緊急公告 (二)

――「空白の10分間」をめぐって――

 先に「緊急公告」を掲げ、情報をお寄せ下さるよう広く呼び掛けた。呼び掛けに応じ、40人以上の方の意見がComments欄に寄せられた。厚くお礼を申し上げる。

 有効な情報は6月17日という日付を教えて下さった一件だけだったが、いろいろ反対意見や批判を述べて下さった方々をも含めて、問題提起への関心の高さに対し深謝したい気持ちである。

 『正論』10月号に、「空白の10分間」に冒頭で触れ、約三分の一をこの件に関連させた評論「なぜか理由もなく日朝国交正常化を急ぐあぶない宰相」を書いた。東アジアの国際情勢の不可測性の中での首相の認識の甘さ、子供っぽい冒険主義、またいわゆる小泉改革のイデオロギーの単純さ、虚妄についても言及した。

 当該評論には編集部が文中から表現を拾って作った次のキャッチワードが付いている。「他人の運命にも国家の行方にも根のところでは無関心な人にこれ以上国政を任せる気にならない。」

 ところでCommentsの中のご意見の三分の二が私の小泉批判を快く思わず、私のやり方が左翼的だとか左翼と同じだという罵倒から、私が単にテレビ情報を広く世に求めているだけなのに、あやふやな情報で首相批判をするのはケシカランなどのお叱りに至るまで、感情的反応で占められていた。

 これを見て、世の中にはいまだに小泉好きが多いのだと私はあらためて知った。自民党政府を批判する者は左翼だというワンパターンの人も多いのだと分った。ひとつひとつの政策を見ないで、好きな人のやることは何でも全部正しいのだと思いたがっている人が多いことも再認識した。

 しかし、それよりも何よりも、日独伊三国同盟からパールハーバーまで、あれほど情報戦略にもろくも敗れた自国の歴史を知っているはずなのに、いま目の前で起こっている情報戦のひとつといえども見逃すまいとする真剣なまなざしが世の人々に欠けている。国民に真剣さが欠けているから、甘い政府ができあがる。

 「空白の10分間」が本当にあったかどうか分らないという立場で私はこれを書いている。6月17日のテレビ報道の実在はたしかに確認し得たが、私はビデオをまだ見ていない。「緊急公告」をしたから、今後辛うじてひとつのテレビ番組だけは見ることができることになったが、その内容も勿論全面的に信じているわけではないし、さらにここから先の奥はもっと分らない。

 なにもかもあやふやなのである。あやふやなことで物を言うなと私を叱った人によく言っておきたい。ある情報戦略本によると、英公文書館に秘蔵された情報の98パーセントは廃棄され、残された2パーセントが公表されるのだそうである。公表しない旧共産国家の場合は勿論もっと不明である。

 つまり歴史は闇に隠されたまま進行しているのである。「空白の10分間」の小泉=金会談はあったかもしれないし、なかったかもしれない。マスコミと公安警察の力で表面化しなかったら、永遠に「なかった」ことになるだろう。

 このサイトの読者はどうしてそういうことが分らないのか。私はなんらかの確信をもってやっているのではない。探索のすすめを論じているだけである。それは「空白の10分間」があってもなくても、朝鮮総連への首相の好意的急接近と選挙対策としての土下座外交の不自然さをみて、状況証拠は出揃っていると見たからである。

 かつてフィリピン賠償や中国賠償でどんなキックバックがあったか。今また新しい『田中派」が生れつつあることにどうして人は気がつかないのか。
 
 Commentsに書きこんでいる中の一人か二人かは、どうみても朝鮮総連の関係者かそれに近い筋である。ことばの書き方が自己暴露している。

 テレビ録画からはどんな小さな信号でも無視してはならない。近日中に、6月17日11時25分から13時5分までのテレビ朝日系ワイド!スクランブルで、3分20秒間流れた「日朝首脳会談 10分間の怪しい密談が発覚!?」が「中西輝政非公認ファンサイト」に出ると思う。内容がどんなに一見信用しがたい外見を呈していても、現実を経験した人でないと語れないことばとつくり話との間には微妙な違いがあり、識別できるはずである。

