大地の咆哮(杉本信行著、PHP社刊)について

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

        
 8月10日の朝日新聞朝刊を見て、はっとしました。ほんの数時間前に読了したばかりの掲題著者杉本信行氏が亡くなられたことが書かれていたからです。

 死因が「末期肺癌」であったことは「中国の環境汚染はそこまできていたのか」とショックを受けましたし、なによりも、この訃報で、地位あるエリート外交官がここまで踏み込んで中国の恐るべき真実に踏みこんだ背景がはっきりと理解できました。

 杉本信行氏は外交官上級試験に合格し73年に外務省入省、74年に未だ文革中の中国の北京、瀋陽で語学研修を受けました。その後、合間に、ベルギー、台湾などの勤務を交え、北京大使館には、若き日一等書記官として、更に80年代には公使として勤務、昨年まで上海総領事を勤め、合計14年の中国生活の後、去る8月3日に亡くなられたのです。

 繰り返しますが、病名は「末期肺癌」でした。

 「大地の咆哮」は従来の日本の外交官は勿論、中国専門家も書くことを躊躇するようなリアルな中国の実情を記したものです。

 北京オリンピックが迫ると言うのに、恐るべき水不足の進行とそれに対する無策。およそ近代とは思えない中世以前を思わせる、農民に対する制度上、実質両面の酷い差別。医療、失業、老後などに対するセーフティーネットの崩壊。見かけは華々しいが、中身はメチャクチャで何時崩壊してもおかしくない経済。社会正義など存在しない、不公正、不公平そのままの物凄い貧富の格差。荒れたままで政府の援助が殆んどない放置されっぱなしの義務教育の現状、遅れ。官僚の腐敗と汚職。・・・

 中国の実態は、不公平、不公正、不正義が蔓延し、何が起きてもおかしくない緊迫した酷さであることが赤裸々に描かれています。要は「弱きを助け強きを挫く正義の味方」であるはずの共産党、共産主義社会が今や「弱きを挫き、強きを助け、”不正義”の味方「”逆”鞍馬天狗」の跋扈する世を作り出している。そして中華人共和国なる国家は、今や、解放軍、武装警察、警察による力で辛くも維持されている状態であることが示されているのです。

 更に、日本の援助に対する中国側の対応の酷さ。台湾問題に対する中国、日本の無理解。靖国問題。などなどまで杉本氏の筆は及んでいます。

 その視点も従来の外務官僚に見られない国益への強い姿勢が窺えます。

 その原動力は何か。今となって判るのは、中国経験者、特に外務省故の制約からくる行動と言論の限界へのフラストレーション、更に現役時代に味わった数々の苦渋、就中、部下であった上海総領事館の職員の自殺事件を巡る中国側との口に出来ない数々の事柄、組織の一員としての悩みなど、直接蒙った打撃への歯軋りする思いなどがこの本に込められている筈です。

 然し、死期迫る闘病生活の中で、杉本氏は全を書き切ることは出来ませんでした。

 先ず、杉本氏は自分を殺したものが中国、即ち恐るべき中国の環境汚染であることを書く暇がありませんでした。(仄聞するところでは、90年代後半某邦銀の北京支店長夫人が肺癌で死亡、次の支店長本人も肺癌で死亡ししたとのことです。)日本のメディアは報じていませんが、中国の環境汚染はエリート外交官の命を奪うほどのレベルにきているらしいのです。

 汚染ワースト世界10大都市の中で中国当局によれば5都市が、又国際機関によれば7都市が中国の都市だそうです。環境モデル都市の北京でさえ04年10月に予定されていたフランス航空ショーを大気汚染の観点で中止しなければなりませんでした。上海の街を走る100万台の自動車の70%は最も古い欧州の排ガス規制を満足していないそうです。石炭の出す亜硫酸ガスが原因の酸性雨は黒土の1/4、農地の1/3を汚染し、日本の酸性雨の50%は中国から来ています。黄砂には、大気中に浮遊している鉛、マグネシウム、ダイオキシンが含まれています。

 実際、僅か1週間前に会った上海で事業を営む関係者は私の顔を見て開口一番「上海の空気汚染は酷くなりすぎている」と話しかけてきました。

 環境汚染だけではありません。日本の企業が投資行動自体も問われるようになってきている。

 農村から出稼ぎで来る労働者の労働条件の酷さを杉本氏は本の中で世銀の前総裁から、「10年間労働者の待遇は変っていないが、これは外資による搾取ではないか」と言われたと書いています。USCC(米-中国経済安全保障レビュー委員会)の8月3日と4日の公聴会で、アフリカ問題の専門学者から、アフリカの工業化で初期産業にある繊維工業が中国の低賃金労働ダンピングで立ち行かなくなっていると証言しています。中国が東南アジアなどで展開している自由貿易圏構築の動きはただでさえ貧困にあえぐ自国農民に大打撃を与えています。

 こんな状態を放置して、日本を含む各国の経済人、組合指導者、農業関係者、そして政治家が許されるものなのでしょうか。

 杉本氏が全然触れていない問題に、中国の大量破壊兵器(WMD)・運搬手段(DS)の拡散問題があります。中国の国有企業は、テロ支援国家、懸念国家へ過去十数年に亘りWMD・DSを輸出し、米国はそれに制裁を加えてきています。この問題についての言及もないまま杉本氏は亡くなりました。これは十数年に亘る問題ですが、日本のメディアは保守系の雑誌を含めて取り上げたことがない。二言目には「唯一の被爆国」であることを強調する日本のメディアが触れない理由は何か大いなる疑問です。

