西尾幹二全集刊行記念講演「戦争史観の転換」要約と感想

ゲストエッセイ 

 中村敏幸氏による感想

 今回の御講演に於いて、先生はペリー来航以来我が国が対峙してきたアメリカに対し、そもそも「アメリカとは一体何者か」という根源的な問題提起をされ、続いて近現代史の定説を覆す画期的な数々の見解を披歴されました。以下に御講演の要点をまとめ些か感想を述べさせて頂きます。尚、「 」内は先生の御講演内容の要約であり、他は投稿者の感想です。

1.アメリカとは一体何者か

 先生は冒頭、「太平洋を隔てた遥か東の大陸に、今からわずか350年程前に、突然異変が起こりました。予想も出来ない異変。把握しがたい別系列の人種、別系統の文化、自然信仰ではない、一神教教徒の集団が出現しました。これがまた厄介な相手で、どんなにはた迷惑でも無視する訳には行かないのであります。この様な隣人の存在は正直言って、我々にとって不運であり、不幸であります。しかし、我々は過たない様にするためにその存在形式を見極めて耐え忍ばねばならないのも現実であります。アメリカとは一体何者か、アメリカ自身は最も代表的な国のような顔をしていますが、アメリカは一つの国家だろうかという疑念を抱くのであり、アメリカは他の国々と全く異質な国なのではないか」という極めて大胆で根源的な問題提起をされ、「我が国が道を過らないためにはその正体を見極めなけれはならない」と訴えられ、数々の見解を提起されました。
  
2.第一命題:「アメリカにとって国際社会は存在しない」 

 先ず、「先の大戦が終わって67年、米ソ冷戦が終わって23年、少しずつ分かってきたことが有ります。米軍がヨーロッパ、ペルシャ湾岸地域、東アジアに駐留していた理由は、長い間ソ連に対する脅威だと思い込まされてきました。しかし、冷戦が終わり、ソ連が崩壊して脅威が消滅しても、米軍は撤兵しない。世界中の基地を維持し続けています。そもそも日本の本土は兵力がほぼ空っぽなのに基地は返還されません。人々はアメリカのこの特権的な地位に対し、おやこれはおかしいぞと思い始めていると思います。第二次大戦の終結により、西欧諸国は植民地の独立を認めざるを得なくなり、冷戦が終わり、世界は『ウェストファリア体制』に立ち戻ったかに思われますが、しかし、どうもそうではない、アメリカはそういう国々の一つと思っていないようであり、アメリカは国際社会の一員ではありません」と説かれました。

 つまり、「アメリカは国際社会の一員ではなく、世界を一極支配する役割を担った国である」と自己認識している国であると結論づけられたように思います。

 確かに冷戦が終わっても、アメリカは一部を除き世界中の基地を維持しているだけではなく、湾岸戦争やイラク戦争、コソボ紛争に続いてテロとの戦いを唱えアフガン戦争を引き起こし、撤兵するどころかサウジアラビアやコソボなどに巨大な軍事基地を増設しています。また、アメリカは「六か国協議」という茶番劇を続けながら北朝鮮の核開発をなし崩し的に容認し、中国の軍拡もアメリカの東アジアに於ける軍事プレゼンスを正当化するために必要としており、フィリピンからの撤退も中国の脅威を助長するためではないかとさえ疑われます。

3.第二命題:アメリカ人の自己認識 

 ここでは、「アメリカは独立当初から、旧大陸ヨーロッパは老成し、頽廃し、病んでいる。新大陸アメリカこそ純粋な救い主であるという観念を基本として長い間持ち続け、『アメリカは一つの国家であると同時に世界である』と常に主張しているかに見えます。」と説かれました。

 続いて「私が最近読んだ、1968年に出版されたアーネストリー・テューブソンという宗教学者の『救済する国家アメリカ』という本の序文には『旧世界の頽廃と新世界アメリカのイノセンス』、と書かれており、ヨーロッパは駄目だアメリカこそ救い主だと言っている訳で、このような観念がアメリカ人の胸中に宿っていると思います。」と説かれました。

 思うに、建国の父といわれた清教徒は、旧約聖書の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲んでおり、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であり、その意識が今日でも根強く残っているのではないでしょうか。確かに、今日のアメリカに於いて強い影響力を持つキリスト教原理主義者は、旧約聖書の無謬性を信仰の中心に据えており、旧約聖書に書かれたことをそのまま信仰する者にとっては、世界は選ばれた民の支配するべきものであり、この観念がアメリカ人の心の奥底に脈々と受け継がれているように思います。

4.戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国アメリカ

 「アメリカという国は最初から強い国であった訳ではなく、19世紀の初頭までは実力のない新興国でしたが、独立戦争、南北戦争、米墨戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦い、戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国です。第二次世界大戦に於いても、戦争の初期と終わり頃とでは、アメリカの戦争の仕方はガラリと変わりました。戦争の初期はシンガポール陥落に見られる様に、平家物語の世界のように一番乗り、二番乗りを讃え、また、第一次大戦風の意識で戦っていました。しかし、1943年(昭和18年)以降大きな転機を迎え、アメリカの戦い方はガラリと局面を変えて、命中精度を求めた戦いから、大量の弾薬を消費する戦争になりました。集中砲火、火炎放射器の登場、そしてB29が登場して絨毯爆撃が始まり、最後には原爆投下まで行い酷薄で無慈悲になりました。」

 「わずか350年前に生まれ、東アジアには無関係な国が何故そこまでやるのか、あの国の異常さとは何なのかを歴史を遡って考えて見ることが重要です。何故アメリカは繰り返し戦争をする国なのか、戦争の度に国家規模を大きくする国、少なくとも国家体質を大きく変化させる国、戦争が終わってからではなく戦争の真っ只中に変質する国、そして、それが次の時代への適応を果たす国。こんな国はアメリカの他に例がありません。そして、それは戦争が終わった以降の70年近くに及ぶ地球支配の構造を決めています。」
  
