張作霖爆殺事件対談(三)

驚愕!「父親殺し」だった可能性も

西尾 主として現場の記録の検証から、張作霖は河本の仕掛けた爆発で死んだのではなく、本当の首謀者は別にいて致命的な爆発物は列車内にあらかじめ仕掛けられていたに相違ないことを説明していただきました。加藤さんの推定はここから当時の中国の状況を加味して、本当の首謀者探しに向かいます。『謎解き張作霖』で引用された数多くの歴史的事象や証言は、我が国の中国理解や近現代史にとっても重大な意味を持つ話だと思います。

加藤 事件が起きた一九二八年六月当時の中国大陸では、北伐を進めていた蒋介石軍、いわゆる南方軍に大変な勢いがあり、満州・奉天から北京に進出し、北方軍閥の連合軍である安国軍を率いていた張作霖も敗勢でした。張作霖が完全敗北することで、満州にまで国民政府の影響力が及び、またソ連が南下するのを恐れた日本軍の再三の勧告もあって、張作霖は奉天に一旦引き返すことを決断。爆殺事件はこの途中に起こりました。
 
西尾 この時、張作霖に対して殺意を抱いていた、あるいは排除しようと思っていた勢力なり集団は四つあって、①河本たち日本軍、②蒋介石軍のほかに、③ソ連、そして④謀反を考えていた張作霖配下のグループを挙げていますね。

加藤 ソ連については、『正論』二〇〇六年四月号に掲載された『GRU帝国』の著書、プロホロフのインタビューでも詳しく紹介されています。張作霖とソ連は一九二四年以降、中国東北鉄道(中東鉄道)を共同運営していましたが、張作霖軍側の代金未払いなどをめぐって衝突します。さらに張作霖の反共姿勢もあって、ソ連は一九二六年に張作霖の暗殺を計画、奉天の張作霖の宮殿に地雷を施設して爆殺しようとしましたが、事前に発覚して未遂に終わりました。

 張作霖はこの事件で反共姿勢を強め、翌二七年に北京のソ連総領事館を捜索し、工作員リストや大量の武器、破壊工作や中国共産党に対する指示文書などを押収します。大量の中共党員を逮捕し、党創設メンバーも銃殺しました。さらに一九二八年に入って反ソ反共の満州共和国創設を日本と協議したことから、スターリンが再び暗殺を決めた|これが、プロホロフのいうソ連の張作霖排除の動機です。

 実際、当時の田中義一首相は共産主義革命後のソ連の脅威を感じ始めていて、防共の砦として張作霖を使い、当面はそれで満州は安泰になると考えていたはずです。

西尾 しかし、河本や二葉会の幕僚たちには張作霖排除の意識があった。張作霖は日本軍の統率に従わなかったのがその理由とされていますが、満州の民衆に苛斂誅求の税を課し、通貨を乱発して経済も攪乱していた。私が読んだ長与善郎という作家の『少年満州読本』(昭和十三、新潮社)にも、当時の満州人も日本人も張作霖を相当憎々しく思っていたことがよく描かれています。

 最後に④の張作霖に対して謀反、背信を考えていた配下のグループですが、加藤さんが名前を挙げたのが、驚くことに長男の張学良です。
 
加藤 産経新聞(二〇〇六年)が報じましたが、張学良は事件の前年の一九二七年七月、国民党に極秘入党していました。これは重要な要因だと思います。

西尾 当時は蒋介石軍の北伐が行われていて、国民党は張作霖軍と戦っている最中です。父親に対する重大な謀反行為です。

加藤 ただ、国民党入党で蒋介石と通じていたと単純に見るわけにはいきません。国民党内の共産党分子と通じていたとも考えられます。爆殺された張作霖の跡を継いだ学良は、籏をそれまで使用していた北洋政府の五色旗から、国民党政府の青天白日満地紅旗に代え、国民党に降伏します。「易幟(えきし)」です。この時、奉天城内外に青天白日満地紅旗とともに大量の赤旗が翻っていたことが確認されています。

西尾  そして、先ほどのような張作霖排除の動機をもったソ連が張学良を暗殺計画に巻き込んだということですね。そこに、張作霖の懐刀であった楊宇霆(よううてい)と、常蔭槐(じょういんかい)という二人の人物が登場します。

蒋介石軍の日本人参謀の影

加藤 実は楊宇霆も張作霖を裏切り、国民党に近づいていました。この事実を知っていたのが、参謀本部から派遣され、蒋介石軍の参謀を務めていた佐々木到一中佐で、手記にこう書き残しています。「新しがり屋の張学良や、奉天派の新人をもって目された楊宇霆らの国民党との接合ぶりを見聞している予として、(中略)奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、しかる後において、我が国内としてとるべき策があるべきものと判断した」(『ある軍人の自伝』)。張学良と楊宇霆の謀反の動きに乗じて張作霖を排除し、国民党に奉天を支配させたうえで手打ちをする計画だと読めます。
 
西尾 そして、事実そのように動いたというのが、加藤さんの描いた筋書きですね。

加藤 そうです。ちなみに常蔭槐は交通委員会副委員長で、京奉線をグリップしている鉄道のプロでした。彼が楊宇霆から指示され、機関士上がりの工兵、工作員を使い、機関区で張作霖のお召し列車の天井に爆薬を仕込んだと思われます。
 
爆破された時、張作霖の列車はかなり速度を落としていました。関東軍の斎藤所見によれば、通常の列車はこの現場を時速約三〇キロで走行するのに、残された車両の状況で判明した張作霖列車の速度は一〇キロ程度。斎藤所見は「(列車)内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制動を行いし者ありしに非ずや」「緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものに非ずや」と指摘しています。この「策応者」つまり機関士に、現場通過時に速度を落とせと指示したのも常蔭槐でしょう。
 
西尾 張学良は、事件翌年の一九二九年一月に楊宇霆と常蔭槐を酒席名目で自宅に招き、射殺します。「父親殺し」の真相を知っている二人の口封じだったとみるわけですね。

加藤 張学良は、二人を殺害した理由を「謀反を企てていた」と称していましたが、謀反などありませんでした。

西尾 さらに話を複雑にするのが、蒋介石です。加藤さんが引用した『日本外交年表並主要文書1840―1945』によると、蒋介石は事件前年の一九二七(昭和二)年に日本で田中義一首相と会い、「支那で排日行動が起きるのは、日本が張作霖を助けていると国民が思うからです。(中略)日本は(国民党による)革命を早く完成させるよう我々を助けてくれれば国民の誤解は一掃されます。ロシアだって支那に干渉を加えています。なんで日本が我々に干渉や援助を与えてはいけないのですか」と言い含めた。

