11月17日夜私は武道館の自衛隊音楽まつりという催しを見に行った。いままで毎年いたゞくのにムダにしていた招待状を今年は何となく連れが出来て出かけてみる気になって、熱のこもった内容を堪能した。とりわけあの広い会場に何百という大太鼓小太鼓が集められた一斉演奏にはひたすら驚いた。太鼓だけであれほど規模の大きい、音響とどろく合奏ができるとは!
自衛隊音楽祭だから当然私は耳に聞き慣れた楽しいマーチの数々を期待していた。かの大戦中の軍歌も心待ちにしていた。しかしそういうものはなかった。アイーダが頂点をなし、ラデッキー行進曲が結びをなしたのは少し残念だったが、まあ今の自衛隊はそういう性格のものなのだろう。あまり目鯨は立てないでおこう。
18日は午後3時から「福田恆存を語る」講演会を聴きに行った。「日録」で欄外に私も案内した通り、毎年恒例で行われている催しで、今年は作家の高井有一氏のお話である。主催者から送られて来た葉書には、「高井氏は、福田先生の國語問題の繼承者の一人である、また『キティ颱風』をはじめとする福田演劇の熱心な觀客でもあります」と書かれてあったが、高井さんのお話も劇作家でかつ劇団主催者でもあった福田恆存をめぐるテーマが主であった。
ご講演は話言葉に含みと微妙なニュアンスがあり、聞いているときは深くうなづかされるが、さて終って何が語られたか分り易い主題にまとめたり、要約したりできない。いい話とはそういうものである。録音でも手許にあればもう一度聴くが、何が語られたかははっきり覚えていないのに、氏の言葉に触発されてそれとは関係なしに自分の中に勝手にうごめいた想念だけは覚えている。
福田さんは言葉を信じた人、あるいは激しく信じようとした人である。それだけに言葉の限界、言葉の空しさをもよく知った人であった。
チェーホフの劇ではたいてい舞台上には何も起こらない。起こったことや起こり得ることが役者の台詞によって語られるだけである。しかもどの作品も上演すれば全部で大概3-4時間はかかる。長い時間役者の台詞が語られるのを、観客はたゞ耳を澄まして聴くだけであって、視覚的な面白さはほとんどない。福田さんはそういうチェーホフが好きだったし、創作劇『キティ颱風』もそういう芝居だった。
高井さんは昭和23年に三越劇場でこれを見たのが福田文学とご縁の出来た始めらしい。私より六年は早い。チェーホフの『かもめ』のフィナーレが自殺で終わり、台本では舞台裏で一発のピストルの音がするだけで幕となる。ところが現代の演出家は舞台上にピストルを手にした役者を登場させ、血を吹いた胸をかゝえて用意された水槽の中へ身を投じる、というシーンまで演技させる。演劇におけるこのような視覚化に疑問を呈したのが日本では福田恆存だった、と高井さんは仰言った。
私は覚えていないが、『私の演劇教室』で安倍公房が怪物を出したり山が動いて喋ったりするのを福田さんは批判していて、こういうことをやってはいけない、演劇のリアリズムはもっぱら台詞にある、台詞そのもののうちに演劇性をもりこむのが芝居というものだ、と仰言っていたらしい。福田訳・演出で芥川比呂志にやらせたハムレット、松本幸四郎が演じたご自身の創作劇の明智光秀が恐らく福田さんの求めた理想に近い舞台であったであろう、と高井さんは言っていた。
言葉を信じていた、あるいは文学を信じていた。それゆえに言葉の安易な用法も、言葉が写実を可能にするというリアリズムへの素朴な信仰も許さなかった人だ、といってもいいだろう。高井さんが最初に聞いた講演は高校時代の、早大文芸講演会だったそうだ。一つ覚えているのは「リアリズムという言葉を安易に使うな」だったらしい。
その頃早大は自然主義リアリズムの本拠地で、丹羽文雄のいわゆる「西鶴に学べ」が通り相場で、丁度40歳の福田さんは結果的に早大リアリズムに殴り込みをかけた形だった。講師は複数いたのに、福田さんの講演が終ったら公衆は7割がた帰ってしまったのを妙に覚えているという。福田さんは注目の的で、目玉だったのである。