 アセアン地域において中国と日本の地位に大きな変動が見られることも杉本氏は触れていません。中国がアセアン各国と着々と17億の共同自由貿易市場構築のステップを進めつつあること。03年10月に中国はアセアンと友好協力協定を結んだこと。04年にはアセアン各国を招いて安全保障フォーラムを北京で開いたこと。人間衛星神舟の打ち上げ成功を利用してアセアンに共同宇宙開発を提案していることなど、日本のプレゼンスが最もあった地域アセアンでの日本外交の明らかな敗退については一言も触れられていないのです。以上触れられていないことは彼が知らなかったのか、そうでなく知ってはいたが書かなかったのかは不明ですが、是非知りたい点です。

 「大地の咆哮」の初版が発売されたのは杉本氏が亡くなる1ヶ月前の7月7日でした。7月5日には北朝鮮による7発のミサイル発射実験が行われ、これに対して日本外交は、珍しい程鮮やかに、北朝鮮に万景峰号の入港を禁止し、国連安保理で北朝鮮への制裁決議を提出し、中国の行動を完全に封殺、押し捲り、中国、ロシアを含めた北朝鮮非難の全会一致決議を成立させました。

 この日本の珍しく鮮やかな行動は、中国についての十分な分析なくしては不可能であったと思われます。多分、それへの貢献が杉本氏の生前の最後の仕事だったのではないでしょうか。

 杉本氏のような優秀で、国益に忠実な外交官は多い筈です。又中国問題について、多くの優秀な人材を日本も抱えている筈です。然し今回のような外交上の一時的成功は個人の力に頼るべきものではありません。

 日本の積年の問題は、有為な人材や資源を動員し、国全体の能力を極大化させるシステムが存在していないことです。その存在が、相手を知り自らを知る為の必要な第一歩であるし、失敗を避け国の安全と繁栄のための基盤ではないでしょうか。

 最後に、杉本氏のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。

「『昭和の戦争』について」(十)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第五章 偽装歴史観に裏付けられた平和憲法=「GHQ占領憲法」

第一節 「明治憲法」の本質――模範的な立憲君主制憲法

 連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争犯罪国家=日本帝国の基礎に「明治憲法」と「教育勅語」そして「神道」があり、この国家体制は、「天皇独裁の神権主義的擬似立憲体制」だと断定した。だが、明治憲法の本質は、これとは正反対なのである。

 立憲政治体制とは、憲法を柱にした「法治主義」で特定の権力に偏らないように権力の均衡を図りながら国家を運営し国民を統治する政治体制のことである。憲法草案の起草者・伊藤博文らは、第一に歴史と文化伝統を尊重した。『皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文』は、「惟ふに此れ皆 皇祖皇宗の後裔に貽(ノコ)したまへる統治の洪範を紹述したるに外ならず」と明言している(『憲法義解』一九一頁)。第二に、西欧の君主制国家の憲法、特にプロイセン憲法、ベルギー憲法を参考にした。この両憲法は、英国立憲君主制を模範(モデル)に制定されたものでだから、明治憲法は、君主権力と行政権、立法権、司法権、軍事権と言う権力の相互抑制のバランスを良く取っている。権力分散と公議世論政治を程よく按配した模範的立憲君主制の憲法だと当時の西欧諸国の憲法学者たちからも高く評価された秀逸な憲法なのである。

 「明治憲法」が制定され、議会政治が始まって以降、明治国家の安定は増大し、日清・日露の両戦争に良く「挙国一致」して勝利した。明治の立憲君主制国家は、欧米諸国から高い評価を得た。これがあったれ場こそ、日英同盟が成立したし、国力の増進は目覚しく、明治の御世の有り難さを多くの国民が実感したのである。つまり、明治国家体制は、独裁政治体制とは正反対のデモクラシー、複数政党制の議会制国家体制だったのである。

第二節 「GHQ占領憲法」の本質――日本弱体化の謀略法規

 我が国政府は、陸海軍の無条件降伏で辛うじて「國體護持」を保障されたと判断してポツダム宣言を受諾した。しかるに、完全武装解除した敗戦国に襲い掛かったのは、占領軍による日本弱体化のための国家改造政策の強行であった。ポツダム宣言は、日本に民主主義を復活すると謳っていたから、連合国側は戦前の日本に民主主義が定着していたことを知っていた。然るに、占領軍政府=GHQは、日本国は「無条件降伏」したのだとの巧妙な詭計をもって施政権を剥奪した我が国に対して「日本国憲法」なるものを押し付けた。施政権・外交権を完全に剥奪されて占領軍権力に身を委ねた被占領国家に、憲法制定権があろう筈が無い。

 そこで、総司令官マッカーサーは姦策を弄した。まず、「ワー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」なる情報操作を推進した。大東亜戦争が悪辣無道な侵略戦争であり、多くの日本国を不幸のどん底に叩き落したと日本国民洗脳作戦を展開した。悪逆無道な戦略者を推進した国家指導者=軍国主義者を断罪するとして「極東国際軍事裁判」なる茶番劇を演じた。次いで、帝国議会と枢密院に『大日本帝国憲法』改正手続きを踏ませて「GHQ占領憲法」に摩り替えたのである。

