「『昭和の戦争』について」 (一)

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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「『昭和の戦争』について」

福地 惇

注記 : この文章は、平成18年4月17日に防衛庁・統合幕僚学校・高級幹部課程における講義題目「歴史観・国家観」の講義案である。講義時間の関係上、掲げたい史料や叙述を割愛した部分も多い。近日中に、完成稿を雑誌等へ発表する予定であることをお断りしておきます。

 

はじめに 歪曲された歴史観・国家観

 本講義の目的は、第一に「昭和の戦争」は「東京裁判」の起訴状と判決に言うような侵略戦争では全くはなく、「自存自衛」のための止む終えない受身の戦争だったこと、第二にそれが了解出来れば、現憲法体制は論理的に廃絶しなくてはならない虚偽の体制であると断言できることを論ずることであります。「昭和の戦争」の本質を語ることで、現在の国家の指導者は勿論、国民大多数が持つ「歴史観・国家観」が、その国家・国民の命運を大きく左右する程に重要であることを主張したいと思います。

 凡そ六十年前、米国占領軍政府(連合国軍最高司令部=GHQ)は、「平和憲法」の異名をとる「日本国憲法」と「日本は侵略戦争の罪を犯した戦争犯罪国家」だと断案した歴史観を日本国民に押し付けた。GHQが起草した憲法なので、「GHQ占領憲法」と呼び、極東国際軍事裁判(通称「東京裁判」)が断案した歴史観だから「東京裁判史観」と呼ぶことにします。 

 さて、GHQが占領憲法を押し付けた理由は尤もらしい装いを凝らしていた。先ず、「昭和の戦争」を日本軍国主義の侵略戦争だと定義づけ、一握りの軍国主義者が世界制服・アジア支配の戦略を「共同謀議」して支那大陸で凶暴・残虐な侵略戦争を展開し、支那だけでなくアジア諸民族に対して甚大な人的・物的損害を与えた。また、日本国民一般も軍国主義者が推進した無謀な戦争の犠牲者であった。それゆえに、平和と自由と民主主義を愛する「正義の味方」アメリカ合衆国は、日本軍国主義者の被害者を救済するため立ち上がり、それを懲らしめて、日本国民を解放したのだと言い包めた。

 この「東京裁判史観」を前提に、新日本は前非を悔いて二度と再びこのような侵略戦争の過ちを犯さないよう、自由と民主主義を基軸とする平和国家へ生まれ変わるのであるとの理屈を組み立てた。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」(憲法第九条)との証文までおしつけて、皇室制度と政治を切り離して元首の存在を曖昧にし、陸海両軍は廃絶されたのだった。

 絶大な権力を有した占領軍政府は、間接統治を有効な隠れ蓑にし、言論や教育の統制を強行し、敗北主義の心理に陥った日本人迎合者を巧妙に使嗾して、彼らの国益に適う国家へと我が国を改造したのである。それを推進するための日本人洗脳の武器が「東京裁判史観」であり、その歴史観に支えられる国家体制が「GHQ占領憲法体制」なのである。

 だが、この仕打ちは、明らかに「ハーグ陸戦法規」違反である。この国際法は、戦勝国と雖も敗戦国の国家体制・法体系を恣意的に「改造」するのは許されない、としている(注・一九〇七年「陸戦の法規慣例に関する条約」第四三条《〔占領地ノ法律ノ尊重〕国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ》)。同時に、我が国が受諾した降伏条件=「ポツダム宣言」にも違背している。(例えば、条件付き降伏なのにGHQは〔無条件降伏である〕と言い募った)。

 従って、米国占領軍の行為は、厳しく非難さるべき所業であったが、敗戦後の歴代政府は批判すらせず、大人しくその占領政策を承認し、場合に依っては尊重して講和条約に至ったのみならず、その路線で今日に至っているのである。国民の多くは「平和憲法」は世界に誇るべき憲法だと思い込まされ、「東京裁判史観」でご先祖達が悪戦苦闘したあの「昭和の戦争」は悪辣な戦争だったのだよと子供の頃から教えられて、祖国への愛着を薄めて半世紀以上をのうのうと過ごして来たのである。

 だが、冷徹に往時を回顧すれば、「東京裁判史観」は歴史の事実を歪曲し偽装した虚偽の歴史像なのである。そこで本論に入る前に、「昭和の戦争」を正しく見るための視点を提示しよう。次の四つの次元の相互関係に鋭く目配りしなくては、「昭和に戦争」の真実は見えて来ないのである。

 ①我らの祖国日本は、生真面目に国際法を遵守しようと努力したが、我が国を取り巻く国際政治は以下の事情の為に一向にそれを評価しなかった。

 ②支那大陸の混迷する大内戦状況が、ソ連や米国の介入を容易にさせたため、大陸の軍事・政治状況は極端に混乱し、我が国の大陸政策展開を困難にして翻弄した。

 ③ソ連=コミンテルンのアジア攪乱戦略=日本帝国主義攪乱戦略の目的は、日本と支那の軍事衝突を長引かせるところに有った。それ故に支那の内戦状況の激化に伴い、否応なしに日本軍は大陸の泥沼に引きずり込まれていった。
 
 ④米国の支那尊重・日本排撃方針は、支那情勢への間違った理解、あるいは共産革命幻想に発しており、日米関係を殊更に悪化させた。そのことは、ソ連=コミンテルンの「資本主義同士を噛み合わせる戦略」を効果的ならしめる大きな要因になった。

第一章 「昭和の戦争」前史

第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴)

 周知のように、満洲事変から支那事変、大東亜戦争へと、「昭和の戦争」は日本の国策として首尾一貫したアジア・太平洋方面への侵略戦争だったとする知識が日本のみならず世界の常識になっている。第二次世界大戦は平和と民主主義を愛する正義の諸国=『連合国』と世界征服を目指す邪悪な全体主義『枢軸国』との激突であった、と『連合国』側はあの戦争の性格を概念規定した。

 だが、これは連合国側、特に米国とソ連とが、歴史の事実を歪曲して独善的に自己に有利な物語に仕立て上げた、いわば偽装された戦争物語に過ぎない。取り敢えず分りやすい反証を三つ挙げよう。

 第一に白人欧米列国は三、四百年もかけて本国を遠く離れた地球の裏側まで、侵略戦争を果敢に展開する植民地支配連合を形成していた。

 第二に、大日本帝国は、侵略戦争で獲得した植民地を持っていなかった。台湾は日清戦争の勝利によって獲得した領土であり、朝鮮半島は朝鮮王朝との外交交渉による条約で我国の領土に併合したのであり、満洲国は「五族協和」の理想を掲げて建国された独立国家だったのである。英国から独立した米国が英国の傀儡国家だと騒いでいる者を私は知らない。米墨戦争(一八四六―四八)でアメリカ合衆国がメキシコから割譲したテキサス州・カリフォルニア州・ニューメキシコ州を植民地支配だと騒いでいる者がいるのを知らない。台湾はカリフォルニア州となんら変ることのない戦争による領有関係の変更であった。

 日韓併合は、米国のハワイ併合より穏やかな併合だった。チェコとスロバキアが合併してチェコスロバキア(既に解体した国家となったが)に、西ドイツと東ドイツが合併してドイツとなったのと何の変哲も無い。満洲国は日本が支援して建国された独立主権国家である。ソ連は満洲建国より八年も以前に、完全な傀儡国家であるモンゴル人民共和国を作っていた。米国のフィリピン独立支援よりも穏当な形の独立支援だった。また、現在の隣国共産支那は、チベットや新疆ウイグル、満洲や内蒙古を軍事力で国土に編入しているし、尖閣列島をじわじわと自国領土に取り込もうとしているし、台湾を武力で領有しようと身構えている。共産支那は明らかに現役パリパリの侵略国家である。だが、戦前の大日本帝国が侵略国家だったと未だに騒ぎ立てる手合いは多いが、共産支那は侵略国家で怪しからんと騒ぐものは徐々に増えてはいるが未だに少数派であるのが現実である。

 第三に、日本帝国は、ナチス・ドイツやファシズム・イタリアと同一の全体主義の独裁体制の国ではなく、明白な立憲君主議会制国家だった。確かに、日独伊三国同盟を締結していた。大東亜戦争期に日本人の一部に「ファショ的雰囲気」は存在したたし、大戦争に遭遇したのだから当然「戦時体制」は敷かれた。しかし、明治憲法は大東亜戦争の敗北まで健在だったのである。軍国主義者の代表とされた東條英機は憲法に従って内閣首班・陸軍大臣を勤めて戦争を指導した。他方、『連合国』側には、超独裁主義者スターリンのソ連、典型的軍閥独裁者=蒋介石の中華民国が名を列ねている。ソ連には憲法は有ったがそれは空文に等しかった。蒋介石の中華民国はマトモナ憲法を持たず、公職に関する選挙制度も無かった。それ故、『連合国』の盟主米国に対して、お前の仲間は典型的独裁者だったのだから、お前も野蛮な「独裁体制の国」だったのだぞ、と言ってみよう。そう言われたアメリカ人が、顔色を変えて激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。

 何れにせよ、問題の核心は、「昭和の戦争」が、東京裁判が断案した通りの「侵略戦争」ではなかった点が証明出来ればよいのである。では、「昭和の戦争」の真相は何だったのか。それを述べる前に、あの大戦争の性格をより良く理解する為に、先ずそこに至る前段階=前史を概観することから始めよう。

つづく

種子島・八木両氏の「捨て台詞」を追撃する    

 福地惇氏による「補論 松浦氏の「辞表」を斬る」を末尾に追加しました。(5月18日) 

 福地惇氏は高知大学名誉教授、元・文部省主任教科書調査官(歴史部門)で、現在は大正大学文学部教授、新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長である。

 福地氏といえば誰しも思い浮べるよく知られた事件がある。平成10年(2002年)12月に江沢民が来日したとき、共同通信が時機をうかがい、用意していたかのごときタイミングで、一人の教科書調査官が許されない発言をしているのを発見した、と騒ぎ立てた。雑誌『黙』の同年8、9月号の座談会「どういう日本を創ろうとしたのか 西郷隆盛と勝海舟」における福地氏の発言を温存して、にわかにこのとき問題として取り上げたのである。

 その発言の内容は近隣諸国条項が教科書を悪くしているということ、学習指導要領の内容はいまひとつ不十分であること、といった程度で、まことに穏便、常識の範囲内の控えめな批評のことばであったが、教科書調査官がこのような発言を果して口にしてよいのか、という文句のつけ方で共同通信社が火種子を提供した。江沢民来日の直前で文部省は神経質になっていた。天下の愚者、文部大臣有馬朗人――私の知る歴代文相の中でもおよそ考えられる最悪の世論へのゴマすり男、理科系に意外に多い世俗的出世主義者――が福地発言にわけもわからず半狂乱となり、江沢民に媚態を示さんがため福地氏をスケープゴートにし立てあげ、氏を閑職に配置換えとした。

 福地氏は節を枉げない首尾一貫性をこのときも、そして「つくる会」理事になった今も示しつづけている。専攻は明治政治史で、とりわけ明治維新の成立から藩閥政権の確立過程の研究が主テーマである。「つくる会」理事には古代史に高森氏、西洋史に九里氏がいるが、福地氏は唯一の日本近現代史の専門家である。

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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種子島・八木両氏の「捨て台詞」を追撃する      平成18年5月5日       

                           福 地  惇

A 実に残念な最後の不信行為

 去る4月30日に開催された「新しい歴史教科書をつくる会」第89回理事会は、またまた執行部交代という異常な事態で終幕した。異常の上塗りに、責任者が留守中の事務局から「第172号・つくる会FAX通信」が全国に発信された。「会長・副会長辞任のお知らせ」(種子島経)、「退会の辞」(八木秀次)である。

 それは、種子島執行部および四理事の辞表が受理され、彼ら六人が会場を退席した直後に発信された。次なる議題、新執行部選出問題が協議されていた時であり、正に執行部空白の時間帯に発信されたのである。新執行部が、彼らの文書を理事会の決定事項を踏まえて流すのが筋である。彼らは手続きの筋を乱して「捨て台詞」を投げつけて退会した。

  「つくる会」の品格を貶めるこの実に残念な前会長・副会長の最後の仕打ちは、明らかな反社会的行為である。そればかりではなく、その文書の内容は、その不信行為に倍する卑劣な責任転嫁の自己弁護である。その余りも信義を蔑ろにした恥ずべき詭弁で人々を惑わそうとする歪んだ心根に対して、厳しい批判を試みざるを得ないのである。

B 種子島経「会長・副会長辞任のお知らせ」の論点

 FAX通信を勝手に利用して流された「お知らせ」の論点を摘記する。

① 2月理事会では、全理事が会長を支持する。副会長人選は会長に一任する、の二点が確認された。

② 3月理事会では、八木氏が副会長になり、「理事間の内紛は一切やめる」「今後は将来についての議論のみ行い、過去に遡っての糾弾など行わない」等が決議された。

③ 「ところが、この3月28日から10日も経たない内に、一部の理事が、会の活動とは関係ないことをことさら問題にして、八木氏を査問にかけ、会から追放すべき旨の提言を執拗に行なって参りました」。

④ 「これは私の選んだ副会長を信任せず、またぞろ内紛を起そう、というもので、以上のいきさつからしても到底承服できないところであり、私は峻拒いたしました」、「かようなルール違反、統制違反は、以前から『会』に見られ、昨年9月以来の混乱の一因をなしており、………これら理事を解任して私なりの統治を貫くことも考えました」。

⑤ しかし、体調等の理由から「私なりの責任がとれないのなら、と私は辞任を決意し、八木副会長に伝えました。彼は、在任中、とりわけ昨年9月以来、このような問題に悩まされ続けて来ただけに、『もう精神的に限界です。私も辞めます』と表明、揃って辞任となったわけであります」。

⑥ 「『つくる会』の理事諸侯(ママ)の一部に関してはマネージ不能であったことを遺憾とします。彼等は、ルールを守る、ボスの方針に従うなどの国際基準を全く無視しますので、マネージできないし、彼等との仕事は、賽の河原で石を積む子供たちのような空しさの繰り返しにしかならない」。