加藤 本当はコミンテルンが反日感情を煽り、テロ事件も起こしていたんですが、「張作霖がいるから中国で反日感情が高まって困っている。なんとかしてほしい」と持ちかけたとも考えられます。
 
西尾 張作霖は日本側についているというのが当時の通説だった。だから、そういう言葉もあり得ますね。

加藤 私は、この蒋介石の言葉を国民党幹部が佐々木に伝えた可能性もあると思います。佐々木は、コミンテルン分子が張学良らを使って張作霖爆殺計画を進めていることもかぎつけていた。そこで、張作霖を「絶対にやる」と言っていた河本を教唆し、張学良チームと河本チームをコラボさせた暗殺計画を立てた可能性があると思います。河本は、佐々木から伝えられた蒋介石の「日本への依頼」も含めてすべてを飲み込んだつもりとなり、関東軍の犯行だと示唆する証拠を故意に残したのかもしれません。そして「日本軍の犯行に見せかける」というコミンテルンの狙いにはまってしまった。

つづく
『正論』2011年7月号より

張作霖爆殺事件対談(二)

爆破の瞬間写真をなぜ残した

西尾 爆発の瞬間を撮影した現場写真に話を戻しますが、不思議な写真です。爆殺が行われるのをあらかじめ知っていた何者かがスタンバイしていなければ撮れません。
 bakuha.jpg

加藤 この写真は、爆発の前からその瞬間、以降の現場検証や張作霖の葬儀の様子までを撮影した六十一枚の組写真の一枚です。山形新聞資料室に残されていて、昭和六十年には地元テレビ放送局の特集番組で紹介されて日の目を見ました。河本グループの一員が所有していた写真を陸軍特務機関員が入手していたようです。

西尾 撮影者は河本グループの誰かである。しかし、この写真は、撮影者の事件への関与を示す証拠になります。河本グループは、苦力の死体を置いてとりあえずは国民党軍の犯行にみせかける偽装工作をして実行に及んでいますが、敢えて自分たちの関与が発覚する危険性を承知で撮影したのはなぜでしょうか。

加藤 敢えて自分たちの関与を示す証拠として残したかったのだと考えられます。

西尾 写真を撮ってまで自分たちの行動を後世に伝えようとした。実行犯グループは自分たちの行動を非常に誇りに思っていた。そうした心理が読み取れるわけですね。

加藤 河本のお孫さんの女性にも昨年会って話を聞きました。彼女は河本の妻や娘、つまり祖母や叔母から「陸軍の上層部も祖父(河本)自身も日本にとって張作霖が極めて不都合な存在だったと考えていたので、祖父がお国のために実行したのだ」と教えられたと語ってくれました。事件に対する河本の誇りは、家族にも受け継がれているように思えました。

西尾 読者の皆さんに注意を喚起したいのですが、河本自身は事件の約一カ月半前、満蒙問題解決のため「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めても、ドーシテモ、やってみる」という手紙を参謀本部の友人に送っています。手柄として誇示したいとすら思っていたのであって、本来なら隠すべきところを、隠すような犯罪では決してないと考えていたわけです。これが前提です。

加藤 軍中央の河本の同志たち、エリート幕僚集団の「二葉会」のメンバーも喝采を送っていました。河本は張作霖爆殺事件で予備役とされますが、その後は満鉄や中国の炭鉱会社の役員になったりします。彼を支援、支持する軍内部の声が後々まで続いたということです。

西尾 ほかにも、河本首謀説の「決め手」とされた証拠が幾つか現場に残されていますね。
 
加藤 河本たちは国民党軍の便衣兵の犯行にみせかける偽装工作として二人のアヘン中毒の苦力(クーリー)を殺害し、死体を現場に残しています。そのポケットには犯行声明文のようなものを入れましたが、いい加減で、中国人が書いたとはとても思えない。日本軍がやったとすぐにバレる代物でした。
 また発火装置の導電線を約一八〇メートル離れた日本の監視小屋にまで引き込み、そこで爆破スイッチを押したと言われていますが、事件後の現場からは導電線が半分ぐらい残されているのが発見されています。こうしたカモフラージュのずさんさは、普通では考えられません。河本や東宮はエリート軍人であって、らしからぬ偽装と言わざるを得ません。

西尾 つまり、偽装だとすぐにばれるような工作だった。

加藤 故意に関東軍の犯行だと示唆する証拠を残したんでしょうね。その証拠を拾ってきて、「河本が首謀したことに間違いない」と…。

西尾 言っているのが秦郁彦氏たち。

加藤 それは歴史とは言えません。

西尾 裏も読めていないし。時代の背景も人間の真実も分かっていないんですよ。

加藤 『マオ』がコミンテルン犯行説の根拠とした『GRU帝国』の関連の記述を紹介します。「GRU」はソ連軍参謀本部情報総局という巨大な諜報機関で、筆者はロシアの歴史家、プロホロフです。それによると、「張作霖は長年にわたって権力の座におり、満州日本、ソ連、孫文政府の利害対立をうまく利用していたが、彼自身は一九二六年から二七年のボロディン(中国で活動したコミンテルン工作員)の活動の結果に対しひどく不満を抱いていた。東支鉄道(中東鉄道)の通常の機能は、ソ連側で働く者と張作霖側との絶え間ない戦闘によって著しく脅かされていた。それゆえモスクワでは張作霖を処分すること、その際に日本軍に疑いが向けられるようにすることが決定された」。この最後の「日本軍に疑いが向けられるようにする」というモスクワの意向と、「ずさんな証拠残し」とが符合することを指摘しておきたいと思います。

イギリスにあった日本外務省の報告書

西尾 加藤さんは海外でも多くの史料を発見されました。例えば、イギリス公文書館で公開されていた史料です。その中に、事件直後の現場の見取り図(二四五頁の図1~2)があります。

(図をクリックすると拡大します)
Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 1
図1

Zhang Zuolin Assassination Incident sketch 2
図2

加藤 日本語で書かれた見取り図で、奉天領事の内田が作成した報告書をイギリス諜報機関が入手したもではないかと思われます。しかし、「満州某重大事件」などと呼んで一般には内容が秘密にされた事件です。調査報告書の類は日本政府内でも限られた人員しか閲覧できなかったはず。そんな史料がなぜロンドンにあるのかと驚きました。イギリスが入手した経緯は当然ながら書かれていませんが、内田の結論である列車内部爆発説が斎藤参謀長所見と同様、まったく本国日本で取り上げられなかったことから、真相解明を後世に託すために、敢えてイギリス側に渡した可能性もあると思っています。