 「GHQ占領憲法」は、内容面でも異常である。第一に、この憲法の基本精神は我が日本の歴史と文化伝統の正統性に根差すものではない。第二に、この憲法は、日本を半身不随の中途半端な国家にする目的を持つ。日本の國體の柱である皇室制度を曖昧なものに貶め、従って、国家の元首が不明である。第三に、平和憲法と称して非武装=戦争放棄を建前とする。だから、独立主権国家としての外交・軍事を推進できない。国防の自由が無いから、外交も臆病で卑怯な外交たらざるを得ない。国家の尊厳と独立、国民の生命・財産の安全を自力で保障できないから、この憲法の本質は、国家・国民のための憲法ではなく、日本弱体化の謀略法規であると私は断言する。

 第一の問題を敷衍すれば、西欧世界の近代啓蒙主義思想、アダム・スミス、ロック、アメリカ独立宣言、フランス革命の人権宣言および共産主義思想をミックスした思想を基礎としている。これは対日戦争を積極的に推進した米国ルーズベルト大統領(民主党)のブレーン「ニューディーラー」らは、自分たちが理想とする政治制度を有色人種の優等生日本に実験的に移植したグロテスクな代物である。冒頭に述べた「ポツダム宣言」と「ハーグ陸戦法規」に完全に違反している。「日本国憲法」は、誕生経緯と内容の異常性からして国家基本法の要件を満たしていない。(注・この間の詳細に関しては拙論「敗戦国体制護持の迷夢」、雑誌『正論』平成一六年三、四月号連載を参照されたい)。

 このような国家・国民の憲法とは言えない憲法を定着させてしまったのは、戦後政治の大失敗だったと断言せざるを得ない。失敗の一例を挙げれば、米ソ冷戦の緊張の高まりと共に、特に朝鮮戦争(一九五〇年六月~五三年七月休戦協定)を契機にアメリカは、我が国に再軍備を熱心に要請するに至った。しかるに、時の日本政府(吉田茂内閣)は、これが「日本国民の総意に基いて制定された民主的な憲法である」と、逆螺子作戦でアメリカ政府の要望に反抗したのだった。つまりは、「憲法第九条」を盾にして再軍備を拒絶した、と言う大きな捩れ現象を発生し、憲法の欠陥を自ら修正し難くすると言う赦すべからざる愚行をなしたのだ。

 しかし、吉田茂は米国の圧力を排除出来ずに、かろうじて、「戦力無き軍隊」であるとして自衛隊(一九五〇年八月警察予備隊令→五三年九月防衛庁設置法・自衛隊法)を発足させた訳である。国民全般の涙ぐましい復興努力とその後の高度成長に後押しされ、また防衛庁と自衛隊の努力研鑚もあって軍事力としては相当強力な軍隊に成長した自衛隊三軍ではあるが、「憲法第九条」と法的に中途半端な国防軍としての位置づけの故に、いざ国家有事=緊急事態となったとき身動きが取れないという異常な状態のままで今日に至ったのである。

 一九五二=昭和二七年、サンフランシスコ講和条約発効以後も、占領体制から脱却して真の独立主権国家への回復、真の戦後復興を目指そうとする政治家・国家官僚が、如何にも少なかったのは遺憾の極みである。共産主義や社会主義に幻惑されて、戦前の日本を呪詛し、このような戦後政治を背後から支えた左翼知識人(所謂進歩的文化人)とその共生勢力だった大学や大形メディアや出版界の罪責は限りなく大きい。その左翼知識人勢力に育てられた世代が今や我が国の各界の最高指導層に蟠据している。教育は戦後教育の延長線上に展開されている訳だから、「百年河清を待つ」間に、我が日本民族は数千年の歴史と伝統から断たれた日本人にして日本人ならざる民族に変性されて行くのであろうか。教育を正常化する勢力が劣勢なのだから、このままでは日本の前途は実に危ういといわざるを得ない。

むすび  現下の課題

 最後に本講義の纏めを述べよう。「昭和の戦争」は、満洲事変から敗戦までの一貫した「十五年戦争」と言うような戦争ではなかった。だが、支那事変と大東亜戦争は一連の戦争であった。支那事変は、有色人種の優等生大日本帝国の擡頭に我慢できない米英と世界の共産革命を先ず弱い部分である東アジアで成し遂げようとしていた共産ロシア(ソ連)が、支那の軍事独裁者蒋介石を背後から軍事的・政治的・財政的に支援・指導し、さらに支那共産党を介在させて闘わせた言わば代理戦争であった。ソ連や米英は支那事変を長引かせることで日本を世界戦争の舞台に引きずり出して撲滅しようと狙ったのである。共産ロシアは、米国同様に軍閥独裁者蒋介石を支援して日本と戦わせる一方で、中国共産党を育成し蒋介石の足元から支那大陸の共産化工作にも余念が無かった。 

 未だ弱小だった毛沢東指導の支那共産党の後方攪乱戦術は見逃し難い重大問題である。その謀略は異常に逞しかった。大日本帝国滅亡後、共産ロシアの目論見どおり、支那共産党の大陸制覇は達成された。アメリカはトンビに油揚げを攫われた。最後の段階で参戦した共産ロシアはユーラシア大陸を略制圧、我が国固有の領土である樺太・千島を不法占拠して今に至っている。これらは、謀略情報戦に不得手で、「信義」や「誠実」をモットーとする我々日本人には中々理解できない醜い世界の出来事だった。 