 Commentsの書き込み者の方々に言っておきたい。私は保守だが、自民党員ではない。自民党の固定した支持者でもない。自民党議員の8割を私は信用していない。

 社会党左派と組んで村山政権を作った自民党の前科は日本の歴史を傷つけている。謝罪外交も、ジェンダーフリーもこの時代の自民党政権の産物である。保守の中が内乱となるほどの激しい議論と対立を引き起こすことをむしろ必要と考えている。自民党を解党し、保守の本物と贋物を区別し、分類する時期が来なくてはいけない。

 小泉純一郎氏は贋物の側にむしろ近い過渡的役割を果たしているにすぎまい。

 私は保守だが、惰性的保守ではない。『正論』10月号にまもなく出る拙論の冒頭部分を引用して、この項を終ることにしたい。

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 小泉首相は中国に何を言われても靖国参拝をつづけているし、イラク派兵は実行したし、有事法制をともかく一歩でも前進させたではないか。大抵の惰性的な保守型人間はこう言っては、歴代内閣のできなかったことを首相が幾つもやったのは認めてあげなくてはいけない、と当分は権力の座にいつづけそうな存在に寛大であろうとする。そして、小泉という人間を見ようとはしない。

 小渕恵三氏にも、森喜朗氏にもなく、小泉純一郎氏にだけあるもの――それは「あぶなさ」である。私は8月末に評論集『日本がアメリカから見捨てられる日』(徳間書店)を出した。その第一章は「他人の運命にも国家にも無関心なあぶない宰相」である。

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 以上をよく読んで、見当外れにならないCommentsへの書き込みを是非おねがいしたい。ぼんやりした生ぬるい保守感情で自足したい人は私の「インターネット日録」は読まない方がいいのではないか。

(8/21 11:52一部修正)

日本人の自尊心の試練の物語 (四)

――米国は日本攻略を策定していた――

 ペリーが浦賀に来航した19世紀中葉、アメリカはまだ当時の一等国ではなかった。アメリカが大国の仲間入りをしたのは1898年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有して以来である。ほぼ同年にグアム、ウェーク、サモアを抑えた。アメリカが「モンロー宣言」を出したのは1823年だったが、南北戦争(1861-65)が片ずくと、太平洋に対しては遠慮のない進出を開始し、この宣言をアメリカの孤立主義の声明と解釈することはできない。

 南太平洋にじりじりとアメリカが北上し勢力を押し広げていくこの時期は、日本が日清・日露の戦いに向かい勝利を収め一等国に名乗りを上げる時代にほぼ相前後する。

 アメリカは20世紀初頭にハワイからグアム、フィリピンを結ぶ線を新国境と定めた。イギリスは西太平洋におけるアメリカの支配を認めて、その水域から英艦隊を撤収した。極東におけるイギリスの関心は日本ではなくロシアだった。イギリスは第一次大戦よりも前に世界に手を広げ過ぎたことを意識しだし、軍事力、財政力の限界に気がついた。中国における自国の権益を維持するのに、イギリスは日本の軍事力に依存する必要さえ感じていた。日英同盟(1902)はイギリスの利に適(かな)っていたのである。

 しかしアメリカはそうではなかった。アメリカはロシアを脅威とはみなさず、むしろ日露戦争後の日本の大国へのめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていた。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対してアメリカの上院はベルサイユ条約を批准しなかったし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させその後日本を追い込む戦略に余念がなかった。

