従兄の死と従姉の手紙
さて、こういう新しい局面で、大統領候補から日本の核武装と北朝鮮の各脅威があらためて打ち出されている折も折、オバマ大統領の広島訪問が人類の未来のための「歴史的決断」であるというのは、いったいどういうことを意味するのでしょう。新聞・テレビ等のオバマ歓迎の浮ついた風潮は、私たち日本人のあの一種の知覚の欠陥に由来する面があるのではないでしょうか。
原爆碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の例の問題性を、ここであらためて吟味する必要があります。
「過ちは繰返しませぬ」の主語は誰なのか。主語を曖昧化した当時の日本人の本能は、単なる対米恐怖からきた自己回避なのか、何か日本の伝統のなかにある外の世界への依存心理と救済心理に、あの知覚の欠陥が混じり合って特殊に異様な何かが醸し出された結果なのか、検討してみる価値はありましょう。
敗戦の年の日本の学校は、全国を通して夏休みがありませんでした。長崎医大の学生だった私の従兄はたまたま四国の実家に戻っていましたが、謹厳な性格の叔父が、学校があるなら長崎に帰れ、と言ったばかりに原爆にぶつかってしまいます。帰らなければ良かったのだと後日、叔母はかきくどきました。私の母の妹で、母をいつもお姉(あね)さんと呼んでいました。私は子供の頃、母の前で安心して叔母が全身を震わせ、思う存分に泣いている姿を何度も見ました。
いまは遠い日の幻のようにしか思い出せない情景ですが、今回はその話を書くのではありません。従兄には妹がいて、私より四歳年上のこの従姉はまだ健在で、戦後を私たちは同じ思い出のなかに生きていました。死んだ従兄の素晴らしさも、叔母の無念も、共通の話題でした。叔母はなぜか洗礼を受けて、クリスチャンになりました。従姉と私は戦争の時の生活上の数々の話題を取り交わしていましたし、戦争について語り合うのはあの世代の者にはごく普通の当たり前のことでした。
ある日、私は原爆投下のアメリカの意図、日本人を実験動物扱いした冷酷さについて従姉に語りました。「わたしの昭和史」(改題『少年記』)を雑誌に連載していた頃のことです。そして、戦時中の一枚の写真を見せました。若いアメリカ娘の前に前線からプレゼントされた日本兵の髑髏(しゃれこうべ)が置いてある、たしか、『LIFE』誌か何かに載ったショッキングな写真だった覚えがあります。
間もなく、従姉から短い手紙が来ました。自分は平凡な主婦で、何も分からないし、何も考えていない、と。もうこれ以上、話題を持って来ないでほしいという意味だろう、と私は理解しました。
この一家に従兄の死への深い悲しみがあったことは紛れもありませんが、どういうわけか死をもたらした相手国への敵意や憎しみはあまり強くなかったように思います。想像するだに恐ろしく、考えたくなかったのかもしれません。戦災を受けた日本の多くの家庭がそうであったように、原爆や空襲は自然災害のようなものとして受け止めるしか術がなかったのかもしれません。じっと怯えて時の過ぎるのを待つしかない。悪いのは、むしろ災いをもたらした日本の責任者です。心の奥で微妙な摩り替えが起こります。自然災害には怒りの向けようがなく、行政の不備にだけは文句が言えるのと同じです。
「真の世界」を探す日本人
従姉の娘の一人は英語が良くでき、大学を卒業して、アメリカ大使館に勤務しました。戦前にキリスト教に縁のなかった叔母が、息子の原爆死以来、教会に通うようになり、洗礼を受けて熱心な信者になりました。これもなぜなのか、いまもって私には分かりません。
原爆を落とした相手国への敵意や憎しみに心の焦点が結ばれないのは、すぐれて日本的な現象のように思えてなりません。
話は変わりますが、日本人にはもともと国内にではなく、遠い目に見えない広い場所に「真の世界」を尋ね探したいという根源的な願望が大昔からあったように思えています。島国のせいでしょうか。原因は分かりません。自国中心にものを考えない習性に繋がっているようです。
どこか遥か遠い処に、「日本の仏」を超える本物の仏が実在するに違いないという強い思いは、人々の心を西方浄土へと誘いました。平安末期から中世にかけては殊にそうでした。その際、自分の国は末法辺土の悪国であるとする否定的な自己認識が、一方で人々の内心に渦巻いていました。
日本は釈迦の生まれたインドから遥かに離れた粟粒のごとき辺境の小島にすぎない、本物は日本には存在しないのだ、と。