 最後にもう一度言おう。満洲事変から支那事変、そして大東亜戦争に関して我が国は侵略戦争の計画は何ももたなかったのである。だから、これらの戦争は我が日本にとっては「独立自衛」を求める以外の目的はなく、侵略戦争との意識は何もない戦争だったのである。モノの見事に誤解に基づく理想世界の拡大を欲した米国と、共産ロシアの二つの謀略勢力に支那大陸の戦場に引き込まれて、結局は押し潰されたと言える。

 逆に言えば、一九三〇年代から四〇年代のアジア大陸の戦争は、米国とソ連の侵略戦争だった。アメリカは勝ち誇って「大東亜戦争」と言ってはいけない「太平洋戦争」と言えと命令したが、正にそこにアメリカのあの戦争への意欲、太平洋からアジア方面への侵略意欲が明瞭に出ているのである。これが大東亜戦争の真実である。

 米国やソ連が日本を貶めるために創作した歪曲歴史観に基づく支那・朝鮮の至極「政治的」な言い掛かり挑発に、我が国政府は気遅れする謂われは全くない。韓国・北朝鮮の言い掛かりは歴史の事実を意図的に曲解した怪しからぬ妄言なのである。また、支那共産党政府要人が、事あるごとに日本政府は反省が足りない、「歴史を鑑にせよと」説教するが、全く善人と悪人が転倒した盗人猛々しい、片腹痛い言い草なのである。彼らは、支那共産革命を達成する目的で、日本軍と軍閥蒋介石を徹底的に共倒れになるまで戦わせる悪行を働いた張本人なのである。アジアの連帯など考慮の外、モスクワの指令に従い、アジアの共産化を追及していたのである。彼らが何時も勝ち誇って言う「抗日戦争の勝利」は、彼ら自身のものではなく、モスクワの勝利のおこぼれに預かったのである。間もなくモスクワからの自立の欲求が台頭し、「中ソ対立」に至った訳である。

 戦後日本の政治家・官僚は祖国の歴史への理解度も国家・国民を正しい道に導こうとする勇気も洞察力も足りない。自尊心を失い国益追求への強い意志も失い、低次元の利害調整や私益追及に汲々たる

 木偶の坊が多過ぎるのである。その基盤には国民の歴史観の歪みが厳然としてある。

 日本民族最大の敵は、実は我々の足元に蔓延っている。我々にとって本当に大事な現下の課題は、「GHQ占領憲法」と「東京裁判史観」が、日本人から自信と勇気と品格を奪い去り、自虐的な卑怯者にしてしまった元凶だと言う真実を大悟することである。正々堂々の解決策は、国民精神と国家体制を祖国の歴史と文化・伝統の正統性に復古することである。    

完 

        

「『昭和の戦争』について」(九)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない

第四節 盧溝橋事件の突発――日支激突の挑発者は誰か?

 一九三七(昭和十二)年正月二一日、帝国議会の施政方針演説で広田弘毅首相は、「所謂コミンテルンの危険性は近来益々増大の兆候あり」と述べた。だが、政変となり、二月二日 林銑十郎内閣が成立。二月十日、支那共産党は、国共合作・共産革命の武装蜂起停止・土地革命停止、そして紅軍の国民革命軍への合流を国民党に提案したのである。

 六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。
 
 七月七日、北京郊外の盧溝橋で日支両軍衝突事件が突発した。二十二時四十分、支那側から発砲。この事件そのものは今までも多発していた日支両軍の小競り合いだったので、日本政府は、現地解決そして不拡大方針で臨んだ(今井武夫『支那事変の回想』一頁。臼井『日中戦争』三十三―三十六頁)。

 だが、日本の姿勢とは逆に、八日、中共中央委員会「徹底抗日」通電した。

 九日、蒋介石政府は、大掛かりな動員令を発令した(カワカミ『シナ大陸の真相』一四三、一四八頁)。

 十日、埼玉大和田海軍受信所、北京米国海軍武官からワシントン海軍作戦司令部宛暗号電報を傍受した。それは「第二九軍宗哲元麾下の一部不穏分子は現地協定にあきたらず今夜七時を期し日本軍に対し攻撃を開始することあるべし」とあった(初代海軍軍令部直属攻撃受信所所長和智恒蔵少佐(後、大佐)の東京裁判での宣誓口供書)。

 十一日「午後八時、特務機関長松井太九郎大佐と張自忠との間に二九軍代表の遺憾の意表明、支那軍の盧溝橋からの撤退、抗日団体の取締徹底を期待した現地協定(松井―秦徳純)」が成立した。東京ではこの日午前の五相会議において、支那軍の謝罪、将来の保障を求めるための威力顕示のための派兵も已むなしと陸軍三個師団の動員を内定した。しかし、支那駐屯軍から現地停戦協定が成立した旨の報告が入ったので、軍部は一応盧溝橋事件の解決と認め、内地師団に対する動員下令計画を見合わせた。丁度この頃、支那共産党宛コミンテルン指令の骨子「日支全面戦争に導け」。

