『日本がアメリカから見捨てられる日』の刊行(二)

第四章 他者としての朝鮮半島

朝鮮は日本とはまったく異なる宗教社会である  172
外が見えない可哀そうな民族

『日韓大討論』余聞  195
金完燮氏の折目正しい礼儀、しかしここまで「日本愛国」でいいのか

シンポジウムで見せた金完燮氏の予期せぬ素顔  205
びっくりした北朝鮮支持ぶり  

石原慎太郎氏の発言に寄せて  218
自国史の弱みは韓国人の罪ではないが弱みを見ようとしないのは罪である

竹島・尖閣――領土問題の新局面  227
国際環境が激変したときにのみ動くもの、それが領土問題、その日は近づいている  

第五章 教科書問題はいよいよまた始まる

あなたは公立図書館の焚書事件を知っていますか  236
犯罪であると認めて法的に裁けない現代裁判官  

受験生が裁判所に訴え出た大学入試センター試験  257
文部官僚と自民党政治家がにらみ合った「世界史」の一問  

改訂版歴史教科書トーンダウンへの私の必死の抵抗物語  274
醜いアヒルの子のままであれば白鳥になる  

あとがき  299

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脱字修正(9/4 12:17)

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(九)

男子、一生の問題』を一冊の本として、内容を広く伝える評文を書いて下さったのは「無頼教師」さんの次の文章である。とりあえず全文を紹介する。

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2004年06月26日
男子、一生の問題』と戦後の日本
 最近、といってももう10年以上は経つだろうが、めっきり年長者の小言というものを耳にしなくなった。私の父方も母方も祖父母ももう亡くなって久しい。テレビでみかけることも、ことさら少なくなった。昔の日本、そう昭和の日本であれば小言も聞けたものなのに、と思うのは私だけだろうか。

 『男子、一生の問題』の特徴は、そのタイトルにもあるように「男子」というものの生き様である。戦後が男性原理が徐々に浸食されてきた過程であるとすれば、この書物はそうした流れに対する雄弁な反論であるといえるだろう。女性という存在が無視されているわけではないが、戦後という時代の持つ喪失感に対する異議申し立てが、非常に個人的な視点から語られているという点が、この書物の第一の魅力であろう。

 たとえば、この書物の末尾において「右記二例、じつは今はしらふでいうのだが、私の言ったことは正当で、間違っていなかったとあらためて確認している。酔った口調の台詞であったとしても、台詞の内容は少しも酔っていない。/むしろ、四十年前の日本の世相の方が酔っていたのである」とあるが、時代との緊張関係を西尾氏が片時も忘れていなかったことを示していると言えるだろう。西尾氏の三つの戦い、すなわち(1)平成元年~平成四年「外国人単純労働者の受け入れ」に反対、(2)平成六年ごろ「戦後補償問題」のドイツ見習え論に反対、(3)平成八年「歴史教科書改善運動」へのとりくみは有名なところだが、日頃からの同時代との緊張関係がなければ、そもそもあり得なかった戦いであったことが、こうした発言から裏付けられる。

 こうした同時代との緊張関係が一番濃密に現れているのが、「嗚呼、茶髪の醜さよ!」の章ではないだろうか。ここに見られるようなストレートな拒絶は、最近では見られなくなったものであるだけに、より一層新鮮である。昔の日本であれば、当然聞こえたであろう声を耳にすることができる。これは西尾氏と同世代の人にとってだけでなく、それより若い中年もしくは青年の世代にとっても、改めて鮮烈に響くのではないだろうか。こうした本音の声を聞くことができなくなってしまった事が、日本人の活力の減退を想像させるだけに、貴重といえるだろう。

 次に、この第一の魅力に勝るとも劣らないのが、著者である西尾幹二氏の個人的な発想の核心のような部分が平明に述べられている点だろう。西尾氏が自らの過去の失敗も、そして成功もありのままを語っており、何よりも筆者が「行動の人」であることを告白しているのは、今回の書物が始めてではないが、その核心を結集したという意味では、鋭く切れ味の良い書物であるといえるだろう。(とはいえ、やはり「人前で話す前、もう一度「時と場所」を考えよ」の章に紹介されているような、結婚式でのスピーチは、された側はたまったものではないだろうと思われた。同じスピーチでも種子島氏のスピーチは、西尾幹二氏を背後からバックライトで暖かく映し出す優れたスピーチではあったのだが。)発想の核心とは、別の言葉で言い換えるならば、事物に対する評価ともいえるだろう。批判の視線は、小泉首相、外務官僚、文化勲章、出版界、学会へと縦横自在に向けられている。しかし、これらが単に批判されているのではない。「国際政治をあれこれ解釈するだけで終わるな」の章の「いざとなったら、解釈は必要ない。/求められているのは行為なのである」という発言にも現れているように、ひとえに行動を前提とした批判なのである。それだけに、これらの批判は、実質的な批判であるといえるだろう。