 われわれ日本人は太平洋でのアメリカとの衝突を顧みるとき、先立つ世界史の大きなうねりを再考する必要がある。ヨーロッパとアジアで起こった覇権闘争はまったく性格を異とする。ドイツが引き起こした戦争は、欧米キリスト教文明の「内戦」にほかならない。ヒトラーは欧米文明の産み落とした鬼っ子である。宗教史的文脈で考えなければ、ユダヤ人の大量虐殺の説明はつかない。

 それに対し太平洋の波浪を高くしたのは、一つには同時期に勃興(ぼっこう)した若き二つの太平洋国家・日米が直面した“両雄並び立たず”の物理的衝突である。二つには、白人覇権思想と黄色人種として近代文明を自力でかち得た日本民族の自尊心をかけた人種間闘争の色濃い戦争である(昭和天皇は戦争の遠因にカリフォルニアの移民排斥問題と、ベルサイユ会議における日本提出の人種差別撤廃法の米大統領による理不尽な廃案化をおあげになっている)。

 歴史家はいったいなぜ自国史を説明するのにファシズムがどうの帝国主義概念がどうのと、黴(かび)の生えた「死語」をもち出したがるのか。歴史を見る目は正直で素直な目であることが大切である。

 大東亜戦争は起源からいえば日英戦争であった。イギリスの権益は日本の攻撃でアジア全域にわたって危機に陥れられたからだ。しかるに実際に日本の正面に立ちはだかったのはアメリカだった。そこに鍵がある。ヨーロッパ戦線ではアメリカはどこまでも“助っ人”だった。しかし太平洋では“主役”だった。なぜか。

 当時日本軍がアメリカ本土の安全保障を脅かす可能性がないことは、情報宣伝局は別として、アメリカ政府はよく分かっていた。ハワイは当時アメリカの州ではない。日本軍が米大陸に最も接近したのはアリューシャンの二、三の島を占領したときだが、それとて約四千キロ離れていた。アメリカはイギリスの“助っ人”という程度をはるかに超え出て、全面関与してきた。明らかに過剰反応である。

 日露戦争の日本の勝利以来、アメリカは日本を標的とし始めた。日本がちょっとでも動き出せば叩(たた)き潰(つぶ)そうと待ち構えていた「戦意」の長い歴史が存在した。

 アメリカの目的は最初から明白に日本の攻略であり、太平洋の覇権であった。

緊急公告 (一)

――ご存知のかたは質問にお答えください――

 中西輝政氏が『Voice』8月号にお書きになった小泉首相再訪朝時の、金正日との会談における「10分間の空白」を、私はいま大変重大視し、目下その関連の論文を執筆中です。以下に中西氏の『Voice』8月号の論文「小泉首相の退陣を求める」91ページから必要な個所を引用します。

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 報道によれば、ごく最近に明らかになった話として、「5・22訪朝」に同行した外務省の藪中アジア大洋州局長が、昼前後に、突然、うわずった声で東京の細田官房長官に国際電話をかけてきたという。藪中局長は会談が一時間半ほどで打ち切られ、金正日が席を立って出ていったことを伝えた。細田長官が「君たちが同行していながら、何でそんなことをした」と叱責すると、藪中氏は「私たちにも止めることができない状況があったのです」と答えたという。

 中でも問題となったのは、その後の小泉首相の行動である。席を立たれたので慌てて後を追った小泉首相は、金正日から「二人だけなら十分だけ話す」といわれ、別室に二人だけで入っていった。他に入ったのは北朝鮮側の通訳だけで、外務省の人間は同席できなかったと伝えられている。

 もしこの報道が正確なら、この間、両者の間でどのような会話が交わされたのか、話によっては、欧米では「国家への反逆(裏切り)」の嫌疑さえ云々されよう。そこに”空白の十分”が生まれたわけで、まさに「金丸訪朝」と同じパターンである。場合によっては小泉首相に何か個人的な「弱み」があって、それを持ち出された可能性も考えねばならない。これはとうてい、民主主義国の指導者がなすべき外交ではない。