 支那共産党が、国共合作宣言を公表したのは七月十五日、蘆溝橋事件の一週間後のことだ。

 十七日、蒋介石と周恩来の廬山談話(四原則の声明)があり、蒋介石「対日抗戦準備」「最後の関頭に立向かう」応戦声明を発表した。

 十九日までに、蒋介石軍は三十個師団(約二十万)も北支に集結、内約八万を北京周辺に配備。この日、南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めない、東京は南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通報してきた。つまり、現地協定拒否の表明である。

 二十日、支那第三十七師の部隊は、盧溝橋付近で日本軍に対する攻撃を再開。

 二十一日、蒋介石総統は南京で戦争会議開催、日本に対して戦争の手段に訴えると公式採択したのである。

第五節 盧溝橋事件の総括――支那民族の特性が見事に現れているこの十年間及び三週間

 ①日本は戦争を望んでいなかった。

 ②東京裁判で中華民国側は、華北に日本軍が侵略したのが原因だと言い張ったが、北平に駐屯していた通称天津軍は一九〇一=明治三四年七月、列国一一ヵ国が支那政府と締結した「北京議定書」に基づき、支那の首都の治安維持のための条約に基づく駐屯だった。

 ③様々な史料で明らかなように、日支両軍衝突を挑発したのは支那側で有り、それは支那共産党の謀略部隊による挑発であった。

 ④盧溝橋事件以後の三週間、日本側は、四度停戦協定を結んだが、支那軍は悉くこの停戦協定を破った。

 ⑤この三週間、日本側は動員令を出すのを控えたが、蒋介石(南京)政府は即座に動員令を発した。

 ⑥この三週間に支那軍は二十五万の兵員を北支に結集したが、日本は事件の平和的交渉を通じて解決しようと必死に努力した。

 我邦は明らかに和平を強く希望していた。しかし、支那の応答は、七月二五日の廊坊(天津―北平間に所在)事件、七月二六日の広安門事件、そして七月二十九日の通州事件であった。特に通州では冀東政府保安隊が日本人民間人およそ二百人を大虐殺する惨酷な事件だ。次いで一万人の日本民間人が居住している天津日本租界が襲撃された。打ち続く残虐な事件の後を追って、八月九日、上海国際租界で日本海軍士官大山中尉・水兵殺害事件突発。ついで起こったのが、八月十三日の第二次上海事変である。

 上海事変に関して指摘すべきは、蒋介石軍は第一次上海事変の後に国際間で取り結ばれた協定=上海停戦協定を踏み躙る軍事行動だった。しかも、英・米・仏は国際法を踏み躙る蒋介石に好意的だった。九月二日、日本政府は、『北支事変』を『支那事変』と改称し日支軍事衝突のこれ以上の拡大を防ごうとした。だが、九月二十二日、南京政府と支那共産党は同時に『国共合作』・『民族統一戦線結成』を宣言して、徹底抗戦の構えを見せたのである。上海の支那軍の妄動を制圧すべく、中支那軍は南京を制圧したのである。参謀本部と現地軍との間に作戦を巡る見解の相違が生じたこと、中支方面軍司令官松井石根が有る意味で最大の貧乏くじを引かされたことをもっと明らかにする必要がある。

 日本軍国主義が昭和初年に立てた大陸侵略、世界征服の「共同謀議」から必然的に発展した侵略戦争が支那事変だったと『東京裁判』は断案した。しかし、この判決が、如何に歴史の事実を無視した、歪曲された「昭和の戦争」論であるかを大凡示すことが出来たと考える。カール・カワカミは言う「日本人の忍耐力は実に驚嘆に値する」と(一五四頁)。

つづく

「『昭和の戦争』について」(八)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない

第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年

 満州事変の終結からニ年経った一九三五=昭和十年七月、モスクワで開催のコミンテルン第七回大会は、「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」を採択した(公安庁『国際共産主義の沿革と現状』、カワカミ五九―六〇頁)。それは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本帝国、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツ帝国を撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ(ドイツとの不可侵条約《一九三九年》並びに日本との中立条約《一九四一年》)、日本を支那と米英、ドイツを英仏と戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てたのである。日米は支那大陸でその権益を巡り、長い間冷戦(静かな戦争)を展開していたから、ズバリの戦略と言えよう(コミンテルン資料)。

 コミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、同三五年八月一日に「抗日民族統一戦線結成」=八・一宣言を支那全土に発した。東京でゾルゲと尾崎秀実が、日支を激突させ、最終的には支那を支援する米英と日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年昭和九年の初夏であった。この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件①排日運動の停止、②満州国の黙認、③共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく、南京大虐殺三十万人なぞは平気の平左の嘘八百である。

 

第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景

 三五=昭和十年十月下旬、毛沢東の紅軍主力は、陝西省北部に到着した。(支那共産党史は、「英雄的大長征」と言っているが要するに逃避行であり、その間に凄惨なる内ゲバが続いて毛沢東がヘゲモニーを掌握)。この敗残集団である共産党を一挙殲滅せんと蒋介石は、西北剿共総司令部を西安に設置、自らが総司令、副指令に張学良を任命した。だが、張学良は乗り気でなく、寧ろ親の敵、満州掠奪の敵と恨みを重ねていて、「抗日救国」を提唱する共産党との連携を密かに進めていた。いや、寧ろ共産党側が張学良を丸め込んだのである。張学良にはコミンテルンから指令が出ていて軍資金と兵器の供与を受けていた。

