『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(七)

 思想の読み方はどうあるべきか、書かれてある思想をできるだけ自分の血肉とし、実践内容とすべきか、それとも距離をもって読み、実践は程度問題とすべきか、というような二者択一のテーマを掲げて、幾人かの方々のご意見を紹介した。

 本当のところ私にも分らないのである。私自身が他の思想を読む立場になると、迷いのさ中に置かれる。前者は厳密には実現不可能だし、後者は距離のとり方がむつかしい。

 友人の粕谷君から「以下はきのう(7月10日付)の貴兄の日録を流した先の女性からのコメントです」と但し書きのついた某女の短文が送られてきた。どういう方か分らないし、彼から紹介も受けていない。旧知の人らしい。

 関連テーマなので考えるよすがになると思いあえて掲げさせていたゞく。

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きょうの「西尾日録から」は私にとって誠に重要な内容を含んでいました。実は私も西尾さんの「男子、・・・・」を読んだとき、西尾さんの凄さに重ねて驚く反面「もし西尾さんのような人ばかりになったら「世の中が息苦しくなるのではないか」と何となくそう考えいるところがありました。

しかし今日の「西尾日録から」を読んで、何となく考えていたそのことが間違っていると分かりました。西尾さんが書いておられるように、思想の読み方を知らなかったのです。これまでも私は『「思想」とはどのような事を指すのだろう』と漠然と考えてはいましたが、はっきり分からなくてずっと気になっている問題でした。

「人間に生き方を問う本は 同一の実践を求めているのではなく、ある決意を求めている」と西尾さんは書かれています。それを感じ取るのが思想の読み方だということが解りました。

これもまた「目か鱗・・・」で私の大きい収穫でした。こんな事があるので粕谷さんから送って頂く様々なメールは私の活性剤です。

「西尾日録」に関わる反響から広がる今日のような問題で多くの読者の目が開かれることと思います。

今日はいい日でした。有難うございました。

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 さて、もとよりこのように理解していたゞいて有難いのだが、私の本の中のどんな言葉も心に響かなくっていい、と言っているわけではない。

 読んでいて心にときおり抵抗が生じ、危険な内容を孕んでいる本だなァとほんの少しでもドキッと感じていたゞけたら、むしろその方が有難いのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(六)

 
 今の会社では年代を越えて会話ができない。若者は年寄りの話題のグループに入りたがらない。社会や家族のあり方はどうあるべきか、という年配者の好むテーマを口にするのを若い人は好まない。ましてや政治、ことに国際政治の話はさらにもしない。親米も反米も関心がない。

 「そういう話は出版社の編集者からも聞きました。」と、私は応じた。「インテリの集団のはずの編集者同士が会社で話すことといえば、銀座のどの店のフランス料理はうまかったとか、そんなことばかりらしい。それで私が、シリアスな話題を交すときもあって、平生はバカ話なのだろう、と問うたら、否、そうではない、シリアスな話題を交すときは絶無である、と言っていました。」

 お二人の勤務する会社はエネルギーという、国家の背骨を支える企業である。そんなことは社員の誰もが分っているらしい。国家のために必要な重要企業、国策として行われている仕事だということは勿論社員の中で知らない人はいない。けれども今のこの国がどうなっているのか、世界の中でいかにきわどい位置にあるのかについて、誰ひとり雑談中に口にする者はいない。国際問題なんぞ誰も決して論じない。

 そういう重要な問題は誰かが教えてくれるに違いないと思っている。誰かから情報が届けられる。自分は考えなくてもいい、というスタンスである。私の前にいるお二人はそのことが不安でならなかった。長い間に二人だけでヒソヒソ声で何となく話し合うようになり、近づき合った。ほとんど例外らしい。

 小池さんはこんな話をした。

 「日本の空港の多く、三沢、厚木、那覇などでは民間航空機は恐ろしく狭い空路しか飛べないんです。米軍基地があり、軍事レーダーが優先していて、民間航空機は制限されています。霧が濃くなると降りられないんですよ。こんなこと、東京に住んでいると気がつかないでしょう。自分で自分の国を守ろうとしないから、こういう不自由を耐え忍んでいる。私が会社でこういう話題を持ち出すと、若い人はまったく反応しないんですよ。」