 この書物の魅力は、それだけにとどまらない。この書物の読者は、世代も職業もそれぞれさまざまであろうと予想できるが、どのような世代、どのような職業の人間が読んでも、それなりに益するところが多いのも、この書物の第三の特徴である。たとえば親や教師、あるいは人を指導する立場の人間であれば、「有能な教師は~」「人をほめることの~」などは、必読であろうし、子を持つ人であれば、「父性の欠落は、家庭内の順位の混乱を招く」「今の子供は、大人になる困難を知らない」などの章はやはり利するところが多いだろう。とはいえ、この書物の潜在的な最大の受益者は、作家もしくは批評家志望の青年ではないだろうか。というのも、西尾幹二氏の物書きとしての戦術が、余すところなく、明かされているからである。「論争はすべからく相手の神を撃て!」を筆頭に、「世の中の真ん中」を気にしないで行け」「「公論で闘っている人」はまずのびない」など、非常に耳の痛い、それでいて核心をとらえた発言が目白押しである。これを利用しない手はない、と部外者である私には思えるのだが。

 魅力の多いこの書物だが、物議を醸すであろうと予想される章も見受けられる。たとえば、インターネットやハンドルネームに関する議論がそれだ。実名で書かなければ、自己欺瞞なのか?これは議論が分かれるところだろう。「ハンドルネームで論争までして思想サークルを作り、一定の範囲で仲間を囲い込み、思想信条の違う者を囲い込み、思想信条の違う者をはじき出す」といった表現に、その通りだという人と、鼻白む人がいるだろう。こうした異なる評価が生まれる理由は、インターネットにも、歴史があり、その歴史からくみ取る教訓の違いに求められるのではという気がする。

 改めて振り返ってみれば、年長者の小言という表現も適切さを欠いているように思える。年長者に見られがちな、関心の閉塞はまったく見られず、年老いてなお盛んな好奇心の発露が至るところに見いだせるからだ。しかし、西尾氏の世代の発言は、たとえ個人的な視点からであろうと、もう少し世に出される必要があると私は考える。日本が国家としての岐路にさしかかっている現在、読者がこうした直言に謙虚に耳を傾けることは、決して意味のないことではないだろう。

(無頼教師)
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『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(八)

佐藤和代さんという若い女性のかたから分析的論考が寄せられた。いろいろな会合でお目にかかっている人である。

 「『男子、一生の問題』は女子にとっても一生の問題となります。女子はいずれ一人の男子に一生を賭けるのですから。」というもの言いも清々しい。

 彼女の論理的分析は以下の通りである。

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 先生は『男子、一生の問題』51頁で「私の書いた本は、~本の題材や内容は違っていても、結果的にはたった一つのことを言ってきている」「この『一つのこと』とは何か、それを語ることがほかでもない、本書の課題であるといっていい」とお書きになっていました。私はその「一つのこと」とは何かを突き止めたいと思いながら、読み進めました。

 先生は「考えるよりも前に~走り出していた」「何かをやるときには、行動が先にある」と述べられ、人間一般についても「人間は言葉や思想を通して生きているのではない。行動を通して世界を知るのである。」と断言されています。
 
 「一つのこと」とは、つまり「全てに先んじて行動があり、言葉や思想はその後からついて出てくるもの」「私はそれを実践してきて確かであると自信を持って言える」「(加えて)言葉を弄ぶだけの言論活動に、苦言を呈したい」ということでしょうか。
 