 さて、満洲建国以後、支那の反発は益々強まり、日支間に小競り合いが絶えない。そこで、我邦は支那本部と満洲の間(華北)に緩衝地帯を形成しようと本腰を入れた(注・冀察政務委員会成立=委員長宋哲元。宋は華北省主席を兼ねた。また三六=昭和十一年四月一七日には華北治安維持に支那駐屯軍《通称、天津軍》を現在の千七百から五千七百に増強している)。これは「華北分離工作」と言われた(注・「華北処理要綱」という華北五省の自治強化政策案を政府が作成したのは一九三六=昭和十一年一月十三日)。満洲に支那の内戦が直接波及するのを防止するのが、我邦の意図であった。

 しかるに、国民党や支那共産党筋は、日本帝国主義は満洲掠奪だけでは飽き足らず、華北侵略・支那本部侵略を目指している証拠だと騒ぎ立て、それを受けて十二月九日(十二・九運動)、北平の学生らが「抗日救国」「華北分離工作反対」の大々的な示威運動を実行、運動は全国各都市に波及した。十二月十九日、支那共産党中央は「抗日民族統一戦線結成策」を決定した。年が明けて三六=昭和十一年正月、蒋介石は、「未だ外交的手段による失権回復は絶望的ではないが、時が来たれば抗日に立ち上がる事も有り得る」と演説した。

 このように情勢が目まぐるしく変転する中、二月から三月にかけて山西省方面の軍閥と戦闘中で劣勢だった毛沢東は、五月五日、周囲の状況を読んで突如今まで掲げていた「反蒋」のスローガンを「連蒋」に切り替えた(五・五通電)。八月二十五日、支那共産党中央は、公式に「反蒋・反国民党」の看板を下ろして、「共同抗日・建設民主共和国・回復国共合作」を表明したのである(八月書簡)。蒋介石の共産党掃滅作戦を思い止まらせようとの戦術転換だった。支那の激しい反日運動を米国の民主党系メディアも熱心に支援した。

第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角

 歴史というものは実に複雑怪奇なものである。大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。これが支那の強硬な対日姿勢を一層促す作用を果たしたのは当然である。日本に敵対する諸勢力は、日本の政治状況の極度な不安定、内部分裂の兆候であると読んだのであろうし、それが「抗日運動」を超えて「抗日戦争」へとその意欲を高めた筈である。ソ連・コミンテルンそして支那共産党は間違いなく「抗日戦争」の確信犯であった。これに対し、蒋介石は未だに「抗日戦争」には半信半疑ながらも、共産党殲滅作戦をまず完遂しようとの決意は動いていなかった。

 共産党側が盛んに国共合作復活のサインを出し続けたのに対し、蒋介石は、この年の晩秋、北西剿共軍副指令張学良に全面攻撃を指令、十二月四日、督戦のため西安に乗り込み、副指令張学良および揚虎城らに共産軍攻撃を強化して三ヶ月以内に共産党を殲滅せよと厳命した。張学良が剿共作戦に不熱心だったからである。これが、再度のしかも共産党主導の国共合作への流れを促したのである。既に指摘したように張学良は、ソ連・コミンテルンや支那共産党と通謀していた。剿共作戦を中止して国共合作を回復し、「抗日戦争」に立ち上がろうと決意していた。ここに張学良の一世一代の大芝居が突発する。西安事件である。この事件は東アジア情勢の大転換点だ。事態の推移を時系列で確認しよう。

 ①一九三六(昭和十一)年十二月四日、総司令蒋介石、督戦に飛行機で西安に到着。この日から、張学良は剿共作戦を停止して国共合作を復活し「共同抗日」に立ち上がろうと蒋を説得し続けた。だが、蒋は頑なにそれを拒否して剿共作戦の即時強力実行を命令する。十二日、張学良は叛乱に踏み切る。陝西綏西司令揚虎城と共謀し、蒋を軟禁した。

 ②その日、示し合わせたように延安から周恩来が西安に飛来。蒋との折衝にかかる。毛沢東指導の延安共産党本部は、「蒋介石誅殺」を決議した。

 ③時を移さず、モスクワからスターリンの支那共産党宛電報が達した。「蒋介石を即時釈放せよ、さもなくんば貴党とは関係を断絶する」と言う厳命だった。蒋介石を人民裁判にかけて死刑に処し、西北抗日防衛政府を樹立する積りでいた毛沢東は、当時の力関係と従来の支配=服従関係からスターリンの命令に屈服せざるを得なかった。この時、延安は勿論西安でも「蒋介石処刑論」が圧倒的だったと言う。毛沢東はスターリンの厳命に接して地団太を踏んで悔しがったと言う。

 ④監禁された蒋介石と周恩来=中共からおよそ六項目の条件を呑まされた(田中正明『朝日・中国の嘘』一一一頁)。監禁二週間目の二十五日、蒋は釈放され、無事南京に帰還した。年が明けて一九三七=昭和十二年正月六日、蒋介石は剿共作戦を中止して西北剿共司令部を廃止した。二七年四月の蒋介石の反共クーデタ以来約十年の国共内戦は停止された。これでスターリンの東アジア戦略=日本帝国主義と蒋介石を激突させる戦略は軌道に乗ったと共に、支那共産党は殲滅の危機から脱出したのである。そして、西安事件の次に遣って来たのが盧溝橋事件である。

つづく

「『昭和の戦争』について」(七)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

第一節 「満洲某重大事件」=張作霖爆殺事件(一九二八=昭和三年)

