「血のメーデー事件」が起きていた。米ソ対立の代理戦争が日本の国内で白熱化していた時代だった。昭和35年はいうまでもなく60年安保で、アイゼンハウアー大統領の訪日阻止デモで私の友人の何人もが逮捕されている。

 そんな時代の空気をずっと吸って生きてきた私は、勿論まったく時代の風潮に反対であり、保守サイドに立つ私は彼らにとって裏切者で、悪魔の代弁者であったが、支持政党は何かと公式に聞かれると自民党とはあえて言わないで民社党と言った福田恆存の自己韜晦は非常によく分るのである。

 32歳の頃、私は国立大学の講師だったが、『国民協会』という自民党の新聞に一度だけ署名原稿を書いたことがある。誰かが見つけて来て、ドイツ文学界の中の私の評判はがた落ちになった。

 私だけでなく、政府に与するような議論を述べることに言論人は永い間逡巡し勝ちだった。いつの頃から情勢が変わったのだろうか。アメリカの影響だろうか。左翼が弱くなったせいもあろう。それでも、政府べったりの主張をする人間はみっともないという意識は、学者言論人の世界ではずっと普通だったし、今でも多分そうだろう。

 あの60年安保騒動の渦中にあった首相のお孫さんが総理大臣になったのかと思うと、昔を知る世代には感無量である。そして、知識人や言論人のブレーンの名が新聞に出ると、アメリカ型政治の影響であるとか何とかいわれても、半世紀でこうも変わるものかとこれまた不思議な思いが去来するのである。

 時代がどんなに変わっても、権力と知識人の間にはつねに一定の緊張が昔からある。また、なければいけない。言論人が個々の政策に口を出すのではなく、むしろ言論人が政権に黙って大きな立場から影響を与えるというくらいの存在でなければ意味がないのではないだろうか。

 言論人が政権にすり寄り、虎の威を借りて自説を補強するなどということは、最近の新しい現象かもしれない。それが言論の強化に役立つと考えるのだけは完全な錯覚である。

 それは次のような理由による。言論と違って、政治は無節操に変化するのを常とするからである。例えば安倍政権は拉致事件の解決のために中国と協議する必要上、靖国で妥協するかもしれないと不安がられている。私はそんなことはしない方が得策だという考えである。靖国で妥協してもしなくても、中国の北朝鮮政策は同じで、拉致が解決しないときは何をしてもしない。としたら、妥協したならば安倍氏は両方を失う可能性がある。そう思うからである。

 しかしそう思うのはどこまでも言論人の考え方である。政治家はまったく別の判断をするだろう。別の判断をしても仕方がないだろう。しかもそれを政治家は自分の責任においてやるだろう。言論人はこの種の政治的情勢判断を慎むべきである。民族の「信仰」の問題で他国との妥協はあり得るか否かの原則を応答すればそれでよい。

 新井白石や荻生徂徠が幕府から下問されて儒教の経書に照らして思想上の正否を述べ、それ以上口出ししなかったという態度にもこれは似ている。

 岡崎久彦氏が靖国の遊就館の展示内容をさし換えよという乱暴な発言をしたとき、文化界のある重要な立場にいる人が私に、岡崎氏は米大統領が安倍新政権にテコ入れするために二人で一緒に靖国参拝をする情報を知っていて、米大統領が参拝し易い条件をつくろうとしているのだろう、と言った。私は確かな情報か、と問い質した。すると彼は、いや、岡崎氏ともあろう人がこんな発言をするからにはそれくらいのことがあるのではないか、と、単なる観測気球をあげた。何から何まで人の好い、楽天的な、自分の好む方向を好意的に空想しているだけの話で、文化界にある人のこういう政治的観測、根拠なき情勢判断の甘さは何よりも具合が悪いと私は思った。

 言論人はこの手の政治情勢解釈を、できるだけ慎むべきである。言論人がある程度「反政府的」であらざるを得ないというのは、言論と政治の原則上の相違からくる。政治はどんどん揺れ動く。言論はそうそう揺れ動くわけにはいかないからだ。

 政治家のために言論人が奉仕すべきではなく、奉仕してもそれには自ら限界があるというのはここに由来する。

 竹中平蔵氏の運命をみても、政治に全面奉仕して、彼に残るものは何もなかった。不良債権処理と構造改革において政権の力で自分の理念を実行し得た、という自己満足は十分に残っただろうが、それが客観的に評価されるかどうかはまったく分らない。彼は政界に残っていても、安倍氏に相手にされず、もうやることがないと判明したので辞めたのだと思う。

 しかし彼は言論人であることを中止して政治家となった数少ない成功例である。彼は学者言論人にはもう戻れない。勿論、どこかの職場の一員としては戻れるだろうが、その言論活動は何を唱えても末永く「小泉」の名と結びつけて扱われることを避けることは出来ないだろう。

 学者言論人の政治との関わり方は難しい。前にも言ったが、黙っていてもその影響が政治に静かに作用しつづけるような存在でなければ本当は迂闊に政治について発言すべきではないのかもしれない。しかしその理想形態は孔子と魯国、ゲーテとワイマル公国のようなケースで、現代においてはほとんど不可能かもしれない。

 ここまで書いて9月26日を迎え、安倍新内閣の閣僚名簿が発表された。総じて私は好感をもった。経済閣僚の人選には竹中路線が感じられ、少し先行き不安だが、安倍氏が自分の思想的同志で固めたのは心強い。論功行賞などという必要はない。首相の意志がパッと伝わる陣形がつくられたのは能率的で、「党内党」がつくられたという趣きさえある。

 そこから当然問題が生じる。首相に力が結集するこの「集中力」は安倍氏のパワーに依るものではなく、前首相の野蛮な力の遺産である。前首相と異なる人柄の良さと明るさで野蛮の根はいま覆い隠されている。しかし「集中力」はいつかほどける時がくる。

 ほどけたほうがいい。ほどけて党内不統一が生じるのが自民党らしい民主的なやり方で、もし党内統一がますます強まり、国民を「束ねる」方向へどんどん進んだらまた別の危険が生じるだろう。

 自民党は昔から、陰と陽、明と暗、動と静のカラーの交替で危機を乗り超えて来た。前首相の遺産を受け継ぎながら、前首相とは正反対の仮面を新たに表に出して、世間の目に舞台を替えて見せるのである。

 野蛮の次は今回は礼儀正さである。パフォーマンスの次は地味な実務的効率の良さである。それで目先を替えて今回もうまく行くのかもしれない。

 いずれにせよ、閣僚の中に田中真紀子とか猪口邦子といったわれわれが嘲りたくなるような人物がひとりもいないということだけでも、ホッと一安心できてありがたい。

           (終)

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(七)

 「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と産経コラム「正論」(8月24日)に書いた岡崎久彦氏の靖国干渉オピニオンに、蛇足のように、初版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・西尾幹二)への攻撃のことばがあえて意図的に、次のように挿入されている。