 以上が種子島経氏の辞任の弁の論点である。

C 八木秀次「退会の辞」の論点

① 「会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」。

② 反論・弁明しようとしたが、徒労に終わることを見越して諦めの境地に達した。

③ 「本会は発足以来定期的に内紛を繰り返して参りましたが、『相手代わって主代わらず』と言う諺があるように、今回は私などがたまたま『相手』とされたに過ぎません。『主』が代わらない限り本会の正常化は無理であり、また発展も未来もないものと判断し、やむなく退会を決断した」。

④ 「とき至り、再び私が必要とされるようになった暁には、日本の子供たちに輝く虹を見せるための活動の一端を担う所存です」。

 以上が八木秀次氏の退会の弁の論点である。

D 「つくる会騒動」の原因と経過の概要

 さて、今回の「つくる会騒動」は、昨年の採択戦終了後に幹部理事間に事務局長の交代問題が提起され、昨年9月17日に宮崎正治氏に対し辞任要求が出された時点を出発点にしている。騒動の原因は、思想や基本的運動方針に関わる問題ではなかったのである。

 宮崎氏に事務局長から降りてもらう問題で最初、八木会長(当時)は、西尾幹二名誉会長、藤岡信勝副会長、種子島理事(財務担当)、それに在京理事の多くと同意見だったのである。その事務局長処遇問題を「騒動」にしてしまった原因は、私見によれば五つある。

(1)宮崎氏が執行部の退任要請を最初は受け容れる姿勢を示したにも拘わらず、次第に残留への強硬な姿勢を取るようになった。(2)事務局長処遇問題と絡み合って「コンピューター問題」なるものが湧き上がって事態をより複雑にした。(3)態度を硬化させてゆく宮崎氏に対する執行部(会長、副会長五名で構成、会長の要請に応じた名誉会長が加わることもあった)の姿勢が乱れた。(4)何と言っても、会運営の最高責任者である会長八木秀次氏の無責任な態度変更が混乱を深めた。(5)八木氏は、今回の混乱に関して自分は悪くない、悪いのは自分を会長として自由に行動させない或る人々であると言うような意味での変節を遂げて突っ走った。

 これら五つの要因が複雑に絡み合って、事態を混迷させた、と言うのが私の見解である。そして、(4)(5)が最も重大な原因だが、この間に八木会長はどのように「つくる会」を運営したのだろうか。

 先ず、11月18日に臨時理事会が開かれ、宮崎事務局長処遇問題は紛糾し継続審議事項になった。12月1日に予定された理事会は理由説明なしに無期延期となった。そして、12月15日付の「(八木)会長声明」の「率直に言えば私の意志とは別にことが始まり」云々は、実に異様であった。八木会長自身は、宮崎問題、コンピューター問題に直接関係していないと表明したのである。かくして、宮崎問題は、解決の目途すら付かず愈々混迷を深めて、12月1日に予定されていた理事会すら開催できなかった。一般の理事に何故理事会が開けないのか事情説明も一切なかったのである。

 このような時期に「私は何も悪いことをしていなので事務局長を辞めない」という趣旨の所謂「宮崎弁明書」が全理事に郵送された。次いで「事務局長人事をめぐる執行部対応への抗議及び経緯説明等の善処を求める声明」(12月12日付、内田智、勝岡寛次、新田均、松浦光修4理連名)が出た。これは「弁明書」と平仄を合わせた宮崎擁護論だった。この四理事はこの後に一貫して宮崎擁護で強力な論陣を張り、ある種の運動を展開したので、「四人組」との渾名が付いた。八木、宮崎両氏が「四人組」と連携を深めるのは、次に述べる「支那漫遊事件」前後のように私には見えた。

 さて、理事の多くが、前途に大きな不安感を深めていた正にその時に、支那漫遊である。16日から19日までの4日間、八木会長は事務局員らを同道して支那漫遊と洒落込んだ。これは以前から計画されていたそうだが、会の混乱正常化に全力投球すべきその時期に事務職員とともに支那漫遊を試みるとは見上げた度胸である。しかも、漫遊者の中に渦中の人宮崎事務局長がいたのだから、これは大した蛮勇だと言う外はない。

 ところで、彼らは「反日施設見学」を目的にしたプライベートな外遊だと言っている。しかし、雑誌『正論』18年3、4月号に「つくる会会長、中国『反日の本丸』に乗り込む」と題して、中国社会科学院所長らと「つくる会の歴史教科書」を巡り議論したことが判明した。意見交換会があるとは執行部の誰にも知らされず、従って下相談もなく漫遊したと聞く。これは「飛んで火に入る夏の虫」に近い軽率で危険な外遊だったと非難されても致し方ない、と私は思う。

 漏れ聞くところによると、12月25日には西尾名誉会長も参加して執行部懇談会が開かれ、責任回避の「会長声明」とコンピューター問題に関する執行部見解等を巡って激しい意見の応酬があったようである。会終了後、福田逸副会長が外遊に出る前に宮崎同道のことを何故打ち明けてくれなかったのかと問うと、八木氏は、言い難くかったと答えたという。福田氏は、これは副会長に対する不信任を意味すると痛感したと述懐している。

 年が明けて二ヶ月ぶりに開催された1月16日理事会でも宮崎事務局長処遇問題はまたもや決着の目途すらつかず、激論の末に閉会になった。八木会長の無定見な会運営姿勢が、西尾幹二氏の名誉会長の称号返上表明(17日)の原因になったのだ。同日、遠藤浩一、福田逸、工藤美代子の三副会長は辞表を提出した。藤岡副会長は一旦辞意を固めたが、関係者の説得もあり、会務のこれ以上の混乱を恐れて、副会長に留まった。

 西尾氏の称号返上表明に対する慰留なしの八木氏の迅速で余りにも素気ない対応は、非人情・非常識と言うべき態度であった。その頃から「創業者の障害」なる発言が出ていた。同時に、三副会長に対する不誠実で無責任な対応も異様であった。副会長の辞表提出は誰が見ても八木会長不信任の意思表明である。だが、これを何事でもないかのように、正に三人の副会長を小馬鹿にしたような冷淡な八木氏の態度は並大抵のものではなかった。

 このような責任感の欠如と指導力不足に対する強い批判が理事会内部に沸き上がったのは当然の流れであった。西尾氏が藤岡氏に会長になって頑張れとの意味を含んだ激励のEメールを発したのは2月3日である。後で説明するが二ヵ月後の3月理事会後に「西尾・藤岡往復私信」が八木・藤岡宥和工作や西尾氏への脅迫文書として活用されるのである。

 2月27日理事会で、これまでの混乱の責任を取らされる形で、八木会長と藤岡副会長は同時に解任された。そして新会長に種子島経氏が選出されたのである。この時、宮崎事務局長も解任されたが、任期最後の日の置き土産として、28日夕刻、理事会決定事項を「つくる会FAX通信」として発信したのであった。種子島新会長への挑戦であったと見てよいだろう。だが、種子島氏は宮崎氏に普通の退職手続きを取らせて穏便に対処した。

 3月1日の産経新聞は、八木解任劇を報じて、「西尾院政か」「中国訪問を理由に解任」という何か為にする書き振りで、新会長種子島氏に対する陰湿な貶め記事を掲載した。この記事は、産経新聞「つくる会担当記者」渡辺浩氏の執筆であった。同記者は、「八木―宮崎」派と昵懇の仲であることは後に判明するのである。

E 種子島経会長の登場と言動の大変化

 種子島経氏は、八木氏の指導力不足や責任感欠如から生じた会運営の渋滞や混乱を憂慮した理事たちに推されて会長に就任した。不信行為を重ねて来た「八木―宮崎」派を懲らしめるために就任した。種子島氏は、「つくる会」と言う貴重な存在を解体させてはならない、これまでに蓄積されてしまった「負の要因」を除去して、再建しなくてはならない、との決意で会務に取り組まれた。これは、誰もが支持するところであった。

 だが、種子島氏の会務への基本的な取組姿勢には、同氏を支持した多くの理事たちを納得させないのみか、疑義を醸し出すものが多くなった。3月半ば頃からである。種子島氏の言動は、急速に八木氏擁護に傾き、八木氏は(イ)人気が高い、(ロ)「フジ産経グループ」の強い支持を得ている、との判断から、会建て直しの方向性を大きく変更しはじめたのである。私の見解では、(イ)も(ロ)も八木氏及び彼の支持者が誇大宣伝を重ねて作り出した幻想に過ぎない。会長はこの幻想に幻惑されたのだろうか、最初の施政方針と3月半ば以降の会務運営姿勢とには大きな懸隔が生じたように見えるのである。 

 3月1日に藤岡理事とともに「会長補佐」に任命された私は、3月28日理事会まで、会の建て直しへ向けて微力を尽くした積りである。例えば、重点地域の支持者に「会長・副会長解任」事情を説明して廻り、特に3月11、12両日、東京三田で開催された評議会・支部長会合同会議等でこの度の問題点を説明し、様々な提言を承る等がそれである。しかるに、会長を支えて会の態勢建て直し工作を展開中、八木・宮崎氏らと「四人組」が提携して会の主導権掌握を目指したと思われる陰険な謀略工作が続発したのである。

 これは私の推測だが、藤岡会長補佐の身辺に関わる疑惑情報散布(3月初旬)も、「あなたと健康社(3月9日付)」「株式会社フローラ(3月11日付)」の寄付金返還要求も、特定の地方支部から本部への「八木復帰コール」「二月理事会以前への原状復帰要望」等々のFAX攻勢も、彼らの策謀あるいは教唆によるものであろう。また、我々が、東京、大阪、福岡と地方有力支持者への事情説明に出向いている時期に、「石井公一郎氏が八木を支持して第二つくる会を立ち上げる決意をした」と言うガセネタ情報を流れた。また、伊藤隆理事が藤岡氏非難を書き込んだ「辞表」(3月9日付)を提出した。八木氏らが伊藤理事に懇請して辞表を書いてもらったのだという情報も流れた。真偽のほどは不明だが、辞表提出の時期が理事会ではなく、この時点であることから、まんざらの噂話ではなさそうだ。 

 要するに、これらは何れも、11、12両日の評議会・全国支部長合同会議を標的にした会の正常化を念願する諸理事(八木たちの反対派)に対する攪乱・分断工作である。2月理事会終了直後から始まったこれら陰湿な蠢動は、種子島会長の運営方針に反逆する行為であると理解するのが普通であろう。正常化を念願する諸理事は、種子島さんを支援した理事であることをお忘れになられては困るのである。

F 3月28日理事会とその直後の異変

 種子島氏が「辞任のお知らせ」で「マネージ不能」「国際基準を全く無視」する「一部理事」とは小生のことであろう。誠に心外の極みである。

 種子島氏辞任の弁の②「理事間の内紛は一切やめる」「今後は将来についての議論のみ行い、過去に遡っての糾弾など行わない」等は、異常事態が全く発生しないという前提条件の下で初めて成り立つ。だが、実状は先に述べたように、言ってしまえば水面下における打ち続く謀略工作によって理事会構成員全体が不気味に揺り動かさせられていたのだから、事態は最悪の方向に動いていた。しかもそれら状況悪化の運動は種子島氏が信頼して任命したと言う副会長ら連累によって起されていたのだから、何をか言わんやである。

 また、八木氏の「退会の辞」の①「7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」は、余りにも見え透いた詭弁であり、遁辞である。「一部の理事が会の外部と連動し」とか「根拠もなく憶測を重ね」とは、一体何を指すのか。不信行為を重ねていたのは自分たちではないか。その厚顔無恥な不誠実さには呆れて言葉も出ない。しかも、ここで又もや「私の与り知らない問題」が出て来た。ただ仰天するのみである。もう少し理解しやすいように話しを進めよう。

 3月初旬から始まった「警察公安情報」をチラつかせた藤岡氏への陰湿な人身攻撃がある。これは3月理事会を目前にした20日頃からさらに数箇所にばら撒かれた。これが理事会の議題にされれば、理事会分解の最悪事態も予想された。そこで、私は会長に進言して、噂の張本人である藤岡理事に直接ことの真相を糺した。そこで、これが理事会攪乱のための謀略文書であるとの感触を得たのである。3月25日、理事会の3日前であった。

 3月28日理事会で八木氏は反省と謝罪を述べた。藤岡氏も述べた。付言すれば、八木氏に「反省と謝罪の弁無く、本理事会成立は在り得ない、副会長復帰も有り得ない」と申し伝えたのは小生である。確かに、八木氏は「反省と謝罪の弁」を理事会冒頭に述べた。藤岡氏も述べた。それは、昨年9月から半年以上に亙り打ち続いた一連の理事会の混乱に終止符を打つための儀式でもあったが、本心から反省してもらいたかったのである。そして、正に種子島会長の運営方針「理事会一丸の取組」を確認し、担当理事制、隔週の執行部=担当理事合同会議を重ねながら会の正常化を目指そうと言う趣旨の具体案で合意した。

 ところが驚くなかれ、理事会終了直後に理事会に対する裏切り行為が飛び出したのである。「八木批判派」を攪乱し分断するためだと考える外にない偏向情報を理事会内の何者かが産経新聞渡辺記者に素早く提供したのである。この理事会決議事項を歪曲・脚色した産経新聞記者の背後に八木=宮崎が存在すると思われる。理事会で合意された「一丸の取組」精神は、一夜も経たずに踏み躙られた。3月29日の産経偏向記事=渡辺記者曲筆事件は、「つくる会FAX通信174号」を参照されたい。

 まだまだ疑惑話はあるが、以上に依って八木前副会長および連累が「つくる会」を混乱させる陰険な背信・不信行為をし続けていた事実の概略を示せたと思う。彼らの行為は、3月理事会で確認した「内紛を打ち止めにし」「理事会一丸の取り組み」という確認事項に真っ向から違背・背反する。これらの行為は、会則第20条の懲罰に該当するのである。

 なお、西尾幹二元会長は、自らが生み育てた「つくる会」の内紛を痛く憂慮し、事態の不明朗さを怒り、有名な「インターネット日録」で様々な形での真相究明の言論戦を展開された。それは、臭いものには蓋の事なかれ主義への警鐘乱打であり、不可解で不明朗な今回の騒動の内実を白日の下に曝け出す上に大きな威力を発揮したと高く評価したい。