西尾 九十年後の今日、その内田の密かな願いが加藤さんの手で実現したのだとすれば、運命的な発見です。図2を見れば明らかですが、高架の満鉄線の欄干が破壊されて、下に垂れ下がっています。一方、図1では、地面に穴が空いたり線路が破壊されたりしたことを示す書き込みはありません。やはり河本たちの爆発は効果がなく、実際に彼を殺害に至らしめたのは、列車内の天井に仕掛けられた爆弾の爆発であったこと、それが極めて強力で車両だけでなく、上部の満鉄の橋梁まで吹っ飛ばしていたことがよく分かります。
 これだけすさまじい爆発の威力は、実は橋脚付近にも仕掛けられていた爆薬が、車両天井部の爆発によって誘爆したことで生じたという見方を加藤さんは『謎解き張作霖』で披露されています。

加藤 ええ。河本が第二の実行犯の存在に気付いていたかどうかにも関わる重要な問題です。

西尾 複雑な話なので、残念ですがその内容は本書『謎解き張作霖』に譲りましょう。イギリスでは、同国の諜報機関が作成した文書にも当たられたんですね。

加藤 イギリスは当時、陸軍情報部極東課(MI2c)と情報局秘密情報部(MI6)の二つの諜報機関が事件の真相を探っていました。
 このうちMI6諜報員だったヒル大佐という駐日大使館付武官のメモは、爆薬の設置場所について、爆薬は客車の上方にあったとしたうえで、①陸橋に詰め込まれていた②車両の天井に置かれていた|という二通りの可能性を検討しています。①なら陸橋上は日本兵が警戒していたので日本軍の関与を示す決定的証拠となるものの、「この見解はイギリス総領事に嘲笑された」として否定的です。これまでみてきたように、②の可能性が「十分ありえるのだ」としている点は重要なポイントです。
 また「張作霖の死に関するメモ」と題したイギリス外交部あての文書(一九二八年十二月十五日付)も、「爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った」と書かれています。

西尾 これは大きな発見だったと思います。
 
加藤 張作霖事件に関する同国諜報機関の文書をめぐっては、興味深い論争があります。京都大学教授の中西輝政氏は、MI2cの文書(一九二八年十月十九日付)を引用する形で、MI2cは「(張作霖事件に)関東軍もかんだかもしれないが、ソ連(コミンテルンないしソ連軍諜報部)が主役だったという結論を出している」としています(『WiLL』二〇〇九年一月号)。
 これに対し、秦郁彦氏は「張作霖からハル・ノートまで」(『日本法学』第七十六巻)という論文で、当時のイギリス諜報機関の活動を紹介するイギリス人の著述に「一九二九年に入り東京の英大使館は(事件の主役がソ連だったという可能性とは)別の推定に達した。すなわち暗殺は関東軍の一部によって遂行されたということである」と書かれているとして中西氏の主張を否定しています。このイギリス人の著述は、駐日大使からチェンバレン外相にあてた一九二九年三月二十三日付文書などに基づいているとのことです。
 しかし先ほど紹介した、河本グループ以外の実行犯の存在を示唆するヒル大佐のメモも同じ一九二九年三月二十三日付で、チェンバレン外相に送られています。秦氏が引用したイギリス人の著述を見ておらず詳細は分かりませんが、同じ日付の新史料が今回発見されたことで、秦氏の論拠が中西説を覆したことには必ずしもならないように思われます。

つづく
『正論』(2011年7月号)より

頭脳への刷り込みの恐ろしさ

 「新しい歴史教科書をつくる会」は『史』という機関紙を出していて、9月号が通巻100号記念となり、頼まれて次のような巻頭言を書いた。

 総理、歴史家に任せるとは言わないで下さい!
 
 「干天の慈雨」ということばがあるが、民主党政権下でずっと不安な思いをさせられ、いらいらしつづけた私にとって、安倍晋三政権の成立は「慈雨」にも等しいと観じられた。将来への大なる期待よりも、私などはこれで日本は危ういところを辛うじてやっと間に合った、タッチの差で奈落の渕に沈むところだったが何とか「常識」の通る社会をぎりぎり守ってくれそうだ、と、薄氷を踏む思いを新たにしているところである。

 安倍晋三氏が官房副長官であった当時が、『新しい歴史教科書』の最初の検定から採択への試練の時期であった。私は氏に何度もお目にかかり、窮境(きゅうきょう)を救っていただいた。故中川昭一氏とご一緒のところをお目にかかることも多かった。教科書問題とか歴史認識問題に一貫してご両名は関心が深かった。

 安倍氏が第二次政権の安定したパワーで再び同問題を支援して下さることを念願しているが、ひとつだけご発言で気がかりなことがある。「侵略」の概念は必ずしもまだ定まっていない、と正論を口にされたそのあとで、付け加えて自分は判断を専門家の議論に任せるという言い方をなさってきた。大平正芳氏も、竹下登氏も、あの戦争は侵略戦争かと問われて、政治家の口出しすべきことではない、歴史の専門家に判断を任せると言っていたのを覚えている。

 しかしじつはこれが一番最悪の選択なのだ。なぜなら日本の歴史の専門家は終戦以来、自国の歴史を捻じ曲げ、歪め、「歴史学会」という名の、異論を許さぬ徒弟(とてい)制度下の暗黒集団と化しているからである。文科省の教科書検定も、判断の拠り所を「歴史学会」の判定に求めているようである。だからいつまで経っても普通人の常識のラインにもどらない。「歴史学会」は若い学者に固定観念を植えつけ、ポストの配分などで抑え込んでいる。この世界では日本の「侵略」は、疑問を抱くことすら許されない絶対的真理なのである。学問というよりほとんど信仰、否、迷信の域に達している。

 日本史学会のボスの一人であったマルクス主義者永原慶二氏の『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館・平成15年刊)に、「つくる会」批判の表現がある。戦後の日本史学会は東京裁判史観という「正しい歴史認識」に恵まれ、正道を歩んできたのに、「つくる会」というとんでもない異端の説を唱える者が出て来てけしからん、という意味のことが書かれている。はからずも日本史学会は今まで東京裁判に歴史の基準を置いてきた、と言わずもがなの本音をもらしてしまったのだ。マルクス主義左翼がGHQのアメリカ占領政策を頼りにしてきた正体を明かしてしまったわけだ。

 安倍総理にお願いしたい。どうか「歴史の専門家の議論に任せる」とは仰らないでいただきたい。これでは千年一日のごとく動かない。のみならず、北岡伸一氏たちの『日中歴史共同研究』のようなあっと驚くハレンチな結果を再び引き起こすことになるばかりだろう。どうか総理には「広範囲な一般社会の公論の判断に任せる」という風にでも仰っていただけないかとお願いする。

