「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(四)

 EUが一つの国家にどうしてもなれなかったのは、EUという軍事態勢が作れなかった、或いはアメリカが作らせなかったからです。アメリカはベルリンの壁が崩壊した後もNATOを手放さなかった。各国がアメリカからの防衛に期待して、アメリカから突き放されるのを恐れてNATOを守ったという一面もある。そのため結局EU、つまりヨーロッパの軍隊は生まれず、湾岸戦争が起こりましたが、あれはドルとユーロの戦いで、アメリカがたとえ戦争をしてでも基軸通貨を守るという強い意志に結局EUが屈服して、それ以降のEUは弱含みとなり、統合体としてのEUはガタガタになります。つまり統一軍事力を持たない地域は国際基軸通貨になることは出来ないということです。そのいい例が日本の円ですね。一方で中国の人民元はこれから怖いということが言えるのです。

 フランスのユダヤ系知識人、エマニュエル・トッドという人の『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書)に面白いことがたくさん書いてありまして、それに刺激を受けて、ドイツ在住の川口マーン恵美さんと『膨張するドイツの衝撃』(ビジネス社)という対談本を出しました。皆さんはドイツはガタガタになり、今のEUの行き詰まっている原因は何であるとお考えでしょうか。こんな風に考えたことはありませんか。たとえば鳥取県と島根県を選挙区を一つにしました。もう一つは高知県と徳島県でしたか。ありありと地方の減退が日本を襲っていますね。そして地方が弱くなっては困るからと国は地方交付税を当然のこととして出しています。また、徒に東京に富が集中することはおかしい、ということに東京に住んでいる人も思っていることでしょう。

 同じことがヨーロッパ全体で起こっているのです。南欧ではもうお金になる仕事がないのです。だからイタリア人・スペイン人・ポルトガル人・ギリシャ人の、何か能力のある人・会計士・弁護士・音楽家とかは、みんなドイツや北欧に行ってしまうのです。そしてその人たちの富はドイツや北欧の金庫に入るのです。南欧には失業者と老人が残り、あるいは公務員だけが豊かになる。同じことは日本にも起こっていると思いませんか。地方に行くと老人と失業者と子供、そして公務員だけは安定している。このねじれがヨーロッパ全体で起こっていると考えてみてください。それがヨーロッパの南北格差、つまりギリシャ問題の根源なのです。だとしたらドイツがやることは一つです。EUを救うためにはドイツが「東京都」になることですね。つまり都が地方にお金を還流するする必要があるでしょうし、ドイツが国家全体の統合者になるのでなければ筋が通りません。だから各国がドイツにそれを求めてここまで来ていますが、国家は別々でそれぞれのエゴイズムもあるのだから、これでは堪らないとドイツ国民は考えます。たとえばギリシャ人の生活費や育児費だとかの経費を混ぜてドイツが持たなければいけないのかという。ギリシャ市民の異常に高い年金をなぜドイツ市民が背負わなければいけないかという。これが今のEUの姿なのですね。

 ですから論理的には二つしか道は無いわけです。一つはドイツが徹底的に自己責任でEUを一つの国家にして、ドイツを事実上の首都として地方交付税のようにお金を出す。もう一つは結局エゴイズムがぶつかり合い、国家主権をいう人が出てきてEUはまとまらない。最後にはEUの解体です。さてどちらに行くでしょうか。私は後者だと思っています。しかし時間がかかるだろうと思っています。10年や20年かかるでしょうけれど、EUは解体せざるを得ない運命でしょう。つまり人はエゴイズムを手放さないものなのです。勝者は弱者に対して配慮をしないものです。日本だったら一つの国家なのでそういう現実にもっと地方にお金を回すべきことに道理があるわけですが、そう簡単にいけないのがヨーロッパの現実かと思います。そういうことがまたドイツを有利にして膨張させた所以です。

 ドイツはEUができた当初、低姿勢でフランスの言いなりでした。当時ドイツは実に臆病で、例えばEUの議会で語られる言葉にドイツ語が入っていませんでした。英語かフランス語でした。ドイツにすればそれは屈辱ですが我慢しました。金融的にはドイツ優位で始まりました。だからドイツの、そしてマルクの忍耐です。それがどんどん変わりはじめます。東ヨーロッパからたくさんの安い労働者が入ってきて、彼らに農業までさせはじめるのです。その農産物をフランスやイタリアに輸出するのです。これでは農業国であるフランスやイタリアは堪ったものではありません。それなのにフランス、イタリアを奪うような勢いでドイツが安い労働力を使って南の国々に農産物を売る。そこまでやるのかドイツは、ということでこの間フランス国境で警察の阻止を無視してフランスの農民が道路を封鎖しました。フランス政府はそれを知らん顔しています。何か下手なことを言うと大騒ぎになるからでしょう。そういう騒ぎがあるくらい、ぶつかり合いが激しくなっている現実があります。

 あれほど低姿勢だったドイツが知らないうちに東に伸び始めました。東の労働者が入ってくるだけでなく、ウクライナにまで手を伸ばしまた。それがウクライナ紛争の大きな原因の一つでもあります。つまりウクライナはEUに入りたがっている。ドイツは握手しようとする。つまりドイツの産業がポーランド、チェコへどんどん伸びて、東へ延びるというのはヒトラーのときからのやり方で、ドイツの膨張が懸念されている、というのがそこにあるわけです。そしてもう一つ、ナチス・ヒトラーがやった犯罪のおかげで戦後ドイツが苦しめられ、ドイツの悲劇に喘いで自分たちが悪い国民であると思われていることに酷い劣等感を持っています。若い人たちはケロッとしていて「俺達がやったことじゃない。知らねーよ、そんなことは。」という態度だそうで、それでいいと思いますが、ところがドイツ政府が一言でもそんなことを言えば大変なことになります。それでメルケル首相は格好をつけて「移民は受け入れます」とやったわけですね。ヒトラー後遺症ですよ。悪くいわれつづけてきたドイツは道徳的に立派な国だとみせたいのです。

 この移民とか難民の問題を一言でいうと、これは「存在するものではなく発生するもの」なのです。先進国が隙を見せれば動き出すのです。日本の場合もそうでした。1989年にベトナムからの偽装難民が日本に押し寄せましたが、その時の日本の法務省は偉かったと思います。法務省は福建省まで行って止めたのです。私の記憶では、中国の役人もなかなか立派で、彼らは士大夫(したいふ)、学識と権力を備えた高級官僚でした。中国人がベトナム人を装って日本に押し寄せた1989年のベトナム難民の話はご年配の方は憶えていると思います。中国の高官は「こともあろうに賎民に身をやつして自分の国民が外国に物乞いに行った」。屈辱におののいて、そう言って福建省の大元を抑えてくれたので、難民が来なくなりました。それがなかったら日本は「可哀想な人たちですねぇ。ご飯も給付も生活費も出しますよ。どうぞお出でください」とだらだらやって、難民はどんどんやって来たはずです。