高井さんはこのあと『芸術とはなにか』(昭25年、初版)で福田評論に初めて接した。「演戯」ということがしきりに論じられているあの本だ。言葉で写すことがそのまま真実になるのではない。美に向かって演じて確かめるのが人間が真実に向かっていくことに外ならない、たしかそういうことだったが、人間は若い頃に接した片言一句にどれだけ影響を受けるか。短い鋭いことばから何を受けるか。高井さんは若い日々を思い出すように語っていた。
教室風の会場に120人以上の人が一杯入って聴いていた。老人が多い。松本幸四郎といったって今は亡き先代の話である。リアリズムと反リアリズムの美学の対立で当時の人々は文学を越えて社会、政治、世界観を語っていた。昭和20年代は文芸講演会に人間の生き方を求めて人が集ったのだ。
福田さんが「文学の言葉で政治を語るセンチメンタリズム」を戒め、「政治の言葉で文学を裁くイデオロギー」を排しつづけたとはいえ、それが言えたのは、文学が広く信じられ、文学用語で政治や社会を語ることが可能な時代を生きていたからである。
福田さんは手ごたえのある時代を生きていた。自分の言葉が世間に反響する時代を生きることが可能だった。情報空間が限られ、一定の範囲内にあった。次のハムレットを誰が演じるかが週刊誌の関心事だった。芥川賞はつねに社会的事件だった。
福田訳シェイクスピアは格調が高い。劇団「雲」の役者は良くあれを覚えられたものだと思う。早口でしゃべるのを聴き取るわれわれ観衆の方も大変だったが、しかし舞台の話言葉によく合ってもいた。to be or not to beを「生き長らうべきか生き長らうべきでないか」などという冗長な訳を排して、福田さんは「生か死か」と端的に訳した。耳で聞いてすぐ分ることが肝心だからだ。
Whoではじまる英語で「そこにいるのは誰か」と訳したのでは行動と一致しない。日本語訳は「誰だ、そこにいるのは」としなければならない。
私のニーチェやショーペンハウアーの訳に、事情は少し違うが、福田さんから学んだ同じ精神を生かそうとした苦心の跡のあることを知る人は知っていると思う。欧文脈と和文脈は異なるのだから、語順は目で追う時間の順序に従うのが当然である。必要なら、同じ文節を二度訳してもいい。二語を一語にしても、一語を二語にしてもいい。必要なのは和文にしたときのリズムと明晰さである。
福田訳シェイクスピアは難しい言葉、高度な表現はあったが、耳で聞いて心地よく、分り易かった。デレデレしていない。小田島雄志訳という平俗低級な新訳が出現して、分り易い日本語だということで他の多くの劇団がデレデレした凡庸なこの新訳を採用するようになった趨勢を、福田さんはどんな思いで見ていたことであろう。
勿論、他の劇団が左翼傾向で、福田さんの政治発言が演劇の縄張りにも悪い影響を及ぼしたということはあり得る。芥川比呂志は今でいうリベラル左翼で、高橋昌也その他を引きつれて退会し、「雲」は分裂した。
高井さんは芝居をするのは血が荒れるといった久保田万太郎のことばを引いて、劇団だけでなく劇場までつくってお金の苦労や役者の身の振り方まで世話をした福田さんは、大才をあたら惜しいことに使ったのではないか、芝居好きはいいとして、劇団、劇場経営まで手を出す必要が果してあったか、つねづね疑問に思っていた事柄だったと言い添えるように語った。
劇団主催者はおよそ人格的に怪しげな、ズボラでいい加減な人でないとつとまらない。千田是也がいい例である。それに対し、潔癖といっておよそ福田さんほどに世に潔癖な人はいなかった。そもそも芝居の世界は潔癖な人格をおよそ必要としない。煙たがって遠斥ける。ここに福田さんの悲劇があったのではないか、と語った。