 旧左翼(マルクス主義史観)とアメリカ占領軍(東京裁判史観)が裏でしっかり手を結んでいたことがこのところ次第にはっきりしてきた。ルーズベルトがスターリンの術中にはまっていて、アメリカは戦後すぐに東欧でもアジアでも共産主義の拡大に協力的ですらあった。今の中国はアメリカが作ったのである。

 安倍さんは日本が講和後には東京裁判に縛られる理由がないことも、侵略の概念については国際的な統一見解が存在しないことも知っておられるだろう。いつ言い出せるかが課題である。尖閣その他で緊張している間は、しばらく波風は立てられまいが、われわれはあくまで後押ししなければいけない。

 歴史に関する考え方は日本でも世界でもどんどん動いているが、戦後すぐに固定観念を刷り込まれてから、頭にこびりついて、完全に自由を失っている人は今も少なくない。

『GHQ焚書図書開封』8の刊行ほか

 9月1日発売の『正論』10月号に連載の第四回目が出ます。既報のとおり、同誌に「戦争史観の転換」という題の連載を始めて、今回は第1章の第4節に当り、「アメリカ文明の鎖国性」と題した一文を掲げました。古代ギリシアの奴隷制に照らしてアメリカ近代史を考察した今までまだ誰も指摘していない比較歴史論の観点を打ち出したもので、これについてもコメントしていただけたらありがたい。

 8月末に『GHQ焚書図書開封』⑧が出ました。アマゾンの説明文は次の通りです。

(内容紹介) あのとき、日米戦争はもう始まっていた!
昭和18、19年という戦争がいちばん盛んな時期に書かれた「大東亜戦争調査会」叢書は、戦争を煽り立てることなく、当時の代表的知性がきわめて緻密かつ冷静に、「当時の日本人は世界をどう見ていたか」「アメリカとの戦争をどう考えていたか」分析している。そこでは、19世紀から始まる米英の覇権意志を洞察し、世界支配を目指すアメリカの戦後構想まで予見されていた。
――しかし、これらの本は戦後、GHQの命令で真っ先に没収された!

戦後、日本人の歴史観から消し去られた真実を掘り起こし、浮かび上がらせる、西尾幹二の好評シリーズ。

※「大東亜戦争調査会」とは、外交官の天羽英二や有田八郎、哲学者の高坂正顕、ジャーナリストの徳富蘇峰ら、当時を代表する知を集め、国家主義に走ることなく、冷徹に国際社会の中で日本が歩んできた道を見据えた本を刊行した。ペリー来航からワシントン会議まで、英米2大国の思惑と動向、日本の対応など、戦後の歴史書にない事実、視点を提示している。

徳間書店¥1800+税

GHQ焚書図書開封8: 日米百年戦争 ~ペリー来航からワシントン会議~ (一般書) GHQ焚書図書開封8: 日米百年戦争 ~ペリー来航からワシントン会議~ (一般書)
(2013/08/23)
西尾幹二

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「アメリカ観の新しい展開」(十五)

「不思議な魅力もある厄介な国家」(西尾)
「『のらりくらり』がアメリカには有効」(福井)

 西尾 その日本がなぜ今だらしないのか。

 福井 しかし、そのだらしない日本でも国際社会でそれなりの敬意を払われ、米中に日本警戒論が絶えないのも、「負けるに決まっている」戦いを世界最強のアメリカに対して挑み、死力を尽くしたからでしょう。だらしなくしているほうが、アメリカから目をつけられずにすむし、かつての日本とのギャップの甚だしさは、逆に不気味に見えているのではないでしょうか。そうして、アメリカが弱るのを待つ。実際、弱まる徴候が見えてきているわけですから。

 西尾 高等戦術としてはあり得るかもしれません。いま、集団的自衛権の行使を可能にすべきだということが議論されていますが、どうにもおかしなことがあります。確かに集団的自衛権の行使は認めるべきだと私も思いますが、同時に米軍基地の縮小なり、撤退なりも議論するのが筋です。ところが、そうした声はまったく上がっていない。

 国内の米軍基地をアメリカに自由使用させているのは、日米安保条約が不完全だからです。日本はアメリカに守ってもらうけれども日本はアメリカを守る必要はないという片務性ゆえに、米軍基地の無条件、半永久的使用を認めざるを得ない。もし集団的自衛権を認めて「日本はアメリカのためにも戦いますよ」と宣言するならば、米軍基地は撤廃していただいて、日本の国防自主権を確保するのが本来の姿です。勿論、中国や北朝鮮、ソ連の脅威に対応するため残ってもらうという議論はあっていい。しかし、集団的自衛権をめぐる議論に米軍基地の撤廃問題が出てこないのはおかしい。心理的対米依存の度が過ぎているのではないか。安保条約の根本に戻って考えてみる必要があると思っています。

 このままでは、日本の自衛隊がアメリカの尻馬に乗って、アメリカ軍司令官の指揮のもとに危険な場所に引っぱり出されるだけです。

 福井 既にドイツはそうなってしまいました。「テロとの戦い」で、アフガニスタンに派兵させられています。日本の、のらりくらりとした政策というか無政策のほうが巧妙かもしれません。

 西尾 海上自衛隊を給油のためだけにインド洋に派遣していたのは巧妙な作戦でした。

 福井 日本は、アメリカの押しつけた憲法の制約で集団的自衛権の行使が認められないと言い訳しています。これは極めて巧妙な政策です。認めたうえで「国益と合致しないから協力しない」というと角が立つので、今の不平等条約に基づく「永久占領」が続く限り、当面は「集団的自衛権行使を認めない勢力を無視できない」とかわし続ければいい。

 西尾 あと何年?

 福井 私が生きている間には独立した日本を見たいんですが。

 西尾 私の生きている間は無理ですか(笑い)。

 福井 それは分かりません(笑い)。

 西尾 先述したように複雑なトラウマを反映した行動原理、はた迷惑な宗教的使命感を持つアメリカですが、一方で、カウボーイ的な明るさもあります。

 大東亜戦争でアメリカと激烈に戦った日本人でしたが、終戦から二?三年が経つとアメリカ礼賛一色になってしまいました。私が中学生になった昭和二十三年、学校では「アメリカ研究」が始まりました。戦時中には「鬼畜米英」と言っていた国の素晴らしさを学ぶわけです。世の中もアメリカブームで、「ターザン」などのアメリカ映画が一世を風靡していました。青年たちが特攻隊としてアメリカの艦船に突っ込んでいったのはつい昨日のことですよ。なぜそこまで様変わりしたのか分からないほどの不思議な変化が日本にありました。