 先生はいつでも行動をもって主張される。先生の行動と思想は、一致している、―先生の支持者は、そこに先生の魅力を感じ、信頼をおいているのだと思います。
 
 さらに読み進み、4章になりますと、そこに次なる課題が出てきました(116頁)。
 
 「行為がすべてで、言葉は後からついてくると前に言った」が、
 「言葉(地図)は必ず行為(旅行)と同時についてこなくてはならない。そして思想がそれに伴ってこないと、それは行為にもならない」
 「新しい思想が必要になる」「とは言え、言葉や思想が先にあるのではない。行動が先にある。~言葉や思想は後からついていく。けれどもそれはなくてはならないものなのである」
 そして先生は「そこが不思議なのだ」とおっしゃっています。私は、そこで先生が“不思議”という言葉を出されたことの方が不思議でした。それは当然のことではないか、と私は思います。先生がおっしゃるのは、先生は「直感」によって行動されていたことになると思います。
 
 すぐに言葉では説明できないが、そうせざるを得ない何かがあり、それと同時に、確証はないが、そう行動しても間違いないという自信もあったから行動されたのではないでしょうか。
 
 直感はほんの一瞬の出来事です。しかし人間の直感は、動物的本能や感性ばかりではない、と思われます。それは、人間は日常、動物の遠く及ばない複雑な精神活動をしており、直感はそれまでのその人の経験が一点に集中した状態ではないかと思います。
 
 凝縮された一瞬です。
 
 つまり、直感は、それまでの理性的思考過程(言葉による思考、思想)も感性も、動物的本能もみな、ひっくるめてのものだということです。直感は一瞬にして起こる。それは、言葉のない状態というより、超スピードで起こるので、言葉が追いつかない状態である(逆に言えば、後で何とか言葉に置き換え可能である。しかし、そのものズバリではないかもしれない)、と言えるのではないでしょうか。
 
 私がここでお伝えしたいのは、「直感による行動には、実は理性的思考も入っていた(特に先生の場合は行動と思想が共に在り、いつでも身体は臨戦態勢にあられるので、直感力が鋭く働くのではないでしょうか)」ということです。
 
 ですから、行動と言葉は少々のずれ(時間的、質的)があるが、現在において絡まりあって進行するものと私は考えます。

 
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 少し長い引用になったが、論理的なので切るわけにいかない。まだこの後つづくのだが、以下は割愛させていたヾく。

 佐藤さんの仰有る通りと思う。格別異論はない。行為と言葉を私は峻別しているが、そんなにくきり分けられるものではないだろう、というご批判とうけたまわった。

 行為の動的側面と言葉の静的側面を私は少し誇張したレトリックで区別して書いている。しかし勿論、行為と言葉はつねにほゞ同時的に出現する。

 人間は言葉でしか思考しない。行為は思考に先立つようにみえて、大抵思考を伴っている。しかしまったく思考とか反省とかを伴わない純粋な行為というものもあると私は思っている。自分の意志も介在していない行為。行為に見舞われるという意味の行為。――これは特定の劇的行動のようなものを指しているのではない。

 例えばある一つのことが心に懸ってじっと独りで鬱然としている。他人から声をかけられて振り向く。その瞬間にさっきまでの自分を忘れてしまう。対話を始める。すると自分は新しい別の世界に入って、今までの自分ではもうない。

 意識の自由な転換、自分へのこだわりをさっと捨てる気侭さ、無責任な非論理性――これなくしては人間は正常なバランス感覚を維持できない。そのとき思考や反省は役立たないのだ。言葉はその瞬間に存在しないのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(七)

 思想の読み方はどうあるべきか、書かれてある思想をできるだけ自分の血肉とし、実践内容とすべきか、それとも距離をもって読み、実践は程度問題とすべきか、というような二者択一のテーマを掲げて、幾人かの方々のご意見を紹介した。

 本当のところ私にも分らないのである。私自身が他の思想を読む立場になると、迷いのさ中に置かれる。前者は厳密には実現不可能だし、後者は距離のとり方がむつかしい。

 友人の粕谷君から「以下はきのう(7月10日付)の貴兄の日録を流した先の女性からのコメントです」と但し書きのついた某女の短文が送られてきた。どういう方か分らないし、彼から紹介も受けていない。旧知の人らしい。

 関連テーマなので考えるよすがになると思いあえて掲げさせていたゞく。

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きょうの「西尾日録から」は私にとって誠に重要な内容を含んでいました。実は私も西尾さんの「男子、・・・・」を読んだとき、西尾さんの凄さに重ねて驚く反面「もし西尾さんのような人ばかりになったら「世の中が息苦しくなるのではないか」と何となくそう考えいるところがありました。

しかし今日の「西尾日録から」を読んで、何となく考えていたそのことが間違っていると分かりました。西尾さんが書いておられるように、思想の読み方を知らなかったのです。これまでも私は『「思想」とはどのような事を指すのだろう』と漠然と考えてはいましたが、はっきり分からなくてずっと気になっている問題でした。