 先に見たように、田中義一内閣は、東三省に満洲人自身の努力による安定政権が樹立されることを期待し、満洲(奉天)軍閥の頭領張作霖を支援しようとしていた。しかし、現地関東軍将校には、張作霖は信頼できない、満洲支配を委ねるのは危ないと判断する者が多かった。その様な時期に、蒋介石の「北伐」攻勢に押されて奉天に退却する途次の張作霖を爆殺する事件が一九二八=昭和三年六月四日起きた(満洲某重大事件)。

 関東軍参謀河本大作大佐の策謀であった。河本らは、蒋介石が満洲を制圧するならば、日露戦争以来の日本の満洲権益に障害が生じることを恐れた。そこで、支那南北対立が生み出した事件に偽装して張作霖を葬り、東三省(満洲)を混乱させ、混乱鎮定に関東軍が出動して満洲・南蒙古をより安定した日本の影響下に置こうと構想した。これは明らかに日本政府=田中外交の構想を超えていた。外地での不祥事を昭和天皇から厳しく叱責され、田中は恐懼の極、頓死するに至った。田中の満蒙政策はこれで頓挫した。

 だが、関東軍の目論見も別な意味で大きく外れる。若造だから操縦し易いだろうと予想して張作霖の後釜に息子の張学良を据えたのが大誤算になる。張学良の背後には支那共産党、そしてその背後に鎮座するコミンテルンの影がヒタヒタト迫っていた。(注・コミンテルンの策謀説)

 蒋介石は六月八日、北京に無血入城を果たして、北京を北平と改称した。後は東三省(満洲)を残すのみとなった。蒋は、奉天(東三省)軍閥の新首領張学良を七月三日、安国軍総指揮官に任命した。間もなく張学良は蒋介石に服従を表明して、日本政府および関東軍を困惑させた。十二月二十九日、張学良は、蒋介石に完全服従した(東三省易幟=青天白日旗)。蒋介石の支那統一は略々ここに完了した。
当時の諸情報を勘案すると、蒋介石の常備軍は約二二五万(内、張学良の満洲軍は二六万)数的には世界最大の陸軍を擁していた。また、満洲方面を狙うソ連の常備軍は約一三五万、極東地区=蒙古・ソ満国境に約六〇満配備と言われる。ソ連は既に「モンゴル共和国」なる完全な傀儡国家を作っている。ソ連の次の標的は南蒙古・満洲・華北だが、大戦略家で慎重なスターリンは、満洲には日本の軍事力と支配権が安定していると判断、直接満洲問題に介入せず、支那本土に日本の落とし穴を構えるのである。

 他方、我が国の兵数はおよそ二五万七千、その内、関東軍はたったの六万五千だったのである。どちらの国が軍国主義国家だったか、一目瞭然ではないか。(ラルフ・タウンゼント『介入するな』一一三、二三六頁、藤原彰『軍事史』一六五頁) 

 尚、王国を再興しようと好機の到来を待ち望む清王朝残党の動向も見落とせない。亡びた清国皇帝愛新覚羅氏の出身の地=故郷は満洲である。支那本部の地を失った今、故郷満洲に帰還して国家を再建する動きも当然あった。

第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

 さて、張学良の「易幟」は、我国の満洲政策に大転換を強いた。満洲における外国利権の回収を目標にする蒋介石が有利になったからである。そして、勢い付いた蒋介石は「革命外交」なる条約・協約を自分の都合で平気で裏切る外交に転ずる。この困難な時期に、内閣首班は政友会の田中義一から民政党の浜口雄幸に交代し(一九二九=昭和四年七月)、幣原喜重郎が外相に返り咲いた。これまた歴史の皮肉だ。幣原の「善隣友好・対支宥和」の外交信念は固かった。大幅に譲歩することで日支関係の円滑化を図ろうとした。切り札は、不平等条約改訂=関税問題で大幅に譲歩するから支那には日本の満洲権益を認め欲しいと言うのだった。

 さて、支那統一を略々成し遂げて、自信を深めた蒋介石の態度は強硬だった。日支外交好転のために支那公使に任命された幣原の腹心佐分利貞夫は、着任後間も無く帰国して、(箱根で)理由不明の謎の自殺を遂げた。本国政府=外務省と幣原融和外交を良いことに有る事無い事言い募る支那政府との板挟みの心労からと推測される。後釜に小幡酉吉が任命されたが、支那政府は小幡の公使就任を拒絶した(アグレマン拒否)。理由は、小幡が彼の「二十一か条要求」の作成作業と「日華条約」締結交渉に携わっていたからと言うのだった。

 カール・カワカミはその著書『シナ大陸の真相』で「幣原外交の問題点は支那人の物の考え方、取り分け彼が外相をしていたあの数年間における支那人の発想法を全く理解出来なかったことである」と指摘し、当時支那の外交姿勢は「如何なる支那に対する宥和政策も支那人の自惚れを助長させることにしか役立たない」と米国の支那研究家ロドニー・ギルバートの著書を引いて断案している。そして「実際支那は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしている正にその時に日本と結んだ条約を全面的に侵害する手段に訴えてきたのである」として、その条約・協定侵害事件のリストを掲げている(一一五頁)。