 柏崎出身の小池さんはまたこんな印象的な発言もした。

 「柏崎近辺では、蓮池さんのような若い人ではなく、非常に数多くの年配者が25年前のあのころ行方不明になっています。拉致だろうとみんな噂しているんですが、口をつぐんでいる。今も黙っている。誰も自分は拉致されなくて良かった、とそれだけで終りです。気が狂ったように騒ぎ立てる人なんか誰もいなかったし、今もいません。自分にさえ害が及ばなければそれでいいんです。」

 すべてはまさにこの通りだと私は思った。これが現代の日本の精神風景である。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(四)

「自分のいる読書」をするのはそんなに難しい話ではない。自分の弱点をあらいざらい見抜かれた一文に出会って、こわくなって読みたくない、というような読み方もその一つだし、逆にまるで自分のことを語っているみたいだと嬉しくなって、著者に自分の代弁者を見出して喜んで読む、というのもその一つである、と私自身がたしか書いた(220ページ)。

 いやな本ならいやだと突き離すのもいい。読みたくないものはあえて読む必要はない。読者と著者の間に「理解」なんて簡単に起こることではない。片言が気にかヽったら、それだけでも成果であり、伝達である。片言が気にかゝるかどうか、そしてそこで一歩立ち停って片言を自分の事柄にひき合わせてみるかどうかが岐れ目である。

 私は『聖書』や『論語』を読んでもほとんど分らない。勿論字面(じづら)は何とか追える。が、「理解」なんてとうてい及びもつかない。ときになぜこんな平凡なことばが真理のご託宣のように書かれているのか疑問にさえ思う。つまり、片言が簡単に心にひっかかってこないのである。自分の問題に容易にならないのである。

 けれども一般に思想を読むとはそういうことではないだろうか。書かれてあることを100%万人が理解し、実践せよ、と言外に示唆されてはいるが、誰もイエスのように生きかつ死ぬことはできない。十字架上の自由感などわれわれにどうして可能か。また、誰も孔子のように七十七人の門弟のみを理想の道場にして、そこに人類の未来を仮託するようなことなんてできない。人が集まれば必ず政治が始まる。純粋な「聖人」なんてあり得ない。すなわち、思想を読むとはどんな場合にも読者の「誤解」にとどまるという意味である。イエスや孔子と同じように自分も実践することなどできるわけがない。しかしそこに何かを感じ取り、じっと我慢して耳を傾けつづける。思想を読むとはそれ以外にないのだ。

 『聖書』や『論語』は際立った例示と思って出しただけで、他の現代のどの著作でもいい。本居宣長でも、内村鑑三でも、キルケゴールでも、福田恆存でも、吉本隆明でも、一般に生き方を問うている著書であれば誰でもいい。彼らの作品とわれわれ読者の関係は、上に述べた原理原則と同一である。

 例えば福田恆存の幸福論にはにがい言葉がたくさん並んでいる。美人でない女性には腹が立つようなことばもある。人間の生き方を問う本は、同一の実践を求めているのではない。ある決意を求めているだけである。

 なぜこんなことを書くかというと、「山椒庵」の次の書きこみが気になって、何度か読み返し、落ち着かなくなったからである。

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題:一読後の感想   /氏名:M78 /日:2004/06/26(Sat) 09:26 No.1011

特に批判はありません。「男子、一生の問題」は西尾先生の生き様をある程度さらけ出して、若者(先生より若い人)に対して人生論を説いているのですから、批判となると、先生の生き様自体を批判することになります。そういう気にはなりません。
ただ、だれもが西尾先生のような生き方はできない。もし、世の中のすべての人が、西尾先生が理想とする生き方をしたら、偽善者はいなくなるが、逆に混乱してしまうのではないかと思います。偽善と戦う人は、少数派だから意味があるのではないかと思います。
一読後、自分にはこのような生き方はできない。特に、言葉だけではだめだと、行動を重視する点が、無理だと思いました。ニーチェを読んだことはありませんが、ニーチェは行動を重視したのでしょうか?それとも陽明学の知行一致でしたっけ?行動を起こそうとする考え方の影響があるのでしょうか?