 昭和二十四年には大リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、戦後初のプロ野球日米親善試合を行いました。羽田空港では女優たちが出迎え、銀座ではパレードをして花吹雪が舞いました。アメリカチームはとにかく強くて、川上哲治はクルクルと三振するし、別所毅彦もボコボコに打たれた。唯一通用したのが、のちに横浜大洋やヤクルトの監督となった軟投派、下手投げの関根潤三です。  日本人はそれらを見て、こんなに強いアメリカ、明るいアメリカ、金持ちのアメリカとなんで戦ったかと、嘆くことしきりでした。そして戦争をした日本人は悪い、軍人は悪いと言い出して、特攻隊も国賊のように言った。アメリカは映画をプロパガンダの道具として使っていて、「明るく素晴らしいアメリカ」を描いた作品だけを流した。黒人や貧民街の映画は禁止して流さない。そして製作されたのが「青い山脈」(昭和二十四年)です。アメリカの民主主義なるものを賛美し、国民に「悪くて暗い封建主義の戦前日本よ、さようなら」という意識を刷り込んでしまった。

 不思議な危険と不思議な魅力をあわせ持つのがアメリカです。今でもそうです。野球の話をしましたが、現代日本のトッププレーヤーたちも大リーグを夢見て、大勢が海を渡ってプレーしています。一方で、日本が二連覇している野球の世界一決定戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)では、収益配分などをめぐって主催者の大リーグ側の横暴がまかり通っていて、日本プロ野球の若手選手たちが一時は二〇一三年の大会への参加を拒否するという行動をとりました。不正は絶対に許さないとがんばったあの態度は素晴らしいですが、アメリカの正体は野球にまで出てくる。厄介な相手だと思います。

 福井 やはり、関根の軟投のような「のらりくらり」戦術が有効なんですよ(笑い)。救済思想を抱えて「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカへの現時点での対処法のヒントは、そこにあるのではないでしょうか。

 西尾 しかしそれは意図してうまくできるものではありません。戦術としてつねに成功するものでもありません。結果として辛うじて今まで無難ではありましたが、「のらりくらり」がイデオロギーになって硬直すると、スキを突かれて攻撃を受けるかもしれません。とにかくアメリカは、昨日の味方を今日はあっという間に敵にする危うさを持っています。アメリカの衰弱と下降は動かない大きな流れでしょうが、それだけにかえってどう変貌するか分からない未知のきわどさを感じています。

『正論』25年2月号より

(おわり)

プロフィール

 西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。第10回正論大賞受賞。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)、『GHQ焚書図書開封1?7』(徳間書店)。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第5回「ニーチェ」まで配本)。近著に『第二次尖閣戦争』(祥伝社、共著)、『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社、同)。

 福井義高氏 昭和37(1962)年、京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。日本国有鉄道、東日本旅客鉄道株式会社、東北大学大学院経済学研究科助教授を経て、平成20年より青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『鉄道は生き残れるか』『会計測定の再評価』(中央経済社)『中国がうまくいくはずがない30の理由』(徳間書店)、訳書にウィリアム・トリプレット著『悪の連結』(扶桑社)。

『正論』25年2月号より

(了)

「アメリカ観の新しい展開」(十四)

「大陸介入をことごとく邪魔した日本」(西尾)
「日本は『ワン・ワールド』を理解せず」(福井)

 西尾 太平洋を西へと拡大していったアメリカはフィリピン支配まではストレートに武力を行使しましたが、なぜ中国大陸を目前にしながら軍事侵略をしなかったのか。一つは、大陸には既にロシアやイギリスが入っていて、出遅れたということがあったでしょう。そこに割って入るために、国務長官のジョン・ヘイが「オープン・ドア(門戸開放)政策」を要求してもいます。  アメリカはここで屈折して足踏みしましたが、それでも改めて三つのコースから大陸に迫ろうとします。第一のコースは、満洲進出を手がかりとする北方コースです。アラスカ経由ですからロシアが邪魔で、日本を戦わせて抑えた。ところが、気がついてみると、満洲にはロシアの代わりに日本が居座ってしまった。それでもアメリカは満洲での投資をあきらめません。満洲をめぐる米英ソ、そしてドイツの駆け引きは、多くの史実として残されています。鉄道や橋、道路に投資をして、現地の人々から通行税をとる。これは確実に日銭が入ってきます。そして工場に投資をして、金利を吸い上げる。まさに経済侵略です。

 しかしこれも失敗に終わり、アメリカは第二のコースに乗り出します。この対談の第二回でも紹介しましたが、中国の中央部上海を中心とした文化侵略、教育侵略です。教会や学校を建て、そこを拠点に憎い日本の排撃を煽って日中離間を策しました。シナ人に日本の商品ボイコットをさせるなどし、満洲事変から支那事変に入るころには日本人が襲撃される事件も相次いでいました。

 排日にはイギリスも同調しましたが、ロシア革命後にはコミンテルンが煽動の主役になりました。そして、英米とコミンテルンは手を結んだ。私はその契機は一九三六年の西安事件だと考えています。そこで第二次世界大戦の構図が出来上がった。

 福井 確かに米英とソ連は、日本を叩きたいということで利害が一致していました。「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカとしても、その邪魔になるイギリス、ドイツ、ソ連、そして日本のすべてを同時には敵にできず、順番に追い落とすことになります。まずは日独を蹴落とし、その過程でイギリス、大英帝国も没落させる。そして最後はソ連を蹴落として今がある、ということでしょう。

西尾 アメリカが第一と第二のルートで足踏みした後に目指したのが、フィリピン、グアムを拠点に、イギリスやオーストラリア、オランダと南太平洋で組んで、南から中国に入っていくという第三のルートです。いずれのルートでも最大の障害は日本であったわけですが、言うまでもなく第三のコースで日米衝突は決定的局面に至ることになります。

 だから、日本が戦争を始めたのではなく、アメリカが三つのルートから迫ってきて日本を排除しようとして大東亜戦争の開戦に至ったと私は理解しています。これも、従来の歴史学、歴史研究では言われていない視点だと思います。

 福井 ただ、アメリカが中国大陸に介入した理由として経済的動機が大きかったとよく言われますが、本当にそうでしょうか。そうした説明は当時もなされていましたが、実はアメリカにとって親中反日政策に経済的合理性はありませんでした。アメリカの実務家たちは「中国よりも日本との貿易のほうが儲かる」と主張していました。経済的には合理性のない極東政策だったわけです。

 西尾 確かにアメリカは大陸に膨大な投資をしたけれども、満足な利益を上げることができなかった。日本も、一九四〇(昭和十五)年に日米通商航海条約が廃棄されるまでは莫大な貿易量からして日米開戦はありえないと考えていました。経済的動機ではないとすると、アメリカを動かしていたのは別の使命感だということになりますね。

 福井 そうです。「ワン・ワールド」オーダーに照らせば、地域に覇権国が登場するのは困る。そこで日本を叩いたということだと思います。逆に中国が強すぎたら中国を抑えにかかる。今がそうでしょう。