「人間に生き方を問う本は 同一の実践を求めているのではなく、ある決意を求めている」と西尾さんは書かれています。それを感じ取るのが思想の読み方だということが解りました。

これもまた「目か鱗・・・」で私の大きい収穫でした。こんな事があるので粕谷さんから送って頂く様々なメールは私の活性剤です。

「西尾日録」に関わる反響から広がる今日のような問題で多くの読者の目が開かれることと思います。

今日はいい日でした。有難うございました。

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 さて、もとよりこのように理解していたゞいて有難いのだが、私の本の中のどんな言葉も心に響かなくっていい、と言っているわけではない。

 読んでいて心にときおり抵抗が生じ、危険な内容を孕んでいる本だなァとほんの少しでもドキッと感じていたゞけたら、むしろその方が有難いのである。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(六)

 
 今の会社では年代を越えて会話ができない。若者は年寄りの話題のグループに入りたがらない。社会や家族のあり方はどうあるべきか、という年配者の好むテーマを口にするのを若い人は好まない。ましてや政治、ことに国際政治の話はさらにもしない。親米も反米も関心がない。

 「そういう話は出版社の編集者からも聞きました。」と、私は応じた。「インテリの集団のはずの編集者同士が会社で話すことといえば、銀座のどの店のフランス料理はうまかったとか、そんなことばかりらしい。それで私が、シリアスな話題を交すときもあって、平生はバカ話なのだろう、と問うたら、否、そうではない、シリアスな話題を交すときは絶無である、と言っていました。」

 お二人の勤務する会社はエネルギーという、国家の背骨を支える企業である。そんなことは社員の誰もが分っているらしい。国家のために必要な重要企業、国策として行われている仕事だということは勿論社員の中で知らない人はいない。けれども今のこの国がどうなっているのか、世界の中でいかにきわどい位置にあるのかについて、誰ひとり雑談中に口にする者はいない。国際問題なんぞ誰も決して論じない。

 そういう重要な問題は誰かが教えてくれるに違いないと思っている。誰かから情報が届けられる。自分は考えなくてもいい、というスタンスである。私の前にいるお二人はそのことが不安でならなかった。長い間に二人だけでヒソヒソ声で何となく話し合うようになり、近づき合った。ほとんど例外らしい。

 小池さんはこんな話をした。

 「日本の空港の多く、三沢、厚木、那覇などでは民間航空機は恐ろしく狭い空路しか飛べないんです。米軍基地があり、軍事レーダーが優先していて、民間航空機は制限されています。霧が濃くなると降りられないんですよ。こんなこと、東京に住んでいると気がつかないでしょう。自分で自分の国を守ろうとしないから、こういう不自由を耐え忍んでいる。私が会社でこういう話題を持ち出すと、若い人はまったく反応しないんですよ。」

 柏崎出身の小池さんはまたこんな印象的な発言もした。

 「柏崎近辺では、蓮池さんのような若い人ではなく、非常に数多くの年配者が25年前のあのころ行方不明になっています。拉致だろうとみんな噂しているんですが、口をつぐんでいる。今も黙っている。誰も自分は拉致されなくて良かった、とそれだけで終りです。気が狂ったように騒ぎ立てる人なんか誰もいなかったし、今もいません。自分にさえ害が及ばなければそれでいいんです。」

 すべてはまさにこの通りだと私は思った。これが現代の日本の精神風景である。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(四)

「自分のいる読書」をするのはそんなに難しい話ではない。自分の弱点をあらいざらい見抜かれた一文に出会って、こわくなって読みたくない、というような読み方もその一つだし、逆にまるで自分のことを語っているみたいだと嬉しくなって、著者に自分の代弁者を見出して喜んで読む、というのもその一つである、と私自身がたしか書いた(220ページ)。

 いやな本ならいやだと突き離すのもいい。読みたくないものはあえて読む必要はない。読者と著者の間に「理解」なんて簡単に起こることではない。片言が気にかヽったら、それだけでも成果であり、伝達である。片言が気にかゝるかどうか、そしてそこで一歩立ち停って片言を自分の事柄にひき合わせてみるかどうかが岐れ目である。

