「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)

 昭和35年(1960年)私は大学院の修士二年に在学中であった。本郷のキャンパスは興奮に包まれた。樺美智子さんという一学生が「虐殺」されたというのである。実際には国会正門になだれこもうとしたデモ隊に踏みにじられて圧死したのである。

 しかしそんなことが聴き入れられる雰囲気ではなかった。酩酊していたのは学生たちだけではない。ほとんどの教室は休講だった。教授たちもこういう日には授業なんかしていられない、一緒に国会デモに参加するという人が多かった。

 手塚富雄教授(ドイツ文学)は保守的学者だと思われていたが、翌月の文芸誌『群像』に「学生たちのニヒリズムは終った」とかいう題のデモ讃美の評論を書いていた。

 私はおかしいと思っていた。安保改訂はそれまでの「不平等条約」の日本からみての一歩前進なのである。今でこそこれは通り相場になっているが、そういう常識が評論の世界でさえ言えるようになるのにもそれから20年はかかっている。

 私とて確信があったわけではない。大学の内も外も、新聞も雑誌(当時の代表誌は『中央公論』)も、私の考え方に相反する内容に満たされていた。私はまだ若い。「おかしい、変だな」と思うだけで、それ以上言葉にならない。

 大学で私は黙っていた。デモには一度も行かなかった。気になるから本郷の構内にまでは行くが、私と同じ少し斜にかまえているごく少数の友人とひそひそ語り合い、「冷笑派」に徹していた。

 その少数の友人たちとも政治的議論を詰めて語り合ったのではない。デモの旗を振っている同級生のリーダーを「あいつはアナウンサーみたいにペラペラ喋る奴だな」と嘲りの言葉を口走って、憂さ晴らしをしていただけだった。

 私が秘かに個人的に深めていた時流への批判と疑問を、大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。

 樺美智子さんが死亡した翌日、構内は「今日のデモは葬い合戦だ」と騒然としていた。法文大教室では社会党の議員が演説をしていた。「虐殺抗議大集会」と張り出されていた。

 私は「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったら、友人の柏原兵三君――後に芥川賞作家になり38歳で亡くなった――が私の口をぱっと塞ぎ、手を引いて人混みをかき分け、会場の外へ連れ出した。

 私の身に危害が加えられるのを彼は恐れたのである。友情から出た思慮深い行動だった。

 われわれは少し間を置いてドイツ文学科の研究室に行くと、大学院生がほゞ全員集っていた。そして何やら熱心に座の中央で演説をしている同級生がいる。その人の名は柴田翔といい、彼もまた『されどわれらが日々』という学生運動を扱った小説で芥川賞を後日受賞している人物である。その頃のドイツ文学科には多彩な人材が多く、古井由吉君もこの同じ場にいたはずである。

 柴田翔君が次のような提言をした。「今日は午後、大きなデモが計画されている。学部の学生諸君は国会正門を突破すると言っている。警官隊も今日は手強いと思う。何が起こるか分らない。大学院生のわれわれは学部の学生諸君に頑張れ、とエールを送りたい。独文科大学院生の名において独文科の学部の学生諸君の行動を全面支援する声明を出したいが、全員賛成してもらえるか」

 「賛成、賛成」という声があがる。黙っている人もいる。私は変だなと思った。ちょっとおかしいもの言いだと思った。手を挙げて次のように言った。

 「本日の危険なデモに際し学部の学生諸君の行動をわれわれ大学院生が支援するかどうかという問題ではなく、われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか」

 「大学院生の声明は学部の諸君を勇気づけることになる」と柴田君は言った。

 「それはおかしい、大学院生の特権意識ではないか。」

 すると柴田君はすかさず次ように言った。
 「西尾君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている。」

 そうだ、そうだという声があがり、ある人が大きな声で「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と言うと、興奮した一団の声は一気に高まり、私の言葉をかき消した。

 今まで黙っていた、平生温和しいM君――後にドイツ中世語の研究家となった――が「西尾君の言う通りだと自分は思う。自分がデモに参加するのかしないのか、参加できるのかできないのか、それが問われるべき問題なのだ。」