 本来ならば、首相が最後の一線を越えそうなときは、外交官が体を張っても止めるものである。それでも止められなかった場合(いわば「殿、ご乱心」の状態だったのかもしれない)、法的訴追をしたり、告発したりする。イギリスの監視機関もそのためにあり、”空白の十分”をつくってしまった日本は、国家としてのギリギリの安全装置も機軸も失ってしまったのである。

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 中西氏にお尋ねした処、情報の出所は二つあります。一つは外国人の外交筋です。日本がどのくらい情報を知っているかを試す意味と、日本に親切に警告する意味の両方があったように思うと氏は私に語りました。

 もう一つの情報はテレビ朝日の5月24日か、25日か26日かの、ニューススクランブル(正午12:00~)で自明のこととして語られていたのを中西氏がメモしたのを基礎にしている。従って、氏は「空白の十分間」は誰もが知っている明白な事実と思っていたそうです。

 しかし、何日経ってもこれが重大ニュースになりません。それどころかマスコミの表からはいっさい消えてしまいました。5月25日か26日かを境にまるで雲がかき消えるように消滅してしまったのです。不思議でなりません。私が報道関係筋に聞いても知らぬ存ぜぬです。官邸筋の秘匿意図が働いているのかもしれません。それほど重大な事柄なのでしょう。
 
 以下のことでご存知のかた、至急Commentsに書きこんで下さい。

「10分間の空白」について
 1)テレビで聞いて自分も知っている。
 2)そのときのビデオを持っている。
 3)中西氏以外のなにかで別に読んだ記憶がある。
 4)そのときの関連の活字をもっている。
 5)その他

 ご協力をよろしくおねがいします。

日本人の自尊心の試練の物語 (三)

――不可解な19~20世紀前半の世界――

 大東亜戦争の開戦間もない昭和17年(1942)2月15日のシンガポール陥落の報は、日本だけでなく、世界中をあっと驚かせた。日本の同盟国ドイツ、イタリアは歓声をあげ、イギリスは狼狽(ろうばい)、アメリカは沈黙、他の国々で日本との国交断絶を計画していた国は次々と見合わせる方針を発表した。電光石火日本軍に席巻されたイギリスの不甲斐(ふがい)なさにアメリカは失望の意をあらわにした。イギリス海軍はその少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツ艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。

 戦争の行方は分からなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。終わってしまった結果から戦争を判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分からない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。

 19-20世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中でどの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事で、列強とよばれる国々では、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と罷り通っていた。

 各国は簡単に銃をとり、一寸(ちょっと)したことで感情を高ぶらせて戦争に訴える計画に走った。故高坂正堯氏によると、19世紀末にはイギリスとアメリカがすんでのところで戦争になるという局面さえあったそうだ。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。調停案を持ち出したアメリカを大国イギリスは相手にしなかった。アメリカはそんな役割を果たせるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰(ざた)されたのだった。

 19世紀末にアメリカはまだ実力のない新興国だった。太平洋の緒戦でイギリスがシンガポールを落した1942年までに、イギリスからアメリカへの覇権の移動が徐々に進んでいた。イギリスの歴史教科書は、「第一次世界大戦で世界に二つの大国が出現した-アメリカと日本」と書いた。ガイアナとベネズエラの国境紛争があわや英米戦争になりかけたのは、アメリカの覇権獲得までの小さな途中劇であるが、イギリスに負けまいとする若いアメリカの意地のドラマでもあった。

 20世紀前半まで、このように列強は自尊心のためとあらばときとして自分を危険に陥れる冒険をいとわなかった。大東亜戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、日本人の自尊心が絡んでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(17日付夕刊)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出せる。

 「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれといふんだ。山路公使は面喰(めんくら)って御志だけは有難(ありがた)く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に礼を述べて帰らせた」と、同盟国ブルガリアの歓喜の声を伝えている。まるでオリンピックのマラソンの一着、二着が報ぜられたかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」から私が思い浮かべるのは現代の戦争ではなく、むしろ、あえて言えば、『太平記』や『平家物語』に近いといってよいだろう。