 つまり難民は作られるのです。あるいは「存在するのではなく発生するもの」なのです。国家が隙を見せたらアウトなのですが、ドイツは隙を見せてしまったのです。一体どれくらいの難民が入っているかご存知ですか。ドイツの人口は8,000万人ですが、既に1,600万人です。5人に1人、20%ということです。皆さんはドイツの統計で7から8%と聞いているかと思いますが、それは現在外国人ということです。帰化した外国人を入れると2割です。じつは日本だってそうです。帰化した外国人はたくさんいますから。在日韓国朝鮮人を中国人が超えています。中国人の移民は既に100万人近いのです。これは既に忌々しきラインを超えています。

 難民問題は大きな問題で、確実なこととは言えないのですが、自衛隊はこう考えていると聞いたことがあります。元将官だった人からです。朝鮮有事の時に、北朝鮮の人口2,500万人の10分の1は国外へ飛び出すだろう。250万人ですね。そのうち9割は大陸伝いに逃げるだろう。船もそんなに無いでしょうから、船で逃げるのは1割くらいだろう、つまり25万人。それをどうしたら良いか。山陰地方の5つの県に難民を5万人ずつ割り振り、旧小学校など利用して難民収容所をつくる。一県で500人規模の収容所を100カ所ほど作らなければならず、そしてそれを防衛するために自衛隊員が一万人必要だとか、はっきりしたことは分かりませんがそんな計算が出ているという話です。こんなことがあったら大変です。でも十分にあり得ることです。かりにそれが起こってもどこの国も同情しませんし、しくじったら嗤われるだけです。そして海上で殺してしまったら大変な非難を浴びますから漂っている者、寄ってきた者を救わないわけにはいかない。沈めて知らん顔は出来ないわけで、朝鮮有事のとき、そういう問題が必ず我が国を襲うことと思います。ヨーロッパでは、ハンガリーがどんどん「ドイツへ行け」と尻を叩いているように、同じように韓国は「日本へ行け」と北朝鮮難民を送り込むかもしれません。何が起こるか分かりません。そういう悲喜劇がたくさん起こり得るということは、日本の有史以来経験していないことです。ヨーロッパには一種の民族大移動の時代が始まっていますが、東アジアにも訪れるかもしれないということです。

 ドイツのケースで、メルケル首相が「ええ格好」をしましたが、世界にヒューマニズムを言ったため何が起こったかというと、ドイツ民族のアイデンティティーの喪失です。今度シリアの難民が100~200万人入ってくると、ドイツの外国人の割合は2割から3割になります。そうするとドイツ的とかドイツ民族的とかドイツ主義とかドイツ愛国心はもちろんドイツ的特性とかそのようなものすら無くなってしまうでしょう。同じことは我が国にも訪れます。総じてヨーロッパの没落にも直結するのではないでしょうか。

 難民の問題だけではなく現在のヨーロッパはドイツ以外に製造力を持っている国がありません。イギリスに至ってはスコットランドが離れたら国連常任理事国の地位すら無くなってしまうでしょう。ブリテンはなくなり、イングランドになる。つまりイギリスは苦境に陥っているのです。シティの金融でやっていますから、生産物、製造業がほとんどありません。これはオフショアや闇金融が基本です。そしてその闇金融が中国人民元と結ぼうとしています。だいたいイギリスと中国が得意なのはスパイと贋金ですよ。それで世界を征服してきたイギリスは、中国と気が合うのだと思います。相変わらずシティは金融を握っていますから、それに目をつけている習近平はしたたかです。先に述べた「条件の整わない人民元」をシティが迎え入れたらどうなるか、目が放せません。

 そしてイギリスは今、ドイツとたいへん仲良くなっています。それはどうしてかというとEUのあり方に対する不満があって、主権国家ということを回復したい。EUにあってドイツは主権が奪われているのです。例えばドイツのアウトバーンはEU間では全て無料なのですが、ドイツはヨーロッパの真ん中辺にあり、どこに行くのにもドイツのを通って、その補修費はドイツが持たなければいけません。それは堪らない。ということで有料にすると国内の約束違反になって、今度はドイツ国民が賛成しないのです。だから道路は有料にするけれどもドイツ国民の自動車税を下げることで補うことにしようとしていますが、EUの委員会から許されないという声があがります。つまり国家としての主権が発揮できないのです。取り決め事を自分の国で勝手にやろうとすると、EUに引っかかってしまう。国のレヴェルや進歩の程度が異なるから、いろいろな齟齬を来すのです。ですから領収書や電化製品の電圧などを統一することなどは合理的で、EUがマーケットの統一をやっているだけだったらよかったのです。しかし、いろいろな条約を作ってしまうと忽ち不便になってしまいます。だからドイツはなんとか主権を回復したいと思っています。

 イギリスも同様にEUに縛られるのが嫌なので、ユーロに入っておりません。ドイツの主権の主張に対して応援してくれるのはいつもイギリスなのです。イギリスはドイツにとってありがたい存在なのです。そのような力学がヨーロッパに働いていて、「大変だなぁ、EU統合なんかしなければよかったのに」と思うのです。ヨーロッパの没落があり得ることについてお話ししています。200年くらい先かもしれませんが、本格的なことです。荒れ果てた土地になり産業が無くなりヨーロッパ人が出稼ぎに行くという逆現象です。信じられないことですが、あり得ることです。「没落」というのはそういうことです。

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(三)

 よくドイツとフランスが仲良くやったように日本と中国韓国が仲良くやるべきだ、などといいますが、そんな筋違いな話はありません。日本が頭が上がらなかった国はアメリカでした。そしてドイツはフランスでした。日本にとっての中国は、ドイツにとってのロシアです。そして日本にとっての韓国は、ドイツにとってのポーランドです。そういう文化的・力学的関係です。それを考えれば、日米の和解がここまで進んでいるということは、ドイツとフランスの和解と同じようなことが、EU共同体と日米安保条約、ヨーロッパ大陸と太平洋の和解ということで世界が成り立っていると理解することができるのではないでしょうか。