 当時、日本が地域の覇権国になるのをあきらめて、アメリカのジュニアパートナーになると宣言していれば、戦争にはならなかったのかもしれませんが、第一次大戦前の欧州中心秩序の優等生「名誉白人」であった日本はそんなアメリカが理解できなかった。「ワン・ワールド」オーダーは、「バランス・オブ・パワー」、いわゆる勢力均衡による外交に対する革命ですから。

 西尾 日本の政治家や知識人には想像もできなかったでしょう。当時、わが国では「日本のモンロー主義」ということまで言われていました。「南アメリカは北アメリカのもの」というモンロー主義をアメリカが唱えるのであれば、アジアは日本が、アフリカはヨーロッパが管理するという形で棲み分けができると考えていた。しかし、実際にはアメリカはそういう棲み分けも「地域の帝国誕生は許さない」として認めなかった。

 福井 アメリカにも、国際法の泰斗ジョン・バセット・ムーアのように、極東の現状変更を否認したスティムソン・ドクトリンを批判し、日本の東アジアでの優位を黙認する識者もいました。しかし、ルーズベルト政権が日本の屈服を目的としていた以上、 それを真正面から受け止めた当時の日本人は戦わざるを得なかった。

 西尾 そうです。やるべきことをやったんです。立派だったんですよ、日本人は。  

 福井 今の日本人が「負けるに決まっていたのになぜアメリカと戦ったのか」と当時の日本人を批判するのは冒?です。例えばソ連がフィンランドを攻めたとき、フィンランドは負けるに決まっているのに戦った。しかし、そこでフィンランドは戦ったからこそバルト三国と違って戦後の独立を保った。それと同じだと思います。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「アメリカ観の新しい展開」(十三)

「国内でも批判は高まっている」(福井)
「救済思想はニーチェも批判」(西尾)

 福井 スワードがアメリカ帝国主義の基礎固めを行ったという西尾先生の御指摘は、今年(二〇一二年)出たウォルター・スターによる本格評伝『スワード』の中心テーマになっています。 「救済する国家」論については、この対談の第一回で紹介しました。トゥーヴェソンという宗教思想史家が『リディーマー・ネイション(救済する国家)』という古典的著作で、アメリカの対外政策史は、「リデンプション・オブ・ザ・ワールド(redemption of the world)」、つまり世界を救済するというミッション、宗教的使命感に強く支えられてきた歴史であると指摘しています。

 今から半世紀前の一九五三年に初版が出た、アメリカ保守主義の古典的名著であるラッセル・カークの『保守の精神』(The Conservative Mind)にも「ニューイングランド」つまりアメリカ支配層は「他国の民を善導し、浄化するよう止まることなく誘(いざな)われてきた」とあります。

 さらに、トゥーヴェソンを高く評価し、同様の視点から第一次大戦参戦を描いたリチャード・ギャンブルの『正義のための戦争』(The War for Righteousness)がイラク戦争と前後して二〇〇三年に公刊されています。ピューリッツァー賞受賞者でもある歴史学者ウォルター・マクドゥーガルはこの本を絶賛し、こう言っています。「バンカーヒル[独立戦争時の著名な戦闘]からバグダードまで、アメリカの戦争は常に『神聖』であった。なぜなら、かつてのピューリタンから今日の世俗的リベラル、ネオコンサバティブそして福音派に至るまで、アメリカ人は自らの国を、必要ならば武力を用いてでも、世界を救済する使命を帯びた約束の地と思い込んでいるからである」。まさに西尾先生と同じ視点ですね。

 一方で、アメリカのオールド・ライトの人たちは、宗教的な救済思想や「ワン・ワールド」オーダーに対して批判的です。アメリカにも西尾先生と同じように考える勢力があるわけです。しかし、これまでのところは「浄化しようとする人々」が主導権を握り続けている。  西尾 ネオコンにみられるように、その勢力は強くなっていますね。  福井 ただ中東介入の最近の泥沼化を見て、リアリストと呼ばれる中間派の人たちからも、やりすぎだという批判が出てきています。

 西尾 批判はあっても、それを受けての抑制は戦争という手段にとどまっていて、金融という手段では逆に見境がなくなっていませんか。

 福井 金融の場合はアメリカというより、むしろ超国家的なユダヤ人ネットワークの影響も大きいのではないでしょうか。先の金融危機以降、中小商工業者を核とした一般国民を意味する「メイン・ストリート」と「ウォール・ストリート」の対立という構図での議論がアメリカでも盛んに行われています。  

  西尾 前回、全世界反ユダヤ主義監視法を紹介しましたが、彼らの影響はあらゆる分野に及んでいるように思えます。

 福井 アメリカのメディアや言論界では圧倒的な影響力を持っています。たとえユダヤ人の影響力に疑問を持っていても、私もそうですが小心者のインテリは怖くて声を上げられません。政治家として有能かどうかはともかく、人道主義者であることは確かなジミー・カーター元大統領ですら、パレスチナ人に同情的過ぎるとして、徹底的に批判されているのがアメリカの現状です。

西尾 一九六〇年代に世界を席巻した新左翼運動の教祖ともいえるヘルベルト・マルクーゼの影響を受けたリベラルたちが金融界に入り込み、現在の金融グローバリズムの原動力となっている金融工学というものを創り出した。やはりユダヤ金融資本とソーシャリズム、社会主義には親和性があるように見えます。実際、インターナショナリズムという点では同じでしょう。かつてのユダヤ人には国家がなかったから、ナショナルなものを否定する。わが日本もシングル・ネイションですから否定される。いま問題になっているTPPもそうですが、単一文化というものを認めない方向に国際情勢は動いているように思えます。

 福井 一方でユダヤ人国家イスラエルは現在、世界で最もナショナリスティックな国です。先生や私の立場は、お互いのナショナリズムを尊重し、それぞれの違いを認めてほしいという「相互主義」に尽きるのですが。

 西尾 そういうものでしょう。世界は、そもそも多様なんですからね。ところで、「ワン・ワールド」思想は、ブッシュ・ジュニア大統領のドクトリンである「プリベンティブ・ウォー」ともつながっていませんか。予防戦争、あるいは先制的自衛攻撃。

 福井 予防戦争という概念は、かつてドイツも対ソ戦で主張しました。その時は荒唐無稽な説として一蹴されたのに、アメリカならよいのですかと問いたいですね。世界赤化の意図とそれを裏付ける巨大な軍備を持ったスターリン相手でも「荒唐無稽」だとすれば、貧弱な軍隊しか持たず対米侵略など考えられない田舎独裁者サダム・フセインに対する予防戦争など実に悪い冗談です。なぜ、日本のリベラルと称する人たちは、ブッシュ政権首脳を東京裁判と同じ基準で裁けと言わないのか不思議です。  とにかくアメリカは、自分たちは常に正しく、勢力均衡が我慢できない。その点、世界赤化を究極目標としたソ連共産主義と同じです。