 過去4年間使われた扶桑社の新しい教科書の初版は、日露戦争以来アメリカは一貫して東アジアにおける競争者・日本の破滅をたくらんでいたという思想が背後に流れている。そして文部省は、その検定に際して、中国、韓国に対する記述には、時として不必要なまでに神経質に書き直しを命じたが、反米の部分は不問に付した。

 私は初版の執筆には全く関与しなかったが、たまたま機会があって、現在使用されている第2版から、反米的な叙述は全部削除した。

 岡崎発言は今回が初めてではない。昨年のたしか春ごろの『中央公論』と『Voice』で、岡崎氏は同様に語り、自分の削除で第二版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・藤岡信勝氏)は教科書として完璧の域に達した、というような自画自讃のことばを列ねていたのを覚えている。今手許にないので引用できないが、そこには事実に反する無礼なことばも言われていて、私は当然腹を立てた。

 しかし「名誉会長」には言論の自由がない。私が反論の文章を書くのではないかと「つくる会」の理事の面々は心配し、抑止した。これから採択戦が始まるという時期で、執筆者同士の内輪の争いを外にみせてはいけない、というのだ。遠藤浩一理事が丁寧な書簡を私に送ってきた。「先生、お怒りでしょうが、ここはしばらく辛抱して下さるようにお願いします」と書かれていた。

 そういうことも分らないで偉そうに好き勝手な自慢を吹聴して、人を傷つけて平気な岡崎氏は教科書採択がどういうことか分っていないのだが、しかしもともとデリカシーを欠く人物なのである。

 周知のとおり、採択戦は完敗に終った。「つくる会」には課題が押し寄せ、私は岡崎氏にわざわざ反論を書く状況ではもうなかった。それに『中央公論』にせよ『Voice』にせよ、抗議の文を書かせてもらうのなら直後でなければならない。私は機会を逸した。

 すると一年以上も経ってまたしつこく、新聞で17行の上記の文章があえて意図的に挿入されたのだ。

 「日露戦争以来」の「反米的叙述は全部削除した」という初版本と第二版本の比較の仔細を私はまだ十分に調べていない。扶桑社の編集者にかつて岡崎氏の修正メモをみせるように要求したが、見つからないといって断られた。

 そこで、日露戦争直後の両教科書の記述を例にあげ、三項目に分けて以下に比較対照する。

 初版本257-259ページ、第二版本188-189ページからである。

初版本:日米関係の推移

 日露戦争のとき、ロシアが満州を占領することをおそれたアメリカは日本に好意的であった。ところが、日本がロシアにかわって南満州に進出すると、アメリカは日本の強大化を意識するようになった。また、19世紀後半より、太平洋への進出を始めたアメリカにとって、対岸にあって、強力な海軍を備える日本は、その前に立ちはだかる存在でもあった。

 一方、アメリカ国内では、中国移民やアメリカの先住民への人種差別が続いていたが、日露戦争終結の翌年、アメリカのカリフォルニア州で日本人移民の子どもを公立小学校からしめ出すという法律が制定された。勤勉で優秀な日本人移民への反発や嫌悪が大きくなってきたのである。

 こうした中、アメリカは1907年、将来、日本と戦争になった場合の作戦計画(オレンジ計画)を立てた。また、日本も同年に策定した帝国国防方針の中で、アメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ防衛計画を立てた。このようにして日米間の緊張は高まっていった。

 国際連盟が提案された第一次大戦後のパリ講和会議で、日本は唯一の提案である人種差別撤廃案を会議にかけた。この案は日本人みずからが重視し、世界の有色人種からも注目を浴びていた。投票の結果、賛成が多数を占めたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンが、重要案件は全会一致を要するとして、不採決を宣言した。このことも、多くの日本人の反発を生んだ。

 こののちも、アメリカでは日本人移民排斥の動きが続き、多くの日本人はこれを人種差別と受け取った。

 

第二版本:日米関係の推移
 
 日露戦争後、日本は東アジアにおけるおしもおされもしない大国となった。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となった。

 他方、日米間では、、日露戦争直後から、人種差別問題がおこっていた。アメリカの西部諸州、特にカリフォルニアでは、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事をうばうとして、日本人を排斥する運動がおこった。アメリカ政府の指導者は日本人移民の立場に理解を示したが、西部諸州の行動をおさえられなかった。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛りこむ決議を提案した。その目的は移民の差別を撤廃することだったので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対した。米国は当初、日本に同情的だったが、西部諸州の反発をおそれて反対に加わり、決議は採択されなかった。* しかし、日本の提案は世界から多大の共感を得た。

 *日本の提案は世界の有色人種から注目をあび、投票の結果、11対5で賛成が多数をしめた。しかし、議長役のアメリカ代表ウィルソンが重要な議題は満場一致を要するとして否決を宣言した。

 ご覧の通り、第二版本では、二度にわたり、悪いのは「西部諸州」で、アメリカ政府ではないと述べ、「西部諸州」をおさえられなかったのはあたかもアメリカ政府ではないかのごとくである。なぜアメリカ政府を弁護するのか。

 日米関係を述べているくだりなのに、なぜオーストラリアを悪役として出してアメリカはそれほど悪くなかった、と言いたいのか。歴史記述なのだから、アメリカ政府のとった態度の結果だけを書けばよいのではないか。不自然なまでにアメリカの立場に立っている。

初版本:白船事件

 1908年3月、16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が、目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如、世界一周を口実にして、太平洋を西に向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しかない。パリの新聞は日米戦争必死と書き、日本の外債は暴落した。

 日本政府はあわてた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と区別し、白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌をのせ、Welcome!と書いた英文の社告をのせた。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちは歓迎パーティーぜめに合った。彼らを乗せた列車が駅に着くと、1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。

 日本人のみせたこの応対は、心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。

第二版本:歴史の名場面  アメリカ艦隊の日本訪問

 1908(明治41年)3月、16隻の戦艦からなるアメリカの大西洋艦隊が、世界一周の途上、日本へ向かって進んできた。当時、日本が保有する戦艦は7隻だったから、これは大艦隊であった。セオドア・ルーズベルト大統領は、みずから建設した艦隊の威勢を世界に誇示しようとした。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と対比して、白船とよばれた。

 日本政府は、国をあげて艦隊を歓迎することとした。ルーズベルトはアメリカの印象をよくしようとして、「品行方正な水兵以外は船の外に出すな」と指示した。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちはパーティー攻めにあった。彼らを乗せた列車が駅に着くと、千人の小学生がアメリカ国歌「星条旗」を歌った。

 
 第二版本では「歴史の名場面」と銘打ったコラム扱いになっているが、この一文は無内容で、なぜ「歴史の名場面」とわざわざ呼んで特筆したのかこれでは分らない。載せる必要がない。