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(十)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 しかし程度の差はあれ、古典のオリジナルの消滅とその再生のテーマはわが国においても同様です。わが国にはヨーロッパとは異なる独自の困難な条件がありました。

 自らの言語の表音体系を表意文字で表していた矛盾が、江戸時代に入って、歴然と口を開けます。

 荻生徂徠は漢文の訓読みを廃して、唐音に還ろうとします。本居宣長は儒仏を排斥し、純粋な古語に戻ろうとします。

 神道、仏教、儒教の三つの神は習合していたようにみえ、かなり自覚的に三すくみ状態になります。それぞれ固有の神を求めるパッションは一挙に高まります。

 その中で契沖は決して排他的ではありませんでした。人々がまだ文字を持たない単独素朴な時代、神々をめぐる口頭伝承のほか何も知らないナイーヴな時代に、表意文字が入ってきて、文字で自らの音体系を表現した「万葉仮名」の解明は、エラスムスを駆り立てた聖書のギリシア語訳の努力にも似た、あるいはそれ以上の困難な謎の探求でした。

 校合に客観的で、内証に科学的であろうとした契沖の情熱は、ほとんど信仰者のそれです。「本朝ハ神國ナリ」の叫びは本然のもので、何の不自然もなかったはずです。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

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エラスムスの肖像画:ホルバイン

 北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。

 そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです。

 彼は四つの古いギリシア語写本を資料として見つけていて、教会が必ずしも好まないことをします。聖書の写本断片と自分の拙いギリシア語の力で聖書のオリジナルを復元し、キリスト教の神に関する真実を知ろうとしたのでした。

 西洋古典文献学と聖書解釈学がその後互いにからみ合って進展するヨーロッパの精神史の発端をなすエピソードといってよいでしょう。

 ヨーロッパ人が自己同一性(アイデンティティ)を確立するのに、15-16世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教も儒教も外から来たものですが、日本人はヨーロッパ人のように、仏典や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を知りません。

 ヨーロッパの各国における言語ルネサンスがまずギリシア語の獲得に向かったのは当然です。その後科学的精緻さを駆使して、古典古代の研究が激しく情熱的に燃えあがったのも当然です。

 聖書がばらばらに解体され、文献学的解釈学によって相対化のきわどい淵にさらされたのも当然です。

 彼らの破壊は神を求めるパッションの表現そのものでした。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(八)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 西洋でも中国でも古代文明の崩壊と消滅は日本史では測ることの出来ないほど巨大なスケールで起こり、同じ歴史が連続したとは思えないほどでした。ギリシア・ローマの伝統は地中海が約千年間イスラムの支配下に入った後では、アラビア人の歴史に属するのであって、今日西ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史とみなすのはその後の「学習」の歴史以上のものではありません。

 中国史においていわゆる漢唐時代で古代は終わり、それ以後の中国史の連続性には疑問があります。モンゴルの征服による元朝の成立は漢民族の歴史に断絶をもたらしています。

 これに比べると日本史に古代の成立と没落のドラマが本当にあったのかと思われるほどに、変化の規模は小さいのです。

 源平の戦乱があり、承久の変を境いに古代王権に変化が生じますが、民族の同一性の度合いの高さと、神仏信仰を中心とした宗教の融和性の特質が、ある種の歴史の連続性を保証しています。

 西ヨーロッパと呼ばれる地域には、古代はなく――各国の歴史教科書の古代はエジプトからです――、各民族の歴史は中世から始まります。その時期が日本の古代史の後半と中世史にほぼ重なります。

 古代の文献の伝承の流れを跡づけてきた本書では、時間尺の短い日本の条件の有利さと、それにも拘わらず古代文書の原文は消えてなくなり、写本の確実性も保証されないという宿命において、問題の質が同じであることを見届けました。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(七)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 契沖は仏僧でありながら、儒教をよく知り、他方また空海の影響も受け悉曇(しったん)――サンスクリットのこと――に通じていたことが、彼を音に敏感にしました。

 漢字の世界に梵語という表音文字がクロスしてきたことは、漢代の中国語をも揺さぶりますが、万葉仮名を解読し、歴史的仮名遣いを確立することに成功した契沖の場合にも、表音文字であるサンスクリットの漢字化の問題には無関心でいられたはずはありません。