 アメリカも努力をしたけれど、日本もすごい努力をしました。原子爆弾の投下について日本は一言も言わなかった、じっと耐え忍んだではありませんか。こんなことはふつう考えられません。アメリカはまだ疑っているはずです。何かあったら復讐されるのではないかと今でも思っているはずです。それが現代の核問題に微妙に影を投じています。しかし日本はそういう感情は持っていないでしょう。世界には不思議なことがたくさんあります。世界の七不思議のひとつは、ある外国人、私のドイツ人の友人が日本に来たとき、「日本がアメリカから原爆を落とされたことや、大空襲を受けたことを一言も言わないことが不可解だ。」と言って帰国してゆく。つまりそれくらい不思議なことなのです。アメリカもそのことに気が付いていますから、非常に敏感になっていまして、最近8月6日の広島の記念日にはアメリカの大使が必ず出席するようになっています。それもこの3年の話です。向こうも気を遣っているわけです。

 同じように忍耐というものがあって、たとえば戦後日本はドイツと違って貿易をする相手はアメリカしかいませんでした。ドイツは近隣「先進国」と自由な貿易を展開するために、それがために「謝罪」ということを、見苦しいまでに頭を下げなければ貿易ひとつできませんでした。しかし日本は戦争が終わって気が付いてみれば、朝鮮半島ではあらたな戦争があり、中国も革命があり、また東南アジア諸国には購買力がなかった。だから日本は戦後の発展を何で支えたかというと、アメリカがマーケットを寛大に開いてくれたからです。アメリカ市場によって日本の戦後の復興は成し遂げられたのです。その寛大さと自由に対しては、やはり日本は感謝しているでしょうし、「アメリカが嫌いではない。」というのはそれがためでしょう。アメリカ映画とジャズとコカ・コーラとレディ・ファーストなどが入ってきて雰囲気もそれを支えたでしょう。

 それに対してドイツは全く違っていて、アメリカは直接の繋がりはなく、近隣諸国に徹底的に気を遣わなければならないその代表がフランスだったのです。独仏和解というのは双方の努力によって成されたのと同様に、日米和解もまた双方の努力によって成されたと理解しています。私の考えはそれほど間違ってはいないでしょう。つまり「お互い様の痛み分け」を敢然と遣り遂げたということです。

 ところがEUの統合という問題が起こってきますと、どこが一番損をするかというとドイツです。これはマルクの忍耐というものが無ければ、成り立たない。つまり放って置けばマルクの一人勝ちですから、どう抑えていかに損をするかということがなければ成立しませんでした。マルクの忍耐がEUを成立させたのです。しかもEUの機運は共産主義の崩壊が切っ掛けとなっています。これが冷戦終結の諸テーマと全部繋がるのです。マルクの忍耐がどこから来るかというと、勿論ナチスの暴政に対するドイツ人の反省とその気持ちが伝わって、やっとフランスとの和解を勝ち取りました。

 冷戦の終結が大きく影響します。1981年にドロールというフランスの大蔵大臣がヨーロッパ共同体(EC)のアイディアを提唱します。1982年にブレジネフが亡くなり、85年にゴルバチョフが登場して、89年にベルリンの壁が崩壊する。そのような80年代の歴史ドラマがあるのですが、それに引き摺られるようにしてヨーロッパの統合という理念が強く打ち出されるのです。だから冷戦というのが何かというと、「コミュニズムという名のグローバリズム」つまり共産主義という名の普遍思想にとって代わって、もう一つの普遍思想「ヨーロッパ」で纏まろうということです。普遍思想ということをいうと、日本にも伝わった気分があり、言葉としては「国際化」という言葉で、そのあと世界じゅうで国境を互い低くしましょうという「グローバリズム」に名を変えます。

 しかし共産主義の崩壊と同時に何が興ったかというと、実際には世界普遍思想ではなく、各民族と宗教の台頭です。いろんな小さな民族や小さな宗教がどんどん独自性を発揮して対立する。独立を主張して争う。しかし不思議なことに民族と民族の間は厳しく対立するのに反して、大きな宗教の内部の国家の群の柵はどんどん低くなるということが起こりました。これは皆さんの歴史感覚の中でおわかりでしょう。例えば一つの宗教の中にたくさんの国があったけれど民族同士の対立は残る。けれどその間の国家間の垣根は低くなる。イスラムが大きな一つの纏まりになろうとすると、イスラムが抱えていた小さな垣根は低くなってゆく。ヨーロッパも同じで、キリスト教文明圏が一つに纏まろうとすると各国の垣根は低くなる。それを「グローバリズム」という名で呼んで、共産主義が崩壊したあとに起こった大きな出来事のひとつです。

 それが潰れるのは2008年のリーマンショックです。なぜなら金融の破局が伝わる速度は国境を越えて広がるけれど、陥った困難からどう自己救済するかは各国に任されているだけで、だれも助けてくれないのです。そこで結局国家ということになるのです。だからリーマンショック以降の金融大恐慌が起こって初めて日本全体・地球全体が、結局は国家ということに気付いて、今もその流れの中にいると理解してよいのではないでしょうか。それまでは国家を越えることこそが理想のように言われていたわけです。それがEUを作った力だったのですが、私はその背景にもう一つ大きな問題があったと思います。ある防衛心理、これは1970年にニクソンショックといって、アメリカが金とドルとの兌換を放棄、止めてしまって、ご承知のように、ドルをどんどん増刷すればよいというアメリカ独自の我儘が始まります。こんなことではアメリカにやられてしまうと、ヨーロッパはこの無制約な危険を敏感に感じ取りました。このアメリカがどんどん札を刷ればいいというのを「帝国還流」と言いました。今でもそうですが、お金は全部アメリカ帝国に戻ってゆくということです。未だに金融を締めたり緩めたり、アメリカの肚ひとつでもって、新興国が潰れたり上向いたりします。

 「帝国還流」と80年代に起こった日本の台頭がヨーロッパに衝撃を走らせます。日米経済同盟が地球のGDPの40%を占めました。1981年フランスのドロールについて先に述べましたが、その時日本は中曽根内閣で、1980年代は日本の自動車生産台数が世界第一位になった時代で同時にレーガン・サッチャー・中曽根時代といわれた時代です。そのあと89年にベルリンの壁が崩壊してから一転してアメリカは日本を敵視し始めます。