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 この方は多分気楽に書いたのだろうが、思想を読むとはどういうことかをまったく知らないように思える。そして自分のこの気楽な書き方が著者である私を深く傷つけていることにも気がついていない。

 私は私の読者に私のような生き方をせよと求めてはいない。当欄(三)で紹介した高石宏典さんのようにせめて本の中の一語にぶつかって、心の奥まで震撼されるような内心のドラマが生じたらありがたいと思っているだけである。そして、それだけの本だとは思っている。

 世の中がみな西尾のような生き方をしたら「偽善者はいなくなるが、逆に世の中は混乱する」
とは何という粗雑な言い方だろう。私は偽善者退治をしていない。「はじめに」に述べたように「偽善」を許容してさえいる。

 私は自分をイエスになぞらえるつもりはないが、譬えということで許していただくとするなら、すべての人間がイエスのように生きたら世の中は混乱してしまう、これは許せない、というものの言い方は、パリサイの徒の議論である。

 理想のためなら世の中が混乱したっていいではないか、なぜそう考えないのか。この人は思想の読み方を知らない。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(三)

なにかの事柄を「説明」している本は知性に訴えるが、著者の生き方を語っている本は知性を超えたものに訴えている。読んでよく分ったとか、分らなかったとか、そんなことは起り得ない。分ったなんて簡単に言ってもらいたくもない。

 『男子、一生の問題』は文章は平易で読み易いが、理解に及ぶのは予想外に容易ではないはずである。私は出版出来ずっとそう思ってきた。だから大衆的人気を博すのはむつかしいと予感していた。先週から大型書店のあちこちでベストセラーリストの端っこに顔を出していると聞いて、私自身が吃驚している。

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拝啓 西尾幹二先生

  初めてお便りさせていただきます。私は山形県にある県立の短大で教師をしている者です。今年厄年の42歳を迎え、少しずつ肉体の衰えと人生の悲哀を感じ始めております。先生のご著書には20年余り前に某地方国立大の学生だった頃に感銘を受け、それ以来、入手可能なご本や、「インターネット日録」には大体目を通させていただいて参りました。先日出版された『男子、一生の問題』も早速注文して拝読いたしましたので、今回はその感想などを認めさせていただきたくお便り申し上げる次第です。

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  以上のような礼儀正しい書き出しで、高石宏典さんという未知の方から6月末に一通の手紙が届いた。ご本人の承諾をいただいたので、以下に全文を公開する。

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  さて、『男子、一生の問題』は、西尾先生を近くに感じられてとても元気が出る本ですが、決して油断して読んではならない本でもあると思います。ある程度の覚悟をして読まないと後が恐いのです。実際に私は、一気に読了した後しばらく様々な言葉が頭の中を駆け巡って落ち着かず、思いがけずも一時的に悪かった体調をさらに悪化させてしまいました。先生のご本は薬にもなれば、“毒”にもなりえるということなのかもしれませんね。

 新刊書の中では、「行動は虚無から逃げることではない。真っ直ぐに虚無に向かっていくことが行動なのである。」(162頁)という言葉が特に印象に残りました。この父性に満ち溢れた雄々しい言葉こそ、表題に通じる核心的アフォリズムではないかと感じたのですがいかがでしょうか。何か後者の意味で行動することが男子たる者の本質であると言われているようで今の私の胸に突き刺さるのですが、先生が言われるように男子たる者、スケールの大小はともかく後先を考えず「大勝負」に出なければならないことがあるのは確かだと思います。この言葉には人の心を突き動かさずにはいない毒と人生の真理が含まれており、あれこれ考えさせられてしばらく落ち着かない日々が続いたのでした。

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 まず私の方が襟を正す思いで読みつづけた。この方は人生の大きな転換期にぶつかっておられるらしい。