 いずれにせよ彼は、古代日本に流入したものの何かにこだわって何かを拒否したことはないのです。宣長のように儒教や仏教に対し外来の思想として敵意を示すたぐいのことはありませんでした。

 文字を持たない素朴な古代日本人の生き方を彼はそのものとして認め、受け入れ、そこに自ずと道、古道、神の道の成り立つさまをみたのでした。しかもそれは歌の姿に現れるのであって、歌こそ彼には神の御業なのです。

 『萬葉代匠記総釈』の冒頭に次のようにあります。

 

「本朝ハ神國ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ。上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ傳ヘタルマヽニテ、神道トテ、儒典佛書ナドノ如ク説オカレタル事ナシ」

 契沖が客観性を重んじ、科学的であろうとしたことと、「本朝ハ神國ナリ」と断じたこととは少しも矛盾しておりません。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(六)

 私は『国民の歴史』の中にもう一項目書きたい、と計画し、担当者に打明け、時間切れで不可能になったテーマがある。すなわち「西洋古典文献学・清朝考証学・江戸の儒学国学」である。古代の聖典の探求と復元、その挫折と懐疑、そのとき三つの場所で歴史意識が試され、確かめられた。

 私は別名でこれを「言語文化ルネサンス」と呼んでいる。16世紀から19世紀にかけて地球上のこの三地域に発生した古代の呼び戻し運動、あるいは古代精神の現代への奪還、分り易くいえば神の再生のドラマを指している。再生の前には必ず神の破壊のあるのが特徴である。

 平成12年9月16日、東京杉並公会堂で「つくる会」主催の二度目の私の四時間独り語りが行われ、その題名は「江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋」であった。『国民の歴史』(平成11年10月刊)に盛り込みたくて時間切れで諦めたテーマを語った。この日は田中英道氏の「葛飾北斎とセザンヌ」のスライド比較紹介もあったので、それも入れると延べ5時間をこえる催しとなった。

 それでも、一講演のモチーフはそんなに大きくはない。まとめれば小さくなる。『諸君』平成13年7月号に講演の一部を転載し、連載を始めてから、小さい入り口からどんどん大きくふくらんだ。断続連載で平成16年9月号までに20回を数えるに至って、(しかも終りごろは1回に60~70枚もゆるしていたゞき)終わってから2年近くたってやっと整理の最終段階を迎えている。

 なぜ整理にそんなに時間がかかったのか――勿論小泉選挙や「つくる会」混乱に気を散らしたのがいけないのだが――理由はあまりにテーマが広く、多方面に及んでいることにある。なにしろヨーロッパと中国と日本における古代認識と「古代ルネサンス」のテーマである。古代と近代の衝突の問題である。渉猟した文献は数百を越えた。あちこちに、それぞれが大きな主題を内蔵した複数の重い房を垂らしたような、異様な形態の一冊になりそうである。

 ところで第16章「西洋古典文献学と契沖『万葉代匠記』」にロッテルダムのエラスムスが登場する。この肖像画を描いたのがハンス・ホルバインである。

 第16章の末尾の小部分を以下に四回に分けて掲示するが、勿論、叙述の中心は契沖である。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(五)

 エラスムスとルターの論争は西洋精神史における最も深刻、かつ最も影響の大きい思想のドラマの一つである。追及するのを忘れてしまった私がいけない。まだ人生に時間は残っているので追いかけるかもしれないが、私の関心はご承知の通りその後ニーチェに向かった。

 ニーチェは24歳でバーゼル大学の教授になり、ブルクハルトに出会い、ワーグナー夫妻と交流し――バーゼルから夫妻の住む同じスイスのルツェルン近郊トリプシェンへ行くのは難しくない――、そして『悲劇の誕生』をバーゼルで書いた。

 私は29-30歳で『悲劇の誕生』を翻訳した。以来、この天才に呪縛されたのは紛れもない。ある人から「先生の『国民の歴史』は『悲劇の誕生』の影響を受けていますね。」と言われて、考えてもいないことだったのでハッと驚いた。「そうだったのか。ウーン、そうなのかもしれない」と思った。表立ってニーチェの名はほとんど出てこない本なのだが・・・・・・。