 そして次にユーロの登場となりますが、それについて私は、EUはやりすぎだったと思います。マーケットの統一だけでやめておけばよかった。しかし貨幣の統一までやってしまった。金融と財政の統一をやったら身動きが取れなくなって、とにかく主権が放棄されるというのは各国にとって苦痛ですから、苛立ちが烈しくなり、イギリスはユーロには加わらなかった。今ではユーロだけではなくEUからも抜けたがっていますが、貨幣の統一までやったのは失敗だったと思います。ユーロはそもそもドルに対しての自己防衛で成り立っていました。札を刷って垂れ流すのはアメリカです。輸入が好き勝手にできたアメリカ。あの「帝国還流」から西ヨーロッパが自分を守るためにEUを作り、アメリカが並みの国になれば、私はやがてフランとマルクは復活するだろうとその当時考えました。アメリカの経済学者レスター・サローが、「大欧州が出現して、ソ連を含む8億ものマーケットが生まれる。」ということを簡単に予言したので、私は各国にはエゴイズムがあるので、絶対にそうはならないと考え、「朝日新聞」1992年7月6日夕刊に「『大欧州』の出現に疑問」※を書きました。(※『西尾幹二全集 第11巻「自由の悲劇」』 では「旧共産圏の人々のGefühlsstau(感情のとどこおり)」に改題。206頁~208頁)

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(二)

 以上のようなことを枕木にしておいて、この講演の主催者から頂いたテーマ、「ドイツ・EU・中国」という三大話をして欲しいということで準備してきているのですが、ドイツのお話をするとなると、多分最初に戦後補償・戦後処理の話が聞きたいと思われるテーマでしょうから、それがどのように様々な問題に繋がるのか、ということがメインポイントになります。

 戦後処理というのは二つあります。ひとつは第二次世界大戦の戦後処理、もう一つは冷戦の戦後処理です。ドイツ人にとってこれは、すくなくとも同じ構造を惹き起こしました。冷戦終結の場合はドイツの半分、東ドイツに於いてですが、構造が全く同じなのです。つまり全体主義国家の犯罪処理です。個人の犯罪はどこまで責任が問えるのかという問題が、ヒトラーの時もスターリン型国家のあとにもあったわけですね。今もあるわけで、それは終わっていないのです。その話を私が徹底的に論じた本が『西尾幹二全集 第12巻「全体主義の呪い」』(国書刊行会)という本です。その目次を見てください。「序に代えて ドイツよ、日本の戦後処理を見習え」。そうなのですよ。私は30枚くらい徹底的に書いていますが、ドイツこそ日本の戦後処理を見習うべきで、日本はモデルと言っていいくらい見事に戦後処理を完結しているのです。この巻には『全体主義の呪い』という1冊の本が入っていて、これは「東西ヨーロッパの最前線に見る」という副題がつき、前編と後編に分かれています。前編が「罪と罰」、後編が「自由の恐怖」という題であり、東ヨーロッパを探訪した記録的な文章で一冊の大きな本です。このほかに同巻には『異なる悲劇 日本とドイツ』が入っています。先の『全体主義の呪い』を踏まえて私がヴァイツゼッカー前ドイツ大統領の謝罪演説がおかしい、という大変大きな大反響を呼んだ論文を書きましたが、それです。「ヴァイツゼッカー前ドイツ大統領の謝罪演説の欺瞞」「ヴァイツゼッカー来日演説に見る新たなる欺瞞(その一)」「同(その二)」「『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響―私の自己検証」この辺りがこの一冊のメインなのですが、私のこのテーマは大変評判を呼んで多く人の耳に達していると思いますが、このテーマを巡って一冊に全部入っておりますので、同問題を考えるときの私からの最重要な資料提供書です。

 ヴァイツゼッカーの問題を語るだけでも容易ではないので、ここではどれか一つだけでもお話しできればよいかと思っておりますが。カール・ヤスパースというドイツの哲学者が1946年に“Die Schuldfrage”『責罪論』という罪の責任を問う論文を著して、これは戦後大変評判になり翻訳もされています。ヤスパースは罪には四つの種類があるとして、第一に刑法で裁かれるべき罪、つまり「刑法上の罪」。これは裁判所で裁かれればよい。第二は「政治上の罪」。これは国家が責任を負って賠償金を支払えばよい。第三は「道徳的な罪」。これはどこまでも個人の心の問題。第四は「形而上的な罪」。これは神の啓示にかかわる問題。そのときの日本の知識人はどう対応したか。「ヤスパース先生の言うことは深みがあって素晴らしい。」となってしまうのです。

 私はこれを全部「嘘」と思って読みました。「刑法に触れた人は罪になる」といいますが、たとえばユダヤ人に致死量の注射を打った看護婦は罪になる。しかしユダヤ人を輸送した運輸省の官僚は罪にならない。したがってナチスの犯罪はいかなる行政にも官僚組織にもメスが入りませんでした。1,200万人のナチ党員は全て無罪で西ドイツ社会に残存しました。それが実態で、ドイツ国民は百も承知のこととしていました。それにしても、このヤスパースの議論はおかしいではないですか。収容所で監視をしていた男がユダヤ人を殺したとか殴って傷つけたことなどが戦後の裁判で裁かれました。昨年も98歳かの老人がこの件で判決を受けています。これは「刑法の罪」に触る。しかし「政治的な罪」に関しては国家はお金を払うしかないとはっきり言っています。ヤスパースがドイツ国民を奈落の底から救うための論法だったことは間違いないと私は思いました。

 ところが日本のインテリというのはそこが全く分からないのです。戦後だれも気がつかず、深みのある神への告白とか、世界への責任とか、実存哲学の先生が素晴らしいことを言ったとか言っていていたものです。神学的論法の中にも戦略があることに気がついていません。歴代のドイツ大統領は初代テオドール・ホイスからヨアヒム・ガウク現大統領にいたるまでこのヤスパースの理論を利用して、罪は個人にあり、集団に、民族に罪は無いと言いつづけました。やった個人にだけ罪があると言って、いまだに開き直っています。そういう問題が根源的にドイツにはあります。この程度の話ではなく、もっと奥深い重大な罪と罰を巡る諸問題を私の全集第12巻で詳しく論じていますが、ここでは簡単な概略だけをお話ししてみました。

 また全集を新たに追補した論文として、『異なる悲劇 日本とドイツ』には収録されていない「ヴァイツゼッカー来日演説に見る新たなる欺瞞(その二)」Ⅱ」から少し紹介してみます。ヴァイツゼッカーは東京ではなく名古屋で講演して、NHKで放送され全文は東京新聞に載りました。その来日講演「ドイツと日本の戦後五〇年」を吟味して書いた論文ですが、内容を少し紹介すれば私のお伝えしようとしていることが皆さんによりよくわかり易くなるだろうと思います。