 私は『聖書』や『論語』を読んでもほとんど分らない。勿論字面(じづら)は何とか追える。が、「理解」なんてとうてい及びもつかない。ときになぜこんな平凡なことばが真理のご託宣のように書かれているのか疑問にさえ思う。つまり、片言が簡単に心にひっかかってこないのである。自分の問題に容易にならないのである。

 けれども一般に思想を読むとはそういうことではないだろうか。書かれてあることを100%万人が理解し、実践せよ、と言外に示唆されてはいるが、誰もイエスのように生きかつ死ぬことはできない。十字架上の自由感などわれわれにどうして可能か。また、誰も孔子のように七十七人の門弟のみを理想の道場にして、そこに人類の未来を仮託するようなことなんてできない。人が集まれば必ず政治が始まる。純粋な「聖人」なんてあり得ない。すなわち、思想を読むとはどんな場合にも読者の「誤解」にとどまるという意味である。イエスや孔子と同じように自分も実践することなどできるわけがない。しかしそこに何かを感じ取り、じっと我慢して耳を傾けつづける。思想を読むとはそれ以外にないのだ。

 『聖書』や『論語』は際立った例示と思って出しただけで、他の現代のどの著作でもいい。本居宣長でも、内村鑑三でも、キルケゴールでも、福田恆存でも、吉本隆明でも、一般に生き方を問うている著書であれば誰でもいい。彼らの作品とわれわれ読者の関係は、上に述べた原理原則と同一である。

 例えば福田恆存の幸福論にはにがい言葉がたくさん並んでいる。美人でない女性には腹が立つようなことばもある。人間の生き方を問う本は、同一の実践を求めているのではない。ある決意を求めているだけである。

 なぜこんなことを書くかというと、「山椒庵」の次の書きこみが気になって、何度か読み返し、落ち着かなくなったからである。

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題:一読後の感想   /氏名:M78 /日:2004/06/26(Sat) 09:26 No.1011

特に批判はありません。「男子、一生の問題」は西尾先生の生き様をある程度さらけ出して、若者(先生より若い人)に対して人生論を説いているのですから、批判となると、先生の生き様自体を批判することになります。そういう気にはなりません。
ただ、だれもが西尾先生のような生き方はできない。もし、世の中のすべての人が、西尾先生が理想とする生き方をしたら、偽善者はいなくなるが、逆に混乱してしまうのではないかと思います。偽善と戦う人は、少数派だから意味があるのではないかと思います。
一読後、自分にはこのような生き方はできない。特に、言葉だけではだめだと、行動を重視する点が、無理だと思いました。ニーチェを読んだことはありませんが、ニーチェは行動を重視したのでしょうか?それとも陽明学の知行一致でしたっけ?行動を起こそうとする考え方の影響があるのでしょうか?

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 この方は多分気楽に書いたのだろうが、思想を読むとはどういうことかをまったく知らないように思える。そして自分のこの気楽な書き方が著者である私を深く傷つけていることにも気がついていない。

 私は私の読者に私のような生き方をせよと求めてはいない。当欄(三)で紹介した高石宏典さんのようにせめて本の中の一語にぶつかって、心の奥まで震撼されるような内心のドラマが生じたらありがたいと思っているだけである。そして、それだけの本だとは思っている。

 世の中がみな西尾のような生き方をしたら「偽善者はいなくなるが、逆に世の中は混乱する」
とは何という粗雑な言い方だろう。私は偽善者退治をしていない。「はじめに」に述べたように「偽善」を許容してさえいる。

 私は自分をイエスになぞらえるつもりはないが、譬えということで許していただくとするなら、すべての人間がイエスのように生きたら世の中は混乱してしまう、これは許せない、というものの言い方は、パリサイの徒の議論である。

 理想のためなら世の中が混乱したっていいではないか、なぜそう考えないのか。この人は思想の読み方を知らない。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(三)

なにかの事柄を「説明」している本は知性に訴えるが、著者の生き方を語っている本は知性を超えたものに訴えている。読んでよく分ったとか、分らなかったとか、そんなことは起り得ない。分ったなんて簡単に言ってもらいたくもない。

 『男子、一生の問題』は文章は平易で読み易いが、理解に及ぶのは予想外に容易ではないはずである。私は出版出来ずっとそう思ってきた。だから大衆的人気を博すのはむつかしいと予感していた。先週から大型書店のあちこちでベストセラーリストの端っこに顔を出していると聞いて、私自身が吃驚している。