 また、「日本はみすみす負けると分かっていた戦争に準備不足のまま不用意に突入したと言われますが、そんなことはありません。開戦当初は勝敗のゆくえは分からなかったのです。ところが、アメリカは1943年以降、突如、巨大で酷薄な軍事国家に変身したのです」と説かれました。
 
 振り返って見ると、アメリカは建国以来戦争を好み、現在に至るまで殆ど絶えることなく戦争を繰り返し、その都度変質を遂げて強大になってきた国です。そして今日に於いても、アメリカは国力が衰え始め、世界一の借金国になりながらも、世界一の軍事費を使用し、更に日本や欧州諸国に支援を強制してまで戦争を続け、アメリカ一極支配によるワンワールドを目指しているように思われます。
   
5.権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治

 「権力と政治の関係には、『権力をつくる政治』と、それに対し『つくられた後の権力をめぐる政治』の二通りがあり、『権力を作る政治』はむき出しの暴力を基本としていますが、我々が議論している政治は皆後者です。第一次大戦後、ワシントン会議やロンドン軍縮会議が行われましたが、これも何処かで権力がつくられた後の政治です。
 
 しかし、つくられた権力が行き詰まり、大きな裂け目が生じた時には、権力をつくる政治が行われ、その時にはむき出しの暴力が出現するということを歴史の上で度々経験させられてきました。現代もそうです。500年続いた資本主義の歴史が行き詰まり、金融資本主義が限界まできています。」と説かれ、アメリカによって、「また新たな権力をつくる政治」が行われつつあると警鐘を鳴らされました。
   
6.第三命題:脱領土的他国支配  

 ここで先生は、アメリカの他国支配が脱領土的遠隔支配であることを説かれました。

 「白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代からは自国の外に掠奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを通例としてきましたが、アメリカは例外で自国の外に奴隷の地を確保する必要が全くありませんでした。アメリカは領土と資源に恵まれ、人口密度も希薄で、移民を必要としていた位ですから膨張する必要の全くない国でしたが、その国が何故膨張してきたのか、ここに大きなこの国の持つ矛盾と謎があると思います。アメリカの西進は膨張する必要が無いのに『マニフェスト・ディスティニー』という、神がかり的な宗教的信条に基づいて行われてきたことは良く知られています。アメリカは中国大陸で列強が根拠地を求めて戦うことに冷淡でした。必要が無かったからです。そこで、『脱領土的他国支配』の方式を考え出したように思います」

 「大戦前、日本の指導者には利害関係に於いてイギリスを中心とするヨーロッパ的なギブ&テイクの国際関係は理解しやすかった。しかし、アメリカは、ヨーロッパ的なやり方を取らない。最初に私が提起した第一命題のように『アメリカにとって国際社会は存在しない』のです。日本の指導者にはアメリカの心の闇は理解出来なかったのです。イギリス人にも読めませんでした。イギリスにも読めなかったことが日本に理解できる訳がありません」 

 「日露戦争の後1907年頃から日米関係が悪化したことは良く知られています。ワシントン会議からロンドン軍縮会議を経て、正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力によって世界の遠隔操作を目指すアメリカの変質、これは日本には理解出来きず、何とか折り合いをつけ妥協しようとしましたが翻弄され続けることになりますが、ここにもアメリカという国の権力の出現が影響していると思います」
  
 「日本はあの大戦前どうしてよいか分かりませんでした。アジアを解放しようとするより、アジアに仲間が欲しかったのです。そして、恐怖や不安を仲間と分かち合いたかったのです。一緒にやろうと、早い時期に中国にも韓国にも呼びかけているわけですから。しかし、相手が無知迷妄、危機感もないし、危機感を持っていたのは日本だけでしたから、ひたひたと不安が押し寄せていました」と世界の脱領土的な遠隔支配を企てるアメリカの野望に翻弄された日本の戸惑いと苦悩を語られました。
 
 司馬遼太郎は日露戦争までの日本は賢明であったが、それ以降急激に愚かになり、特に昭和は愚かで嫌いだと切り捨て、保守と称する人々の多くも司馬史観なるものに毒されておりますが、司馬氏を地獄の底から連れ戻し、先生のこの見解を下に論戦を挑みたい衝動に駆られます。また、ウクライナ大使等を歴任された元外交官の馬渕睦夫氏は、近著「いま本当に伝えたい感動的な日本の力」の中で、「昭和に入ってから急に大政治家戦略家がいなくなったわけではありません。明治維新以来の課題が先送りされ困難が積み重なってきた結果、昭和に入って進退窮まってしまったのです」と書いておられますが、西尾先生が展開された論にも相通じるように思います。

 司馬氏や昭和史の大家と称せられる輩は、アメリカの理解しがたい「脱領土的他国支配」に翻弄され包囲された当時の為政者の苦悩を憶念することなく、西尾先生の言われるように日本国内のことのみを考察するだけで、当時の世界がどのような意図のもとに動いていたのか、更にその下に隠されていた闇を見ない、先生の言われる「蛸壺史観」の持ち主に過ぎません。
 
7.戦後書かれた歴史書は中立的で日本人の叫びが書かれていない。 

 次に先生は、大東亜戦争調査会から出版されたGHQ焚書図書の一冊である「米英の東亜制圧政策」という昭和16年に出された本を取り上げられ、「戦後書かれた歴史書はまともな本でも、どれを読んでも中立の立場で書く、当時の追い込まれていた日本の声を誰も書いていない。即ち半分はアメリカの立場で書いている。これを読むと当時の日本人の叫びが全部分かります」と語られ、「この本の中にワシントン会議に出席したフランスの海軍大学校長カステックス海軍中将が、『世界大戦中日本は協商側に属した、ところがワシントン会議が始まるとイギリスはたちまち仮面をはいで、海軍
の海上優越権をアメリカに譲りたくないという腹から、20年来の盟邦日本を見捨てることに同意し、日英同盟を廃棄してしまった。・・・・。この時から日本とアングロサクソンとの潜在戦争は重大化した』と述べたことが書いてあります。戦争は始まっていると言っているのです」と説かれ、更に、「この本の中に『アメリカとイギリスによる対支文化工作の具体的内容』という章があり、キリスト教布教を中心とする文化侵略について詳しく書かれております。