 ヴァイツゼッカーさんは頗る慎重なものの言い方でした。日本側に対立感情があること、批判者がいることに気が付いていました。批判者がいたのです。それは私ですよ。ちゃんと伝わっていたのですね。そこで非常に慎重なことを言ったのですが、内容のほぼ中段でアッと驚くような極めて億面のない政治的主張を展開したのです。「12年にわたるナチ支配はドイツの歴史における異常な一時期である」と。日本の歴史には戦前から戦後にかけての連続性があるが、ドイツ史には断絶があり、客観的に「政治史」を比較すれば以上のようなことは確かにいえます。一人の天皇が戦前から統治した我が国はナチスのようなテロ国家に陥らないですんだひとつの「幸運」なのです。少なくとも日独の当時の体制の質的相違は間違いなくあるので、ヴァイツゼッカーさんがそのような違いを言ったのはそれなりに正しいのです。しかしドイツ史には「異常な一時期」があって、その一時期だけ「ナチスという暴力集団に占領された」が、今は彼らを追い払って「清潔な民主国家」に生まれ変わった、という前提にあくまでしがみ付いて語る。これは年来のドイツ国民の主張なのです。今のドイツ国民は頭からそう信じています。ドイツは12年間だけ悪魔に支配されましたが、それ以前もそれ以降の歴史にも悪魔はいない。丁度フランスやオランダやポーランドがナチスという悪魔から「解放」されたと同じように、ドイツも1945年に悪魔の憑(つ)きが落ちて、きれいさっぱり浄化されたと、まことに臆面のない主張が展開されていました。そんなバカなことはあり得ませんよね。ナチスにはそれに至る前史があります。またナチス協力者1,200人が裁かれずに社会復帰した戦後史があります。ナチスを支えた司法にも行政にも、戦後いっさいメスは入らなかったのです。ドイツにおいても過去は清算されず、継続したままです。私はそれでいいと言っているのです。仕方がないと言っているのです。過去は永遠にどの国だって清算などできません。ドイツが必死にそれを認めまいとするのは、余りにその過去がおぞましくて惨劇だから、簡単に認めることなどできないということで、私も同情はしています。

 日本人が戦前からの歴史の連続性を正直に認めることができるのは、「他民族絶滅政策」というナチスのような異常犯罪を犯していないからです。アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ソ連との戦争で、私たちは何の罪の意識を持っていません。そうでしょう。私たちはアジアの解放者ですから、いかなる罪も持ちません。正義の戦いをしたのだから当たり前です。シナについてだけは違うのではないかという議論はあるのでしょうが、それだけで大きな話になるからここで展開はしません。しかしドイツは事あるごとに一切の自己弁明が禁じられています。そのために歴史の中のある一時期だけは無かったことにするという弁解をせざるを得ない欺瞞的論理を展開することになりますが、そこまではいいのです。私はドイツの歴史には同情しているのだから。しかし日本の歴史の連続性を批判し、ドイツは戦後ナチスから解放された民主国家になったが、日本は僅かに経済発展が制度を少し変えた程度で、未だに天皇制など古い体質を引き摺って困ったものだと言わんばかりのことを言ったのです。とんでもないですね。これがヴァイツゼッカーの正体です。

 この間亡くなったシュミット前総理も同じことを言いました。今出ている週刊新潮(11月26日号)に私がシュミットに反論を書いたことが載っています。「墓碑銘」というところです。シュミットの日本人への忠告、「周りに友人を持て」という言葉は良いのだけれど、皆それに騙されて、まるで日本がナチスと同じような犯罪をしたかのようなことを言うのです。その「お節介」が中国と韓国に渡って、まるで日本をナチスのように言うわけです。それに反撃しない日本人がおかしいのですが、いったいドイツ史と比較して日本の過去をこんな風に批判する資格がドイツ人のどこにあるのでしょうか。それを感激して聴いたり、公共放送の電波にのせたり、聖者のように扱ったりする日本人はどこかおかしいのではないでしょうか。ドイツでは戦前、ヒトラーが政治的失敗をしても、国民はそれは誰か別の下輩がやった犯罪とみて、「ああ、そのことを総統が知っていてくれればなぁ」などと言っていたそうです。それほどまでにドイツ人はヒトラーを愛していたのです。ヒトラーが好きでたまらなかったのです。そういう自分の過去をなかったことにすることができますか。歴史が暴力集団に一時的に占領された、などという言い遁(のが)れのきくような単純な話ではない。ヒトラーとその一味を悪者にして、自分たちはそうではなかったということを言外に必死に言いたいがために、前大統領は巧みにドイツ擁護論をぶって、そのうえ日本を侮辱して帰国しました。私は論文の最後に「日本人よ、知的に翻弄されるな、しっかりせよ。私はただそう言いたいだけである。」と書きました。ありとあらゆる歴史問題が当全集12巻に書かれていますが、それをお話しすると空中分解してしまいますので、600ページ以上の厚い本ですが、ご自身で読んで頂きたいのです。

 さて、冷戦終結後も同じ問題が起こります。「全体主義の呪い」ではその問題だけを徹底的に論じていて、ヒトラーとスターリンの問題が東ヨーロッパの半分にとってはひじょうに深刻な問題でした。東ヨーロッパを旅行したら、どこに行っても第二次大戦中のファシズムと冷戦下の共産主義とを区別していません。どちらも同じものとして理解していました。たとえばユダヤ人に致死量の注射を打ったひとりの看護婦が罰せられる問題。そしてユダヤ人を輸送した運輸省の官僚は罰せられないという矛盾。同じ問題が、ベルリンの壁を越えて逃亡しようとした東ベルリンの市民を射殺した警官だけに殺人罪の罪が与えられ、なぜ秘密警察のミールケ長官の罪は問われないのかという形で冷戦終結後に大きな問題として沸騰しました。その問題を一所懸命戦ったのはガウクという現大統領です。それで彼はドイツでひじょうに評価されています。

 EUの問題はこのドイツの問題と切り離せない関係にあります。戦争が終わり、もう二度とああいうことはしたくないという、今までヨーロッパは盲のように二千年近く激しい戦争ばかりしていた地域でしたから、ドイツは「ユダヤ人の虐殺」には謝罪しましたが、「侵略戦争」には謝罪していません。なぜなら侵略はヨーロッパの世界ではごく当たり前なノーマルな現実で、あちこちを互いに侵略しあっていました。第二次世界大戦の侵略をいまさら謝罪するわけがないのです。そんなことはお互い様でしたから。