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 先生のご著書にはこうした忘れられない衝撃的な言葉が散りばめられており、ちょうど20年前に『ニーチェとの対話』を拝読した時も同じように気分が高揚したのを覚えています。私が今諳んじて言えるその言葉は、「教育について」の中にある「私は人に道を尋ねるのがいつも気が進まない。―それは私の趣味に反する!むしろ私は道そのものに尋ねかけて、道そのものを試すのだ。」(131頁「重力の霊」)という最後の箇所のニーチェの言葉です。当時、公認会計士2次試験を独学で突破することを目標(掟)にしていた私は、この言葉によって随分励まされたと共に、何度か試験に失敗する度に自分の能力を超えた無謀な賭だったのではと幾度となく辛酸をなめる羽目に陥りました。結果的には何とか“初心貫徹”でき10年ほど某監査法人で会計監査等の仕事を経て今に至っていますが、今思うと先生の『ニーチェとの対話』を手にしないでこの言葉が心にひっかかっていなければ、今の私はいないと思います。私のごく小さな体験にすぎませんが、先生のご著書には毒にも薬にもなりえる言葉の魅力があり人を行動に駆り立てる力を持っていることの一例であるかと言えるのかもしれません。

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 そういえば『ニーチェとの対話』はよく読まれた本だった。今でもよく読まれている。「人に道を尋ねるのではなく、道そのものを自分で試すのだ」は私が『男子、一生の問題』では「行為」という言葉で言っていたことに通底するだろう。

 今はマニュアル本を求め、人に道を尋ね、教えられた通りに生きようとする人が多いのだと聞く。ますますそういう人が増えているので、自分の心で本を読まない。本が売れなくなった最大因はインターネットや携帯電話のせいではなく、「人に道を尋ねる」ことですべてが終わってしまう人が多くなったからだと私も思う。

 高石さんは次のようにつづける。

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 手垢で汚れ背表紙が擦り切れそうになっている『ニーチェとの対話』で上記の言葉を確認したついでに、手塚富雄先生訳「ツァラトゥストラ」(世界の名著57)を何気なくパラパラとめくって眺めていたら、以下の箇所にふと目が止まりました。『男子、一生の問題』の先生の問題意識と関連する箇所とも考えられるので記させてください。

 「ここには真の男性が少ない。それゆえここの女たちは男性化する。つまり十分に男である者だけが、女の内部にある女を―救い出すことができるのである。」(257頁「卑小かする徳」)

 これはまさに今の日本社会のありふれた現象であり、ほとんど達成不可能に近くなりつつある現代の男女関係の逆説的現実そのものですよね。120年前にこの現実を予言していたニーチェはやはり偉大な天才ですが、男と女は違うのだという当たり前のことを小さい子供の時から今からでも繰り返し教えていかないと、日本の社会秩序がさらに混乱すると危惧します。この悲しい現実を作り出したのは、私の出身高校の大先輩である我妻栄らによる戦後民法の改悪のせいであるに違いないと認識しつつ、今の職場で女子学生と接触する度に苦々しい思いをすることが多い今日この頃です。

 以上、ただ思い浮かんだことを大した脈絡もなく認めさせていただき失礼いたしました。私はこれからも西尾先生の思想と行動には陰ながら応援させていただきたく存じます。『男子、一生の問題』を読んで改めて、西尾先生はやっぱり凄い人だなぁと思わずにはいられませんでした。最後になりますが、西尾先生のご健勝とますますのご活躍をお祈りし、できれば先生の翻訳で『ツァラトゥストラかく語りき』が出版されることを期待して(すみません。昔大学で教わったドイツ語をすっかり忘れてしまいました!)、ペンを置きたいと存じます。くれぐれもご自愛下さいますように。
                                      敬具
平成16年6月28日                        高石宏典

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 一冊の本を書いて、未知のこういう読者の方に出会えるのは幸運であり、稀有に属する。私は高石さんのこの手紙を三笠書房の清水篤史さんに送った。

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 さて、今日は、読者の方からの素晴らしいお手紙をお送りいただき、誠に有り難うございました。重ねて御礼申し上げます。

 担当編集者として、このような含蓄深いお手紙を拝読させていただくのは、感慨深いものがございます。僭越ではございますが、先生と一緒に頑張った甲斐があったものだと、大変うれしく思います。

 それにしても、本に読まれるのではなく、『男子、一生の問題』をご自分の本として読み込んでいらっしゃること、さらにはお手紙の端々に感じられる諧謔性など、高石様のお手紙を拝読しながら、まさに「自分のいる読書」とは、こういうことではないか、と痛感させられた次第でございます。