 支那大陸では学校等の文化施設がキリスト教組織に支配され、大変巧妙なやり方で牧師や教会が後ろから支那の青年たちに反日を焚き付け、反日運動に対し英米系のキリスト教組織が背後に有ってお金を配って煽動していました。日本は調査を徹底して行い事実を知っていたのです。だとしたら日本は方策を過ったのではないでしょうか。

 知識人は知っていて書いているのに政治家を中心とする要路の人には届かなかったのです。読んでいても動かない、具体的な行動に反映させなかったのです」と説かれました。

 我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入したというのが定説になって居りますが、そんなことはなく、少なくとも当時の識者はアングロサクソンの世界支配政策をしっかり調査し把握していたのであって、その事実はGHQによる焚書によって闇に葬られてしまったのです。そして、先生は戦後書かれた歴史書には対日包囲網の中にあって苦悩する日本人の叫びが聞こえてこないと訴えられました。
  
8.アメリカがどうしてパワフルな統一国家になったのか   

 「アメリカは独立戦争が終わると中央政府の力は衰え、主権のある独立したバラバラの州をどうやって一体性のある一つの国にまとめるかというのがワシントン以下の政治家にとって重大な課題でした。それが確立されアメリカがアメリカになった時、それが南北戦争です。大事なことはこの戦争の究極的な目的は、奴隷解放がメインではなく、州権を押さえて統一ある連邦の回復でした。リンカーン自身が大統領就任演説で『私は現在の奴隷州の奴隷制には直接的にも間接的にも干渉するつもりはない』と言っております。長い戦争であり、戦争が進行していく中で、結局奴隷制そのものを無くさないと南部の権力を倒すことが出来ないということが分かってきました。逆に言うと南部を叩き潰すことによってアメリカはアメリカになったのです。これによって、19世紀以降のアメリカの膨張の礎石が築かれ20世紀の運命を大きく変えてしまったとハッキリ申し上げてよいと言えるでしょう。何故なら、南北戦争以降、急速にアメリカの経済は発展し、産業国家としてアメリカの勢いが増し、膨張国家としても激しく大きくなって行き禍を世界中に振りまきました。もし南北が円満に分かれ
て州が独立した国家になっていれば、ヨーロッパのようにアメリカ大陸がいくつかの国に分かれていたら我が国の運命はどんなにか救われたことでしょう。私の今日の話はここに行きつく訳です。」と語られました。

 「南北戦争に於いて奴隷解放は手段であり、統一された連邦国家の実現こそが戦争の目的であり、この戦争によってアメリカがアメリカになり、膨張国家として世界に禍を振りまくスタート地点になった」と南北戦争に対する常識を覆す見解を提示されました。そして次に、それでは南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのかに論題が移ります。

 9.南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのか  
 「南アメリカには16の独立国家が生まれました。統一しようという動きは勿論ありましたがそれが出来ませんでした。それに対しアメリカは何故出来たのか。それはメシア的な思想によるものです。リンカーンは宗教家です。宗教的な信条が強かった人です。アメリカは国家であると同時に世界である。アメリカは常に世界政府を目指す。むきだしの暴力によって権力を作る政治を目指す。つくられた権力による政治は他の民族に任せておけば良い。アメリカが権力をつくるのだ。これは宗教的な情熱なくしては出来ません。その証拠として先程申し上げたテューブソンの思想をいくつか紹介しますと『合衆国は黙示録の指定された代理人として自らを正当化する必要は殆どない。神の摂理のステージ・マネージャーが歴史というステージの両翼からアメリカ国民が立ち上がるよう命じたかの如く思われる』、『千年至福王国理論の考え方はアメリカ植民地に対する独立の考えが誰かの頭に浮かぶ遥か前からあった。それはデモクラシ―の理想から独立して存在した』。即ちアメリカ国民は聖なる国民であると言っているようなもので、こういうことが力と結びついていたことは間違いないと思います。」と説かれました。

 テューブソンは、そもそもアメリカは独立戦争の前から、「千年至福王国を実現するために誕生した国であり、これは神の摂理である」と主張しているのですが、この宗教的信念によって北アメリカは統一を実現したと先生は説かれたのです。

 10.海上覇権国家ポルトガルとアメリカ 

 最後に先生は、アメリカは「脱領土的遠隔支配」をポルトガルの海上支配に学んだのではないかという仮説を披歴されました。
    
 「地球上を最初にかき回したのはスペインとポルトガルでした。つまり500年位前に『トリデシリャス条約』というものによって世界を二分しました。これは私の仮説ですが、スペインとポルトガルが世界へ進出した時のやり方に違いがありました。スペインは陸即ち領土を侵略するやり方でしたが、ポルトガルは海でした。脱領土のやり方でした。スペインは荘園をつくって大土地所有による領地支配をしたのですが、ポルトガルは海上を支配しただけなのです。スペインは大西洋を西へ真っ直ぐに進んだのですが、それに対しポルトガルはバスコ・ダガマがアフリカの西海岸を南下して喜望峰を回って北上しインド洋へ出ました。スペインとポルトガルでは侵略した地域の文化程度がちがっていました。ポルトガルが侵略した印度洋やアジアは豊かな海域であり、侵略した地域と折り合うことができませんでした。そこで、ポルトガルは『ポルトガルの鎖』を海上に張り巡らして、入港してくる交易船を掠奪しました。このやり方をイギリスが真似をします。18世紀位まで海上を封鎖する方法をとります。アメリカは遠隔操作の国と言いましたが、金融と海上と空の支配、ポルトガルとやり方が似ていませんか。アメリカは世界的規模で起こったことをしっかりと意識の中に持っていたと思います。」
   