 そういうことに疲れてしまって、ヨーロッパにも広い世界がやっと見えてきたのです。つまり自分たちが唯我独尊でアフリカ、アジアまで侵略して勝手なことをやっていたのを、ふと気が付いたらアメリカが出てきている、日本が出てきている、ソヴィエトがある。ヨーロッパは纏まらなければやってゆけない。それに気が付いて統合ヨーロッパをつくろうという自覚が高まって、その中心になるのはドイツとフランスですから、彼らが和解しなければ何時までも永遠に争わなければならなかった。そのような自覚があって、ドイツがフランスに和を請う、という形になり、そのことで戦後ドイツが一貫して頭が上がらなかったのがフランスなのです。永い間フランスの意向をおもんばかりました。

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独(一)

株式会社リアルインサイト 講演会(平成27年11月22日)より

「ドイツ・EU・中国」そして日本の孤独

(一)

 今月から来月にかけて、サイコロの目がどちらに振れるか分からないので世界の目が固唾を呑んで見守っている重大案件があります(11月22日現在)。それは国際通貨基金(以下IMF)の特別引出権(以下SDR)、がドル・ユーロ・ポンド・円に加えて人民元を主要通貨として加えるか否かで、どうやら加えることになりそうだということ。そういうホットな問題が動いています。人民元がSDRの構成通貨になりますと、ドルと同じように基軸通貨のひとつになります。IMFはこれを非常に強く推進しようとしています。専務理事クリスティーヌ・ラガルドは中国から賄賂を貰っているのではないか、などという話もあります。

 金融マーケットの門戸開放や自由化をすると、人民元はある種の改革を強いられます。具体的には変動相場制にしなければならず、そのような条件に合わないのが人民元です。この間の8月にも株が暴落したとき、中国政府が介入してマーケットに取引のストップをかけるという、資本主義ではあり得ない前代未聞の国家管理が加えられました。そんな通貨を国際化していいのか。常識では当然考えられないことです。ところがどういう訳かIMFは大甘で、中国が変動相場制の「計画」を示しさえすれば来年10月からSDR構成通貨として認定してもよい、というシグナルを送っています。

 もちろんアメリカと日本は大反対を展開しています。中国経済はバブルの様相を深め、著しい経済の失速と成長率の低下でハードランディング、えらい自己破壊を演じるのではないか、というシナリオが世界の人々の視野には入っています。しかし「アメリカ・日本」対「中国・ヨーロッパ」の主導権争いが展開され、今のところ中国の押せ押せムードになっているということは新聞等のとおりです。なぜそれが私達にとって困るのかといえば、中国共産党の都合で上がったり下がったりする基軸通貨であったら、どんな政治的威嚇にも利用されてしまうからです。

 8月の人民元の相場が11日に約2%から3日間で5%近く落ちたわけですが、その下落幅自体は日本円でも75円から125円と相当あったのですが、当時の日本政府は何も為すことができませんでした。為替の介入を若干やっても動かなかった。私たちはその苦痛を知っています。しかし中国政府は主要な株の売買まで止めてしまいます。人民元はつまり、中国政府の意向によって突然ルールが変更されてしまうような通貨で、これは野球やサッカーの試合の途中で審判がルールの変更を宣言するような話であって、こんなことがあって良いのか、というのが常識です。

 同時に我が国が大変憂慮しているのは中国の経済的影響力が同時に軍事的拡大に拍車をかけることです。実はヨーロッパ諸国特にイギリス・フランス・ドイツは、日本を含むアジアの国々すべてが中国の植民地になっても一向に構わない、自分の財布が潤えばそれでよい、という考えです。これは昔からそうです。かつて日本がなぜ戦争に入ったかと言えばそれがあったからです。今は第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期と大変に似ています。つまり日本の孤独ということです。

 東アジア諸国連合(ASEAN)のうち一国でも中国の支配下に入れば、中国は自由に太平洋を出入りできるようになり、日本列島は中国海軍に包囲されてしまします。食料や原油の輸入もいちいち中国の許可を得なければ動けないことになります。これはアメリカにとってもただごとではありません。もし日本の中国化が進んだらアメリカの西海岸は直接中国と対峙することにならざるを得ません。カリフォルニアの沿岸で中国軍の潜水艦と向き合うことになります。そんなことはあり得ないと思われるかもしれませんが、世界は何が起こるか分からないのが歴史の常です。「資本家は金儲けになれば自分を絞首刑にするための縄をなう」の故事を裏書きしていますが、お金のためなら何でもするのが中国です。つまり今起こっていることは、8月11日の人民元の引下げで多くの外国が損をしました。そのために中国から資金を撤退し、外資の引き揚げが更に進んでいます。中国人民銀行は株を買い支える、つまり北京政府が買い支えなければ暴落する、という危ない経済構造になっています。

 IMFはなぜそんな不相応な対応をするのか。日本とアメリカはそれに対抗しているのですが、8月から9月の段階で怪しい空気がたちあがっています。すでに麻生財務大臣がこれを認めざるをえないという発言をして、日本もその方向に進んでいます。あっという間の意向変更です。
「パニックや危機が起きる瞬間に中国当局が資本の移動を取り締まるのではという恐れがある限り、人民元をSDRの準備通貨とすることはできない」
とはサンフランシスコ連銀総裁の言葉ですが、私はこのコメントを支持します。アメリカにはしっかりした人もいるのです。しかし怪しい人もたくさんいます。

 中国は外貨準備高が急速に減少しています。とてもではありませんが、現状ではアジアインフラ投資銀行(以下AIIB)に対応するだけの余裕など無いのではないでしょうか。AIIBの資本金の振込みはドル建てになっています。しかし中国はこれを何とかして人民元で支払いたいのです。どんどん自分で札を刷ればよいのですから。それを国際社会が許すのか、ということもありますが。また人民元の価値が急速に下がり中国政府が損をする可能性もあります。中国は政府の為替介入はしないとか、変動相場制にするとか、こうした規制撤廃を半年後や一年後にするとかが必須です。中国の約束や計画だけで人民元のSDRを認めてしまうなら、IMFは約束が守られないことを承知で救おうとしているとしか見えません。