 自尊心、功名心、忠勇無双-世界中どこでも当時戦争に対する国民の意識は同じようなものだった。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたはずだ。例の「百人斬り」も、勇者を讃(たた)える戦意高揚の武勲譚(たん)で、戦後になってこれをことごとしく問題にする方がおかしい。

日本人の自尊心の試練の物語 (二)

――100年経たなければわからない――

 ことに対中援助の実情を見る限り、戦後の日本は泥沼にはまりこんで身動きできない戦中の日本にある意味で似た状況に陥っているようにみえはしないだろうか。三兆円にも達するといわれる外務省管轄の対中ODA(政府開発援助)とは別枠で、大蔵省が管轄してきた旧日本輸出入銀行を通した中国向けのアンタイドローンというのが存在する。これらがどうやらODA総額を軽く上回るほどの不気味な巨額をなしているらしいことを最近われわれに教えてくれたのは、古森義久氏の『
日中再考』であった。

 知らぬ間にどんどん増えた援助の実体は中国国民に感謝されていないし、知らされてもいない。これで道路や空港を整備した北京がオリンピック主催地として大阪を破り、毎年の援助額程度で相手は有人宇宙衛星を飛ばして、日本を追い抜いたと自尊心を満たしている。それでも日本は援助を中止できないという。そのからくりがどうなっているのかは素人には分からないが、まさに泥沼に入り込むように簡単に足が抜けないのが、今も昔もいつの世にも変わらぬ、日本から関与する中国大陸である。いま競って企業進出している産業界も、付加価値の高い上位技術で利益をあげ、有卦(うげ)に入っているが、やがて戦中と同じ「手に負えない」局面にぶつかる日も近かろう。

 朝鮮半島も中国大陸も、昔から日本人には理筋の通らない、面倒な世界でありつづけた。日本を「倭奴」とか「東夷」といって軽く見て、欧米人の力には卑屈に屈服しても日本人の力には反発し、恭順の意を表さない。

 こうして今のわれわれが依然として半島にも大陸にも「手に負えない」ものを感じ苦しんでいるのだとしたら、先の大戦での日本の政策や行動をどうして簡単に「あれは失敗だった」「ああすりゃ良かった」「手出ししなければ良かったんだ」など小利口に批判することができるのだろうか。

 窪地に水を流し込むように、日本を含むあの時代の国際社会は競って中国に兵力を投入した。日本を含む今の世界各国の企業が、窪地に水を流し込むように、競って資金を投入しているさまにも相似ている。今の産業界にも「手出ししなければ良いんだ」とうそぶいて、小利口ぶりを発揮する企業があれば見たいものだ。日本経済が今これで上向きになっているのだから、進出企業は聞く耳を持つまいが、だとしたら成功と正しさを信じた軍の華北進撃を批判しても、当時の軍に聞く耳がなかったことは、いかんせん止むを得ぬことではなかったのか。

 今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で無我夢中で、我武者羅(がむしゃら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。

 われわれは過ぎ去った昔日の行為を、現在の感覚や判断であれこれ同義的にきめつけて、「反省」しても、さして意味のないことにもっと深く思いを致すべきだろう。過去に対する現在の人間の自由な批判は、むしろ横暴で、傲慢(ごうまん)で、浅はかであることを肝に銘じておくべきだろう。

 「歴史を学ぶ」とは歴史の失敗に関する教訓を、現在のわれわれの生活に活用するというような簡単で分かりやすい話ではあるまい。失敗かどうかさえも本当のところはよく分からないのだ。そんなことをいえば現在のわれわれの生活だってすでに失敗を犯し、取り返しのつかない選択の道を潜り抜けているのかもしれない。