 なお、一九二九=昭和四年七月には、中東鉄道利権問題を巡り満洲軍閥張作霖と対立したソ連は、支那政府と国交断絶し、北満洲に進撃して、小戦争を演じている。ソ連の北満洲侵略と幣原外交の失策に危機感を深めた関東軍作戦主任参謀石原莞爾らが、一九三一=昭和六年九月十八日、柳条湖(満鉄線路爆破)事件を起こして満洲制圧に決起した訳である。これが満洲事変である。そして騎虎の勢、翌三二=昭和七年三月一日、満洲国建国に突き進んだ。確かに、政府の公式政策ではなく、出先関東軍の独走だったが、これはわが国内の問題であり、日支関係においてはやや強行策ではあったとしても、ソ連は関東軍との激突を不利と判断して兵を引いているし、当時の支那=蒋介石の対日強硬論に対する機先を制することによる、既得権益は防御されたのである。なお、満洲族の独立意欲に応えた側面も重要だった。

 さて、翌三三=昭和八年五月三一日、塘沽停戦協定が成立した。長城以南に非武装地帯を設定し、支那軍の撤退確認後、日本軍も撤兵すること、その治安維持には支那警察が当たること等が協定された。この時、蒋介石政府は、満洲国政府側と郵便・電信・電話、陸上交通、関税業務に関する協定も結んでいるのだ。協定調印は事実上の満洲国承認である。義和団事変から日露戦争そしてポーツマス条約で国際的承認の基に獲得した権益の防衛であり、その既得権益保護をより安全・確固たるものにしようとした正当防衛的な国策の推進であった。満洲事変はここで決着したのである。

 だが、蒋介石の国民党と支那共産党とは、日支停戦協定後も口裏を揃えて「日本帝国主義の侵略・略奪」は大問題だと内外に大々的に吹聴した。支那の巧みな国際プロパガンダ=情報戦術で日本は圧倒的に押し捲くられていた。条理を弁えない支那民族の性格から発する反日・侮日運動は益々猛り狂い、調子に乗った支那政府は、国際連盟に日本の「満洲侵略」を断罪してくれと提訴するのである。だが、共産ロシアの傀儡国家=モンゴル共和国に対しては口を噤んでいるのは不可解であるが、それは共産ロシアが支那を支援していたこと、国連には共産ロシアの回し者が潜入していたで、謎は半分以上解けるのである。

 なお、コミンテルンは一九三二=昭和七年にも日本共産党に革命指令(所謂「三二年テーゼ」)を発して天皇制打倒と指示しているが、日本官憲の共産主義者対策は当然強化されてきている。

 さて、国連はリットン調査団を満洲に派遣した。同調査団は、日本の満洲に対する特殊な事情や支那政府の数々の不信行為も認めたが、結論としては日本の軍事行動は支那への侵略であるとし、日支間に新条約の対決を勧告する報告書を纏めた。米国のジャーナリズムも盛んに日本軍国主義の支那大陸侵略非難を書き立て始めた。因みに一九三三=昭和八年三月、米国第三二代大統領に民主党のF・D・ルーズベルトが就任した。ルーズベルトは大の日本嫌・支那好きだったし、共産主義思想に共感を覚える人物だったことは、十分に注意深く確認しておく必要がある。

 我邦は国際連盟の決議に強く反発し、一九三三=昭和八年三月、国際連盟を脱退した。我が国政府は、「支那は完全な統一国家ではない。それ故、一般的国際関係の規範である国際法の諸原則を直ちに適用することは困難である。それにも拘らず、連盟諸国は、架空の理論を弄んで現実を直視していない」、と強く国連の姿勢を非難した。これは正論だったと言えよう。正に当時の政府が言ったとおり、国連は「架空の理論を弄んで現実を直視していない」。満洲事変・満洲建国は「侵略」と言う概念に合致しない。日清・日露両戦争以来、多くの尊い犠牲と労力と資金を投入して、国際社会の諒解を生真面目に獲得して、「生命線」の育成を図ってきた我国の立場は、英国などは実は理解を示すところだった。

つづく

「『昭和の戦争』について」(六)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」

 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。

 蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。 

 丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。

第九節 幣原外交の空回り

 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。

 幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。

 善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。

第十節 田中外交の挫折

 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。

 若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。

 そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。

 内容は、①支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、②「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、③「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。

 かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。

 五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号)

 田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。

 なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。

つづく

「『昭和の戦争』について」(五)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現

 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。

 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。

 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。

第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入

 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。

 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた)

第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月)

 さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。

 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。

 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。

第七節 ソ連の満蒙工作

 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。

 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。

つづく

「『昭和の戦争』について」(四)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第一節 対華二十一箇条要求問題

 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。

 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。

 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。

 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。

 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。

第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐

 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。

 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。

 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。

第三節 ワシントン会議の歴史的意義

 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。

 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。

つづく

「『昭和の戦争』について」 (三)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第五節 複雑な国際情勢の出現――一九一〇から三〇年まで

 さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。

 一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。

 注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。

 注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。

 支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。

 

第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況

 
 さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。

 この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。

第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響

 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。

 ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。

 ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。

つづく

「『昭和の戦争』について」 (二)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第二節 明治政府の国家戦略

 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。

 徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。
 
 さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。

 第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。

 第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。

 なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。

第三節 日清戦争の歴史的意義

 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。

 一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。

第四節 日露戦争の世界史的意義

 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。

 国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比)

 さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。

 なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。

 一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。

 なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。

 若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。

つづく