会場は質疑応答に入ってから、このテーマに大きく傾いた。会場からある人が、福田さんが劇作家として生きることに満たされず、劇場経営までしたこと、つまり芝居の世界にまきこまれてしまったのはかえすがえすも残念で、そうでなかったら今の言論界はもう少しましであったろう、この会場には西尾さんの姿が見えるが、別に他意はないから誤解しないでほしい、といってみなを笑わせた。たゞ自分は、福田さんにもっと評論でがんばってほしかった、そうすれば現在もう少し言論界の情勢は変わっていたのではないかと思う、と。
「芝居の世界にまきこまれた」という先のことばに高井さんは反応した。「まきこまれた」というような生易しいものではない、と少したしなめるように言った。
言葉は少なかったが、高井さんの気持を忖度すると、たしかに福田さんが演劇にあまりに時間と才能を奪われたのは残念ではあるが、ならばそうしなければ良かったかというとそうではなく、「まきこまれた」といういやいやながらの受動的な状況ではない。やはり好きで入った道だ。自分の運命を承知で自分で選んだ。ことばの半分は「惜しかった」だが、もう半分は「これはこれで良かった」である。もし芝居の世界がなければ評論の世界も生動しなかったのかもしれない、と。
高井さんは晩年の福田さんが「孤独の人、朴正熙」を書いて、今の韓国で、また当時の日本で評判の悪いあの大統領の孤独な生き方に共感を示した文章を残したことをことのほか重く見ていた。ここに会場からの質問への答を投影していたように思えてならない。
「福田さんがチェーホフが好きだったのは、チェーホフの生き方の自由に憧れていただけではないのだろうか。あれだけ政治的に論陣を張ると何を書いても悪くいわれる。とてつもなく窮屈だったでしょう。レッテルを張るな。自分は自由だ、そう言いたかったのでしょう。」
高井さんはまた次のようにも語っていた。
「あれだけ立派な全集を遺し、翻訳全集まで出して、生前にやるべきことはあらかたなし遂げたはずなのに、全集製作者――田中健五・元文藝春秋社長――が言っていましたが、福田さんほど不遇の意識を強く抱いている人はいなかった、というのです。」
私はこれを聴きながら思った。難しい時代を生きて福田さんは大変だったのではなく、枠があって、言論が反響する壁をもち、文学のことばだけで政治や世界を論じることが出来て、ある意味では羨ましい文学者としての完結性を誇ることが出来た最後の幸せな世代ではないかと思えてならない。
私はかつて文学者のまゝ政治を語ることが出来た人は江藤淳をもって最後とすると言ったことがあるが、どうもそれは間違いである。江藤氏の『閉ざされた言語空間』は今なお政治評論として秀れたものだが、いま論じるに値するのはあれだけで、夏目漱石論をはじめとする文学的業績の方は今や見る影もない。
福田恆存においては文学と政治が一体化していた。だから政治と文学を混同するなと言いつづけることも可能だったのである。ある意味で時代が一体化を許していたことは否めない。
講演が終って会食の席で、高井さんに最近私は次々と現われるテレビタレントの名前が覚えられないのと同じように純文学の作家の名前も覚えられない、と言ったら、自分もまったく同様である、と言っていた。
主催者団体「現代文化會議」の若いメンバーが同席していて、福田恆存を読む勉強会を恒例化しているとかで、近代日本の文学史や文学概念を駆使して議論を交しているのを聴いて、私はたゞひたすら懐かしさを感じた。彼らは文学研究の専門家では必ずしもないだけにかえって不審な印象をさえもった。
いまの時代は精神の運動を仮託する「地図」がない。だから政権政党の動きや靖国や皇室問題や拉致や北朝鮮問題などの現実の直接的タームにストレートに反応するしかなくなっているのであろう。
文学史や思想史で自己の位置を測り、現実に対し一歩距離を置いて思考を深めるということが精神の衛生のためにも、思考の自立のためにもむしろ必要であると私は日ましに強く感じるようになってきている。