G どちらの言い分が真面(マトモ)であるか                      

 さて、種子島氏は辞任の弁②で、「3月28日から10日も経たない内に、一部の理事が、会の活動とは関係ないことをことさら問題にして、八木氏を査問にかけ、会から追放すべき旨の提言を執拗に行なって参りました」。そして④では、「これは私の選んだ副会長を信任せず、またぞろ内紛を起そう、というもので、以上のいきさつからしても到底承服できないところであり、私は峻拒いたしました」、「かようなルール違反、統制違反は、以前から『会』に見られ、昨年9月以来の混乱の一因をなしており、………これら理事を解任して私なりの統治を貫くことも考えました」とイケ図々しくも自己弁護・責任転嫁の詭弁を弄した。何とも醜怪至極である。

 「10日も立たない内」どころか一晩も経たない内であった。「一部の理事が会の活動とは関係ない問題」ではなく、理事の一部の謀略工作で内紛は深刻化したのだ。不明朗な実態の真相を明らかにすることは会長の責務であると進言したのは私である。だが、「会から追放すべし」などは一言も発したことはない(参考資料)。何と頓珍漢な現状認識振りであることか。しかも、言うに事欠くと言おうか、「またぞろ内紛を起そう」した怪しからん輩は、「国際基準」とやらを無視する福地や藤岡であると言う。私たちが何時、どのようにして内紛を起そうとしたか、証拠を示して欲しい。3月半ば以降、種子島氏はその陰謀団の一味に加担したわけだから、当然の言い掛かりなのかとも思うが、悪意抜きに勘繰れば、これほど苦しい理不尽な責任転嫁の言い掛かりを我々にぶつけざるを得ない事情でも抱えているのだろうかと思いたくもなる。実に悪質な誹謗中傷だと言う外ないのである。

 ところで、縦令、百歩譲って種子島氏の理屈を聞くとしても、これは世間を納得させるものではあるまい。会社を一丸にして纏めようとするある会社の社長が、人気者で信頼できると思った部下を副社長に任命した。ところがその副社長は実は以前から自分を批判する勢力を撲滅せんとの謀略行為を重ねていて、副社長に任命されたその晩に一層不埒な反対派分断策謀を実行して、社長の全社一丸の願を踏み躙った。それを察知した新副社長批判派の重役が社長に社の命運に関わる重大事態だから真相を正せと進言した。それに対して、社長は、自分の人物鑑識眼のなさ、情勢認識の不明を棚上げにして、諫言した重役に対し、お前は俺の選んだ副社長を悪者に仕立てて、会社を潰そうとするのかと怒って解任しようとまで思い込んだ。広い世の中だから、臭いモノには蓋をして世間を欺く、そんな社長が結構あちこちにおり、そんな会社が一時は繁栄しているかも知れない。

 だが、是は是、非は非であり、子供の教育に関わる本会は単なる営利追求の企業体の論理と同じで良い筈はない。企業体でも、種子島マネージメント論が通用するか否かは、誰が考えても分明だ。臭いものには蓋の会社は早晩潰れる。またそうでなくてはなるまい。

 八木氏の言い分は、論点①「会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の与り知らない問題で、根拠もなく憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及した」と言っている。理由も無く何も悪い事をしていない自分を虐めようとする悪者がいた。自分は丸で一方的な被害者だと言わんばかりの台詞である。だが、八木氏が普通に真面目に会務に携わっていれば、7月に会長に復帰できた可能性は高かったのである。彼あるいはその一派が、理事会合意の精神を踏み躙る謀略的行動に出ていなかったならば、我々は彼らを非難し攻撃しようなどとはツユ思わなかっただろうし、従って「八木派排撃行動」には先ず出なかったであろうからである。

 ところが、全て尻が割れた話となった。西尾幹二氏の「日録」やFAX通信が挙証したように、一連の「怪情報」は八木およびその近縁から発せられた。これを産経新聞渡辺記者が証言した。西尾氏―藤岡氏を離間し、藤岡氏を八木に屈服させる手段として活用した「西尾―藤岡往復私信」を「脅迫文書」として匿名で発信したのは八木である。そのことは、理事会の席上で事務局の鈴木尚之氏が特に発言を求めて厳しく指弾した。本来ならば「つくる会会則第20条」の除名処分に相当するが深追いは止した。八木氏らは一言の弁明もできずにそそくさと六名揃って辞表を出して退席したのである。

 「つくる会」の運動目標は、世界の歴史を広く公平に理解し、以て日本歴史の一貫性とその豊かさ美しさを子供達に伝えることにある。この国を自然な形で肩肘張らずにこよなく敬愛できる国民に育ててゆく、という高貴な目標を持つ教育正常化運動である、と私は思っている。多くの国民もまたそのような思いで本会に大きな期待を懸けてくれている。 

 その会の会長、副会長や理事が、犯罪者紛いの粉飾経営、偽装経営をしていては、誠に世間に申訳が立たない。八木氏は、シャーシャーとして論点④に「とき至り、再び私が必要とされるようになった暁には、日本の子供たちに輝く虹を見せるための活動の一端を担う所存です」と明言している。陰謀工作や詭弁の数々、そして無定見と無責任等々、自分が犯した罪や不明な至らなさを未だに自覚できないのであろうか。恥を知れ、恥をと言いたい。教育界の指導者たるもの、先ず己の精神・姿勢を正さずして、どうして子供を正しい道に導くことができようか。猛省を促したい。

 私見であるが、子供たちに「輝く虹を見せる」とか「夢を与える」とか言う、通俗的な言い草は止めようではないか。「義を見てせざるは勇無きなり」である。子供たちに、国民として社会人として何処に立っても何時でも、信義を守って正しく美しく振舞うための勇気を与えようではないか。そのためには、祖国の歴史、先祖の遺業に誇りを持ち、何が義であり正であり信であり美であるかを学ばせることが大切である。それを土台にして勇気を持って社会に飛び出せる子供たちを育てることである。歴史や公民の教科書が重要な所以はそこにあると思うのである。

 こんなに醜い争い事は、本当に二度と再び繰り返したくないが、現実はそう簡単ではなさそうだ。皆々、戒心すべしである。                (了)  

 

「種子島・八木両氏の『捨て台詞』を追撃する」(続編)

補論 松浦氏の「辞表」を斬る     福 地  惇

A 世間を瞞着する「辞表」
 4月30日の「つくる会第89回理事会」で昨年9月以来続いていた騒動に一応のケリが付いた。種子島会長、八木副会長、以下四名の理事が一斉に辞職したからである。種子島・八木両氏は、「つくる会FAX通信」を私用して理事会開催中に全国に「辞表」を配信した。このこと自体が会の統制違反である。その上に、この文章は世人を瞞着しようとする悪質なものだった。

 ところで、私が思うには、連袂辞職した六人の理事は、これまで数ヶ月に亙り、ある種の謀略工作を重ねて、その証拠が段々と明らかになって来たので、怖くなって一斉に会を逃げ去ったのだ。そこで、必死になって責任転嫁の詭弁を弄して、世間を更に欺こう、瞞着しようともがいているのだ。「盗人にも三分の理あり」である。彼らの理屈は、今回「つくる会騒動」の本質をはぐらかしている。

B 八木氏に託された松浦氏の「辞表」(4月30日付)
 さて、「四人組」の一人である前理事松浦光修氏は、4月理事会を欠席したが、八木氏に「辞表」を託した。彼等は辞職する覚悟でこの理事会に臨んだ訳である。

 さて、その「辞表」は、彼らの独善性の体質、世人を瞞着することを恥じない体質を端無くも曝け出した文章である。

 世間に公表を憚られる程の恥知らずな文章なのだが、彼の同志の新田氏は「私たちが辞任しなければならなかった理由を極めて的確に表現した名文だと思う」と持ち上げて自分のブログに全文を掲載した。彼らが自信を持って、「これぞ我等が辞職理由」だと公表した訳であるから、私は今や何の憚るところもなく「松浦辞表文」の論点を掲げて、逐次厳しく批判したいと思う。

C 松浦氏の「辞表」の論点
D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性(交互に表示)

C 松浦氏の「辞表」の論点
① 「つくる会」の理念は正しいが、「理事会の実態は会の理念とは隔絶」している。その原因は「『創業者』が会を私物化し、合理的な根拠もないまま、私情にまかせ、無慈悲にも汚名を着せ、次々と事務局長を追放し、それに多数の理事が無批判に追随するという、全体主義的で陰湿、かつ冷酷な慣行を継続させてきた」ことだ。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ①は、彼が地方から見たというよりも、彼の東京あるいは近傍の同志から執拗に聞かされたことを鵜呑みに理解しているかのようである。典型的な「事実認識の偏頗性」が認められる。
もし、宮崎事務局長問題に関しては、宮崎氏が執行部諸氏の信義に反する「のらくらした態度」に問題があったのであり、当時の名誉会長や八木会長以下4副会長がそれに振り回されたのが事実だ。「多数の理事が無批判に追随」したというのも偏向情報を頭から信じ込んで、自分の論理に都合よい部分だけを拝借して作文されたと読める。

 この論点①の結論は「つくる会」の現状は全体主義の「北朝鮮=金王朝」の紛いの無慈悲な「私情」が罷り通る「冷酷・陰湿」な体制である、と最大限の悪罵を吐いている。仰天せざるを得ない。少し考えても見よ。この会は言うまでもなく営利追求団体ではなく、支持者会員の浄財によって運営される文化団体である。ここに集う理事たちは、どなたも各界で活躍中の多忙な方々、しかも、皆一家言を持つ自由主義者である。それが、奉仕活動として多大の時間と労力を会務に提供し、つくる会の大義を世間に押し広めようと努力されている無私の境地の方々である。どのような独裁者がいて、この会を「私情」にまかせて「全体主義的」に運営していると言うのか。やろうとしても出来るはずもないことである。だから、松浦氏の罵倒は、理事諸氏に対する大変重大な侮辱である。馬鹿も休み休みに言え。

C 松浦氏の「辞表」の論点
② 「総じて理事会は地方の実状を何も知らず、余暇をもてあまし、誇大妄想、被害妄想気味のエキセントリックな一部老人たちによる精神的支配が続いているのが実態」「悲しいほど大義のない欺瞞に満ちたもの」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ②は、「大義のない欺瞞」といとも簡単に非難している。「辞表」だから簡潔に表現したと反論するだろうが、それでは改めてキチンと具体的事実を示すことができるのか。①と甲乙付け難い甚だしく無様な思い込みによる卑怯な文章だ。思い込みと独断による悪罵の吐き散らしは、この辞表文全体の特色である。新田氏は「名文」だと誉めそやすが、迚も褒めることはできない悪文である。

C 松浦氏の「辞表」の論点
③ 「同憂の理事たちと、本会を日本人らしい道義ある会に再生すべく、この半年………微力を尽くして参りました。幸い現副会長の八木秀次氏や現会長の種子島経氏は、日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識をお持ちの方々であると感じられましたので、つい最近まで、まだ私は、その点に会の再生への一縷の希望をたくしていた」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ③は、種子島前会長は、八木会長時代には、宮崎処遇問題でも八木会長の会運営姿勢に関しても、批判的な理事諸氏の中でも最も強烈な批判を続けた理事だった。そして、八木氏の会運営能力の欠如を批判した理事達に推されて会長に就任した。その事実関係を松浦氏はご存知なのだろうか、甚だ疑問である。

 会長になって、支援する理事に押されて宮崎事務局長解任は達成した。しかし、その直後から、「人事は一任されている」「八木氏の人気とフジ産経グループの八木支持は堅い」を最大の理由として、彼を支持した理事達を尻目に八木氏復権に全力投入するに至った御仁である。種子島氏に復権の圧力や、そのための情報操作の謀略を駆使していたのは、八木氏や新田氏、あるいはそれに追随した松浦氏ではなかったのか。貴方達がどの面下げて、「日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識をお持ちの方々」だと自画自賛しうるのか理解に苦しむ次第である。

C 松浦氏の「辞表」の論点
④ 「しかし、去る4月13日、たぶん西尾幹二氏に使嗾されてのことと思われますが、藤岡信勝氏と両氏に追随する福地惇氏が、せっかく会の再生に乗り出した八木秀次氏と種子島経氏を呼び出し、脅迫的な態度で辞任を迫ると言う、まるで背後から切り付けるかのような信じがたい行動に、またも出ました」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ④ 折角「再生に乗り出したのは」、3月11、12両日開催の評議員・支部長の合同会議の結果を受けて、さまざまな積極的提言を容れた3月27日理事会の決定事項である。松浦氏は「再生」の為の大事な何れの会合にも欠席していた筈だ。また、八木氏は合同会議に欠席している。

 八木氏は何時どの様にして「再生に乗り出した」のか具体的事例を示してほしい。ただ一人勝手に種子島氏が「人気者」の八木会長復帰に躍起になったのであり、八木氏はその裏で反対派切り崩しの「謀略工作」に勤しんでいたのである。

 3月28日理事会終了直後から、産経新聞の「偏向記事事件」が始まっていた。この事件に深く関与していたのは八木・新田・宮崎そして産経新聞記者の渡辺浩であることは、張本人の一人渡辺記者が関係者数人に自白したことで既に満天下に明らかになっている。 

 「再生」どころか、「会の混乱」を倍加させることにしか役立たない不埒な事件に直接関与していた人々を松浦氏は「日本人らしい善良な純粋な社会常識を持つ」人々だと言う。悪い冗談にもならないではないか。最初の思い込みを懐疑しようともせず、只管偏向した情報だけを信じて、自分は恰も正義の見方であるかのように勘違いしてこのような「辞表」を書く。「社会常識を持つ人」とはとても言えない。

 偏向し歪曲された情報を基にして憶測を重ねた末の誹謗中傷は、論点④に集約されている。私は、「西尾幹二氏に使嗾された」のでもなく、西尾氏と藤岡信勝氏との「両氏に追随」したのでもない。これこそが、何か目的をもって操作された偏向情報を鵜呑みに信じ込んでいる証拠である。