 「外から地球全体を支配する発想。最初の話に戻りますが、日本列島から遠く離れたところに約350年前に特殊な集団が異常繁殖して巨大な意思を持つ権力を作り上げ、その権力の下に各種の政治学が生まれ、その政治学を一生懸命勉強していますが、しかし、それが行き詰ればまた更地にしてむきだしの暴力が新たな権力を生むということを繰り返すだけ、その様な発想で歴史と言うものを考えました」と御講演を結ばれました。

 今回の御講演に於いて先生は、常にきれいごとを唱え、清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義国家アメリカの歴史と正体を余すところなく説かれました。イギリスの清教徒革命は千年至福王国を夢見た革命であり、それが後にアメリカ建国へとつながったと言われておりますが、このようなアメリカの闇は親米保守主義者たちの目には見えません。世界各地への軍事力の展開と、グローバリズムや金融資本主義による世界の一極支配も限界に近づき、新たな裂け目が生じようとしている今日、アメリカによる「権力をつくる政治の動向」を諦視しつつ、我が国再生への道を模索しなければならないものと思います。

文:中村敏幸

坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(六)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 三島由紀夫は、東大教授の三好行雄さんとの対談で「今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですね。そして文学は、僕の中では依然として、来週の水曜日、帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です」と言っている。

 現代に於いても、「文学の世界では会えないような状況を追及する。世界をつくる」ということが、彼が小説を書く根本原理だと言っています。
 
 終戦直前の東大の学生寮を舞台にした「若人よ甦れ」という作品があります。一人の女学生の恋愛物語であり、明日のない世界であるが、明日はどうなるか分からないような状態であっても恋愛はあった。しかし、戦争が終わると恋愛は消えて無くなってしまったと書いている。

 行動と認識の一致と言いますが、先程、私は行動と認識は一致しないんだと言いました。

 意識が自由であるということは俗物であるということ、つまり、ニセ物だということです。皆ニセ物で生きているということです。

 三島を本当に理解した人、三島が最後に許した人は一緒に死んだ森田必勝たった一人であった。一番否定されたのは村松剛であった。一番理解しているような顔をしていて、アナウンサーのような解説をやっていて、三島に拒否された。一番近い人が一番激しく否定された。彼には三島さんに何が起こったのか解らなかった。ニーチェも、彼が最後に許したのは、一緒に付いてきたあわれな音楽家ペーター・ガストたった一人であった。母親も妹も許さなかった。

 ラディカリストというのはそういう恐ろしいもので、三島もニーチェも恐ろしい世界なんです。結局、三島文学というものは最終的に其処へいってしまった。

 三島さんに、「わが友ヒットラー」という作品があります。「サド侯爵夫人」の方のサドは舞台に立たたないで、主人公は舞台に立たないで間接話法で表現されているが、「わが友ヒットラー」では、ヒットラーという悪魔が、舞台に堂々と登場し、薄気味悪いほど切迫した説得力がある。私はこの舞台を見ていないので上演したときの効果は分からないが、この作品化が表現した主題は、ドイツでは全く扱われなかった視点である。それは不可能であった。この作品が、凄絶にリアルな印象を与えるのは、三島自らヒットラーの狂気に取りつかれ、自ら狂気と化して書いているからです。自己の文学であり、認識と行動の一致であった。三島自身の政治参加と密接な関係があった。狂気を客体化することではなくて、自ら狂気と化することによって、狂気をぎりぎりのところで意識化しまし。そういう意味で盾の会は彼の文学のために必要であったのです。

 ホッホフートやペーター・ヴァイスなどのドイツの作家の試みたナチス批判は、たとえ、ノーベル賞をもらった人でも単なる批判であって文学になっていない。ヒットラ―を初めから狂人扱いして書いて居り、自分の心の中の狂気は全く書けていない。だから作品が事実に負けて文学になっていない。
 
 さて、小林さんと三島さんの違いはお分かり頂けたと思いますが。最後に、小林さんと福田さん、三島さんの違いを申し上げたいと思います。それは、西洋というものに対する意識の違いです。  

 ただ、日本精神の復活と言っても、日本的であろうとすればそれで良いと言う訳ではない。我々の日常生活は、生活文化は西洋化されてしまっています。

 三島さんは、福田さんも同じですか、西洋化を突き抜けて行かなければならない、徹底的に西洋化しなければならないと考えていた。

 小林さんは徹底的に対立するとは言わなかった。もう純粋な日本は失われているという危機感が強かった。

 作家は西洋化された長編小説を書かなけれはならないという恐怖観念が三島さんにはあったし、同様に福田さんにもあった。西洋化された、西洋のままに新劇を作らなければならないと考えた。日本の市民社会の中に演劇を見に行く層をつくろうとして「劇団雲」をつくった。しかし、そんなことは、一人の知識人の力で出来る訳がない。せつない、むなしい努力であった。

 西洋化を捨てて日本文化に向かうということではなく、柳田国男にしても、鈴大大拙にしてもそう言っているが、そうではなく、三島さんは純粋日本は敗北している、その宿命を見据えようと言っている。純粋日本は観念にすぎないと言っている。

 そうであるならば、西洋化を捨てて日本文化に向かうのではなく、西洋化を突き抜けて行かねばならない。徹底的に西洋を学んで西洋を乗り越えていかねば日本回復の道はないという逆説が生まれる。これは福田恆存も同じであった。それが、三島さんにとっては「豊穣の海」であり、福田さんにとっては「劇団雲」ということになる。

 同時に、三島さんは、「英霊の声」で昭和天皇を否定する。戦後、これ程ラディカルに天皇制を否定した人は他にいません。旧敵国に庇護された戦後日本の平和体制と現行の天皇制度が妥協している点が、三島さんは許せなかった。しかし、これは生き延びるためにはしかたがなかった。我々は戦後の運命を知っているためにそう思います。ですから、三島さんの要求は現実離れしているし、悲劇的にならざるを得なかった。  

 しかし、同じ思いは私も持っています。恐らく、皆さんも持っておられることでしょう。最近の皇室の様子を見ていると、やっぱりおかしいのではないか、やっぱりバイニング婦人は無かったのではないか。やっぱり、やっぱり、という思いは益々強くなるように思います。