 ニーチェは文献学者だった。しかし文献学を破壊する文献学者だった。すべての歴史は文献学に行き着く。しかし文献学にとどまる限り、歴史たり得ない。

 仏陀にせよ、イエスにせよ、孔子にせよ、いくら文献を追求してもその実像は把えられない。仏陀のことばなどはごく一部の経典に記されたのは仏滅から500年も経った後である。すべては口から口へ伝承されたにすぎない。

 『論語』が孔子の実像を伝えているという保証はない。あれは聖人のばらばらの発言集である。門人たちの覚え書きである。『聖書』も使徒たちの編集と改修の手を免れていない。

 歴史とは何か? 
 歴史とは神話である。歴史と神話との境界線は定かではない。

 近い歴史を考えるわれわれでさえ「神話的」思考をしている。イラク戦争の原因について、われわれはすでに薄明の中にあり、トロイ戦争の時代の人よりもっと神話的かもしれない。

 それでも人は言葉を求める。言葉による説明や解釈なしでは人間は生きていけないからだ。たちまち不安になる。歴史の成立は矛盾を孕んでいる。

 ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。

 歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。文献学がなくてはどんな学芸も、どんな哲学も、どんな叡智も成り立たない。文献学は自覚のやり直しの場といってもいい。それを別のことばでいえば「歴史意識」ということになる。

 この地球上で歴史意識が存在した場所は地中海域と中国と日本列島の三個所しかない。文献学が誕生し、展開したのもこの三個所である。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(四)

 ほゞ40年前の文章を本の中から取り出してこうして一区切りごとに丁寧に読むと、まるで自分の文章でないような気がしてくる。

 「ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる」といった一文などは紛れも無く私の文章で、振り返ってみると私は四十年にわたり「あらずもがなの無用の言論」をずっと相手に「黙れ」「沈黙せよ」と叫び続けてきたようにも思える。

 キリストの遺骸の絵について私はいま語るべき新たな言葉もない。たゞインターネットで大きな画像を読者にお届けできる時代になったことが不思議でならない。

 私の本にはこの絵の挿絵は載っていない。また仮りに載っていても小さなモノクロ写真ではイメージを喚起できまい。もっぱら私は文章だけで衝撃を伝えようとしていた。文字は無力である。あらためてそう思う。

 私は格別にホルバインの研究をしてきたわけではなく、彼について知る処は少ない。たゞ私の処女作がこの絵を取り上げ、さらに私がいま出版を前に原稿の整理に入っている『江戸のダイナミズム』がロッテルダムのエラスムスを取り上げていて、ホルバインはエラスムスと縁が深いのである。

 スイスのバーゼルからの友の手紙で本稿は始まった。バーゼルは19世紀の精神史でいうとブルクハルトとニーチェの名がまず出てくるが、ルネサンス期の16世紀の精神史でいうと人文主義者ロッテルダムのエラスムスの名が大きいのである。エラスムスはこの町で幾つもの重要な事跡を残している。逗留した家も残っている。

 『痴愚神礼讃』を書いている。聖書のギリシア語原典の復元を試みている。意志の自由をめぐってルターと論争している。『痴愚神礼讃』の挿絵を描いたのがホルバインであった。また、彼は一枚のよく知られたエラスムスの肖像画――後でこれはお見せする――を残している。

 『痴愚神礼讃』は軽妙洒脱な本である。人間を生殖へと追い立てていく「痴愚神」、人間を戦争に駆り立てる「痴愚神」――いわば人間の狂乱と無思慮に対する痛烈な風刺の書といってよいだろう。どことなくからかい口調であれこれ人間の愚行について例をあげてさんざん言いたい放題。自由に語りかけるおどけた調子もあれば、危険思想ととられかねない激しさを秘めた苛烈な言葉も垣間みられる。若いころ私はすべての人間をバカ呼ばわりするエラスムスのものの言いように多少とも反感を覚え、この人の立脚点は何処にあるのかと怪しんだものだった。

 これに比べルターの『奴隷意志論』は厳粛そのものに見えた。人間の意志には自由はない。神の全能と全知に対し、人の意志の不自由を対比させ、人は罪のうちにあるがゆえに、善を行うことにおいてまったく無能力である。これを救うのはたゞ神の恩寵の独占的な働きのほかにはない。・・・・・・・・