 「産経偏向記事事件」や例の「警察・公安情報 藤岡教授の日共遍歴」や「西尾=藤岡往復私信」の脅迫文というような数種類のオゾマシイ謀略文書を匿名で彼方此方に発信した者が理事会内部にいる。それも種子島会長の足元にいる可能性が高いと判断し、会長の責任で不祥事の真相を究明すべしと私は判断して会長に直談判したのである。それは、3月理事会の一週間後のことであった。種子島氏に提示した要求事項と問答録がある。それを参考資料として末尾に掲げよう。

 会の混乱をこれ以上深めることはしたくない、との理由で会長は、私の要求を「峻拒」した。「臭い物には蓋をしてその場を凌ごう」という姿勢がありありであった。一刻も早く会長職を八木氏に受け渡したいとの思いが会長の判断力を萎えさせてしまったのか。会長の態度がその様なものだったから、その後も「偏向報道」「怪文書」問題は一向に解明される気配を見せない。そして、4月12、13日に至った。12日は藤岡理事が主として該問題を八木氏、種子島氏に問い質した。そして、13日はその問題について、会長と副会長の最終回答を得るための会談であったので、事務局を代表して鈴木尚之氏、理事として私も同席した。会合に際して種子島・八木両氏は、劈頭より問答無用とばかりに、即刻に連袂辞職すると用意して持ってきた辞表を出し、「やってられない」との捨て台詞を残して話しらしい話しもずに早々に退散したのである。 

 斬りつけたと言いたいならば言うが良い。私は真正面から大上段に斬り付けたのであり、「背後から」云々と言われるような卑怯なやり方は断じてしていない。しかも、「辞表を迫った」のではなく、種子島・八木両氏は「辞表」を携えて会合に望み、問答無用で立ち去ったのである。事実誤認の大言壮語は断じて許すことが出来ない。 

C 松浦氏の「辞表」の論点
⑤ 「この半年に限っても、私が彼らのその種の所行を聞くのは、いったい何度目のことでしょう。これを聞いて私は、彼らに反省を促すことなど不可能であり、そうである以上、もはら彼らと戦いをともにすることはできない、と諦観した」。

D 松浦氏の事実認識の偏頗性と立論の独善性
 ⑤ 会運営に大きな疑義が生じた時、理事には執行部にその解決方を進言する責務と言おうか権限がある。宮崎事務局長処遇問題やコンピュータ問題が紛糾した時「四人組」は盛んにこの権限を行使して会務を必要以上に混乱させたのではないか。その「四人組」の一人が松浦氏である。

 ところが、「反社会的陰謀行為」が理事の一部によって展開されている。その問題に対して私が理事の権限を正々堂々と行使したことを、松浦氏は、不正確な歪曲情報のみを信用して、追随した福地が丸で信じられない悪事をなしたかの如く表現した。そして、単なる邪推で西尾・藤岡両氏に対してまで誹謗中傷を拡大して述べる有様である。そして悪人に「反省」を促しても詮方ないから自分は辞職するのだと、良い子ぶった理由を述べた。自らは「大義」を目指す正義の味方であるといわんばかりである。尋常ならざる独善性の自己欺瞞と言わざるを得ない。
 

 
E 真に「つくる会」を正常化するための必要条件
 この「辞表」の最大の難点は、産経新聞の歪曲記事問題も某氏に対する卑怯極まりない『公安情報』や「西尾=藤岡往復私信」を使っての情報操作や脅迫文配布の幾つかの重大事実も一向に気にしていない、というよりも無視している点である。

 以上要するに、「つくる会」を真に正常化しようと行動した者たちに対して、善悪を転倒して、こいつらが悪人だと詭弁を最大限に弄し、自らの卑劣な謀略行動には何の反省もないということは最大の問題点だ。心ある人々は断じてこのような欺瞞的な人々に対して「日本人らしい道義ある人」「日本人らしい善良さ、純粋さ、また社会常識の持ち主」とは言わないのである。俗な言い方を使えば「盗人猛々しい」と言うのである。種子島・八木両氏の「辞表」も同断であることは言うを俟たない。

 本会会則第20条の規律条項に曰く、「会員にこの会の活動を混乱させ、あるいは会員としての品位を欠く行為をなし、その他この会の会員としてふさわしくないと認められるものがある場合は、理事会の決議により、その会員を除名その他の処分に付することができる」と。前会長・前副会長および前理事新田・松浦両氏らは、一連の不祥事の原因を創り続け、なおも独善的自己弁明、責任転嫁に勤しむ。この者たちは会員としての品位を著し欠くものと私は思う。依って次の理事会において私はこれら諸氏の除名処分を提議するであろう。これほどの騒動を経て「つくる会」を正常化するためも大前提はこれだと考えるからである。                             以上

(参考資料1)
種子島経会長殿への意見具申    
      平成18年4月7日
1 種子島会長は、「八木―宮崎」一派の一連の不信行為・責任回避行為・攪乱行為を非難する理事たちに推されて会長に就任した。「八木―宮崎」の不信行為等は、昨年の半ばから今日に至る迄、実は連綿として継続しており、その犯行の程度は益々悪質化している。

2 種子島会長は、「つくる会」と言う貴重な存在を解体させてはならない、何としてもこれまで蓄積した「負の要因」を除去して、立て直さなくてはならないとの決意で会務に取り組まれた。これは、誰もが支持する処である。

3 だが、会務への基本的な取組姿勢には、貴方を支持した多くの理事達を納得させないのみか、大きな疑義を醸し出すものが多い。

4 その第一は、八木氏に対する高過ぎる評価である。(イ)八木は人気が高い、(ロ)八木は、「産経グループ」の強い支持を得ている、との判断から、そう評価したものと思うが、どうであろうか。我々の考えでは(イ)も(ロ)も八木及び彼の支持者が誇大宣伝で作り出した幻想に過ぎない、と思うが如何であろうか。 

 産経新聞社渡辺浩記者の理事会決議事項歪曲報道の背後に八木ー宮崎が存在すると思われるし、また、以下に列挙する背信・不信行為の数々は「つくる会」及びその多くの支持者に対する、背任・裏切りの一種の犯罪行為と言う可きものと思うが、会長としては如何なるお考えでありましょうか。

5 「八木―宮崎」派の一連の犯罪紛いの不正行為は、「1月16日理事会」以降に限って見ても、許し難く多いのが歴然たる事実である。以下時系列に従い、目ぼしい事例を列挙する。その前に、12月15日付の「(八木)会長声明」は、「率直に言えば私の意志とは別にことが始まり」云々は、実に異様であった。
(イ)西尾幹二氏の名誉会長辞意表明(理事会翌日の1月17日)への、余りにも迅速で冷淡で素気ない対応(1月20日)。
(ロ)三副会長辞任に対する不誠実で無責任な対応。
(ハ)2月27日理事会の夜の「FAX通信」差替え発信事件。会長は当初、宮崎および関係したと推測される事務局員数名に対しては厳罰を以て臨むとされ、「事務員ヒヤリング」までしたが、急速に態度を軟化された。
(ニ)理事会翌日の産経新聞の理事会ニュースに、「西尾院政か」「中国訪問を理由に解任」という歪曲と、新会長種子島氏に対する陰湿な貶め記事の掲載に繋がる。この記事は例の渡辺浩記者の執筆であった。同記者は、八木―宮崎と昵懇の仲であることは会長もご承知の通り。
(ホ)三月初旬から始まったと思われる「警察公安情報」による藤岡氏への陰湿な人身攻撃、これは三月理事会を目前にした20日頃から「警察公安」情報としてFAXで数箇所にばら撒かれた。
(ヘ)これは私の推測だが、「あなたと健康社(3月9日付)」「株式会社フローラ(3月11日付)」の寄付金返還の脅迫状も、略々間違いなく彼らの教唆によるものであろう。彼らの拠点地方支部から本部への「八木復帰コール」「二月理事会以前への現状復帰要望」等々のFAX攻勢もそうである。また、我々が、東京、大阪、福岡と地方有力支持者への事情説明に出向いている時期に、「石井公一郎氏が八木を支持して第二つくる会を立ち上げる決意をした」(ガセネタ)、と伊藤隆理事に懇請して藤岡氏非難を書き込んだ「辞表」(ヤラセ)を書かせた。これは3月9日付であり、何れも11、12両日開催予定の評議員・全国支部長会議を標的にした会を真の意味で正常に復したいと念願する諸理事(八木たちの反対派)攪乱と追い落とし工作である。正常化を念願する諸理事は、種子島さんを支援した理事であることをお忘れになられては困るのである。
(ト)3月28日理事会=八木は反省と謝罪を述べた。藤岡氏も述べた。付言すれば、会長もご存知の通り、八木に「謝罪の弁無く、本理事会成立は在り得ない」と申し伝えたのは小生である。
(チ)しかるに、理事会終了後、直ちに我々を(当然種子島会長も含まれる、というよりも会長に対する)裏切り行為に出た。歪曲情報を産経新聞渡辺記者に提供した(推測だが限りなく真実である)。
(リ)3月29日の産経偽装記事事件。⇒渡辺記者歪曲記事事件。 
(ヌ)所謂「警察公安情報」と言う個人に対する根拠薄弱なFAX讒謗情報の散布(噂として3月初頭から流されFAXは3月23日。
(ル)元名誉会長および高池理事、小生に対する謀略FAX情報散布(3月31日)。これは、西尾氏に対する脅迫状でもあるし、当日昼間に小生が直接電話で八木氏にその不信行為に対する厳重抗議をしたことに対する、明白な報復行為である。    以下省略        

6 以上の諸事例で、八木秀次副会長が会を混乱させる陰謀工作による背信・不信行為をし続けた事実は示せたと思う。それゆえに、八木氏は、その職務に不適格であることは判然したと思うが、種子島会長は、それでも彼を信頼して、七月総会までに、同氏を会長に復帰させるお膳立てを作り続けられるお考えで居られるか、否か。

7 私の結論としては、以上の背信・不信行為の数々は、三月理事会で確認した「内紛をこれで打ち止めにする」との基本方針に真っ向から違背・背反すると断言する。依って、会則第20条の懲罰に該当すると判断する。付いては、八木氏を副会長に任命した会長の任免責任において、今回の産経新聞歪曲記事事件を中心とする背信陰謀諸事件の真相究明の為に、「八木聴聞会」を開催することを強く要望するものである。

 ただし、会長お一人にそれをお任せするのは、或いは荷が重過ぎるのではと忖度し、適任の理事数名を同聴聞会に陪席させることも、ここに提言致す次第であります。 以上                        
(文責:理事・福地惇)

関係者に猛省を促す文

 つくる会関係のことで私はいまメールなど大量の資料を分類し、整理し、読み始めているが、まだもう少し時間はかかりそうである。そうこうしているうちに私の意に適ういいブログを拝読した。

 「Let’s Blow!毒吐き@てっく」という、いつも味のある卓見を思い切って乱暴に語るブログがあるが、5月13日付の長文は、今まで書かれるべくして書かれていない重要指摘に満ち溢れていると見た。

 今日はこれをご本人の了解を得て全文そっくり掲示する。

つくる会クーデター未遂の考察
                  
                                てっく

ちゃんと書いておかないと、気持ち悪いから、真面目に書いてみよう
事はつくる会だけの問題ではなく、敬愛するご皇室、そして我が日本にまで関わりかねないので
無視するのはヤメ
改心しない不心得者は、しつこいぐらい糾弾してやる

さて、今日だけは以下の文章に真面目に句読点を入れます

今日、「西尾幹二のインターネット日録」で布袋和尚さんというHNの方の素晴らしい投稿を読んだ。
リンクを貼ると、その下に知足という、性根サヨクの汚らわしいアクセス乞食がまたくだらないコメントをしてるんで、全文転載させていただきます。

 新田前理事の文章を一読し、「つくる会」の末端の、饒舌よりも行動を重んずる平凡な一会員として所感を申し上げます。

 人間は立場によってものを考え、ものを感じる存在であり、ましてや西尾先生から厳しく論難され、激しく指弾された八木元会長や新田前理事達のお立場からすれば、とてものこと承伏できず、反論し逆襲に出たい言い分や論拠も多々あり心情も山々でありましょう。畢竟、「因果の論理」の応酬において、それは尽きるところなく際限がないものと思われます。

 しかしながら、御両者を「品格の次元」と云う観点から見比べると、そこには雲泥の差があるものと感じます。御両者の対立の構図は、思想家としての立場から「つくる会」の理念と志操を守るべく「目的のためにも手段を選ぶべき」ことを標榜して譲らなかった「創立者」と、政治的な企図から「つくる会」において主導権を確保し、かつ、人脈(旧友)を擁護すべく「目的のためには権謀術数も駆使する」こと憚らなかった「後継者とその徒党」の間の葛藤であったものと思われます。

 そして、後者は自ら掘った墓穴故に、八木元会長は屈辱と挫折に苦悶されつつ、新田前理事達は激しい憤懣と怨念を胸に、退会を余儀なくされたものと思われます。また、西尾先生もその志操故に、再び「つくる会」に復帰されることはないものと承知致します。悲痛の極みと云わざるを得ません。

 向後、西尾先生には、保守思想界の重鎮として、大所高所から、敗戦後還暦を経てなお崩壊しながら漂流する吾が国が向かうべき方向を明示していただきたく、また、八木教授には、この挫折を天与の試練として受け止められ、人間として一回りも二回りも成長され、次代の保守思想家の雄として大成していただきたく、そして、新田教授におかれても、鉾を納めて自らの言動を深く内省せられ、その憂国の熱意と才気を更に錬磨され、保守思想界において所を得て応分の御活躍をいただきたく、切望申し上げるところです。

Posted by: 布袋和尚 at 2006年05月12日 12:40

そして、クライン孝子氏の「クライン孝子の日記」における、YUKI von MURATA という源氏名の方の考察

D-7.中国共産党説
極めて可能性が高い。日本共産党あるい共産党のコントロールを
無視した党員や左派とタグ(原文ママ、恐らくタッグの間違い)を組んでいる可能性がある。

1.西尾氏のプロファイリングを利用し、藤岡氏と対立させる。
2.発信は八木氏周辺のように見せ掛ける。
3.3者間の不信感を高める。
4.工作員の存在は見えない。
5.結果的に「つくる会」を分裂させる。
6.日本の右派勢力の弱体化
7.日本の歴史観を中共の解釈に導く