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 清水さんのこの文章はそっくり高石書簡への私の感想と同じである。『男子、一生の問題』の中に「自分のいないような読書はするな」の一章がある。身近な人でも、評論家や学者の仲間でも、このことが分った上で本を読んでいる人は案外に少ないことを私はいつも苦々しく思っている。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(二)

 一冊の本を出したときいつも思うのは、著者と読者との関係とはいったい何だろう、著者が読者によって理解されるとはどういうことだろう、という問題である。勿論立場を変えれば私も毎日のように誰かある人の読者である。

 同窓会などで旧友に会うと、「僕は君の考えを支持するよ」とわざわざ言っていくれる人がいる。好意で言ってくれるのだから、私は黙って笑顔で応じる。しかし私のどの本の何ページのいかなる言葉をどう支持するのかは勿論言わない。私の書いたものを漠然と支持するという意味である。私はこのとき政治家のように扱われているのである。

 私は「君の考えを支持するよ」とは言われたくない。「君のこの間の本は面白かったよ」とむしろ言ってもらいたい。『男子、一生の問題』のような本は「支持する」という調子で遇することはきわめて難しいに相違ない。さりとて「よく分ったよ」「理解できたよ」ということも恐らく簡単には言えないのではないだろうか。

 最初に私の目に触れる批評は、本を差し上げた知友からの返書の中の片言と、インターネットにあがってくる未知の方の短い反応である。いつもと違って、今度の本の反響は少し複雑であった。というより、読者の戸惑い、あるいは一瞬ショックを受けあわてて口走ったような文言が混じっていた。

 国語学者の萩野貞樹さんは、こんな言い方をなさっている。

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 御著『男子、一生の問題』拝受いたしました。二章拝読したところで家内に奪はれてしまつてゐますが、いろいろと刺戟・驚き一杯です。

 先生の多くの御論著は当然、「ある問題について語る」ものであるわけですが、この度のもののやうに、「語る自分について語る」といふものがここまで怖い本になるのかとあらためて驚きます。残りは恐る恐る読むことになりさうです。

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 私はウーンと唸って、萩野さんの心中を量りかねて、私の内心に複雑な波動が生じるのを抑えがたかった。読売新聞国際部の三好範英さん――最近『戦後のタブーを清算するドイツ』という好著を書いたー―は、葉書の走り書きの返礼に、「先生の激しい生き方は私にはとてもかなわない、などと感じつつ一気に読了いたしました」と書き添えてあった。

 あの本が私の知友の心の中にも小さな嵐を巻き起こしているらしい。大抵の本の読者は、本がなにかを「説明」していることを期待して読む。そして知的に了解すればそれで読書の目的は達成される。けれども『男子、一生の問題』はなにかを「説明」している本ではない。その程度のことで終わってはいない。それはたしかにそう言える。読者の心になにほどかの衝撃波が伝播しなければ、あの本を書いた意味はないともいえる。

 返礼の文章は礼儀正しく、型通りの挨拶が多い。衝撃はその中に大抵埋もれてしまっている。むしろインターネットの書きこみに、いわば心が心を受けとめた正直な反響があった。

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712 西尾先生の新刊を読んで 一読者 2004/06/21 22:36
男性 33歳

今夜地元の書店の店頭にて『男子、一生の問題』を購入し、今読んでいる途中です。
ここ五年くらい人生がうまく行かず半ば惰性で生きていました。前の職を辞めてから、不安定な職を転々としているのです。とはいえ自分の研究を同人誌に出すなどして自分らしさをいくらかでも主張しようとはしてきました。ただここ最近は土日もただ寝ているか食べているような状態で、自分を見失っていました。
しかし、今回の先生の新刊を少し読んでみて、何か奮い立つようなものを感じています。

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 前にも一度ご紹介だけはさせてもらったが、恐らく書きこみも初めての、まったくの未知のかたであろう。何に奮い立たれたかは、勿論分らないが、私の本を私の本にふさわしく正面から受けとめて下さった本当の読者である。読者とは何だろう、理解とは何だろうという私のあの疑問が少し解けかけてくる。

 そういう意味で、たびたび 山椒庵  に投稿されている「吉之助」さんが、短いのだが、言わく言いがたい思いを不図片言にお漏らしになった次の一文もなぜか私の心にひっかかっている。