 アメリカ政府の公文書だけが歴史ではない。白船事件は太平洋における20世紀初頭の「海上権力論」が特記しているきわめて深い意味をもつ一エピソードであった。アメリカ艦隊が日本から離れて間もなく、日本海軍は小笠原沖で米艦隊の再来に備えて大演習を行なっている。

初版本:ワシントン会議

 1921年には、海軍軍縮問題を討議するためワシントン会議が開かれ、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、そしてアメリカの9カ国が集まった。この会議で、米英日の主力艦の保有率は、5・5・3と決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。青島の中国返還も決まり、同時に、20年間続いた日英同盟が廃棄された。

 主力艦の相互削減は、アメリカやイギリスのように、広大な支配地域をもたない日本にとっては、むしろ有利であったともいえる。しかし、日英同盟の廃棄はイギリスも望まず、アメリカの強い意思によるもので、日本の未来に暗い影を投げかけた。

第二版本:ワシントン会議と国際協調

 1921(大正10)年から翌年にかけて、海軍軍縮と中国問題を主要な議題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本をふくむ9か国が集まった。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域に安定した秩序をつくり出すことだった。

 この会議で、米英日の海軍主力艦の保有数は、5:5:3とすることが決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。同時に、20年間続いた日英同盟が、アメリカの強い意向によって解消された。

 主力艦の相互削減は、第一次大戦後の軍縮の流れにそうもので、本格的な軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利な結論だったといえる。しかし、海軍の中にはこれに不満とする意見も生まれるようになった。政党政治が定着しつつあり、国際協調に努めた日本は、条約の取り決めをよく守った。*

*1922年、条約が成立すると、日本はただちに山東半島の権益を中国に返還し、軍事力よりも経済活動によって国力の発展をはかるように努めた。

 読者は以上の三例をよくご自分の目でたしかめ、削除や修正で内容がどう変わったかをとくと観察していたゞきたい。

 以上はほんの一例である。二つの教科書は他のあらゆるページを比べればすでに完全に内容を異とする別個の教科書である。初版本の精神を活かしてリライトするという話だったが、そんなことは到底いえない本になっている。

 「つくる会」の会員諸氏もページごとに丁寧に両者を比較しているわけではないであろう。リライトされ良い教科書になった、と何となく思いこまされているだけだろう。

 何のための教科書運動であるのか、今すでにしてもはや言えなくなっているのである。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(六)

 世界の政治の動きは私が考えているよりもずっと早い。総裁選の各候補者の演説のどこが良いとか悪いとか言って日本がもたもたしているうちに、外からドカーンと恫喝の声が届けられた。13日と14日のアメリカからの威嚇である。

米下院委、「慰安婦」で対日決議採択 責任認知など要求

 米下院国際関係委員会(ハイド委員長)は13日、第2次世界大戦中のいわゆる慰安婦問題に関する対日決議を採択した。法的な拘束力を伴わない決議形式だが、この問題について日本政府に対し、(1)歴史責任の認知(2)学校教育での指導(3)慰安婦問題はなかったとする議論への公式反論-などを求めている。

 決議は民主党のエバンス下院議員らが提出し、表現を一部修正のうえ採択された。慰安婦については「若い女性を性的苦役に就かせる目的で誘拐した」などと認定している。(ワシントン=山本秀也)

【2006/09/14 産経新聞 大阪夕刊から】

 新政権の扱いは最初が肝心とばかりに、脅しをかけて来たのであろう。靖国問題ならアメリカからすでに注文が出されていて、さして驚くに値しない。なんと例の「従軍慰安婦」問題である。しかも個人の意見ではなく、一委員会の決議採択であるからそれなりに重い。

 中国人のロビー活動が裏にあると想定されるが、厄介な事態である。決議内容の事実無根なること、過去十年の日本の言論界においてすでに論破しつくされていること、それゆえ今さらここで再反論に値しないことはことあらためて言う必要はあるまい。(そう思わない人は当日録の読者であるべきでなく、勉強をし直していたゞくほかない。)

 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年12月に起ち上がったそもそもの切っ掛けはこの問題だった。安倍政権の発足直前に、中国からではなくアメリカから、教科書問題を振り出しに戻すように「慰安婦」問題の学校教育へのこのような取り入れ要求が出されたことは政治的に重大である。

 昭和20年代に米進駐軍用日本人慰安婦20万人余、巷にあふれたパンパンの群れ、処女狩りもあったという噂も耳にしている私の世代の日本人は、アメリカ兵常習の「慰安婦問題」をアメリカの「国際関係委員会」に告発したいくらいである。

 ひきつづき9月14日に、米下院外交委員会の公聴会でまたまた靖国問題が取り上げられた。

<米議会>靖国神社遊就館の展示に変更求める ハイド委員長

 【ワシントン及川正也】米下院外交委員会のハイド委員長(共和党)は14日、日本と近隣諸国に関する公聴会で、靖国神社にある戦史展示施設「遊就館」について「事実に基づかない歴史が教えられており、修正されるべきだ」と述べ、展示内容の変更を求めた。

 また、民主党のラントス筆頭委員は小泉純一郎首相の靖国神社参拝を「日本の歴史に関する健忘症の最もひどい例だ」と指摘し、「次期首相はこのしきたりをやめなければならない」と参拝中止を求めた。米国内には首相の靖国参拝による日中関係悪化を懸念する声があり、米外交に影響力を持つ両議員の発言は日米間に波紋を広げそうだ。

 ハイド委員長は「遊就館が第二次大戦は日本による西側帝国主義からの解放だと若い世代に教えていることに困惑する」と批判。ラントス議員は「A級戦犯が祭られている靖国神社への参拝はドイツで(ナチス幹部の)ヒムラーらの墓に献花するのと同じ。韓国や中国の怒りをあえて招くことをする限り、日本が国際社会で重要な役割を演じるのは難しい」と述べた。
(毎日新聞 15日12時00分)

 靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事内容は、岡崎久彦氏が8月24日産経コラム「正論」で「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と先走って書いていたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはたゞの推理ではなく、ほゞ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。

 岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 問題はその岡崎氏が安倍内閣の外交のブレーンだと噂されていることである。「遊就館」の展示内容変更への靖国側に対する強要も、岡崎氏と手を組んだ安倍氏の意向であり、したがって「次期首相」の参拝中止を求めるアメリカの声にも安倍氏は威圧され、足がすくんでしまう可能性をも示唆している。

 中国や韓国からの圧力ならはね返すのは何でもない。小泉首相は中国と韓国だけが相手で、今度のように背後からアメリカに威嚇されるというケースではなかった。しかも、今度は靖国だけでなく、「従軍慰安婦」までも威嚇のタネとなっている。

 「靖国」と「歴史教科書」は二大タームなのである。この両方をゆさぶり、骨抜きにする計画は中国や韓国からアメリカにまで伝播した。いよいよ日本の正念場である。どうしても負けられない一線である。