このお二人の文章を読んで中国共産党の陰謀説も一考の余地ありと思い直してみた。

ここで、皆さんに中国人の洗練された外交(experienced in diplomacy)の手法について説明します。

中国人の外交術には歴史の重みがある。
戦乱と飢餓と権謀術数に明け暮れた中から得たかれらの術は、まさに中国の文化である。
相手に向かい合う時、決して譲歩してはならない。
日本人のように、問題を前に自分が譲歩し誠意を示せば相手も応え、円満に収まるだろうと思ったなら、その時点で戦いは負けである。
まず相手陣営内の揉め事を見つける。
つぎに好ましい話し相手を探す。
目を狙(つ)けるのは、自分は交渉術に長け影響力もあるとうぬぼれている人物がよい。
その者との対話では応分以上に持ち上げていい思いをさせ、議題は自陣営に有利なものを選び、自然に相手陣営を不利な立場に追い込む。
もちろん不利になるのは相手陣営であり、交渉したその者個人を不利な立場に追い込んではならない。すでにその者は相手陣営の人員ではなく、わが陣営の味方になっているからだ。
ここまでくれば、後はもう押しまくればよい。
その過程では、自分に都合のいいことなら、鹿を指して馬と為してでもそれを正義と言い立てる。
相手陣営がその論法の矛盾を突いてくれば、ますます声を大にして鹿を馬と言い張ればよい。
大声を繰り返せば、それは譲歩できぬ原則と相手は思い込み、腰が引けてくる。
こうなれば交渉の先は見えてきたも同然である。相手陣営は内部の足並みをいよいよ乱し、全体としての交渉力を失う。
そのための駒になり活躍してくれた人物はまさしく交渉術に長け、影響力を行使してくれたことになる。(踊らされた本人には皮肉な結果となる)

さて、このように中共の手口を皆さんにご紹介した上で、八木氏がこう言い訳をする中国の学者とのやり取りを一緒に見てみよう。

雑誌「正論」4月号より

解説(八木秀次)
 以上、三月号・四月号の二号にわたって、『新しい歴史教科書』をめぐる中国社会科学院の日本研究所スタッフとの懇談の様子を紹介した。私たち日本側はプライベートな旅行ということもあって、討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった。日本側の一人と中国側の数人が旧知の関係もあって、スタッフ数人との文字通り懇談とのイメージだった。しかし、結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。
 中国側にはあらためて正式に歴史学のプロパーを入れて論戦したい旨を伝えたが、私がここでこの中国社会科学院との遣り取りを紹介したのは、中国側の主張に日本側がどう反論したのかを伝えたいからではない。中国の代表的な日本研究者が『新しい歴史教科書』をどう認識しているのかを資料として紹介したかったからである。これまで中国の政府関係者や関係メディアからの批判はあったが、研究者レベルでの詳細な意見は紹介されたことがない。紙幅の関係でできるだけ中国側の主張を紹介し、日本側の発言を一部省略したのもそのような理由に基づいている。読者にはその点をご理解いただき、中国側がどのような認識を持っているのかに重点を置いてお読みいただきたい。

「正論」の編集部員を連れて(に、連れられて?)の中国旅行が「プライベート」であり、「討論をするつもりで社会科学院を訪れたわけではなかった」との八木氏の言は、私には到底納得できるものではないがここではこれ以上触れない。

「結果は、日本側は学者は私一人、他は事務局スタッフと本誌編集部員というメンバーで中国の代表的日本研究者と論戦することになった。」
まさに、敵の術中にまんまと嵌っているではないか。私なら、こんなケンカはしない。
八木氏に言っておこう。
ケンカとは、強いものが勝つのではない、勝った者が「強い」と言われるのだ。
私なら、勝てるケンカしかしないし、勝つための準備を整えて、地の利、相手の力量を踏まえたうえでケンカする。
その後の八木氏の「中国側は原稿を用意し、こちらは不十分なメンバーで即興の論戦ということで、その点、日本側の主張に物足りないものを感じる読者もいよう。」などというのは、全き言い訳に過ぎない。
しかも、相手は「つくる会」の現役会長と、反中メディアと目される産経のグループの「正論」編集者である。
自らの立場を顧みない無責任にはあきれてしまう。その後に続く言い訳は、考慮に値しない。

では、著作権の問題云々を取り沙汰されるのも本意ではないゆえ、八木氏達と中国人学者達のやり取りの一部を以下に抜粋引用する。

  私の言った出発点というのはたいへん大事なんです。
出発点というのは何かというと、中国で戦争が起きたということです。だから中国は侵略されたというわけです。
 日本には日本の国民を守るために戦ってきた、自衛戦争だという認識がある。けれども日本の国土で戦争したわけではないですよね。なぜ中国において、中国と戦争をして日本を守ったといえるのか。もし今、中国が日本に行って中国の人を守る戦争をしたとして、それが日本にとっては侵略ではないと思えますか。出発点はどこで戦争が起こったかです。また、誰がその戦争を起こしたのかです。

 八木 われわれは中国の教科書に日本が自衛戦争を行ったと書いてほしいと要求しているのではありません。日本の教科書に日本の言い分も書こうということに過ぎません。
 中国から見れば、侵略であったと理解されるかもしれませんが、日本には日本の言い分がある。当時の事情もある。一つのことでも、ある人はこう認識しているけれども、立場の違う人は別の認識をしているということは、多くあります。
 われわれが教科書の是正、記述の是正をなぜやっているかといえば、これまでの日本の戦後の歴史教育というのは、日本が加害者であったという点ばかりを強調していて、日本の言い分が一つも書かれていない、だから日本の言い分についても書こうということなのです。日本の子供たちにバランスよく、複眼的な見方を教えたいということから、教科書の記述是正の運動に立ち上がったということであり、あくまでもわれわれの土俵は日本の教科書なのです。そこを誤解されては困ります。日本の子供たちが使う教科書に、日本の言い分も書きたいということですから、そこはお互い認め合わなければならない。中国の教科書においては中国側の認識を書いていただくのは大いに結構ですけども、日本の教科書に日本の言い分を書いてはいけないといわれてもそれは通らない話ですし、われわれとしては到底受け入れられないことです。

 日本側出席者C これは日本から持ってきたものですが、こちらが扶桑社の教科書、こちらが日本でいちばんシェアが多い東京書籍の教科書です。これをつくったのは日本のTBSというテレビ局で筑紫哲也という人の番組です。「つくる会」に非常に批判的な人が取り上げたということでご覧いただきたいと思います。戦争当時のページで、ピンクのところが日本に肯定的な記述、ブルーのところが否定的記述です。
(東京書籍はブルーばかり。扶桑社はピンクもブルーも)今、八木先生が言ったのはこういうことです。いちがいに比較はできないのですが、「つくる会」に批判的なテレビ局の取り上げ方でもこういう状況になっていることを補足しておきます。

 王屏(日本研究所政治研究室副室長) 日本の教科書だと言われていますけれども、人類として普遍的な価値観があります。たとえば侵略することは悪い。人を殺すことは悪い。
これは人類の普通的な価値観でしょ。それは認めなければおかしいでしょ。

 日本側出席者B それは認めたうえでのことです。

 中国側出席者 バランスの問題です。

 八木 そう、バランスです。

 八木 皆様方から『新しい歴史教科書』に対する見方を率直に聞くことができたことは、たいへん大きな収穫であったと思います。しかし、正確にご理解いただけていない点が残念です。
 歴史教育、日本の歴史教育は、日本人としてのアイデンティティを育てることに目標が置かれるべきだと思います。それに当たっては、子供たちが長い歴史を持った日本という国を将来自らが支えていくんだという気持ちになれるような歴史教育を行いたいと思います。歴史の事実は無数にあります。その事実の中から何を取り上げていくのか、限られたページ数の中で何を取り上げていくのかというところに、価値観が反映されると思います。われわれとしては日本の子供たちに日本の国に生まれてよかった、そして大きくなったら日本の国を支えていきたいと思うように育てたいという思いで、この教科書を作りました。
 もちろんこの教科書の記述が完壁なものだとは思っておりません。研究を重ね、多方面の建設的なご意見を参考にしながら、より良きものにしていきたいと考えております。本日はこのような貴重な機会を設けていただきましたことに、厚く御礼申し上げます。(拍手)

  Bさんのおっしゃったことに私は賛成します。つまり事実と立場という問題ですね。とても重要な問題です。同じ事実を違う立場から見ると違う結論が出されてしまう。
 しかし、Bさんのおっしゃった日本人の立場と中国人の立場、この言い方はあまり正確ではありません。問題があると思います。、                
 たとえば近代史上日本のやったあの戦争に対して、東条英機はいい戦争だと言いましたが、日本でもその時代の反戦論者はこの戦争はダメだと言ったのです。
 中国でもそうです。中国の多くの人民は侵略戦争だと言いましたが、江精衛(=江兆銘)は「ああ、いい戦争だ、いい戦争だ」と言いました。ですから日本人の立場と中国人の立場について、もう一歩考えなければなりません。つまり侵略者の立場、被侵略者の立場、抑圧者の立場、被抑圧者の立場という言い方が正確だと思います。
 また日本の台湾の植民統治について、水利工事などをしてその時代の台湾人の利益になったと言う日本人もいます。しかし全面的に見れば、その植民統治は台湾の人民に対しても、また中国にとっても、良くないことだったと言えます。
 もう一つ感じたのは、日本側の先生方はやはりもう一歩、中国の歴史について研究しなければならないということです。たとえば田中上奏文について先ほど話が出ました。実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつあるのです。そうした中国の研究成果を日本側はほんとうに知っているのでしょうか。
 また、わが台湾について、Aさんが出した質問の答えは当たり前のことです。明の時代からの一々の歴史の記述があり、清の時代に入ればさらに沢山の記述があります。「わが台湾は」という言い方には問題はありません。たとえば一八七四年の台湾事件について、その時代の清政府の代表が日本側の質問に答え、「台湾の生蕃は化外に置く」と言いました。
この言葉は、中国の歴史をきちんと学ばなければ理解できません。台湾は中国の国土ではないということとは全く違います。つまりそのときの台湾の統治の民ですね。中国の大陸の民と発展の段階が、発展振り、段階がまったく違っていて、孔子の儒教の化外の民だという意味です。
 ですから私の理解では、日本側も中国の歴史を、中国側も日本の歴史をほんとうに深く勉強して、両側の見方がだんだん接近できるようにしなければならないと思います。

 今日は相互理解に大変チャンスになりました。皆さん、どうもありがとうございました。ご苦労様でした。

そして彼らの帰国後、産経新聞はこう記事にした。

「田中上奏文」 中国側「存在しない」偽文書認める(WEB上に記事がないため転載)

中国が日本の大陸侵略意図の証拠としてきた「田中上奏文」について、中国政府直属の学術研究機関である社会科学院の蒋立峰・日本研究所所長が「存在しなかったという見方が主流になりつつある」と述べ、偽文書であることを事実上認めていたことが1日、分かった。

昨年12月に中国を訪問した新しい歴史教科書をつくる会の八木秀次会長(当時)らのグループに語った。

田中上奏文は、昭和2年に当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書の体裁をとり、日本や欧米では偽文書であることが証明されているが、中国では歴史教科書に記述されるなど事実として宣伝されてきた。

しかし、蒋所長は八木氏らに「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつある。そうした中国の研究成果を日本側は知っているのか」と、中国の研究成果としても偽文書が通説であることを明らかにした。

蒋所長は社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者。

八木氏は「偽文書だと分かっているなら、中国政府は田中上奏文を根拠とした対日非難をやめ、教科書記述も改めるべきだ」と話している。八木氏らと中国側のやり取りは1日に発売された月刊「正論」4月号に掲載されている。

■田中上奏文

昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い、「世界を征服しようと欲せば、まず中国を征服しないわけにはいかない。これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている。4年に中国語の印刷物が現れ、英語版やロシア語版も登場した。あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く、当初から偽文書と判明していたが、中国では本物として広まった。

まったく、何をかいわんやである。
元々、田中上奏文など偽書であることは周知の事実、しかも、町村外務大臣の時代にきちんと中共に主張している。
彼らが知らなかったとは言わせない。
そんなくだらないことを、手柄めかして記事にまでして言い訳に使う。
対談内容は、「正論」の私が抜粋した部分だけでも完全に「負け」である。
上記抜粋の対談内容の情けなさについて、ここの読者の方にいちいち解説する必要もあるまい。
しかし、八木氏はこう嘯く

 私が中国側と論戦してまずもって思ったのは、中国側の対日認識の貧しさである。日本研究所のスタッフはいずれも日本への留学経験があり、日本通ではある。しかし、例えば、日本人の宗教感覚という問題になると、これはもう理解不可能のようである。

単に、馬を鹿という強弁を通されているだけではないか。

中共や反日左翼にとって、これほど与しやすい敵の親玉もあるまい、何しろ、親玉自らがアキレス腱となってくれるのだから。

さて、中共、あるいは左翼の陰謀説をとった場合、踊らされたのは、内紛を自ら主導した八木氏ではないのだろうか。
私は、八木氏の謹慎と、日本会議の英断による宮崎氏の処断を強く求めるものである。
 
とにかく、前科のある人間は反省し、身を謹んで、ご皇室や我が日本のことにしばらくは関わらないでいただきたい。

反日教科書に対抗する、唯一の牙城であった「つくる会」の国民よりの信頼を失わしめ、あまつさえ未だに八木氏の関係の人間が悪あがきをするなどということは、国賊に値する罪だと認識して欲しい。
彼のとった稚拙な、しかし極めて悪質な権謀術数については、あえてここで触れない。

産経にも問いたい。
我々が日々の糧を得るのに呻吟しながら、決して少なくない時間を割いて、ただひたすらに国のことを思い、本当に皆が純粋な気持ちで、少しでも次代の子孫達によい国を遺したいと草の根で汗を流している、その「思い」を台無しにするおつもりか。