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題:インターネットなるもの(3)   /氏名:吉之助 /日:2004/06/29(Tue) 19:30 No.1027

男子、一生の問題」はとにかく刺激的である。ある個所では勇気を与えてくれるし、別の個所では落ち込ませる。それがどこかは読み手によって違おう。そんなことをネット上で書いても仕方がない。いったい他人と共有できる思いなどにどれほどの価値があるのか。自分にとって最も重い経験は自分にしか分からない。

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 「勇気を与えてくれる」だけでなく「落ち込ませる」ところがある、という言い方は、多分そうだろうな、どこの個所がどう作用するかは分らないが、私にはあの本の著者としてなぜか納得いく表現だった。簡単に感想なんか言いたくない、と怒ったような調子で短く打ち切ったこのかたのもの言いに、むしろ私は著者としての虚栄心をくすぐられたことを正直告白しておこう。

 東中野修道さんは

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 昨日、御新著『男子、一生の問題』を頂き、後の方から前の方へと読み進んで、なるほど、そうだそうだと導かれながら、そしてウーンと唸りながら、最後には16頁のA氏に釘づけになりながら、ただ今拝読を終えました。

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と書いて下さった。後から前へ読んだというのにも吃驚したが、「16頁のA氏」は私の側に記憶がない。はてな、何の話だったかな、とあわてて自著のページをくった。

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 自分の型を破れないでいると、五年もすれば飽きられてしまうだろう。

 現に私の近くにも、そのタイプであるA氏という優秀な人がいるのだが、すでに雑誌の編集長にもそのことは見抜かれている。

 彼によれば、「A氏は、書いていることは安定していていいのだが、最初の何行かを読むと終わりの見当がついてしまう」と言うのだ。恐ろしい批評だ。本人はそんなことを言われているのに気づいてもいない。

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 わざわざ引用するほどのこともないが、最初の方にでてくる実例である。これは大雑誌の編集長が私にふと漏らした実話である。私も今まで恐らくこういうことをどれくらい言われてきたか、知らぬが仏で、自分は気がついていないが、恐ろしい世界を潜り抜けて来たものだとあらためて思う。

 年をとったので、どこかの編集長から、「あれはもうダメだな。本人は文章力が落ちたことに気づいてもいない」ときっと言われるときが近づいているのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(一)

 拙著『男子、一生の問題』の中でインターネットへの感想文の書きこみのあり方、ハンドルネームの危うさについて私見を述べたくだりに、予想したとおり、何人かの注目が集まった。

 その中で、評論家の遠藤浩一氏が私あてに下さった文章がとても大切なことを言っているので、まず最初にそれを紹介したい。

 遠藤氏は高見の見物をしながらではなく、当日録の「応援掲示板」に自ら何度も書きこみをして下さった、その経験を基にして仰言っている。

 このところ掲示板がしばらく荒れていた。口争いが昂じ、「もう俺は書かない」と怒って立ち去る人がいて、遠藤氏はその人に当てて、たしなめる一文も書いていた。(なお、遠藤氏は旧仮名の遣い手である。)

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 ところで、御著にもある、インターネットの問題ですが、自己顕示欲をハンドルネームで隠蔽してゐるところに二重の自己欺瞞があるとのご指摘、全くその通りと思ひます。自己欺瞞に気付かないまま、「それがインターネットといふものさ」と囁き、コメントめいたものを垂れ流しても、結局さういふ言葉は他者を「突き刺す」ものにはならないでせう。匿名に対する甘えが、発する言葉の質を低下させてしまふのです。中には(特に「西尾応援板」への常連書き込み者には)、自分はハンドルネームにしつかり責任を持って、それなりの投稿をしてゐると自負してゐるでせう。しかし、小生の見るところ、やはり匿名の気易さが、実名では到底書けないやうな、あるいは対面しては到底言へないやうな物言ひを許してしまふという側面があるやうに思っはれます。インターネット掲示板においては、投稿の質を保つための管理――つまり活字媒体の編集者が行ふやうなチェックが事実上不可能だといふのがその最大の理由です(そこが、インターネットといふものの面白さなのですが・・・・)