 安倍氏よ、ここで日本男子であることを証明して欲しい。自民党総裁になった日に必ず記者会見で「靖国参拝をどうされますか」と問われる。世界中が注目している一瞬である。ひるむことなく日ごろの所信、「毎年必ず参拝します」と明言してもらいたい。この一語であなたの価値はきまる。そのためにはアメリカと口裏を合わせる怪しげな外交ブレーン、宦官のごとき卑劣の輩を近づけるな。

 もし万が一安倍氏が外圧に屈し、靖国参拝について姑息な言辞――言いわけや逃げ腰のことば――を弄したなら、この秋、日本には不穏なことが相次いで起こるであろう。

 上記二つの外信記事は「米中握手」の時代が近づいていて、小泉時代とは外交局面が変わりつつあることを物語っている。それだけに、日本が日本であること、およそ民族の「信仰」の問題で、両サイドのどちらからの威圧にも屈しない魂の表白を首相たる者、国民を代表してなし遂げなければならないのだ。「靖国」と「歴史教科書」のどちらも、外患に怯み、奸臣不逞の徒の手に委ねてはならないテーマなのである。

 じつは上記二つの外信記事は必ずしもアメリカの代表意見ではない。日本の新政権を揺さぶる外交戦略の一つにほかならない。まずそう考え、気持を切り換える必要がある。

 例えば、アメリカ軍備管理軍縮局上級顧問トーマス・スニッチ氏(産経、8月22日)は、次のように述べている。

米・軍備管理軍縮局元上級顧問 トーマス・スニッチ氏

 (前略)日本の首相が靖国参拝を取りやめさえすれば、中韓首脳会談の実現など、すべてが順調に運ぶという趣旨だが、こうした見解は間違っている。日本の事情や日本社会における靖国神社の意味を理解していないのではないかとも思える。

 小泉純一郎首相はこれまで何度、第二次世界大戦に関しておわびを述べてきただろう。この数年でも多くの日本の指導者が謝罪を繰り返している。あと何度謝れというのか。謝罪とは一度きりであるべきだ。
(中略)
 日本がドイツを手本にすべきだというが、これは不条理な話だ。冷戦時代に米ソがともに得た教訓を挙げると、ある国のモデルを別の国に移植することは不可能だ。米国は東南アジアで、ソ連はアフリカで似たようなことを試したが全部ダメだった。

 そもそもドイツは、戦後の分断国家であり、東西ドイツの国境がすなわちソ連軍との前線という状況だった。北大西洋条約機構(NATO)のメンバーだった西独は、他のNATO諸国との関係構築の上に戦後の発展を進めざるを得なかった。日本にはこうした状況はなかった。

 靖国神社が仮に地上から消え去ったところで、中国が他の問題で日本を問い詰めるのは間違いない。多くの国内矛盾を抱える中国にすれば、靖国問題は国内の注意を国外にそらして日本を指弾する格好の材料なのだ。次期首相が参拝を中止すれば状況が好転するとの見方はあまりに楽観的で、どうみても現実的とはいえない。

(08/21 産経22:11)

 新首相はこうした理解ある言葉をしっかり胸に秘めて、つまらぬ臆病風に吹かされぬようにして欲しい。

 ここで誤解のないように言っておくが、私は単純な「反米」の徒ではない。「外交」において親米、「歴史」において反米たらざるを得ぬ、と言っているまでである。戦争をした歴史の必然である。

 米英関係は今は親密だが、今でもイギリスの歴史教科書はアメリカの独立戦争をイギリスへの「反乱」と記し、ワシントンを「逆賊」と書いている。

 岡崎久彦氏は、遊就館の展示に戦争の原因をルーズベルト大統領のニューディール政策の失敗に見ている見方があり、これを「唾棄すべき安っぽい議論」として削除すべきだと言っているし、すでに削除は実行されているらしい。

 しかし、ならば氏に借問す。スミソニアン原爆博物館に、すでに無力化した敗北直前の日本への原爆投下の米側の動機は100万の米軍将兵の生命を救い、戦争を早期終結させるため、と書かれているそうだが、これも「唾棄すべき安っぽい議論」ではないだろうか。先にこちらの削除を要求すべきではないか。

 遊就館には戦争の原因がほかにも数多く書かれていて、ルーズベルトの経済政策失敗説はそのうちの一つにすぎなかろう。日本は戦争の動機を「自存自衛」と「アジア解放」に求めているが、アメリカは「侵略」と言い張っている。それでもわれわれは相手方の考え方に削除を要求できないでいる。

 日本における数多くの戦争の原因説明の一つに、アメリカにとって必ずしも全面的に賛成しかねる理由が述べられていても、「旧敵国」同士なのであるから、怪しむに足りないであろう。

 岡崎氏よ、なぜあなたは「公正」ぶるのか。それは公正ではなく「卑屈」ということなのである。

 日本の外交官にはつねに「卑屈」が宿命のようにつきまとっているようにみえる。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(五)

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。

 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏への干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(四)

 7月2日の「新しい歴史教科書をつくる会」総会の終了後にいつものように懇親会があった。櫻井よしこさんその他が挨拶をした。櫻井さんはいつも来る顔である。この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。

 岡崎氏は私が名誉会長であった間は総会に来たことがない。多分気恥しいひけ目があったからだろう。(彼は「つくる会」創設時には脛に傷もつ身である。)私が姿を見せなくなったら突然現われ、紛争について叱責調で、「つまらない争いはやめろ、一体何で争っているのか分らない。怪メールが非難されているが、自分には何が悪いことなのかまったく分らない。八木氏の中国訪問に何も問題はない」と語ったそうだ。

 伝え聞きなので正確を欠くかもしれないが、ともかくそういうことを言ったそうだ。櫻井よしこさんも「子供みたいな喧嘩は止めなさい」というたぐいのお説教を述べたそうである。

 櫻井さんの動機はよく分らないが、岡崎氏がここへ出て来て、偉そうにして、参集した「つくる会」会員を叱ったのは今からみるととても奇怪な話なのである。なぜなら、岡崎氏は内紛の一方の味方になって彼らにピタッと張り付いた、実は紛争の当事者の一人であることが次第に分って来たからである。

 子供たちが喧嘩をしている場に先生がやって来て、もう争いは止めなさいと喧嘩両成敗のふりをして、じつは先生が一方に勝たせるためにきれいごとを言っていたというケースにも似ている。

 先生はA君を勝たせたい。B君が勝つと先生の職員会議での立場がなくなる。放って置くと必ずB君が勝つ。B君の主張のほうが正義であり、A君は汚い手を使っているからである。A君の汚い手は世間に知られると学校の名誉が傷つきまずい。そんなものはなかったことにしてしまいたい。

 というわけで先生はB君の仲間が集っている教室にやって来て、「お前たち、子供みたいな喧嘩はやめなさい」と叫んだ。B君とその仲間を黙らせることがA君を救うことになり、結果的に学校を救うことになる。岡崎先生は校長からそういう指示を受けていたに相違ない。櫻井先生もあるいはそうだったかもしれない。小田村四郎先生はその長い教員生活で間違いなくそういう指令を敏感に受け取って忠実に実行することでよく知られている人だった。