今まで非公開にしていた、ご皇室を守るために集まった人間よりの各界へのメッセージのうち私の筆による一部を以下に掲載する。

郵政民営化のときに、「普通の若者」が小泉さんにだまされて、自民党を圧勝させてしまったという苦い経験を元に・・・・・

「運動」でも、「組織」でもなく、偉い先生方の言論に啓発されたのでもない、「普通の人々」が自分の頭で考えて、自らの良心にしたがって、1つの目的を達成するまでの間だけ、集おう・・・事がすんだら、また普段の生活に戻ろうという・・・
そんな挑戦を始めます。

民主党が頼りない、思想的にダメ、だから、消去法で「小泉自民」を選んだんだ
仕方なかったんだ・・・だから、今の政治の状況がこんなでも、どうしようもない。
よく聞く言い訳です。
小泉シンパ側の言い訳にも使われます。

私は、そんなのは嫌です。
国会議員が国を守ろうとする気概がないなら、不勉強なら、我々普通の人間が突き上げればいい。
イギリスにカントリージェントルマンという言葉があるそうです。
普通の暮らしをしながら、中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央へ出て、彼らの姿勢を正すといった人間のこと言うそうです。
ことがあると、サっと集まって、去り際も潔い・・・そこには金銭欲も名誉欲も・・・もっと低次元の「誰かに自分を認めてもらいたい、今の自分の現実が、自分の思いに比して不当に不遇である・・・そんな自分の居場所を運動に求める」などという子供じみた欲すらもありません。

そんな、ムーブメントをブログを通じで今回の「皇室典範問題」に関して起こそうと思ってます。

もうすでに種はまいています。
呼びかけも行いました。
WEB上にだけ存在する、架空の人格である「てっく」という存在(ただし、言う事は首尾一貫して自分なりの筋を通しているつもりですが・・・何者にも阿らず、世間のしがらみによって「転向」したりはしません、それがゆえのHNなのですから)
そんな、どこの馬の骨ともわからない人間の呼びかけに、たくさんの人が賛同してくださいました。

そんな人々のメールを一部転載しますので、よろしければご覧ください。
(アドレス)
閲覧用パスワードは、後ほど送らせていただきます。

偉い、学識のある、著名な先生方の呼びかけで集まったのでも、熱心な運動員が勧誘して集めたのでもない、ごく普通の人々が、自発的に集まって何ができるか
(運動家ではなく)本当に普通の人たちなので、現実に集まる暇もない・・・そのハンディを埋めるためにインターネットを使います。

ま、ことが終わったら、一度くらいはみんなで集まってみたいとも思いますが。
そして、みんなでお疲れ様といって、さよならします。

また、何かが起こったとき、集まれる人は1つの目的の下に集まることにして・・・

集う基準は、ご先祖様から受け継いだリレーのバトンをよりよい形で次の世代に渡す・・・それだけです。

失敗するかもしれません。
でも、いいんです。
失敗したって失うものはありませんし、失敗を恐れて手をこまねいているよりましだと思いますので。

こんな、バカな無謀な試みを・・・どうかそっと見守ってやってください。
そして、曲がった方向に行こうとするときは、教えてやってください。

不一

てっく拝

八木氏よ、産経よ、そして宮崎氏よ、日本人ならもう少し恥を知っていただきたい。
己の私利私欲のために、国を滅ぼさんとしてなんとする
 
 

 
当ブログにおける八木氏に関連するエントリ

皇太子殿下と雅子妃殿下を思う

朝ナマ 皇室典範議論

「樹の組曲」樅の木(シベリウス)

櫻花(おうか)にほふ

皇統の継承 直系傍系と下らん議論するなっての

八木さんも所さんも小泉さんも、みんないいかげんにしなよ
 

 
八木秀次 『本当に女帝を認めてもいいのか』より

平成版、壬申の乱の勃発をも助長しかねない不敬なる言説

さまざまな噂③―小和田家の意向
 噂はいろいろあるが、早い話が本当のところはどうもよく分からない。ただ宮内庁がずいぶん前から、皇位継承問題を研究していたのは事実である。しかし、その内容も果たして女帝を容認するものなのか、男系継承を続けて行くのか、正確なところは分からない。

 こういう生臭い説もある。現行の皇室典範の規定では、今上天皇の後は皇太子殿下が皇位に就かれるが、その際には秋篠宮殿下が皇太子になられる。皇太子殿下にも秋篠宮殿下にも男子がいらっしゃらないからである。さらに次の代 、ということになると、今度は秋篠宮家が主流となって秋篠宮家の直系が皇位を継承していくことになる。つまり将来、女性天皇を容認するにしても、その際には秋篠宮家の眞子様が皇位継承順位が第一位となって、愛子様は佳子様に続く第三位ということになってしまう。それを避けるために皇室典範を変えて愛子様に皇位継承を認め、その順位を秋篠宮殿下の上位に置こうとの考えがあるというのだ。

 またそこには背景事情があるということもささやかれている。皇太子殿下と雅子妃殿下とのご結婚は妃殿下のお父上である小和田恒氏の意向が働いたとの観測がある。外務省の高官の中にもそう証言する人がいる。将来、愛子様が皇位に就かれれば、小和田恒氏は天皇の外祖父になる。これが小和田氏の名誉欲を満たす。しかし、皇位が秋篠宮家に移るとすれば、小和田家としては、何のために雅子様を皇太子妃として嫁がせたのか、ということになる。そこで、小和田家の意向を受けて、秋篠宮家に皇統が移らないように皇位継承順位を変更すべく皇室典範の改正が取りざたされているというのである。

憶測も、世に出していいことと悪いことがある。
あなたがくだらない小和田陰謀説を流布してどうする。
あなたに足りないもの、それは学者として、いや、男として、日本人としての矜持と品格。
 
 

 Voice6月号(発売中)に平松茂雄氏と西尾幹二の対談「東シナ海進出は止まらない――『海への野心』で膨張する大国に日本は何ができるか」がのっています。 

上記を見て、東京支部掲示板に、[1703] 八木氏に対する疑惑 外野応援団   2006-05-13 17:07という注目すべき見方の投稿が出ています。

5/13 追記

財政規律の問題

 粕谷哲夫君は私の大学教養学部時代の同級生で、住友商事に永く勤め、同社の理事になった。海外経験も豊富で、「つくる会」には強い関心と共感をいだき、協力を惜しまなかった。「つくる会」賛同者の表に名を列ねてもいる。 

 粕谷哲夫 
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 財政規律の問題

 私は西尾幹二氏の旧友であり、種子島氏とも同じ同窓である。

 実は二年ぐらい前だったか、某団体の会長がその会の資金1千万円の不正使用があったのではないかという疑いが出たことがあった。私は西尾幹二氏に、当該団体のような問題が発生すると「つくる会」の運動に重大な事態を招きかねないので、老婆心ながらよく目配りするよう進言したことがあった。

 というのは 現在日本の抱える問題の重要な部分は、他人のカネを預かるものが、その善良なる管理者の義務を忘れて放漫に流れることによって生じたものであることを骨の髄まで認識していたからであった。

 目の前のカネがあり、それが自分のカネではなく他人のカネであれば、放漫な支出に流れるのは、おそらく人間の悲しい性である。巨額な財政累積赤字、銀行の不良債権問題、厚生労働省のナンセンスな施設群の建設とその処分などなど、すべて「他人のカネ」の放漫管理から発生した問題である。こういう危機管理の意識は私自身の職業的体験から醸成されたものである。

 この懸念について西尾幹二氏からは「自分も同じ認識を持っている。そういうことがないようにやかましく言っている」という趣旨の回答だった。 その後の会話から、氏が「つくる会」の資金管理について予想以上の厳しい認識を持っていることを知った。

 またこういうことがあった。前回の採択戦に備えて、「つくる会」は寄付を募った。彼からは1万円寄付の要請があり、こころよく同意した。彼自身は100万円の寄付をし、かつ理事たちにも相応の寄付を求めているという話であった。100万円が多いか少ないか、いろいろな判断はあろうが、小生はかなり大きいと感じたが、逆に氏のこの寄付行動は会の財政節度に対する厳しい認識を示す証として一安心したものである。

 と同時に理事たちは個人的な寄付をたとえ5万円でも10万円でも要請されれば、「西尾氏が会長であると寄付させられるからかなわない」という反発が生じるのではないか?と心配になった。しかし彼はその危惧をとっさに否定した。「理事はいろいろあっても、そういうことは分かっている」というニュアンスだったと記憶する。

 その募金活動は、結果的に目標を超える金額の募金を達成したと聞く。ところが西尾氏は、「募金金額の達成に理事たちは自己の集金力を過大評価している。浮かれてはならない。将来の会の財政見通しはけっして楽観できない。いっそうの財政節度が必要だ」とつけ加えるのを忘れなかった。

 また、「幸い『国民の歴史』の多額の印税が「つくる会」の財政に貢献したが、今後この種の臨時のヒット収入を見込むことは出来ないだろう」という悲観的な見通しを述べたと記憶する。

 コンピュータ問題はそのあとに出て来た問題である。私はコンピュータ・ソフトについても多少の心得はある。なぜ早く相談してくれなかったのかという気持ちは残るが、宮崎氏にこのコンピュータ問題で邪念はなかった、しかし理事一同無知であったというのが私の判断であり、その支出は「無知の代償」といえる。宮崎氏の事後の処理を伴う問題点は、遠藤氏の報告書に詳細にあるようだ。それを見れば分かるはずである。コンピュータ・ソフトの会社からの事後値引きもあったと聞く。

 しかし「無知の代償」を認識した西尾氏は、この件の責任は宮崎氏のみ負うのではなく、理事全員も応分の連帯責任を負うべきであると提議し、合計100万円の負担が合意されたと聞く。しかし宮崎更迭問題がこじれてこの話は沙汰止みなったそうである。

 宮崎氏はいい人ではあったが、教科書採択の状況は厳しさを増したこともあり、西尾氏の求める事務局長像がより厳しいものになってきたことも十分ありうると思う。この事務局長の戦略的機能の問題について、日録によれば宮崎氏更迭の考えは八木、藤岡、種子島の三氏の間に同意され共有されていた。この段階では一枚岩であったと私は理解した。

 企業であれば、そういうコンセンサスが幹部間にあれば合理的な意思決定がなされるであろう。

 その後コンセンサスは突然白紙に戻った。これを知ったときの西尾幹二氏の驚愕と当惑の電話は今でも耳に残っている。

 それ以降の展開はご存知のとおりである。

 誰がこの会を運営するにせよ、まず財務管理に対する根本的な意識の変革が会全体に浸透しない限り、会は資金的に行き詰るのではないかと危惧している。NHKは半強制的に視聴料を請求できるが、「つくる会」の運営資金は会員の寄進によるものである。「会員の爪に火点すなけなしの寄付」である。会員の心が離れれば、会は雲消霧散する。デフレを経て支出管理を徹底している昨今の企業の金銭感覚の厳しさをまねる必要があるのではないか。その感覚は西尾幹二氏が一番強かったのではないか? 

 昨夜来の情報によると、種子島氏、八木氏などの退任が決まったようである。

 新執行部におかれては、浄財の拠出者のことをつねに頭において、効率的な運営を図ってほしい。

 

 

女性塾に参加して

長谷川真美
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20051025153305.jpg 日録でも紹介のあった、「建て直そう日本・女性塾」が10月25日(火)11時から、東京のキャピトル東急ホテルで開かれた。その会に私も出席したことは、日録コメント欄と私のブログでも紹介したが、もう少し詳しく報告しておきたい。出席者は約300名、大盛況で、会場にはイスが継ぎ足され、両サイドはテレビカメラが何台も並び、入りきれない人は廊下で話を聞いたとのことである。幸い私は早めに行っていたので、前から5列目に席をとり、その時写した携帯の画像がこれである。

 なお、各パネリストがどんな発言をしたかということについては、ここのブログに簡潔に述べられているので参照していただきたい。

 もともとこの塾は鎌倉の前市議、伊藤玲子さんという女性の信念から出発したものである。女性で議員になっている人は、左翼系が圧倒的に多く、家庭を大切にする保守的な女性は政治の場にほとんど出てこない。そのため、政治の上では、左よりの女性の意見が女性の意見の代表のようにして反映されていく。この悪循環を断ち切るには、保守系の女性議員を育てるしかない・・・・・というお考えだ。民主党や、左派の政党は早くからマドンナ戦術といって、女性議員の擁立や、連携する組織を作っているが、保守系にはそういったものが全くなかった。

 発言力のあるバカな女性が日本を亡ぼすのではないか、という危機感から、伊藤玲子さんのたった一人からの行動が始まった。この女性塾を立ち上げるために、伊藤さんは遠く広島まで、私にも会いに来てくださった。日本全国そうやって、この人、と紹介された女性には飛んで会いに行かれた。多くの賛同者が現れたことは言うまでもない。

 そうして伊藤さんのこの熱意に、自民党の山谷えり子参議院議員が賛同なさり、看板としての塾長を引受けてくださることになった。このことが安倍晋三氏の耳に届き、ご本人がシンポジウムのパネリストに自ら進んでなると言われ、いつのまにやら、この日の大きな会を開く所まで膨らんだのだ。

 中山文部科学大臣も含め、18人もの国会議員がお祝いに駆けつけてくださったそうである。

 この度の衆議院選挙で、自民党女性議員が7名から26名に増えたということだが、そのことを喜んでばかりはいられない。女性であればいいというものではない。今マスコミでもてはやされている女性議員は、当然この会には現れなかったし、保守系とされている女性議員の中にも、左翼と見まがうばかりの人もいるからだ。

 私が教育委員を通常の任期の半分で辞めさせられた時、西尾先生からは市議に出る気はないかと言われた。教科書も、教育も、物事を正していく実際の力はやはり政治なのだというのは、常々感じていることなので、考えないことではなかった。だが、やはり家庭を持っている女性が議員になることは容易なことではない。

 普通の仕事と異なり、議員になれば自分の時間の優先順位が自ずと家庭ではなくなる。多くの普通の女性は、まず自分の家庭を守りたいと思っているはずだ。稲田朋美衆議院議員は、衆議院議員に立候補すると子供さんに言ったときに「いいよ、おかあさんはもともと、死んだと思っているから」と言われたという。家族の理解がない限り、女性が議員になることは男性の数倍困難なことである。