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拝啓 西尾幹二先生

  初めてお便りさせていただきます。私は山形県にある県立の短大で教師をしている者です。今年厄年の42歳を迎え、少しずつ肉体の衰えと人生の悲哀を感じ始めております。先生のご著書には20年余り前に某地方国立大の学生だった頃に感銘を受け、それ以来、入手可能なご本や、「インターネット日録」には大体目を通させていただいて参りました。先日出版された『男子、一生の問題』も早速注文して拝読いたしましたので、今回はその感想などを認めさせていただきたくお便り申し上げる次第です。

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  以上のような礼儀正しい書き出しで、高石宏典さんという未知の方から6月末に一通の手紙が届いた。ご本人の承諾をいただいたので、以下に全文を公開する。

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  さて、『男子、一生の問題』は、西尾先生を近くに感じられてとても元気が出る本ですが、決して油断して読んではならない本でもあると思います。ある程度の覚悟をして読まないと後が恐いのです。実際に私は、一気に読了した後しばらく様々な言葉が頭の中を駆け巡って落ち着かず、思いがけずも一時的に悪かった体調をさらに悪化させてしまいました。先生のご本は薬にもなれば、“毒”にもなりえるということなのかもしれませんね。

 新刊書の中では、「行動は虚無から逃げることではない。真っ直ぐに虚無に向かっていくことが行動なのである。」(162頁)という言葉が特に印象に残りました。この父性に満ち溢れた雄々しい言葉こそ、表題に通じる核心的アフォリズムではないかと感じたのですがいかがでしょうか。何か後者の意味で行動することが男子たる者の本質であると言われているようで今の私の胸に突き刺さるのですが、先生が言われるように男子たる者、スケールの大小はともかく後先を考えず「大勝負」に出なければならないことがあるのは確かだと思います。この言葉には人の心を突き動かさずにはいない毒と人生の真理が含まれており、あれこれ考えさせられてしばらく落ち着かない日々が続いたのでした。

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 まず私の方が襟を正す思いで読みつづけた。この方は人生の大きな転換期にぶつかっておられるらしい。

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 先生のご著書にはこうした忘れられない衝撃的な言葉が散りばめられており、ちょうど20年前に『ニーチェとの対話』を拝読した時も同じように気分が高揚したのを覚えています。私が今諳んじて言えるその言葉は、「教育について」の中にある「私は人に道を尋ねるのがいつも気が進まない。―それは私の趣味に反する!むしろ私は道そのものに尋ねかけて、道そのものを試すのだ。」(131頁「重力の霊」)という最後の箇所のニーチェの言葉です。当時、公認会計士2次試験を独学で突破することを目標(掟)にしていた私は、この言葉によって随分励まされたと共に、何度か試験に失敗する度に自分の能力を超えた無謀な賭だったのではと幾度となく辛酸をなめる羽目に陥りました。結果的には何とか“初心貫徹”でき10年ほど某監査法人で会計監査等の仕事を経て今に至っていますが、今思うと先生の『ニーチェとの対話』を手にしないでこの言葉が心にひっかかっていなければ、今の私はいないと思います。私のごく小さな体験にすぎませんが、先生のご著書には毒にも薬にもなりえる言葉の魅力があり人を行動に駆り立てる力を持っていることの一例であるかと言えるのかもしれません。

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 そういえば『ニーチェとの対話』はよく読まれた本だった。今でもよく読まれている。「人に道を尋ねるのではなく、道そのものを自分で試すのだ」は私が『男子、一生の問題』では「行為」という言葉で言っていたことに通底するだろう。

 今はマニュアル本を求め、人に道を尋ね、教えられた通りに生きようとする人が多いのだと聞く。ますますそういう人が増えているので、自分の心で本を読まない。本が売れなくなった最大因はインターネットや携帯電話のせいではなく、「人に道を尋ねる」ことですべてが終わってしまう人が多くなったからだと私も思う。

 高石さんは次のようにつづける。

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 手垢で汚れ背表紙が擦り切れそうになっている『ニーチェとの対話』で上記の言葉を確認したついでに、手塚富雄先生訳「ツァラトゥストラ」(世界の名著57)を何気なくパラパラとめくって眺めていたら、以下の箇所にふと目が止まりました。『男子、一生の問題』の先生の問題意識と関連する箇所とも考えられるので記させてください。

 「ここには真の男性が少ない。それゆえここの女たちは男性化する。つまり十分に男である者だけが、女の内部にある女を―救い出すことができるのである。」(257頁「卑小かする徳」)