 西尾 そう、共産主義と精神的につながります。

 福井 一種のメシア的、千年王国的な特異な発想です。

 西尾 基本はキリスト教ですね。

 福井 ユダヤ教に先祖返りしたようなキリスト教と言えるかもしれません。その根底にあるのが救済思想です。

 西尾 それこそ、ニーチェが批判した思想ですよ。

 福井 ニーチェのキリスト教批判の対象はプロテスタントですよね。カトリックは地上で神の国を実現させようなどとは考えませんから、葬式仏教ならぬ結婚式キリスト教として、ニーチェにとっては無害だったのでしょう。

  西尾 ニーチェが救済思想を批判したのは、弱者が宗教的道徳を利用して権力者になろうとし、そこに虐げられし者が必要になるという構造があるからです。弱者は地上で満たされなかった権力遺志を天上で得ようとして救済の理念に走りますが、ニーチェは、そういう弱者を利用して強者になろうとしたり権力を得ようとしたりする人々を、最も賤しい人間、「賤民」だと厳しく批判しました。  カトリックとプロテスタントの違いは、いわば大人と子供の違いです。ヨーロッパ諸国の侵略は、動機が非常にはっきりしていました。奴隷が欲しかったのです。中世ヨーロッパは奴隷を否定していましたから、奴隷がいなかった。騎士道もありました。社会的弱者を擁護するのが騎士たちの義務であり、決闘でも相手を認め、勝者も敗者を許すのが一般的でした。それに対し、アメリカには中世がなく、奴隷を内に抱えている。騎士道もなく、勝者が敗者をとことんやり込め潰滅させるまで止めません。やり方が子供っぽいのは、プロテスタントが主流であることも影響しているかもしれません。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「アメリカ観の新しい展開」(十二)

「対日戦争は『正義病』の歴史の一コマ」(西尾)

 西尾 宗教を見てみましょう。アメリカに渡った移民は多様で、メイフラワー号に乗ったプロテスタント、ピューリタン(清教徒)だけではありません。カトリックも、クエーカー教徒もいました。ただ、いずれも宗教戦争に敗れ、排斥され、追いつめられ、救いを求めて新天地に逃れてきた人々でした。その彼らがインディアンを根絶やしにし、黒人を奴隷にしたわけです。

 江戸時代の太平にまどろんでいた同時期の日本人には夢にも考えられないような残虐な体験の数々が、アメリカという国の体質の深層にあるのではないか。その体験がトラウマとなり、これまで取りあげてきたアメリカの「正義」という問題、「正義病」と言ってもよいアメリカ人の行動原理を形成したように、私には思えてなりません。

 ヨーロッパで迫害され、追放されて心に傷を負ったがために抱えた宗教的な救済思想が、彼らを「正義」へと駆り立てる。そうであるがゆえに、インディアンを虐殺し、黒人を虐げたことを直視することができず、頑なに「救済する国家」として振る舞う。心のトラウマの反映だと思います。戦いでは自分の側には決して落ち度を認めず、相手の自尊心をつぶすまで打ちのめす。敗者の気持ちを認め、許し、生きる道を残すという勝者の余裕もない。相手の息の根を止めるまでやる。日米戦でも、日本に無条件降伏を要求し、結果として戦争を長引かせました。相手にも理があると考えてみるという発想を最初から頭の中から追い払っています。

 この対談の第一回で述べた南北戦争の戦い方もそうでしょう。第一次世界大戦で破ったドイツのヴィルヘルム二世の訴追。第二次大戦でナチスを裁いたニュルンベルク裁判や東京裁判では、人類の名において敗者を裁いた。人類という名前を出すことで、自分たちの問題を巧妙に消し去ったのです。十字軍意識と言ってもいいかもしれません。この十字軍意識というものが、戦争に至った日米関係を考えるうえで、いままで語られてこなかった重要な要因だったのではないか。

 日本だけなく、イラクに対しても、イスラム原理主義のゲリラたちに対しても、イランに対しても同じです。自分たちが守り育てて擁護して優しい態度をとっていた相手に対して突然豹変して、徹底して破壊する。第二次大戦中は、アメリカはソ連とも手を結んでいました。前回の対談ではアメリカのウォール街とコミュニズムの論理が近いという話をしましたけれども、ソ連と握手できる要素があったにもかかわらず豹変して、半世紀近くも世界中を厳しい対立状況におき続けた東西冷戦を生み出した。あるいは?介石と中国を賞賛して熱心に支援しておきながら、大戦が終わると手のひらを返すように?介石も中国も否定してしまった。そして突然、また手を結んだ。自らの主観だけで善か悪かを決めて、悪だと決めたら、あるいは言うことを聞かなければ殺してしまう。極めて単純で脳にひだのない自己正当化を繰り返してきた。  虐殺したインディアン、奴隷とした黒人たちのほうが「正しかった」と少しでも考えたり、自分たちの理を疑い始めたりすると国家が崩壊してしまう。アメリカ人自身の人格が崩壊してしまう。だから屁理屈をつけてでも、「あいつらが悪いからこうなった」と信じ込んでいる。本当は違うと薄々は分かってはいても、その感情を押し消している。これが、アメリカの「正義病」の根源なのだと思います。

 冒頭で申し上げた、さまざまな要因の総合作用として歴史をみるということは、こうした分析です。日米関係だけに注目して日米戦争を考えると、わが国がペリーに強姦された、あるいは黒船来航以降の日米の宿命的な対立が戦争へとつながった、といった受け身の議論になり、誤解を招きやすい。日本だけに視点を向けた従来の矮小な議論、蛸壺史観へと議論が方向づけられてしまうからです。

 日米が開戦に至った理由を考えるうえで日米関係を特殊化してはならない。そうではなく、「アメリカとは何か」という命題を立ててアメリカの歴史全体の中で考察する。インディアン虐殺や黒人奴隷、フィリピン征服などアメリカ人が起こした世界史的トピックの流れの中に対日関係、日米戦争を位置づけることで、見えてくるものがある。「アメリカとは何か」という命題を生体解剖学的に考えるべきだと思うんですね。

 福井  米英ソのような本物の大国に比べれば、戦前の日本はせいぜい二流の地域大国でしかありませんでした。その日本が戦争を欲したので世界大戦となり、日本がおとなしくしていれば東アジアの平和は保たれたという現在支配的な史観は、悪役とはいえ日本をまるで世界史の主役であるかのように描く、裏返しの皇国史観ではないでしょうか。そういう人に限って戦前の皇国史観に批判的なところが滑稽ですが。