 結局これはヨーロッパ諸国が自分たちを守るためなのです。具体的にはフォルクスワーゲンの主力工場が失敗して、メルケル首相が中国に飛んで、中国のフォルクスワーゲンの工場は中国が資金を出すという約束をとりつけました。フォルクスワーゲンは他では売れないけれど中国ではまだ売れます。中国は一番大きな取引先で、大気汚染も構わず安ければよい国なので、当然ドイツは目の色を変えているのです。イギリスが中国に対して何故あんなみっともないことをしたのかというと、イギリス経済は行着くところまで行ってしまってもう先がないので、人民元によって金融街シティの活性化、シティを守り復活させたいという意図があるわけです。イギリスの製造業は見通しなく、金融(情報戦略)だけが国力の支えです。

 これは私の目には「中国とヨーロッパ諸国の弱者同盟」に見えます。しかしそれがどんなに大きな影響力があるかを考えると、簡単にはいきません。中国の状況は多くの情報にあるとおりで、ここで強調しませんが、特権階級は人口のわずか0.7%で、これが国富の70%を握っています。約9%は1億人程度ですが、中産階級で、あわせて9.7%です。つまりこの約10%が「爆買い」をしているメンバーですが、残りの12憶5千万人は抑圧され搾取されている人々です。恐らく中国経済が破産すれば中産階級を含めて没落消滅してしまうことでしょう。中国人は人民元が紙屑になることが近いことを敏感に感受して焦っているのです。だから外国で不動産を買い漁ったりして少しでもしっかりしたものを手に入れたいと思っているわけです。中国の経済体制が砂上の楼閣であることに気が付いているのですね。中国の負債総額は3千兆円といわれていて、利払いだけで年間150兆円くらいですから到底返せるわけがありません。リーマンショック以降、公共事業投資約6兆円のものと地方政府による不動産開発投資で一旦自由化の道に入っていたかに見えた中国のマーケットが、習近平によって一変に国家社会主義的、国家的管理の下のファシズム国家体制に戻ってしまったのは皆さんもご存じのとおりです。従って人民元を増刷して公的資金を企業に投げ込んで、ひたすら危なくなっている自転車操業の延命を図ろうとしているのが今の中国の実態です。このような中国に協力しないと自分たちも危ないと思い、一所懸命支持しているのがヨーロッパ諸国であり、IMFであるということになり、日本もまた仕方がないということでしょうけれど、麻生さんが急に合意するような発言に変わってしまったのも欧州の意向にさしあたり合わせたのでしょう。

 ここで政治的な話をしますが、ヨーロッパ諸国はヒトラーやスターリンに悩んだのではないでしょうか。その歴史を忘れてしまったのでしょうか。縷々説明するまでもありませんが、習近平はソフトな社会主義から一変にハードなスターリン型国家経営に転じていますね。それを私たちは黙って見ていてよいのでしょうか。安倍総理にはいろいろな機会で、共産主義の克服、一党独裁政治に終止符を打ち理不尽な人権無視に対抗すべきと言って頂きたい。かねてヨーロッパ・アメリカが言っていたことを今、声を大にして日本が叫ばなければならない時がきているのではないか。日本が人権と民主主義と自由を叫ぶときが来ているのではないか。いったいアメリカは何をやっいてるのかと。アメリカにだけはそれが分かる人がかなりいます。アメリカだけが頼りなのですが、そのアメリカさえも、オバマ政権がIMFの意向に沿うような発言をしているものだから、結局怪しいのですね。

 私たちの考えている未来がどの方向に行くのか見えない。これは第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期においても、イギリス・フランス、もちろんドイツも自分たちを守るためには何でもするのだと、皆シナ大陸に出てきていて散々悪いことをしておきながら、最後に日本軍が残って、彼らはみんな旨い汁だけ吸って逃げていったわけですね。あとは日本が苦い味だけを背負い込んだ。というのがシナ大陸における第二次世界大戦の実態です。今戦争の話を深くはしませんが、わが国だけが貧乏くじを引いたというのは間違いなく、今度もまた同じようなことが起こりつつあります。ヨーロッパ諸国から見るとアジアは遠いのです。彼らには何の危険も影響もないのです。

 そうであるならウクライナは日本から遠いのだから、日本はウクライナに援助などする必要はありません。もちろん今のEUの難民問題も一顧だにする必要はありません。私はそう思います。日本を助けてなんてくれっこないのだから、こちらが手を差し伸べる理由も全くないのです。いくら何でも日本もその程度のことは分かっているでしょう。ヨーロッパ諸国が「遠い中国」を盛り立てることは、ロシアの脅威を回避するために必要なのです。それから少しでもドルの価値を減価したいのがヨーロッパですから、そのためなら何でもやりたいわけです。悪魔の国、中国を利用するということに於いて徹底しているのです。

(まとめ 阿由葉秀峰)

つづく

謹賀新年(2)

 また一年が経ちました。皆様にはいかゞお過ごしですか。

 最近私は時事評論が書きにくくなりました。経済が世界を動かし、政治以上に政治であるようになり、従来保守の普通の感覚で国際政治は語れません。

 経済と政治の両方を見て書いている人に、田村秀男氏、宮崎正弘氏、藤井巌喜氏、三橋貴明氏、渡辺哲也氏等がおり、私はいつも丁寧に拝読しています。政治のことだけ言っている人は、なぜか現実の半分しか語っていないように思われてなりません。

 ですから私も両面のリアリティを語りたいと思うのですが、これが難しい。難しいだけでなく、自分の柄にも合っていない。やはり私は人文系で、人間にのみ関心があり、数理の世界は苦手です。

 経済は本当に分らない処がある。シティとウォール街はつながっていて、イギリスはアメリカの永遠の同調者だと思っていたら、中国をめぐる対応が余りに違う。金融が政治を支配しているのは間違いないが、金融と政治とは別ではなく、金融の動きが政治なのです。さりとて金融はよく言われるように果して国家を超えているでしょうか。

 国家の果す役割は小さくなったと語る人がいますが、世界はいぜんとして国家単位で動いています。EUが壊れかけてからますます国家中心です。冷戦時代の方がむしろ今よりグローバリズムでした。ことに日本は国家中心で考えないと、どうにもならない唯一性に支えられています。

 「西欧の没落」(シュペングラー)が出て100年近くですが、西欧は没落なんかしていません。私見では、1600年代初頭に「海」のグローバルな秩序を西欧が抑えることに決し、たゞし東アジアは圏外に置くとした認定が300年つづいたのです。そして二度の戦争でこの認定は排されました。「圏外」はなくすということになったのです。今もこれがつづいています。イスラムとロシアが抵抗していますが、日本は抵抗をやめました。冒険を捨て安全を選んだのは、独自性を捨て凡庸性を選んだのと同じことです。