 これはまさに今の日本社会のありふれた現象であり、ほとんど達成不可能に近くなりつつある現代の男女関係の逆説的現実そのものですよね。120年前にこの現実を予言していたニーチェはやはり偉大な天才ですが、男と女は違うのだという当たり前のことを小さい子供の時から今からでも繰り返し教えていかないと、日本の社会秩序がさらに混乱すると危惧します。この悲しい現実を作り出したのは、私の出身高校の大先輩である我妻栄らによる戦後民法の改悪のせいであるに違いないと認識しつつ、今の職場で女子学生と接触する度に苦々しい思いをすることが多い今日この頃です。

 以上、ただ思い浮かんだことを大した脈絡もなく認めさせていただき失礼いたしました。私はこれからも西尾先生の思想と行動には陰ながら応援させていただきたく存じます。『男子、一生の問題』を読んで改めて、西尾先生はやっぱり凄い人だなぁと思わずにはいられませんでした。最後になりますが、西尾先生のご健勝とますますのご活躍をお祈りし、できれば先生の翻訳で『ツァラトゥストラかく語りき』が出版されることを期待して(すみません。昔大学で教わったドイツ語をすっかり忘れてしまいました!)、ペンを置きたいと存じます。くれぐれもご自愛下さいますように。
                                      敬具
平成16年6月28日                        高石宏典

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 一冊の本を書いて、未知のこういう読者の方に出会えるのは幸運であり、稀有に属する。私は高石さんのこの手紙を三笠書房の清水篤史さんに送った。

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 さて、今日は、読者の方からの素晴らしいお手紙をお送りいただき、誠に有り難うございました。重ねて御礼申し上げます。

 担当編集者として、このような含蓄深いお手紙を拝読させていただくのは、感慨深いものがございます。僭越ではございますが、先生と一緒に頑張った甲斐があったものだと、大変うれしく思います。

 それにしても、本に読まれるのではなく、『男子、一生の問題』をご自分の本として読み込んでいらっしゃること、さらにはお手紙の端々に感じられる諧謔性など、高石様のお手紙を拝読しながら、まさに「自分のいる読書」とは、こういうことではないか、と痛感させられた次第でございます。

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 清水さんのこの文章はそっくり高石書簡への私の感想と同じである。『男子、一生の問題』の中に「自分のいないような読書はするな」の一章がある。身近な人でも、評論家や学者の仲間でも、このことが分った上で本を読んでいる人は案外に少ないことを私はいつも苦々しく思っている。

『男子、一生の問題』の反響にこと寄せて(二)

 一冊の本を出したときいつも思うのは、著者と読者との関係とはいったい何だろう、著者が読者によって理解されるとはどういうことだろう、という問題である。勿論立場を変えれば私も毎日のように誰かある人の読者である。

 同窓会などで旧友に会うと、「僕は君の考えを支持するよ」とわざわざ言っていくれる人がいる。好意で言ってくれるのだから、私は黙って笑顔で応じる。しかし私のどの本の何ページのいかなる言葉をどう支持するのかは勿論言わない。私の書いたものを漠然と支持するという意味である。私はこのとき政治家のように扱われているのである。

 私は「君の考えを支持するよ」とは言われたくない。「君のこの間の本は面白かったよ」とむしろ言ってもらいたい。『男子、一生の問題』のような本は「支持する」という調子で遇することはきわめて難しいに相違ない。さりとて「よく分ったよ」「理解できたよ」ということも恐らく簡単には言えないのではないだろうか。

 最初に私の目に触れる批評は、本を差し上げた知友からの返書の中の片言と、インターネットにあがってくる未知の方の短い反応である。いつもと違って、今度の本の反響は少し複雑であった。というより、読者の戸惑い、あるいは一瞬ショックを受けあわてて口走ったような文言が混じっていた。

 国語学者の萩野貞樹さんは、こんな言い方をなさっている。

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 御著『男子、一生の問題』拝受いたしました。二章拝読したところで家内に奪はれてしまつてゐますが、いろいろと刺戟・驚き一杯です。

 先生の多くの御論著は当然、「ある問題について語る」ものであるわけですが、この度のもののやうに、「語る自分について語る」といふものがここまで怖い本になるのかとあらためて驚きます。残りは恐る恐る読むことになりさうです。