 ルターとエラスムスとの自由意志をめぐる論争は学生時代に私がある友人とたびたび交わした論点の一つであった。互いにまだ知識もなく、わけもなく真摯に考えるべき人生の最大の難問の一つと思えていて、熱心に論じ合ったものだった。その友人はルターの研究家になった。ハイデルベルクに留学した。私はいつの間にかルターも、エラスムスも忘れてしまった。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(一)

 バーゼルに住む若い友人平井康弘さんから家族旅行の写真を添付したメールが届いた。今年はヨーロッパも異常気象で、熱波の襲来らしい。早くも会社を閉めてバカンスへとくり出す人が相次いでいるそうだ。

 ご一家はアイガーやユングフラウを望みながら3時間ほどのハイキングをした後、宝石のように輝くエシュネン湖に出るとそこは断崖絶壁に囲まれ、反対側の湖岸に見える滝に近づくには手漕ぎのボートで湖を横断しなければなりませんでした、と楽しそうに書いてこられた。写真を見るとなるほど絶景である。佳き夏の日々であるようだ。

 そして下欄に追伸として、バーゼル市立美術館が開催したハンス・ホルバイン展を見て来ました、と書いてあった。メトロポリタンやルーブルや大英美術館など至る処から彼の作品を集めての展示ではあるが、バーゼル市立美術館所蔵のものがやはり主流をなす、とも書いてあった。「エラスムス像や死せるキリストの絵は先生のご教示で私にとっても思い出の作品です。案内のパンフレットを後日送らせていただきます。」

 間もなくパンフレットが送られてきた。見覚えのある作品が細長い紙の表にも裏にも並んでいた。あゝそうか、と私は思い出をまさぐるように画像を眺めては独りで合点していた。

 私のバーゼル初訪問の若い日の記録は「ヨーロッパを探す日本人」の名で日録にも掲示させてもらったが、ホルバインを見たのもたしかあの初訪問の折である。そして、死せるキリスト、正しくは『キリストの遺骸』(1521-22)を見て衝撃を受け、文章を認めた。

 私の処女作『ヨーロッパ像の転換』の第11章「ヨーロッパ背理の世界」の結びにこのときの強烈な印象が綴られている。旧著を知っている方はご記憶にあるかもしれない。しかし若い読者はこの本をもう知らないかもしれない。

 昭和43年(1968年)11月号の『自由』に掲載されたと記録にある。バーゼル初訪問から二年ほど経っている。33歳になったばかりの8月か9月かに書いた文章だと思う。少し気負っているのは若さのせいとお許しいたゞきたい。

 ホルバインの世界が私の処女作と今私がやっている著作との二つに期せずして関係していることを友人の手紙は思い出させてくれた。

つづく

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Paul-Klee パウル・クレー

「赤いチョッキ」1938年、糊絵具、黄昧、65×43ノルトライン=ヴェストファーレン美術館蔵Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen, Düsseldorf

東京新聞 7月25日夕刊の記事より (注)

パウル・クレー 創造の物語

日本人好む抒情世界

 「西洋名画三題噺(さんだいばなし)ルソー、クレー、フェルメール」というエッセーを書いたことがある。ルソーは日曜画家のはしりといわれた純真無垢(むく)な魂アンリ・ルソー。フェルメールは十七世紀オランダのデルフトの室内の働く女性たちの衣裳(いしょう)に静かな微光(びこう)の漂うような細密画家。そして児童画のように単純な表意的形象の世界パウル・クレー。この三人を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初であり、最後であろう。

 西欧世界らしからぬ慎(つつ)ましさの詩的小世界。なじみやすい“日本人好みの系譜”といっていい。ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が愛好し、フェルメールは海外旅行が普及した現代日本の人気の的である。三者に共通する「メルヘン的抒情(じょじょう)世界」こそ、日本人が自分の似姿を西欧に投影している現れである。

 

西尾幹二 (評論家)

「パウル・クレー創造の物語」展(東京新聞など主催)は、8月20日(日)まで、千葉県佐倉市の川村記念美術館で開催中。詳細はhttp://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/klee2006/

注:東京新聞の掲載は当初予定の21日から25日になりました。