 それでいてあき足らないものがある。そこで何かと日本の文化、日本人らしさ、和風を主張する声があちこちに聞こえます。ラグビーやノーベル賞をよろこぶ一方で、日本の技はこんなに素晴らしいと賞めちぎるテレビ番組が氾濫しています。なぜか自然に日本文化が主張されているようには思えません。いったん世界性という凡庸な価値観をくぐり抜けた「和」の再評価、つくられた偽装の自己主張のようにみえてなりません。

 今の若い人風にいえば日本は「可愛いい」国になりつつあり、なろうとしているようにみえます。オリンピック競技場のデザインも例外ではないでしょう。やはり17世紀以来の特権、地球上の特別指定席、秩序の圏外に置かれた枠を廃止されたことは大きい。自分で新しい秩序をつくろうとしましたが失敗し、圏内に押さえこまれてしまったのです。

 アメリカのことを言っているのではありません。欧と米を合わせたキリスト教文化圏のことです。ロシア(ギリシャ正教)とイスラムは抵抗しています。中国も抵抗しています。たゞし中国は昔の日本と同じやり方で一つの圏を守り、新しい秩序をつくろうとしていますが、いつも世界の評判を気にし、アメリカ方式の模倣に走り、「可愛いい」日本が出すだけの文化の魅力、独自性を発揮することにもなりそうにありません。時代遅れの軍事パレードが古い世界システムの追認以外のなにものでもないことを明かしました。これでは支那文化の主張にはなりません。視野が狭く、心が共産主義以前のままに閉ざされているのです。

 それならば日本は世界に先がけて既成の秩序とは別のもう一つの独自な花を咲かせることができるのでしょうか。「可愛いい日本」を打ち破れるでしょうか。

 独自性は特殊性とは違います。例外的であることではないのです。外の世界との違いに気づいて、自分をあらためて発見するのは良いことでしょうが、違うにこだわるのは独自性の発見ではありません。独自性は特異性ではないのです。

 世界のルールや物指し(尺度)に反することは愚かなことですが、かくべつ異をてらわず、活動や努力をしつづけているうちに、それが世界のルールや物指しの中に数え入れられるようになっていることが独自性ということでしょう。日本にはそういう事例がすでにいくつもあると思います。具体的に何がそうであるかは敢えて言わないことにします。

チャンネル桜 「闘論、倒論、討論」出演(1)

テーマ「ヨーロッパ解体と野蛮の台頭」
中東・欧州情勢・中国のSDR入り等を中心に今後の世界情勢について

パネリスト:50音順敬称略

小浜逸郎(評論家)
高山正之(ジャーナリスト)
西尾幹二(評論家)
馬淵睦夫(元ウクライナ兼モルドバ大使)
丸谷元人(ジャーナリスト・危機管理コンサルタント)
宮崎正弘(作家・評論家)
渡邊哲也(経済評論家)

司会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

日本人は少しおかしいのでは?

 ときどき日本人はどうしてこんなにおかしい民族なのだろうかと思うことがある。わずか12年前に、今から信じられないあまりに奇怪な言葉が書かれて、本気にされていた事実を次の文章から読み取っていたゞこう。

 最近出たばかりの私の全集第12巻『全体主義の呪い』の576ページ以下である。自分の昔の文章を整理していて発見した。

 この作品は初版から10年後の2003年に『壁の向こうの狂気』と題を変えて改版されたが、そのとき加筆した部分にこの言葉はあった。私もすっかり忘れていたのだった。

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全集第12巻P576より

 北朝鮮の拉致家族五人の帰国は、私たち日本人の「壁」の向こうからの客の到来が示す深刻さをはじめて切実に感じさせました。向こう側の社会はまったく異質なのだという「体制の相違」を、日本人は初めて本格的に突きつけられました。それは相違がよく分っていないナイーヴすぎる人が少なくないということで、かえって国民におやという不可解さと問題を考えさせるきっかけを与えました。

 北朝鮮が他の自由な国と同じ法意識や外交常識をもつという前提で、この国と仲良くして事態の解決を図ろうという楽天的なひとびとが最初いかに多かったかを思い出して下さい。「体制の相違」を一度も考えたことのない素朴なひとびとの無警戒ぶりを一つの意図をもって集め、並べたのは、五人が帰国した10月末から11月にかけての朝日新聞投書欄「声」でした。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子供と将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)
「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠にするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単に出来ない相手国だから苦労しているのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件についても、次のようなオピニオンがのっていました。

「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を読んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識ある読者は朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いでのせるのか不思議に思い、次第に腹が立ってくるでしょう。あの国に通用しない内容であることは新聞社側は百も知っているはずであります。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のようにのせ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合いを見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでしょう。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪をもち出し、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 鎖国状態になっている「全体主義国家」というものの実態について、かなりの知識が届けられているはずなのに、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論がわが国では堂々と罷り通っているのでしょうか。誤認の拉致被害者をいったん北朝鮮に戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

「どこでどのように生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(「毎日新聞」)12月1日)

 と書いているのは作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は「被害者を二カ月に一度日本に帰国させる約束をとりつけよ」などと相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげてます。

 彼女は「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」と、拉致という犯罪国の言い分を認め、五人を戻さないことで
「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供に見えるに違いない」とまでのおっしゃりようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(「毎日新聞」12月3日)、一日朝TBS系テレビで「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と持論を主張してきたと報告し、同席の大宅映子さんが「私もそう思う」と同調したそうです。同じ発言は評論家の木元教子さん(「読売新聞」10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一か月後に家族全部を連れて帰ってこい』という」(「産経新聞」11月21日)とまるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 いったいどうしてこんな言い方があちこちで罷り通っているのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が以上みてきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識を彼らにもう一度しっかりかみしめてもらいたい。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを一番知って恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。彼らは帰国後、北へすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。二歩の政府はひょっとすると自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれないとの不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。日本政府が無理に言わせているからではありません。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現象です。

引用終わり
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 いかがであろう。読者の皆様には多分びっくりされたであろう。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのは確かだが、それだけではない。日本人はおかしいとも思うだろう。

 これらの言葉を私はむろん否定的に扱っているが、まともに付き合って書いている。狂気扱いはしていない。これらが流通していた世の中の現実感覚を私も前提にしている。間違った内容だと言っているが、気違いだとは言っていない。しかし今からみれば、私だけではない、「朝日」の読者だって自分たちが作っていた言葉の世界は精神的に正気ではない世界だったと考えるだろう。

 日本人はやはりどこか本当に狂っているのだろうか。