 シンポジウムの終った後、会場を移して立食の懇親会が開かれた。会場は一杯だったが、加瀬英明さん、中村粲さん、西尾先生なども出席されていた。その西尾先生とは、少し遅れてこられ、岡山へ行く予定で時間がなかったうえ、すぐに人に囲まれてしまうので、ほとんどお話することはできなかった。一年ぶりにお会いする私設勝手秘書としては、少し残念ではあった。

 その他インターネットで知り合っていた方の、顔と名前を一致させることができた。会が終るころ、私は何名かの方ともう少しゆっくりお話をしようということで、喫茶店に行くことにした。自分と同じような問題意識を共有する女性は、地元の友人の中にはほとんどいない。ところが、その日出会った女性達とは最初からびんびん響きあえた。すぐに意気投合した。普段は孤立無援のように感じていることが多いのだけれど、仲間がいることを確認できてとても嬉しかった。そのことが、今回の一番の収穫であったかもしれない。

 なぜ女性、女性というのだろうかと思われる方がおられるかもしれない。それは、今問題になっている男女共同参画社会基本法のような、フェミニズムが核となっているものに対して正面切って戦うのは、男性にはなかなか難しいことだからだ。男性がフェミニズムを攻撃すれば、かならず差別だと言われて、攻撃をかわされ、うやむやになってしまう。女性の愚かさは同性である女性が指摘しなくては、なかなか有効に作用しないのだ。実力のある、発言力ある女性の議員が求められる所以である。

 家族や、国や、日本の良きものを壊そうとしている女性に対抗するためには、伝統的な価値観を持つ、ごく普通の日本的な女性が立ち上がるしかないのかもしれない。そんな思いをあの場に集った多くの方々と共有した一日だった。

「ヨーロッパを探す日本人」を読んで

 平井康弘
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今から40年前に西尾先生が共鳴したニーチェゆかりの地を、ニーチェの影を追い求め、歩かれたご様子が目に浮かびます。

40年たった今でもバーゼルの街はそれほど変わってないのではないでしょうか。

Rhein river.JPG15世紀に大地震があって街に大きな被害があった以外は、大異変も戦争もなく、古くからの建物が多く残っています。街には18-19世紀に作られたアパートが軒を連ね、今でもバーゼルの人々はそうしたところで生活しています。

郊外にはローマ時代のコロシアム(円形劇場)や、石で固められた100メートル以上ある長い地下道なども残っており、目まぐるしく作っては壊される日本の街の変化とは無縁の、過去からの連続した風景をみることができます。

また、バーゼル市の人口自体もほとんど変化がなく、あいかわらずゆっくりとしたテンポで、日曜にはほとんどの店が閉まり、家族や知人と思い思いに時間を過ごす習慣が残っていますし、外食率も日本と比べるとかなり低く(物価の高さも原因している)、今でも家族中心の生活が守られています。きっと、先生がいらっしゃった頃から同じ生活の営みが繰り返されているのだろうと思いながら、この「ヨーロッパを探す日本人」を拝読しました。

若い頃の先生の、ヨーロッパを探訪しながらの自分や社会に対する洞察力は示唆に富み、先生の名著「ヨーロッパの個人主義」の原点がここにあるのだなと思いました。それはヨーロッパを探し、それに感銘を受けておしまい、という無邪気なヨーロッパ論ではなく、いつもその観察の先には、ヨーロッパを探訪しながら自分、あるいは日本の在り方をとことん追究するという一貫した、あくまで自分や日本の問題としてヨーロッパを見つめていらっしゃる姿勢があります。

日本人としてヨーロッパとの関わりを見つめ、内省し、自己分析される先生のご分析は正確で、日本人としての感性を確立した上での外国文化との対峙がいかに大切かを示されています。インド人学生の例を先生は引き合いに出されていましたが、バーゼルで子どもを育てる私達家族が、自分の子どもの感性が今後どのように育っていくのか不安をもつ所以です。

国籍にとらわれないインターナショナルな無国籍人より、私は子どもにはやはり日本固有の文化、考え方で、ヨーロッパと向かい合える人間になって欲しいと思っています。

その日本の文化自体もしかし、絶対なものではなく、常に変化していますし、最近はおかしなことが多く起きているのも事実ですが、それでも、価値観が多様化してきているとはいえ、日本には依然として、ヨーロッパには稀有な、人の気持ちを考え、尊重することのできる平和的なよい面もあります(時として必要以上に人の気持ちを読むことばかりを考えるのは、自己の弱さからくる場合もありますが)。

また、こちらには自分が日本人である前提を忘れてしまって、ヨーロッパの側から日本よ、こうすべきだ、だとか、日本を見下し、ヨーロッパを無条件に礼賛するだけの人もいますが、しかしそれは、自分だけ批判の対象から免れ、安全な圏外から高みにたって人を批評する知的傲慢であり、それを無意識に自己正当化していることに気づかない、警戒心を欠いた知的怠惰で、固く戒めるべきです。

私は自分の子ども達には将来、日本とヨーロッパを「日本人」の目でみることのできる、きちんとした感性と文化が内在化して欲しいと願っていますが、親の都合でバーゼルに暮らしていることが、その点で正解なのかどうかはわかりません。

先生のエッセーから外国文化との接し方、日本人のあり方を深く考えさせられましたが、そんな一方で、先生はどきっとさせることもおっしゃっています。

旅先で無節操に集団で行動する観光団を冷ややかにみているくだりの先生の自己分析、「悪意の塊になって、日本人観光団の野放図なおしゃべりを冷笑し、ひそかに優越感をかんじ、一方で自分も刺身が食べたくてレストラン・トーキョーをさがしにさがしあぐねた末ようやくたどり着いたということは忘れていた」という描写に、私は似たような感情を持った経験があることを言わなければなりません。いつも集団でしか行動できず、そのくせ気が大きくなって回りの迷惑を省みない人々を自然体でみれないことがままあったことは事実で、実は背後で、自分の優越をかんじているという動機、心情があったことに私は鈍感でした。

そして先生は、結局のところそういう観光団と自分が、いつでもなにかを探しているという点において変わりはないという点を見抜き、同時に、「通訳などで出会う短期旅行者を笑うことは易しいが、また私は、私よりも多く経験している人に笑われはしまいかという不安におびえていた自分をこそ笑わなければならなかった筈なのである。他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、しかし、こうした不具な感情から完全に自由な日本人というものは、私の知るかぎりひとりもいなかった。」と、人間の虚栄心を深く洞察されています。

今の円熟された先生の人間性に対する考察は、この頃既に基本姿勢として存在し、自分を偽らず、真摯に、真っ直ぐ見つめる姿勢があるからこその慧眼なのだと、何かが分かった気がしました。

Spalentor.JPG私も学生時代、ニーチェは西尾先生の本と並び、夢中で読み耽った青春を持ちます。自分の生き方、覚悟が問われ、精神に刻み込まれる一冊でした。そんな私が、西尾先生の「ニーチェ」二部作を読み、バーゼルに来た当時にしたのは、ニーチェがバーゼル大学教授時代に下宿をしていたアパートを見つけることでした。ニーチェを愛読するアルゼンチンの親友と共に、西尾先生がちょうど40年前に探されたのと同じ、あの下宿アパートを探しに街を歩きました。ヨーロッパの寒く長い、冬のある日でした。

その日も、太陽が見えるとはいえ、気温は冷え込み、痛いほどの寒さで、石畳の歩道を歩く人々の足は静かで早く、運が悪く途中から雪までちらついてきました。

先生が歩いたシュパーレントールでバスを降りるとそこには、記述にあった三角の特徴のある塔が、白くかすんだ冬の空にそびえていました。中世バーゼルの中心地を守る城門の一つで、城壁がなくなったとはいえ、当時を容易に想像できる威厳のあるその面影をしばらく眺め、そしてそこから先生の「ニーチェ」にあった住所を頼りにシュッツェングラーベン通りを歩きました。

Nietzsche apart.JPG住所が分かっていたおかげで、私達は簡単にそのアパートに辿りつくことができました。ただ、40年前にあったプレートは発見することができず、しかし建築様式は紛れもなく19世紀のもので、きっとここにニーチェがいたんだろうと思いながら、記念に写真をとってきました。

家に帰って、あらためて先生の「ニーチェ」にあった記述を読んで、先生の鮮やかな情景を掴む力と文才に、私は愕然としました。同じものを見てきたとはとても思えませんでした。さすがに先生のような人は、見るべきものをしっかりと見てらっしゃるのだなあと思いました。

40年後の私が見たニーチェの下宿先を写真で添付します。

 
 
 

Vinyard.JPG最近のバーゼルはすっかり秋も深まり、街は色とりどりに紅葉した街路樹の葉が石畳を覆っています。20分も車で駆け、街を抜けると、自然のままのヨーロッパに出会うことができます。今日は車で一時間近いところにあるフランス、アルザス地方の白ワイン街道を走ってきました。一面に広がる収穫を終えたぶどう畑も紅葉し、息を呑むヨーロッパの秋の風景でした。 
 
 
 
 
 
 

 

 

日本の会計事情と公認会計士の試練

 高石宏典(たかいしひろのり)

 昭和37年山形県生まれ。新潟大学経済学部卒。東北大学大学院経済学研究科修士課程修了。太田昭和(現新日本)監査法人山形事務所を経て、現在、山形県立産業技術短期大学校庄内校に勤務。

 個人レベルでは、「日本会計基準等の米国化」より「わが頭髪の消失化」の方が大問題ですが、こうした諸々の老化現象を受け入れつつ逆境をはね返してより社会貢献できるよう、この夏はまず虚心坦懐に学ばなくてはいけないようです。個人的感情のはけ口を求めるのは、その後ということなのかもしれません。
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 公認会計士監査の実務から離れて8年程になる。この間、ゴーイングコンサーン監査の学術研究にかまけ、簿記会計教育を生計の資として暢気に暮らしているうちに、会計基準や監査基準だけでなく商法や公認会計士法までも大きく様変わりしてしまった。昔読んだ愛着のある会計学や商法のテキスト類はもう役に立たない。変わり続ける会計基準等や法律(以下「会計基準」とする)に対応しようと、溜息をつきつつ研修中のわが身が息苦しい。

 上記会計基準の変更理由には、企業会計の「透明性」と「国際化」が馬鹿の二つ覚え?のように謳われている。これらが意味するものを敷衍すれば、会社は従業員や社会のためにあるというよりも株主の私有財産にすぎないとの“割り切った企業観”に基づく、会社の利益よりも会社資産等の現在価値それ自体がより重要であるとする“短気な会計観”への変更、ということになるであろう。端的に言えは“日本会計基準の米国化”ということに他ならない。金融商品等の時価会計や固定資産の減損会計の採用、それに春先のニッポン放送株式敵対的買収事件の発生は、こうした考え方の反映であり現象である。

 これら会計基準の米国化は、わが国の景気を躓かせる方向にのみ作用し、外資からの被買収リスクを高め、国益を損なうありがたくない効果をもたらした。「日米投資イニシアティブ報告書」等の存在によって会計基準の変更が米国の政治圧力に屈した結果であることが明らかになり、ここにまた一つの“経済敗戦”が現実化しようとしている。

 私はわが国の上場会社が米国化するのを好まない。また、何よりも米国流経営によって人心が荒廃し訴訟社会が出現して、地域社会が崩壊するのを決して望まない。公認会計士として米国の経済戦略に加担せずに、日本社会により貢献する道はあるだろうか?会計基準変更の背後にあるものをしかと見つめ、いま感じているこの“息苦しさ”の発散策を自分なりに模索してゆく必要に、私は迫られている。いや私に限らない。2万人強の日本人会計士は、例外なくそれぞれの立場でそれぞれの厳しい試練に直面している。

暑中見舞い

平井康弘
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 暑中お見舞い申し上げます
西尾先生には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。

8月1日はスイスの建国記念日で、バーゼルでも建国を祝うお祭りが行われました。なかでも前夜にはライン川で大きな打ち上げ花火やイベントがあり、ふだんの静かな市民生活とはうってかわり、大いに賑わっていました。バーゼル市の人口が20万人で、この花火などのイベントに10万人程度が動員されたことを考えると、街をあげての行事であったことがわかります。私も家族を連れてライン川に顔を出し、熱気に包まれた川の歩道を歩いてきました。この日はバーゼル以外にもスイスの各地で花火やパレードなどの似たような催しがあったようです。

日本でこのような建国記念を祝う行事をあまり経験してこなかった私にとっては少なからず驚きを与えました。その後、フランス人やオーストラリア人の同僚と話をして、建国に関してどのようなことをしているか聞いたところ、フランスでは7月14日の革命記念日に公式行事で国家創設を祝う式典が大きく行われ、国を挙げてこの日を祝っているという想像通りの答えが返ってきました。オーストラリアでは1月26日のオーストラリア入植を祝った建国記念日があるが、実際の建国記念としては1月1日の連邦政府誕生がオーストラリア市民にとっては建国記念のようなもので、その他にも州によってばらばらの記念日があると、これもまたオーストラリアらしい返答が返ってきました。アメリカでも7月4日の独立記念日がありますが、各国特徴はあるものの、共通して国家の起源というものを考えることが市民生活には根付いているようです。省みて、2月11日の日本の建国記念日にそのような契機を促すものがあったかと首をひねっていました。

また先週、イギリスやオーストラリアの同僚と話をしていて、今回のイギリスでのテロの話をうけて、イギリスの特殊部隊SASがどのように動いているかという話になりましたが、その中で気がついたのは、彼らの議論の前提として世界情勢のなかで軍隊は自国を守るために必要最低限の機能であり、何よりそのことを意識すらせず、疑問をまったく覚えることがない様子に、日本との相違を思い知らされました。これが日本であれば、軍隊を持つと危険だとか、軍国主義になるといったステロタイプの議論になるのでしょうが、イギリスやオーストラリアなど殆んどの国々は軍があってあたり前の世界で、この世界観の違いはなんだろうかと思いました。彼らは戦争の前と後の歴史が連続しているから、軍が国家という体の組織の一部であることに違和感を覚えることなく、今なお、世界情勢を語ることができるのだろうかと肌身をもって感じた次第です。