 B君たちはどこまでも自分を貫きたい。しかしそう出来ない事情がある。学校をやめさせられると明日から困るという事情がある。本当はやめてしまいたいのだが、B君たちは学校から「歴史教科書を出版してもらう」という業務資格を与えられているからである。退学したいが、退学してしまうとその業務資格をも失う。

 岡崎先生はB君たちのその弱点を知っている。人の弱味につけこんで居丈高に振舞うのは卑劣の徒のすることだが、平成も18年に及ぶと、卑劣は正義の仮面をつけて大通りを歩む。

 岡崎先生の後に学校長がいる。そのまた後に誰かがいるのではないか。

 その誰かに秋波を送るために学園あげてせっせと卑劣の技を磨いているのではないか。多くの人はだんだんその全体事情が分るようになって来た。

 じつは昨日「つくる会」に関係する件で、ここでは語れない非常に不愉快な別件が起こった。私が信頼している地方の会員さんが悩んで、長いメールを下さった。(私は会を辞任して久しいのだが、今でも切実な言葉を訴えてくる方が後を絶たないのである。)

 その方が、どんな不愉快な出来事が新たに起こっても、八木秀次氏(いわずと知れたA君のこと)の会に対して犯した「三つの罪」に比べれば取るに足りない、と、次のように書いてこられた。

 「今問題になっているこの件ですが、再びつくる会の混乱を招くことは避けたい、というのが現在の私の心境です。八木氏の三つの大罪、つくる会会長の身分で勝手に訪中し、定期会合まで約束した。藤岡先生の共産党脱退の期日を公安の名まで出して偽り、陥れようとした。(これは刑事告発されるような問題と思います)。雑誌「アエラ」につくる会にとっては不倶戴天の敵朝日新聞に批判されない歴史教科書をつくると公言した。

このようなことが、なんら咎められることなく、日本教育再生機構の代表に祭り上げられる。そして多くの識者が臭い物に蓋をして平然と祝辞を述べる。正に虚偽の集合体と言うほかない。しかし、これが目の前にある現実なんだ、と肯定はしませんが認識せざるを得ない。今起こっている新しい問題は、これに較べれば軽いものです。

 B君のグループはこうして教室の中で静かに膝をかかえて、じっと忍耐し、推移を見守っている。つまらない喧嘩はやめろ、と岡崎先生も、櫻井先生も、小田村先生も言うけれど、「三つの大罪」を正すことがどうしてつまらない喧嘩だといって切り捨てられるのだろうか、と生徒たちは腑に落ちない。

 どうも何か新しい事態が起こりそうなのだ。新しい理事長が学園にやってくる。A君も、岡崎久彦先生も、小田村四郎先生も、伊藤哲夫先生も、否、学園の組織全体が妙な雰囲気になり、歯車が狂い始めているのはそのせいらしいのだ。

 常識では考えられないことが相次いで起こっている。紛争のどちらの側にも味方しないと言っていた新聞社がA君の仲間の記事だけを目立つ場所に掲げる。B君たちの大集会のあった「総会」の日に合わせてA君の新聞コラムを載せた。出版社はA君の本や岡崎先生の本をこれ見よがしに出すことも忘れない。

 と、そうこうするうちに岡崎先生は勢い余って、靖国にまで手を出し、B君たちの歴史観は正しくないと大見栄を切ることさえやってのけた。やがて手ひどい竹箆返しを食らう日もくるだろう。

 一番バカバカしいと思ったのはA君たちの「日本教育再生機構」のこの「日本教育再生」という文字が新理事長の赴任後の方針に出てくる文字と符合していること、集会の日に配られたパンフの表紙に大きな字で「美しい日本の心を伝える」とあり、これまた何処かで聞いたことばなんだ・・・・・・

 え?「美しい日本」・・・・・・「美しい国」・・・・・・どっちが先なの?どっちが真似したの?自分を新理事長に似せようとするこの涙ぐましい生徒達の愚行。新しい権力者に平然とすり寄る羞恥心の欠落!

 新理事長が学校に赴任したらいい大人たちが手に手に旗をもって歓声を挙げて走り寄るのであろう。美と、健康と、清潔を掲げるスローガン。ハイル!ハイル!何とか。

 学園内部の紛争は新理事長の自ら関知しないことだったかもしれない。しかし、その人の着任を知って、ありとあらゆる学内の組織と人事が「おべっか」の組織的自己調節を始めた。

 「歴史教科書の出版権」という業務資格はB君たちに対する生殺与奪の権である。「おべっか」の組織がこれを振り翳して理不尽な圧力を加えればそこに必死の抵抗が始まる。三つの大罪を犯した者に理由もなく(まったく理由もなく)一方的に特権を与えようとすれば、必然的に混乱と争乱が始まる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の真の原因はこうして次第に明らかになりつつあるといってよいだろう。

 たとえこれから何が起こっても、A君の「三つの大罪」への追及の手がゆるむことはないだろう。A君が権力者に取り入り何らかの目立つ地位に就いた暁には、「三つの大罪」はそれだけかえって大きくクローズアップされ、ひときわグロテクスな輝きを放つことになるであろう。

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(二)

 以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。

 半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。

 みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。

 その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。

 敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。

 ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。

 どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。

 「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。

 戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。

 「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。

 もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。

 ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。

 自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。

 「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。

 小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。

 尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。

 しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。

 権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。

 安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。

 権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。

 安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。

つづく

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)

 昭和35年(1960年)私は大学院の修士二年に在学中であった。本郷のキャンパスは興奮に包まれた。樺美智子さんという一学生が「虐殺」されたというのである。実際には国会正門になだれこもうとしたデモ隊に踏みにじられて圧死したのである。

 しかしそんなことが聴き入れられる雰囲気ではなかった。酩酊していたのは学生たちだけではない。ほとんどの教室は休講だった。教授たちもこういう日には授業なんかしていられない、一緒に国会デモに参加するという人が多かった。

 手塚富雄教授(ドイツ文学)は保守的学者だと思われていたが、翌月の文芸誌『群像』に「学生たちのニヒリズムは終った」とかいう題のデモ讃美の評論を書いていた。

 私はおかしいと思っていた。安保改訂はそれまでの「不平等条約」の日本からみての一歩前進なのである。今でこそこれは通り相場になっているが、そういう常識が評論の世界でさえ言えるようになるのにもそれから20年はかかっている。

 私とて確信があったわけではない。大学の内も外も、新聞も雑誌(当時の代表誌は『中央公論』)も、私の考え方に相反する内容に満たされていた。私はまだ若い。「おかしい、変だな」と思うだけで、それ以上言葉にならない。

 大学で私は黙っていた。デモには一度も行かなかった。気になるから本郷の構内にまでは行くが、私と同じ少し斜にかまえているごく少数の友人とひそひそ語り合い、「冷笑派」に徹していた。