了                    

文章化担当: つくる会・坦々塾会員 中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(五)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 小林秀雄は歴史意識を問題にしたが、ついに、自ら歴史を叙述することはしなかった。出来なかった。俺はものをつくれないと言った。宣長教団をつくって、どうやったら、今の現代に宣長の復権を果たすことが出来るかとの行動をしなかった。それにもかかわらず、小林さんは「歴史は観照ではなく行為だ、歴史は自己認識である」と言った。その行為が、例えば骨董にのめり込むようなことになっていった。

 小林さんには古代への思慕があった。そして、現代人としての深刻な危機意識があった。その相克の中に立ち尽くすしかないという決心、自分の限界に対しても謙虚であった。自分も古代人と同じように生きて見せたいと思った。

 私は小林さんにブルックハルトの姿を見ます。ブルックハルトという歴史家は凄い人でした。ブルックハルトと対立するのはニーチェです。ブルックハルトとニーチェは二十五歳の年の差があったが、バーゼル大学で互いに尊敬しあい、年上のブルックハルトは類まれなニーチェの才能を認めていたが、危ういなあと思っていました。ニーチェの過激思想にはついて行けなかった。                
 歴史を真剣に理解するだけでなく、自分の行為の中に体現するということをブルックハルトは知りません。出来ませんでした。何故なら、これは歴史に対して冷静でなくなり、どうしても、宗教家になっていくからです。

 ニーチェは若い頃、大変危険な縁に立ちました。若い頃のニーチェは、単なる研究や学問だけでは満足出来ず、古代ギリシャのソクラテスのようなあの賢人達によるアカデミィを、親友ローデなどの若い友人たちをさそって十九世紀のドイツに甦らせようとしました。これは間違いなく一種のカルト教団です。しかし、その頃、普仏戦争が始まり挫折しました。ある意味それでニーチェは救われたかもしれません。彼は、この時危険な縁に立っていましたが、しかし、夢は捨てていなかった。次に彼はコジマを取り込み、ワーグナーを担いでカルトを作ろうとしました。しかし、ワーグナーは取り合いませんでした。

 そして、「本当に知ることは、行う事である」と言いながら、そこで、止まってしまった小林さんと、そうではなく、行動した三島さんの違いがここにあります。

 つまり、ブルックハルトとニーチェ、そして、小林秀雄と三島由紀夫、これはある意味で見事な対比になるかもしれません。
 
 小林さんの歴史はブルックハルトと同類で、小林さんは「歴史は観照ではない」と言いながら、観照にとどまっているところがあった。それに対して、観賞を打ち破って、行動に出る。危険極まりない、文学者が宗教家になるということ、それがどういうことかということが三島さんの問題ではないかと思います。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(四)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館
 
 三島さんは真贋ということを、福田さんのように余り意識して、言わなかった。しかし、自己が行為と一緒でなければならないという意識を持っていた。福田さんと同じよう日本対西洋という意識を強く持っていた。その点、小林さんとは違っていた。しかし、小林さんの影響を非常に強く受けていたと私は思います。
 
 小林さんは、初めて「認識は行為である、歴史は観照ではない」と言った。大正文化主義の、例えば、和辻哲郎くらいまでは、認識は知識であり、歴史は教養であった。露伴まではそうです。

 小林秀雄はそのアンチテーゼでしたから、「私の人生観」の中で、「歴史は客観視ではない。自己である、本当に知ることは、行うことである」と言った。これは、お釈迦様が弟子に向かって、「お前は毒矢に当ってゐるのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者のようなものだ、自分は毒矢を抜く事を教へるだけである」と言ったことを引き合いに出して、「空の形而上学は不可能でだが、空の体験といふものは可能である」と述べた次に出て来る言葉です。

 三島さんにとっては、認識と行為の一致こそが目指す方向であった。

 三島さんのボディビル、乗馬、飛行機に乗ったりすること、こういう行う事と同じ行いと考えていたのではないか。これが私にとってずっと謎だった、今でもまだ謎ですが、三島さんにとって、小林さんの「本当に知ることは、行うことである」というのは、そういう一連の行動と同じことだったのかなあと云うことが私にとってずっと謎であった。
 
 その謎について、まだ解決はして居りませんが、大きく局面が開けたのはオウム真理教でした。十五年程前、オウム真理教の出来事に出会って、私は三島由紀夫のことをすごく考えました。
 
 盾の会はカルトであり、そして、三島さんは作家なんです。そして体なんです。体で表現しているのです。作家というのはそういう存在なんです。七十年代から現代に及ぶ色々な時代の病があった。彼は、色々な小説の中で時代の病を表現(先取り)している。

 果てしなく現実から遠く、それでいて果てしなく狂気から遠い。垂直の洞穴を掘るためにまっすぐ穴の中を落ちていく。そして、日常市民生活からかけ離れている。こういう構造の有り方に於いてオウム真理教と三島由紀夫は同じでした。

 勿論、三島さんには自己意識があり、日本の社会に対する強い倫理的な意識がありましたから、他を破壊すのではなく、自分を破壊するのですから、オウム事件と三島は方向は逆であったが、しかし、ラディカリズムでは一致していたと思います。
 
 オウムは宗教であり、その行動は犯罪であった。宗教が有る段階から犯罪になったのではありません。宗教が犯罪を犯すことはない。そんなことはありません。宗教はどんなに成熟していても、日常性とは正反対です。宗教はおどろおどろしいカルト性を抱えています。

 現代は、聖書や仏典の言葉が、本当に悩み苦しんでいる人の心に届かなくなっているのではないか。響かなくなっているのではないか。今日、沙漠のような状況に我々は生きているのではないか。聖書や仏典が、ただの教科書でしかなくなっているのではないか。

 まともな宗教なら、自分も仏陀やキリストのように生きたいと思わせるようになるのが当然です。すべての教団はカルトから出発しました。キリスト教も仏教も怪しげなカルトから出発した。