 ある人は大東亜戦争は侵略であり、犯罪であるという。別のある人は愚行であり、過信の結果であったことだけは間違いないと反省する。負けた戦争は成功とはいえないから、後者に一応の理はあるが、どれが本当のところ正しかったかはあと百年経ってみなければ分からない。

日本人の自尊心の試練の物語 (一)

新・地球日本史」という歴史ものの連載が「明治中期から第二次世界大戦まで」の副題をつけて、いま「産経」文化面に連載中である。毎週一人が担当する。すでに西尾幹二、八木秀次氏、加地伸行氏、田中英道氏、鳥海靖氏の五人が登場し、各担当分を完了している。今は弁護士の高池勝彦氏が「大津事件―政治からの司法の独立」を掲載中である。

 このあと福地惇「日本の大陸政策は正攻法だった」、北村稔「日清戦争―中華秩序の破壊」、平間洋一「日露戦争―西洋中心史観の破壊」、三浦朱門「明治大帝の世界史的位置」、入江隆則「日清日露の戦後に日本が直面したもの」、田久保忠衛「ボーア戦争と日英同盟」・・・・・・という具合につづく。

 私は全体の総論を書く必要があるので、明治を離れ、あえて「新・地球日本史」の中心部分ともなる1930年~45年の頃のテーマ、及び現代のわれわれのそれへの意識を語った。題して「日本人の自尊心の試練の物語」である。新聞でお読みいただいた方も多いと思うが、ここに再録させていたゞく。

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――歴史に学んで自己を改められるか――

 先の大戦で日本が中国大陸にさながら泥沼に入りこむように深入りして、抜け出そうにも出られなかった状況について、われわれはここ半世紀、「あれは失敗だった」「ああせずに、こうしておけば良かった」「日本人は道を誤った」と反省と悔悟の声を上げることしきりであった。

 勿論、日本は近隣国とは干戈(かんか)を交えないほうが良かったに違いない。地球の裏側に回って戦争をしかけたり植民地を作ったりすることが日常茶飯事であったのが20世紀の前半までの世界だった。日本はその仲間入りはしなかったし、できなかった。それならいっそのことどことも戦争をしなければ良かった。否、欧米とは戦っても、中国とだけは戦わなければ良かった。そう考える人が今の日本にはことのほか多い。

 自分の過去の失敗や踏み外しを反省することはもとより悪いことではない。けれども反省したからといって現在の自分がほんの少しでも利口になったといえるのかどうかは、まったく次元を異にする別の問題である。歴史に学んで自己を改めるとか同じ歴史の過ちを二度と繰り返さないとか、よく人はそういう言葉を簡単に口にするが、人間は過去において失敗や過ちを犯すつもりで生きてきたわけではない。成功と正しさを信じて生きていたのである。従ってそのときの心の真実をもう一度改めて蘇らせ、同じ正しさを再認識し生き直さない限り、それが失敗や過ちであったかどうかさえ分かるわけがない。

 過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。

 例えば、いま日米韓の三国は金正日の国をソフトランディングさせたい、なるべく禍(わざわい)を自国に及ぼさないで解決したいと考え、この国の生き延びを許してしまっている。日米韓それぞれの事情があって自由に動けない。ことに日本は無力である。その結果、拉致された自国民を救出できないばかりか、北朝鮮の人民が日々飢餓にあえいで惨死しているのを黙視している外ない。日本人は自分の道徳感情に従って自由に行動できない現実を目の前に見ている。

 われわれはいま本当は重大な過誤の入り口に立っているのかもしれない。できるだけ平和的に解決しようとする思いが大きい余り、朝鮮半島への今後一世紀の経路を間違え、とんでもない運命を選択しようとしているのかもしれない。それはずっと先になってみなければ分からない。しかし人間はつねにそのとき最善と思う道を選ぶ。今度の件もどうなるかは分らないが、それなりの成功と正しさを信じて、日本人は新しい政策を選ぶであろう。