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 まず以上のように、チェックされない自由が書き手の心に甘えをもたらす一般論が述べられている。人間は弱い存在なのである。心すべき点である。そのうえで、オヤと思う大切な次のような問題点を指摘している。

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 よく「掲示板が荒れる」といふ事態を目にします(西尾応援板」ではありません)。匿名掲示板荒らしが出没して汚い罵倒を繰り広げることを指すやうですが、かういつた、悪意が歴然とした闖入者の発言は無視し、削除すればいいので、実はたいした問題ではありません。問題は、ときどきおやと瞠目させるやうな発言をする人の書き込みが、次第に劣化していくことです。自分の独善や思ひ込みに気付かぬまま書き込みを続けるうちに、隘路に嵌り込み、身動きがとれなくなつてしまふ。仮に西尾先生や小生がハンドルネームを用ゐて書き込みをした場合も、同じ危険性がつきまとふでせう。つまり、板が荒れるといふより、善良な発言者のコメントが荒れてしまふというところに、インターネット言論の、一つの問題点があると、小生は観察いたしてをります(繰り返しますが、これがインターネットの麻薬的魅力の源泉でもあります)。

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 ここで大切なのは、西尾や遠藤さん自身がハンドルネームを用いて書き込みをしても、つい自分に甘え、文章の劣化をひき起こすだろう、と見ている点である。自分の名を出さないで文章を公表することそれ自体がもつ弱点である。そしてそれがインターネットの長所でもあるというのだから始末に終えない。

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 活字の世界で時折匿名記事に読むべきものがあるのは「編集者の目」という関門があるからです。匿名であらうがなからうが詰まらないもの、常軌を逸したものは撥ねられ、編集者の知的な眼鏡(怪しげな眼鏡をかけてゐる人も少なくありませんが)に適つたものだけが活字になるという関門があらばこそ、活字媒体の場合は匿名記事にも一定の存在理由を見ることが出来る。ところが、インターネット掲示板にはかふいふチェック機能は期待できないし、また、期待すべきではない。

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 新聞の文章は大半が無署名である。雑誌にも匿名の記事は少なくない。しかし、たしかに遠藤さんの言う通り、編集者という第三者のチェック機能がつねに働いて、逸脱を防いでいる。

 遠藤さんは最後に次のように言っている。

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 結局、活字媒体の言論とインターネット言論とは、まつたく異質なものと割り切ることなのでせう。小生自身、資料検索等に関してインターネットをかなり活用してゐますが、掲示板といふものは、時折閲覧するものの、深入りしないやうにしてゐます。さういふ時間がないからです。時折、自身のホームページを設営しようかと考へないでもありませんが、やはり、管理に要する時間とエネルギーを確保することは到底不可能で、それゆゑ、あきらめてゐます。西尾先生は、献身的な管理人に支へられて、本当にお幸せです。

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 というわけで、最後には私が「長谷川さん、どうも有難う」というべき場をも与えて下さった、かなり長いご文章であった。

 このところの応援掲示板の混乱を、長谷川さんが見事に克服したいきさつを遠くから見ていて、対応の誠実さに気がついている人は他にもいる。私の昔の教え児の平井康弘さんは、私あての手紙に、「応援掲示板もたまに拝見しておりましたが、混迷をきわめていた様子がうかがえ、やはりハンドルネームによる自己不在のマイナス面が出たかと思いました。」と述べた後で、次のように言及している。

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 面白いことですが、ハンドルネームにしていても、責任をもって臨んだ文章にはその気が文章から感じられます。面識はありませんが長谷川さんとおっしゃる方も、その並々ならぬ熱意、誠意、運営される姿勢が伝わり、感銘を受けている次第です。

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 長谷川さんが褒められると私もうれしい。
遠くから見ていても、分るものには分るものである。

 たヾ一つだけ私から掲示板への期待を述べると、掛け声みたいな短いことばの応酬ではなく、出来るだけ互いに長い文章によるオピニオンの交換であってほしいと思う。短文だとまた行き違いが生じて、再度感情的にならないとも限らない。不十分な言葉は誤解の因である。意を尽くして書くという習慣を確立してもらいたい。

5月と6月の活動報告 (三)