 そこで、宗教の真贋、本物とニセ物についてですが、先程の「俗物論」の真贋を思い出してください。小林さんの、焼き物の真贋に客観的な尺度がないように宗教の真贋にも客観的な尺度はない。どこかに本当の超越神がいて、その神様が優劣を判定してくれるのなら別ですが、困ったことに、宗教の優劣というのは、その神様同士が互いに争って、互いに否定しあっているのが実態で、宗教の争いほど過激なものはない。オウム真理教がサリンを作っても不思議はないのであって、それを防げなかった国家に問題があった。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(三)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

 

 真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 そこで、今日は真贋についてお話しているので、福田恆存の真贋について考えてみたいと思いますが、福田恆存は、自分は本物であると意識したかもしれないが、真贋の違いに敏感であった。小林さんを意識したが、一方で、小林さんは真贋と一度言っただけであり、本物を仰ぎ見て、それに近づこうとした人生であったが、福田さんは本物とニセ物を峻別する人生であり、真贋の概念を思想的に展開している。そして、ニセ物を批判し、ニセ物に対し手厳しかった。しかし、自分の中のニセ物性をも強く認識する人でもあった。福田さんは自覚の人であって、自覚出来ないものでも自覚しようとする、そういうタイプの激しい自己認識の人でした。

 従って、自己表現の中には、自己表現の怪しさについては小林秀雄と同じように辛辣でした。

 自己表現の中には権力意識というものが含まれている。そういうことを言い続けたのか福田恒存で、文学者の自己表現が安易であるのは、自らの権力感情に気が付かないからで、それ程非文学的行為はない。

 小林秀雄の中には自己表現のうちに、表現者の権力意識という発想はありませんでした。これは福田恆存の新しい意識であると同時に、ロレンスというものに取組んだことと関係があると思います。

 つまり、西洋的な自我を意識し、小林さんよりはるかに西洋的であった。かつ倫理というものに強くひかれる人でもありました。エゴティズムとか自己愛に強い問題意識を持った人であった。
 
 福田恆存に「俗物論」という大変面白い評論があります。俗物とはニセ物のことです。これは、すべての本物はすぐにニセ物になるという、非常にめまぐるしい世界をえがいている評論で、

 「私たちの仲間(作家)では、原稿の注文が降るようにあるのを言外に示す俗物がゐると同時に、それをかたはしから断ることに快感を感じる俗物がゐる。しかし、かれはその断ったことを黙ってはゐられない。あれやこれやを断ったといふ話を人にせずにはゐられぬのである。そのとき彼は俗物になる。かうして、自己拡大慾は、つねに他人の目を必要としてゐるのである。いや、おれは他人の眼はこはくない、自分を見てゐる自分の目がこはいのだ、といってみてもはじまらぬ。自分の眼などといふものはありはしない。それは結局、他人の眼が自分の中にはひりこんだといふだけの話だ」
 
 「俗物の特徴として、自分が仲間入りしたい上流階級、あるいは文壇とか学会とかの悪口をいふ性癖がある。これは一見颯爽としてゐるやうだが、やはり他人の眼を気にしてゐるさもしさには変わりがない。さういふ俗物に限って、その目ざす世界に仲間入りできたあとでは、猫のようにおとなしくなる。つまり『孤独俗物』は水の向けやうで、容易に『交際俗物』に転化するのである」。

 これはもう、私たちの世界で日頃よく見聞きすることですが、こういうことをあらゆる局面について書いています。そうすると世の中のすべての人間が俗物になる。これは価値基準というものは無いということで、一番最初にお話した。ニセ物が本物になるという露伴の話にも通じているところがあります。

 「パスカルの世界」と「江戸の戯作」にはこういう点で、皆さんは意外に思われるかもしれませんが、相通じるところがあって、これは通の世界ですか。俺は通だと言ったらとたんに野暮になる。通と野暮、本物とニセ物の関係はめまぐるしく入れ替わる。いきがっていると、たちまち野暮になる訳です。
 
 一般の社会、会社や官庁では人格と評価は別かもしれない。しかし、作家、思想家、芸術家の世界はやっかいである。作家、思想家、芸術家の人格と表現は一致するものである。
 
 書き手の人格、語り手の精神の高さが勝負どころであり、何を語るかではなく、どう語るかである。人間性は仕事に表われます。そのことを、私は、小林さんや福田さんや三島さんの文章を読んでいる時に痛切に感じました。

 私は今度の本の解題の中でも次のように書いています。「政治や世相を語っても、単に政治や世相を言葉として語るのではなく、語り手の精神の高さが同時に問われていることが、往時に於いては普通であった。何を語るかではなく、どう語るか、語り手の倫理的動機が常に問題であった。論じる人の精神の高さが勝負だった。文章に表われる人品が問われていた。読者が本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題であった。読者の関心は常にそこに集まっていた。政治や世相を論じる方も読む方もある意味で私小説的であった。しかし、いつの間にか語り手の人品のの魅力よりも情報や知識が多いか少ないかが決め手になった。どう語るかよりも何が語られるかが中心になった。(中略)精神の価値の下落である」。これが、いま起こっている世界です。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(二)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

  真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 小林秀雄は、ある学生たちとの対話の中で、多くの仕事を残してこられた先生の生き方がどのようであったか、と問われると「これまでの一生を振り返って見ると、僕は計画の立たない人生であった」と語っているが、小林さんは、先ず一つの明瞭な感動があり、芸術作品等との感動と次々に出会いそれを追い求め、その感動を如何にして言葉にするかが彼の人生であり、計画の立たない人生であったというのです。

 また、こうも言っている。一体、自分とは何かということですが、「何を書いても結局自分しか出て来なかった」、単に自己をさらけ出した自己表現、そういう自己表現では駄目だということです。自分を出さなければいけないが、同時に自分を殺さなければいけないし、自分を捨ててかかっている。だが、結局は、やっぱり自分しか出てこない。

 小林さんは、更に「感動した時はいつも統一している。分裂しているものではありません。感動した時には世界はなくなって、いつも自分自身になる。何を書いても自分しか出てこなかった」と言っていますが、自分自身になることは一種のパーフェクトなものになることです。