 その少数の友人たちとも政治的議論を詰めて語り合ったのではない。デモの旗を振っている同級生のリーダーを「あいつはアナウンサーみたいにペラペラ喋る奴だな」と嘲りの言葉を口走って、憂さ晴らしをしていただけだった。

 私が秘かに個人的に深めていた時流への批判と疑問を、大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。

 樺美智子さんが死亡した翌日、構内は「今日のデモは葬い合戦だ」と騒然としていた。法文大教室では社会党の議員が演説をしていた。「虐殺抗議大集会」と張り出されていた。

 私は「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったら、友人の柏原兵三君――後に芥川賞作家になり38歳で亡くなった――が私の口をぱっと塞ぎ、手を引いて人混みをかき分け、会場の外へ連れ出した。

 私の身に危害が加えられるのを彼は恐れたのである。友情から出た思慮深い行動だった。

 われわれは少し間を置いてドイツ文学科の研究室に行くと、大学院生がほゞ全員集っていた。そして何やら熱心に座の中央で演説をしている同級生がいる。その人の名は柴田翔といい、彼もまた『されどわれらが日々』という学生運動を扱った小説で芥川賞を後日受賞している人物である。その頃のドイツ文学科には多彩な人材が多く、古井由吉君もこの同じ場にいたはずである。

 柴田翔君が次のような提言をした。「今日は午後、大きなデモが計画されている。学部の学生諸君は国会正門を突破すると言っている。警官隊も今日は手強いと思う。何が起こるか分らない。大学院生のわれわれは学部の学生諸君に頑張れ、とエールを送りたい。独文科大学院生の名において独文科の学部の学生諸君の行動を全面支援する声明を出したいが、全員賛成してもらえるか」

 「賛成、賛成」という声があがる。黙っている人もいる。私は変だなと思った。ちょっとおかしいもの言いだと思った。手を挙げて次のように言った。

 「本日の危険なデモに際し学部の学生諸君の行動をわれわれ大学院生が支援するかどうかという問題ではなく、われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか」

 「大学院生の声明は学部の諸君を勇気づけることになる」と柴田君は言った。

 「それはおかしい、大学院生の特権意識ではないか。」

 すると柴田君はすかさず次ように言った。
 「西尾君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている。」

 そうだ、そうだという声があがり、ある人が大きな声で「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と言うと、興奮した一団の声は一気に高まり、私の言葉をかき消した。

 今まで黙っていた、平生温和しいM君――後にドイツ中世語の研究家となった――が「西尾君の言う通りだと自分は思う。自分がデモに参加するのかしないのか、参加できるのかできないのか、それが問われるべき問題なのだ。」

つづく

「昭和の戦争」補論――歴史を知るとは

福地  惇(大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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1 今やその讒謗に応答する

 西尾幹二氏の「インターネット日録コメント欄」に頻繁に寄稿するバガボンドなる者が、六月後半期にゲストエッセイ欄に10回連載された拙稿「昭和の戦争」に対して、その初回から強い疑義を唱えて讒謗してきた。「大東亜戦争肯定論」を思想とする副会長が「新しい歴史教科書をつくる会」にいるのは許せないと抗議してきた。その物言いの横柄さから、一瞬、いかなる思想・宗教の筋に繋がる高等審問官なのかと訝しんだのである。  

 それにしても、放浪者を自認する御仁が、国民子女に善い歴史教科書を提供しようとする「つくる会」の命運を案じているとは意外である。危険思想の副会長は退陣せよと言う心も、つくる会運動を支援すればこそなのであろう。ならば、つい先だってつくる会年次総会が開催された際に、福地罷免動議を出せばよかった。それが可決されれば、私は粛々と退陣したであろうに。

 ところで、バガボンドは拙稿の「はじめに」を読んだ途端にこう言った。「日本が中国に大軍を展開した目的は何か?福地さんという人はとんでもない『思想』の持ち主である。(中略)大切なことは日本が中国(支那大陸)で『何を』しようとしていたのか、ということである。日本は中国で(他の国々と同様)一定の『権益』を所有していたが、要は、その権益の『程度』である。今後の論述で、たぶん彼は、『日本は他の列強に比べ特別強大な権益を持っていた。それは蒋介石政府を無視することが出来るほどの権益・権限だった』ということが前提にするだろう」と。本論を読む以前に、私が述べることが分るというのだという。また、第1回を斜め読みしただけで、論旨を主観的に予断して「エッセイ」だとも讒謗した。主観的なつまりは「自分に都合よい得手勝手な判断」から、そして浅薄な歴史知識から、気侭な予断を述べて、私に喧嘩を売って来たのである。

 勿論、拙論を読んでくださった方々には、彼の予断が的外れだったことが判明している筈だ。彼の議論は、私が見落としている重大な歴史事実や思いも付かない斬新な解釈を提示しようとする真面目な批判とは初めから別物だったのである。

 匿名で敵を誹謗中傷する陰湿な行動はやめて、こいつは許せないと思うならば、堂々と名を名乗った上で実践行動するがよいと言いたい。そのような訳だから、最初のコメントを見て、相手にするに値しない奴輩だと思った。また、素っ頓狂な言い掛かりつける匿名者と議論するのは、私の好みに元来合わない。それで、私はこれまで彼の讒言や挑発を聞き流して来た。だが、バガボンドは、西尾ブログで真面目な議論者間の論争でも礼儀も節度もない不毛な議論を継続している。そこで、問題提起者として何等かの応答は責務だと思い直し、ここに無礼な讒言に対しする若干の所感を述べたいと思う。

2 「昭和の戦争」は国際政治に目配りした近代日本史概説である

 拙稿「昭和の戦争」は、ペダンチックな学術論文ではない。言うなれば、国際政治の中での近代日本史概説である。ここで論述意図と公表経緯を簡明に述べておこう。

 第一、現在日本国民の歴史常識では、大東亜戦争の正式呼称は憚られ太平洋戦争として定着し、この戦争は日本軍国主義の悪辣な大陸侵略戦争だったことになっている。だが、この常識は、歴史の事実に適合するであろうか。これが私の問題関心である。

 第二、「昭和の戦争」は、実に複雑な国際政治状況の中で、謀略的にして強力なある国家群によって誘導されたようにして生起したと理解できる。日本の「侵略戦争」とは、気安くは言えない複雑な性格を帯びた戦争である。常識を疑わねばならぬ。日本人の眼で近代国際政治の中での戦争を見ることが必要である。明治維新から大東亜戦争に至る間の国際政治の中での日本を通史的に検討した。菲才を顧みずに考察した結果、あの戦争は「侵略戦争」とは言えず、壮大な「国際謀略の渦に巻き込まれた戦争」、「国際的抑圧勢力への対抗戦争」、いわば「防衛戦争」であった、と観るのが正しいとの暫定的結論に達した。だが、その見方を妨げる障害物がある。それは、歴史の真実を善悪転倒する目的で創作されたのが「太平洋戦争史観」別名「東京裁判史観」なのである。