 かつて中国大陸に泥沼にはまるように行動した悪夢のような選択を今の日本人はしきりに「反省」するが、呼べども叫べどもどうにもならなかった、手に負えない厄介な世界があの当時の大陸だった。過去の日本の間違いを正すことにおいてすこぶる自由な今の日本人は、それなら目の前の政治の選択においても間違いがなく、自由で賢明であり得るのであろうか。

 人はいつの時代にも不自由で、見えない未来を日々切り開いて生きているのではないのか。

 朝鮮半島という、われわれがいくら声を張り上げて叫んでも言葉の届かない、手に負えない世界を前にしている今の日本人と、大陸政策で批判ばかりされてきたかこの日本人と、不自由という点で原理上どんな違いがあるというのだろう。

 勿論、過去の日本は軍事進出していた。今の日本は資金投与の方法以外に他国を少しでも動かす方法を他に知らない。そのように行動の種類は異なっているが、力の行使という点では同じであり、しかもその力がもたらす結果の見通しの不透明という点では、きわめてよく似ているのである。このようにいくらこうしたいと自分で思ってもそうできない現実はいつの時代にも存在する。

(8/14誤字修正)

先の見えない船出 (二)

7月28日に今年三冊目の本の担当者(青春出版社)二名と打ち合わせ会が行われました。本はすでに9割できあがっていて、書名でさんざんもめました。担当者の一人はこの5月に結婚したばかりの清楚な美しい女性記者で、彼女とお酒をくみ交わしながら自分の新刊本の書名をあれこれ論じ合うのは楽しいひとときでした。結局、題はシンプルに勝るものなし、という私の意見がいれられ、最初の案『日本を救う日本人の条件』はやめて、同行の課長さんの出したいい提案で、『日本人の証明』ときまりました。10月刊行予定です。

 『日本がアメリカに見捨てられる日』(徳間書店)と『日本人の証明』(青春出版社)は刊行日が近づけば詳しい目次面の紹介を含む内容説明をおこないます。次に少し作業が遅れていますが、ひきつづき本年4冊目の企画は八木秀次氏との対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)で、ジェンダーフリー批判です。男女参画反論本の決定版を出したいと思っています。相手にダメージを与える本質論を、分り易く平明に論じて、戦っている各方面の指針となるべく期待に添いたいと考えています。私はいま山のように集めた資料と格闘しております。

 さて、これで終わるのならいいのですが、ここからが私の最大の難所です。『男子、一生の問題』を含む今までの4冊のうち3冊はすでに事実上終っているのです。7月30日に筑摩書房と扶桑社の担当者の両方に会いました。これはこれからの話です。筑摩書房の「ちくま新書」『あなたは自由か』は1年以上も前に70枚書いて止まっているのです。70枚読み返してみたら、これがなかなかいい。『諸君!』連載が終ったのだから、もうこれ以上は待てない、という、筑摩の湯原さんの気迫もさることながら、今まで書いた内容に自分で満足していることから、やはりこれはやり遂げなくてはいけないと思いました。「月刊誌のように毎月各章をお宅までもらいに行きますよ」といわれて「そうしてもらおうか」と弱々しげに答えました。

 同日夜、扶桑社の書籍編集の新責任担当常務の鈴木伸子氏にお会いしました。昔からの仲間の眞部栄一氏と吉田淳氏と四人で、わが家に比較的近い五日市街道寄りの高級寿司屋へ行って歓談。ここで決定されたことは重い。ひょっとするとこれで私の体力は尽き果てるかもしれません。

 『国民の歴史』のパート2を書くという要請はかねてあり、関連書物をすでにどんどん集めています。今度は新しいところに限定で、『国民の現代史』でいきたい、とか。日米・日中・日ソと革命の歴史20世紀、スパイと武士道の戦い、情報戦に敗れこの半世紀の「冷戦」を他の国は戦い抜いたのに、それをもせずに腑抜けの殻となったわが国とわが民にいかなる愛の涙を注げるか!