 さっきの坂口安吾との対談での中でも「信仰するか、創るか、どっちかだ、それが大問題だ」と言っている。これはとても凄い言葉で、感動するということも同じ言葉です。

 福田恆存が「小林秀雄の考えるヒント」の冒頭で次のようなことを書いている。
「人は一寸先が闇であるようにしか生きられない。われわれが道を歩いているとき、一里先の山道に目を奪うような桜の大樹があることを、われわれは知らない。それに出会ったときの喜びが人に伝わらぬような書物は、真の書物とはいえない。小林の学問は、真の書物に出会った際の、生きた感動を語った経験録であり、そのために小林は結果を予想して考え書くということを、自らに禁じている。考えるとは頭で考えることではなく、行為することと同じである」
 
 計画を立てない。行き当たりばったりである。考えることはそれ自体が目的である。考えることは運動すること行為することと同じである。

 また、福田恆存は「人間・この劇的なるもの」で次のように書いている。
 「役者のせりふは、戯曲のうちに与へられてをり、決定されてゐる。いひかへれば、未来は決まってゐるのだ。すでに未来は存在してゐるのに、しかも、かれはそれを未来からではなく、現在から引き出してこなくてはならぬ。かれはいま舞台を横切らうとする。途中で泉に気づく、かれはそれに近づいて水を飲む。このばあひ、気づく瞬間が問題だ。泉が気づかせてはならない。かれが気づくのだ。かれが気づく瞬間までは、泉は存在してはならないのである」

 小林さんが桜の大樹に出会うようにして、一冊の書物に、驚きをもって、感動をもって出会うのと同じように、そこを、役者は演技でもってこれを表現しなくてはならないという、福田さんの場合には、演技論というもう一つの課題があると私は思います。

 坂口安吾は対談の最後に、「福田恆存に会った。小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ、これは偉いよ」、「あいつは立派だな、小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心掛けたようだ」と述べ、それに対し、小林は「福田という人は痩せた、鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだ」と応答し、安吾は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」と述べている。

 批評家は小林秀雄と福田恆存だけであった。中村光夫、江藤淳など色んな人が出たが、批評は生き方だという姿を見せた人は小林秀雄と福田恆存しか居ない。他は皆、学者でなければ解説家に過ぎなかった。
 
 ところが、福田さんは小林さんと違った面があり、二元論的対立相克の世界である。自由と宿命、行為と認識、生と死、善と悪、理想と現実、個人と集団、政治と文学、本物とニセ物を大変な対立概念で取り組んだか、小林さんはそんなことはしない。

 小林さんは本物とニセ物、真贋というものを出したが、福田さんはこれに囚われた。囚われたと同時に大きく展開した。

 小林さんは芸術作品の対象の選び方が自由奔放で、天才の乱捕りと悪口も言われた。「ゴッホ」を書いたと思ったら「福沢諭吉」を論じ、そうかと思ったら「実朝」というふうに、無差別に取り組み、西洋と日本の基軸の対立はなかった。無差別で自由奔放であった。

 しかし、福田と三島は西洋と日本の関係に対する取り組みは、はるかに深刻で悲劇的であった。どんどん対立軸に追い込まれて、自分をその中に追い込んで行った。そこが、小林さんと福田さん、三島さんとの違いであった。

 しかし、それは小林さんの弱点でもあった。かれは歴史意識を問題にしたが、遂に歴史を自ら叙述することはなかった。彼自身は古代学者ではなかった。古代と戦った本居宣長等を対象としたに過ぎない。しかし、福田恆存、三島由紀夫は実作者であった、福田さんは劇団の主宰者でもあった。三島さんは盾の会を主宰した。つまり、具体的な行動家であった。

 小林さんは、大正文化主義、或いはまた学者的な有り方に対し色々悪口を言いましたがそういう世界に片足を突っ込んでいた人だと言えないこともない。

つづく

文章化担当:中村敏幸

第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(一)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」の録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

 真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー             文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 幸田露伴に「骨董」という文章がある。これは、一つの定窯(宋の時代に定州の窯で焼かれた)の宝鼎をめぐって展開された明末の実話をもとにして書かれた作品であり、その宝鼎は、「実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見したものと一見もせぬ者とに論無く、衆口嘖々として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであった」という。しかし、「その宝鼎を見て感動したある人物が作った複製品が、本物と寸分違わぬ出来映えであったために、思いがけない経緯により、やがて、本物として独り歩きをし始めてしまい、本物とニセ物の区別がつかなくなってしまったが、代を重ねるうちに世間ではその委曲を誰も知らなくなってしまった」という話が書かれている。
小林秀雄の「真贋」その他のエッセイは、露伴のこの一文を下敷きにして書かれた作品であり、本物と見定めた物が贋物であったり、贋物と鑑定された物が本物であったりすることが興味深く書かれている。

 露伴は坦々と書いているが、小林さんは「所謂書画骨董といふ煩悩の世界では、ニセ物は人間の様に歩いてゐる。煩悩がそれを要求してゐるからである」という面白い言い方をしている。
「真贋」の冒頭で、良寛の「地震後作」という詩軸がニセ物と分かり、一文字助光の名刀で縦横十文字にバラバラにして了った話が書かれているが、小林さんは、更に「一幅退治してゐる間に、何処かで三幅ぐらゐ生まれてゐるとは、当人よく承知してゐるから駄目である」、「ニセ物は減らない、本物は減る一方だから、ニセ物は増える一方といふ勘定になる、ニセ物の効用を認めなけれは、書画骨董界は危殆に瀕する」とも書いている。