日本も、これらの国々と同じようにどこにでもある普通の国であったのが、敗戦によって変わってしまい、背骨を折られ、汚名を着せられ、将来を語ることができなくなってしまいました。北朝鮮によって自国民をさらわれても強く出られない臆病。中国がアジアの盟主たらんと各方面で攻勢をしかけている現況。課題は見えているのに手の施しようがない。それを克服する鍵は、西尾先生がおっしゃる歴史を複眼で見ることであり、正しい歴史教育にあると信じます。

この夏の採択の成功を祈念申し上げます。

私もこちらで益々の努力を重ねて参る所存です。今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

暑さ厳しき折り、お身体お大切になさってください。
不一
平井康弘拝

罪深い大勲位

 

お知らせ
   《来月の評論》

   特集 閉ざされた言語空間と「戦後神話」---60年目の再検証    「正論」9月号

     ___ 知られざるGHQの「焚書」指令と現代の「焚書」 30枚

          特集執筆者  上記論文の私のほかに石井英夫、林道義、和田秀樹、西岡力、新田均

やっと書きあげました。写真もいれます。

マンガ嫌韓流   山野車輪     晋遊舎 ¥1000
  
        5ページのコラム「外が見えない可哀そうな民族」を寄稿しました。
       旧稿改作です。

       コラム執筆者は西村幸祐、大月隆寛、下條正男の各氏。

       マンガ本体はよく描かれていて、私も知らぬこと多く、何箇所かで、
       衝撃をうけました。

西 法太郎
<<自己紹介>>
西 法太郎と申します。
40台後半に差し掛かった会社員です。
世の動きに目を向けるようになったのはつい十年ほど前。
金美齢氏が深田祐介氏と対談した 『鍵は「台湾」にあり』を手にとってからです。

生まれてまもない弟が不治の病気に罹っても医学の道に志すことなく、
家に引き篭もった高校時代に全集全巻を読んだ三島由紀夫に憧れ同じ学部に入っても、
官僚・作家を志すことがなかった。
しかしこの方が、たいへん苛烈な人生を辿っていることに接し、大いに揺り動かされました。

台湾のことを知りたいと云う思いに突き動かされ、これが「日本」とその将来について考える
私のよすがとなり、その道程の起点となりました。
2001年12月に初めて台湾に渡り、時恰も行なわれていた立法委員(日本の国会議員)選挙を体験し、現地の空気に触れて、台湾に明るい未来が招来しなければ、日本にも明日はないだろうと観じました。
台湾に押し寄せる暗雲を、他国のことと等閑視していると、
それは日本をも襲う黒雲となると観じました。

西尾先生との出会いは、本年1月6日付け「西尾幹二のインターネット日録」にある通りです。
宮崎正弘氏の「国際ニュース・早耳」に掲載された拙論を西尾先生が目に留められ、
転載頂く栄に浴しました。
このような誉れを受けて、豚も木に登らんとばかりに動き回っています(笑)。
以上

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罪深い大勲位

大勲位 中曽根康弘閣下殿

拝啓

三伏のみぎり、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。早速ながら、閣下殿が首相在職のさなか、昭和61年8月15日付けで胡耀邦中国共産党総書記(当時)に宛てた、靖国神社公式参拝の取り止めに関する書面を引用致します。覚えておられれば幸いです。

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内閣総理大臣 中曽根康弘

戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました。
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閣下殿は、胡耀邦氏を助けるために靖国参拝を取り止めたそうですが、それにあたり、腹心の野田毅氏を密使として胡氏に送り、靖国参拝の伺いをたてたそうですね。

国内問題について、外国要人の了解を得ようとした、閣下殿のトンチンカンなさもしい行為は、日本国民として呆れ果てるとともに、そんな指導者を戴いた者どもとして寂寥の感に包まれました。

閣下殿が公式参拝するまで、どの外国も文句は云ってきませんでしたのに、中国が唐突につけ始めました。時は小平政権の末期。 中国国内の権力闘争の渦中でした。日本寄りの胡耀邦追い落としに利用しようと、軍国主義の旗印として「靖国」を論い、参拝叩きが行なわれたのです。「靖国」は日本の内政問題で、公式参拝が違憲であるかないかは他国の干渉を受けるようなマターでなく、諸国に配慮すべき問題でもないのです。でありながら、執拗に中国がこれを言うのは、最初に閣下殿がコケたからです。

この時のことを後日閣下殿は雑誌『正論』に「胡耀邦を守らなければいけないと思ってやめた」と書いておられますが、譲った結果はどうでしたか?

閣下殿のこの不作為の罪は20年後の今日に至るまで日本国の国益を無尽蔵に損なっていませんか?  
更に今後何年、何十年と国益を毀損し続けると懸念・憂慮されませんか?

小泉首相の靖国神社参拝について、「(今のままなら)国益に反することになる。A級戦犯の分祀ができないなら休んだ方がいい」と先月閣下殿は述べておられます。閣下殿は首相在任時、「分祀」という“毒創的”な観念をあみ出し、板垣正氏に命じて、いわゆる「A級戦犯」の遺族の方々から、「分祀」への同意を取り付けようと画策し奏功せずに終わりました。東条家だけが同意しなかったからです。

それ以降中国・韓国は閣下殿の尻馬に乗って、「分祀」、「分祀」、「分祀」と「分祀」念仏教に走り日本国民はたいへんな迷惑を蒙ってしまいました。

今年小泉首相が靖国参拝をしたら、閣下殿の政治活動の一大汚点になるとの“賢明”なるご認識から、これを懸命に阻止されようとしているお姿は醜いの一語に尽きます。酷寒に包まれた赤城山からの颪の凄まじさです。

閣下殿は「私は『終身比例1位』」と地位に恋々とされる方でもありました。これを絶った小泉首相には、大いに意趣がおありでしょうが、大勲位らしくないお振る舞いと申し上げます。

閣下殿は、さかんにマスコミから「風見鶏」のニックネームを冠され揶揄された時代がありました。閣下殿はお考え、ご方針が結構ブレる方だからです。今盛んに改憲論を唱えておられますが、肝心要の総理在位の4年7ヶ月の間、改憲の「カ」の字も口から発せず、支持者の多くから、失望を買い、批判を浴びま
した。一議員にあらせられたときに、2000人の若者を伊勢に集め、「自分が印綬を受けたら真っ先に、憲法の改正をやってやる」と獅子吼したことを、最早お忘れで、記憶の片隅にもないのでしょうか?

閣下殿の内閣で藤尾正行文部大臣が、文芸春秋で「(日韓併合は)形式的にも事実の上でも、両国の合意の上に成立した」と発言したことを巡り、閣下殿は発言を撤回しない藤尾氏を罷免してしまいました。
閣下殿ご自身の韓国訪問を恙無く終えようと、トカゲの尻尾を切った、無慈悲なご処分でした。

プラザ合意で急激な円高を招来し、バブルの深因が形つくられたのは、閣下殿が首相在位の時でした。
ワシントン政府の言いなりに、「前川レポート」を作成して、日本国民の勤勉精神を骨抜きにする作業にも勤しまれましたね。

「日の出るか傾く荘」で、来日したリーガン大統領にほら貝を吹いて興じられていましたが、ほらを吹かれ、謀られたのは我々日本国民だったのですね。

閣下殿の疑惑の数々を以下に列記します。
・殖産住宅事件で、旧制静岡中学時代からの東郷民安氏を裏切ったとされています。
・リクルート事件で、藤波孝生元官房長官が泥をかぶったといわれています。
・丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにしたとされています。
・国際航業乗っ取り事件にからむ小谷容疑者との関係では閣下殿の金庫番・太田英子女史がつっかえ棒役を果たしたといれています。
・角福戦争(昭和四十七年七月の自民党総裁選挙)の際の、「七億円中曾根派買収疑惑」。
福田派から二億円、田中派から五億円の計七億円を両陣営からごっつあんしたと云われています。
田中陣営は立候補断念料として計十億円を提示し、しかも田中側からは、「将来、 中曽根総理・総裁の実現に協力する」との条件つきだったといわれています。最終的に田中角栄政権が誕生した時に、中曽根派ぐるみ、田中派に身を売ったのは周知の事実です。
・富士銀行不正融資事件(羅臼疑惑)。
・最上興産疑惑。
・東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相は閣下殿の側近。
・贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相も閣下殿の側近。
・KSD事件(2001)の村上正邦元労相も、閣下殿の側近。
・イトマン事件(1990)に関与した亀井静香も、閣下殿の側近。

閣下殿の首相在任時の最大の功績とされるのが行政改革です。就中、国鉄・電電公社などの民営化は高い評価を得ていたことを申し添え、これ以上晩節を穢し、日本国の国益を損なうお振る舞いのないことをお願い申し上げ、筆を擱く次第です。
叩頭叩頭
(西 法太郎)

スイスから見た日中紛争

 お知らせ

《シンポジウム》
サマーコンファレンス2005道徳力創造セミナー
7月23日(土)15時30分~18時
名古屋国際会議場(名古屋市熱田区西町1-1、Tel 052-583-7711)
基調講演: 西尾幹二
パネリスト: 兼松秀行、陰山英男、水野彌一
参加費: 入場無料  
主 催: 日本青年会議所
代表連絡先: Tel 090-8991-7123(宮崎修)

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スイスから見た日中紛争

平井康弘
バーゼル在住、30代男性

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 スイスのバーゼルで暮らしていますが、インターネットで日本の出来事はいつもみています。なかでも4月に起きた中国の反日デモは、こちらでもどうなっているのとよく尋ねられました。そしてその後の、日本の中韓対応の経緯については憂慮しています。

 去年に今回の内閣が布陣されて以来、町村外相や中山文部科学大臣が竹島・尖閣問題や、歴史認識、教科書の記述を巡り中韓各国を牽制し、日本の立場をそれなりに主張してきたことは、今までの内閣に見られなかったことで、少しずつ日本も前進していると心強く思っていました。そしてこのような契機は、西尾先生やつくる会が各方面で着実に注意を促し、意識を向上してきたことも大きく寄与していると思っています。

 しかし私が分からないのは、これだけ中国ともめているにも関わらず、自国中心の利己的で非寛容な行動がこれだけあからさまに展開されているにも関わらず、大事なのはお互いの将来の発展だ、話せば分かるなどと、説得力のない薄っぺらい声明を日本政府が能天気に出し続けていることです。それでわかるような相手であれば最初から苦労しないし、分からないような第一級の反日国家だからこそ、こちらもそれにふさわしい戦略、行動を展開していかなければならないのではないでしょうか。

 霞ヶ関の知人と話していても、日本が世界から尊敬されるような国になるには、と幻想めいたことを本気で国家目標の第一に掲げるようなことがあり、あまりにも現実離れした、小学生がみるような世界観で他国と渡りあおうとしているようで、愕然とすることがあります。相手国の悪意・エゴが見えず、善意で臨めば相手も分かってくれ、皆が平和に仲良く暮らせるだろうという、型にはめられた一定の思考パターンが特定の世代の特定の層に浸透しているようで、ちょうど政府が、話せば分かると考えているのと通底しているようで、彼らの世界をみる目の甘さに空恐ろしくなります。一体世の中のどこにそのようなことを考えている国があるのでしょうか。どの国も生きるのに必死なのに、このような幻想を後生大事に掲げる日本はつくづくお人好しだと腹立たしくもなります。

 なぜ日本は相手に対して強くでることができなくなってしまったのでしょうか。お互いの対話や協調、将来の発展が大事という綺麗な社交辞令をいつまでも繰り返し、安易な妥協と謝罪を積み重ね、強い日本国家を創る活動を怠っていると、世界に占める日本の位置はいずれ覇権国家中国にとって代わる日も遠くないと危惧します。こちらでは、日本は中国と比べるとプレゼンスも民度も高く評価されていますが、それは物を言わない無害な国だからポジティブな評価しか返ってこないことの裏返しでもあるかもしれません。たとえ相手を敵に回しても国家として生き延びるほうが国家にとっては大事なことで、評価が高いからといって素直に喜ぶ気持ちにはなれない複雑な思いです。自分の国は自分で守る。これしかないのに、繁栄の絶頂にいる日本人にはこの原則が見えないことが多い気がしてなりません。

 バーゼルで多くの同僚と、今回の反日ニュースについて話す機会がありましたが、中国の覇権思想が日本の歴史問題を利用していると見ている人もいましたが、大半は経済の先行きが不透明になるから、つまりとばっちりがこちらに及ぶから心配だ、というごく普通の感想が一般的でした。私は日本の今後の対応如何で向こう50年の国家の進路が決まる、日本人は今、試されている時期にあると答えていました。

 共通の歴史認識を持つことの複雑さは、ヨーロッパ人は誰よりも肌身で実感しているようで、ドイツ人やフランス人、イギリス人の友人とそれぞれ話すとそれがよく分かりました。同時に、彼らは自国の立場からみた歴史観があってあたりまえの感覚を持っていて、他国の歴史観を強要されてきた日本の実情を話すと驚いて聞いていました。ドイツの友人だけが同情(同志?)の意を込めてよくわかると言い、ドイツも同様に将来を語ることができなくなってしまった、完全にあの戦争で国は潰れたと言っていました。しかし彼は彼でドイツのほうが日本よりよい歴史の解決の仕方をしたと思っている節がありましたので、ドイツのやったことと日本のやったことは違うし、ドイツは講和条約すら結んでいないから国家賠償は行っていないでしょう?とまぜっかえす場面もありましたが、今回の件で、欧米の世論を味方につけるにはそれなりにコミュニケーションの量と質が求められますが、その価値はあるのではないかと感じました。

 バーゼルの春はゆっくりとやってきました。サマータイムで夜もまだ明るい庭のテラスでゆっくりしたり、週末、庭で子どもを遊ばせながら家族と時間を過ごすことができ、日本にはない長閑な時間を楽しんでおり、自分の幼少時代に帰ったような錯覚を覚えます。子供が子供らしく遊び、大人と子供に明確な境界があり、社会には一定の秩序があるところなど、古い日本の姿をみているようで、少し考えさせられています。