 8月1日第二回目のAldrich研究会。当日録の無頼教師さんが『国民の現代史』の話を伝えきいて、730ページのR.J.Aldrichという人の“the hidden hand―Britain,America and Cold War Secret Intelligence”を持ちこんでこられた。私のための勉強会が開かれることになったのです。すでに第二回目ですが、なかなか進みません。むつかしいし、量が多い。

 こうしてともあれ皆さんの愛情と支援につつまれてどうなるか先の見えない戦いに船出しました。

 私は自分の書きたい本を書けるだけ書くのが一番楽しい人生だと思ってきましたから――大学の会議と、大学生に話をするのが好きではなかったから(今の学生には何を話しても空しいのです)――今はある意味でとても充実していて、幸せなのです。ただし大きな仕事が時間的に間に合うのだろうか――これが問題です。

 『国民の現代史』を私は2005年6月刊と主張しています。扶桑社の眞部さんは3月か4月だといいます。そんなこと不可能です。私は長嶋茂雄氏と同じ年齢なのです。

 私は長嶋さんと同じ齢だってことを忘れるなよ、と言って別れました。

 ふと気がついたら『江戸のダイナミズム』を本にする仕事もきっとあるはずだったのに、いつしか忘れているのです。終ったことはもう終ったことで、心の中で処理されてしまっているからでした。

先の見えない船出 (一)

 8月25日刊行予定で『日本がアメリカから見捨てられる日』(徳間書店)の校正がいま急遽進められています。その第一章は、「他人の運命にも国家にも無関心なあぶない宰相」で、最近の関係論文を収めますが、当日録の最新稿「小泉首相批判について」(一)(二)(三)をも収録することにしました。その関係で(一)と(三)の各後半を若干加筆修正しました。現在日録に掲げられているのは加筆修正後の文章です。思想内容に変更はありません。

 7月22日に「江戸のダイナミズム」(『諸君!』9月号最終回「転回点としての孔子とソクラテス」)の校了をすませた後、23日から8月2日まで、一日を除いて毎日、会合、会議、ミーティング、出版社との打ち合わせ、新しい勉強会がつづき、あっという間に10日間が流れました。ここで起こった出来事のうち詳しい内容をお知らせした方がいいものももちろんありますが、それは後日に譲り、10日間に何があったかだけを連記します。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の新会長選出をめぐる理事間の調整の最終段階に入り、7月29日の理事会で内定し、8月2日に正式に決定しました。事務局長が手順を踏んで公式発表をするから待ってくれというので、私はここで新会長の名を公表するのを差し控えます。2~3日中に、2名の新加盟の女性理事の名と共に新聞その他で公開されるだろうと思います。

 11月20日福田恆存先生の10周年のご命日に次の企画が実施されることとなり、内容打ち合わせを去る7月25日に行いました。

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 福田恆存歿後 10年記念―講演とシンポジウム

日時:11月20日午後2時30分 ¥2000 
場所:サイエンスホール  地下鉄東西線竹橋駅より7分
公開:福田恆存未発表講演テープ「近代人の資格」(昭48)
講演:山田太一  一読者として
講演:西尾幹二  福田恆存の哲学
シンポジウム:西尾幹二・由紀草一・佐藤松男
主催:現代文化会議
 Tel. 03-5261-2753(夜)
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 7月26日には私学会館にて九段下会議第一回オープンフォーラムが行われ、参加者は約50人でした。当日録の書き込み者も数名参加していました。安倍晋三氏が最初に挨拶、城内実氏(衆議院議員)の講演、山谷えり子氏、衛藤晟一氏の発言もあって、大いに盛り上がりました。参加者からもいい提案が出ました。この件は日録にあるていど詳しく報告いたします。信頼できる新しい保守の、知識人と政治家の協力体制です。