 また、「ニセものというのは素人の言い方で、玄人はそんなことは言わない。二番手だとか、ちと若い、これはイケマセンねと言ったりして、決してニセものとは言わない」。
 
 このような話が沢山書かれていて、皆さんも知っての通りですが、小林さんも相当イカレてしまった人である。

 小林さんは、ある日、知り合いの骨董屋で、李朝の壺がふと眼に入り、それが激しく自分の所有慾を掻き立て、逆上して、買ったばかりのロンジンの最新型の時計と交換して持ち帰った。「今から考へるとこれが狐が憑いた始まりだ」と言っているが、骨董いじりとはそういうもので、現代の知識人は「古美術の鑑賞」というが、しゃらくさい。「本当に好きになること、『好き』と『嫌いではない』との間には天地雲泥の差がある」と言っている。
 
 「美術館で硝子越しに名画名器を観賞して、毎日使用する飯茶碗の美には全く無関心でいる」、そんなのは駄目だと言っている。

 小林さんは、トルストイのクロイチェルソナタの話を出して、トルストイは「音楽にしても美術にしても芸術作品というものは体を躍らせるものである」と書いているそうですが、だから、「行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏会でダンスをするのはよい、ミサが歌はれて、聖餐を受けるのはわかる」だが、普通の音楽「クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。分けの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆は、行為を禁止されて椅子に釘付けになってゐる」。ニセ物をつかまされたり、家中が焼物だらけになったり、家庭をかえりみなくなったりする、言わば狂気に近い骨董いじりの世界は、体を使ってぶつかる、そう云うことをしないで、頭だけ、目だけキョロキョロさせて、絵画の美とも日常生活とも関係のない現代知識人の芸術鑑賞とは一体何事だと言っている。

 小林さんのこの一連のエッセイを読んで皆さんもきっと感じると思いますが、小林さんはこうも言っている。
 
 「美は信用であるか。さうである。信用されていれば美は成り立つが、美という客観的な評価はない。人がそれに感動すれは本物である」。本物がニセ物になったり、ニセ物が本物になったり、めまぐるしく入れ替わるわけで、本物とニセ物の定義はない。自分にとって本物であればそれで良い。つまり、このことは、ある種の、美の評価に対する無政府状態を言っているようなものである。しかし、それが美に対する行為ではないか。

 行為を禁止された美術鑑賞にはトルストイは疑問をもっているが、我々は外国に行った時、美術館で大量の作品を、限られた時間に見るが、そんなことで感動することは出来ない。逆に疲労感を伴うものである。
 
 疲労感を伴うような美術鑑賞とは、美が人に愉快な行為を禁じて、人を疲れさせるとは、なんと奇妙なことだろう。

 小林さんは、ゴッホの「烏のいる麦畑」の絵は、後に見た本物よりも自分が持っている複製画に感動したと言っているが、我々は、翻訳で外国文学を理解し、レコードで西洋音楽を観賞し、複製品の美術全集で絵画を見る。それでも感動するときは感動するし、本物を見ても感動しない時は感動しない。ある意味、すさまじい話で、無政府状態と私は言いましたが、美に、明確な、客観的な標準や基準はない。

 小林秀雄と坂口安吾の対談で、安吾は「僕は歴史の中に文学はないと思うんだ、文学というものは必ず生活の中にあるものでね。モオツァルトなんていうものはモオツァルトが生活していた時は、果たして今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ。つまりギャアギャアとジャズをやったりダンスをやったりするバカな奴の中に実際は人生があってね、芸術というものは、いつでもそこから出て来るんじゃないか」と言い、骨董いじりに狂っておつにすましている小林に対して、気取っていやがると噛みついている。
 
 それに対し小林さんは「骨董趣味が持てれば楽なんだがね。あれは僕に言わせれば、女出入り見たいなものなんだよ、美術鑑賞ということを、女出入りみたいに経験出来ない男は、これは意味ないよ。だけども、そういうふうに徹底的に経験する人は少いんだよ。実に少いのだよ。・・・・・狐が憑く様なものさ。狐が憑いてる時はね、何も彼も目茶々々になるのさ。・・・・・結構地獄だね。」と答え、「これは一種の魔道でもある」とも言っている。     

 更に、「それに、あの世界は要するに観賞の世界でしょう? 美を創り出す世界じゃないですよ。どうしてもその事を意識せざるを得ない。此の意識は実に苦痛なものだ。これも地獄だ。それが厭なら美学の先生になりゃアいいんだ」と言って、批評家の悲しみや絶望も語っている。この辺に、小林さんの芸術と人生のすべてが語られているように思いますが、また、「自分は感動して、それを言葉に表しているだけで、創作は出来ない」と言い、一方では美を創り出す人に劣等感を感じている。でも、「自分は体で美を感じているのであって、頭で感じているのでは駄目だ」と言っている。

 また、「僕は陶器で夢中になっていた二年間ぐらい、一枚だって原稿を書いたことがない。陶器を売ったり買ったりして生活を立てていた」とも言っている。
 
 小林秀雄の人生とは、そういうものだったと思いますが、この坂口安吾との対談が大変面白いのは、小林さんが自分の弱点をさらけ出しているところにある。
 
 この対談の中で、小林秀雄はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャに感動して、「アリョーシャって人はねえ、あれは凄いよ、我慢に我慢をした結果、ポッと現れた幻なんですよ。鉄斎の絵に出てくる観音様だね。アリョーシャを書けるのはただごとではない。自分は、今は自信がないが、将来はそこまで書きたい」と言っている。更に彼は批評家であって、小説家ではなくドストエフスキーにはなれないのに、「アリョーシャを書きたい、俺の人生はそれが目的だ、駄目かもしれないが本当の俺の楽しみはそこにある。楽しみってつらいことだ」とまで言っている。
 
 この大矛盾が小林秀雄の人生である。これはすばらしいことでもあるし、小林さんの弱点でもあった。

 彼にとって芸術作品というものがあって、芸術作品を自己がどう感じるか、芸術作品と自己の対決が小林さんの人生、頭ではなく体で、行為で、骨董いじりも行為であった。実際彼の作品は私小説的である。

 彼は、客観的に認識することを一段低く見ており、彼の場合は体で、行為することが知ることであると考えており、この頭脳の世界でない「体で」ということは福田恒存、三島由紀夫にもつながっている。

つづく

文章化担当:中村敏幸