「真の世界」は日本人には辿り着けない遠い処にあるという意識は、時代が変わってもやはり変わらないで続いたようです。江戸時代になると儒学が主流となりますが、ここでも本物は中国にあり、わが国には聖人は生まれない、と。
明治になると周知のとおり、それがヨーロッパに入れ替わりました。しかし、つねに理想を外にのみ求める単調さに疑問も生まれ、わが身、わが歴史に立ち還り、反動的に「真の世界」を自国にのみ求めて外に求めないという、本居宣長のような強い孤独者の思想も、一方ではつねに繰り返し登場しました。
外の世界が美しい言葉で彩られ、日本人が理想とする方向に何となく沿うているとみられる場合には、この外の世界を拒絶して「真の世界」を自国に求めることは心的エネルギーを要し、一般の日本人にはまず無理です。
真面目で、勤勉で、良識もあり、知能も高い日本人、つまり最良に属する普通の日本人が、自由とか平等とかヒューマニズムを表看板にして流通している外国のウラのある価値観にやすやすと瞞されるのを見るのは驚きですが、しかしそれが現実であり、平均上の日本人は、あえて言っておきますが、これら安っぽい正義を心底から信じているのです。彼らグローバリズムを良いことだと思っている。そして、ナショナリズムはできれば避けるべき悪だと思っている。
グローバリズムは国際的で、先進的で、外の広い「真の世界」に繋がっている善の代名詞です。昔は、日本は遅れているから進んでいる世界に自分を合わせなさいと言われたものですが、いまは日本は閉ざされているから開かれた世界に合わせなさい、と言うようになっている。
そして、それを20世紀に入って「グローバリズム」という表記に変えたのです。言葉は変わっても内容の空疎なること、単なる抽象語であることに変わりはありません。自国中心のものの見方を軽蔑する〝対日叱り言葉″であり続けている。外から叱られるのが何より日本人は怖いから、こういう美しい言葉に呪縛されたようになってしまうのです。私が繰り返し言ってきた、国の外を見るときの知覚の欠陥はこのときに生じます。高学歴の著名な学者知識人に、むしろ強く現れることもある疾病です。
あの戦争は日本が仕掛けた、という思い込みが頭の奥深くに刷り込まれていて、欧米の太平洋侵略の三百年の歴史をいくら説明しても、そしてそれを知的にかなり正確に理解しても、あの戦争は欧米が仕掛けたとの断案を下すことだけはどうしてもできない人が圧倒的に多い。これはレーヴィットが取り上げた数学者・K氏とは時代が違うので逆の構図になりますが、しかし日本人に特有の「単純さ」という点ではまったく同じなのです。
原爆碑の根深い問題
人は小さな侮辱には立腹し、反逆することはできますが、息の根を止められるような大きな侮辱に対してはものが言えなくなり、与えられた決定に対してひたすら従順になるものです。広島の原爆碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は案外に根の深い問題なのです。「繰返させませぬから」でなくてはならない、と時間が経つにつれ、次第に気がつく人が増えて、主語が誰なのかが大騒ぎになりました。
広島市は昭和58年に、主語は人類であって「全人類が悲しみに堪え憎しみを乗り越えて」の意味であるとわざわざパネルを張って、数ヵ国で提示しました。いかにも苦しい弁解、言い遁れに見えますが、多分、半分は本音だったのでしょう。
原爆碑の建てられた昭和27年には、「過ちは繰返しませぬから」の主語は日本でした。日本が戦争を引き起こした張本人でした。悪いのは日本であって、旧敵国を本能的に念頭から消していました。しかし時間が経つうちに、その不自然と無理に気がついて批判や論争も起こり、まずいなと思ったかどうか分かりませんが、パネルを掲示したのです。
そのとき、本能的に「全人類」を主語に仕立てたのはなぜか。「全人類が過ちは繰返しませぬから」と切り替え、自分を一段高い所に置いて、遥か遠い外の世界で自分を救済するために人類を「真の世界」に設定するという日本人本来の伝統にしたがうスタイルで、自分を誤魔化す自己欺瞞に走ったのではないか。
ここには、遠い外の世界に対する昔からの依存心理と救済心理が働いていました。外を見る知覚の欠陥が微妙に紛れ込んでくる瞬間です。
オバマ大統領の広島での祈りに、再び「人類」が名乗りを上げています。「人類」の名において大統領が祈るのに合わせて、われわれ被害国も恩讐の彼方に自分を高めて生きよう、と新聞・テレビが一斉に叫ぶたびに、私は静かに首を横に振ります。叔母や従姉がそういった白々しい大義で70年を生きたとは、到底思えないからです。
了
Hanada-2016年7月号より