6月28日産経の一面下に、「新・地球日本史」の告知記事がのっていたのにお気づきになったであろうか。
 
 この企画は私の責任編集で7月5日から約10ヶ月にわたり、日曜を除いて毎日、産経新聞に連載される大型企画である。私自身の担当執筆は、最初の第一回とあと中ほどで一回あるかないかである。誰かが事情で書けなくなった場合、私は責任上穴埋めしなければならない。その可能性も覚悟はしている。
 
 私が同企画を産経新聞社住田専務(現社長)から申し渡されたのは平成15年の2月だった。1年かけて特別の準備をしたわけでもない。書いてもらいたい人の名前が少しづつ心の中に浮かぶようになった。同年秋に新聞の編集局長と特集部長との打ち合わせ会が開かれ、私にテーマと人選が任された。しかし自分の仕事が忙しくて、テーマごとに執筆者を自分できめ、電話をかけまくったのは今年の3月であった。
 
 4月に私から執筆者諸氏に次のような挨拶文とともに、決定した39項目のタイトルと執筆者名の一覧表を送った。同企画の目的と内容が示されているので、ご参考までに掲げておく。
 
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                 平成16年4月
 
 地球日本史 
  執筆者各位
                    西尾幹二
 
        ご 挨 拶
 
 「新・地球日本史」という新しいシリーズを産経新聞が7月5日より連載いたします。この企画にご参加くださいますことをご諒承いただき、有難うございます。
 
 「地球日本史」はすでに平成9年11月3日から、翌10年12月25日まで長期連載を行い、16世紀から明治初年までの日本の問題をユニークな角度から抉り出し、好評を博したことがあります。連載後、扶桑社より3冊の単行本(各副題は第1巻「日本とヨーロッパの同時勃興」、第2巻「鎖国は本当にあったのか」、第3巻「江戸時代が可能にした明治維新」)として出版され、さらに扶桑社文庫ともなり比較的よく読まれました。
 
 このたび本年7月5日より、来年4月9日までの期間で、「新・地球日本史」20世紀前半篇を、産経新聞にて連載することになり、私は前回に引き続きコーディネーターを任されましたので、ここに39回(1回1週単位)の内容プログラムを作成し、提出させていただきます。皆様のご協力を得て、プログラムはようやく同封別紙のようにまとまりましたことにあらためて感謝申し上げます。
 
 「地球日本史」は題名が示すとおり、地球的視野で日本の歴史を見直すという狙いがあり、さらにまた今日的必要から、今の時代の問題に引き据えて各テーマを再検討するという目的をも担っております。地球的視野といっても、国際化という甘い感傷語の示す方向を目指すのではなく、日本人が気がつかない世界の現実の中に日本を置いて、あらためて問題を見直し、既成の歴史の見方をこわすというほどの意味であります。一つの角度から鋭い、衝撃力のある光を照射していただければまことに幸いです。
 
 また、歴史を語るといっても、過去の一時代の話題に限定する必要はなく、現代の新聞紙上を賑わしているさまざまな関連テーマを取り上げ、並べて論じていただくのも一興かと存じます。できるだけ広い世界の話題の中で、しかも今の人の身近な題材にも言及していただければありがたいのです。しかし、テーマによっては、短い紙幅に歴史事実を語ることで精一杯で、余計な話題にまで手をひろげようがないという場合もございましょう。その場合には、当該テーマを過去の一時代に限定して語っていただくことで勿論十分でございます。
 
 すべて制約はなく、フリースタイルです。どうかよろしくお願い致します。
 
 原稿ご執筆の詳細な規定と事前催促予定、原稿受け渡しの方法等につきましては、担当の産経新聞特集部より同封書にてご報告いたさせます。
 
 なお連載は平成17年前半に扶桑社より上下2冊の単行本として出版される予定です。
 
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 39回の連載は36人によって執筆される。第1回目の私の「日本人の自尊心の試練の物語」だけは総論で、それ以後はしばらく明治時代が扱われる。韓国併合が9月末から10月初旬、日中戦争のテーマはやっと年末から年初に登場する。
 
 私が信頼している書き手が続々と姿を見せる。テーマもかなりひねって工夫してある。御期待ください。