 第三、実は、「邪悪な侵略戦争」という観念は、戦後の国家体制を支えるイデオロギーである。我が国体(くにがら)を軽視・軽蔑する、軍事を排除する、外交を他国の信義に委ねる異型の国家体制、実は国家といえない国家体制を支える基底に「日本は戦争犯罪国家だ」とのイデオロギーがある。体制とイデオロギーは車の両輪である。私は、この状態を「敗戦国体制」と「敗戦国イデオロギー」と名付けている。日本侵略国家論、戦争犯罪国家論が国際世論となり、国民常識となっている。この現実が擬似国家日本を正常化しようとする時に、最大の障害物になっている。(「敗戦国体制」については、拙稿「敗戦国体制護持の迷夢」正論誌二〇〇四年三、四月号連載で論じたのでご参照願いたい)

 第四、要するに、この旧敵国連合によって巧みに仕組まれた冤罪を晴らす手段は、正しい歴史像を作り上げることによって虚偽の歴史像を断罪し排除することである。それ以外に有効な手立てはない、と愚考するのである。

 第五、この小文は、ある教育機関の講義案として纏めたものであるが、ここに縁が有って西尾幹二氏の日録のゲストエッセイ欄に掲載させて頂いたと言う訳である。

 さて、戦勝諸国、特に米国の日本占領統治の目的は、日本民族を自己喪失者に改造して、二度と再び米国に対する軍事的脅威になることを阻止する点にあった。日本人の勇気と自信を剥奪して自己喪失者へと誘導し、衰亡させることにあった。目的達成の手段は、大日本帝国を最大限に卑しめること、戦争犯罪国家の烙印を深々と押しつけること、であった。これが所謂「太平洋史観・東京裁判史観」というイデオロギーだ。その謀略と姦策の展開過程は単純ではなかったが、占領期間中に進駐軍権力に同調した左傾化した我が同朋が、社会主義革命や共産主義革命を夢見て、祖国の歴史を貶めて捩じ曲げる、利敵行為に勤しんで、大きな成果を挙げた。これこそが、自らの手で招き寄せた第二の敗戦である。征服者の米国は利敵行為者を実に有効に活用した。彼らの目的は、買弁的日本人の手によって見事に達成されたのである。

 私は日本民族の自力による自己挽回、つまり民族の歴史の正統への回帰、そして真の独立主権の回復を強く希求している。サンフランシスコ平和条約締結以後の戦後日本政治の大目的は、この問題でなくてはならなかっただろうと思っている。そして、我々日本人が占領政策によって自己喪失のカラクリの箍を嵌められた原点には、あの大戦争に対する捩じ曲げられた評価の問題が深く横たわっていと睨んでいる。この問題を解く鍵は、「昭和の戦争」の解釈=評価問題の内にあると睨んでいる。

 拙稿執筆の背後の動機は以上である。拙稿の本論そのものは、飽く迄も戦争の歴史を軸にした近代日本史考察であり、そこから得た一応の結論が「昭和の戦争」は侵略戦争に非ずなのである。そのことは、「はじめに」と最後の「現下の課題」に表明してある。バガボンドは、これに噛み付いてきた。要するに、彼は「敗戦国体制護持論者」のようだから、私の思想を危険で異質な者と嗅ぎ取ったのであろう。それはそれで正解であるが、大東亜戦争の歴史的意義をどう捉えるかの問題では、完全に論点が食い違っていて、議論にならないのである。

3「昭和の戦争」を考える視座が完全に食い違っている

 バガボンドが拙稿を「大東亜戦争肯定論」だと決め付けて批判するのは自由である。旧敵国側は、我が国が二度と再び彼らの軍事的脅威にならないようにとの高度の政治目的で「太平洋戦争史観・東京裁判史観」を日本人に刷り込む様々な策略を弄した。これを肯定するのも、確かに自由であるが、日本民族の尊厳と独立を回復する方法とは正反対のものであることを知れねばならない。

 問題に核心は、「昭和の戦争」の歴史の真実とその意義を自らの眼と頭でしかと見定めたいと思うか、その問題は既に結論が出ているのだから、今更再検証は不必要だと思うか、そこが「昭和に戦争」を考えるための最初の視座の相違なのである。
 
 私は歴史の事実を直視すれば「昭和の戦争」はこう理解できると言ったのである。だが、バガボンドは初めから聞く耳を持たずに、「太平洋戦争史観・東京裁判史観」は正しいし、それを守りたいと思っている。そうであるから拙稿に激しい怒りを覚えるのであろう。わが日本国民が正気に戻ることを恐れる支那・朝鮮や日本の左翼が、「つくる会」に異様な怒りを示す情念と相似形である。いまさら、「東京裁判史観」批判でもあるまいという雰囲気も見せているから、バガボンドは、親米実利主義者のようにも見受けられる。

 いずれにせよ、形振り構わぬ実利主義的政治家や実業家が、金満国家さえ維持できれば、支那・朝鮮から軽蔑されようが、米国の属国に甘んじ続けることになろうが、金儲けさえできればよいとする。歴史の真実にお構いなしに「中国人民・韓国国民の痛みも考慮せよ」、「日中貿易の将来を考えろ」「日米同盟を強化しよう」として、首相靖国参拝問題や歴史教科書問題を政治取引の材料にして恥じない。この二つは、いずれも内政事項である。支那・韓国のこの問題に関する言い掛かりは、どんな屁理屈をコネとも歴然とした内政干渉である。

 自尊心を喪失させられ独立主権を制限されたままにノウノウと時を過ごし、徒に経済成長だけを達成した我が国に対して、支那・朝鮮が「太平洋戦争史観・東京裁判史観」をあたかも自分たちの権利・既得権益であるかのようにして活用し、我が国に揺すりタカリ攻勢を掛け続けるのも、その外交行為で自らの国益を高め、自尊心を高めることが出来ると学習したからに他ならない。我が国内に潜在的敵国である彼らに同調・宥和する勢力が存在するから、なおさら調子付くのである。 

 現時点においては、支那・朝鮮は、間違いなく我が日本の敵対勢力であるから軍事的脅威なのである。米国のCIAも竊に蠢動している雰囲気も徐々に高まっている。我が国は相変わらず大陸と太平洋の東西両方面から挟撃され続けているのだ。

 そんなことには無頓着な連中は、あるいは支那・朝鮮に同調し、あるいは米国の庇護に益々縋ることが我が国に国益保護の要諦だと信じているかのようである。愚かにも潜在的敵対者に徒に媚を売ることが、我が国益を守る所以だと錯覚している。このような政治姿勢を買弁的日和見主義者と言うのだ。お飯(マンマ)が鱈腹食えるならば、我が国を打ち滅ぼしたいと考えている敵対勢力の奴隷になっても、経済アニマルとして生存できれば本望だとする情けない精神の持ち主とでも言う可きか。だが、奴隷にされては、肝心の目的である経済アニマルとして生存し鱈腹お飯(マンマ)を食いたいという儚い願望も許し続けてもらえるのかどうか。その方面への配慮は、果たして如何なものだろうか、是非とも知りたい所である。

