そうしましたら、御本人の謝辞でございます。
ここでは短めの挨拶を頂きます。中盤以降、もう一度、西尾先生には御登壇いただき、スクリーンに様々な関連画像とともに解説をいただく予定です。では西尾先生、お願い申し上げます。
西尾幹二氏の謝辞
突然の春の嵐で、歩くのもたいへんな折に、皆様ご参集いただきまして、心から御礼申し上げます。
私は物書きのプロと思っておりまして、学者ではなくて、いわゆるライターとして生きてきたつもりでしたので、本を出したくらいで、出版記念会というものはやらないよと、ずっと言っておりました。ところがこの本に関連して、ある人が、先生、今度はお受けになってください。先生は明日にもお亡くなりになる可能性が常にあるのです、と、言った方が、しかも女性なので、愕然としたというよりも、卒然と悟ったということであります。
もっとも、私の家内は私が深夜風呂に入っているときでも、帰りが遅いときでも、常にどうかなっているんじゃないかと思っているようでございまして、葬式のことがたびたび話題になるのであります。いざというときに自分ではどうしたらよいのか、と。でも私は今、いたって健康で、残念ながらそういうときはすぐ来そうにもありません。
それはともかくとしまして、私は28歳のときに、ドイツ文学の学会の小さな賞をいただいたことがあるんです。丁度28歳でした。これは修士論文をまとめたもので、それから大体二本が対象になりました。論文の名前が「ニーチェと学問」と、もう一つが「ニーチェの言語観」という二つでした。これでおわかりと思うのです。「学問」というのと「言語観」というのは『江戸のダイナミズム』の二大中心テーマです。私の28歳のこの仕事が真っ直ぐ今回の本に繋がっているということが、今にして言えると思うのです。
まさしくこれは江戸の学問の話です。長谷川三千子さんとこの間Voiceで対談いたしました。そしたら長谷川さんが道元を持ち出されたのですね。そこでそれはちょっと違うんじゃないか、これは学問の話なんですよと、申し上げたのです。宗教にまで近づいた学問のテーマなので、いきなり宗教ではない。
学問論ですね。それから言語に対する興味というのが中心であります。ですから私の28歳のときの自己探求からこの本がまっすぐ繋がっているということ。そしてその賞をいただいたときに推薦してくださった先生、審査委員長の先生、そのときの学会の代表の先生の名前を言いますと、皆さんああ、聞いたことがあると思われるでしょう。つまり、推薦して下さったのが秋山英夫先生、論文の審査委員長が高橋健二先生、それからそのときのドイツ文学振興会の会長が手塚富雄先生。これらの先生はもうおられないのであります。
人生しみじみと無常を感じますのは、ああ西尾君よくやったねと、あのときの二論文からとうとうここまで来たんだねと、言ってくれる人はいないのであります。本日も多数のご参集をいただきながら、実はドイツ文学の関連者は数えるほどしか来ておられないのです。私が如何に、彼らと違う人生を歩んだか、そして如何に決定的に専門家嫌いであったかとあらためて思います。今度の本も徹底的に専門家を排撃しておりますけれども、私は専門家というものを認めない。専門家は全人的に生きていないからです。私は彼らから、如何にして離れようかと思った。あるいは裏返せば専門家にはなれないと言ってもいいのかもしれない、なろうと思ってもなれない。
しかし、今回の本を書くにつけて、昭和のある時期の国語学の先生ですごい人がいるなということを知りました。橋本進吉以下ね。これは専門家じゃなきゃできない仕事です。さきほどお話くださった吉田敦彦先生も専門家なんです。ものすごい専門家なんですね。専門家じゃなくてはできない仕事というのがたしかにあるんですよ。それはまた偉大なんですね。しかし残念ながら、私は出来なかったのです。それには理由がある。文学研究なんていうものは誰がどうやっても学問にならないからです。だから私は物書きになった。私は物書きにすぎなかった。でも、物書きなりに専門家に反逆したかったというのが、今度の本でございます。
どうも皆様、このような春の宵の大事なひとときを犠牲にしてお集りくださって、私のためにお祝いをしてくださることは、身に余る光栄でございます。あつく御礼申し上げます。有難うございました。
有難うございました。西尾先生、しばし壇上にお残りくださいませ。