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 私はウーンと唸って、萩野さんの心中を量りかねて、私の内心に複雑な波動が生じるのを抑えがたかった。読売新聞国際部の三好範英さん――最近『戦後のタブーを清算するドイツ』という好著を書いたー―は、葉書の走り書きの返礼に、「先生の激しい生き方は私にはとてもかなわない、などと感じつつ一気に読了いたしました」と書き添えてあった。

 あの本が私の知友の心の中にも小さな嵐を巻き起こしているらしい。大抵の本の読者は、本がなにかを「説明」していることを期待して読む。そして知的に了解すればそれで読書の目的は達成される。けれども『男子、一生の問題』はなにかを「説明」している本ではない。その程度のことで終わってはいない。それはたしかにそう言える。読者の心になにほどかの衝撃波が伝播しなければ、あの本を書いた意味はないともいえる。

 返礼の文章は礼儀正しく、型通りの挨拶が多い。衝撃はその中に大抵埋もれてしまっている。むしろインターネットの書きこみに、いわば心が心を受けとめた正直な反響があった。

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712 西尾先生の新刊を読んで 一読者 2004/06/21 22:36
男性 33歳

今夜地元の書店の店頭にて『男子、一生の問題』を購入し、今読んでいる途中です。
ここ五年くらい人生がうまく行かず半ば惰性で生きていました。前の職を辞めてから、不安定な職を転々としているのです。とはいえ自分の研究を同人誌に出すなどして自分らしさをいくらかでも主張しようとはしてきました。ただここ最近は土日もただ寝ているか食べているような状態で、自分を見失っていました。
しかし、今回の先生の新刊を少し読んでみて、何か奮い立つようなものを感じています。

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 前にも一度ご紹介だけはさせてもらったが、恐らく書きこみも初めての、まったくの未知のかたであろう。何に奮い立たれたかは、勿論分らないが、私の本を私の本にふさわしく正面から受けとめて下さった本当の読者である。読者とは何だろう、理解とは何だろうという私のあの疑問が少し解けかけてくる。

 そういう意味で、たびたび 山椒庵  に投稿されている「吉之助」さんが、短いのだが、言わく言いがたい思いを不図片言にお漏らしになった次の一文もなぜか私の心にひっかかっている。

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題:インターネットなるもの(3)   /氏名:吉之助 /日:2004/06/29(Tue) 19:30 No.1027

男子、一生の問題」はとにかく刺激的である。ある個所では勇気を与えてくれるし、別の個所では落ち込ませる。それがどこかは読み手によって違おう。そんなことをネット上で書いても仕方がない。いったい他人と共有できる思いなどにどれほどの価値があるのか。自分にとって最も重い経験は自分にしか分からない。

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 「勇気を与えてくれる」だけでなく「落ち込ませる」ところがある、という言い方は、多分そうだろうな、どこの個所がどう作用するかは分らないが、私にはあの本の著者としてなぜか納得いく表現だった。簡単に感想なんか言いたくない、と怒ったような調子で短く打ち切ったこのかたのもの言いに、むしろ私は著者としての虚栄心をくすぐられたことを正直告白しておこう。

 東中野修道さんは

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 昨日、御新著『男子、一生の問題』を頂き、後の方から前の方へと読み進んで、なるほど、そうだそうだと導かれながら、そしてウーンと唸りながら、最後には16頁のA氏に釘づけになりながら、ただ今拝読を終えました。

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と書いて下さった。後から前へ読んだというのにも吃驚したが、「16頁のA氏」は私の側に記憶がない。はてな、何の話だったかな、とあわてて自著のページをくった。

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 自分の型を破れないでいると、五年もすれば飽きられてしまうだろう。

 現に私の近くにも、そのタイプであるA氏という優秀な人がいるのだが、すでに雑誌の編集長にもそのことは見抜かれている。

 彼によれば、「A氏は、書いていることは安定していていいのだが、最初の何行かを読むと終わりの見当がついてしまう」と言うのだ。恐ろしい批評だ。本人はそんなことを言われているのに気づいてもいない。

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 わざわざ引用するほどのこともないが、最初の方にでてくる実例である。これは大雑誌の編集長が私にふと漏らした実話である。私も今まで恐らくこういうことをどれくらい言われてきたか、知らぬが仏で、自分は気がついていないが、恐ろしい世界を潜り抜けて来たものだとあらためて思う。

 年をとったので、どこかの編集長から、「あれはもうダメだな。本人は文章力が落ちたことに気づいてもいない」ときっと言われるときが近づいているのである。