西尾 戦後の左翼こそが皇国史観だというのは言い得て妙で、面白い見方です。今までの話を少しつづけます。

 中国という国が、「北守南進」といって北方に向けては万里の長城をつくって守りを固め、南方へ進むという本能を持っていたように、アメリカには「東守西進」の本能がある。東方に対してはモンロー主義という名前で防波堤をつくり、西方にはどんどん遠慮なく進撃してきました。  リンカーン政権の国務長官だったスワードは、南北戦争を戦いながら大西洋の守備の重要性を訴えましたが、大西洋には防衛拠点となる島がないために苦労した。そのために彼は太平洋時代に備えてハワイ征服を考えます。これは一八六〇年代の話で、実際にアメリカが太平洋に進出してハワイを侵略するにはそれから三十年を要しましたが、スワードは一八六七年にアラスカを買収するなど、さまざまな太平洋進出策を画しました。いわばアメリカにおける最初の帝国主義者です。彼は太平洋と大西洋を睨んでいた。つまりアメリカは日本だけを叩こうとしたのではなく、大西洋も太平洋も睨んでいたのです。その根底には「ワン・ワールド」思想があった。そのことを抜きに、当時の日米関係を語ってはならないと思います。「私たちの国対アメリカ」という構図で考えるのはあまりに矮小だということです。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「アメリカ観の新しい展開」(十一)

アメリカは なぜ日本と戦争をしたのか 下

「正義病」の根源 「アメリカ人とは何か」という視点で歴史を 分析して初めて見えてくる日米戦争の深層

 西尾 少し長く話したいと思います。私は、歴史というものは、宗教であったり、人種であったり、金融であったり、地政学的な力学であったりと、さまざまな要因の総合作用の結果なのだと考えています。とくにアメリカの歴史を考えるときには、そうした視点が必要です。  十九世紀のヨーロッパにとって、「アメリカ」とは端的に言って「ラテンアメリカ」、つまり南米大陸を指す概念でした。十九世紀初頭、南アメリカの原住民、いわゆる「インディオ」の人口は千五百万人でした。これに対し、北アメリカの「インディアン」は五十万?百万人です。それだけの差があったのです。移民の数も南アメリカが千七百万人で、北アメリカの五百万人の三倍以上でした。

 ところが約百年後の十九世紀末には、南北の移民の数は逆転していました。南アメリカの六千万人に対し、北アメリカは八千万人。力が一気に北に移動し、いつの間にか北アメリカがアメリカの代表になっていたのです。

 いうまでもなく、南アメリカの移民は主にスペインから、北アメリカの移民はイギリスからやって来ていました。当時の両国の政治体制をみると、いまだ封建末期だったスペインに対して、イギリスは近代国家の道を歩み始めていました。文明が歴史的に辿ってきた段階としていえば、百年から百五十年の違いがあった。あるいは重商主義と資本主義の違いと言ってもよいでしょう。移民も、南アメリカにやって来ていたのはスペイン王朝のための富を求めた人々だったのに対して、北アメリカにはイギリスの王家に反逆し、「新しい土地」で共和主義的自治国をつくろうとした人々でした。

 原住民への対応はどうだったでしょう。スペインからの移民たちの基本政策は、原住民をキリスト教に改宗させてスペイン国王に富をもたらす臣下にするというものでした。一方、文明がより進んでいたはずの国からやってきた北アメリカの移民たちは、インディアンたちを異質な存在として排除し、単純に除去しました。そのやり方がまた凄まじい。単に殺戮しただけではありません。彼らの生きる根拠だったバッファローをまず大殺戮することによって、インディアンたちを衰えさせた。もちろんスペインの移民も原住民を虐殺しましたが根絶やしが目的ではありません。

 この原住民への対応の違いはスペインとイギリスの文明の違いによるものではなく、大きくは原住民の数の違いによるものと思います。南アメリカでは移民よりも原住民の数が圧倒的に多かったために排除できず、混血が広がった。混血によって人種の違いを緩める政策をとらざるを得なかった。つまり、スペインとイギリスの南北アメリカでの振る舞いには、表面的な違いはあっても、膨張主義、占有欲、征服、そして抵抗する意志のある原住民は排除するという共通項があったということです。

 異なっていたのは、北アメリカの移民たちがインディアンを除去するに当たって、宗教的な屁理屈をひねり出していたことです。キリスト教の新約聖書の言葉を使いました。「マタイ伝」二十四章二十七節のイエスの予言です。「神はこの世の終わりにあたって、その福音を西に伝えようと思っておられた。福音はかつて東から昇り、これまでは光によって東方を照らしていたが、この世の後半期になれば西のほうに傾き、沈む前にはこの西方の部分を輝かしい光で照らしたまうのである」

 移民たちはこの福音を、広々とした西部はキリストが与えてくれた征服にふさわしい土地で、拡大することが許される新天地だという劇的な暗号として受け止めました。これが有名な「マニフェスト・ディスティニー」という信仰にもつながります。この言葉は、一八四五年にサリバンというニューヨークのジャーナリストが最初に唱えた特殊なイデオロギーで、メキシコから奪ったテキサス併合の正当化に用いられました。百年以内に二億五千万人もの人口に達する白人がアメリカ大陸を占領するのは明白な神の意思であり、自由な発展のために神が割り当てたもうたこの大陸に拡大していくのはわれわれの運命、「ディスティニー」だとサリバンは述べています。第七代大統領のジャクソンは白人のアメリカ大陸への西進を進歩と文明のマーチだと言いました。西部開拓のイデオロギーを表わすフロンティア精神とは、侵略の暗号である「マニフェスト・ディスティニー」を朗らかな言葉で言い換えたにすぎません。

 さらに、アメリカの西部開拓でわれわれが見落としてはいけないことがあります。映画「アパッチ砦」で有名なインディアンのアパッチ族との抗争で、アパッチ族を捕らえて軍隊の監視下に置いた留置場が一九一四年まで存続していたということです。私がアメリカの対日姿勢のクリティカル・ポイントだと言った一九〇七年よりも後です。カリフォルニアの排日運動も起きていて、米比戦争によるフィリピン征服もすでに終わっていました。米比戦争の過程では桂・タフト協定(一九〇五年、日本がアメリカのフィリピン統治を、アメリカが韓国における日本の指導的地位を相互承認)も結ばれ、太平洋をめぐる日米対立の構図が姿を見せ始めていました。アパッチ砦、つまり「マニフェスト・ディスティニー」に支えられた西部開拓と対日戦争は歴史として連続していたのです。

『正論』25年2月号より

(つづく)