4 常識を疑うことから知的探求は始まる――歴史を知るとは

 バガボンドよ、君の言い掛かりは歴史論議ではなく、戦後の常識なり世論に忠実な立場からの単なる自己の狭い見解の独白に過ぎない。なぜならば、明治維新なり日露戦争なり日韓併合なりスターリンの対日戦略・東アジア戦略・世界戦略なり満洲事変なり幣原外交なり西安事件なり盧溝橋事件なり、その他諸々の叙述の論点に関して歴史の事実に基づく対抗解釈が全くないからである。政界筋の論議や朝日新聞的・NNK的なメディアの論調や共産支那政府・韓国政府の日本非難の議論を鸚鵡返しにするような全く独創性のない低い水準の発言である。ブログ愛好者のようだから、インターネットにおける上澄情報を聞き混ぜての浅薄な知識で、この世の中の森羅万象を理解したかのような気分に浸っているのではないか。  

 何故ならば、君は、6月15日の最初のコメントでこう反発を示した。「どんな屁理屈をつけようと、中国でその政府の許可なしに日本軍を好きなように展開した。いつの時代にもこんなことが正当化できるはずがない」と。これは如何にも幼稚で大人としては極めて異様な見解である。鈍すぎる歴史感覚と浅薄な歴史知識の持ち主であることの自白である。日露戦争後の大陸事情の変化に対応して日本軍は大陸の戦線に繰り出した。支那との抗争が遂には米英そしてソ連との戦争へと発展した。どうしてそうなってしまったのか、その事情を拙稿「昭和の戦争」は論述しているのだ。「中国でその政府の許可なしに日本軍を好きなように展開した」などと言う戯言が通用する平板で単純な政治・軍事状況では全くなかったと言うのに、何とも能天気な発言ではないか。

 20世紀に入って以降の我が日本周辺の事例だけでも、次のことが挙げられる。ロシア帝国の沿海州占領、満洲およびモンゴル侵略、英国の印度植民地化や支那大陸での諸利権獲得、ドイツ・フランスの植民地拡大と支那要所の租借権獲得、米国のハワイやフィリピン侵略、これら諸々の国家行為が何時どのようになされたか。その時、支那やフィリピンやベトナムやハワイの王様や政府はどう反応したのだ。日本が全く軍事行動に出なかったと仮定したとき、どのような東アジアの勢力地盤の変動が予想されるか。 

 また、現在只今でも、君の国際正義は国際政治の場で一般化しているのか。米国・イラク戦争において、アメリカはイラクのフセイン政権の「許可」を得てから軍事力を展開したのか。世界は広いので類似の事例を列挙すれば十数行を必要としよう。また、現在の時点で韓国の竹島占領、共産支那の尖閣列島地下資源発掘、ロシアの千島列島、樺太占領、みな日本政府に「許可」を得てからの行動か。君はどう考え、どう答えるのか。何時の時代にも普遍的に存在する国際政治の常識は、「弱肉強食」の論理なのである。

 それよりも何よりも、「昭和の戦争」の本質を尋ねる際には、それこそ気が遠くなるような膨大な史料の山がある。専門歴史研究者でない君でも、北京議定書なりポーツマス講和条約なり対華二十一カ条要求なりリットン調査団報告書なり塘湖停戦協定なりヤルタ協定なりポツダム宣言なり、「昭和の戦争」を少しでも考えたい者が是非目を通すべき最低限の基礎的史料を見なくてはならない。それらを真剣に熟読して、自分の頭で解釈し理解しなくてはならない。そんな営為に取り組んだことがあるのか。恐らくないであろう。歴史論争を挑むならば、歴史事実の取上げ方とその解釈の異同を以て厳しい批判や議論を構築されんことを望む。歴史を知るとは歴史の事実(史料批判が大事)を踏まえて自分の世界観・人間観を以て解釈を加えることである。

 なお、私の「昭和の戦争」概説には一箇所たりとも「大東亜戦争肯定論」の用語は出てこない。歴史の事実を精査すると、拙稿「昭和の戦争」のように叙述できると私は言ったまでである。思考の順序は、始めに肯定論ありきではない。私の拙い史的考察の結果は、かくの如くであり、それを第三者が「肯定論」だと評価するのは自由である。だが。君は、論述内容を理解しようともせずに、ただ独善的判断に問答無用とばかりに「大東亜戦争肯定論」は許せぬと叫喚する。それは批判ではなく、自己の見解が正しいと確信してそれを他人に無理矢理にでも押し付けたいとする妄言である。駄々っ子のような脆弱な精神から発せられた感情的で情緒的な言い掛かりではお話しにならない。歴史の事実に基づいた解釈問題を軽視するようでは、議論の余地は最初からありえないのである。

 要するに、私は我が国の歴史の尊厳と光輝ある国の在り方を復権したいと思っている。「敗戦国体制」と「敗戦国イデオロギー」を打破せずして、その目的を達成することは困難だと考えている。それに対してバガボンド、君は戦後の敗戦国体制と敗戦国イデオロギーを「保守」しようとしている。それでは日本民族の自立と尊厳の回復はありえないであろう。民族の異様な変質と衰亡を希求する「保守主義者」とは、語の矛盾であろう。亡国の思想を「保守本流」と自称する転倒した発想は、詭弁であり危険である。君に日本民族の将来を思う真心があるならば、以後倒錯した大言壮語は慎まれるよう切に希望する次第である。

 最後に、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセイの箴言を掲げよう。

 「現代の特徴は、凡俗な人間が自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする所にある。………大衆はあらゆる非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別な才能をもったもの、選ばれたものを巻き込んでいる。すべての人間と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険に曝されているのだ。だが、この『すべての人』が『すべての人』でないのは、明らかだ」(オルテガ『大衆の反逆』白水社版58頁)
                (了)

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 現在日録コメント欄は、一部議論がかみ合わない状態が続いています。

 これは、おそらく論述すべき内容が、一部人格攻撃になっていることなどに起因しているように思われます。

 事実、解釈、意見の相違はどのように発表なさってもかまいませんが、その目的が人格攻撃になってしまっては、感情的な行き違いが起きるもとです。

 そこで、今後このような不毛な行き違いを避けるために、投稿をする時のルールを設定します。

 基本的ルール
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 ◎このルールに反していることに気がついた時点で管理人は警告を発し、投稿者も注意しあうこと。

 ◎再三の警告に従わない時、最終的に管理人が判定し、適当な期間、投稿を自粛していただきます。

このような方針で今後管理していきますので、宜しくお願いいたします。